科学は人類に幸福をもたらした? [無断転載禁止]©2ch.net
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科学が進歩したことによって確かに便利になったところはたくさんある。でもそのせいで仕事の量が増え、過労死や過労自殺が出てきてしまった。様々な交通機関が発達したが、そのせいで運動する機会が少なくなり、現代の人々の運動能力は平均的にみると低下している。 他にも様々な例があるとは思うが、総合的に見て科学は人類に幸福をもらしたのか? >>2
理想の元に理想を成し遂げ笑って死んでいった短命の奴を
不幸というならば、
科学はただ生かされているだけの長寿を生み出した、
生きているだけの長寿がもっとも幸福だと説明するからだ >他にも様々な例があるとは思うが、総合的に見て科学は人類に幸福をもらしたのか?
人類の幸福を総合的に見る方法があるなら是非教えてください >>1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20
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>>81,82,83,84,85,86,87,88,89,90,91,92,93,94,95,96,97,98,99,100 >>1
18世紀以前はそんなの無かったんですよ♪
人々は原点に戻らなければいけませんね。(☆∀☆) 科学の地球も主観的に綺麗で客観的に美しいけど。禅の方が 哲学よりは。 仁がいつでも先陣
医は後方支援で餓死が多い
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ここで登録方法が説明されてます。 「自分自身が平安である人は、自分のまわりのものすべてに平安を認めます。
本質は美であり、真理であり、平安です。人はそれを醜いものとして、間違ったもの、暴力的なものとして捉えます。
…それだけのことです」
「幸福な人生を送るには、心の平安が必要です。人間の心は荒れ狂うガンジス河に似ています。
心はディヤーナ(瞑想)のような歯止めとなるものを効かせて抑制しなければなりません。ディヤーナとは一点集中です。
心の動揺が人類にあらゆる不幸をもたらすのです。穏やかで健全な人生を送るためには、心の平安を培わねばなりません」
「徳高い道に沿って考え、話し、行動するなら、人の意識は純粋となり、内なる平安を抱きます。
知識は力である、と言われますが、美徳は平安です」 「快適であるということと平安であるということが混同されています。
快適さは平安と同じものであると受け取られています。富む者、地位ある者、富豪や権力者は誰も平安を得ていません。
それが真実であることは調べればわかります。平安は、銀行の通帳や部屋数の多い家、倉庫や鉄の金庫の中に見出されはしません。
あなた方の態度はすべてあべこべのものとなっています。それは馬の前に荷車をつないでしまうのと同じ程滑稽なことです。
物質的なことは霊性のあとについてくるものです。心が馬であるのに、それが顧みられておらず、旅に備えて訓練されていないのです」
「単に憎しみを取り除いただけではアーナンダ(平安)を確実にすることはできません。愛をもまた、培わねばなりません」
「シャンティ(平安)は神の特性です。根気と忍耐と寛容をもって正しい
霊性の道に従う者のみが平安を得ることができます」 今の物質文明で心の平安を得ることは難しい
今の社会は過剰社会と言えます
満たしても満たしても満たされない
物質文明(科学文明)に生きてると人の心は病んでいきます 宗教の創始者たち(イエス、ブッダ、老子)は、
宇宙の本質とは何か、
精神的な本質とは何か、
現実の本質とは何かについては、
それぞれ独自の考えをもっていて
相いれなかった。
しかし、道徳的な教えに関しては、
彼ら全員が一致している。
たとえば、物質的な富の追求は
間違った目的であるという解釈である。
また、没我性と他者への愛を持つことこそが、
人生における幸せと成功の鍵であると
口をそろえていっている 貧乏とは何か?
レオナルド ダ ヴィンチ
私を軽蔑するな 私は貧乏ではないからな
やたらに沢山の物を欲しがる者こそ貧乏なのだ
http://kotoba.ti-da.net/e801301.html 貧乏とは物質的に金銭的に足りてない者のことではなく
何でも欲しがる者のこと
つまり心が貧しい者のこと 貧乏でも満足している人間は金持ち、それも非常な金持ちです。
だが、金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人間は、
冬枯れのようなものです。
シェイクスピア著 『オセロー』 生活に“必要なもの”が揃っていれば、それは“金持ち”です。
しかし、それ以上の“快適なもの”を揃えている大金持ちが他にいると、とたんに “貧しい者”になってしまいます。
資本原理主義の中では、生活に“必要以上”のものを持って初めて“庶民”であり、
“必要過剰なもの”を持って初めて、“金持ち”になります。
搾取する側とされる側、気味の悪い勝ち負けが明確に色分けされた
場所で、自分の個性や判断力を埋没させている姿に貧しさは漂うのである。 実際これからの時代は、“勝ち組”“負け組”の二極化が進み、勝ち組は共食いを始め、
負け組は自殺者が急増するという予想もされています。
年収3000万円以上、資産1億円以上あって、初めて“中流”“小金持ち”とみなされるようです。
日本の平均年収約700万円、
その弱肉強食の社会では、我利我利(ガリガリ)と他との競争で勝つことだけが美徳とされ、共利共存の“弱きをたすけ”という情けを持つ余裕すら許されないでしょう。
そして必要以上のものを求めて、今の自分を必要以下に見てしまうところに、“心の貧しさ”はやってきます。 貧しい人ほど、外見や容器や量ばかり気にして、肝心の“中身”に意識が向きません。
某テレビで“幸せ”について語っている某占い師の身につけた何百万円もする装飾品の数々は、逆にその寂しさと貧しさを語っている気がします。
大切なこととは、自分にとって必要なものが何であって、今、苦しくとも自分を楽しませる気持ちがあるか? だと思うのです。
1000円、100万、1000万、10億、100億、1000億円…。
いったいいくらあれば、人は必要量を満たし満足するのでしょうか? 「10億円くらいあれば“ラク”に暮らせるだろう」…、何のために“ラク”である必要があるのか?
本来ならば、10億円投資しなければ達成できない“夢”があって、初めて設けることのできる基準のはずです。
“楽しい”人生と“ラク”な人生の間には、 “死ぬほど生きる”と“死んだように生きる”くらい、かなりおおきな差があります。
年収も、偏差値も、環境も、外見も、結婚相手も、将来も、子供も、“平均”以上でなければ庶民にもなれないという考え方こそ、
“貧しい”ことだと思うのです。
不足感故の、見栄という名の満足の“虚構”…。 私の思う“豊かさ”の基準は、
「好きな時に、好きなことを、好きなだけ行える自分」があることです。
金がない、自信がない、好きなことがない…そう思い込むとき、本当に自分が貧しく感じます。
なぜなら、お金も自信も好きなことも、実は自分で創り出せるものであるからです。
たとえ状況を変えることができなくとも、「〜だからダメ」ではなく、
「〜だからこそ」と、自分の心の状態を楽しませることはできるのです。 お金を持っているからといって偉いわけじゃない、お金の遣い方を知っている人、
その品格・態度を持っている人が偉いと思います。
豊かさとは、人と比べた相対的なものでなく、自分の中にある“絶対的”なもので決まります ロンドン在住、元国連職員の著者が見た
「日本は世界で"かわいそうな国"だと思われている」衝撃の現実。
若者の自殺、「社畜」的働き方、「人付き合い地獄」の社会、
「みんなで不幸になろう」という足の引っ張り合い、
グローバルな人材なんて育つはずもないおかしな教育、何でも人任せで自分で考えない「クレクレ詐欺」。
空気を読み過ぎて「セルフ洗脳」に陥る日本人たち。
こんな日本人の「貧しさ」を、世界の現実と対比させながら問いかける。
『自分が日本でかかっていた洗脳。
競争しなくてはいけない、
家族や友より仕事、進歩は偉い、田舎はださい、自販機とコンビニは重要、電車とバスは定時でなければいけない、
痩せてなければいけない、
群れなければいけない、流行は追わないといけない。どれも自分を不幸にしていた。』 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています