【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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『西田哲学選集』 全7巻・別巻2 (1998)
http://www.toeisha.co.jp/html/sougou_nishitetsu.html
第1巻 西田幾多郎による西田哲学入門
第2巻 「科学哲学」論文集
第3巻 「宗教哲学」論文集
第4巻 「現象学」論文集
第5巻 「歴史哲学」論文集
第6巻 「芸術哲学」論文集
第7巻 日記・書簡・講演集
別巻1 伝記 西田幾多郎
別巻2 西田哲学研究の歴史 中沢新一×東浩紀
「原発事故のあと、哲学は可能か」 『新潮 2014年9月号』
"「アジア」の脱構築へ"。言語起源論から、アジア環太平洋哲学の未来像まで。 東浩紀×千葉雅也
「震災以後の哲学を考える 他者と暴力をめぐって」 『atプラス12』 (2012)
東…明治以降の日本の哲学的伝統では京都学派しかまともなものはなかった
千葉…戦後のある時期から、京都大学の哲学科は京都学派的な伝統を意図的に止める方向にむかった
東…京都学派、および新京都学派が持っていた領域横断性は、本来哲学が持っていたはずのもの >>516
京都学派の領域横断性と新京都学派の領域横断性は全然別種のものな気がするが 京都学派が最も影響を受けたのは近代ドイツ哲学で、宗教哲学を最上位に置くものだった(>>162)。
それが、戦後の哲学界は、構造主義など科学的なものが主流となっていった。 しかし、それもまた一周して、構造主義的問題系の限界を何でもって乗り越えるのかという話になっているのが現在の状況。 西田と波多野が互いに「あれはもう一歩だな」言い合っててこいつらしょうもねーなと感じる >>506
「空」と「無」、「無」と「絶対無」を読み分けるのが精読 西田哲学と京都学派の中心ともいえる「絶対無」をみていく。
まずは「無」と「絶対無」の違いから。 西田は、「有」に基礎を置く西洋哲学に対して、
東洋哲学を「無」の哲学とした。 形なきものの形を見、声なきものの声を聞く
“形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、
尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云うまでもないが、
幾千年来我等の祖先を孚み来つた東洋文化の根底には、
形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが
潜んで居るのではなからうか。”
― 西田幾多郎 「働くものから見るものへ」序『西田幾多郎全集3』 (2003)p255 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>525
文明論としてよく引用されるのはこれ。
次のものの方が、構図は分かりやすい。 最も深い無の思想を以て根底となすもの
“東西の文化形態を形而上学的立場から見て、如何に区別するか。
私はそれを有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるものとに分かつことができるかと思ふ。”p335
“西洋文化の源となつたギリシャ文化は有の思想を基としたもの”p335
“印度宗教は前の二者に反し最も深い無の思想を以て根底となすもの”p338
― 西田幾多郎 「哲学の根本問題 続編」 『西田幾多郎全集6』 (2003) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>527
西洋と東洋を、ギリシャとインドで比較している。
> 有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるもの “実在と考へられるものは、その根底に何処までも非合理的と考へられるものがなければならない。”
― 「無の自覚的限定」序『西田幾多郎全集5』 (2002)p3 >>529の「非合理的」なものが、絶対無として強調される。 底への超越
“判断的一般者の自己限定から出立して、
主語的なるものがその底に超越すると云ふことによって、
種々なる知識を限定する一般者を考へた。”
― 「一般者の自覚的体系」序『西田幾多郎全集4』 (2004)p3 絶対無は底への超越。下方への超越。
他には、シェリングやベーメの「無底、無根底 Ungrund」など。 相対的無から絶対的無へ
“最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。
概念的知識を映すものは相対的無の場所たることを免れない。”
― 「働くものから見るものへ」7場所『西田幾多郎全集3』 (2003)p427 >>533
相対無というのは、有に対する無。
絶対無というのは、有も無もない無。
例えば、リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)の冒頭。
“そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。” 仏教の「空」の場合は「非有非無」。有でも無でもない。 有即無の絶対無
“仏教哲学の主張は無我にあつた。而して大乗仏教に至つては、有即無の絶対無であつた。”
― 「日本文化の問題」 『西田幾多郎全集9』 (2004)p69 >>536
「有即無」つまり有を孕んだ無というのは発出論的なもの。
「有即無、無即有」の「絶対無、絶対有」というのは、ベーメ、シェリングからヘーゲルに至る
ドイツ観念論の中心概念。 しかし、西田は、絶対無の定義に二転三転し、苦慮する場面もみせた。 絶対無の場所に於てあるもの
“もはや之について何事をも云ふことはできない、
全然我々の概念的知識の立場を超えたものである、
言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界”
― 「一般者の自覚的体系」叡智的世界9『西田幾多郎全集4』 (2004)p145 “自己自身の無を見る自己がその極限に於て絶対無の自覚に撞着した時、
自己自身を忘ずると共に、万物自己たるものはない、
見る自己がなくなると共に、見らるべきイデヤもない。
併しかゝる境涯の体験は之を宗教家に委するの外はない。”
― 「一般者の自覚的体系」一般者の自己限定5『西田幾多郎全集4』 (2004)p324 >>539-540
自ら設定した絶対無を、叡智的あるいは神秘的直観の世界とし、
宗教家でなければ扱うことの出来ない、哲学的でないものとしてしまった。 >>541
それはどうしてか…
・西田は、禅哲学としては一流だが、宗教哲学全般に通じているわけではなかった
・大乗仏教に対して原始仏教が読まれる様になる以前だった
・語学よりも数学や物理、古典よりも現代を得意としていた
-西田幾多郎(1870-1945年)
-『南伝大蔵経』刊行(1935-1941年) “私がギリシャ語などといへば、人が笑ふであらう。彼がギリシャ語をと。
実際、私はプラトンの一行すらも読むことができない。
併し私は晩年ギリシャ哲学に興味を有する様になつてから、
どうしても多少ギリシャ語が分からねばならぬことを痛感した。”
― 『西田幾多郎全集10』 「ギリシャ語」 (2004)p375 ・西田 数学○ ギリシャ語×
・井筒 数学× ギリシャ語○ 西田の絶対無は井筒に引き継がれ、形而上学として完成された。
広義に「東洋的無」と呼ばれるもの
・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ神秘主義カバラにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学における無相のブラフマン
・老荘の道(タオ)
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極
意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。 >>542
西田は自分の哲学が禅と呼ばれることを嫌ったはずだけど しかし最近のトレンドとしては、
「無」よりも「空」の方が重要視される傾向にある。 >>260
> 戦前の思想の反省
> 戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?
とみてきたが、最後の「無(絶対無)」については
既にポールシフトが起きている。
戦前
・西田の絶対無
↓
戦後
・井筒の東洋的無
↓
現在
・大乗仏教 → 原始仏教 → 仏教3.0(無 → 空へ)
・メイヤスーや千葉の偶然性(≒無、此性のある無、シェリング)
東洋哲学の前提が変わりつつある。 空といえば和辻。
だが、和辻倫理学体系における「空」の重みに対抗しようとしているのが、
苅部直だ。ちくま学芸文庫から、『初稿 倫理学』というのを出している。 >>546
その発言は>>337ね。
>>354-359などは斬新な禅哲学。 例えば、西田→井筒→中沢とすると分かりやすい。
>>515では、アジアと環太平洋を分けているし、
人類学の射程を考えると、東洋という言葉ですら手狭になった。
東洋や無ということに、こだわり過ぎる必要はないのかもしれない。 >>550
でも西田は禅なんていってほしくなかったはずだけど >>556
>>337には「無識の徒が私を禅などと云ふ場合」とあるでしょ 無識な徒=私を禅などと云う
私を禅などと云う=無識の徒 >>552
西田(1870-1945)
・宗教哲学、数学、科学
・東洋
↓
井筒(1914-1993)
・宗教哲学、言語哲学
・精神的東洋(東洋+ギリシャ+イベリア半島)
↓
中沢(1950-)
・宗教哲学、人類学
・アジア+環太平洋 西田と井筒の間の世代にあたる人達。
宗教哲学を中心とした、西洋と東洋の比較思想を扱うが、今日的で読みやすい。
・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』
・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』
・田辺元 『仏教と西欧哲学』
・久松真一 『東洋的無』
・九鬼周造 『偶然性の問題』
・清沢満之 『清沢満之全集』 『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)
序 章 井筒「東洋」哲学
「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
a)表層から深層へ
コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
b)深層から表層へ
理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
c)大地と理性――ロシア的人間
ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
a)「空」の徹底
理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
b)空と無
『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
c)砂漠と死――ジャック・デリダ
ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
b)〈いま・ここで=現に〉
「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
c)「入てん垂手」
聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体 >>549
確かにその本にある様な話。
・無と虚無主義(ニヒリズム)の違い
・仏教の空は哲学に生かせるか
この種の議論は、他にも沢山ある。 >>97の
・『「無と空」をめぐって』 上田閑照
・『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝 実際、空については仏教をやることになるが、
無については、色々なもと関わりがある。
・哲学
・宗教
・心理学
・数学、物理
・唯物論 (1)仏教と空
・『ブッダのことば ―スッタニパータ』 ブッダ、中村元訳 (1958)
“つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ”〔第1119偈〕
(2)解説書
・『仏教の思想 3 空の論理 <中観>』 梶山雄一、上山春平 (1997)
・『龍樹』 中村元 (1994)
・『中村元選集 22 空の論理 大乗仏教』 中村元 (1994)
(3)更にその先(空以前、ポスト空)
・『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016) 西田が禅に嵌まっていたのは40歳くらいまで
それ以降は禅から距離を取り始めていく >>571の龍樹には「空亦復空(くうやくぶくう)」という言葉がある。
これは「空という真理に達したら、そのこと自体もまた空ぜられねばならない(空に執着しない)」というもの。 空を絶対視したり空で終わったりするのは駄目なんだな。 十牛図(牛=仏性を探す図)
https://www.jisyameguri.com/books/jyugyuzu/
(1)尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。
(2)見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
(3)見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
(4)得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
(5)牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。
(6)騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
(7)忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
(8)人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。
(9)返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
(10)入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。 純粋経験と自然科学
“現代の哲学に於て客観主義として最も徹底したものはベルグソンの哲学であらう。
直接に与えられたる純粋経験が唯一の実在であって自然科学的世界の如きは
却ってコンベンショナルのものにすぎない。”
― 『西田幾多郎全集12』 「第五講 新カント学派」 (2004) p46 “弁証法とは何処までも具体的な思惟でなければならない”
“自己が物の世界に入り、物そのものとなって考へることである。”
“対象認識の科学といふものは具体的実在から推論式的に媒介せられると云ひ得るかも知らぬが、
哲学は具体的実在そのものの自己媒介から成立する学でなければならない。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p223-224 “経済現象といふものを、分析したものの綜合として考へるのでなく、
生きた全体の過程として見るのである。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p238 “私の行為的直観とは科学的実験といふことである。
物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、
自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。
そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。”
― 『西田幾多郎全集8』 「絶対矛盾的自己同一」 (2003) p388 “数学は人間の工夫であるが、自然と数学との間に偶然ならざる対応がある。
測定を正確にすればするほど、自然は数学的言表に近づく。
その為、人は抽象的な数学の原理が自然の中に働く如く想像もした。
併しそれは測定の程度の低かつた時のことであって、今日は最早さうではない。
測定の過程を如何に精密にしても、無限にユークリッド幾何学に近づくことはできない。”
― 『西田幾多郎全集8』 「経験科学」 (2003) p432 >>576
ハイデガーは十牛図を見てシレジウスと重ねたという。
シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』) “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>588
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷、上田らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」
“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。”
― 「フィリピ」 2:6-7
ἐκένωσεν(ekenōsen)
の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。 >>591
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)所収の
・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス
が、キリストのケノーシスと仏教の空を比較していて詳しい。 藤田正勝とか氣多雅子が朝日カルチャーとかで講座持ったりしないのかなあ。
どこの大学でも教えてない感じだし。 >>594
氣多さんはおそらく私大からお呼びがあっただろうけど、断ったんだろうね
健康上の理由か、家庭の事情か、研究への専念か いままで6回ぐらい挑戦したにもかかわらず目も通せずにいた
田辺元の『種の論理』の「社会存在の論理」が
漸く一節読めた。 戸坂潤の田辺批判を読むためにも田辺本を読まないとなあ。
難しいから、いつの日になるやらw 確かに、「東大がなぜ丸山学派にいるんだよ。」とは言われないな。
学派内の対立はあるにせよ、
学派が語られるときにその凝集性が先に来る傾向はあるかもしれんね。 勉強してる人にはスキが多いから、かじりついたら礼儀に反するだろうね。
丸山というと皆が会いたいわけじゃないんじゃないの。つまり皆に会いたいとか。
俺は社会がひずんでて、一人に負担をかけるしかなかったんだよ。 学派というとアマチュア集団だから、恥ずかしい思いがすると思う。
無頼派のウイスキーを遺産にした遣る方が。 群れているように見えて無頼派なのが京大系の人
群れていないように見えて無頼派ではないのが東大系の人
というイメージがある。 ウイスキーの銘柄の方が学派より燃料入っていく感じしていいのにね。
東大 京大 並べても勝てそうにねえよ。 ウイスキーのブランドにはかなわないけど、
大学ブランドの飲食物が増えたよね。
京都学派っていう銘柄の日本酒でも考えるならば、
西田幾多郎、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男のような裏日本産の米と水に、
京都の米麹でも加えればいい感じ。 >>610
日本海側の酒は美味いぞ
手取川とか勝駒とか 高坂正顕の『カント』もいい感じだが、
下村寅太郎のライプニッツ研究もよさげだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています