悟りに近づくために9 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
木を見ないで森を見よって口癖だった数学の塾講師を思い出しました 過去の出来事の記憶は、今からは変えられない。だから、「運が悪い」という実感は、一番堪えがたい
苦しみである。
だが、それは、改良の余地がある。
例えば、コップに半分水が入っているのを見て、「もう半分しかない」と思うのと、「まだ半分ある」と思うのと、
二通りに捉えられる。
こういった考え方は、過去の記憶に対して強力に働かせられる。
例えば、ある人が自分と話していて、その人は過去に自分に嫌なことをした人だったとする。そして、その話は、
自分との会話であったとする。自分は、その人を嫌っていたはずなのに、会話をしてしまった、つまりやっぱり
自分は、自分の思いを貫けず、負けたようなきがする、運をうまくつかめなかった。と思ったとする。
だが考えてみると、向うだって、自分に対して嫌なことをしたと思いながらしたのではなく、結局自分が悪い
気持ちになったという事実のみが残された、というのが事実として考えられて、過去と今が微妙にずれていた、
ということを見て取れる。すると、過去のわだかまりは、その会話によって消えるということになる。
まとめると、過去の記憶は気持ちが悪くても、その時の会話で、過去を考え直せるという事であったということ
なのである。勉強になった、という自己への利益のみが残る。
このように、過去は変えられないけれど、その捉え方は、変えられるのである。だから、運が悪いなんて思いこむ
ことは良いことではない。考えてみれば、どんな人も負け続けるばかりであるはずがなく、自分の思い込み
を晴らすというような、執念を、一度くぐってしまえば、あとは解釈の能力の上達がもたらされる、そういう、
決定的な悟りに、あずかることが出来る。
このように過去は絶対ではない。現在も未来も絶対ではない。解釈と幸せは、等しいことなのである。
解釈によって幸せになる、事実は人の中で、気持ちに包まれて、温かくある。許せないということは、自己の偏見、思い込み
であり、過ちであるのだ。何一つとして、こだわらなければならないことなど、存在しない。 近視では焦点が網膜の手前で結ばれてしまう。しかし注目したい事実は、左右の眼において、二つ独立の焦点が、
合わせられているということである。すると、目のコリは、左右の眼の焦点合わせを、無意識のうちに絡み合わせて
行ってきたということの結果であるかもしれない、と仮説を立てられる。このことは、獣医さんが、左右の眼は
独立して動くはずなのに、と仰ったことから、医学的にもかなり確かな問題であると思われる。目の不快感や、
口の中の不快感、酸素不足で息苦しい、さらには不安で胸が締めあげられる、というような、色々な病状に
関わってくる。左右の目の独立を思えば、何となく楽しい気分になる。つまらない目の病気などに負けてはならない。
網膜は確かにあって、目の外側や中側から常に光を取り入れて、独立して処理を行っている。それをうまく司れる
ようなしがみつきなどが、混乱した苦痛の中で、光を放つ。どんな人にも当てはまるような療法であるかは
わからないが、とりあえず、左右の独立については気をつけていきたい。 物を見、物を聞き、物を触り、など人間に与えられた感覚器官を操り
正しく機能させれば見ようとすることはできる。だが、見えないものはどうか?
見えないものを見れば幻想になり妄想となる、どんな技術や技巧や技法、高次元からの
接触、自分の意志で見ようとすれば自分が見たいもの現れる、それが人の行為で感じるということだ。
感じ得ないこと、感じ得られないと定義されたもの、
それは感じることで得る類ではない、目や耳を塞ぎ暗黒の感覚の中から自我を閉じ深い瞑想に達し
て経験や体験や知識から得る知もそれは自我の延長線という抽象的な知だ。 知ではないもの、それは妄想と幻想の深い抽象的な世界から生まれる可能性だ、
知では非ずと書いて「非知」、何も感じ知り得ようとしないとき訪れる無意味の混沌、
それが偶然を知らせる、ノイズとしてしか聞こえなかった何かが意味を成す、
木を見るのではなく、森を見よではなく、そこに潜む魔物や妖怪を見るということ、
それは意味ではないし、知識でもない、何かいるというざわめき、
何もない森から底知れない得体のしれない力を知る、何か分からないままと認知すればそれが正解だ、
何か形のある姿や名前や生活観や顔が見えればそれは間違い、違和感のことだ。 それほど言葉に表せない感覚を現実の中に見出す術、
その術は森に気づき、森が導くランダム模様である、それは雑音にすぎないが、
雑音といえど何かの関係である、雑音といえど手を加えることで特徴のある雑音になる、
理解しえない雑音を、受け入れられない雑音を、雑音を味方にする非知の術を知りたまえ。
雑音と友達になれば、雑音は雑音でなくなる瞬間がくる、それが非知の術だ。 瞑想は精神を落ち着かせ思考しないこと、脳を休めることではない、
集中して世界と仲良くなる、つまりバランスという平行感覚を得ること。
知りえないものを知ろうとすれば、無意識下の心が揺らぎ、バランスを失う。
絶えず揺れ動きリズムがない1日続く地鳴りのようなもの、それが世界のことのありかたである。
世界と我が1つになったとき、無意味な雑音は世界の意味をなし、我は世界の意味となる。
自分が努力や修行の果てに目標を掴み取るのではなく、自然に世界が与え勝ち取るということだ。
これはあなたに与える言葉でもなく、その他の人に与える意味でもない。ポエムだ。 ポエムにコテハンも理解も説明も不要である、
たんなる響き、ランダムなノイズである、知らないのも然り。 >>836
理解に努め、知りえたことだけ、を強いて記憶するのではなく、理解しないままに意識にとどめ、その集まりが
一つの内的世界として、現れるべきなのである、というようなことでしょうか。人間の脳のタイムラグと、
不完全性からは、そのような術を使い、囲い込む必要があるのだと思います。直接理解できないこと、
頑張ってもわからないこと、それらは、知るのでなく、保存するということで、後々まで伸ばし、
調和のための一つの道具として働かせる、ということ、つまり、全てを知りえないなら、そのことは、
全てを知るべきではないと捉えるべきである、と言う風に。
長くなったので、直観だけをしるしますと、感覚が逃すことは、よくあることであるから、自己の秘密は、
どこかたどり着くべき場所を望み、全ての人はわかり合えずに別れていく、という、感覚的自己と
行動的自己が、共に責任を負いあって、未練に心を与えることは、根性ですべてを前向きに変えていく
べきである、と言う風に思いました。 ヤンマーニ♪ヤンマーニ♪ヤンマーニ♪イェイイェイ
絶対に当たらない弾、必ず当たる弾、
https://www.youtube.com/watch?v=7mArmkaZMU0&list
どこにでも私はいるの♪ 光がほしければ魂の歌を唄え、
送じゃなければ求めよ、さすれば与えるそれが闇の力だ、支配下になりたいなら求めよ。
アドロック・サーストンの言葉を忘れるな。 文章の冒頭や終わりには、大して重要な情報は込められていない。文章の本体を知ることが重要だ。
思い出す時、冒頭や終わりを正確に思い出すのは難しいが、中間で語られていたことを思いだそうと
すれば、比較的簡単である。悟りにおいても、生まれや死には、重要な意味はない。その間にある
生をどう生きるか、それこそが大切なのである。分かることは真ん中にあり、自由になるのは真ん中にある。
それをスキップすることは、生自体に対する否定的な感想によるものである。だから、本体において、
魅力や楽しさが、あふれているとすれば、だれも進んで死のうとはしないだろう。苦しみの中に意味を見つけ、
思い出すことだってできる。瞑想に入って、瞑想をし、瞑想を終わる。この中で、瞑想をすることが、
意味がある。何事も、自由がある個所こそ、始まりの儀礼と、終わりの感謝、の間なのである。
恐ろしい入門体験のみを、語ろうとしたり、自らにおいてもこだわっていてはいけない。
本当に意味があるのは、生の真ん中なのである。
思い出すことが難しくないなら、きっと生きていけるだろう。思い出せないものにとっては、生きることは地獄の様に
つらい。だから、生きること、考えること、悟ることに対する手はずを整えようとしたのが、この中間説なのである。 純粋に身体的な事だが、呼吸にはコツがある。思えば、真向法やストレッチの本などに、息を吐きながら行え、
吸いながらや止めながらしてはいけない、といっぱい書いてある。その理由がわからず、考えてきたのだが、
やはりそれらの本は正しかった、と今は認める。
つまり、喉の感覚を会得することが重要だったようである。吐きながら、喉の感覚を確かめる、吐きながら、目の感覚を
得る(上下に目を動かしたりすると良い)。これらのコツは、一瞬で多くの苦しみを軽減するものだ。永遠に続くような
呼吸の邪魔しない時の中で、どんな夢を見れるのか。 頭の中に浮かぶ考えは、旅のようなものである。だが、行きつくべきところ、答え、親和性の高いものは、もちろんある。
それを考え、求めればいい。だが、全ては旅の途中であり、絶対と言うものはない。絶対の答えは自分の中にあるはずも
なく、ただ性癖のみが、強迫観念の形であれ、具現化している、それは、すぐ納得、感覚できるであろう。
死の理に反した絶対と、生の理に反した捻じ曲げは、しない方がいいのである。いつからか自分のものになった何かと、
自分の性癖について、それぞれを大切にして、生きればいいのである。
考えるということはいつも中途であり、いくつかの記念碑を過ぎてきている。何の苦しみも、答えにすることはない。
望むものこそ答えとして見て、他者との食い違いを、自然と見よ。旅人にとっては、答えが重要なのではない。
答えを望むことに、自然な楽があり、消えていくものへ拘泥しないことに、悟りがある。
死ぬことと生きることが、まったく交じり合わないものだとしても、それが、答えと中途という、考えを二分する
ところに、現実的に体現されているようなものである、という理由をつけて、これは無上の悟り、理法であると見られる
のである。
自らの欲求の具現であり、自らが自然に望んできたところの答え、と、自らが生きているときの、弱点であり、柔軟性
でもある中途の二つは、それぞれに人に与えられている、楽しみの根源なのである。 今見ているものが旅の景色だ。今考えているのが、途中だ。最後の答えを出そうとする、必要はなく、
全ては意味がないように思えても、過ぎ去ってしまうという生の寿命によるから、そう思えるのだ。
旅人は、決して旅を抜け出ない。人は決して考えを超えない。もし超えるとしたなら、それは、記念碑を、立てられた
ときの話だ。いくつかの名誉は、誰しもが作る。
旅人は他者に期待しすぎない。自らにも、過大な要求をしない。なぜなら、その要求は、旅の途中にある自分の、
必要としていたものを、為すのだからだ。必要性ということは、後ろからやってくるのであり、前に追いかけたり
はしない。できるならないほうが良いことだ。だがもちろんそれは、別のものを一緒に処理するチャンスとしてもよい。
旅は終わるか?終わらないか?逗留する地は、どんなものをそこに蔵してあるのか。それを知ることも、
旅のだいご味である。旅する人に、道連れがいてもいい。皆そのように、関わってきた。それを受け取ることが出来る
とき、自らの器と、経験と、機転が、そして注意力というのか、あるいは何かの感覚(心?)というのか、
そういったものが、愛というようなものを、人間の間に作り上げる。
束の間の楽しみに、みんな気づいていく。穏やかな気持ちでテレビ番組を見たり、料理や趣味に打ち込んだり。
そのようにして、家の中にいるようであっても、その「実際の景色」は、「実際の旅」であるということを、言いたいので
ある。仮想によってたてられた論は、新しいものであることもあるだろうが、自分の考えた(もちろん自分でという
ものであり、自分にとってオリジナルであるのであり、後追いであるかどうかとかは問わない)答えを、
しようのないくらい、欲しかった答えを、「現実に思う」(我思うゆえに我あり)、そこには人同士の戦いも、思想の対決も、
必要がない。答えについて争うことは、もはや本質的でない。避けることが、仏教的には、
まず思うべきであり、現実を奪い合う洗脳などといったものからも離れている。
感情のいざこざは、旅人の切る仁義によって、なくされた。死への不安も、喪失の不安も、だんだんと
失っていくことを、必要と見なければ、その中にある意味、それを受け取ることがかなわない。 想いを載せ小さき言葉を重ねろ、詩を躍らせ、唄が弾ませ、歌が満ちるように精霊が唱う言葉だ、
理解するのではない、世界がひらめき、それを受け取り涙がでれば、それが言葉が到達したときの
感謝の扉が開く合図である、『魂』のさえずりである。 大事なのはどの尺度、どの側面、どの次元からみても
対称性、調和、バランス、均衡が取れること
これの乱れを感じ取れること、何かが正しと思えば絶対に感じることはできない。
全てはそのバランス類を守る能力に依存している、だがそれは平均をとることではない。
まったく違う値であってもバランスが取れるのが現実の調和、対象性だからだ、
全体で1つの和を描けば、より強い力程その和から抜け出せない、和の支配とはそれほど強い
和から抜け出せないということは、和を保つために和の歪みを補正する力を和の一部が故意に乱せば
全体の大多数の主体となれる条件も一部が作れるということ。主体の逆転現象がある。
一度共振状態に入ったら、大多数の主体は、その主体の和を乱すことはできなくなる法則だ。
バランスをとり対称となる和を描くことで、個は全であり、全は個になる。
という夢をみた >>850
とても美しい夢ですね。野心や信念は大切でしょう。僕は楽器を演奏する夢をよく見ます。
そして、起きているときにも、夢の中のような非現実的な美しさを、例えば夕日に感じたりします。
息に呼と吸があるように、現実と夢は、交代に現れます。夢に習熟するものは、現実にも習熟し、
心の中に夢を描く人は、人に語ることがたくさんあるものだと思います。
一度平衡を無くしてみると、まさに感謝の心を持つことが、たやすくなります。山に登る体験が、最高ならば、
失敗の経験から、学ぶこともたくさんあると思われるでしょう。
あなたのお考えの背後にあるものを、考えるのですが、たしかに、この世を掴むには、とても少ないもの
だけで、十分であり、本質的なものを、捉えるだけで、単純な法則だけで、ことたりるもの。
単純化されることと、ランダムがランダム性を持つこと、その二つは、不思議に相性が良いように思える。
あなたの夢の現象を作り上げている初期条件と、本質的な事態、それを解いてみたいと思うのです。 頭の中で文を読むとき、その音はどこにおいて鳴っているのか、ということを、しっかりと考えよ。
触覚なども同様である。首の骨をひねったり、手でものに触った時、その感触がどの位置で感じられるか、
知り、意識せよ。
視界を持っている自分はどこにあるのか、視界の中心はどこか、それを、知り、意識化せよ。
脳で思い浮かべるイメージも、それがいったいどこに位置しているのか、していないのか、と知り、意識し、位置を追え。 頭で作るイメージにおいて、そのイメージ界が、視界の全体(読書なら本の字)を、写し取るように、目にプラスした
もう一つの視界を自らに得よ。 イメージするときは みかん集中法をしたあとイメージしろって、誰かが言っていた、 文章などを読むとき、理解するには、自分の中の記憶の、目の前の文と同様な記憶のかたまりと、関連付けて
考えると良い。大人らしい知恵だ。
記憶に結び付け、知識が増える。体験が増える。頭の中には、その文章と関わりの深い記憶が、あるはずだ。
その記憶がもっともっと豊かになっていって、知恵がついてくるものである。
たとえば、夜おなかがすいたとき、それを我慢するには、我慢した体験に照らし合わせ、食べなくても平気であった
という経験の中におなかがすいた気持ちを、付け加えるとき、その記憶がまたもっと豊かになる。
簡単な言葉で言うと、それは、「学習」である。
一足飛びに物事を発明できる人間は、大変稀であろう。
だから、関連した記憶を考え、それであれこれ考えることを身につけたとき、考えることの楽しさと、益が、
自らを祝福してくれるのである。 自分の中の差別的意識、人を攻撃することの本能、それらを使うように直覚的に考えてしまうこと、これは
仕方がない。もう一方の、慈愛と寛容、励まし、協調、自己犠牲意識といったものを、考えるべきなのである。
人間の差別意識は、一つの人格があるなら、その中に必ず存在している。では、私は本当に、差別をすることで
すっきりするのか。思考を進めるなら、差別の本能についての、考えの記憶が、別の道を教える。
差別意識をめぐる葛藤は、消し去ることはできない、すると、その反対概念の中における経験こそ、
そうしたときに頼ることが出来るのだ。人間の攻撃本能は、育つとともに複雑化、先鋭化していき、
愚かなふるまいをするもの、考えが不自由であるもの、とくにそうしたことが目立つものについて、
社会的、正義的、制裁的、侮辱的、批判的な行為を持つ。これは、社会の厳しさとして、仕方がない。
だが人を、追い込むことをしてはならないというのが、考えられないか。
考えることによる善への歩みが、わかり合うことの、大人物的な、傑出へつながる。
必要のないことで、苦しめられるなら、もはや自分は何もできない。子どもの時に夢に見ていた、
コミュニティの楽園は、幻であった。そこに存在する業については、子供のころは何も知らなかった。
だが今というものの先は、まだ決まっていない。思考の真理に近づくために、新しい哲学を。
誰もが悟るような、新しい思考の方法を求める。
人の努力の方向とは、同じ喜びを持ち、同じ悲しみを持とうとすること。同じ気持ちになれたなら、
そこに何の不和があろうか。その程度の努力は、惜しむべきでない。 目の使い方について述べよう。
左右の眼を協調させながら、視界をうまく得る、ということは、相当に複雑な機構を必要とするだろう。
つまり、どこかほかの場所からの統率が必要であると思われる。
それは、両目の間である。
右を見たいなら、両目の間によって、右を見ようと意識すれば、それでほぼ必要な情報は得られる。
どうしても視界が足りないなら、首を動かすという方法がある。
無意識のうちに、両目の間は左右上下の視界獲得を指揮しており、それを使う以外に、正しく視界を得る
方法は、ないのではないかと思われる。視界に対するストレスは、現実認識や思考において、とても悪い影響を
与える。
例えばつらい精神病に陥ったとき、目の自由感があるのだ、と思い返せば、少しはその苦しさも和らぐのではないか、
と考える。 頭の中に入力ばかりしていてもしょうがないであろう。
頭の使い方とは、脳の中央から、脳の各部分に指令を出すことである。
その指令なしでは、頭は働かない。
その他、胃とか肺とか筋肉に対しても、脳の中央部から指令を出せばよい。
心配はいらない。自分は自由なのである。入力や影響に縮こまる必要はない。
一つの人格として、全ての傷心はいつかなくなる話である。
こういった話が、悟りだとしたら、それは誰もが悟る状態に至ることが出来る、という、
思想ではないもの、だったではないか。
一つの命が、することを、否定はできないものだ。なぜなら、それは全人類を軽視することになる。
それを、釈迦は、望まなかったであろう。ただ気づいたことと、悟ったことを、広めれば、人々が
救われるということを考えていただろう。 人の中にあったり、自分で何かをしようとする場合、究極的に判断基準となるのは、他者や自己に対する「評価」
である。この人はこう言ったから、なかなか良い、とか、自分はこう考えふるまえたから、なかなか良い、とか、
この行為はモラルにもとる、ごまかしている、などである。自己にできるはずのことなのにできなかった、などである。
常に、その時々の行動に対する視線を持っていて、それに従って物事の良し悪しを判断することが、
なにかの行動をするときに、最も確かな基準となる。それが人の中にあることであり、自らを捉えることである。
そのようにつながっているのが人である。自己の判断行為は、生きることへの敏感さということでもある。
いずれ人に評価されるようなこと、仕事などがあるのだから、それを自分で知っていて出来るということは、
大変に意味のあることである。無礼だとかいうことではない。それは、行きつくべき場所であり、行動の
意味の、最終的なチェックである。このような、評価すること、評価されることを、忌み嫌っていては、
世間の中に出てはいけないということである。その厳しさがあってこそ、優しくすることもできる。
何も知らない者には、見えない、行けない領域なのである。 例えば人間にできるのは、美しさを求める、といったようなことである。一方で、できないのは、物理法則を
否定する、などのことである。そのような望みに安心して、可変なるところを、厳しく確かに評価しながら
求めていけばよいであろう。 肉体と精神がある。見えるもの、聞こえるもの、感じるものは、一つの所与の自然であり、それを精神が
統御する形になる。精神は苦しい肉体とは違い、理性的で快適な判断を求められる、しかも限界がない。それを感じる
ことで、脳のある側面に従った正しいあり方になる。
>>863
何をもって自分とし、何を持って人とするか。人の肉体を支え、精神の世界へ目を開かせる。
それは自由である。人の為ではないことが、精神的融合という、人間の心の進歩の突破口
になるはずだ。そんなことがなければ、精神はずっと悲しいままだ。人も自分も、できそうな
余裕を持っているなら、自分にとっての益になる。精神がなければ、苦しくなる。 必要なのは和の心だ、和は世界が与えてくれるのではない、
自分の意志で勝ち取るものだ、自分が和を創造することで大きな和ができる、
その和こそ魂だ、手を合わせ感謝する事、それは和を描くことそのもの、
より大きな系列、より抽象的で高度な和こそ大きな感謝である。
具体的で小さき和は利にすぎない、仁を感じて義となし和の調和をもつ為に謝とする、
自ら発する礼をもって大地の智となし、自信が生じる。(五徳) >>865
自分が和しているなら、大きな和も生み出せる、そのような徳目で大きな結果につながるならば、
それは素晴らしいことです。ただ、もっと別のことを課題としてらっしゃるきもしますが、
とりあえず概念的に、そのようなことについて考えたことを書いてみました。
苦しくても精いっぱいやってみます。最近は昼寝が出来るようになったから、精神的余裕を
作るための、方策を身につけているところです。どうしても、自己の中に囲い込んでしまうことが
多少あり、自分を実現していくための、自分らしさは勝ち取るしかないのです。 考えは、脳の中のある点を捉えた場合、その周囲の脳細胞も励起されるのではないか。広がっていく脳細胞励起。
穏やかに、順々に。波及。
文を読むときも同様に、ある文字、ある単語区切りで読んでいっては理解が不能になる。
前後の言葉の波及する影響を考えなければ、文の理解は不可能である。 したがって、たくさんの波及的意味励起を、
考えながらすることである。つまり、関係性において言葉を関連付けて、意味を読み取る。上級だと、意味だけを
捉えるということも可能になる。大づかみで、関係を整理しながら読んでいくのが、また一つの考え方である。単語のみを
見るのは全く意味がない。
時間と言うものは、瞬間に注目するのではなく、波及的に感覚、理解するべきものである。
瞑想においては、頭の中で爆発する様々な想念が、波及しながらやがて収まっていき、静まり返る状態において、
禅の目標も達成できたと言っていいと思う。
無と有が、無あってこその有、有あってこその無であるという関係にあるのではないかと思われる。
蝋燭の炎がともるのは闇のなかでしかないのであるし、一切の無に、意味が与えられるのは、光の不在として
感覚される生物人間の前提があるからである。
言葉はあまりにも美しい。どんな人も、言葉や世界の、圧倒的美しさ、限りない意味深さ、それらを、感じて
生きているのがよいであろう。言葉の作る意味に、その真理を見出せたなら、何をすることだってできる。 自分が望むこと、楽しいことだけを、注目して、「つなげよ」。そうして出来上がった時間が、自らのための自らの記憶である。
誰に対しても何も尋ねない。自分の好き嫌いについて、それを消さない。自らの感覚なのである。
だが人は、苦しみと無理解、忍従、混乱などのために、間違った感覚を持ち、感覚がマヒしてしまっているのである。
望める自分、操作できる自分、そしてそのための記憶の編集、この世への所属からの権能、主体的感覚から
の本当の自由である。自分のために生きなければ、時間も記憶も出来上がらない。不要なことへのこだわりは、
ただ単に捨て去り、気にしないことである。そうしたときに、するべきことが、自らの快、充足といったことを
思い出すような、充実した生なのである。自分の望みをかなえることが、個人にできること、個人のすること、
即ち悟りに向かうことなのである。 世に起こる事の中で最も不安を呼ぶのが、混乱である。自分に処理できないことが、身に降りかかってきたら、
それはとても恐ろしい。混乱を直すには、時間順序をはっきりさせることである。時間の中に整然と並んだ
物事に、何の不思議もなく、恐ろしさを懐く理由もなく、淡々と眺め、やっていくだけである。
一番恐ろしいのが死であるが、死を位置づけるのに、自分の体験で、一番最後に起こること、とはっきりと
位置づければ、何の不思議もない。ただ、最後にあるものを受け取るだけだ。それですべては尽きており、
混乱の余地はない。逃げることも避けることもできないが、死は自分にとっては何も恐れる必要はない。
この整序された事象に、不安を呼び起こそうとする悪意はない。 人というのは、何かを育てるものだ。色んな縁に従って。手間暇かけて育てたものが、破壊されてしまったら、
その結果、大変な悲しみに襲われるのである。この世にあるものは、何かによって、人や生命や自然作用
によって、守られ、育てられている。自分が作ったものを壊されるとき、恐ろしいほどの悲痛がやってくる。
だから、なるべく、その物の自性を果たすまで、育てなければいけないのだ。どんなに間違ったことを言ったり、
したりしてきたものであっても、その物は今まで育てられ、守られてきたのだ。そこには、素晴らしい生命
という、根本が、植わっている。何かのきっかけによって、喪失への哀歌が、心に兆すならば、
そのことが、悟りへと至る道を見せている、ということが明らかになるだろう。 主体性というものには、一つの構成要素としてのみ、客観的意味がある。構成要素の、個人にとっての認識における
ものには、現実の視界の中にあるもの、過去の記憶、そして主体的思考がある。
認知というのは、たくさんの情報から、何かの意味を引き出すということで、真の主体性が活躍する。
我を張ったり、劣等感を感じたり、焦ったり、嫌な気分になったり、悔しかったり、それらは考えていく意味がない。
自分の能力は、構成要素からの意味を引き出すことで、ほぼ代表されており、個性とか、自己とかいったものは、
それほど優位に世界を構成しているわけではない。であるから、自己を主張するのではなく、関わるよりも
認識を広げる方が、自にも他にも意味深いということが、言えるのであろうと思う。だから、自分の好き嫌いは、
ほとんど主張する意味はない。 脳自体の働きは、意識して変えることが出来ないと思う。例えば、空腹感があるのに、頭で考えて飢餓に耐える
ことが出来ないように。だとすると、視野の緊張をとるための、正しい視覚の得方というのは、「視野の中の見たい対象
と、眼球を同時に意識すること」ではないかと思われる。脳については、コントロール外であるという仮定の上で、
こうした器官の使い方に特化した理論、理屈は、このようになった。その正しさを証明するためには、これから
ある期間、この目の使い方を実践していくことで効果がみられるかどうかであり、それで不調が改善されれば、
万々歳というところである。
特に注意することとして、視界には、外縁部のもやっとした部分が存在しているから、それらも含めて、
眼球と共に意識していくことを、考えるべきであると思われる。もやっとした部分全体を含めると、
視界にはとても広い範囲の情報に対して、柔軟に視野獲得を行える能力が備わっているはずである。
そして、目の存在は、脳に匹敵する原始性が、高機能に育て上げられてきたものである、と言えるだろう。
眼筋の緊張から身体全体の筋肉が緊張するようになったことが確実であるということから考えても、
眼球の存在に、脳と同程度の指令能力が存在していると思われる。
目の使い方次第で、いかなる緊張も、解けるのではないかと考える。 あるイメージが必然的に思い浮かんだら、その理由は、いくつかあるだろう。例えば、誰かよりも自分の方が
優秀であると思ったりと、何らかの思考展開をしていく。では、考え直してみると、記憶というのは何だろう。
記憶は、自分のものであっても、自分が全てを決めていったものではない。つまり、記憶の中には、自己
主張のもととなるものがある。この記憶について、現実がそれをほめたたえている、自分はやっぱり正しい、
と思うものではないか。
ある意味に、全ての現象を決めようとする。そういった心理的な働きを、人は持っているものであろう。
つまり、目的があって、そこへ向かって様々な材料を思考する。そのとき、人は見過っている。
つまり、あることを証明した、というところで、尽きている。だがその向うを、苦難の歴史、運命は、指し示している。
つまり、何一つとして絶対のものはなく、目的へとさかのぼる思考によって、その思考の働きを、さらに記憶を
辿らせるのに使えるのである。そのとき、目的は一つもなくなり、自己原因、即ち、自己を構成しているものが、
記憶においては幼児期を思い出せないという、非常に強い限界が、自己にはある。そして、さらに未来も、
分からない。この状態において、過去から未来への一つの線を描くことは、挫折せざるを得ない。本当には
頼りにならない。したがって、最終目的をさらにさかのぼると、円環を描くことになる。すなわち、自己の解体
という真理が、出生を、表していることになる。自己は遡及的であり、世界の法は、
前進的である。それぞれが、二重の円環を描き、その歯車が合えば、自己と世界が同一の働きの中に、
実現される。それは、思考によるものだが、その答えは自己に対してのみの意味を持つというような限りはない。
世界の真理と、自己の魂は、歯車でかみ合った経験に依って、初めて真理となる。
頭の歯車がかみ合えば、どんな意味も生み出せるはずだ。
私は、死にむかって、一つの真理に到達せねばならないという切迫感をいつも感じていた。自己と法の歯車は、
整えば、人を助けるものになる。自己の焦りを思いとどまって、外的な現実に、NOといってばかりではいけない。 自分の中心はどこにあるのか、と、左右、前後、上下を探る。そして気づくのは、時間の中心に自分がいる
ということだ。過去と未来の真ん中に自分はいる。したがって、空間と時間の中にある自分の中心は、
実存において明らかに最も生きる上で基本になるのであって、それを得たならば、悩みの時に
頼ることが出来る。
様々な物事が、時間の中に存在しているという真実を振り返れば、それらの物事や出来事に、
どのような意味を与え、どのような距離を取るか、そういったことを考える際に、記憶が出来ないというならば、
その本質を理解することで、記憶の補助となる。そして、補助は発展し、独自の意味を持つようになる。
こういったことが、実存主義であると思う。記憶は実存であるように思えるし、本質は、一般に言われている
ように、実存とは対概念であるとは言えないと思う。つまり、時間の中で、本質と実存はともに、存在という
概念に当てはまっている。 自分の中心はどこにあるのか
自分が自分の外から自分を眺めている実感、
ありえないほど特別に集中したとき、見えないものが見えてくることがある 特別集中したとき、世界の流れ、時間の流れが遅く感じてくる、
世界の見え方が変貌してくる、 >>875-876
集中は大事ですね。流れが遅くなるのは、良いことなのか悪いことなのか、よく分かりませんが、
最後のゴールを見定めて、物事を処理すると、逆にスムーズに事態が進むというのは、
良く知っている話です。自分の受け皿以上の情報を責任もって処理していくと、アップアップ
とおぼれてしまいます。精神と世界の関係はそれぞれ、作業主体と作業依頼主の関係に、
写して取られます。そう考えると、精神状態を良くしたい、作業の充実感を少ないリスクで
良く得たい、とにかく手掛かりを得たい、そうした目的を持っているならば、ゴールへの
最短距離を見据えたうえで、迂回するなり、歩調を緩めるなり、すればいいのです。
とくに、最後に触れた、歩調を緩めるということは、辞書に書いてある通り、何人かで一緒に
歩くことなので、そうした少しでもつながりへの余裕を保って物事を行う、そんな共同的な
作業をするならば、大変に重要になってきます。
つまり、行動することと探すこと、とは、探すことは戦略を練るためにほかならず、100%勝つというなら、
ゴールを見据え、そこからこそ考えないと、実現することが不可能になります。それが、戦略だ、と思うのです。
むしろ、少ないリスクということが、あまりお考えに反するかもしれませんが、そこのところはご容赦ください。
集中、ゴール、これらは何と多くの物事を説明するのでしょうか。 人との関係は、信頼を築けるかどうかだ。信用を失った人間と、いかなる協力を続けられるだろうか。
ぎゃくに信頼関係がある人との間に、余計な手続きは必要がない。そして、信頼は、常に存在している。
利害関係のみの関係は、一時だけの関係である。文章のやり取りで、信頼を築けるなら、それは
何よりだ。誰の信頼も得られていない人は、結局のところ、人生に限界がある。だから、信頼を結ぶことを
交際の結果として、自らの内にたくさんの信頼を築ける人は、充実した人生を送る。
意固地になって希望を失っていたり、虚しさに怯えた孤独な人間は、そうした信頼を得る行動を、
まず起こすことが、良いのだと思われる。 人と人の関係は感謝だ
和をつくり徳となす、例え真っ向から立ち向かう敵であっても和は作れ徳を成せる、
なぜなら善や悪ではないからである。
どんなに信用できる人でも相手の言葉は信じないことだ、
信じるべきは相手の能力、才能、魂だ、最大の敬意をもって相手に徳をあたえれば
和となせる。
感謝して和を描き祝福されろ、望んで作り上げるのではなく、自然に生じる力である。
自己や他社の利、形など、そういうものを望めば善と悪のように隔てられ、1つの和は生まれない。
そういう風に電話相談した人が語っていた。 >>880
とりあえず、善悪ではないものは、知識だと思えます。能力、才能、魂が、見えるためには、それを展開する
だけの知識がないといけない。知識は大事だと思います。自分の中にあるものを使う、自己の営み、
それが、知識として現実化される、のではないでしょうか。魂を見通す時、結ばれる、しかるのちに知識の中で
共同を実現する。言葉だけを言う人もいるけれど、その真意は、簡単に見通せます。
充実していればそれでいいのではないかというわけです。
和することで、真理を探究する体勢を作る、だが、もともと和には、それ自体を目的とすることもできるということがあり、
探した末の答え、自己の生きる意味たりうるもの、話すことの意味、欺瞞の少ない自分、そういったものが、しばらくしたのち、
明らかになってくるのです。
思い付きは大切ですし、信頼も大切、だけれども、孤独を追求するのも、本来的ではあります。
つまり、生きることのできる時間を、何かに割くことと、自己を追求することの両方に、使うわけです。
世界の中に共にある、ということ、つまり他と自の両方を知っているということは、動かされません。
あえて、動かすものが何かと考えれば、それは自分と言う自己操作の自由度の、高いものでしょう。
そのようにして個人は出来上がっているので、社会がこのようにギクシャクするのです。
それを見つめたりしながら、脱自の感覚の中で、ゆっくりと思考しましょう。 掲示板上の発言や、現実のままならない事象、それらは、好きに編集するのが良い。自分にとって納得のいく、つまり、
自分が望むような、ものとして、世界を真に理解する、それをして良いのは、生きることの自由ということがあるからである。
物事の起こり方に何の義理も権利もない。人は人であり、自分は自分であり、「世界は世界であるとしてもそれを知る
手段はない」。世界は自己を越えており、従って自己は「世界に合わせられない」。そういう理由から、自己のための
物事の受け取り方を、工夫できるのだ。世界とは何か。世界は理解された世界ではない。世界は永遠の無関心である。
自己は、能力があるもの。能力ゆえに自己は生きられる。能力に目覚めるとき、事実は自己と同一におかれる、
あるいは事実は自己と自己自身によるものと同じ距離におかれる。無関心な世界の中で、自由によって並べなおし
情緒を取り戻すのだ。音楽の様に。音の連なりの様に事実がつながり、何一つ障害となるものはないのである。
無慈悲と無関心の中で、それらに頼るのでもなく、敬うのでもなく、力強くしっかりと、自己のやり方を、邪魔するのは
妄念でしかないと、認めよ。そのときには、あらゆる意味が筋の通った理解になり、楽しみを奪われる焦燥や
絶望は、消え去るはずだ。 頭の中のとても執拗に付きまとううるさい音楽、硬直した嫌な意味(考え)、空間の中に固定された頭を狭める視野、
そういったものは、頭(脳)あるいは視野の中を自在に駆け巡らせるのが良い。表情などと言ったものは、嘘か本当か、
考えるか騙すか、くらいの能力しかなく、そういったことからも、他者の言葉を待つことはないのである。
上手くいくはずがないことがなぜかうまくいった、などということは、運命の神にまかせればいいのであって、
思考することが人間の本来であり、どんなに底の方にいる人間であっても、上手く思考できれば、
ストレスを無くすることも地位のような優越感も、実際の能力も、全て変わってくるはずだ。
哲学をする人間が、享受されるべき未来とは、そのような思考能力の改善であり、
悟りを心がける人間に渡されるのは、独りぼっちでもまけないという、強い能力だ。
失われたものは、取り戻せる部分もある。自己に対する責務とは、自己を担い続けることだ。
責務と言っても、何も強制だと受け取るのではない。やってみたらいいよ、良くなるよ、と呼び掛けている。
まとめると、前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉、脳幹といった場所で、どこかの一部のみを使うのではなく、
頭の中を移動させ、動かし反射させることで、全てのストレスが対処できるということだ。それと並んで、
視野の中を自由に、焦点を移ろわせ、自由に見る。新しい考えや、理解力と言うものも、それらの方法を心がければ、
ずいぶんと働きが向上するのである。そういうことに、ずっとずっと続けていれば、きっと生きることが楽になる。
楽になって、善や悟りが、どこからともなく生まれるだろう。そのために、本当ではないこと、漫然と過ごすことが、
充実とは違っているというのが、最も大きな違いだと判るのである。
本来的に、全ての脳は悟りうるものであり、考えの得方が、悟りなのではないか。自己の外にはどこにも行かない。
この場所こそが、全ての悟りの場所だ。全ての場所で、快適に生きられる。そうやって、この長いような短いような
生の中で、生まれた時の力を、涙や汗に変えたりしてきたではないか。ならば、誰が悪いのか知っているであろう。 答えとして見解を持つ。だが、その先は?答えの次にどう考えるか、それが出来ることであるから、絶望とは存在しない。
耐える必要も、キレる必要もない。どうすればいいかというと、答えでとどまらないことである。その先の思考を、
常に続けるべきである。
例えば憎しみがうまれるとする。その対象への恨み。恨みを募らせるのではなく、恨みの解決。つまり、変わることで
解消できるはずだ、という可能性を導かねばならない。金銭的絶望、対人的感情の絶望。それらは、自分で出した
答えの一つであるから厄介である。答えで終わりではない、ということを考えなければ、それらの示す意味に
従いつつ新しい局面を開けない。自分の答え通りにならないことがある。自分の不安が深いこともある。
絶望の先は必ずある。絶望を習慣化してはいけない。
「わからない」から駄目なのではない。過去にこだわることが、悪いことである。押しつけ、恨みをなする、
心配を募らせる、それらを、やめるためには、わかろうとする、ということを、善の最上に置くことである。
わかろうとしないことは、感情の満足程度の小さな意味になるだけだ。それは、当然一時のものであり、
他人の否定、世界の否定である。何も難しいことでもない。ただわからないとか、答えを適用していこうとか、
そういったことが残してしまう負について、出来るなら直した方がいいということだ。 禅。現在のみを残して、全ての記憶を消せ。そのためには、脳の中心部や側頭葉の一点、その他の脳の一部に集中し、
他を意識しないことである。思考においても、ある一つの考えに集中し、その他のことを考えないことである。
このように、ゾーンに入る経験をした後なら、雑多な生活に戻った時も、その経験を含んだ自分であるのだから、
その生活も、いつでもその禅体験に裏支えされているものになる。生きるということに必要な欲からの
要求ではなく、何かの集中を行い解脱の状態があるのだと思いなおせる。欲望のままに生きることがむなしい(なぜなら
死ですべてが消える)ということであり、生きている間に生物としても最上の認識に至ることが出来るなら、
その方がむしろ良いのである。欲望を募らせても飽きてしまうのであり、結局健康や、考えの健やかさ
を求める方が良い生き方だ。
生きる上で、失敗をしてしまったという後ろめたさが付きまとうとき、自分を助けるものは自分である、もし他人の
情けにすがらなければならないとしたら、そのためには覚悟も必要だ。覚悟を決められない弱虫なものが、
禅体験に励まされ、考え方を少し変えることになる。では、果たして自分には何が必要だったのか?
それが、自己の不十分なところだった、ということである。自分の禅体験が自己を救うために必要だった、
その外に何か必要なものがあるとしたら、それは自分が自分を精一杯苦労する、ということである。
迷いながら生きるしかない。自己こそが与える悟りを印として。 視界に対し、頭の中の焦点も合わせよ。部屋の中の様子であるとか、様々なこと、また人との対面、すべて、
脳のピントを合わせていくことである。新しいものを理解するということのためには、脳のピントを合わせる必要がある。
それがずれたままだと、いつまで経っても物事を進められないし、自分が空回りするばかりだ。
頭のピントが合ったのにできない、ということは、おそらく進めることが不可能であるか、相当に無理なことなのであろう。
とりあえず、自分に対しては、脳のピントが合った状態に持って行って、それから物事を考えるのがよいのであると
思われる。 活き方のすべての基本は、無意識で行われるバランス能力にあり、
理屈ではなく法則、
たとえ立ったときの水平バランスであってもそれは然り 例えばこんな時にご相談下さい。
借金の返済で困っている・・・。
(金融機関、住宅ローン、会社、個人など)
家賃や税金、公共料金、学費の支払いに悩んでいる・・・。
給料が減少し、生活が苦しい・・・。
数社から借入があり、どこからも借りられない・・・
お金の悩み、相談はエスティーエーで 瞬間を掴む(掴もうとする)こと以上に大切なことはない。子供のころには覚えていたこと、いつだって、自分は
一生懸命だった。哲学に必要なのは、文章力や思考力ではない。瞬間への渇望を失っていない
ような、感受性だ。 瞬間を掴むのではく、瞬間が掴ませてくれるんだ。
大切なのは強すぎる意志で動かないこと、
大切にするのではなく、大切になる、大切が活きることだ、自分本位の大切さは、
自分だけの大切さだ、自分以外の大切さを考えること >>892
忘却自体を、考え込んだりはしないのですか。完全な世界をはじめに見て、それに従った我を意志すれば、
世界を壊さない存在になる。なるほど、これは確かにそうだ。だが、それを導くために使う手数を、
増やしていかないと。具体的に言えば、哲学思想の発展の中に生まれた幾つもの哲学を指します。
それらの助けを借りないならば、その態度は世界>自己という真理的な世界の存在を、確かめることのみを
目指すことになる。そうするなら、完全でない私であるから、忘却という事態を持っているのです。
世界は忘却を指し示すでしょう。私はそれを喜んで迎えましょう。そして、それからもう一度意志しなおす。
私に何が見えたのか。
私は、人の本質を欲望するでしょう。意志的にそれを、正しいと叫び、欲しいと願う。だって、そうやってすることが
なければ、人は孤独です。孤独の中に失われていくとき、本当にそれを、耐えられますか。
忘却を埋め合わせるのでなければ、いったい記憶したことには何の存在的意味があるでしょうか。
自己の手綱を離してしまえば、犬たちは散らばって逃げて行ってしまう。手綱という「忘却の概念」を失えば、
記憶は自然な状態に戻る。そこに意味があるとすれば、その世界のほかに、より統御された世界が
存在しているということを指し示しており、意味がないとすれば、その世界のほかに、自己にとっての
対象として、受け取るべきものがないのであるということになる。つまり、忘却という概念を、
使うのかどうかということです。
孤独と癒しの合間には、感情という目安に従った、現象として理解運動をするべき、自己展開があります。
この、ゲームのような存在にとって、十分以上の、情報を、能力として選ぶべき、文化を作っていくことの
方へ、世界は傾いていくように思います。今はまだといっても、他との協力を可能にすること、そんなことを
見据えていった方が、世界の展開と関わって存在していくならば、それが社会的人間の心掛けであるように
思います。 いまこのまま生きようとするとき、どうできるかは論理的に決まってくる。いくつかの選択肢はあるが、現在の
状態から導き出せないことを、することは、非常に無駄な選択となる。もっと楽に生きられる、もっと成果の上がる
物事の行いかたがある。
文章をまとめる、思考する、会話する、なども、全ては、論理的に可能であることを、つなげていく場合にのみ、
それらの作業を行える。
思いつくことを現実的行動、思考に合わせよう、とするなら、その原理が論理性なのである。
文章とは、論理的なつながりを欠いているなら、でたらめな命題の羅列にしかならない。
思考の展開とは、一つの始まりから発して、それを使い尽くすまで、論理的に展開していくことだ。
それは、人工知能にとってかわられるだろう部分から成り立っているだろう。
人間が面白いのは、創造や、感情、思い込み、負けを逆転する、そういった行動へ、固執するからだ。
何か超優秀な機械が生まれるにしろ、それとは別に自己の能力を使うことに修練する成長は、
無くては生きがいがない。
風の音を聞く、心が騒ぐ、決心する、満足の中で夢を見る。
限界は普通であり、自己は穏やかだ。すると、限界を越えることのセオリーを信じている限り、自己は、苦難を
解決できる。現在の世界に対し、自らの内に世界を含んだ、と思うとき、自己は世界を超越しているということを、
確信する。論理を使える人、仏の内には宇宙が含まれているということを、どのようにかして、証明
できるだろう。
見えるものを踏み越え、意欲が与えてくれるあらゆる意志的な元気さを、良い方に向ける、心が良い風に向く、
自分は、何かの奴隷として存在しない。世界が世界であるゆえに、その世界が、唯一の自分の好敵手である。
世界に含まれる他人も、そうだ。そして、世界の中から切り出してきたキラキラ光る他人は、みんな好敵手だ。
決して私は度を越えて攻撃することはないが、いくつかの条件に対して、かかわりを持つという事を契約したのだ、
自分を紛らわせるつもりはないのである。
あまりにも長く間違いと関わっていた。関わりのないものは夢の中で吹き荒れた。行為の経験が生きることを
証明する。証明したことのみを知りうる。 自己の思考に多様性をもたらせたまえ、他人の思考へは合理性を >>892, >>895
ありがとうございます。参考にしています。 16 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 18:15:13.76 ID:0TuxZw580.net
競争 勝ち 負け
VHS対ベータ方式 ビクター連合 ソニー + SAMSUNG
パソコン IBM アップル + SAMSUNG
銀行 栃木銀行 足利銀行 + 北朝鮮
家電小売 ヤマダ電機 コジマ + LG
自動車 トヨタ 三菱 + HYUNDAI
自動車 トヨタ マツダ + HYUNDAI
自動車 トヨタ 日産 + HYUNDAI
231 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 19:36:00.83 ID:/Y7T48Dh0.net
>>16
余所の信用でも平気で使いつぶすからだろうな
136 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 18:57:30.74 ID:62i/HEwF0.net
>>16
戦争ですら韓国と組んだほうが負けてるからなぁ
18 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 18:16:03.80 ID:0TuxZw580.net
戦争 勝ち 負け
白村江の戦い 唐 日本 + 百済
文禄の役 明 日本 + 朝鮮
慶長の役 日本 明 + 朝鮮
明滅亡 清 明 + 朝鮮
日清戦争 日本 清 + 朝鮮
日露戦争 日本 露 + 朝鮮
シベリア出兵 ソ連 日本 + 朝鮮
大東亜戦争 アメリカ 日本 + 朝鮮
ベトナム戦争 ベトナム アメリカ + 韓国 言葉や視界という、純粋的な意味を与えることのできる存在。それは、勘によって当てられたとき、
やっと自己へ意味が渡される。勘と言っても、かなり長い時間探って、当てることを指す。自己の理解によって
自己が価値を帯び、意味が出来上がる。個別的特徴を工夫することに意味はあまりなさそうだ。
空想が終わると思えるならば、同時に、沈黙という状態に自分がなる。それは、能力が喪失されたと思ってはならない。
自己が意味を持つのは、それを含む世界に、いや、時間に、自己の存在を預け、ただ一つの統合された、
自分の独立性を真実と見るということを否定する時なのではないか。自己が空っぽであるとき、それは自己保存の業
を離れている。分裂を統合するという意識状態、思考状態の意味、価値は、他と自を区別する力から、離れている点にある。
自己と他は世界に於いて共有した接点を作り(地平の融合?)、孤独というものは独立的なものなのだと確信できるほどに、
本来的な揺るがない思考のようなもの、意識のようなもの、を、作り上げることを、自己がいいと、思える、それが
とても真理として見える。人間の精神的求道によって、他者を貶めるような欲望を、本当に持っていないのを自然と
されることになる。運命的な、人間。神を想定した、全てにおける善の到来。 文章を読むとき、「そこに書いてあること以外のこと」を考えるようにせよ。人生で現実になってしまったこと以外のことに、
考えを馳せよ。そうすると、すべてが少し救われた気分になるだろう。可能性とは、現実のみを導き出すために、
あるのではない。どうしても抜けられない条件が、知らないところへ、追いかけてきていない場所へ、そこを探し出し、
自分にとって正しく、望ましいことが何だったのか、何なのか、考えが強制することから抜け出ることで、
現実と非現実という反発しあうことに対し、自分の自由を確保しようとすることだ。意思の自由は、自分で
作り上げようとしなければ、訪れない。すべては、未来において、自分の過去で失敗したことを再挑戦するためにも、
その事実を、望んでいない失敗を、受け入れがたい現実を、それを敵と見て、そうではないものを、自分の身近に
呼び寄せるために、自分が嘘をつきたくないことへ、実現できなかったものと関わるために、
自分が無為に生きないために。これは違うと思うことを取り扱い、これが自分の夢だったと、思わなければ、
自分ではないと思ってしまうことのために。 >文章を読むとき、「そこに書いてあること以外のこと」を考えるようにせよ。
そこに書いてあること以外から書いてあることを浮かび上がらせよ。
書いてあることは主体であり、書いていないことを知ることではないはず。
読むだけでは書いてある意味やその表象しか読み取れない、書いたものが成立するという主体を大事にし
それ以外のそのものから書いたものそのものではなく、書いてある主体に魂をさずけよ。 物事を理解し知覚できる意味ではない、そのものの奥底に眠って隠れている本質を知り、
本質と本質の関係の理が「真実の中にある真理」を生み出す。
それは客観性の現実や物理法則ではない。 食堂、共同部屋などは、人が集まり共同に使う場所であり、顔を合わせたとき挨拶などをする必要はない。外では、
挨拶する。
私という存在の内部にも、食堂、共同部屋のような場所があり、そこでは様々な考えが集まってくる。だから、自己の中の
共同部屋では様々な話をするような思考をする。多様なものの共存する場所、これを作ることで、考えをスムーズに進め
られる。実験的な、創造性には、環境を整えることが、個人の思考の中においても大切になるはずだ。
場を改めて、礼儀を行う思考においては、それなりのスムーズな緊張感を持ちつつ、冷静に、公共的にならなければ
ならない。関係に合った言葉、思考、態度を持つことだ。
いずれにせよ、公共の場というものには、様々な個人が集まるので、それで共存するという意識を持つのが大切である。
礼があればスムーズである。安心を作ることが、個人的なものの働きを良くするために必要だ。そのような、エチケット
について、知っていくことも、大切である。
人同士の、表面的な争いには、まさに本質的でない思考になってしまうことがままある。表面的と言えど、そこには
それなりの難しさがあり、それを守ることに慣れることも、大切である。そして、自分自身についてそのアナロジーを
思い浮かべ、そして実行するならば、心が平安になるような、一つの共同性に、自分は貢献するのであると
いうことになり、その私的と公的の二種の交わりについて、本質的な思考を運ぶ舟となって、個人的な
創造性の場を用意できることになる。
ジャッジメントの基礎となる公共性(思考と行動の両方において)はそのように持たれるべきであると思える。
迷いを抜けることが大切なのだ。 つまり、哲学においては自と他の問題は、まさに存在するし、その他の学問においても、自説と他説、
あれとこれ、知と無知の間の運動、それらを扱うために、自分の意識の整え方は、重要になってくる。
何を意識するかということには、意味がある。考えとは、整然としたものではない。 つまり、時間的制約が、思考には必ず存在しているから、自己と他者の関係は、思考を作る上において、
時間の中でかかわり合うものである、と言える。様々な要因に洗われて、何らかの真理が生まれてくるのであろう。
先について何を残そうとするか、自己の満足や、正しさが、その意見に、ついて回り、過去をどう清算するか、
それについての判断は、やはり他者についての感覚と、結びつている。 >実験的な、創造性には、環境を整えることが、個人の思考の中においても大切になるはずだ。
常識という環境を整えるのか、それとも非常識の環境か、
創造において無難な創造と、キテレツな創造があるはずだ。
それぞれが入れ替わることはまずありえない、それが選択というやつ、 >過去をどう清算するか、
過ちを犯した認識ならば、断罪か、贖罪か、そのこと自体の認識の否定か、
歩んできたことが無意味なら、忘れて無からの始まりか、過去の積み重ね完成か、
過去を飛躍して次元を超えた別な創造か?
人として人(自分)とは何かを定義せよ、そんなもの誰か任せではない本人の選択だ、
人の定義、その認識があってこその始まりであり清算である、あいまいにできるものではない。 >時間的制約が
時間は過去の繰り返しではない、過去があって現在があっても現在があって過去があるのは決してつりあわない、
時間とは変貌し状態がより複雑化(エントロピー増大の法則)してゆく過程だ、
関係が結ばれることは未来に進むことで、それが過去に向かって関係を結ぶなど絶対にない。
時間は「変化」する、過去で意味をなしても未来では同一ではない。
過ぎ去ったことは過去と切り離すのではなく、情報の創造で未来へ繋げる、それが正しい時間の進み方だ。
過去を大事にするならば、それ以上に未来を大事にするべき。
未来なき過去などそれは知的障害の愚か者の選択だ。 >哲学においては自と他の問題は、まさに存在するし
自と他を含めて自となすことも哲学での存在問題である。
他は無限に続くわけではなく、自と他が関係を持ちえる有限の関係である。
それは否定できるわけがない、無限に関係できる意味のある存在には命はない。
自と他をあわせ新たな創造につなげること、1つの創造に感謝する姿勢をもて。 >>909
あなたは1つの創造に感謝します。私はその態度を解釈します。私の知識から言います。
あなたを世界の下に連れて行ってくれて、世界からもてなされる土台を作ってくれる。これが他者の存在です。
そしたらあなたは、世界をあなたの下に連れて行って、あなたは世界をもてなします。これが、あなたの
感謝の気持ちの実施でしょう。ホストとゲスト、運行者この三つのかかわり、その三者の正体が、
あなたと世界、そして他者であるでしょう。もてなす気持ちを持つ者こそ素晴らしいのであって、
もてなすことが平和と満足の源泉であって、世界を読み、自己を読み、他者を読むこと、
そのように、読まれたものたちの間に、理解が生じ、結果としては、世界理解、他者理解、自分理解、
そして、理解の先に持つ創造、それらはみな、大切にしなければならないし、簡単に切って捨てるわけには
いかないのです。態度に見えるからといって冷淡ではない、温度のある存在として、生きている間で、
交遊の安心があり、それが人を安らげるものであるわけです。
例えば、あなたは、子供のころ人の間の関係のカッコよさにあこがれはしませんでしたか。世界が広くて、
神秘的である、そう思ったでしょう。そう思ったからには、それを実践しなければならない、
私の心は、そのようなことを生きよと、確かに言っているような気がします。 何かを「待つ」ということを、実践していれば、何も怖くはない。約束で用事を待ち、良いことを待ち、変化を待つ。
待つことが出来なければ、いたずらにごまかすことになる。何を待つか、待つ必要があるのか。
座禅では、呼吸の吐き吸いを、待つのである。
日常的に小さなことを待ち、死の際にあれば、死を待つ。待つということが、一番難しい思考、行為である。
人との話し合いがうまくいかないのも、あせって話を進めるからだろう。待って、話をすれば、
会話に習熟できるのではないか。そうした場合、相手に待ってもらうことになるが、その間(ま)においては、
不器用な人間もいるのであるから、自分の状態をごまかし焦らず、待つことで、嘘やごまかしをしないのだ
という程度のことを信じてもらい、感じてもらい、結局最後には自分自身が劣っているというような気持ちになることを、
なぜかできなかったことを、人に謝って自分がしょんぼりしてしまうこともないのではないか。 >座禅では、呼吸の吐き吸いを、待つのである。
座禅では呼吸の吐き、吸いでバランス能力を磨くのである。
それは平均を取るのではない、微動せず一定に保ち続ける難しさを通す精神集中こそが
バランスを磨くことではなく、平均を取ることでもない。
心は揺らぐもの、無想につけば心は自然とゆれる、これを集中することで一定に集中しつづける
でなければ力を失いバランスを失った体は揺れ始める。
何事も活きる活かすにあたってはバランス集中こそ重要な根源の土台である。
世界という物事を感じ、それを調和を取り、世界を活かすことこそ世界と1つになる感謝の修行である。
という夢をみた >>912
自分のごく間近のところの空間に、意識を持て。近いところ、自分のテリトリー。時間も、近くの時間を待つ。
未来が何度もやってくる。短い時間の先の未来を待つことが、手始めである。
ごく間近のテリトリーを自分のものとしたら、次にはバランスをとることで、拡張した範囲の物事、空間をテリトリー化
できる。
意識の乱れには、邪念、雑念が、表れる。つまり、自分の信念が、正直な、だが愚かな心、悪い心が自らの内では、
潜在化していたということがはっきりする。それを消すことは難しい。だが、修行するということは、それらの、あらわすことが
悪いとされる邪念、それを、あなたの言うようなバランス行為によって、消すことが出来る。変わらない
ものもあるのであるが、それは消せないものでもある。であるから、先へ進む、進まねばならない、
自らの存在を「活かす」未来、それを待つことが出来れば、邪念は静まり、効果を現すまでの大きさでは
なくなる。そのように、完全な悟りに、まったく変わった状態に、至ろうとするのではなく、人間の根源的な
溢れるほどの思考をもたらす先天的能力、それらの自然な活かし方によって、自らの不幸と苦しみを、乗り越えた
状態になれる、そんなことが、現在の悟りについての考えである。
僕の現在の悟りに関わった、関心事は、他人の間でうまくやっていくことを、妨げる偏見、邪念、
生きる上での、世界の中での存在のあり方が、壊れてしまい、生きていくことが難しくなってしまうほどに
困窮している状態、それらをどう処理していくべきか、という対処法である。必要であるから来る要請、それらを
ごまかすことが、非常に悪いことである、そういう意識に向かわなければ、人間は、善の存在として認められない。
そんな、悪いものとして考えるような存在が、理想であるはずはない。けなしあいの中に、身をひたしてそのまま
人生を終わること、それは悲しい。最上を感覚、想起したのであれば、それが仏性なのであろう。 人を拒絶する気持ちを持ってもいいのである。距離感はそうして生まれる。人に対しての混乱した自分の気持ちは
整理される。常識的。
拒絶することを、知っていなければ、人の存在と、意思に、自分はずっと左右され続けることになる。
拒絶することは、ただのやり方にすぎないのであって、それで世界が崩れてしまったり、人が遠のいていったり
といったことはおこらない。それは、自然な意味としてだけ存在し、距離感は人を楽にするのである。
もともと、自分の幻想以外に自己が意識して自己を考えている実態はないのである。
人を許せないと思うのは、その人に甘えているからなのだ。別に恥ずかしいことではない。
だから僕は、大人として、生きられるのだ。自由とは、人を拒絶することから生まれる。
拒絶したものが考えたり話したりすることに、正直さや、気使いを、ねだったりする必要を感じはしない。
なぜなら、自分は他人のものなんかではないからだ。 一般性から話を始めたい。一般性への信仰が、著しく認められる。人とやり取りするとき、一般性を共有
していなければ、コミュニケーションが成り立たないであろう。例えば数学の問題に取り組むとき、ああ、
さっぱりわからない、と思い、答えを見ると、なるほどと思い、分からなかった自分を、その答えのプロセスに合わせ
考えを訂正する。だが待ってほしい。一般性の獲得に、意味があるにせよ、間違ってしまった自分の考え
というものを、捨ててはいけない。かっこ悪い自分、間違った自分、それらを捨てる理由は何もない。むしろ、
そういったものを頭に刻み込み、自分なりに感じたことなのであるから、自分らしいと思うべきである。
ショッピングモールに行ったとき、他人の顔が気になる。人からにらまれている、何か失礼なことをしていないか、
そういって、100メートルほど進む間にもう青息吐息である。そうだ、私は間違っている、何かを。どこか変だ。
その答えとして、信仰の置き所が違っていたのだ。思考の最高形態が信仰である。例えば本屋では本が
ずらっと並んでいる。それらの本の題名を見ていくことが楽しいと思おう。そのためには、本の背表紙に
信仰を置かなければならない。この世界。人の顔など気にする必要はない。地面を見つめ、地面への
信仰を持てばよい。このように、人間は思考において、信仰によって働きを持つ。
エントロピーの法則によると、複雑性は増加する。どんどん複雑に、エネルギー(仕事をする能力の量)が低く、
世界は悪くなっていく。信仰とは、複雑ではないのである。単純だ。そしてパワーを与える。そして、信仰は、
人間の行為の中で最も個人的でなければならないだろう。信仰行為には、一般性は必要がないのではないかと
私には思える。何をするにしても、自分があるだけであり、他人が肩代わりをすることはできない。
少し暗い話になるが、冷酷な死、望まざる死、例えば死刑によって死ぬ場合、つらくて悲しいだろう。その苦痛は、
あまりにも大きい。誰だって、温かく、穏やかで、明るい心許せる人の間で死んでいくことが、死を受け入れるためには
必要なのである。アカギは、友の間にあって、死んでいったから、その死が安らかだったのだ。孤独な死を迎える
とするならば、人ではないものに置いた信仰の中で死ぬのである。最終的救済。 つかむのではない、つかんでもらうのだ、
もとめるのではない、もとめてもらうのだ、
信じるのではない、信じてもらうのだ、
それが超えられない先にあるものへの立ち向かい方。
たどり着ける類に対しては掴み、求め、努力し、理性をもって理解し、
超えられないものと超える必要のない世界は区別したほうがいい。
意味の世界に住む住人が安易に意味の世界を超えてはいけない、その存在を
知るのはいいが、対価が必要だ、鋼の錬金術師のように禁忌に触れると体を奪われるだけ、
力の使い方を知るのはいいが、使ってはいけない、何を引き換えに結果が生まれるか
わからないからこそ超えられない壁の向こう側だ。
もののけ姫の神は、生を与えてくれる、しかし同時に死も与える、人がつかってはいけない神の力とは
そういう類である。 人の気持ちや、物事のあり方、それらを推測して、その推測は、正しいか間違っているかどちらかである。自然科学的。
やればわかる。本能からの逸脱がギャンブルである。問題がない状態に近づけ、推測のギャンブルの結果、つまり
真実を知り、答え合わせをする。そうしたことが、基本的である。文章の理解の仕方が完璧であるはずはない。
間違いは、あとで機会があれば訂正できる。だから、推測を恐れず、自分のしたいようにする。他人に
迷惑をかけないように。つまり、問題が存在するのかどうか、と、推測の正誤に関する結果、その二つを知るよう心がける。
自分が自由であるとは、好きに推測を立てられること、問題をしっかり理解すること、答えに怯えないこと、
それらが決めることであると思う。勇気、しっかりとすること、問題の存在に敏感であること、これらを心掛け、
勇気を奮い立たせることである。自分は、決して、おかしなことをしないぞ、と心に決めなければいけない。 正しい調和、正しい対称性、正しい感謝、
正しければ大いなる秩序の力が生じる、それは主体の力ではなく自然そのものの力だ
世界が祝福してる力こそ、その表現する世界の大きさが、そのまま力に生まれ変わる。
間違いであれば混沌の力が生まれる、個の意志は秩序の力より混沌の力を簡単に利用
してしまう。
不自然な力に注意せよ。 >>918
正しくない力はいっぱいあるからな。自然にまかせるってのはいい判断だ。自分が自然でいいんだし、
それが当り前さ。騙されんなよ、人間はこぇーぞ。生き延びて乾杯交わそうぜ。 文章や音楽の意味についてピントが合い、自然に意味が分かるようになるのが本来。記憶や実在感も、
そのような機構に従う。 我々は、現れているものを見ている。だが、私自身が現れているとはどのようなことなのか。我々は、現れている私を
見ているのか。おそらくそんなことはないだろう。私が現れているとは、時間を必要とし、それゆえその要求を呑んで
時間が表れる。時間は、自己の現象そのものであり、つまり自己の現象というものは、そのすべてが時間なのである。
時間の私性というものは、世界の拡張を可能にする。そのように、私の特異さは時間であり、現象は時間的に発展される
ものだということになる。
いったん、人間としての私を離れ、世界の各物について、考えよう。各物が、関わり合う力において、私性が各物に宿る。
すなわち、観測は人間だけがするものではなく、各物が、存在という形で観測を行う。つまり人間は、法則的力をもつ
物体に還元されると言えよう。クオリアは自己の自己へのかかわり方、として定義されるだろう。そのときクオリアは、
内閉的であり、結局モノ自体と同じことになる。存在が各物に帰されるとき、存在物はただのモノ自体ではなくなる。
つまり延長は内包に特徴づけられる、と簡単に説明されるとおり、続きと断絶が、物に変わる。
というわけで、時間と物と私が、現象を特徴づけ、決して人間の観測のみが特別なのではないということを見てきた。
つまり、時間は人間が意識し、その次に人間は思考に目覚めることにより、人間性を納得し、その次に各物が
世界を構成しているという風になる、と時間観を説明できる。その結果、人間の幻想性を特徴づけている
現象が、幻想的に唯一を表すこと、つまりアイデンティティが物、さらに人間にも、与えられるような、世界の
法則が、真理であると思われるのであった。付言すれば、「一」が分かたれないということなのである。
アイデンティティが、一を作っている。その解体は、行われ得る。 感じるんだよ、理屈ではない、空気を読むってこと、
そして空気を読んで理解するのではない、空気を読んで空気を作る、
空気が作れないのに空気を読んでも意味などない、 記憶に残っていることについて、過去に起こったことと認識するには、それは過去にあったことだという意味付けをして、
信じなければならない。全てのことについて、その物事を意味付けして信じなければ、意味が生まれない。失われて
しまった認識を、再生しよう。まだわかりにくいか。例えば、人と話をすることがあったとする。あとで振り返って、ああ、
僕は人と話をしたな、という人生における物事のある経験をしたのだ、と感じる。同様に、言葉を意味づけ、信仰すること
によって、はじめて言語を使うことが可能になる。つまりそれは、個人の信仰のあり様が、別々であり、無意味に
落とし込まれないような、自由が個人に本来的にあるということだ。個人の信仰は、他者が否定できないものだ。
否定しようとされても屈してはならない。そのように、個人は尊重を持たれることになる。恐らく、言葉などはどうでも
いいものなのだろう。真理を知るとは、言葉にできなくとも起こりうる。言葉以上の存在に信仰によって至れるのだ。 真理は永久不変ではない、どんな変貌でも矛盾でも抱擁できる根源的な真理を
否定しているわけではなく、個々の対象に対する真理だ。 >>924
僕の記憶は、整理されておらず、頼れません。そんな状態で、「しがみつく」ようなもの、それが、脳内で再生
できる、音楽です。友達は裏切らない、裏切られない自分自信を考えて変わってこそ、友達にふさわしい、
内部の音楽は全て再生できなければならない。知らぬものが友であるはずがない、とてもよく知っているならば、
最初も最後も僕の記憶が確かならば、いつまでも友達、僕自身の忘却、忘れてしまっても友達、
僕自身の安楽、真理は友達。最後まで。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。