【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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『風土』では、自然環境を扱いはするけどそれが人間を規定するような決定論として論じられるわけではなく、
間柄的存在の人間の風土的なあり方として論じられる。
また、ハイデガーの『存在と時間』のような時間論を意識して、
逆に本文で論じる訳ではないけれども空間論を目指すと。 >>244、>>247
二冊共いいね。
どちらにも念入りな年表がついているので要チェック。
どちらも『ロゴスとレンマ』を取り上げていたりもする。
(1)濱田恂子 『入門 近代日本思想史』 (2013)
「近・現代日本哲学思想主要著作刊行年表」として、
1861年の加藤弘之「隣草」から2005年までをカバーするなどレンジが広い。
戦前〜戦後をバランス良く概観する中で、
比較思想のキーマンとして中村元と井筒俊彦を挙げている。
初心者にも中級者にもオススメ。
(2)熊野純彦 『日本哲学小史 - 近代100年の20篇』 (2009)
内容は良いが、主著を避け、思想史の行間を読拾い読むタイプなので、2〜3冊読んだ人向け。
年表は1859〜1976年。日本と世界の思想書と、世界の出来事を並べて見せている点で秀逸。 >>243
今のところ濱田『入門 近代日本思想史』。 濱田恂子、、、こういう人が実存思想協会の理事長とかやっていたのか、、、 濱田本は江戸時代から明治時代への変遷の説明の仕方が、導入としていい感じだね。 おまとめサポート
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特定非営利活動法人 STA 戦前の思想の反省というと、
戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?
と見ていくことになるが、政治で語れる範囲というのは限られている。
哲学は、その先にある問題に目を向けなければならない。 原武史の『日本政治思想史』(放送大学教材)を立ち読みしたが、本人の趣味が色濃く出すぎていて、
イマイチだった。 今月出た木岡伸夫の『邂逅の論理ー<縁>の結ぶ世界へ』(春秋社)は、
シリアスな雰囲気が出ていて良い。 田辺元の『懺悔道の哲学』が紹介されていて、
その中でも菩薩との出会いにスポットライトが当てられていたのが印象的だった。 >>260
とは言え、無の思想の代表である老子などは、
高度に政治的だったりもするが。 >>262
"ロゴスとレンマを超える。"
「邂逅」を論理の問題として捉え、九鬼周造、和辻哲郎、田辺元をはじめ、西田幾多郎、山内得立らに注目し、
東西哲学を包み拡げて〈縁〉によって結ばれた世界へと思想を導いていく。
東西の風土的相違を超えて、双方の〈あいだ〉に〈邂逅の論理〉をうちたてる。 (2017/7/19) ロゴスとレンマ的なものについて、
井筒は西洋の二元的な「アリストテレス的論理学」に対し、東洋の「多元的な論理」としていたし、
中沢新一は「アリストテレス型論理」以前の「高次元的な無意識」的思考に注目した。 京都学派アンチスレッド
http://ha10.net/anti/1502084626.html
京都学派のアンチです。
京都学派に対する批判、あるいはそれに対する反論をお待ちしています。 カントの「判断力批判」を読んでるのだが、
驚いた。まず、田辺元の「種の論理」はヘーゲルの誤読などという輩がいたが、
なんのことはない。カントの「判断力批判」の発展である。
ちなみに読んでる途中だが、判断力批判にはこうある。
「美学的判断力とは、快不快の感情によって判断することで、目的論的判断と異なる」 >>268
ヘーゲルの誤読って言やあ罷り通る時代があったからな
ヘーゲルなんてヘラクレイトスの現代風でしかないのに >>269
うるせえ。哲学科はバカばっかりだ。
サボり魔どもめ。
おれに簡単に反駁される見当ちがいな連中が二百年間、君臨して偉そうにしてきたんだからな。
恥を知れ。 >>270
火病を起こすな火病を
気持ちは分かるが俺が受け止める義理もない
第一カントが昔に看破したことを君が知ってアホどもを論破してるに過ぎん >>271
二百年間、理解されなかったカントが可哀そうだ。
ヘーゲルだのショーペンハウエルだのフッサールだの、ハイデガーだの、
サルトルだの、メルロ=ポンティだの、ドゥルーズだの、デリダだの、ボードリヤールだの、
くだらない連中ばかりだ。 >>272
カントの優秀さは日本では小林秀雄が見抜いてた
エリートだが学者でなく市井の物書きの彼がな カントといえば田辺元の著作に『カントの目的論』というのがあるね。 >>273
小林秀雄wwwwwwwwwwwwwwwwwww
アホが。京都学派の哲学者がみんなしてカント読んでたのに、何が小林秀雄だよ。 http://www.honzuki.jp/news/contemporary_thoughts2013/
じゃあ、2013年のレビューを。
京都学派スレなんだから浅田彰でいいかと思って。文章もわかりやすいし。
千葉雅也や小泉義之も京都の大学で教えていたり人文研に関わっていたりするし、
京都学派みたいなもんか。 戸坂潤の新カント派を意識した自然科学に関する論考は難しい。 >>281
2017年のが見つかったわ。メイヤスーに好意的なのが。
メイヤスーと思弁的実在論
清水 高志
http://ci.nii.ac.jp/naid/120006241711 >>277、>>279
もっと新しいものがあるでしょ
「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ ― 戦後啓蒙の果てに」
浅田彰×東浩紀(『ゲンロン4』(2016))
「ポスト・トゥルース時代の現代思想」
浅田彰+東浩紀+千葉雅也(『新潮』2017年8月号) >>286
どちらにもメイヤスーの論評はなかったな。
『現代思想』の方がよっぽどメイヤスーを取り上げていると思う。 >>287
『現代思想』でメイヤスーを扱ったものは、大抵こちらで拾っていると思う。
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1451968507/ >>287
> どちらにもメイヤスーの論評はなかったな。
どちらにも、メイヤスーやカントの話は出てくるよ。
何を読んでいるのか。 ゲンロン4で浅田がメイヤスーに触れているのは、
そんなにメイヤスーに肯定的な文脈ではないな。 >>291
そういうのは、言葉尻を読んでいるだけ。
ここは、ポストポスト構造主義のスレではないから
詳しくなくてもいいけど、メイヤスーの本は読んでるのかな? メイヤスーの射程と、このスレの扱う範囲は重なっている。 >>292
『有限性の後で」は買ったけど読まずにいた。読みます。 私事だが、最近は猪木武徳の経済史や経済思想の本ばかり読んでいて、
哲学書はとんと読んでいなかった。 山田弘明訳のデカルト本を読んでおいてよかった。
メイヤスーの『有限性の後で』の読書が捗る。 『有限性の後で』読了。
カントも大事だけどデカルトの方がもっと大事だとわかったから、
小泉義之の『デカルトの哲学』とか野田又夫の『デカルト』も読もうと思った。 >>286
『ゲンロン4』では、学生運動やポスト構造主義など、
戦後の左派を支えてきた68年的な思想が再検証され、
日本の批評が全体としてポスト「ポスト構造主義」に軸足を移しつつあることを感じさせた。
「ポスト・トゥルース時代の現代思想」では、もう一歩踏み込んだ話がなされている。 『マルクスの現在』(1999)
柄谷行人、浅田彰、市田良彦、小倉利丸、崎山政毅
「マルクス再入門」とある様に、
近代から現代、カント〜マルクス〜ネグリをやり直すのに手堅い。 https://www.youtube.com/watch?v=Ax2GS-YDEq4
日本思想における「無」が議論されているが、あまりにもレベルが低すぎる
保守派の論客がこんな体たらくでいいのだろうか
西部邁は正直に分からないと告白しているが、澤村修治と浜崎洋介はしたり顔でトンチンカンなことを述べているだけ
動画でも名前が挙げられている西田幾多郎や田辺元を少しでも読んでいれば、解釈の余地はあれど、少なくともこれよりはマシな理解ができて然るべきだが 今月は京大系の経済思想に関する本を主に読み進めたが、
その延長で西部邁と浅田彰が対談している『理想』1985年4月号を手に入れたら、
巻頭論文に「東洋的無」を取り上げた秋月龍aの論文があった。 その動画よりも、むしろ、
西部邁の『ソシオ・エコノミックス』を読んだ方が良さげ。 >>303
要点は押さえられているし、別に悪くないと思う。
TVや動画向けの話題というだけでしょ。 まあ、そうかもな。
西洋では神にあたる部分に日本では死者や「無」の概念が当てはまるという感じは、
悪くはない。 無といっても、色々な無があるという話。
0か1かという話ではなく、その間の様々なレベルに無は偏在している。 “非因果的形態とは、無の形態である。
此性をもつ複数の異なる無には、それぞれの形態がある。”
― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(『現代思想』2017年1月臨時増刊号 特集=九鬼周造) ハイデガーや仏教の無の様に、折り返して充実した有に向かう無もあれば、
有であっても、ものが何ひとつ形をなしていない、指向性だけが渦巻く世界もある。 “九鬼周蔵の『偶然性の問題』は、その思弁的な極まりにおいて、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』に類似する。
すなわちそれは、「原始偶然」とも「絶対的形而上的必然」とも捉えられる、「形而上的絶対者」に関する議論である。”
― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」 時と永遠のamazonレビューに「生前波多野は西田に対し「西田君の哲学は一晩でできるけど僕のはそうはいかないよ」とうそぶいたそうだが、」って逸話が載っているが、
キリスト教徒の波多野にとって、キリスト教的神観念を理解しない乃至否定する西田は下等な哲学者だったんだろうな その発言の時期にもよるね
初期西田はキリスト教的神観念の理解が浅いけど、後期は理解しつつ否定してる感じだし 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 清水高志 『実在への殺到』 (2017/8/1)
ジェイムズからメイヤスー、ハーマン、ラトゥール、セール、カストロ、デスコラ、ストラザーン。
幹-形而上学、非・ホーリズム的転回、機会原因論的アニミズム、西田哲学やレンマ論など。 思弁的実在論(>>283)とか現象即実在論(>>58)とかね 無限のスピードと 有限の確実性の速さを うまくタームを食って組み合わせて更新
していくのもいいだろう。 梅原猛の『美と宗教の発見』に丸山真男の批判があるから買ってみたが、
いざ読んでみると、和辻哲郎の批判がたくさんあった。
和辻の『日本倫理思想史』などを読んでからまた挑戦してみたいと思う。 和辻の『日本古代文化』を読んでいると日本史の時間が思い起こされる。 amazonで野田又夫の『デカルト』のページに出てくる
この商品を買った人はこんな商品も買っています
には、電子回路の本とか線形代数の本が出てくるから、
理系の人にもデカルトは興味を持たれているんだなということがわかる。 “エックハルトも人格的な神を超えた「神性」を絶対の無とも呼んでいるが、
それと仏教でいう無との間には、基督教と仏教、
或いは広く西洋精神と東洋精神との間に於けると等しいだけの根本的な違いがある。”
― 西谷啓治 「神と絶対無」 『西谷啓治著作集 第7巻』 一口に無と言っても、様々な違いがある。
西洋の無と東洋の無。宗教、哲学、数学、科学におけるそれぞれの無。 “「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。
「もう川の水は飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。
ここはそういう場所なのだ」
それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をかぶりなおし、私に背中を向けて舟に戻っていった。”
― 村上春樹 『騎士団長殺し』 第2部 遷ろうメタファー編 (2017) 『「東アジアに哲学はない」のか――京都学派と新儒家』(2014)
朝倉友海
デリダが「中国には哲学がなく、思想しかない」と言って論争になったことがある。
デリダは「哲学は古代ギリシアという特定の時期と環境のなかで生まれたものであり、中国に哲学がないというのは、すでにヘーゲルも言っていること」と続けた。 「わが日本、古(いにしえ)より今にいたるまで哲学なし」(中江兆民「一年有半」)
というのもある。 東洋人は、未だにこういうところから説明をしなければならない。 西田を東洋哲学を代表するものとして
評価する例に挙げられるのが高橋里美。 “私は西田哲学の独創性を濫りに冒涜しようと思うものでは勿論なく、
むしろそれが東西思想の日本的な統一としていかに歴史的に自然的なる、
また妥当的なるものであるかということ、
それがいかに日本に独特なる最初の哲学体系であり、
その故にまた永くわが国の古典的哲学として保存せられ、
かつ継承発展せらるべき栄誉を有するものであるかをいおうと欲するのである。”
― 高橋里美 「西田哲学について」 『高橋里美全集4』 (1973) しかし、西田哲学を安易に禅哲学だと理解しているようでは
読んでいる内には入らない。 “併し君だからよいが普通無識の徒が私を禅などと云ふ場合 私は極力反対いたします
そんな人は禅も知らず 私の哲学も分からず
XとYとが同じいと云って居るにすぎぬ”
― 西田幾多郎 「昭和18年 2月19日 西谷啓治宛」 『西田幾多郎全集23』 (2002-2009) 鈴木大拙の風光
http://h-kishi.sak ura.ne.jp/kokoro-257.htm
…
金光: やっぱりいろんな方にお会いになった時に、お会いになった後で感想なんかおっしゃる
わけでしょう。
別宮: そうなんです。ハイデッガー博士の時は、お会いになって玄関の階段を下りて来られる
時に、独り言のように、「西田にそっくりだ」とおっしゃるんです。
金光: ご自分でおっしゃっているんですね、独り言で。
別宮: 私はたまたま側にいたわけですけれども、「西田にそっくりだ」とおっしゃって、
感心しておられました。「どうしてあんなに似るんだろう」というような感じでね。
上田: …西田先生が大拙先生のことを、大拙先生の本に序文を
書いておられるところがありますね。それが非常に面白い文章ですし、如何にも大拙先生をよ
く表していると思いますので、ちょっと時間を取らせて頂いて、引用してみます。こういうふう
になっています。
《大拙君は高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている。
否、自分自身をも眺めているのである。まったく何もないところから物事を見ているような人
である。…君はもっとも偉そうでなくて、もっとも偉い人かも知れない。私は思想上君
に負うところが多い。》
(鈴木大拙著『文化と宗教』昭和十七年と『禅と日本文化』昭和十五年の二著への西田の序)
私のとっても好きな文章ですし、大拙先生が実によく表されていると思います。 西田と大拙は同い年で、石川県専門学校の同窓生。
西谷も石川県出身。
柳宗悦は学習院高等科で西田や大拙に学んだ。 西田幾多郎全集は新旧2種類ある。
・新版『西田幾多郎全集』全24巻(2002-2009)…新字体・新仮名遣い
・旧版『西田幾多郎全集』全19巻(1978-1980)…旧字体・旧仮名遣い 新版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第2巻〉自覚に於ける直観と反省・意識の問題
西田幾多郎全集〈第3巻〉芸術と道徳 働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第4巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第5巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第6巻〉哲学の根本問題(正・続)
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学論文第一、続・思索と体験
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集第二・哲学論文集第三
西田幾多郎全集〈第9巻〉日本文化の問題・哲学論文集第四・哲学論文集第五
西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第11巻〉小篇ほか
西田幾多郎全集〈第13巻〉講演2・講演小篇
西田幾多郎全集〈第14巻〉講義記録
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義ノート
西田幾多郎全集〈第16巻〉断章・研究ノート
西田幾多郎全集〈第17巻〉日記1
西田幾多郎全集〈第18巻〉日記2
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡1
西田幾多郎全集〈第20巻〉書簡2
西田幾多郎全集〈第21巻〉書簡3
西田幾多郎全集〈第22巻〉書簡4
西田幾多郎全集〈第23巻〉書簡5
西田幾多郎全集〈第24巻〉対談・索引ほか 旧版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第3巻〉意識の問題,芸術と道徳
西田幾多郎全集〈第4巻〉働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第5巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第6巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学の根本問題・哲学の根本問題
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第9巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第11巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第12巻〉続思索と体験,「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義 哲学概論.宗教学
西田幾多郎全集〈第16巻〉初期草稿
西田幾多郎全集〈第14巻〉講演筆記
西田幾多郎全集〈第18巻〉書簡集
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡集 西田幾多郎 『善の研究』各版
(1)『善の研究』ワイド版岩波文庫〔改版〕(2012)、(解説=藤田正勝)(ルビあり、活字が新しい)
(2)『善の研究』ワイド版岩波文庫 (1991)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(3)『善の研究』岩波文庫 (1979)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(4)『善の研究』(全注釈:小坂国継)講談社学術文庫 (2006)、(ルビ多い、新字体・現代仮名遣い)
(5)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔新版〕、岩波書店 (2003)、(ルビなし)
(6)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔旧版〕、岩波書店 (1978)、(旧字体・旧仮名遣い)
“真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。
主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する
根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。
東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、
以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。”
新字体・現代仮名遣い 4 > 1 = 2 = 3 > 5 > 6 旧字体・旧仮名遣い
・岩波版の中で読みやすいのは1。各国語版の紹介などもある
・4は古い文献の読みにくさを解消し、現象学的観点からの解説もある
タイトルは元々『純粋経験と実在』というものだったが、出版社(弘道館)の意向から『善の研究』となった。 “経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、
毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。
これが経験の最醇(=最もまじりけがなく純粋なこと)なるものである。”
― 西田幾多郎 『善の研究』 第一編 第一章 (小坂版) 西田が影響を受けた純粋経験については、ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』を併せて読むといい。 >>340
×新字体・新仮名遣い
○新字体・旧仮名遣い
主要な作品の一部は、
上田閑照編 『西田幾多郎哲学論集』 (岩波文庫)でも読める。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp182_1.html
・場所
・働くのものから見るものへ(序)
・無の自覚的限定(序)
・叡知的世界
・行為的直観
など 西田や京都学派周辺で繰り返される「無(絶対無)」とは何か、説明できるだろうか? その他にも、「純粋経験」、「自覚」、「限定」、「場所」、「絶対矛盾的自己同一」
といった西田的な術語に注意して読んでいくといい。 『善の研究』というタイトルは、当初のまま
『純粋経験と実在』にしておいた方が、分かりやすかっただろう。 『善の研究』と聞いてピンとこなくて、
『「いき」の構造』を読んで、寄り付かなくなる。 九鬼は、『偶然性の問題』を手に取れば、
分からなくても重要性には気づくのに。
全集を読んでも面白いものが多い。 最新の西田像を読む2冊
(1)小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 (2005)
(2)檜垣立哉 『西田幾多郎の生命哲学:ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』 (2005)
最もモダンな読みをしているのは檜垣と小泉。
二人は西田の数理哲学的側面を軸にして、ベルグソンやドゥルーズに通じる生の哲学として紹介している。
檜垣は、高校時代の数学の教師が西田の孫だったという。
1も2も西田の主要な論稿を通じて、鍵概念と思想の変遷を追う内容。
1には、京都学派の理系を代表する下村寅太郎の「西田哲学における弁証法的世界の数学的構造」を収録。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています