【イスラム哲学】井筒俊彦を読む [無断転載禁止]©2ch.net
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任意の直線を意識する時は、実在する無限な直線に対して限定をかけている。
無限な潜在性から有限な現実性が、「限定」=「自覚」として立ち現われる。 “仏道をならふことは自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己の心身をして脱落せしむるなりと云ふ(道元)。
それは限定するものなき限定、絶対無の自己限定と云ふことでなければならない。”
― 西田幾多郎 「哲学論文 第六」 『西田幾多郎全集10』 (2004) 訳
(仏道を習うということは、自己を習うことである。
自己を習うということは、自己を忘れることである。
自己を忘れるということは、一切万物を知ることである。
一切万物を知るということは、主客を分け隔てるものをなくしてしまうことである。)
― 道元 『正法眼蔵』 「現成公案」 井筒 数学× ギリシャ語○
西田 数学○ ギリシャ語× 東大出の学者で井筒並の知の巨人って誰かいますか?
井筒に言及したことのある東大関係者
渡辺浩、宇野重規、中島隆博、中村廣治郎、今道友信 井筒俊彦は辻直四郎に頭を下げて資料を借りてそれを一か月で読んで返して
読むのが速いと感心されたんだよ。 結局クルアーンを読まないと井筒は分からないなと思って、クルアーンの注解を買ったわ。 イスラム教が哲学?
西欧で仏教は倫理学(道徳哲学)と言われ宗教ではないと言われているのはわかる。
キリスト教やイスラム教に神学(理論的考察)はあるだろうけど哲学じゃないでしょ。
井筒俊彦は神秘主義哲学者らしいけど言語矛盾じゃなかろうか
哲学は形而上学で世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問
神秘主義は神秘的合一と呼ばれる絶対者と自己との合一体験にある
神秘主義哲学者って油性水性ペンと同じくらい奇妙に聞こえるんだが >東大出の学者で井筒並の知の巨人って誰かいますか?
阪大出の学者で井筒並の知の阪神って誰かいますか? 東大関係者か知らないが個人的には中沢新一かとおもうけれども、
中沢さん本人は
「井筒さんには一生かかってもかなわない」
と、謙虚に語っている 「知の巨人」という称号を得るには、知識の深さや幅広さだけではなく、
知識量とか語学力とかいわば基礎体力的な部分で他を圧倒している必要がある。
日本で言えば南方熊楠とかそういうタイプの人に対して向けられる言葉。 >>285
勉強不足。神秘主義哲学は新プラトン派のプロティノスの時代からある伝統的哲学
プロティノスは神秘的合一体験を基にその哲学を展開した
井筒俊彦も「神秘哲学」で取り扱ってる プロティノスどころかソクラテスも ダイモーンに導かれたとか言ってるじゃん そもそも一神教圏以外では哲学と宗教は一体で分離してない
哲学の殿堂アカデメイアをキリスト教ローマが異教として閉鎖したようにギリシャ哲学は宗教と哲学が一体で分離してなかった
一神教ではギリシャ哲学を宗教とすると一教の教義に抵触するので哲学というジャンルとすることで両立を謀った側面があるのではないか? 形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在の概念がある
存在論の他に、神、精神、自由の概念等が伝統的な主題とされているけど
精神や物質もしくは数や神のような抽象的な事柄が存在するか、また人間という存在は
複雑に組み立てられた物質的な体系として定義できるかどうか
神学が哲学の部門視されることはあるが理性によっては演繹不可能な信仰の保持および
神の存在を前提とすることで、一切の思想的前提を立てない理性の学としての
哲学とは異なるとする見方が一般的です。 例えば自然科学の学者、科学者ですね。
科学者が実験、観察、分析、総合、仮説と実証に神を語りだしたらどうでしょう。
神秘主義科学者などと言うのでしょうか。とたんに怪しい人ですよね。
ここにいるのだから皆さんは哲学に傾倒しているのでしょう。
神秘主義哲学者などと哲学に対する侮辱ではないでしょうか。
個人的には社会科学と言う表現も不愉快極まりない。科学に対する侮辱と言っていい。 >>294
神秘主義哲学は必ずしも神なんて事は言わない。井筒俊彦読んでみろ。神なんか出てこないから
ミスティシズムとオカルティズムを混同した的外れ言うな。 推理力自己批判精神ぐらいでどうだ。次代のカントは。 井筒俊彦著作集別巻面白いな
正巻より面白いかもしれん 298 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん 井筒豊子の「井筒俊彦の学問遍路ー同行二人半」読みはじめた >>302
新しい本だ。(2017/9/15)
今年亡くなったのか。 井筒豊子 『白磁盒子』 (1993)
短編小説集。
井筒と放浪のタタール人学者ムーサーのやり取りが描かれているもの。 >>3の英文著作翻訳コレクション
『2 クルアーンにおける神と人間―クルアーンの世界観の意味論』 (2017年6月)
『3 存在の概念と実在』 (2017年9月)
も出てた。
ハイデガー/サルトルとイスラムの存在論の比較とか。 井筒俊彦の学問遍路には余り知られてなかった彼のマッギルからイラン時代やそれ以降まで詳しく書かれてる。内気で人間嫌いとも言われる井筒だが内外問わずそうそうたる面子と関わりあいその才能を認められてる 一即多、一即一切の華厳的記号学モデル
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、e、、、の中のaが強調される。
参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989) デリダの「ロゴス中心主義の解体」による存在根拠解体のあと(後、跡)。
井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…” モノたちの宇宙ー思弁的実在論とは何かーの解説に今後ハーマンと井筒俊彦の哲学、あらや識の理論や廣松渉の事的世界観の比較が重要になると書いてる 意識と本質の内容
@無本質論…禅、老子
A有本質論
1個別的本質論…本居宣長
2普遍的本質論
(1)存在の深層に本質が在る
…宋学
(2)元型的本質が在る
…シャーマニズム、密教、スーフィ、カバラなど
(3)表層意識で理知的な概念として本質を捉える
…孔子の正名論、プラトン、ニヤーヤヴァイシェーシカなど
意識の形態
1表層意識
2イマージュ世界
3言語アラヤ識
4c領域
5存在の0ポイント 存在の概念と実在性で神は存在であるというモッラーサドラーの解釈が出る
井筒俊彦の神観念でもあるだろう
こういう観念で思い出すのはシャンカラの不二一元論だ 「意識と本質」も、
後半のユダヤ教の説明は割とどうでも良く、鬱陶しい 仏教が哲学を語るのは理解できる。西欧でも倫理学とか道徳哲学言われてるから
しかし一神教ごときが哲学って・・・。 自分は井筒さん読み始めの初心者だが、禅仏教の哲学に向けてが凄過ぎて、夢中になって読みました
御本人のリアリティに裏打ちされたというか…
なかなかあそこまで書ける人はいないなあって
ただ難解なのといちいち自分の先入観が揺さぶられるから読み進むのにえらい時間がかかる(笑) >>315
仏教が哲学的発展を遂げたのは実質的には初期段階だけだ、大乗仏教で説かれた膨大な教説は
一見して論理的に見えるのだろうが実態はそうではなく一神教と変わらぬ独断論の集積に過ぎない >>317
何子供の戯言じみた事を(笑)
大乗中観や唯識は現代哲学や現代心理学と比肩される事もある代物
華厳の教学は現代数学の列の論理を含む
密教はホロン理論と比較されユングも注目した
禅はヴィトゲンシュタインとハイデガーという20世紀の二大哲学者と比較されそれより進んだものと言われたりする事もある フランス文学の方が本質的でいいと思う。後は文字列の韻とか、関連させたり、
死や文学の技術の関係を、同族的にしないことだろう。 科学と仏教を結びつけて考えようとする試みなど、どれも強引なこじつけばかりだろう
特に、大乗経典は釈迦や如来がSFチックな異能力者で超人だからやってることが一神教と大差ない >>320
あなたが言ってるイメージにあるのは強引に現代物理学と東洋哲学を結合させた浅はかなニューエイジの類
井筒俊彦のもの読んでから大乗に文句言ってね。 スマナサーラっていう有名仏教徒が、仏教は心の科学とか言ってるし、
科学者が瞑想を研究したマインドフルネスってのもやたら流行ってるし、
たしかに仏教と科学を結び付けようという流れはあると思う。
現代は、科学的な枠に収まってないと信用されないんだろうな。
実際には科学ってのは限界もあるのに。 ヨーガ行唯識派なんかはヨーガ行で内観してその心の動きをチェックしつつ仏教心理学を体系化していった。
そういう側面が仏教にはある
勿論井筒俊彦も内観による内的体験がその哲学の基礎になってる >>323
マインドフルネスは科学とは特に関係ないだろ
昔からあるヴィパッサナー冥想を上座部の人たちが英語で熱心に布教してるだけで >>325
禅やヴィパッサナーのストレス低減効果や集中力改善効果などを科学的に検証したのがマインドフルネス 北アフリカ・中東地域生まれつき知能が低い疑い
難民のIQは大卒であってもわずか93しかない
ボイス・オブ・ヨーロッパに掲載された、欧州の移民問題についての赤裸々な議論です
EUと主要メディアは、高齢化する欧州は若い労働力を補うために移民が必要だと言う。
しかし、現実はそれとはかけ離れている。たとえば、ドイツ、スイス、そしてオランダでは、
80〜99パーセントの移民が、移住後1年以上を経てもなお定職に就いていない。
多くの移民は、現代の欧州で労働力として要求される技能を有していない。
心理学教授ハイナー・リンダーマンは、2015年10月に難民(移民)がドイツ人と比較して
平均的に低い知能しか持っていない。彼の研究によると、大卒の難民の数学と抽象的な
タスクにおける平均知能指数は93で、地元の高校生と同レベルしかなかった。
よく指摘される“言語の問題”はこの差異が生じている理由のほんの一部でしかなく、
根本的な問題は基礎技能の欠如だとリンダーマンは続けた。「ムスリム社会やアフリカで
見られる頻繁な血族間結婚(いとこ同士の結婚など)とそれによって引き起こされる障害が
問題を悪化させている」と、彼は付け加えた。すべての人間は能力と可能性において平等
であると左翼は信じているが、世界のIQ地図が示しているように、そんなことはありえない
違った地域から来た人たちは皆違うということを認めることは、事実上、レイシストではない。
「高い認知能力を持った人口が多い国々は、単に裕福なだけではなく、
平均的に言ってより自由で民主的であり、法の支配と平等がより確立されており、
有能な政府に統治されている。そういった社会は殺人発生率も低く、より安全だ。
そのような現代性は「認知の現代性」であり、
高い認知能力抜きでは獲得できたり促進できたりするものではない!」
https://www.newshonyaku.com/eu/study/20180122 体育会系と理科系の違いでしかないだろう。それをレイシズムにするのは間違っていると思う。 それは、欧米ではだいぶ前から、さんざんやってきた議論。
黒人の知能指数が低いのは、後天的な要因なのか、それとも、先天的な要因なのか。
これについては、盛んに議論されている。
まちがいないのは、「黒人の知能指数が低い」ということ。
こればかりは客観的事実なので、誰も否定できない。
議論されているのは、その「原因」について。 しかし、アラビア人やペルシャ人は、多くの偉大な知識人を輩出してきた歴史を持っている。 >>323
>スマナサーラっていう有名仏教徒が、仏教は心の科学とか言ってるし、
科学者が瞑想を研究したマインドフルネスってのもやたら流行ってるし、
たしかに仏教と科学を結び付けようという流れはあると思う。
それは、「科学」と言ってるだけ。
あんまり関係ないよ。 要するに、思考停止して頭の中をカラッポにすることにより、感覚を研ぎ澄ませる。
自分の身体や精神に、意識を集中する。
それがマインドフルネス瞑想。 アメリカの黒人で泳げるのは2割程度だと言われる。これは説明なしに理解できる。
イスラムのレベル低下は、毎日アザーンがあって礼拝が義務付けられてるんだからイヂメられっ子と同じだよ。当分ダメだろうね。 大川周明 『安楽の門』
私は此の書斎(松沢病院の病室)に古蘭原典と、十種に余る和漢英仏独の訳本を自宅から取寄せ、昭和二十一年十二月一日から之を読み初めた。
それは私が乱心中の白日夢で屡々マホメットと会見し、そのために古蘭に対する興味が強くよみがへったからである。 極東軍事裁判にかけられたとき大川はキチガイのふりをして死刑を免れた
イスラムに傾倒したのはその贖罪の念が拭い去れなかった所為だろう >>328
普通の生活を送れる人間と難民とでは、そもそも学習環境に違いがあるだろ ハッラージュ 「アナ・ル・ハック (Ana al-Haqq)」 (われは真理(=神=真実在)なり)
> Haqq is the Arabic word for truth.
> In Islamic contexts, it is also interpreted as right and reality.
> Al-Haqq, 'the truth, is one of the names of God in the Qur'an.
> It is often used to refer to God as the Ultimate Reality in Sufism.
そう言って処刑されるわけだが アウグスティヌスと「VERITAS(真理)」の文字
http://dowym.com/wp-content/uploads/2016/05/ST-Augustine-of-Hippo_edited-1.jpg
> 真理はどのように認識されるのであろうか。
> アウグスティヌスは真理(veritas)を真なるもの(verum)との関係において認識しようとする(I, 15, 27)。
> この二つは別のものとして,真理は真なるものの存在の根拠であり,
> 真なるものは真理によって存在させられる(I, 15, 27)。
> 言い換えれば,真理は神的存在で,真なるものはその被造物だということである。 アウグスティヌスはアルジェリア。
アウグスティヌスが一時期信奉していたマニ教は、ゾロアスター教、キリスト教、仏教などの流れを汲む。 井筒が指摘した、イスラムの神が仏教の真如に近いものである、
というテーゼは、別に難しい話ではなく、
>>338の様なwikiの辞書的説明にも用いられるもの。
これによって、キリスト教、イスラム、仏教のそれぞれ、
真理=真実在=真如が比較される。
その実体は、神であったり、現象であったり、あるいは偶然性であったりもする。 イブン・アラビーのアッラーと無
> 宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。
> これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。
> そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、
> それが全存在世界の太源であると考えた[5]。
> イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。
> 「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。
> 「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、
> 「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。
> 無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、
> ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から
> 言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する[6]。 >>343
「東洋的無」と呼ばれるもの
・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ神秘主義カバラにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学における無相のブラフマン
・老荘の道
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極
意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。 井筒のいう「ゼロポイント」という言葉は何に由来するものだったか >>328
「北アフリカ・中東地域生まれ」の人達が始めた宗教を
世界の半分以上の人達が信奉しているわけだろ
・キリスト教 22億5400万人(33.4%)
・イスラム教 15億0000万人(22.2%)
・ヒンズー教 9億1360万人(13.5%)
・仏 教 3億8400万人(5.7%)
・無宗教:7億6900万人(11.4%)
・無神論:1億4830万人(2.2%)
・心霊主義:1366万人(0.2%)
・バハーイ教:786万人(0.1%)
・中国伝統的宗教:3億8720万人(5.7%)
・儒 教:641万人(0.1%)
・道 教:337万人(0.1%)
・神 道:278万人(0.0%)
・その他:134万人(0.0%)
合計:67億4960万人 (百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版) ロシア哲学・思想史関連
『ゲンロン6・7 ロシア現代思想I・II』 東浩紀 (2017)
『20世紀ロシア思想史 : 宗教・革命・言語』 桑野隆 (2017)
『ロシアあるいは対立の亡霊 : 「第二世界」のポストモダン』 乗松亨平 (2015)
『ロシア精神史への旅 : 野口和重ロシア史論集』 野口和重 (2009)
『ロシアの源流 : 中心なき森と草原から第三のローマへ』 三浦清美 (2003)
『ロシアとヨーロッパ−ロシアにおける精神潮流の研究 1・2・3』 T.G.マサリク (2002-2005)
『ロシア学を学ぶ人のために』 藤本和貴夫 (1996)
『ロシア精神史 哲学と社会思想の流れ』 セルゲイ・レヴィーツキイ (1994)
『ロシア思想史』 森宏一 (1990)
『ロシア思想史 : メシアニズムの系譜』 高野雅之 (1989)
『ロシア精神の源 : よみがえる「聖なるロシア」』高橋保行 (1989)
『ロシア・ソヴィエト哲学史』 ルネ・ザパタ (1997)
『ロシア的人間』 井筒俊彦 混沌(カオス)といえば、ロシアもやらないといけない。
井筒は、ロシアには「原初(エレメンタール)な根源」があるという。(「ロシア的人間」)
それから、「存在の窮極の太古の源に彼等は直接つながっている」とも。(「露西亜文学」) 難しい話だが、このことはロシアをやっていく上で時折ヒントになる。 “おお夜の海よ、お前は何と美しいことか!
ここは燦々と輝き、かしこは暗く濃藍色、
月光を身に浴びて、海は生きもののように
歩み、呼吸し、きらめいている。
涯て知らぬ自由のひろがりの上に
閃々と光り、たゆたい、遠雷のごとくどよみ轟く
縹渺たる月光を全身に浴びた海よ、
人気ない夜の世界に、お前はなんと素晴らしいことか。
巨大なるうねりよ、海のうねりよ
お前はそんなにして誰の祭日を祝つているのか。
浪は轟き輝きつつ寄せて来る。
目ざとい星達が空にまたたいている。
この動揺のさなかに、この煌燿(きらめき)のさなかに、
夢みるごとく茫然と私は立ちつくす。
ああ如何に心地よいことであろうか
この魅惑の中に魂を沈め盡すことができたなら”
― チュチェフ 「無題」 1865年作 (井筒俊彦「ロシア的人間」9章) “ギリシャ正教の修道院における祈りは、ヘシュカズムと呼ばれる行法に則って行われる。
ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ語でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、
イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐み給え。」を繰り返し称える行法である。
その際、自己の内面への精神集中の一助として、座法や呼吸法をともなった精神身体技法、心身技法を援用する。
イスラームはスーフィズムのズィクル(神の名の連禱)や仏教は真言密教の三密(身、口、意)瑜伽行とほとんど変わる処はない。”
― 『ギリシャ正教 無限の神』 落合仁司 (2001) ヘシュカズムの説明なんてこれぐらいのものでしょ
話になる話とは? ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ語でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、
イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐み給え。」を繰り返し称える行法である。
↓
この前提から間違いだから
ヘシュカズムは何らかの行法じゃない極端にいえば呼吸法とか座法とかの方法はあってもなくてもいいようなもの >>358
> ヘシュカズムは何らかの行法じゃない
で、何なの?観想だとでも言いたいの?
>>355には、「一助として…援用する」とあるでしょ。
複数の本、各種宗教事典で調べてもこれぐらいのもの。 >>355
ズィクルと真言密教は同根だろう。
前者は井筒、後者は小滝がそれぞれ詳しい。
『イスラーム哲学の原像』 井筒俊彦 (1980)
『密教とイスラーム 高野山修行記』 小滝透 (1987) とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
64NJK >>352、>>361
手錠をかけられたまま笑って見せるのが政治犯 >>360
神秘主義や神人合一は、世界中に例があるから、
今更どうこう言うものでもないが、
この二つの比較だけはショッキング。 井筒俊彦 『存在の概念と実在性』 (2017/10/21)(英文著作翻訳コレクション3)
は読んだだろうか?
ここへきて井筒哲学が2割増しになる。
・ハイデガー/サルトルの実存主義とイラン哲学の存在主義の比較
・ファナーとバカー論 再
・イブン・アラビーによる無からの神的顕現 再
・エッセンティアとエクステンティア
・イウティバールとイウティバーリー
ほか 『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 井筒が表紙に写ってる雑誌あるだろ。
あれ見てオレかと思った。
やっぱな、オレって才能あるかも。 ムハンマドは初期のころから命をねらわれたりして
今のオウムみたいな胡散臭い存在だったらしいな。
1000年後いや500年後どうなっているやら。 井筒俊彦の哲学は原型としてはシャンカラのそれにより近いと思う。
大乗仏教より井筒俊彦は実在論的で主客未分の実在を語ったのはシャンカラだから。 井筒俊彦『意識と本質』によると
井筒が「本質」を2つに分けた
a、マーフィーヤ(特殊的意味での本質)
b、スーフィーヤ一般的意味での本質)だけど、
aは普遍的「本質」(マーフィーヤ)
bは個体的「本質」(スーフィーヤ)
詩人
リルケ
マラルメ
松尾芭蕉
それぞれでスーフィーヤとマーフィーヤという本質を追求する態度が違うらしいが。
詩について私が言えることはないが、
これについては、もう一度読み直してまとめてみる。『意識と本質3.4.5に論じられているので、
興味あれば読んでみ
今その次の『意識と本質6』のところ
禅やバカヴァット・ギータのところを読んでいるので、ここのところから。
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