柄谷行人を解体する53 [無断転載禁止]©2ch.net
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2017 柄谷行人『思想の散策』
2017 ジェイムソン・柄谷行人『アメリカン・ユートピア』 書肆心水
2017 柄谷行人『坂口安吾論』
2017/2/10 島田雅彦・柄谷行人・星野智幸 風花朗読会
2017/1/10 柄谷行人『柄谷行人講演集成1995ー2015 思想的地震』ちくま学芸文庫
柄谷行人を解体する52 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1462654687/ それとも、世界から注目され始めて(オハイオ州立大や中国の何たら大学からも招待されている)
危険視される面も出てきて、だんだん周囲が危なくなってきたから、
グラムシみたいに獄中から書いたほうがむしろ安全だと思って、わざと幇助したのか?
あ、また書いちゃった。警察よ、動くなよ。
「動きすぎてはいけない」byドゥルーズ系哲学あんちゃん(名は忘れた) 西部の自殺幇助はもう捕まったよ。
誰だか知らない。 これで、初期容疑者の推測が気楽にできる。やっぱり「著名な思想家」は柄谷だと思うな これで、ようやく陰謀論じみたレス書いている奴の妄想が終わったかw
しかし、これで保守思想の胡散臭さを西部さん本人が示してくれた感じがする。
保守思想というのは、個より公を、崇高なる国家に価値を認めるのでなかったかな?
だから、国家ために殉じる行為は良しとする。
個人的な理由で、他人を自殺幇助の巻き添えにして、保守思想家と言われても、
なんか本気には受け取れない。警察の検死の手間、マスコミ通じて、謎の死で、
世間を同様させる、これが公を重視すると宣う保守思想家のやることだとはとても
思えない。
だから西部さんは、その人間的な本質としては革命的な左翼なんじゃないの。 そういう人は西部氏について語れる事は何一つないはず。 誰でも保守だし革命的。
日常の保守だけではつまらない。楽しいけど革命は危ない。
それに関しては誰でもそう。 関係の書き換えが革命的なら社会は常時革命が起きてる。
新しい商品は出る。 協力者に犯罪をさせたのは責められるべきと思う。
西部氏に面識も無く、著書も読まずに語るのだけど、責任は持たないといけない。
保守についても知る事は誰しも少ない。バークも読まない。
それでも語ってしまうのだけど、責任は持たないといけない。 保守にも革命的にもならず生きるのだけど、つまりニヒリズムだと思うけどそれじゃいけない。 黙って生きていければ良いがそうではない。
語る以上二ヒルではダメだと思う。 死自体は言説では無い。
ジジェクだけど謂わば崇高なトラウマ。 西部氏の死は、言説に興味を持つがその著書を読まない者にとっては崇高なトラウマ。
一社会人としては、一つの出来事として語られる。 言い直す。
西部氏は言説の人で、彼の死は言説でもありトラウマでもあるのだけど、著書を読まないものには彼の死は言説化されない。 深刻ぶるのが良いとも限らない。
宮台だけど日常を生きていたら、ストリ−トから退却して二ヒルになってる。
難しい。 日常を生きてもストリ−トから退却してはダメなのだと思う。
深刻に生きても良い。 ストリ−トにいれば色々あるが二ヒルはダメだと思う。
こんなで終わりたくないが5ちゃんは止める。 俺は回避したけど安易なディスもある。
うんざりするし止めてと思うが暫らく俺はダメ。 西部氏は一社会人にとっては社会の出来事として語られるが、その語りに社会が現れる。
言説に興味がないものは、その現れにも興味も自負も持たないし、社会的責任以外の責任も持た無い。 一社会人としては、協力者を犯罪者にして無責任だと思う。 常識だけで良いなら誰でも十分常識的。
常識だけでは西部氏の死は協力者を犯罪者とした事について、無責任としか言えない。
後は無関心。 漢字、カナ混じりでダメだ。
保守を名乗った西部氏だが、西部氏の死より、彼は革命的なのではないかという意見がある。
西部氏の死自体は、彼の言説を知らないものにとっては、言説では無い。
それを現代の社会における常識で語れば、保守、革命かはともかく、のちに生きる協力者を逮捕させており無責任という事になるだろう。
どの様な価値を持っていようと、法の否定は保守的には許されない。
それをすれば、西部氏も、窪田、青山氏も、常識を破壊する悪しき革命家と言われても止むを得ない。
西部氏の死自体は言説では無いのだが、それを語れば言説になる。
それについては語り手に委ねられる。 保守を名乗った西部氏だが、西部氏の死より、彼は革命的なのではないかという意見がある。
西部氏の死自体は、彼の言説を知らないものにとっては、言説では無い。
それを現代の社会における常識で語れば、保守、革命かはともかく、後に生きる協力者を逮捕させており無責任という事になるだろう。
どの様な価値を持っていようと、法の否定は保守的には許されない。
それをすれば、西部氏も、窪田、青山氏も、常識を破壊する悪しき革命家と言われても止むを得ない。
西部氏の死自体は言説では無いのだが、それを語れば言説になる。
それについては語り手に委ねられる。 負けても上に行く。
俺はワンパた−ンで終わらない。 戦略的な方に影響されたが成功という事でもない。
成功しようとする事は出来る。
自分らしく行けばいいと思う。 スペルミスに漢字、カナ混じりだけど。
5ちゃんは止める。 好かれた方が成功しやすいが好かれなくて良い。
ともかく普通に生活する。 取り消し。
小林秀雄も様々な類焼が「当たると思ってやり」その後ちゃんと一流になった。
ともかく前向きに行きたい。 ウザいだけどもう黙るけど。
当たれば大したものだとも思う。
最初はそれで良い。 >>764
そもそも柄谷にそんな気力はないだろう。
酒飲んで管まくのが精いっぱいw 自殺の倫理的な是非は置いておいて、単純に経済学的な文脈での費用対効果
(だって、西部さん経済学部だから)で今回の西部さんのような自裁を考えてみると、
その選択がそれほどメリットがあったとは感じられない。
まず、自殺の準備や手間がそれなりに大がかりな感じがするし、自殺幇助者2人の逮捕者が
出たので、その2人の今後の人生に大きな汚点と、その経歴にダメージを与えたことになる。
今回の件で2人が失職して路頭に迷うこともある。実名でマスコミに出ているから。
あと、著名文化人による奇妙な自殺の仕方で、世間にそれなりに衝撃を与えた。
ただ、極度の身体的苦痛から早く解放されたい、という気持ちは分るので、自殺という
行為自体は否定しない。ただ、生き続けるのも地獄、自殺も地獄ということで、
苦の総量という観点で見ていくと、あのまま生きていても、苦の総量自体は
ほとんど変わらなかったんじゃないかな、と感じる部分もある。つまり、自殺したことで、
特に得にはなっていない、ということ。たぶん、期待した効用が得られてない。
娘さん、息子さんも、自殺幇助の件では被害を受けているし。 そして、著名な言論人で、せっかく公的に物申せる優位な立場に西部さんはいたのだから、
せめて安楽死や尊厳死の必要性を訴えるなど、もっと公や国家に働きかけた方が
良かったのではないだろうか。それで、そうした制度が日本にも出来る可能性が出て来るし、
そうすれば、激痛を伴う難病や末期がんによる激痛、植物人間や高齢者に対してなされる
無駄な延命措置にも安楽死の制度がそれで採られる契機が生じるであろうから。
その方が、自殺幇助者という第二の被害者を生む自殺や自裁よりは、ずっと、いいのでは
なかっただろうか。
西部さんの著作は、何冊か読んだことあるけど、アメリカ憎しの言説がおかしいので、
通勤帰りの電車で笑いを堪えながら読んでいたな。アメリカを相対化するには多少、
いいのかなと。ただ、保守思想は退屈だね。単なるテクノロジーと流行嫌いを保守思想と
古典的な教養で糊塗しているような感じだった。人間的には、良い人だと思うよ、西部さん。
Wiki読むと部落の人たちにボランティアで勉強教えて上げてたりもしてたようだし、ヤクザ擁護
もしてたし、そういう社会の片隅に追いやられる人間への眼差しもあった人だということだ。 たしか、カントは定言命法で自殺を禁止しているよね。
あと、デカルトも自殺に対しては、否定的だ。
どういう観点から自殺を禁止しているのよく判らないけど、たぶん、デカルトは
キリスト教由来の観点なのかな。とにかく、今回の西部さんの自裁騒動を見ると、
なぜかカントの正しさが、ふと、連想されてしまう。こういうこと全般を見通して、
カントが自殺を禁止しているのかな、とか考えてしまう。
ただ、安楽死や尊厳死は、医療的な措置だから、自殺とは違うと思う。
それは、法に則った合法的な行為だから。 >>806
本人にとっては、志向に100%の結果をもたらしたんだから、メリットしかないだろ?
なんで他人や子供たちの今後が本人の損得の問題になるの? 失敗もあるがマイぺースで行く。
日常は奇声を上げる、万引きをする等無く普通に生活する。
微妙だが5ちゃんは止める。もうちょい。 死を与えるというのは論理的計算は歯が立たない。
それを受け止めるだけの誠実さがあるかだが、トラウマとして残る。
言説を続けた方が良かったというのは俺もそう思うが、受け手が正常であれば。
受け手が以上でそれだけの抗議をしなければ言説が変わらないと思ったのだと思う。
その水準に達するのは難しい。 ○異常
言説の状況が分からないのだけど雑誌がもっと活気を持つと良いと思う。 何冊かの雑誌というか言説紙を読むのはマストにする。
それだけじゃ足りないが、余り意気込むと尻込みする。 玉川への入水自殺であって単なる自殺では無い。
憤死だと思う。 どちらにしても西部氏は尊厳死を選んだそうで、自死以外の死は無かったと思うけど、難しい。 なるべく早く金を持って、金を持たないにしても資本主義について考えるべきだと思う。 現生否定が多くの宗教だと思うけどともかく難しい。
荒らしてすまん5ちゃんは止める。 倫理学者とか、各種仕事をされてそれを提供している方がいる。
教えて頂いて自分も仕事をする。
その際に前に言って良い。レベルが低ければ相手にされないだけ。 学者を尊敬した方が良いと思う。
専門性については技量も誠実さも学者の方が上。 多くは専門家は無味乾燥に耐えてる。
それを考慮しないとと思う。良いけど俺は当面黙る。 『カントは『人間学』の「勇敢と臆病について」論じた箇所で自殺についてふれています。
自殺によって生の重荷を脱しようと決意する人が、必ずしも見下げ果てた、無価値な人物で
あるわけではない。むしろ真の名誉に対して何の感情も持ち合わさぬ人達については、
かかる行為をあまり気遣う必要がない。−−とはいえ、実際かかる所業があくまでも
厭うべきものであることにかわりはなく、またこれによって人間は、自己みずからを
醜怪な存在たらしめるのである。(引用は岩波文庫、表記一部変更)
名誉を重んじることが動機となって自殺することがある。その例として、誤った法律で
処刑されるよりも自ら死を選ぶ場合が挙げられています。カントは「ただし私はこれについて
道徳性を弁護しようとするのではない」と但し書きを付けています。やはり、名誉のためで
あろうとも自分の生命を手段として利用し、目的を否定してしまうところがカントとしては
受けいれがたいのだと思います。 『人倫の形而上学』では、自殺は自己殺害という犯罪である、とハッキリ言い切っています。
「自己の人格をみずからその生命を断つことをとおして、他人の人格に対しても行われる」
場合として「妊娠中の婦人が自殺する場合」を挙げていますから、カントは中絶反対派なのでしょう。
さて、自殺が犯罪であるのは「他人に対する義務の違反」であるからだそうです。
この義務の生じる関係としては、夫婦・親子などの家族間の義務、国家に対する臣民としての
義務、社会の市民間の義務、神に対する義務などが挙げられていますが、それら、
他者との関係が一切問題がなかったとしても、自分自身に対する義務に違反していること
になるだろうとカントは言います。
この自分自身に対する義務とは、この文脈では自己保存であるようです。
動物性という性質においての自分自身に対する人間の義務のうちで、もっとも重要な義務とは
いえないにしても、第一の義務は、その動物的本性においての自己保存である。 居眠りしながら考えるに、これは自己の身体に対する責任のことかなあ、と思ったのですが、
カントは真逆に考えているようです。それはともかく、具体的な人間関係から離れて
自分自身に対する義務という議論でカントが標的にしているのはストア派の自殺です。
ストア派の人たちは、目の前の災悪や来ると予想される禍に迫られたからというのでなく、
もはやこの人生で何の役にも立ちえないという理由から、心安らかに、気の向くままに、
人生から〔煙のたちこめた部屋から立ち去るように〕去っていくことを、彼の〔賢者の〕人格性の
特権と考えたのである。
これに対してカントは、死をも恐れぬ勇気があるならば、その精神力は自殺しないことに
向けられるべきだったと非難します。しかしこの非難はなんだかすれ違っているように
見えます。カント自身書き留めているように、ストア派の自殺は何か強制力に挫折して
ということではありません。役割を満足に果たし終えて達成感のうちに舞台から引っ込む、
そんなイメージです。 義務について語るかぎり、従って生きているかぎり、人間は人格性を放棄する
訳にはいかない。そこで一切の責務を免れる権能を人間がもっているということ、
詳しく言えば、まるでそういう行為をするのには権能は一切必要でないかのように、
自由勝手に行為する権能をもっているということは、一つの矛盾である。自分自身の人格
の内なる人倫性の主体を破壊し尽くすということは、とりもなおさず、その主体に関するかぎり、
目的それ自体たる人倫性そのものを、その実存の上からみて、根絶するに等しい。
従って、自分に随意な目的を達するための単なる手段として自己を処分することは、
とりもなおさず、人間〔現象人 homo phaenomenon〕が実際それを保存する委託を受けている、
自己の人格の内なる人間性〔本体人 homo noumenon〕の尊厳を奪うことになる。 自殺をめぐる倫理学的考察
―カント自殺論に即して―
中村修一
(大阪大学大学院文学研究科博士後期課程、哲学哲学史)
「自殺者は自身を物件として扱っており、それと同時に自分のなかの道徳的人格を破壊するから、
自殺は道徳的に非難されるべきである。換言すれば、自分の生を処分することは許されない。
批判倫理学の言葉を用いるならこうなる。差し迫る罰から自分を守るために自分を単なる手段
として用いる権利を誰ももっていない。」
人間は本来人格であり、決して物件ではない。人間は人格である限り、主体として存在し、
自分の外のものを、ある目的実現のための手段として、つまり物件、所有物としてもつことが
できる所有者である。しかし人間はややもすれば自らを外的対象のように扱ってしまうことが
ある。つまり、自分自身を人格としてではなく物件として、つまり所有物として扱ってしまうことがある。
その際、人間は所有者であると同時に所有物ということになる。これは矛盾である。
ゆえに、人間は自分を物件として扱うことが許されてはならない。
ところで、自殺とは、罰から逃れるために自分を手段として、つまり所有物として扱う行為で
ある。したがって自殺は非難されるべきである。この論拠は多少説明を加えてこのように
まとめることができるだろう。 カントは「本体人と現象人」、「叡知的主体と経験的主体」を区別する。この区別により
人格としての主体を叡知的主体として、物件としての主体を経験的主体として把握する道が
開け、行為者と被行為者の同一性という自殺を特徴付ける再帰的関係は崩されるのではないか、
という反論を顧慮してのことである。
「自殺には人間の自由の自己矛盾がある」
「自殺を許すことは、矛盾することなしに自然法則として、つまりは法則として考えられることはできない」
自殺者は苦痛という感覚から逃れるために自分の生を絶つことを格率とする。ところで、
自然から与えられる感覚は、生を刺激して促進するよう定められている。つまり自然は
生の存続を自然法則とする。しかし自殺においては、その同じ感覚が生そのものの破壊を
もたらす契機として作用する。したがって、矛盾なしに自殺するという格率が普遍的な自然法則
として成立するとは考えられない。自然は生の存続と同時にその反対を法則とすることに
なってしまうからである。また、自殺の格率を法則とすることが矛盾となる以上、法則の下に
ある自由も、自殺においては矛盾に巻き込まれることになる。
矛盾を避けるには、自殺は禁止されねばならない。これがこの論拠のいうところであろう。 人間は、うちに道徳性をそなえる道徳的存在者であり、そのかぎり目的自体として存在する。
道徳的存在者としての人間は目的自体であるかぎり、それを無化することは許されない。
ところで人間が道徳的存在者であるということは、人間は道徳的主体として道徳法則の遵守に
力を尽くすことを使命としているということである。道徳法則を遵守するためには、
道徳的存在者としての人間、つまり本体人が存在していることはもちろんであるが、
本体人の保存を委託されている現象人としての人間の保存、つまり人間の身体的保存が
必要となる。自殺とはたんに現象人としての人間を破壊するだけではない。
自殺は、それを通して、目的自体である本体人を無化する行為でもある。ゆえに自殺は
禁止されねばならない。また、道徳法則の遵守―これがカントにおいては本来の自由の
行使である―が人間の使命である以上、人間が道徳法則の遵守を免除される権限、
つまり責務から逃れる権限は人間には認められない。自殺とは自分自身を無化することで
責務から逃れる行為といえる。よって自殺は許されない。この論拠はこのように再構成する
ことができるだろう。 カミュもその著名な哲学的なエッセイ、「シーシュポスの神話」の冒頭で、
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか
否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と書いていたように、
死や自殺を巡る考察というのは、哲学と非常に相性がいい気がする。文学でも、
ドストエフスキーの「悪霊」などで、そういった死や神、無神論を巡る考察があったような気がする。
埴谷雄高の「死靈」は、近代日本文学で最高傑作の部類に入ると思うけど、やはり、
存在や無、死を巡る常軌を逸した天文学的な狂気の長考がそこで展開されている。
ハイデガーも、メメント・モリで、死の先取りを現存在に導入せよの哲学者だし。
日本人は、「葉隠」などでも分るように、肉体、身体性というのを軽んじて、忠義や名誉、
世間に恥じない面子などを重視した時代があったけど、あれって、実は、ごく一部の限定的
期間で生じた、日本人の支配層の間で生じた突然変異的な価値観であって、あんまり、
それに普遍性を感じられない。神風特攻も同様に、普遍性を感じられない。
たぶん、西部さんとかは、そこに普遍性を感受していたのだろう。自分より大きなものや
大義、国家のために、自己犠牲を厭わない、ある意味、奉仕という観点で捉えていたのだろうけど。
イスラム原理主義者にも類似の思想がある。そういえば、大東亜戦争指導者の大川周明は
イスラム学者でもあったよねえ 自殺のリスクなんてないんだけど、自殺の経過予後がひどいからといって未遂にしても、にしても、
皆で関わらないとだめなんだろうか?自殺者は減っている模様だが、
誰か見えない相手が導いていることは確かだな、自殺という習性は動物にはないし
そんなものが似て蔓延しているとこから調べてみる。低大自殺多しで大恥だな。 >>828-835
なんだか見当違いのことをだらだらと・・・
人間の自殺のほとんどは自分の苦しみから逃れるため。
報道によれば西部氏もそうらしい、三島にしても同じだろう。
その苦しみには肉体的な場合もあれば精神的な場合もある。
肉体的な苦しみから逃れるには医療を受けること、精神的な苦しみは自分の価値観を変えることによって回避できる。
回避したくないというのも価値観だから、自殺に倫理性を求めるのは愚かなことだ。
もちろん、自爆テロや特攻も自殺の一形態だ。 医療の箱モノより遊んでないやつがしんだんじゃないの。 他殺を疑うべきだよ。あくまでさ。自分で自分を殺す、ことは不可能だよ。 これは仮説だけど、自殺の効用というのは実は皆無なのではないか、ということ。自殺によって
苦から解放される保証は全然ない。逆に、更なる苦が与えられる可能性さえ十分に考えられる。
なぜなら、意識や心、魂のようなものは、元々非物質的な位相にあるものだと考えられるので、
肉体的な死と同時にすべての現世感覚や思惟・表象能力、心的な心象や全記憶が完全に消える、
途絶えるとは言い切れないと思うから。
つまり、自殺による激しい苦の記憶やトラウマが、死んだ後にも残る可能性は想定できる。
いや、意識や心はすべて脳内現象だから、脳が死ねばそれらも無くなる、というのは
脳科学的に限定された一面的な見方であって、それですべての存在の真実が解明された
ことにはならないだろう。そもそも、単なる物質や生化学的な物質の塊に、なぜ意識や意思、
心が宿るのかというのも、よくよく考えると判らないはずだから。なぜなら、単なる生化学的な
脳という物質=臓器に意識や心が生じるのであれば、食べ物にも、野菜にも、たんぱく質や
アミノ酸、机や椅子にも意識や心、意思が宿らなければおかしいから。
脳の神経ネットワークの作用が意識や心を生じさせるのだとしても、なぜ、単なる生化学的な
物質にそれが発生させられのかは不明だ。それは極限すると、単なる物質が意識や意思、
心を発生させている、ということに繋がるから、科学的には、とても奇妙な状態だと言える。
なぜなら、それは単なる物質が意思を有しているような状況だからだ。
だから、意識、心、魂は非物質的な位相と次元に一部ある、と考える方が辻褄が一部、合う。
別に、ソクラテスのように魂の永遠性までは言わないにしても。 >>842
日本では自殺に効用がある場合もある。
昔の侍は一人で罪をかぶって死ぬことで、家族、親族の生活を守った。
殉死にも似たような側面がある。
現代でも、秘密を洩らさないまま死ねば、その後の家族の生活が保障される。
保険金を目的とした自殺も、家族の生活に配慮したものだ。
そうした目的を持った自殺は、現代ではまれだが、ないわけではない。 やってもいない殺人事件で死刑になり
家族や親類を守る例もあるんだろうねw
北九州の一家殺害事件で逮捕された中国人たちもおそらくそうだろう
日本でもそういう事例はあるんだろうけどね >>844
北九州ではなく福岡の一家殺害事件の間違い 自殺なんて一人でできるだろうに。
逮捕者まで出して幇助させるなんて許せないな。(合意があっても)
手が動かなくなったとかいうけど、テレビ出演してたんだから、遺書が書けないなら
喋って録音すればいいんだよ。信奉者がいるってひけらかしたかったのか。最低の爺だ 《ドイツの哲学者ニーチェの言葉が心理療法的に有益であることがある。それは「自殺念慮
は多くの生命を救っている」との言葉である。つまり,人生の重荷が耐え難いものになったとき,人
間は自分の人生を閉じる自由をもっているという知識が,生活上の情緒障害に対処しようとして
いる多くの人びとを救ったのである.》
邦訳フロム・ライヒマン『積極的心理療法』1964,1950、210頁
《#4:一五七 自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされ
る。》
ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫 >>843
>>844
家族や親類とはいえ、他者のために自らの命を捨てるなんて
個人主義の視点からすれば愚かだろ? >>848
観念的には、家族は個人の延長だよ。
ちなみに個人主義という括りも曖昧過ぎるかもしれない。
利己主義のことを想定してるみたいだけど、精神的な個人の自立を個人主義という場合もある。
全体主義とか国家主義とかいうのも、少なくとも権力者側では、それぞれの個人が自分の利害に基づいているわけだし。 西部は選挙の時期に、自殺を「みんなを騒がせちゃいけないから」と中止したと
テレビで言ってたが、むしろその時期に死んでりゃ、幇助の件も発覚しにくかったわけで
目立つ時期に死んで幇助も発覚って、迷惑かけっぱなしじゃねえか。
なぜ、こんな奴が柄谷先生の親友なんだ?信じられな〜い Takuya Kuratsu @columbus20
講談社文芸文庫で柄谷行人『内省と遡行』が復刊しているのを見た。あの浅田彰の解説がまた読めるようになったのはさておき、文芸文庫版あとがきで、改めてオカルト的な関心を正面から語っており、しかもその反復に自覚的なようで、頭を抱える。
19:52 - 2018年4月11日 __,,,,、 .,、
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`.--' マルクスがソ連の崩壊を予言していたかのような記述を発見してしまったんだが
『ドイツ・イデオロギー』より
"この「疎外」──哲学者たちに分かるようにこの言葉を用い続ければ──は、もちろん、二つの実践的な前提の下でのみ止揚されうる。
それが「耐え難い」威力、つまり、人々がそれに反抗して革命を起こすような威力となるためには、それが人類の大多数をまったくの「無所有者」として、
しかも同時に、現前する富と教養──どちらも生産力の巨大な上昇とその高度な発展を前提とする──の世界との矛盾において、創出してしまっていることが必要である。
別の面から言えば、生産諸力のこのような発展(これとともに、すでに同時に、局地的なものに代わって世界史的なものとなった人間の現実的な在り方の内に、経験的な実存が現前するようになっている)は、次の理由からしても、絶対に必要な実践的前提である。
つまり、生産諸力の発展なしには、欠乏、窮迫が普遍化されるに過ぎず、それゆえ、窮迫に伴って必要物をめぐる抗争も再燃し、古い汚物がことごとく甦らざるをえないだろうからであり、
さらに、生産諸力のこの全般的な発展に伴ってのみ人間たちの全般的な交通が据えられる──したがって、一方では「無所有」の大衆という現象をあらゆる諸国民のうちに同時的に創出し(普遍的競争)、
どの国民もが他の国民の変革に依存するようにさせ、そしてついには世界史的な、経験的に全般的な諸個人を局地的な諸個人に取って代わらせることとなる──からである。
このことなしには、(一)共産主義は局地的なものとしてしか実存しえず、(二)交通の諸威力そのものが全般的な、それゆえに耐え難いほどの諸威力として発展してしまうこともありえず、土着的・迷信的な「厄介事」のままであり続けるであろう。
しかし(三)交通のどのような拡大もが、局地的な共産主義を廃止するであろう。
共産主義は、経験的には、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能なのであって、このことは、生産諸力の全般的な発展およびそれと関連する世界交通を前提としている。" 辛子二個譜程度 。歳の差破局。セクハラ残りで失敗。 帝レベルになし。下段の下ネタ解禁。2〜6ch セファ テクロウ ニュウ balle♰
カオス干ツ 柄谷 私は数年前にカウツキーの『中世の共産主義』を読んで感心したのです。
その後、ノーマン・コーンの『千年王国の追求』をはじめ多くの本を読みましたが、
それらはすでにカウツキーがやったことの二番煎じでしかない。
そのことはまた、カウツキーの仕事がいかに無視されてきたかを示しています。
ドイツ語を読めない柄谷さんと俺のために、『中世の共産主義』の続巻のカウツキー『ドイツ宗教改革の共産主義』を誰か訳してほしい
これが日本語で読めないかぎり、『中世の共産主義』『キリスト教の起源』『トマス・モアとユートピア』の邦訳があっても片手落ちと言わざるをえない
栗原佑が死んでから何年経ったと思ってるんだ
太田仁樹さんか相田慎一さん、マジで頼む アメリカのユートピア〜二重権力と国民皆兵制 2018/4/30
フレドリック・ジェイムソン,スラヴォイ・ジジェク,柄谷行人ほか
https://www.amazon.co.jp/dp/490691778X/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています