【イスラム哲学】井筒俊彦を読む [無断転載禁止]©2ch.net
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自分は井筒さん読み始めの初心者だが、禅仏教の哲学に向けてが凄過ぎて、夢中になって読みました
御本人のリアリティに裏打ちされたというか…
なかなかあそこまで書ける人はいないなあって
ただ難解なのといちいち自分の先入観が揺さぶられるから読み進むのにえらい時間がかかる(笑) >>315
仏教が哲学的発展を遂げたのは実質的には初期段階だけだ、大乗仏教で説かれた膨大な教説は
一見して論理的に見えるのだろうが実態はそうではなく一神教と変わらぬ独断論の集積に過ぎない >>317
何子供の戯言じみた事を(笑)
大乗中観や唯識は現代哲学や現代心理学と比肩される事もある代物
華厳の教学は現代数学の列の論理を含む
密教はホロン理論と比較されユングも注目した
禅はヴィトゲンシュタインとハイデガーという20世紀の二大哲学者と比較されそれより進んだものと言われたりする事もある フランス文学の方が本質的でいいと思う。後は文字列の韻とか、関連させたり、
死や文学の技術の関係を、同族的にしないことだろう。 科学と仏教を結びつけて考えようとする試みなど、どれも強引なこじつけばかりだろう
特に、大乗経典は釈迦や如来がSFチックな異能力者で超人だからやってることが一神教と大差ない >>320
あなたが言ってるイメージにあるのは強引に現代物理学と東洋哲学を結合させた浅はかなニューエイジの類
井筒俊彦のもの読んでから大乗に文句言ってね。 スマナサーラっていう有名仏教徒が、仏教は心の科学とか言ってるし、
科学者が瞑想を研究したマインドフルネスってのもやたら流行ってるし、
たしかに仏教と科学を結び付けようという流れはあると思う。
現代は、科学的な枠に収まってないと信用されないんだろうな。
実際には科学ってのは限界もあるのに。 ヨーガ行唯識派なんかはヨーガ行で内観してその心の動きをチェックしつつ仏教心理学を体系化していった。
そういう側面が仏教にはある
勿論井筒俊彦も内観による内的体験がその哲学の基礎になってる >>323
マインドフルネスは科学とは特に関係ないだろ
昔からあるヴィパッサナー冥想を上座部の人たちが英語で熱心に布教してるだけで >>325
禅やヴィパッサナーのストレス低減効果や集中力改善効果などを科学的に検証したのがマインドフルネス 北アフリカ・中東地域生まれつき知能が低い疑い
難民のIQは大卒であってもわずか93しかない
ボイス・オブ・ヨーロッパに掲載された、欧州の移民問題についての赤裸々な議論です
EUと主要メディアは、高齢化する欧州は若い労働力を補うために移民が必要だと言う。
しかし、現実はそれとはかけ離れている。たとえば、ドイツ、スイス、そしてオランダでは、
80〜99パーセントの移民が、移住後1年以上を経てもなお定職に就いていない。
多くの移民は、現代の欧州で労働力として要求される技能を有していない。
心理学教授ハイナー・リンダーマンは、2015年10月に難民(移民)がドイツ人と比較して
平均的に低い知能しか持っていない。彼の研究によると、大卒の難民の数学と抽象的な
タスクにおける平均知能指数は93で、地元の高校生と同レベルしかなかった。
よく指摘される“言語の問題”はこの差異が生じている理由のほんの一部でしかなく、
根本的な問題は基礎技能の欠如だとリンダーマンは続けた。「ムスリム社会やアフリカで
見られる頻繁な血族間結婚(いとこ同士の結婚など)とそれによって引き起こされる障害が
問題を悪化させている」と、彼は付け加えた。すべての人間は能力と可能性において平等
であると左翼は信じているが、世界のIQ地図が示しているように、そんなことはありえない
違った地域から来た人たちは皆違うということを認めることは、事実上、レイシストではない。
「高い認知能力を持った人口が多い国々は、単に裕福なだけではなく、
平均的に言ってより自由で民主的であり、法の支配と平等がより確立されており、
有能な政府に統治されている。そういった社会は殺人発生率も低く、より安全だ。
そのような現代性は「認知の現代性」であり、
高い認知能力抜きでは獲得できたり促進できたりするものではない!」
https://www.newshonyaku.com/eu/study/20180122 体育会系と理科系の違いでしかないだろう。それをレイシズムにするのは間違っていると思う。 それは、欧米ではだいぶ前から、さんざんやってきた議論。
黒人の知能指数が低いのは、後天的な要因なのか、それとも、先天的な要因なのか。
これについては、盛んに議論されている。
まちがいないのは、「黒人の知能指数が低い」ということ。
こればかりは客観的事実なので、誰も否定できない。
議論されているのは、その「原因」について。 しかし、アラビア人やペルシャ人は、多くの偉大な知識人を輩出してきた歴史を持っている。 >>323
>スマナサーラっていう有名仏教徒が、仏教は心の科学とか言ってるし、
科学者が瞑想を研究したマインドフルネスってのもやたら流行ってるし、
たしかに仏教と科学を結び付けようという流れはあると思う。
それは、「科学」と言ってるだけ。
あんまり関係ないよ。 要するに、思考停止して頭の中をカラッポにすることにより、感覚を研ぎ澄ませる。
自分の身体や精神に、意識を集中する。
それがマインドフルネス瞑想。 アメリカの黒人で泳げるのは2割程度だと言われる。これは説明なしに理解できる。
イスラムのレベル低下は、毎日アザーンがあって礼拝が義務付けられてるんだからイヂメられっ子と同じだよ。当分ダメだろうね。 大川周明 『安楽の門』
私は此の書斎(松沢病院の病室)に古蘭原典と、十種に余る和漢英仏独の訳本を自宅から取寄せ、昭和二十一年十二月一日から之を読み初めた。
それは私が乱心中の白日夢で屡々マホメットと会見し、そのために古蘭に対する興味が強くよみがへったからである。 極東軍事裁判にかけられたとき大川はキチガイのふりをして死刑を免れた
イスラムに傾倒したのはその贖罪の念が拭い去れなかった所為だろう >>328
普通の生活を送れる人間と難民とでは、そもそも学習環境に違いがあるだろ ハッラージュ 「アナ・ル・ハック (Ana al-Haqq)」 (われは真理(=神=真実在)なり)
> Haqq is the Arabic word for truth.
> In Islamic contexts, it is also interpreted as right and reality.
> Al-Haqq, 'the truth, is one of the names of God in the Qur'an.
> It is often used to refer to God as the Ultimate Reality in Sufism.
そう言って処刑されるわけだが アウグスティヌスと「VERITAS(真理)」の文字
http://dowym.com/wp-content/uploads/2016/05/ST-Augustine-of-Hippo_edited-1.jpg
> 真理はどのように認識されるのであろうか。
> アウグスティヌスは真理(veritas)を真なるもの(verum)との関係において認識しようとする(I, 15, 27)。
> この二つは別のものとして,真理は真なるものの存在の根拠であり,
> 真なるものは真理によって存在させられる(I, 15, 27)。
> 言い換えれば,真理は神的存在で,真なるものはその被造物だということである。 アウグスティヌスはアルジェリア。
アウグスティヌスが一時期信奉していたマニ教は、ゾロアスター教、キリスト教、仏教などの流れを汲む。 井筒が指摘した、イスラムの神が仏教の真如に近いものである、
というテーゼは、別に難しい話ではなく、
>>338の様なwikiの辞書的説明にも用いられるもの。
これによって、キリスト教、イスラム、仏教のそれぞれ、
真理=真実在=真如が比較される。
その実体は、神であったり、現象であったり、あるいは偶然性であったりもする。 イブン・アラビーのアッラーと無
> 宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。
> これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。
> そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、
> それが全存在世界の太源であると考えた[5]。
> イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。
> 「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。
> 「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、
> 「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。
> 無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、
> ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から
> 言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する[6]。 >>343
「東洋的無」と呼ばれるもの
・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ神秘主義カバラにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学における無相のブラフマン
・老荘の道
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極
意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。 井筒のいう「ゼロポイント」という言葉は何に由来するものだったか >>328
「北アフリカ・中東地域生まれ」の人達が始めた宗教を
世界の半分以上の人達が信奉しているわけだろ
・キリスト教 22億5400万人(33.4%)
・イスラム教 15億0000万人(22.2%)
・ヒンズー教 9億1360万人(13.5%)
・仏 教 3億8400万人(5.7%)
・無宗教:7億6900万人(11.4%)
・無神論:1億4830万人(2.2%)
・心霊主義:1366万人(0.2%)
・バハーイ教:786万人(0.1%)
・中国伝統的宗教:3億8720万人(5.7%)
・儒 教:641万人(0.1%)
・道 教:337万人(0.1%)
・神 道:278万人(0.0%)
・その他:134万人(0.0%)
合計:67億4960万人 (百科事典「ブリタニカ」年鑑2009年版) ロシア哲学・思想史関連
『ゲンロン6・7 ロシア現代思想I・II』 東浩紀 (2017)
『20世紀ロシア思想史 : 宗教・革命・言語』 桑野隆 (2017)
『ロシアあるいは対立の亡霊 : 「第二世界」のポストモダン』 乗松亨平 (2015)
『ロシア精神史への旅 : 野口和重ロシア史論集』 野口和重 (2009)
『ロシアの源流 : 中心なき森と草原から第三のローマへ』 三浦清美 (2003)
『ロシアとヨーロッパ−ロシアにおける精神潮流の研究 1・2・3』 T.G.マサリク (2002-2005)
『ロシア学を学ぶ人のために』 藤本和貴夫 (1996)
『ロシア精神史 哲学と社会思想の流れ』 セルゲイ・レヴィーツキイ (1994)
『ロシア思想史』 森宏一 (1990)
『ロシア思想史 : メシアニズムの系譜』 高野雅之 (1989)
『ロシア精神の源 : よみがえる「聖なるロシア」』高橋保行 (1989)
『ロシア・ソヴィエト哲学史』 ルネ・ザパタ (1997)
『ロシア的人間』 井筒俊彦 混沌(カオス)といえば、ロシアもやらないといけない。
井筒は、ロシアには「原初(エレメンタール)な根源」があるという。(「ロシア的人間」)
それから、「存在の窮極の太古の源に彼等は直接つながっている」とも。(「露西亜文学」) 難しい話だが、このことはロシアをやっていく上で時折ヒントになる。 “おお夜の海よ、お前は何と美しいことか!
ここは燦々と輝き、かしこは暗く濃藍色、
月光を身に浴びて、海は生きもののように
歩み、呼吸し、きらめいている。
涯て知らぬ自由のひろがりの上に
閃々と光り、たゆたい、遠雷のごとくどよみ轟く
縹渺たる月光を全身に浴びた海よ、
人気ない夜の世界に、お前はなんと素晴らしいことか。
巨大なるうねりよ、海のうねりよ
お前はそんなにして誰の祭日を祝つているのか。
浪は轟き輝きつつ寄せて来る。
目ざとい星達が空にまたたいている。
この動揺のさなかに、この煌燿(きらめき)のさなかに、
夢みるごとく茫然と私は立ちつくす。
ああ如何に心地よいことであろうか
この魅惑の中に魂を沈め盡すことができたなら”
― チュチェフ 「無題」 1865年作 (井筒俊彦「ロシア的人間」9章) “ギリシャ正教の修道院における祈りは、ヘシュカズムと呼ばれる行法に則って行われる。
ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ語でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、
イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐み給え。」を繰り返し称える行法である。
その際、自己の内面への精神集中の一助として、座法や呼吸法をともなった精神身体技法、心身技法を援用する。
イスラームはスーフィズムのズィクル(神の名の連禱)や仏教は真言密教の三密(身、口、意)瑜伽行とほとんど変わる処はない。”
― 『ギリシャ正教 無限の神』 落合仁司 (2001) ヘシュカズムの説明なんてこれぐらいのものでしょ
話になる話とは? ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ語でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、
イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐み給え。」を繰り返し称える行法である。
↓
この前提から間違いだから
ヘシュカズムは何らかの行法じゃない極端にいえば呼吸法とか座法とかの方法はあってもなくてもいいようなもの >>358
> ヘシュカズムは何らかの行法じゃない
で、何なの?観想だとでも言いたいの?
>>355には、「一助として…援用する」とあるでしょ。
複数の本、各種宗教事典で調べてもこれぐらいのもの。 >>355
ズィクルと真言密教は同根だろう。
前者は井筒、後者は小滝がそれぞれ詳しい。
『イスラーム哲学の原像』 井筒俊彦 (1980)
『密教とイスラーム 高野山修行記』 小滝透 (1987) とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
64NJK >>352、>>361
手錠をかけられたまま笑って見せるのが政治犯 >>360
神秘主義や神人合一は、世界中に例があるから、
今更どうこう言うものでもないが、
この二つの比較だけはショッキング。 井筒俊彦 『存在の概念と実在性』 (2017/10/21)(英文著作翻訳コレクション3)
は読んだだろうか?
ここへきて井筒哲学が2割増しになる。
・ハイデガー/サルトルの実存主義とイラン哲学の存在主義の比較
・ファナーとバカー論 再
・イブン・アラビーによる無からの神的顕現 再
・エッセンティアとエクステンティア
・イウティバールとイウティバーリー
ほか 『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 井筒が表紙に写ってる雑誌あるだろ。
あれ見てオレかと思った。
やっぱな、オレって才能あるかも。 ムハンマドは初期のころから命をねらわれたりして
今のオウムみたいな胡散臭い存在だったらしいな。
1000年後いや500年後どうなっているやら。 井筒俊彦の哲学は原型としてはシャンカラのそれにより近いと思う。
大乗仏教より井筒俊彦は実在論的で主客未分の実在を語ったのはシャンカラだから。 井筒俊彦『意識と本質』によると
井筒が「本質」を2つに分けた
a、マーフィーヤ(特殊的意味での本質)
b、スーフィーヤ一般的意味での本質)だけど、
aは普遍的「本質」(マーフィーヤ)
bは個体的「本質」(スーフィーヤ)
詩人
リルケ
マラルメ
松尾芭蕉
それぞれでスーフィーヤとマーフィーヤという本質を追求する態度が違うらしいが。
詩について私が言えることはないが、
これについては、もう一度読み直してまとめてみる。『意識と本質3.4.5に論じられているので、
興味あれば読んでみ
今その次の『意識と本質6』のところ
禅やバカヴァット・ギータのところを読んでいるので、ここのところから。
あとでレジュメ書く 『意識と本質』チャプター6
禅ー
すべての存在者から「本質」を消去
すべての意識対象を無化。全存在世界をカオス化してしまう。
一旦カオス化しきった世界に禅は、また再び秩序を戻す。
まったく新しい形で。さまざまな事物がもう一度戻ってくる(しかしあくまで無「本質」的に
具体的には
道元禅師『坐禅箴』
「水清くして地に徹す、漁行きて魚に似たり。空闊くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし」
↓
本質が措定されていない。が、「本質」がないのに鳥は鳥として文節されている。
「川の中を泳いでいる漁」を見ている私が見ているものを禅は無化する。「川に魚が泳いでいることは現実だとしても、
それを映している私の意識がみているものは全て虚像に過ぎない。
「鳥飛んで鳥のごとし」。これも同じで鳥が飛んでいるということ自体、禅では虚像だという。
本来なら「川の中を泳いでいる漁」は確かに私の目に現実として映っている筈である。
何故なら私の意識は、川を泳ぐ漁を「本質」として、確かに現前していると確信しているから。
私たちの意識は「鳥が飛んでいる」景色を見て、「本質」を掴み取っている。
確かに鳥は飛んでいるのだ。何故ならありありと鳥が空を飛ぶ姿を私の意識は、掴んでいるから。
その現実を「本質」として捉える作用が、私の意識の自然な働きだからである。
↑
禅はこれらの意識の働きを無化するという。
つまり実存体験事実に至るのである。
禅は鳥が空を飛んでいることを「本質」として捉える。そしてそれは虚像であることを意識として捉える。
禅の意識はメタ的に本質を無化しているのである。本当は鳥が実際に空を飛んでいることを知っている。
知っていて無化するのだ。無化して、再び秩序を戻す。そして戻した瞬間に「本質」を無化する
では、どうしてそうする必要があるのだろうか? 『バカヴァット・ギータ』第18章の一節(サーンキヤ哲学)
「三徳」という考え方があり、
現実在(現質)-
純質(サットヴァ)-全世界を究極的一者として眺める
激質(ラジヤス)-現象的多者の間に動揺ただならぬ意識
闇質(タマス)-愛憎に縛られた沈重な意識
感覚器官も意識も、その対象である外界の事物も、すべてこれら三種の存在エネルギーの
さまざまな混合によって現象し、いわゆる経験界を形成する。
その「三徳」は禅の「無心」「有心」「執心」に当てはまるという。 禅に当てはめると
a、純質ー「無心」
b、激質ー「有心」
c、闇質ー「執心」
a、全存在界を究極的一者性において眺める。
b、経験的事物を個々別々なものとして差別し、それらを個々別々に認識する。
c、特定の事物に対する欲情的妄執的な態度。ある一つの対象をまるでそれが全てであるかのように
追い求める、根拠のない愛着の心
禅の「心を擬する」ー
意識のエネルギーをある一定の方向に向かって緊張させ、その先端に一つの対象を認知すること
「至道」への最大の障礙
現実を「本質」的に文節し、個々別々のものとしてしか見ることができない。
「有心」の段階においては、必ず分節的意識が作用するやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を消す 意識と本質の29ページにシャンカラとイブンアラビーの共通性を指摘し東洋哲学の一つの典型としてる。
おそらく井筒俊彦の本音が出てる。
勿論大乗仏教特に禅の本質否定論も出すがどちらかというとシャンカラ寄りではないか? ピューリサーチセンターの調査によると
エジプトの88%、パキスタンの62%、ナイジェリアの51%のイスラム教徒が
イスラム教から棄教・改宗する者は殺されるべきだと信じている。
また似たような割合で姦淫には石打、ムハンマドを侮辱する者には厳罰
窃盗犯の腕は切り落とせと考えている。南アジアの84%、東南アジアの77%
北アフリカの74%、サブサハラの64%のイスラム教徒はシャリーアが
国法であるべきだと答えている。西欧にいるムスリムでさえ高い割合で同様の結果が出ている
イスラム教徒はバスだろうがレストランであろうがイスラエルに対する攻撃は
理にかなっていると信じている。「言論の自由」「宗教の自由」「報道の自由」「女性の権利」
「同性愛者の権利」など認めるムスリムは極めて少数派なのはハッキリしている。
ムスリムが啓蒙主義を受け入れた証拠は存在しない。イスラムはキリスト教徒やユダヤ教徒と
争うだけではなくヒンドゥー教徒や仏教徒と衝突している。
改宗の自由すらない。宗教警察なんてものまであるイスラム社会。
世俗法を人間が決めた法、シャリーアは神が決めた法
世俗法に従う義務はないと公言するような連中がいる、こんな邪悪な宗教が他にあるだろうか。 377.
本質を消去、か。
無化する、か。
それは、本来無一物、であるからである。
それで、カオス化する、か。否である。それは秩序となる。
カオスではなく、それは秩序である。
それを、秩序として理解できないこと、が限界となる。
だからして、以後は、勝手な解釈となる。 >>382
勝手な解釈ではなくて、ちゃんと書いてある。
チャプター6読んでから言おうか! 反ユダヤ主義とイスラムフォビアの間には同等のものではない
前者は人々の邪悪な悪魔化だったが後者は正当な批判を黙らせるために使われた
合理的で根拠のある証拠があるため、批判は正当です
恐怖症は偏見ではなく精神障害である。不合理な恐怖、
それは共感を感じる被害者を衰弱させる。精神障害には合理的な根拠はない。
イスラム世界が批判を病理に変えるということをイスラム世界が発明したのはこのためだ
それだけに留まるわけではなく時に人種差別と主張し誤魔化そうとするのです。 イスラム教徒だけは入れてはならない。
ロシアは欧米から「国家が社会を支配する国」と思われている
常に改革も上から行われる。イヴァン雷帝、ピョートル大帝、スターリンなど
それに対し欧米は「社会が国家を支配する国」で本質的に合わない
封建制の有無が違いを生んだとされている。
なお白人は日本が中国や韓国とうまくやれるとは思っていない。
それは日本が分権的で中国・韓国が専制的な社会で本質的に異なるから
梅棹教授の生態史観によればロシア・イスラム・インド・中国は政治的に専制国家文化
また一神教は本質において自己の絶対性を主張している原理的に他者を尊重するはずがない
唯一正しいと主張しているのだから相手に対して「あなたも正しい」などと言うはずがない
多神教のように多様な人格を持つ神々を認める宗教とは共通性など存在しないのだ
そして他者の権利を尊重する啓蒙主義・リベラル社会の今日、一神教に正当性など存在しない
イスラム世界は政治文化が専制的で宗教は一神教で最悪の組み合わせ
日本の分権的・多神教文化の真逆である >>389-392
未だに井筒も読まず、
こんな政治工作(>>386-387)をやっているのか? >>376
スーフィーヤって何だよw
そんなもんはないw >>394
揚げ足とってんなよ。
内容について批判しろよw >>397
ああ、それな。正確な言語ではないが、そんなちっさいことに笑ってるジュン吉の方がな。 おまえは本質的な発音わかって言ってるのか?
説明よろ 聖クルアーン - Islamic Books Japan
http://islaam.ninja-x.jp/quranjp/quranhome.htm
アラビア語・日本語・英語 対訳
日本語:日本ムスリム協会 日亜対訳注解聖クルアーン コーラン各種
(1)『コーラン(全3冊)』 井筒俊彦、岩波文庫 (1957)
(2)『聖クルアーン ― 日亜対訳・注解 』 三田了一、日本ムスリム協会 (1982)
(3)『コーラン(全2巻)』 藤本勝次、池田修、伴康哉、中公クラシックス (2002)
(4)『日亜対訳 クルアーン ―「付」訳解と正統十読誦注解』 中田考、作品社 (2014)
予備知識がなくても一気に読めてしまうのは井筒訳。
原語の持つ生き生きとした感じが日本語でも再現されている。
注釈が詳しく、落ち着いて読みたい向きには日亜対訳のムスリム協会版。
その他も読みやすい。 コーランの構成(井筒訳)
・上 10章(1〜10章)後期
・中 23章(11〜33章)中期
・下 81章(34〜114章)中期、初期、最初期
コーラン各章の配列は成立年代をほぼ逆さまにした形で収録されている。
初めの方は一章ずつが長く、だんだん各章が短くなっていく。
ムハンマドが受けた最初の啓示の瞬間に向けて、本を読み進めていくことになる。 610年頃、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたムハンマドは突如金縛りに襲われた。
そのとき天から大天使ジブリールが現れ、「誦め(よめ)」と言った。
ムハンマドが「何を誦めと言うのですか」と尋ねたところ、ジブリールはフッと消えていった。
この時よりクルアーンの啓示が始まる。
それから二十三年の間、ジブリールはムハンマドの元を度々訪れては
クルアーンの各章を啓示していった(クルアーン96章など)。 コーラン理解のための副読本
・『イスラーム文化 ―その根柢にあるもの』 井筒俊彦 (1991)
イスラム導入。スンニ派は「外面的」、シーア派は「内面的」
・『「コーラン」を読む』 井筒俊彦 (2013)
コーランのテクスト論、エクリチュール論。コーランの言葉は根源語
・『アラブ的思考様式』 牧野信也 (1979)
コーランとアラビア語の仕組み、言語文化論 啓示というか戦術指南でしょうね。そういう言葉で戦っていた静かな闘志でしょう。 >>343
イブン・アラビーによる「アッラーの神的な自己顕現(タッジャーリ)」
「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した。」
http://www.sufismus-online.de/IWasAHiddenTreasure
"Kuntu kanzan makhfiyyan fa ahbabtuhu an u`rafa fa khalaqtuhu ‘l-khalq"
I was a hidden treasure, I wanted to be known, so I created Creation.
A Hidden Treasure - wiki
https://en.wikipedia.org/wiki/A_Hidden_Treasure 『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)
序 章 井筒「東洋」哲学
「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
a)表層から深層へ
コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
b)深層から表層へ
理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
c)大地と理性――ロシア的人間
ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
a)「空」の徹底
理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
b)空と無
『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
c)砂漠と死――ジャック・デリダ
ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
b)〈いま・ここで=現に〉
「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
c)「入てん垂手」
聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体 >>410
井筒哲学の要約と、著作へのインデックスになっている イスラーム神学における信の構造を読んでるがイスラム過激派にも影響与えたイブンタイミーヤが出てくる。 >タイミーヤ
サラフィー主義の祖ね(サラフは「敬虔なる先人たち」を意味)
13世紀モンゴル軍侵攻の結果 イブンタイミーヤはイマーン(信)をイスラムより高次の概念としてるんだな。初めて知った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています