観測とは、ActiveであろうとPassiveであろうと「接続」であって干渉する。
観測することは世界と世界の接続であり、組み合わせの世界が広がる。

「可能性がある」ということと「可能性がない」ということで接合したり分離したり。
そうやって世界がくっついたりはなれたりする。(ただし可能性の世界)

量子計算とは「可能性の計算」なのである。
おそらくこれこそが「哲学計算」なのだろう。
括弧にいれて先送りして、後で回収すれば「現象学計算」になるw
回収できなければバックトラックすればよい。
量子計算ならバックトラックする必要もなく、最初からもつれとして仕込まれる。

哲学すべき量子計算の問題とは、つじつまはなぜ合うのか/合わねばならないということであり、
それは「調停機構」か?
「わたし」と対象の間での「調停」は、「時空間」を生むことで矛盾を回避している。

「概念」とは「調停」の産物であり、「実在」も「調停」の産物である。
つまり、「哲学」とは「調停」あるいは「調停」の産物を探究するものである。
(Caution:「哲学」と「哲学という学問」を混同しないこと)