ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 20 [無断転載禁止]©2ch.net
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ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 19
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単著
『ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性』 木田元・財津理訳 朝日出版社:エピステーメー叢書、1980
『経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論』 河出書房新社、2000
『ニーチェと哲学』 足立和浩訳、国文社、1974
『ニーチェと哲学』 江川隆男訳、河出文庫、2008
『カントの批判哲学』 中島盛夫訳 法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1984
『カントの批判哲学』 国分功一郎訳 ちくま学芸文庫、2008
『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『ニーチェ』湯浅博雄訳 朝日出版社、1985/ちくま学芸文庫、1998
『ベルクソンの哲学』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 晶文社、1973
原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ 原田佳彦・丹生谷貴志訳 哲学書房 1986
『差異について』 平井啓之訳 青土社 1989、改訂1992.2000
『スピノザと表現の問題』工藤喜作ほか訳 法政大学出版局、1991
『意味の論理学』 岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987
『意味の論理学』 小泉義之訳、河出文庫上下、2007
『対話』 河出書房新社
『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳 平凡社 1994/平凡社ライブラリー 2002 >>394
いや、本家は本気ですよ。彼らは理性や合理性や道徳モラルでがんじがらめ
になり、身動き取れなくなった世界を変えようとしていたのだから。
バタイユは戦前、無頭人という結社をクロソウスキー、カイヨワ、アンドレ・
マッソンらと作り、集会では動物を殺傷する儀式を執り行っていたと言われている
。会報も出しており、頭部がなく、右手に火を吹く心臓、左手に剣、腹部は切り裂
かれて内臓が視えている、そういう絵をマッソンが描いていた。
人間にも同じことをやる予定があったとされている。 >>307
それが事実なら、バタイユって、ただの妄想癖のバカじゃないかw
社会が変わる根拠なんか、完全にゼロなんだから。
人間にやってたら、猟奇殺人だね。
ハイデガーとD=Gは? それって単なる自閉症児的なヒステリーによる防衛機構だろ 307続き
無頭人の表紙 アンドレ・マッソンによる
https://pbs.twimg.com/media/DA0bXBlUMAAqTI7.jpg
それからハイデッガーは1930年代前半ナチスに期待し、加担した後、徐々に自分の思って
いた思想とは食い違っていることに気づいて行く。人間を合理的に改良し、淘汰し、世界の
主人とし、審美的に製作するという思想であることに気づいて行った。また、計画的に自然を
搾取し、人間にその役割を負わせ、できない者は淘汰していく集-立の一種としてアメリカニ
ズムや共産主義とも同類であることに気づいて行く。
その後、逸脱し没落する、存在喪失の中で神と突発的に交感し、拒絶を開蔵する超-存在
を追究するようになり生前未公開の覚書に書き始める。
フーコーもまた、バタイユにおける侵犯行為の概念を称揚している。フーコーはガリマール
から出たバタイユ全集の序言まで引き受けている
先入観で片付けず、色々読んでみた方が良い。 >>310
D=Gはいうまでもなくだけど、結局ハイデガーも、他人頼みでなにもしなかったということ?
フーコーはサービス精神旺盛だから、帯でも序言でも誉めまくるだろw
監獄闘争とかもバカみたいだし。
いろいろ読むにしても、もう少しまともな人の本を読みたいな。 310続き
ちなみに何故無頭人かといえば、頭部のない人間でなければ合理性と計画性でがんじがらめ
になった社会を変えることはできないという発想らしい。
バタイユは中国の処刑である百刻みの刑の写真が好きで愛好していた。これは罪人の
死刑の方法で、アヘンをかがせ、無感覚にした上で磔にし、公衆の面前で手や足をのこ
ぎりで切って行く、あるいは腹部や胸の肉を切り取って行くというものだ。↓
http://1.bp.blogspot.com/_-M5PyYHH2kk/SQHMXrpj0pI/AAAAAAAAAws/cfGZZbwfNrg/w1200-h630-p-k-no-nu/fou.jpg
ちなみに生前の三島由紀夫はバタイユを、「西欧で一人だけあげるとしたらバタイユです
ね」と死の一週間前のインタビューで語っている。 >>312
ただの残虐趣味じゃないw
少なくとも、なにかをした、ことにはならないよ。
口だけでなにもしなかった、というのが、バタイユ、ハイデッガー、D=Gの共通するところってこと? >>309
>単なる自閉症児的なヒステリーによる防衛機構
それは何?wあんたはD=Gなど止めていんちき精神医学でも論じてなさいな。その方が
向いてる。
>>311
酒鬼薔薇のようなことを誰でもやれるわけではない。やれば一生棒に振るわけだから。
だがああいった行為の意味を真価を、TVコメンテーターのデマゴギーに任せず、書いて行く
ことは思想にしかできない。もっとも彼らの思想に触れても、それと酒鬼薔薇とどういう関係が
あるのか一向に視えないとしたらどうしようもないわけだが。
>>311
>まともな人
「まともな人」を標榜する人間などろくなものじゃなかろうにw変態標榜の方がまだ救いがある
ぞw >>314
Dは精神医学者ですらないけど、Gは「いんちき精神医学」者じゃないの?
酒鬼薔薇のような行為の意味に「真価」なんかあるの?
異常者の幼稚な残酷趣味だと思うけど?
たとえば3人の「思想」と「酒鬼薔薇とどういう関係があるの」?
「まともな人」を標榜する人がそういるとは思えないけど、他者からはまともに見える人は多いよ?
「変態標榜」のどこに「救い」があるの? >>313
何何?w結局行為したら残虐行為で、やらなければ「口だけ」ってwただ悪口言いたい
だけかw一体どっちが良いのだね。
残虐行為であってもそこに人間にたいする研讃と知が重なっているならば、それはただの
残虐行為ではない。バタイユは人間における禁止と侵犯の関係について延々と書いており、
ガリマールから全集として出ている。読めば禁止を破る瞬間というのが理性的個体性を
解体する瞬間と同義として考えられている。それを延々と未開の儀式などを出しながら
論じて行く。
それらを辿れば人間にとっての近代と閉塞を如何にして破るのかと云う思考がみえる。
それと、人間にとっての禁忌と侵犯性にどういう意味を与えれば良いのかという問いへ
重要な寄与をしている。
バタイユだけじゃないが、現代思想がどういう発想をしてきたか、闘い方をしてきたか、
参考になる。まあ読んでもすぐには解読はできないだろうがね。
ちなみにバタイユへは三島由紀夫からリスペクトをしており、また澁澤龍彦がやはり
翻訳で頑張っていた。70年代には吉本隆明がやはりリスペクトを表している。
面白いところでは渡欧時代の岡本太郎が親しくしており、だが岡本は「一緒にいると
バタイユに思想で支配されてしまう」ことを恐れて離れた、としている。バタイユをめぐる
状況はとにかく面白い。 >>315
それは>>310にハイデガーの場合として書いてある。存在忘却が進行し、忘却さえ忘却された
時点までいったとき、突発的に神との交感が傍過し、人々をして驚愕させ、畏怖させ、慎みを
させまた絶望させる出来事が生起する。それは大衆を絶望させるが、深くまで思索するもの
はそうではない。それは超-存在として深淵から訪れる没落、犠牲となる逸脱の行為である。
酒鬼薔薇は何度も言うように「私を透明な存在にした学校社会への積年の怨み」を
書いている。これは学校社会で存在を、言い換えれば自分の本来性への問いを場所を
喪失したと言っているので、きわめてハイデッガー的なと云う問いかけだと言える。また、
ハイデッガー的な問いに直結する犯行声明だと言える。
まあハイデッガーなど読んだこともないのだろうから難しいだろうが、関係は非常に
強い。元々酒鬼薔薇は読書家で埴谷雄高もどうもあの年で読んでいた形跡がある。
あんたやここの住人よりも読書はしていただろう。あの犯行声明にもその跡は視える。
>他者からはまともに見える人は多いよ? 「変態標榜」のどこに「救い」があるの?
まともに見える人間がsexで何をしている?w夢中でヨダレたらしておまんこに肉棒突っ立
てて喘ぎ、或いはちんちんに跨り体を夢中で振り、体液をたらし或いは注ぎ込み、しかも行為
が終われば素知らぬ顔になる。で、sexしない人間などこの世にはいない。変態性とはsex行為
自体にある、してない瞬間からみれば全部変態的だ。
あんたは童貞かね?w >>316
どっちもダメだろw
「人間にたいする研讃と知が重なって」いようがいるまいが、残虐行為は唾棄されるべきこと。
人間なんだから。
どんな理屈をつけても、肯定される要素などないよ。
「現代思想」なるものがどういう発想で闘おうが、残虐性を持っていれば、人間にとっての害悪でしかない。
三島や渋沢や吉本や岡本がなにを言おうと、それは変わらない。
残虐性を崇拝したりカブレたりする方が、悪であり愚かなのだ。 >>317
酒鬼薔薇のようなただの異常者にカブレる君も、頭がおかしいのか、自分の残虐性を肯定したいだけなのかのどちらかだろう。
ハイデガーを読んだ人間は残虐になる、とでもいいたいのか?
犯行声明が「ハイデッガー的な問いに直結する」と主張するなら、ハイデガー自体が、くだらない思想家だといっているに過ぎない。
>学校社会で存在を、言い換えれば自分の本来性への問いを場所を喪失したと言っている
「自分の本来性」などという、無意味な設定に振り回されているのは、犯人じゃなくて君の方かもしれない。
殺人犯がどんな本を読んでいようと、正しさの証明にはまったくならないw
>変態性とはsex行為自体にある、してない瞬間からみれば全部変態的だ。
ここまでくると、「まともな」人間の思考じゃないなw
人間が性行為をすることで人間は生まれ、人間の歴史が積み上げられる。
それが、なぜ「変態」なんだ?
ものすごく「まともな」人間の行為だぞ?w ちょっと忘れていたが。バタイユをリスペクトする思想家にはジャック・デリダも含まれている。
デリダの初期の論文集『エクリチュールと差異』にはバタイユを素材にした「限定経済学から
一般経済学へ」が含まれている。
バタイユに向けた論文やバタイユ未発表論文や討論を集めた『バタイユの世界』(青土社)
にはデリダ、フーコーの他、アレクサンドル・コジェーヴ、フィリップ・ソレルス、ミシェル・レリス、
ピエール・クロソウスキーその他のバタイユを素材にした論文が収められている。いずれも
バタイユがフランスで如何に注目されていたか、多大な刺激を与えていたかを物語っている。
また、サルトルはバタイユを批判してもいるが、同時代の大きな存在としてやはり
一目置いていた。上掲書にはサルトルが同席した討論の記録「罪について」(1944年)が
収録されている。
日本で最もバタイユに早くから注目していたのは作家では三島由紀夫がいる。死の一週間
前のインタビューでもわざわざバタイユの理論を簡潔に紹介し、共感を見せている。その
一週間後に三島は百刻みの刑よろしく自らの腹を切り裂き、腸を50cmもはみ出させ、
首を切り落とさせた。 >>320
どんな表現者にもカブレる奴はいる、の一言で片付くね。
ハイデガーやドゥルーズにカブレる奴もいることだし。 さらに続ければ、フランスでのバタイユとの僚友としてモーリス・ブランショがいる。
日本人では三島の他に岡本太郎がいるが、岡本が太陽にこだわり続けたり、形式や伝統
にたいし闘争心を終生燃やした背景に、絶えず内部で炎の生成と消滅と爆発を繰り返す太陽
に執着したバタイユがあることは想像できる。岡本の例の「芸術は、爆発だ」も元はと言えば
バタイユの影響だろう。 誰それが誰それを崇拝しているから、崇拝された人間は正しい、ということがほんの少しでもいえるなら、習もトランプも安倍もそして金正恩も、完全に正しいことになる。
習もトランプも少なくとも数億人が、安倍は数千万人が、そして金正恩でさえ数百万人が支持している。
崇拝している人間も、その1割はいるだろうw
もちろん、その中には知識人、芸術家が多数いる。 >>319
「異常者」というのはまた単純なwでは今現在は一般人に交じって生活しているという彼は
「異常」なのか、「正常」なのか。「正常」を装った「異常」なのか?つまりそういう区分けを
訳知り顔でやってみても意味はないということだ。
人間がsexしてる姿を視てれば、何も知らない子供などは大人が別人のようにふしだらに
なっている姿をみて「異常」「おかしくなった」と思うかもしれない。日常の理性的な顔からは
想像つかない動物的な姿になって獣性の声で咆哮しているのだから。そんなものだ。
お前さんは何かと言えば「異常」「正常」「まとも」という区別で済ますところが一般人だが
全然そこでは解決できない人間の様相というのがあることは知っておいた方が良いな。
一体どっちなのか、いまだにあの酒鬼薔薇でも根本的な解決などできてはいない。
それとバタイユの理論では、人間が動物性から嫌悪・離脱し、だがそれは完全な離脱では
なくしばしば復活してしまう瞬間について、〈聖なる〉という概念で当て嵌めて行く。人間に
とって、不潔・死・性器・暴力・錯乱・畸形といった禁止(外部)が、禁止によって隠されていった
ものが、突然開けてしまい、現前する瞬間を聖性としている。よって性交における獣性
もまた、バタイユの理論では聖性とされる。そこで人間は元の獣性に復帰するかに見えるが、
だがそれは獣性にみえても復帰ではなく、第二の人間性ともいうべき領域にあるということ。
こういった、第一次禁止の破れた領域の出現を、聖性としている。
人間にとって死や死体、畸形、狂気、性、自然災害など、禁止や災厄を表す現象に、特別な
宗教的意味合いが徴され与えられていくことにこれは対応している。 >>323
思想がどういうものかは支持者がどれだけいるかではない。そんなこと当たり前ではないか。
お前さん等が全然無知なようなので紹介しただけだろう。私が一生懸命紹介しなければ
ならないのは何故か。あんたらが無知だから。ただそれ以外ではないだろう。バタイユのこと
くらい少しは読んでいると思っていたら、何これだぜwほんとに思想のアマちゃんなんだなあ
こいつらは、が正直な感想だ。 バタ子さんは食パンマンに憧れてはいるが
その実はジャムオジサンの慰めものでね
しかしアンパンマンは救わない。だってドキンちゃんとデート中だから 325続き
思想が支持者の多さで測られるのでは勿論ないが、それにしてもバタイユを
リスペクトするそうそうたる顔触れは圧巻だと思う。
改めて最初の論旨に戻れば。酒鬼薔薇と現代思想ということでいうと、彼を
異常者とするむきはある。だが例えばバタイユにせよハイデッガーにせよ、
D=Gにせよ、彼らに共通する認識として、人間性の中には一般に人間性とされて
いるもの或いは社会的存在とされているものを、逸脱したものが含まれている
のではないかという認識である。彼らの残したテキストを辿ればたちどころに、
一般に人間性とされているものないし人間とされているものを逸脱する、
或る場合反社会的ともなる領域を含有している、という認識があることが分かる
。
侵犯行為は人間性に含まれており、それを媒介して〈聖性〉を媒介して
人間は最初の禁止に戻る。
ハイデッガーにおけるSeyn 超-存在の領域もまた、存在を喪失した超-現存在は
神の傍過によって神が超-存在を必需とし、その神と交感する瞬間、拒絶を贈与
する。拒絶は大衆に絶望を贈る。
D=Gに於いて人間は人間以外のものに生成変化するものである。
このようにみれば、あの事件の主人公が異常者だとしてもそうではないと
してもたいした問題ではなくて、問題はあの事件が、人間性の閉塞にたいする
一種の逸脱の暗示を秘めていたのではないかということだ。
現代思想はあの事件で容疑者がわざわざいくつかの思想的語彙を使って
みせ、問題の所在を暗示したにもかかわらず、結局反応することはできなかった
。だがたしかにあの事件には、現代思想の大物が唱えていた概念に対応する
ものがあった。そのことだけは、確認するしかない。 ポスト真実時代に入っても酒鬼薔薇とか信じている人いるんだ? 酒鬼薔薇はニーチェの文庫一冊読んでたのは事実だけど
さすがに埴谷雄高までは読んでないよ
っつーか、当時は埴谷雄高の本なんてあの歳の少年には入手不可能だよ
父母も別にインテリじゃないから家にあったとは考えにくいし、
今は講談社文芸文庫から埴谷雄高の作品はいろいろ文庫化されてるけど、当時はなかった ラカン 「無意識は言語のように構造化されている」 (Lacan, "L'etourdit", Autres ecrits, Seuil, 2001)
ここで使われている「言語」とはラング(言語)ではなくランガージュ(言語活動)。
(L'inconscient est structure comme un langage) ガタリ 「無意識は言語のように構造化されていない」 (ガタリ 『人はなぜ記号に従属するのか』 (2014)) >>270
ガタリは無意識のあり方について、
ラカンがいう「"ひとつの"言語のように構造化されている」のではなく、
「"多様な"記号化の様式として構造化されている」と説明した。 >>324
精神の異常というのは、丸いものを四角である認知し、人間を人間ではないものとして認識すること。
残虐性というのは、人間を人間として認識できないことによって生じる。
その源泉は、人間が人間として確立できていない時代の原始性にある。
残虐性が幼稚で原始的に見えるのはそのためだ。
残虐性の否定は、人間が人間として他の自然から分かれていく(疎外されていく)にしたがって、薄れてきた。
それが人間の文化であり、人間の確立ということだ。
残虐性が「聖」などであるわけもないし、「聖」だとか言いたがるのは、思想の袋小路に行き詰った末の、ただの逃げ口上だ。
ハイデガーだのドゥルーズだのという、現実からの逃避としての思想が大好きな君には、もちろん、理解できないだろうが。 >>325
>思想がどういうものかは支持者がどれだけいるかではない。そんなこと当たり前ではないか
そのとおり、当たり前だ。
だから誰それが崇拝してるの評価してるのといった、愚かなレスは無意味だといってるんだよw
君の日本語理解は、一般の人よりかなり劣っているようだ。 禁止にって隠れていたか?それじゃ二度手間だよなあ
。 >>327
人間の中に原始性の名残りがあることは「聖」などではない。
ただの退化だ。
時代の思想的な方向を見失ったハイデガーやバタイユなどがどこまで退化しようと、時代にも思想にも、なにひとつとして加えられるものなどないのだ。
そのことは、現在そのものがよく示している。
酒鬼薔薇のような原始的で幼稚な精神異常者をもてはやしても、思想にも「問題の所在」の「暗示」にもならない。
もし、「現代思想の大物が唱えていた概念に対応するものがあった」とすれば、それは「現代思想の大物」が、ただ現実を失った張り子の「大物」であることを示すに過ぎない。
吉本隆明という思想家が、原発推進を唱えてその張り子の「大物」ぶりをさらけ出したようにだ。
ドゥルーズの張り子ぶりもまた、その吉本の指摘を待つまでもなく、そのフロイト理解、マルクス理解の浅薄さを見ればすぐにわかることだ。 フロイトとマルクスを並べるのも変だよねえ。ドイツ人の同僚みたいでさ。
ハイデカー バトゥユ の方がいい時代かもねえ。のちの世には。 異常に性欲がわく方が、いい繋養 繁殖にならんかなあ。
宿屋住処を変えたり。リフォ−ムするとか、家を改造するとか。 >>336
退化と退行を一緒くたにしないようにな
いってもわからないだろうが >>340
そういう言葉の遊びが、哲学を下らないものにしてることに気づきなさいねw 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
文化相対主義は英語圏の文化人類学では1970年代から批判されてたが80年代になっても英語圏の批評や日本の大学教育では影響力あった。
出発点のひとつがマーガレット・ミードのチャンブリ民族誌だったから性差問題も巻き添え喰って21世紀初頭まで…とか書くとバックラッシュと言われるの?
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
50過ぎ、いや40代の人でも、大学の文系学部を出たあと、この話題にかんする知識のアップデートをとくにしてない人は、
20世紀が「魔が差して」生まれたサピア=ウォーフ説とかミードのチャンブリ民族誌の世界像(要は燃素とかエーテル的なもの)を本気で信じてるかもしれない。
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
社会生物学・進化心理学方面でいい本はいくらでもあるけど短時間で洗脳を解きたいならドナルド・E・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ 文化相対主義から普遍性の認識へ』の176-196頁。
四半世紀以上前に書かれたこの本自体はすごく「いい」本ではないが脱洗脳には便利な本。
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』の変なところもあって、それはオイディプスコンプレックスをノーチェックで人類普遍のものと認めて、とくにそれにかんする説明をしないところ。
あとレヴィ=ストロースは出てくるのに近親相姦禁忌の章ではまったく触れてないのが武士の情けを感じる。
1件の返信 4件のリツイート 7 いいね
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 7月4日
文化相対主義の責任を問われるべき人としてマーガレット・ミードの名前ばかり出すのが偏ってるなら、ほかにルース・ベネディクトとかクローバー(ル・グィンの父だっけ)もかなりアウトだと思います。
千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 7月4日
この話題について言えることはあとふたつ。ひとつは、人間の行動のうち社会的学習によるものの比率は、かつて考えられたよりは小さいということ。
もうひとつは、文学作品の翻訳家が「翻訳」の不可能性を強調し過ぎるときは、ただの職業的な自己神話化でありハッタリであるということ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) ものがたり のむかしにわかがありましたが、
ものがたりというと、子供の時に人生を終わりまで見て楽しんでしまうという
後悔から成り立っているのが、僕の物語論の初めだったっけ。
わかでも大人のものだから、恋愛のネタバレがあったり、やはりしつけや
エディットしながら、子供や孫のことを考えてみるべきだと思います。 “非シニフィアン的言語活動においては、何を使ってもよいのである。
つまり、この言語活動においては、いかなる音声の流れも、文字の流れも、
身振りの流れも、特権をもたない。この言語活動は、無定形の連続体をなるものである”
― ドゥルーズ=ガタリ 『アンチ・オイディプス』 3、市倉訳 (1986) シルヴァーノ・ブソッティ『デヴィッド・チューダーのための五つのピアノ作品』譜面
(ドゥルーズ=ガタリ 『千のプラトー』 序 より)
http://polology.com/wp-content/uploads/2017/04/Rhizome.jpg
Sylvano Bussotti - Five Piano Pieces for David Tudor No.3
https://www.youtube.com/watch?v=PoNxYI8JrOo >この言語活動は、無定形の連続体をなるものである
むしろ、数えることにおいて現れる単位の自己解体ではないのか? >>346
×無定形の連続体をなるものである
○無定形の連続体をなすものである
普通に、ソシュールのランガージュの話では ドゥルーズ=ガタリは読んでいないので知らない。
「言語活動」にではなく、「流れ」と「無定形の連続体」に反応したレス。 言語なんてのは無意識的であろうと
何かの代替性と交換価値、ここではメッセージ性を意図したものでしかないわけで
言語体系であろうが言語表現であろうが、それは殆どが遊びでパロディなんだよ
要はお前らがやるべきはソシュールじゃなくて、もちろんバタイユやハイテガーでもなくて
アンリ・ベルクソンただ一人のみ。ベルクソンこそがドゥルーズにピタリと符合する生命の、
生き生きとした哲学なんだ ソシュールだ、ベルクソンだ、ドゥルーズだ、じゃなくて、
「生き生きとした哲学」があると感じるなら、その「生き生きとした哲学」を
感じた文章を引用すべきでしょう。でないと、仏だ、キリストだ、いや
アッラーだ、というのと変わらない。 それなら絶好のものがあるぞ。
クワトロ・バズーナのダカール演説を私は紹介したい
>閉会するな!この席を借りたい!
>議会の方と、このテレビを見ている連邦国々民の方には、突然の無礼を許して頂きたい。
>私はエゥーゴのクワトロ・バジーナ大尉であります。
>話の前に、もう一つ知っておいてもらいたいことがあります。
>私はかつてシャア・アズナブルという名で呼ばれたこともある男だ。以下略
詳しくはダカール演説で調べて欲しいが、これほど生き生きとした展開というか、シチュエーションというか
シチュエーションが魅せる哲学みたいなものの象徴的な例がダカール演説だ 私が見るに、お前らは神秘主義のまどろみに陥っていると思うわけだが
ベルクソンの言葉を引用すれば「完全な神秘主義は行動に他ならない」
まさにそういうことなわけ
そして経験に即した最善観念というものが存在する以上は
快楽や苦痛の観念からなる議論を越えた、いわば低俗なる観念よりも高次な
つまり存在することについての純粋な歓びというものが君たちには是認されているのだ
そうした生を、ありのままの生を君たちには謳歌してほしいと思うよ 上のくだらないバタイユ云々の議論にしても、議論してる奴にしてもさ、
なんだかんだ猟奇的になったとしても、生、つまり生きることには執着してるわけじゃん
この世界の最高のあり方とか善から構築する悪性みたいなものを考えているとしたひとまずはやめて
そんな必要はないわけだから、おめーら生に執着してる時点で、生きる必要はあるわけで、それで良いわけだから
さらに生きていかなければならない意味もあるわけで、生きなければ成し遂げられないものもあるんだろうよ
それが何であれそうあるということは、生きるということはすでに善いものとして生が肯定されているということなんだよ
ここに創造主論からなる善思想をも超えた、ベルクソンの最善観念が誕生するわけだが
ここまで述べたうえで社会を認識し、経験の事実に即した最善観念というものが何か分からないのであれば、
それは社会におけるヒューマン的エラーであるから、
誰にも迷惑をかけずに自殺して死ね
もう一度いうぞ、死ね 違うセンスだな。異化言語の受容とか。効果あるかな。徐々にでも。
ベーコンの方がオススメ。フランシスね。 異形 奇形 偶像崇拝 の人たちも楽しかったらよかったと思う。 >>349
> 言語なんてのは無意識的であろうと
> 何かの代替性と交換価値、ここではメッセージ性を意図したものでしかないわけで
それはシニフィアン。
では、非シニフィアンとは何か?
ドゥルーズ=ガタリは読んだことあるのかい? ドゥルーズとガタリ、それぞれの単著も2〜3冊ずつぐらいは読んで、
読み分けておかないと、ドゥルーズ=ガタリも理解できないよ。 文學界2017年12月号 - 2017/11/7
▼松本卓也「健康としての狂気とは何か―ドゥルーズ『批評と臨床』試論」
これは、本格的でよかった。
ドゥルーズが扱った「狂気」が強調されて取り上げられることが多い中、
ドゥルーズ自身は病的でも狂人でもなかったという観点からの解説。
ポスト構造主義的問題系の「深層(profondeur)」と「表面(surface)」、
ラカン派による病跡学的アプローチ。 ガタリ=ドゥルーズくらい読んだわ
アンヴィバレンスなtheoryって感じでしかないかな エマニュエル レヴィナスの 捕囚 の時のものもいいよ。 ここで少しだけ考えてみないか?
例えば、DとGでの偶発的で非必然的な結びつきというものがあるが、
それは下部構造への還元論に陥ることなく、異質な要素や構造間の複合的な繋がりを分析することで見えてくるんだよ。
必然性のない対応関係というものは、本質論を放棄することで、支配的な権力的関係を組み替えて節合し直すことの可能な、
社会的諸実践間の連携へから絶えず開かれているものだと考えるがどうだろうか? 思想の言葉(2017年11月号)https://www.iwanami.co.jp/news/n21831.html
精神病理学から読むラカンの理論
鈴木國文
つい最近、ラカンに関するある著作の合評会でのことである。
ラカンの一節「人間の存在は、狂気なしに理解されないだけではない。もし自らの自由の限界として狂気を内に抱えるのでなければ人間の存在でなくなるだろう」(『心的因果性について』一九四六)に触れて、
一人の論者が「このようなことが言いえた時代」は精神分析が「革命的」でありえた時代であり、今日ならこのような気楽なことは言っておれないだろうといった話をするのを聞いて、私は微かな違和感を覚えた。
ラカンの理論を思想史の中に位置づけるとはこういうことなのかと、自身の視点との差異に驚いたのだ。 松本論考、前半は『意味の論理学』を扱い、
キャロル、ルーセル、ウルフソン
_______________
アルトー、ヘルダーリン
というように表面と深層に分け
ドゥルーズは深層の精神分裂病から上へ、キャロルの自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)評価へ移行したという
さらに論理としては二項を超えた可能性を各作家に見たという
(サドとマゾ(プルースト、カフカも批評と臨床の対象)のように外に開くための二項…)
ただしラカン(=脱ラカン的父権主義)を引くならスキゾ症例三種を
ベケット/ジョイス/アルトーに見た浅田&花村(『ダブル・バインドを超えて』1985)の方が
有益だ
同書1985をさらに敷衍するとそれぞれ
それぞれ想像界/象徴界/現実界の欠損を持った作家ということになる
ジョイス
____ベケット
__\__/__
\/
アルトー プラトン的詩人狂人論、ロマン主義的詩人論、からドゥルーズが遠いことは確かだが、ベケット
論がないとそれがわかりにくい。
ベケット(断片的論考)は『批評と臨床』でも重要な位置(場所)にあるし、ベケット論の消尽したもの
はドゥルーズの実質的遺書でもある
Joyce 妄想型 paranoid https://i.imgur.com/2biUldM.gif Ulysses メタファー
Beckett 破瓜(はか)型 hebephrenic https://i.imgur.com/9FIyMsE.gif Quad リテラル
Artaud 緊張型 catatonic https://i.imgur.com/rwKgu01.gif La coquille et la clergyman カット・オフ
破瓜型は近年では解体型と呼ばれ、また、ダブルバインドのような理論の多くは
統合失調症の原因というよりも、パーソナリティ障害の原因らしいと言われている。
母なるものを批判的に扱うことも批判される(岡田尊司『統合失調症』PHP新書)。
アルトー、ヘルダーリン以外は統合失調症ではなくアスペルガー症候群(ASD)というのが松本
論考の病跡学の主張なので、この流れに沿う。
ちなみにアルトーを擁護するならアルトーは自身の身体に物自体を見たのである。深いという
形容はそのことから目をそらす(誰だって身体を抱えているから)。
ドゥルーズはアルトーのような病気ではなかったから素晴らしい、というのであれば反動思想に
すぎない。 いやいやいや、、、当然、ドゥルーズが病的でなければそれで良いという問題ではないよ。 あるいは、
象徴界 I 想像界
ジョイス I ベケット(=分裂症ではなくパーソナリティ障害、アスペルガー症候群)
ヘルダーリンI キャロル、ルーセル、ウルフソン
______I___________
I
現実界 I x
アルトー I
欠損の箇所が作家の生きる場所である
(フーコー、ハイデガーの着目したヘルダーリンはジョイスに近い)
ドゥルーズはベケットに近いがじつは xを志向している
(ベケット論は映画研究の一環だが、シネマ2の「系列」がシネマ1の「狂気」に対する応答と
考えれば臨床と呼べなくもない) 一応想像界(の欠損)に置いたが
ベケット(を論じたドゥルーズ)において三つの界は一つになっている ルドルフシュタイナースレの者です
人智学の方が思想として素晴らしいので人智学を学んだ方が良いです
あなたは残念です
さようなら >>345
こういう譜面を見ると、佐村河内氏が新垣氏に示したアイデアの図面でも、十分作曲に値することがわかるな。
佐村河内作曲、新垣演奏、で新垣の演奏を五線譜に写した。
佐村河内氏が非難される理由はなかったと思うんだが、ゴシップ雑誌が発端だし、日本人はゴシップ好きだからしょうがないか。
ま、ドゥルーズとはなんの関係もない話ともいえるけど、少し関係がある話ともいえる。 ポエムとしてはセンスがある
哲学としては読む価値なし ドゥルーズやハイデガーは第一に哲学史家だから
哲学に興味があれば入口に最適 ネルヴァルとか 。哲学詩 みたいなものも書いたことあるけど。 ネームに哲学がのってるわけじゃなくて、
言葉に自分で哲学的分量を乗せるべき。 女神転生の
LIGHT
LAW NEUTRAL CHAOS
DARK
とかかわっていけるの? >>376
ハイデガーの哲学史って、スコラ哲学に偏ってるんじゃないの?
言葉の遊びの歴史、みたいなもんだろう。 ハイデガーとかゴミ本の名前出すなや
哲学史より神学をやるべきでトマス・アクィナスとかのが中世の理解には役立つわあ >>381
西欧の中世を理解したければ、飢餓にあえでいた一般大衆のことを思い浮かべることが大切だよ。 ザッヘル=マゾッホ紹介 冷酷なものと残酷なもの (河出文庫)新刊
著者 ジル・ドゥルーズ (著),堀 千晶 (訳)
マゾッホを全く新たな視点で甦らせながら、「死の本能」を核心とするドゥルーズ前期哲学の骨格をつたえる名著。刊行45年目に新訳。【本の内容】
紙の本
ザッヘル=マゾッホ紹介 冷酷なものと残酷なもの (河出文庫) 864円
発売日:2018/01/06
出版社: 河出書房新社
レーベル: 河出文庫
サイズ:文庫/280ページ
ISBN:978-4-309-46461-9
あと新訳プルースト論が出ればいうことなし。 https://www.mainichi.co.jp/heisei-history/interview/13.html
栗原 でも日本の人文系や文学系の出版社は、ニューアカ以降、ずっと変わらずに、ニューアカ的なものを継承しているんですよね。いまだに若手ドゥルーズ研究者を「気鋭の新人」とかいって売り出そうとする。
この期におよんでドゥルーズ研究の新鋭かよ……と呆(あき)れるんですが、でも、まあ、そういう売り方がいまだに有効であるという現実もあるわけです。 講談社メチエから出た「三つの革命」って
どうっすか? 俺はまだ読んでる途中。
印象としては、補論が長い。 しかし重要なのは、資本主義の廃絶が 、階級やマジョリティ、人間といった状態への再
領土化 (マクロ政治 )によっては決してなされ得ない、という点だ。プロレタリア ( 『アンチ・
オイディプス 』 )によって 、マイノリティ ( 『千のプラトー 』 )によって 、動物を眼前にした人
間 ( 『哲学とは何か 』 )によって始まる 「世界市民 」への生成変化 (ミクロ政治 )の過程
の上に万人が自らを再領土化するときにこそ 、資本主義はその下部から掘り崩される 。
ドゥルーズの単著でまず論じられ 、後に 『哲学とは何か 』で再論される 「出来事 」とは 、
万人による世界市民への生成変化、というこの無限の創造過程のことに他ならない 。ドゥ
ルーズ ゠ガタリは 「革命性への生成変化 [devenir- revolutionnaire] 」を語る 。資本主義
の打倒を革命と呼ぶとすれば、歴史を過去と未来に切断することに存する一般的な意味
での 「革命 」 ( 「転覆(サブヴァージョン) 」としてのマクロ政治 )は革命ではなく 、過去と未来
の間で現在を対抗実現する 「革命性への生成変化 」 ( 「倒錯(バーヴァージョン) 」としての
ミクロ政治 )の方こそが 、すなわち、万人が革命的になることこそが革命なのだ 。ただし、
万人による革命性へのこの生成変化、この 「出来事 」は 、あくまでも 、傷を負った者たち、
収奪され支配されている者たち (プロレタリア、マイノリティ 、動物あるいは犠牲者 )の利害
と結び付いた形でしか始まらない 。
三つの革命より 上、
よくもこんな薄っぺらな下らない文章を書けるな、
という感しかない >>388
薄っぺらで下らないところが、時代に合ったんだろうね。
それまでの理論を追究する息苦しさから逃れた、気分を文章化した哲学風の感情吐露が新鮮に見えたんだろう。
日本で、その中によどむ沈殿した情念を捨てて上澄みだけをすくいあげたのが、ニューアカなのかな。 >>389
補足。
時代に合った、というのは本家のことね。 戦術は、主戦場をどこに見出すかによって決定される。反資本主義闘争の主戦場として同定されるのは、
『アンチ・オイディプス』ではプロレタリアによる階級闘争、
『千のプラトー』ではマイノリティによる公理闘争(諸権利や等価交換を求める闘争)、
『哲学とは何か』では動物(マイノリティ)を眼前にした人間(マジョリティ)による政治哲学(哲学の政治化)である。
プロレタリアとは何か、マイノリティとは何か、哲学とは何か。
三つの革命より いや、過疎スレだし別にステマでも構わないんだけど、自分に騙された感があったということね。 こんなの読むくらいなら良質なポエム読んだほうがいいです こういう>>387無意味な文章を読むと、
政治家や霞ヶ関の高級官僚らが
経費削減のために国立大学の文学部を潰したくなる気持ちも分かる >>395
政治家や霞ヶ関の高級官僚らが国立大学の文学部を潰したいのは、経費削減のためではないよ?
政権批判や官僚批判をするのが文学部だから。
理系はバカだから、政権や官僚に従順だ。 >理系はバカだから、政権や官僚に従順だ。
昨今の物理の入試問題の騒動を見ていると、
予備校の先生は既存の権威に流されないような気もするけど。 文学部の連中の政治経済評論は、お粗末すぎて聞いちゃいられない。
政治経済の専門家からすると、苛立たしいのは事実だ。 政治経済もそうだが、文学歴史だってそうだ。
ド素人から偉そうに批判されるのは、文系ジャンルの宿命。 特にお粗末なのは、内田樹
あれじゃ完全に、ただの三流政治評論家 >>397
試験問題の間違いを指摘したぐらいでw
予備校講師も生活がかかってるからね。 いや、文学部も被害者だな。
歴史とか哲学だって、ド素人のトンデモ評論は後を絶たない。
お互いさまだ。 >>398
政治経済の専門家って、なにか社会に寄与したことがるの?
社会を良くしたり市民生活を豊かにする提言とかすら見たことがないんだけど?w しかし、それにしたって、文学部の教授連中の政治経済評論はひどい。
少しは基礎知識を身につけて、それから発言しようとは思わないものなんだろうか? >>399
文系というのは価値観の追求だからね。
理系みたいにAIの方が優秀、ということにはならないから安泰だな。 >>400
だから政権は目の敵にするし、文学部の独立と拡大が重要なんだよ。
市民生活を豊かにするには、左翼が強い必要があるからね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています