柄谷行人を解体する53 [無断転載禁止]©2ch.net
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2017 柄谷行人『思想の散策』
2017 ジェイムソン・柄谷行人『アメリカン・ユートピア』 書肆心水
2017 柄谷行人『坂口安吾論』
2017/2/10 島田雅彦・柄谷行人・星野智幸 風花朗読会
2017/1/10 柄谷行人『柄谷行人講演集成1995ー2015 思想的地震』ちくま学芸文庫
柄谷行人を解体する52 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1462654687/ 好かれた方が成功しやすいが好かれなくて良い。
ともかく普通に生活する。 取り消し。
小林秀雄も様々な類焼が「当たると思ってやり」その後ちゃんと一流になった。
ともかく前向きに行きたい。 ウザいだけどもう黙るけど。
当たれば大したものだとも思う。
最初はそれで良い。 >>764
そもそも柄谷にそんな気力はないだろう。
酒飲んで管まくのが精いっぱいw 自殺の倫理的な是非は置いておいて、単純に経済学的な文脈での費用対効果
(だって、西部さん経済学部だから)で今回の西部さんのような自裁を考えてみると、
その選択がそれほどメリットがあったとは感じられない。
まず、自殺の準備や手間がそれなりに大がかりな感じがするし、自殺幇助者2人の逮捕者が
出たので、その2人の今後の人生に大きな汚点と、その経歴にダメージを与えたことになる。
今回の件で2人が失職して路頭に迷うこともある。実名でマスコミに出ているから。
あと、著名文化人による奇妙な自殺の仕方で、世間にそれなりに衝撃を与えた。
ただ、極度の身体的苦痛から早く解放されたい、という気持ちは分るので、自殺という
行為自体は否定しない。ただ、生き続けるのも地獄、自殺も地獄ということで、
苦の総量という観点で見ていくと、あのまま生きていても、苦の総量自体は
ほとんど変わらなかったんじゃないかな、と感じる部分もある。つまり、自殺したことで、
特に得にはなっていない、ということ。たぶん、期待した効用が得られてない。
娘さん、息子さんも、自殺幇助の件では被害を受けているし。 そして、著名な言論人で、せっかく公的に物申せる優位な立場に西部さんはいたのだから、
せめて安楽死や尊厳死の必要性を訴えるなど、もっと公や国家に働きかけた方が
良かったのではないだろうか。それで、そうした制度が日本にも出来る可能性が出て来るし、
そうすれば、激痛を伴う難病や末期がんによる激痛、植物人間や高齢者に対してなされる
無駄な延命措置にも安楽死の制度がそれで採られる契機が生じるであろうから。
その方が、自殺幇助者という第二の被害者を生む自殺や自裁よりは、ずっと、いいのでは
なかっただろうか。
西部さんの著作は、何冊か読んだことあるけど、アメリカ憎しの言説がおかしいので、
通勤帰りの電車で笑いを堪えながら読んでいたな。アメリカを相対化するには多少、
いいのかなと。ただ、保守思想は退屈だね。単なるテクノロジーと流行嫌いを保守思想と
古典的な教養で糊塗しているような感じだった。人間的には、良い人だと思うよ、西部さん。
Wiki読むと部落の人たちにボランティアで勉強教えて上げてたりもしてたようだし、ヤクザ擁護
もしてたし、そういう社会の片隅に追いやられる人間への眼差しもあった人だということだ。 たしか、カントは定言命法で自殺を禁止しているよね。
あと、デカルトも自殺に対しては、否定的だ。
どういう観点から自殺を禁止しているのよく判らないけど、たぶん、デカルトは
キリスト教由来の観点なのかな。とにかく、今回の西部さんの自裁騒動を見ると、
なぜかカントの正しさが、ふと、連想されてしまう。こういうこと全般を見通して、
カントが自殺を禁止しているのかな、とか考えてしまう。
ただ、安楽死や尊厳死は、医療的な措置だから、自殺とは違うと思う。
それは、法に則った合法的な行為だから。 >>806
本人にとっては、志向に100%の結果をもたらしたんだから、メリットしかないだろ?
なんで他人や子供たちの今後が本人の損得の問題になるの? 失敗もあるがマイぺースで行く。
日常は奇声を上げる、万引きをする等無く普通に生活する。
微妙だが5ちゃんは止める。もうちょい。 死を与えるというのは論理的計算は歯が立たない。
それを受け止めるだけの誠実さがあるかだが、トラウマとして残る。
言説を続けた方が良かったというのは俺もそう思うが、受け手が正常であれば。
受け手が以上でそれだけの抗議をしなければ言説が変わらないと思ったのだと思う。
その水準に達するのは難しい。 ○異常
言説の状況が分からないのだけど雑誌がもっと活気を持つと良いと思う。 何冊かの雑誌というか言説紙を読むのはマストにする。
それだけじゃ足りないが、余り意気込むと尻込みする。 玉川への入水自殺であって単なる自殺では無い。
憤死だと思う。 どちらにしても西部氏は尊厳死を選んだそうで、自死以外の死は無かったと思うけど、難しい。 なるべく早く金を持って、金を持たないにしても資本主義について考えるべきだと思う。 現生否定が多くの宗教だと思うけどともかく難しい。
荒らしてすまん5ちゃんは止める。 倫理学者とか、各種仕事をされてそれを提供している方がいる。
教えて頂いて自分も仕事をする。
その際に前に言って良い。レベルが低ければ相手にされないだけ。 学者を尊敬した方が良いと思う。
専門性については技量も誠実さも学者の方が上。 多くは専門家は無味乾燥に耐えてる。
それを考慮しないとと思う。良いけど俺は当面黙る。 『カントは『人間学』の「勇敢と臆病について」論じた箇所で自殺についてふれています。
自殺によって生の重荷を脱しようと決意する人が、必ずしも見下げ果てた、無価値な人物で
あるわけではない。むしろ真の名誉に対して何の感情も持ち合わさぬ人達については、
かかる行為をあまり気遣う必要がない。−−とはいえ、実際かかる所業があくまでも
厭うべきものであることにかわりはなく、またこれによって人間は、自己みずからを
醜怪な存在たらしめるのである。(引用は岩波文庫、表記一部変更)
名誉を重んじることが動機となって自殺することがある。その例として、誤った法律で
処刑されるよりも自ら死を選ぶ場合が挙げられています。カントは「ただし私はこれについて
道徳性を弁護しようとするのではない」と但し書きを付けています。やはり、名誉のためで
あろうとも自分の生命を手段として利用し、目的を否定してしまうところがカントとしては
受けいれがたいのだと思います。 『人倫の形而上学』では、自殺は自己殺害という犯罪である、とハッキリ言い切っています。
「自己の人格をみずからその生命を断つことをとおして、他人の人格に対しても行われる」
場合として「妊娠中の婦人が自殺する場合」を挙げていますから、カントは中絶反対派なのでしょう。
さて、自殺が犯罪であるのは「他人に対する義務の違反」であるからだそうです。
この義務の生じる関係としては、夫婦・親子などの家族間の義務、国家に対する臣民としての
義務、社会の市民間の義務、神に対する義務などが挙げられていますが、それら、
他者との関係が一切問題がなかったとしても、自分自身に対する義務に違反していること
になるだろうとカントは言います。
この自分自身に対する義務とは、この文脈では自己保存であるようです。
動物性という性質においての自分自身に対する人間の義務のうちで、もっとも重要な義務とは
いえないにしても、第一の義務は、その動物的本性においての自己保存である。 居眠りしながら考えるに、これは自己の身体に対する責任のことかなあ、と思ったのですが、
カントは真逆に考えているようです。それはともかく、具体的な人間関係から離れて
自分自身に対する義務という議論でカントが標的にしているのはストア派の自殺です。
ストア派の人たちは、目の前の災悪や来ると予想される禍に迫られたからというのでなく、
もはやこの人生で何の役にも立ちえないという理由から、心安らかに、気の向くままに、
人生から〔煙のたちこめた部屋から立ち去るように〕去っていくことを、彼の〔賢者の〕人格性の
特権と考えたのである。
これに対してカントは、死をも恐れぬ勇気があるならば、その精神力は自殺しないことに
向けられるべきだったと非難します。しかしこの非難はなんだかすれ違っているように
見えます。カント自身書き留めているように、ストア派の自殺は何か強制力に挫折して
ということではありません。役割を満足に果たし終えて達成感のうちに舞台から引っ込む、
そんなイメージです。 義務について語るかぎり、従って生きているかぎり、人間は人格性を放棄する
訳にはいかない。そこで一切の責務を免れる権能を人間がもっているということ、
詳しく言えば、まるでそういう行為をするのには権能は一切必要でないかのように、
自由勝手に行為する権能をもっているということは、一つの矛盾である。自分自身の人格
の内なる人倫性の主体を破壊し尽くすということは、とりもなおさず、その主体に関するかぎり、
目的それ自体たる人倫性そのものを、その実存の上からみて、根絶するに等しい。
従って、自分に随意な目的を達するための単なる手段として自己を処分することは、
とりもなおさず、人間〔現象人 homo phaenomenon〕が実際それを保存する委託を受けている、
自己の人格の内なる人間性〔本体人 homo noumenon〕の尊厳を奪うことになる。 自殺をめぐる倫理学的考察
―カント自殺論に即して―
中村修一
(大阪大学大学院文学研究科博士後期課程、哲学哲学史)
「自殺者は自身を物件として扱っており、それと同時に自分のなかの道徳的人格を破壊するから、
自殺は道徳的に非難されるべきである。換言すれば、自分の生を処分することは許されない。
批判倫理学の言葉を用いるならこうなる。差し迫る罰から自分を守るために自分を単なる手段
として用いる権利を誰ももっていない。」
人間は本来人格であり、決して物件ではない。人間は人格である限り、主体として存在し、
自分の外のものを、ある目的実現のための手段として、つまり物件、所有物としてもつことが
できる所有者である。しかし人間はややもすれば自らを外的対象のように扱ってしまうことが
ある。つまり、自分自身を人格としてではなく物件として、つまり所有物として扱ってしまうことがある。
その際、人間は所有者であると同時に所有物ということになる。これは矛盾である。
ゆえに、人間は自分を物件として扱うことが許されてはならない。
ところで、自殺とは、罰から逃れるために自分を手段として、つまり所有物として扱う行為で
ある。したがって自殺は非難されるべきである。この論拠は多少説明を加えてこのように
まとめることができるだろう。 カントは「本体人と現象人」、「叡知的主体と経験的主体」を区別する。この区別により
人格としての主体を叡知的主体として、物件としての主体を経験的主体として把握する道が
開け、行為者と被行為者の同一性という自殺を特徴付ける再帰的関係は崩されるのではないか、
という反論を顧慮してのことである。
「自殺には人間の自由の自己矛盾がある」
「自殺を許すことは、矛盾することなしに自然法則として、つまりは法則として考えられることはできない」
自殺者は苦痛という感覚から逃れるために自分の生を絶つことを格率とする。ところで、
自然から与えられる感覚は、生を刺激して促進するよう定められている。つまり自然は
生の存続を自然法則とする。しかし自殺においては、その同じ感覚が生そのものの破壊を
もたらす契機として作用する。したがって、矛盾なしに自殺するという格率が普遍的な自然法則
として成立するとは考えられない。自然は生の存続と同時にその反対を法則とすることに
なってしまうからである。また、自殺の格率を法則とすることが矛盾となる以上、法則の下に
ある自由も、自殺においては矛盾に巻き込まれることになる。
矛盾を避けるには、自殺は禁止されねばならない。これがこの論拠のいうところであろう。 人間は、うちに道徳性をそなえる道徳的存在者であり、そのかぎり目的自体として存在する。
道徳的存在者としての人間は目的自体であるかぎり、それを無化することは許されない。
ところで人間が道徳的存在者であるということは、人間は道徳的主体として道徳法則の遵守に
力を尽くすことを使命としているということである。道徳法則を遵守するためには、
道徳的存在者としての人間、つまり本体人が存在していることはもちろんであるが、
本体人の保存を委託されている現象人としての人間の保存、つまり人間の身体的保存が
必要となる。自殺とはたんに現象人としての人間を破壊するだけではない。
自殺は、それを通して、目的自体である本体人を無化する行為でもある。ゆえに自殺は
禁止されねばならない。また、道徳法則の遵守―これがカントにおいては本来の自由の
行使である―が人間の使命である以上、人間が道徳法則の遵守を免除される権限、
つまり責務から逃れる権限は人間には認められない。自殺とは自分自身を無化することで
責務から逃れる行為といえる。よって自殺は許されない。この論拠はこのように再構成する
ことができるだろう。 カミュもその著名な哲学的なエッセイ、「シーシュポスの神話」の冒頭で、
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか
否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と書いていたように、
死や自殺を巡る考察というのは、哲学と非常に相性がいい気がする。文学でも、
ドストエフスキーの「悪霊」などで、そういった死や神、無神論を巡る考察があったような気がする。
埴谷雄高の「死靈」は、近代日本文学で最高傑作の部類に入ると思うけど、やはり、
存在や無、死を巡る常軌を逸した天文学的な狂気の長考がそこで展開されている。
ハイデガーも、メメント・モリで、死の先取りを現存在に導入せよの哲学者だし。
日本人は、「葉隠」などでも分るように、肉体、身体性というのを軽んじて、忠義や名誉、
世間に恥じない面子などを重視した時代があったけど、あれって、実は、ごく一部の限定的
期間で生じた、日本人の支配層の間で生じた突然変異的な価値観であって、あんまり、
それに普遍性を感じられない。神風特攻も同様に、普遍性を感じられない。
たぶん、西部さんとかは、そこに普遍性を感受していたのだろう。自分より大きなものや
大義、国家のために、自己犠牲を厭わない、ある意味、奉仕という観点で捉えていたのだろうけど。
イスラム原理主義者にも類似の思想がある。そういえば、大東亜戦争指導者の大川周明は
イスラム学者でもあったよねえ 自殺のリスクなんてないんだけど、自殺の経過予後がひどいからといって未遂にしても、にしても、
皆で関わらないとだめなんだろうか?自殺者は減っている模様だが、
誰か見えない相手が導いていることは確かだな、自殺という習性は動物にはないし
そんなものが似て蔓延しているとこから調べてみる。低大自殺多しで大恥だな。 >>828-835
なんだか見当違いのことをだらだらと・・・
人間の自殺のほとんどは自分の苦しみから逃れるため。
報道によれば西部氏もそうらしい、三島にしても同じだろう。
その苦しみには肉体的な場合もあれば精神的な場合もある。
肉体的な苦しみから逃れるには医療を受けること、精神的な苦しみは自分の価値観を変えることによって回避できる。
回避したくないというのも価値観だから、自殺に倫理性を求めるのは愚かなことだ。
もちろん、自爆テロや特攻も自殺の一形態だ。 医療の箱モノより遊んでないやつがしんだんじゃないの。 他殺を疑うべきだよ。あくまでさ。自分で自分を殺す、ことは不可能だよ。 これは仮説だけど、自殺の効用というのは実は皆無なのではないか、ということ。自殺によって
苦から解放される保証は全然ない。逆に、更なる苦が与えられる可能性さえ十分に考えられる。
なぜなら、意識や心、魂のようなものは、元々非物質的な位相にあるものだと考えられるので、
肉体的な死と同時にすべての現世感覚や思惟・表象能力、心的な心象や全記憶が完全に消える、
途絶えるとは言い切れないと思うから。
つまり、自殺による激しい苦の記憶やトラウマが、死んだ後にも残る可能性は想定できる。
いや、意識や心はすべて脳内現象だから、脳が死ねばそれらも無くなる、というのは
脳科学的に限定された一面的な見方であって、それですべての存在の真実が解明された
ことにはならないだろう。そもそも、単なる物質や生化学的な物質の塊に、なぜ意識や意思、
心が宿るのかというのも、よくよく考えると判らないはずだから。なぜなら、単なる生化学的な
脳という物質=臓器に意識や心が生じるのであれば、食べ物にも、野菜にも、たんぱく質や
アミノ酸、机や椅子にも意識や心、意思が宿らなければおかしいから。
脳の神経ネットワークの作用が意識や心を生じさせるのだとしても、なぜ、単なる生化学的な
物質にそれが発生させられのかは不明だ。それは極限すると、単なる物質が意識や意思、
心を発生させている、ということに繋がるから、科学的には、とても奇妙な状態だと言える。
なぜなら、それは単なる物質が意思を有しているような状況だからだ。
だから、意識、心、魂は非物質的な位相と次元に一部ある、と考える方が辻褄が一部、合う。
別に、ソクラテスのように魂の永遠性までは言わないにしても。 >>842
日本では自殺に効用がある場合もある。
昔の侍は一人で罪をかぶって死ぬことで、家族、親族の生活を守った。
殉死にも似たような側面がある。
現代でも、秘密を洩らさないまま死ねば、その後の家族の生活が保障される。
保険金を目的とした自殺も、家族の生活に配慮したものだ。
そうした目的を持った自殺は、現代ではまれだが、ないわけではない。 やってもいない殺人事件で死刑になり
家族や親類を守る例もあるんだろうねw
北九州の一家殺害事件で逮捕された中国人たちもおそらくそうだろう
日本でもそういう事例はあるんだろうけどね >>844
北九州ではなく福岡の一家殺害事件の間違い 自殺なんて一人でできるだろうに。
逮捕者まで出して幇助させるなんて許せないな。(合意があっても)
手が動かなくなったとかいうけど、テレビ出演してたんだから、遺書が書けないなら
喋って録音すればいいんだよ。信奉者がいるってひけらかしたかったのか。最低の爺だ 《ドイツの哲学者ニーチェの言葉が心理療法的に有益であることがある。それは「自殺念慮
は多くの生命を救っている」との言葉である。つまり,人生の重荷が耐え難いものになったとき,人
間は自分の人生を閉じる自由をもっているという知識が,生活上の情緒障害に対処しようとして
いる多くの人びとを救ったのである.》
邦訳フロム・ライヒマン『積極的心理療法』1964,1950、210頁
《#4:一五七 自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされ
る。》
ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫 >>843
>>844
家族や親類とはいえ、他者のために自らの命を捨てるなんて
個人主義の視点からすれば愚かだろ? >>848
観念的には、家族は個人の延長だよ。
ちなみに個人主義という括りも曖昧過ぎるかもしれない。
利己主義のことを想定してるみたいだけど、精神的な個人の自立を個人主義という場合もある。
全体主義とか国家主義とかいうのも、少なくとも権力者側では、それぞれの個人が自分の利害に基づいているわけだし。 西部は選挙の時期に、自殺を「みんなを騒がせちゃいけないから」と中止したと
テレビで言ってたが、むしろその時期に死んでりゃ、幇助の件も発覚しにくかったわけで
目立つ時期に死んで幇助も発覚って、迷惑かけっぱなしじゃねえか。
なぜ、こんな奴が柄谷先生の親友なんだ?信じられな〜い Takuya Kuratsu @columbus20
講談社文芸文庫で柄谷行人『内省と遡行』が復刊しているのを見た。あの浅田彰の解説がまた読めるようになったのはさておき、文芸文庫版あとがきで、改めてオカルト的な関心を正面から語っており、しかもその反復に自覚的なようで、頭を抱える。
19:52 - 2018年4月11日 __,,,,、 .,、
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ビクビクッ : /.._ / ヽ \\.`゙~''''''"./
蛙邊矧憎魔璽斐螺 .|-゙ノ/ : ゝ .、 ` .`''←―゛
禰佐都簑菟匙簾邊獅 `⌒,,ノ.(、_, )ヽ⌒_ノ
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`.--' マルクスがソ連の崩壊を予言していたかのような記述を発見してしまったんだが
『ドイツ・イデオロギー』より
"この「疎外」──哲学者たちに分かるようにこの言葉を用い続ければ──は、もちろん、二つの実践的な前提の下でのみ止揚されうる。
それが「耐え難い」威力、つまり、人々がそれに反抗して革命を起こすような威力となるためには、それが人類の大多数をまったくの「無所有者」として、
しかも同時に、現前する富と教養──どちらも生産力の巨大な上昇とその高度な発展を前提とする──の世界との矛盾において、創出してしまっていることが必要である。
別の面から言えば、生産諸力のこのような発展(これとともに、すでに同時に、局地的なものに代わって世界史的なものとなった人間の現実的な在り方の内に、経験的な実存が現前するようになっている)は、次の理由からしても、絶対に必要な実践的前提である。
つまり、生産諸力の発展なしには、欠乏、窮迫が普遍化されるに過ぎず、それゆえ、窮迫に伴って必要物をめぐる抗争も再燃し、古い汚物がことごとく甦らざるをえないだろうからであり、
さらに、生産諸力のこの全般的な発展に伴ってのみ人間たちの全般的な交通が据えられる──したがって、一方では「無所有」の大衆という現象をあらゆる諸国民のうちに同時的に創出し(普遍的競争)、
どの国民もが他の国民の変革に依存するようにさせ、そしてついには世界史的な、経験的に全般的な諸個人を局地的な諸個人に取って代わらせることとなる──からである。
このことなしには、(一)共産主義は局地的なものとしてしか実存しえず、(二)交通の諸威力そのものが全般的な、それゆえに耐え難いほどの諸威力として発展してしまうこともありえず、土着的・迷信的な「厄介事」のままであり続けるであろう。
しかし(三)交通のどのような拡大もが、局地的な共産主義を廃止するであろう。
共産主義は、経験的には、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能なのであって、このことは、生産諸力の全般的な発展およびそれと関連する世界交通を前提としている。" 辛子二個譜程度 。歳の差破局。セクハラ残りで失敗。 帝レベルになし。下段の下ネタ解禁。2〜6ch セファ テクロウ ニュウ balle♰
カオス干ツ 柄谷 私は数年前にカウツキーの『中世の共産主義』を読んで感心したのです。
その後、ノーマン・コーンの『千年王国の追求』をはじめ多くの本を読みましたが、
それらはすでにカウツキーがやったことの二番煎じでしかない。
そのことはまた、カウツキーの仕事がいかに無視されてきたかを示しています。
ドイツ語を読めない柄谷さんと俺のために、『中世の共産主義』の続巻のカウツキー『ドイツ宗教改革の共産主義』を誰か訳してほしい
これが日本語で読めないかぎり、『中世の共産主義』『キリスト教の起源』『トマス・モアとユートピア』の邦訳があっても片手落ちと言わざるをえない
栗原佑が死んでから何年経ったと思ってるんだ
太田仁樹さんか相田慎一さん、マジで頼む アメリカのユートピア〜二重権力と国民皆兵制 2018/4/30
フレドリック・ジェイムソン,スラヴォイ・ジジェク,柄谷行人ほか
https://www.amazon.co.jp/dp/490691778X/ 映画『マルクス・エンゲルス』予告編
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=6t5on9lZOJw
マルクス生誕200年記念作品
岩波ホール創立50周年記念作品
若きマルクスとエンゲルスの友情は世界の未来を大きく変えた---。
永遠の名著『共産党宣言』(1848)が誕生するまでの激烈な日々を描く歴史的感動作。
レーニン、ゲバラ、カストロ、マンデラ‥20世紀を代表する変革の指導者の前には、いつもマルクスとエンゲルスがいた。
本作はドイツ、フランス、イギリス、ベルギーを舞台に、二人が「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」
という有名な言葉で始まる『共産党宣言』を執筆するまでの日々をドラマティックに描く。
監督は『ルムンバの叫び』(10)、『私はあなたのニグロではない』(17)で知られる社会派の名匠ラウル・ペック監督。
監督・脚本:ラウル・ペック 主演:アウグスト・ディール、シュテファン・コナルスケ、ヴィッキー・クリープス、ハンナ・スティール、オリヴィエ・グルメ
2017年/フランス・ドイツ・ベルギー合作/フランス語・ドイツ語・英語/118分/スコープサイズ/カラー
英語題:THE YOUNG KARL MARX 配給:ハーク 宣伝:テレザ、太秦
4月28日(土)よりロードショー!
http://www.hark3.com/marx/ ★ものを考えるのは、ある意味で、例外状態あるいはアブノーマルな事態から考えることです。
たとえば、誰でも重い病気になると人生について考えますね。
ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、
ものを考える上での基本的な姿勢だと思うんです。
しかし、それはノーマルな状態を軽蔑することではない。
ただ、日常的なノーマルなものが、どんなに複雑であるか、
またそれが堅固に見えてどんなに脆弱であるか、そういったことを知るために不可欠なのです。
ニーチェはそれを「病者の光学」と呼んだと思います。
それは、他のあらゆる事柄についてもあてはまります。
<柄谷行人;“議会制の問題”(1992早稲田大学学園祭講演)−『<戦前>の思考』> >>862
そういや、マルクスって映画の題材になったことってあんまり無いよな。これは面白そうだね。 アラザルという批評誌があるらしい
執筆は佐々木敦とか
夜航は神戸大、綿野氏系?
G-W-Gとか
エクリヲは映像系?
綿野氏とこれらの編集者が同人誌のトークイベントのメンバーだったみたい 【本日発売】
『アメリカのユートピア ―― 二重権力と国民皆兵制』(フレドリック・ジェイムソン、スラヴォイ・ジジェク編 書肆心水)
【Amazon紹介文】
「解放された社会に関する左翼のスタンダードな観念をジェイムソンが根底的に問い直す、問題の話題作。」 KeisukeHonda(本田圭佑) (@kskgroup2017)
2018/05/02 10:51
最近読んだお気に入りの本。シェアしたいと思ったくらいなので是非。
https://twitter.com/kskgroup2017/status/991495245933182976
デヴィッド・グレーバー 負債論 >>866
Dの研究、完成したのかね。
Dは霊的な力というのは、「世界共和国へ」あたりから「カリスマによる開示」という言葉で
言ってきたことだ。 内容紹介
1994年の大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞前後に行われた全対話三篇を集成。
小説と批評の両面から日本文学界を牽引してきた二人が、文学、思想、言語、日本と
日本人について、縦横無尽に語り合う。柄谷氏の書き下ろし序文と年譜を付す。
著者について
小説家。1935年愛媛県生まれ。1994年、日本人二人目となるノーベル文学賞を受賞する。
作品に、『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『万延元年のフットボ-ル』『水死』他。2018年7月
より『大江健三郎全小説』(全15巻)を刊行。
単行本: 240ページ
出版社: 講談社 (2018/6/30) http://www.shinkyo-pb.com/magazine/
新教出版社販売部です。 『福音と世界』を小社から直接お買い上げいただく際の送料につきましては、1冊の場合70円、2冊以上の場合は冊数に応じて申し受けております。 『現代日本の批評』には余程ネタがなかったのか、「重力」のことも否定的なエピソード
としてではあるが少し触れられている。「重力」は、端的に言って、ダメ批評家と
ダメ編集者とダメ演劇作家とダメ映画監督とダメ詩人とダメ経済学者が集まって、
リサイクルを目指したような所があったが、批評家が重複していたのが問題だった
かもしれない。ともかく鎌田哲哉以外はそれなりに「更生」しているらしいが
(逆「玉の輿」に乗ったり、早稲田の教員になったり、詩の賞をもらったりetc)、
鎌田だけは、おそらくまだ自らの重力が作り出したブラックホールの中で
「穴つるし」に耐えているのだろうと推察している。そして、何もしていないように見える
鎌田と、あらゆることをやり尽くしているように見える東が、今や結果として批評的には
等価値だったと言わざるを得ないところに、絶対的な「無」としての「平成」という時代
の特質がある。 高額な抗体医薬の事実上の最後の徒花になりそうな
革命的ながん治療薬といわれる小野薬品工業のオプジーボ 大杉重男のブログというのがRTされてきて読みに行ったら
自家中毒起こしたみたいな文章で辟易して、おれはもうこういうのに
まったく興味がないのだなということを再確認した。
東浩紀と鎌田哲哉が等価って、それはさすがに東に失礼だろうと思ったよ。 Pierre Riviere しかし、再開したはずのNAMは相変わらず何の音沙汰も無しですね。
2週間前.
佐々木 真 中国のNAMですか?
2週間前.
Pierre Riviere 中国のNAMもそうですが。肝心の日本のNAMというのはもう無かった事になってるんですかね。
2週間前.
佐々木 真 http://nam21.org は関本さんが再開しようとしてたような
2週間前.
Pierre Riviere 関本が今やってる活動は5ちゃんねるに書き込むことぐらいしか分からないなぁ・・・。
2週間前. 映画『ジェイン・ジェイコブズ ―ニューヨーク都市計画革命―』公式サイト
http://janejacobs-movie.com/
《もしジェイコブズがいなかったら、
世界一エキサイティングな大都市・ニューヨークは、きっとずっと退屈だった。》
予告編
https://youtu.be/iKIjVjPALCM
2018/04/24 13:01
『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』ってどんな映画なの?という方にオススメの一冊。
「ジェイコブズ対モーゼス」(アンソニー・フリント/鹿島出版会)。柄谷行人さんによる書評をぜひお
読みください。
#建築 #都市計画 #街づくり #ジェイコブズ映画
https://twitter.com/jacobs_movie/status/988629026599190528
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071700175.html
《 モーゼスはただの政治的な権力者ではなかった。彼の背景にはモダニズム建築理論があったからだ。
彼のプロジェクトを阻止するためには、それを根本的に批判するような理論が必要なのである。ジェイコブズ
の『アメリカ大都市の死と生』がそれをもたらした。この本は、自然成長的な多様性こそが都市を活性化する
ことを示した。とはいえ、彼女はこのような理論をもって運動を始めたのではない。この反対運動を通して学び、
それを考えだしたのである。》 佐々木 真 ここに仮厦さんいるかなと思ったら
柄谷の専修大の講演の掲載があり…
http://slj-lsj.main.jp/pubulication.html
柄谷氏の講演は私が録音を起 こしたものを手違いで掲載しています。決定稿「日本精神分析再考」は本機関誌の次号に掲載の予定です。柄谷氏および皆様には深くお詫び致します。日本ラカン協会理事長 若森栄樹
2日前.
Pierre Riviere 日本精神分析再考だったら柄谷のHPに掲載されてますよ。
2日前.
Makoto Sasaki 2008年に講演、2011・2012年に「ラカン研究」、そして「思想的地震」にですね。
97年の「日本精神分析再考」は「日本精神分析」にらしい。
ところで「大江健三郎柄谷行人全対話」は単行本らしいけど
対話3回のうち、1回は昔僕がネットに全文掲載しましたね…
2日前.
Pierre Riviere どうせ全部昔のでしょ?新しい対談ではないんだろうねえ
2日前.
Makoto Sasaki 1994年の大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞前後に行われた全対話三篇を集成。小説と批評の両面から日本文学界を牽引してきた二人が、文学、思想、言語、日本と日本人について、縦横無尽に語り合う。柄谷氏の書き下ろし序文と年譜を付す。
2日前.
Pierre Riviere なんか単に権力の交換儀式をやってるみたいで嫌ですね。一応買いますがw
2日前.
Makoto Sasaki 僕もまあ。「福音と世界」は新教出版社の送料70円かなだけど、新宿区新小川町というから直接行こうかとも。柄谷が文字起こしを勝手に掲載されて怒った話は聞いた気がするけど、ラカンのだったのかな
2日前 そうネ
騙されてばっかりで騙す事を覚えた日本国内の中国人犯罪者は詐欺罪での検挙が多いアルネ https://twitter.com/suzume10201/status/997450324691464192
森 哲子 @suzume10201
代官山にて、『柄谷行人公演会』<マルクスは、ハイネが大好きといっている。柳田国男は、二人が共通することがわかっていた。
私は、あの世と霊に慣れている。私は、マルクスの『資本論』以外に面白い本はない。商品は、交換できまる。商品には何かがクッツイテいる。それは霊だ。>
21:14 - 2018年5月18日
佐々木真 @sasaki_makoto ・ 今
返信先: @suzume10201さん
質問で盛り上がりましたね。柄谷氏は「貨幣には見えない力がある。
物理学は以前、見えない力を認めていなかった。だが後の物理学は磁力・重力という見えない力を認めるようになった」と発言してましたが、人間が「見えない」と言っているのであって、全ての動物に磁力・重力は作用しますよね。 NAM原理が中国で翻訳されてさぞかしうれしいようで 《第119回紀伊國屋サザンセミナー》 民主主義を超えて ... 紀伊國屋書店
2013年2月7日
[台湾で]みんながね、どういう理論で、あるいはどういう社会を実現するんですかときくんですよ。
けどねそれは僕はこう答えるんですよ。
それは君たちは知ってるんだ、と。
現にあるんですよ。イソノミアが現代ならどういう社会ですかと聞かれたら、
協同組合ですよと答えます。
自分が経営者で自分が労働者、あるいは共同所有…。支配関係はありません。労働商品では
ないから。イソノミア、ノールールです。
協同組合が社会全体であるような社会をマルクスは共産主義と呼んだんですよ。
国家がやってはダメですよ。協同組合が国家にとってかわらなければならないと言っている
んです。
マルクスは若いときから言っています‥
「彼ら(労働者)は、実現すべき理想を何ももっていない。彼らのなすべきことは、崩壊しつつ
ある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素を解放することである。」
(フランスの内乱、全集17-320頁)
解放すべき諸要素はあるんです。それを解放すればいいんです。
要素があるだけで…それを思い出せばいいだけです。 855 :考える名無しさん:2014/04/23(水) 02:22:55.80 0
最後に、親愛なるカルヴィーノ(引用者注:イタリアの著名な小説家)、君にひとつ言っておきたい、
モラリストとしてではなく、分析者として。わたしの主張に対する『メッサッジューロ』紙上の君の性急
な答えのなかに、二重に不幸な一言が思わず漏れている。この一節だ。「今日の若いファシストをわたしは
知らないし、かれらと知り合う機会が訪れないように願っている」しかし、当然ながら、君にはこう
いった機会は訪れないだろう。これは、列車のコンパートメントや店の行列で、路上で、パーティーで、君
が若いファシストと出会ったとしても、"君がかれらを認識しない"からでもある。若いファシストと
一度も出会わないことを願うのは冒漬的だ。なぜなら、反対に我々はかれらを見つけだし、出会うために
あらゆることをしなければならないからだ。かれらは宿命として予定された〈悪〉の代弁者ではない。
"かれらはファシストになるために生まれてきたのではないのだ"。だれも----かれらが青年になって、
どんなものかはわからないが、なにかの理由、あるいは必要性にしたがって選択できる状態になった
とき----かれらに民族主義者としてファシストの格印を押すものはいなかった。ひとりの若者をこう
いった選択に走らせるのは、絶望と焦燥の残忍な形なのだ。そしておそらくかれの運命を違ったもの
にするには、かれの人生におけるささいな別の経験、たったひとつの出会いだけで、十分だったことだろう。
(パゾリーニ「海賊評論(一)"68年"その後」『現代詩手帳』大辻康子訳、1998.7より) 弱い人間をどう思っているか。その質問への答えはシンプルに、ひとは状況によって
強くもなり弱くもなるので「弱い人間」がいるわけではない、というものです。
ただ「ダメ人間」はいると思います。そしてぼくはダメ人間はあまり好きではありません。
なぜなら、ダメ人間は、単なる弱い人間とはちがい、弱さから抜けだそうとしていないので、
コミュニケーションができないからです。自分は弱い、どうしましょう、と話しかけられて、
こちらが真剣に答えを返しても、いやどうせそれできないんです、ぼくは弱いからと
また同じ答えが返ってくる。それがダメ人間です。そこではコミュニケーションはなにも
生みません。むろんそういうひともいてもいい。そしてそういうひとと話すのが好きな
ひともいていいけれど、ぼくとしては話すのは時間の無駄だなと感じます。 パゾリーニ「不純行為」#2『愛しいひと』42~3頁より
AMADO MIO preceduto da ATTI IMPURIby Pier Paolo Pasolini
《一月からぼくらは芝居のけいこを始めた。民話劇『子供たちと小妖精(エールフィ)たち』で、
戦争が終わったらすぐにもカスティッリオーネで公演するつもりで、ぼくがそのために書きお
ろしたものだ。あの日々のけいこはぼくの少年たちにとって無上の喜びの瞬間をなしたし、
思うに彼らは大人になってからも、自分たちの少年期のある種の象徴(エンブレム)として
思い出すことだろう。ニシューティは小妖精のひとりで、ぼく自身は人喰い鬼(オールコ)だった。
しかし民話の筋立ても言っておかなければならない。なん人かの小妖精が、父親の人喰い鬼
と一緒に、森の真ん中で、追い剥ぎをして暮らしていたが、ときたま人を喰うこともあった。
いまは彼らの掘っ立て小屋の前、緞帳下の空き地にいる。舞台に立った彼らはまちがい
なしにいじわるで皮肉屋で邪悪な役に扮するのだけれども、と同時に感じのよい少年たち
であってもよい。するとそこに歌声が聞こえてくる。子供が二人、家出をして、冒険を求めて
森に入り込んだのだ。人喰い鬼と小妖精たちは子供の声を聞きつけて、身を隠す。そして
あの二人が野営地にさしかかったとたん、跳び出して彼らを生け捕りにしてしまう。人喰い
鬼がなにがしか悪事をはたらきにでかけているあいだ、捕虜の番をするのは小妖精たちの
役目だ。こうして戯曲の核心にぼくらは入る。「よい」世界があることを子供たちが小妖精
たちに明かして見せることに、この戯曲の核心はあるのだけれども、はたしてどうやって? >>897
小妖精たちに遊びを教えることを通して。小妖精たちはだんだんに子供たちの遊びにひき
こまれていく。そしてとうとうみな一緒に逃げ出す決心をする。ちょうどそのとき子供たちの
叔父さんが折よくふいにやって来たので。だが、なんとしたことか、いちばん肝心なときに
なって人喰い鬼が帰ってきて叔父さんと決闘をはじめる。この果たしあいは初めのうちこそ
互いにお世辞と善意の抗議でしのぎを削っていたのに、やがて公然と険悪になって、グロ
テスクな闘いから凄まじい闘いへと変化する。しかし人喰い鬼が虎、怪物、ジャッカルなどの
助勢を求めてよばわると、森からは小鳥たちのさえずりとヴァイオリンの音色が彼にこたえ、
人喰い鬼が闇と嵐を求めると、あたり一面に燦然と光がふりそそぎ、ついに絶望しきった彼
がおこがましくもその山刀に訴えると、袋のなかにあるのは山刀のかわりにパイプだ。よい
ひとも改心したひとも歌いながら退場する。》 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています