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関係式を単に与えられた関係としてではなく、作用/動作/様態として理解する
必要がある。我(われ)が体現されるとき、それは人(1)に対する引け目または
負い目として、つまり、「数ならぬ身」としてある。だからこそ、自らを
「我(われ)」と呼ぶとき、人/我=主により、相手を主(ぬし/あるじ)として
認めているという意図を示すことになる。それをちょうど逆転させた関係が、
相手に対して主(ぬし/あるじ)として振る舞うことによって生じる。古語には、
「あるじ(主/饗)す」という表現があるが、自らの屋敷において「饗応する」
という意味であり、「あるじ(主/饗)」されることは、人/主=我により、
我、つまり、人に負い目のある立場に置かれることになり、人に対して自らが
「あるじ」することはやはり、その相手を我の立場に置くことになる。
したがって、一方的に「あるじ」されたままの状態を放置すると、自らと
相手の関係が、我と主の関係に固定されることになってしまう。その固定が
生じる危険を回避するのが、自らが人に「あるじ」された場合には、それに
応じて、今度はその相手を自らが「あるじ」して、我×主=人により、
ひと(人/等/1)しさを回復することである。ひと(人/等/1)しさを人
の理想とするならそのようにすべきであるとする格率が、互酬性と呼ばれる
ものに他ならない。