【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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自分が浅学非才なのもあるが、
京都の晃洋書房が出している哲学書概説シリーズは、
極端な話、天牛書店とかで580円位で売っている同社の研究書よりもよっぽど骨があって、
概説書というよりもむしろ文字通り哲学書という感じさえする。
有福孝岳の『カント『純粋理性批判』』とか氣多雅子の『西田幾多郎『善の研究』』を
ちょっと読んだだけではあるが。 あのシリーズ、地味に良いんだよね
もっと続いてほしい https://kanji.sljfaq.org/drawj.html
手書き漢字認識のサイトいいよね。
今日は恋の旧字体と無聊(ぶりょう)の読み方と意味を知れてよかった。 【きちょほん】高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却。貴重な郷土本、絶版本多数★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534502089/l50
新聞記事にあった焼却リスト
https://i.imgur.com/Jca4yrX.jpg
↑
戸坂潤全集が複本を残して焼却されたらしいな。
京大図書館の蔵書検索すると文学部に所蔵されてるのが借りられててすごいと思ったわ。
複本がありまくりなのにもびっくらこいたわ。 哲学の道いった?どこから歩いて行ったか忘れたけど。それまた道となるはず。ないか。あるか。 >>619
に関して。
京大の元総長で今は京都造形芸術大学学長の尾池和夫が理事にいるとは
思わなんだ。
https://www.kppuc.ac.jp/about/officer.html まあ、高知出身の名士というのもあるかもしれないが。 氣多雅子『西田幾多郎『善の研究』』(晃洋書房、2011年)をようやく読み終えた。長かった。
西田のほかの著作の知識は必ずしも前提とされてはいない。
むしろ、ジェイムズや西谷啓治の著作の知識が必要かな。
他にはデカルトの『方法序説』やフッサールの『内的時間意識の現象学』が引用されていて、
それらの本を事前に読んでいてよかったと思う。 哲学は初体験ずくから、アバスレ経験論まで。いろいろだね。ヒュームもなかなか。 東京無頼派。所詮学派に過ぎないよ。京都の帝ラン。
一流〜三龍亭ランク目指してね。 それと、カントの『人倫の形而上学』における人格概念を引き合いに出して
西田の『善の研究』における人格概念に対して批判を行うのはかなり手厳しかった。 >>631
お、そんな箇所あったっけ
以前読んだことあるけど、全く覚えてないから読み返してみるか 梅本克己や梯明秀って疎外論の革マル哲学のイメージがあるけど
それぞれ和辻哲郎、西田幾多郎の弟子だから
日本哲学の枠内にぎりぎり入るっちゃ入るんだよな。 時代遅れなんだよな。禅の研究。同じパターンであって敵とも遭遇しない変な本。
治安がいいのもなあ。 段階をへて神に到達するんじゃなくて、いつでも受けがないとな。 変な経路から男だまりでヘンな神でも見たんじゃないのか? マルティンブーバー 我と 汝 の方がよくできてるわ。 ダサいお話だけど、概算、差し抜きして、そっちの方が読みごたえあるよ。
現代ではもっと哲学構造は複雑だがね。 最終到達点に何かがいるなんて、人生のまだ過程を踏んでいる人の方が
レアキャラ出てるし。 西田は『善の研究』で完結したわけじゃなくて
『働くものから見るものへ』とかもあるからなあ。 大学教授を退職したら今は名誉教授だけど、
昔はそんなものあったんだっけ。
今に比べたら博士様は少なくて貴重な存在だったからか、
『働くものから見るものへ』の背表紙には
文学博士 西田幾多郎著とある。 自己なんてナルシストな哲学どうでもいいし、何かカントのまき直しみたいで
自分で書体を更新したわけでもなく、無と死の恐怖なんて日本人にはありがち。 まあそりゃそうかもしれんけど、
当時は資本主義の激動の時代で、自我の崩壊の危機にある人も多かったわけだから、
そういう人向けには良い著作だったんじゃないの。
田辺元なんかは社会哲学の方に向かったわけだけどさ。 藤田正勝『日本哲学史』
http://www.showado-kyoto.jp/book/b375502.html
これは楽しみ
単著で大部の「日本哲学史」なんて、これまでもこれからも書かれることはほとんどないだろう >>649
> この150年、日本にも「哲学」はあった。
> しかし、それらは個々にしか語られてこなかった。
> その全体像がいま浮かび上がる。 序 章 日本の「哲学」と「哲学史」
1 「哲学」をどう捉えるか
2 哲学史とは何か
■第一部 受容期――明治の哲学
第一章 明治前期の哲学
1 「哲学」受容前史
2 西周による哲学の受容
3 福沢諭吉と近代日本の学問
4 中江兆民――「理学」としての哲学
第二章 大学という制度(アカデミズム)のなかの哲学
1 東京大学におけるフェノロサの哲学講義
2 現象即実在論――井上哲次郎・井上円了
3 哲学史の著述を通しての哲学受容――三宅雪嶺・清沢満之
4 批判的・合理的な知の形成――大西祝と狩野亨吉
5 フェノロサと岡倉天心の美学・美術史についての理解
6 ブッセ・ケーベルの日本における哲学研究への寄与
第三章 明治中期・後期における国家社会への関心と個人の自覚
1 近代化の歩みへの反省
2 個人の自覚
3 社会の矛盾や平和へのまなざし ■第二部 形成期――大正・昭和前期の哲学
第一章 大正・昭和前期の思想状況
1 大正という時代
2 昭和前期の思想状況
第二章 西田哲学と田辺哲学
1 西田幾多郎の前期の思索
2 田辺元の思想形成と西田哲学批判
3 後期西田哲学
4 田辺元の「種の論理」
第三章 西田・田辺と同時代の哲学のさまざまな展開
1 高橋里美
2 九鬼周造
3 和辻哲郎
4 美学研究の発展
5 宗教の哲学
第四章 西田・田辺の弟子たち
1 禅の伝統――久松真一・西谷啓治
2 現象学・歴史哲学・社会存在論――山内得立・高坂正顕・務台理作
3 構想力の論理――三木清
4 マルクス主義への接近――戸坂潤・梯明秀
5 多様な分野への展開――木村素衛・高山岩男・土田杏村・下村寅太郎
第五章 京都学派
1 京都学派とは
2 近代の超克 ■第三部 展開期――終戦後の哲学
第一章 敗戦からの出発
1 「近代」と「主体性」の問題
2 平和の実現に向けて
3 戦後の相対化
第二章 戦後の京都学派
1 田辺哲学の展開
2 無(空)の哲学の展開
3 京都学派の多様な展開
第三章 戦後の日本の哲学の多様な展開
1 存在と知識
2 自己と他者
3 言 葉
4 身体へのまなざし
5 比較という視座
後 語
WWWWW
/W W
/ ∵
/ /――――― |
|∵/ |
|∵ ┗━ ━┛ |
|∵ ⌒ ⌒ |
(6‖ つ |
| \____ノ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| \_/ / < やばいよ やばいよ〜!!
/| /\ \_____________ 日本哲学史とか言っておいて西田・田辺史観じゃん
せっま そりゃ第二部の一部だけでしょ。
今第一部から読んでるけどなかなか田辺や西田のところまで辿りつけなさそうだわ。 >>651-653に挙げられている以外の人達も出てくる。
井筒とか中村元とか。 『日本哲学史』の第一部まで読んだけど、
安部能成を阿部能成にしてしまっている箇所があった。 第二部の大正という時代を読んだんだけど、
鈴木貞美を鈴木貞実にしてしまっている箇所があった。脚注では正しく書けているのに・・ ここまで打ち間違いにばかり触れたけど、
『日本哲学史』は、純哲だけでなく、
政治や経済の分野の人物(吉野作蔵とか河上肇)にも焦点を当てている点で
良い本だと思っている。 読みかけの苅部直の『日本思想史への道案内』を久しぶりに読んだ。
苅部は様々な事柄を料理して一定の方向へまとめるのが上手いなあと感じた。 西田幾多郎「善の研究」53%だけど、
第二編で、朱子学の究理論について述べていて、
第三編で、陽明学について言及しているので、
西田幾多郎は、最初は儒教を前提に哲学を始めたのではないだろうか。
キリスト教的な神学の要素と朱子学との融合をはかったのが、
「善の研究」な気がしている。
めっちゃ難しくて、さっぱりわけがわからないが、
あと半分を読むよ。
西田幾多郎「善の根拠」56%。
第三編。
西田は、自由意志について述べている。
西田は、自由意志を否定している。
意志は大自然によって規定されたものから機械的に決まると述べている。
心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
それがどう「善」と関わるのかつづきを読みたい。 西田幾多郎「善の根拠」60%。
西田は、ことの善悪は、理論だてられた倫理によって規定されるよりも、
善悪という感情の想起によって決まるという。
この辺りは、カントの「判断力批判」の、「快不快の美学的判断は、合目的的な判断とは異なる」
という一説にまとめられるだろうが、西田幾多郎は、それと同じような内容を別のことばで語っている。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。
智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。 西田幾多郎「善の根拠」69%。
意志は、快不快の情欲から発生する。
情欲を抑制する意思は、快不快の情欲よりも大事な目的がある場合だけである。
意志は、快不快の情欲によって決まるが、
快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
ヒトの意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 「善の研究」西田幾多郎をやっと読んだよ。
「善の研究」西田幾多郎
西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。
何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。
法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。
(白取春彦「勉学術」) 善と悪、正義と不正義は客観的に存在する。
そうじゃないと社会運動や政治活動のモチベーションが下がる。 善と悪、正義と不正義の判断は、他人の振舞いにではなく、
自分の振舞いに向けられるべきもの 数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
― 紫式部 心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
― 紫式部 >>675-676
心身問題に取り組むことを自称する日本の自称哲学研究者は、これらの問ひ
を扱うことができるのか。これらの問ひを扱うことができないのなら、
それは、それらの人々が「心身」を目の前/手前(vorhanden)に存在する
ものとして前提としており、その前提が、これらのこれらの問ひにおいて
扱われる(zuhandenにある)心身の様態を排除するからではないのか?
であるとすれば、実際には、心身問題に取り組むことすらできない
日本の自称哲学研究者は、哲学を研究していることを詐称していること
になるだろう。 言うまでもなく、「心身」の問題を扱うことを自称する理系分野の
研究も、「心」および「身」という表現を、「心身」が目の前/手前
(vorhanden)に存在することを前提として流用している。しかし、
問題は、本来の用法を離れてそれらの表現を流用していることではない。
そうではなく、それらの流用が、それらの表現の本来の用法を
暗黙に、かつ意図的に排除していることであり、そのことにおいて、
その流用は隠喩であることすら意図されておらず、表現の悪質な
濫用であると言わなければならないだろう。 その悪質な濫用を「自然主義」などという用語で正当化するようなことを
人文系とされる分野に属する人々が始めたとするなら、それは既に
「悪質な濫用」というようりも工作と呼ぶ方がより適切だろう。 自民党の某議員
「貧困の再生産など起きない。彼らは子供さえ持てないからいずれいなくなるだろう」
2006年9月12日(火)発売 週刊SPA!2006年9月19日号49ページ 和辻や西田の理解は、彼らの通ってきた道を理解することであるから、
カントやフッサールやベルクソンやジェイムズもそれなりに理解しなければ
ならないのだろうなと思う。 酒井直樹の『日本思想という問題』と藤田正勝の『日本哲学史』の
弁証法的換骨奪胎が必要なように思えてきた。 梅原の西田論
“結局デカルト批判が彼の哲学の中心だと思いますけどね。
デカルトだと二元論になる。
自我と物質が対立するという二元的な構造にならざるを得ない。(略)
それを、世界というものは自我と物質が対立するものではない、主客合一であると言った。”
― 『日本人は思想したか』 吉本隆明、中沢新一、梅原猛 (1995) デカルト直系で身体性と実在を分けるメイヤスーなどが注目されるのと同時に、
西田や京都学派が読み返されているのはこういうところだろう。 津田雅夫の『「もの」の思想』を読了した。
日常的なレベルにおいて生活のあり方、物の考え方を見直すことで
大事な宗教批判ができるということがわかって良かった。 片山洋之介の『日常と偶然』を読了したんだけど、
実はこの人って倫理学界でものすごく偉い人?
印刷間違い(自を白だとか)があって残念だったけど、
内容は面白かった。 日本の哲学者の思想のメモ
世阿弥:物狂いの女には花を一輪さすとかわいい。
大西祝:良心の快不快。哀しみの快。
中江兆民:古代中世の征服者の原理と、近代啓蒙思想の原理のどちらにも配慮しなければならない。
鈴木大拙:愛を肯定する明治仏教。
西田幾多郎:善悪の判断は時間がたつとどんどん変わる。過去と未来の両者は現在で絶対矛盾的自己同一している。
田辺元:非合理的行動と社会正義的行動を統一する概念は神に至る。
梅原猛:多神教は思考が多様で一神教より優れている。
浅田彰:創造主は万民の支配者であるとともに、創造主は万民の奴隷である。
中島義道:嫌な同僚が理不尽に出世してしまうが、社会とはもともと理不尽なものなので仕方ない。
南直哉:他者が存在すると信じることが善の根拠。
山内志郎:自然法則には目的はないが、道徳法則にも目的はない。 日本文化のことを雑種文化と規定したのは、
一種の好プレーなんじゃないの? 山田洸(元宮城教育大学、山口大学教授)の日本思想史研究は、
地味にいい感じだな。 “『大乗仏教概論』は大拙思想のアルファであり、オメガである。
しかしながら、この書物は原著刊行から一〇〇年近くの間、封印されていた。”
― 安藤礼二 『大拙』 (2018/10/25) 鈴木大拙 『大乗仏教概論』 佐々木閑 訳 (2016) 「大西祝選」集二巻、批評編。すごいよかった。
こんなのがもっとあるなら出してくれ。 さんまちゃんの頭の回転の良さだったら
ガリ勉して京大に行くことも不可能じゃなかったやろな いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。 このスレ>>689で見てはじめて知った大西祝、いい奴だな
近代では九鬼が重いパンチを秘めている人間と感じていたが文献学と固有だけれど職人技のように小綺麗な哲学を残して終わってしまった感があるもっと見たかった人だ
大西祝はキリスト教を基礎に出発して、生きていれば日本と西洋の価値観を繋げる大仕事を恐らく成していただろうに >>704
大西祝は、「宇宙の創造主を神(かみ)とする思想は、明治の日本でも広く受けいられている」として、
それでも大西祝は「天神」を主張する。
そして、「明治政府の命令より、宇宙の神の命令を優先するキリスト教は、明治の教育の邪魔だ」といっているね。
「明治政府の目的と、キリスト教の目的は異なり、明治政府の目的を優先すべきだ」と。 序
日本の重要なものを隠していることを示す漢字が六個ある。
それは、禁、裏、秘、奥、隠、忌である。
1、禁
天は「あま」とも読め、「あめ」とも読める。どちらも使用は現場により、巧妙に入れ替えている。どちらのことばが正式で、どらちらが虚偽かは、その時々で変わる。統一するように整理しても、すぐに攻撃されてぐちゃぐちゃになる。
あめは、雨であり、悲しくも恵みの雨である。日本は雨を嫌わない。
「ドン」と呼ばれるものは、秘中の秘である。
日本神話には、天船(あまつふね)という空飛ぶ船が記述されている。
おみくじは、「大事な大事なくじ」という意味である。
2、裏
八百万(やおよろず)の柱(はしら)がある。多神教の日本にはたくさんの柱がある。
一神教の柱もいる。一神教の柱も、八百万の柱の一柱にすぎない。
社(やしろ)はやおろずの城を意味する。社は、「もり」とも読み、森を意味する。神社において、社と森は区別がつかない。
鳥居は、鳥がとまるから鳥居という。
大和(やまと)は、山の家を意味して、奈良県の家(ならされた土地の家)を意味する。そのまま、山の都を意味する。
3、秘
日本の王は、日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)である。
太陽の継承者という意味だ。
人(ひと)は、人類を意味する日本語である。 4、奥
君は、貴身(きみ)であり、君主を意味する。忠誠の対象であり、たくさんいる。
日本の王のことは、大王(おおきみ)という。
風(かぜ)と、彼是(かぜ)は混同されている。上司の命令の実行を風(かぜ:彼是)ということがある。
祭り(まつり)は、政治と神事と宴会からなる。
祭りに従わないものを、奉わぬ(まつろわぬ)民という。反体制という意味である。
5、隠
三種の神器は、日本神話の象徴である。
三種の神器(みくさのたから)は、草薙の剣、八咫の鏡、八尺瓊勾玉である。
剣は、吊る木(つるぎ)であり、長細い棒のことである。
鏡は、影見(かげみ)であり、姿を映すものである。
勾玉は、曲玉(まがたま)であり、魂に似せた飾りである。誰がどのように魂の形を知ったのかはわからない。神代の日本で、魂(たましい)がどのような概念だったのかはわからない。
三種の神器は、剣と鏡は緋緋色金(ひひいろかね)でできていて、勾玉はヒスイでできている。
四種類の魂について記す。
和魂(にぎたま)は、にぎやかな魂であり、仲の良い魂のことである。
荒魂(あらたま)は、あらぶる魂であり、暴力的な魂のことである。
幸魂(さちたま)は、しあわせな魂であり、結び、結婚を意味する。
奇魂(くしたま)は、珍しい魂である。
結びによってできるものを、娘(むすめ:結女)、息子(むすこ:結子)という。
結びの儀式には、榊(さかき:賢木、賢い木の意味)の木を振る。 6、忌
おそらく、日本の神は、彼身(かみ)であり、「あちらの実体」という意味である。
神(かみ)は神威(カムイ)より古く、神威とはアイヌ民族が神性なものの名前である神を格好よく言いかえて神威と呼んだのだろう。
黄泉(よみ)は、夜身(よみ)であり、「夜の実体」を意味して、死後の世界を意味する。
黄泉から帰ることを、蘇り(よみがえり)という。
地返しの玉は、イザナギが黄泉から生還した象徴である。 東浩紀編集のゲンロン9で現代日本の批評Wと題して
東浩紀と大澤聡と苅部直と先崎彰容が対談していたが、
その中で苅部直が京都学派の哲学のことをざっくり京都哲学と言っていたな。
京都学派というだけでは憲法学とか東洋史とかフィールドワークも入ってくるから
そういう風に言わざるを得ないのかもしれない。 波多野精一「時と永遠他八篇」
明治の西洋哲学者の代表作。
「時と永遠」では、永遠なるものには共同がともなわなければならないと説く。
永遠なるものは愛をもたなければ、永遠の孤独になってしまう。
永遠なるものについては、友情がどうなっているのかが重要だ。
「他八篇」はたいしたことは書いていない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています