仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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ひどいこといったから脅してみただけ。
ごめんなさい。 . | |
,( ⌒⌒つ . | シャシャシャッ シャ---------------------------------ッ
/⌒ ̄`ヘ '`;、| |
/ レ ハ ノ ハ) .| |
`ヘ∪^ω^ノノ . | |
`∪ ∪ . | | 仏は一人だけってのが納得てきた。仏は一人だけで良いし、一人は必要でもある。
他の人は菩薩道なりを進んでいれば良くて、実はそこが仏教の完成形と言えるんだろうな。
釈迦は道の先に見える偶像の役割を買って出てくれてるんだと思うな。 (八) この世のものを不浄であると思いなして暮し。(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔に打ちひしがれない。ー岩山が風にゆるがないように?
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 「善因善果 悪因悪果」に対して「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。
ブッダが前者の捉え方を選ぶことが智慧だとしたのは
「心の問題の片付け方」がテーマだからだと考える。 どうにもならないことを考えても仕方ないと、変えられるのは心の在り方だけだと説いたのがブッダだからな >>124
ちなみに、どうにもならないことを諦めるニヒリズムの先に
必ず希望があるっていうテイストを感じる
涅槃寂静も良いんだけど、もっと違う何かを感じるのは俺の執着心なのかも知れないけど 逆に言うと、人間万事塞翁が馬だからこそ善因善果悪因悪果を信じていれば良いっていう意味で矛盾はないということか ブッダの教えから読み取れることは、苦を取り除くという以外の関心事はなさそうだけどな
世界の広がりについて、或いは魂の不滅について考える必要はない、つまり徹底して外のことに
関心を向ける必要はないと言う構えだから仏教というものは心の在り方に終始している訳だ >>128
あなたにとって上手な座禅はどの様なもので、
どの様なことでうまくいってないと感じてますか? >>129
なんか体のあちこちが気になってもぞもぞしちゃうぞい >>131
足の痺れも体の痒みも、
禅定に集中すれば、じきに静まるでしょ。
どうしても無理な時は体を組み直す。
数息観とかやったかな? 息しながらかず数えるやつ?
あれやると、なんとかそれだけに集中できるよね。 >>81
入りはそこからでいいのよ。でも本質は全然違う
人の模範回答というか。見事に悩み苦しみ解決してくれるのが仏教なんだ
これを悪用すんのよ。ボンクラ僧侶は俺は知ってるからお前らに教えてやる
みたいなのテレビでいるだろアホかっての
答えは自分で手に入れるから意味があるのよ。人からもらうと
その人にすがってしまうほどのめり込むのよ
それは絶対したらアカンのよ。新興宗教がよくやる手だよ
真理なんてそんな難しいもんでもない学校で教わることはすべて
真理だからね ブッダも昔の経典だから、現代的批判より、歴史考証から、優れた点を
たくさん見つけ出すといいと思うよ。 自然過程説、マジレス、学術は許さない。
清見、しのさんはおっけー。 >>137
なりすまし発見だお。゚(゚´ω`゚)゚。 中論を読んだのですが、中論本文だけでは難しくて、
注釈書が欲しいと思っています。私が探した限りでは、
チャンドラキールティの入中論とツォンカパの正理の海を見つけたのですが、
どちらが良いと思われますか?また他におすすめがあればお教えください。 「中論」関連
ナーガールジュナ (150-250)
・『龍樹』 中村元 (2002)(中論全訳)
・『中論 − 縁起・空・中の思想(上中下)』 三枝充悳 (1984 )
・『中論』 西嶋和夫 (1995)
チャンドラキールティ (600-650)
・『中論註釈書の研究:チャンドラキールティ「プラサンナパダー」和訳』 奥住毅 (2014)
・『全訳 チャンドラキールティ 入中論』 瓜生津隆真、中沢中 (2012)
ツォンカパ (1357-1419)
・『全訳 ツォンカパ 中論註「正理の海」』 クンチョック・シタル、奥山裕 (2014) ツォンカパは歴代ダライ・ラマが所属するゲルク派の開祖。
ゲルク派はチベット仏教の最大宗派で顕教を重視。
密教は顕教を完全に修めた者だけに許可されるという。 チャンドラキールティのプラサンナパダーと入中論だとどちらがおすすめですかね?
入中論はチベット仏教でも基礎テキストとなっていますが、注釈書ではないんですかね? 『入中論』は、大乗仏教や中観仏教の論書という感じで、
中論以外にも、般若経、十地経、法華経、入楞伽経などが引用されているから
後でもいいかも。 現存する唯一完全なサンスクリット原本は
チャンドラキールティの注釈書『プラサンナパダー』に挿入されたもののみ。
中村、三枝、西嶋も『プラサンナパダー』から訳出している。 三枝は『プラサンナパダー』中の文章が
必ずしも龍樹によるものとは確定し得ないという考えから、
漢訳仏典と、『プラサンナパダー』を併記。 「中論」関連
ナーガールジュナ (150-250)
・『龍樹』 中村元 (2002)(中論全訳)(原文なし)
・『中論 − 縁起・空・中の思想(上中下)』 三枝充悳 (1984 )(漢文・梵文あり)
・『中論』 西嶋和夫 (1995)(梵文あり)
チャンドラキールティ (600-650)
・『中論註釈書の研究:チャンドラキールティ「プラサンナパダー」和訳』 奥住毅 (2014)(梵文あり)
ツォンカパ (1357-1419)
・『全訳 ツォンカパ 中論註「正理の海」』 クンチョック・シタル、奥山裕 (2014)(蔵文あり)
・『大正蔵』中観部 第30巻p1(龍樹造、目釋、鳩摩羅什譯)
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=1564_,30,0001b11
・『国訳大蔵経』論部 第5巻(コマ番号114)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207557
・『国訳一切経』中観部 第1巻 T1564_.30.0001b11:
中論觀因縁品第一
十六偈
T1564_.30.0001b12: 龍樹菩薩造梵志青目釋
T1564_.30.0001b13: 姚秦三藏鳩摩羅什譯
T1564_.30.0001b14: 不生亦不滅 不常亦不斷
T1564_.30.0001b15: 不一亦不異 不來亦不出
T1564_.30.0001b16: 能説是因縁 善滅諸戲論
T1564_.30.0001b17: 我稽首禮佛 諸説中第一
T1564_.30.0001b18: 問曰。何故造此論。答曰。有人言萬物從大
T1564_.30.0001b19: 自在天生。有言從韋紐天生。有言從和合
T1564_.30.0001b20: 生。有言從時生。有言從世性生。有言從
T1564_.30.0001b21: 變生。有言從自然生。有言從微塵生。有 三枝『中論』の解説は、梵語と漢訳の背景に、
奥住『プラサンナパダー』の解説は、梵語と蔵語周りにそれぞれ詳しい。 中論のテキスト自体は、端的で本質的で、長くも難しくもないから、
あとは、龍樹や中観派や大乗仏教史をやる中で、
特に「空」の思想をやっておくといい。 寝る前に腹が激減りして
喰わないと寝れないんだけど
喰うと絶対胸やけみたいになるんだけど
どうこの空腹感と意味の喪失による過食気味を
仏教超越すりゃいいの
コレ 教えて頂きありがとうございます。チベット仏教に興味を持っていて、
基礎に中観派の思想があり、ダライラマ法王猊下も中論と入菩薩行論を
読むように行っているようで、龍樹の中論を読まなければ、本当の
理解にはならないなと思いました。中論はとても難しいと思っていたので、
難しくないと聞いて少し安心しました。中村元先生の龍樹を読んでみようと思います。
その後にプラサンナパダーや入中論、正理の海などを読んでみようと思います。 『ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章』(2010)
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 確かに、これまでに見てきた様に、大乗仏教や原始仏教の中心には、
空や縁起があったわけだけど、チベット仏教や密教では、
空を知った後に修めるプロセスというのもあるしね。
「心の本性」とか「原初の知恵」とか。 『サンガジャパン Vol.24 特集チベット仏教』(2016 Summer)
「チベット系宗教人類学者」永沢哲の監修による、最新チベット事情。
チベット大蔵経やチベット文字の読み方、ブックガイド、映画紹介、
ブータンの特集などもあって分厚いつくり。 ユマ・サーマンの父ロバート・サーマンは、
『チベットの死者の書』の英訳もしたインド・チベット仏教学者で、
ユマ(UMA)はチベット語の「ウマ・チェンポ」(中道、中観)から取られているそう。 中論とメイヤスー
清水高志「メイヤスーと思弁的実在論」(2017-03)
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=9136&item_no=1&page_id=13&block_id=17
こうした議論は、西洋の知的伝統からするともちろんきわめて異例であるが、東洋にはむしろ類
似したものがあり、ナーガルジュナの『中論』で繰り返される 4 段階の否定の論法(テトラレンマ)
を思い起こさせる。論点を明確化するために、その点についてもここで触れておくことにしよう。
たとえば中論の 18 章の第 8 偈に現れる典型的なテトラレンマ( 4 句分別)では、最初に@「すべ
ては真実(如)である」という命題が語られ、次にA「すべては真実でない」という命題が述べら
れる。@は素朴に現実の世界を信じる者の見方であり、Aは現象はすべて一刹那の後には変化する
という洞察をもったものの見解である。そして三番目にB「すべては真実であり、かつすべては真
実でない」という命題が述べられる。@のような素朴なものにとっては真実であり、修行をしてA
のような見解をもったものには真実でない、というのである。
しかしこれらは、ある刹那の次の刹那に起こることにいずれも依存したものなので、第 4 の命題
C「すべては真実であるのではなく、かつすべては真実でないのではない」が説かれなければなら
ない。仏教では何か対象を否定するとき、次の対象が浮かんでくるような否定、対象のあり方にそ
の都度左右される否定を相対否定と呼び、そうでない否定を絶対否定と呼ぶ。 「空」が理解され
るのはこの絶対否定によるとされるが、Bまではいずれも否定対象の状況に依存した、相対否定に
よるものである。それゆえCでは、Bそのものが否定され、何らかの対象に依存しない(無自性な)
かたちで、Bの不可知論自体がさらに転倒されねばならない。Cの命題は、なんらかの対象につい
て語られるわけではないが、すべての対象について真実なことを述べており、「空」の立場からこう
した否定を行う何者かも、また確かなのである。(真如の確立) >>163にも出てくる
桂紹隆、五島清隆『 龍樹『根本中頌』を読む』(2016)
> 仏教の基本テキストである『中論』をインドのサンスクリット語原典から正確に完訳。
> あわせて『中論』の著者である龍樹の伝記と中観派の歴史も掲載。
> 仏教の心髄である空思想を原典から学べる意欲作。
というのもあるね。 >>156
典型的なピロリ菌の症状じゃねぇーか
逆流性胃炎だろ。食べて寝たら食道から胸まで胃酸逆流してて
荒れてる感覚あるだろ。病院いけ >>160の
「サキャ派概説」には、『入中論』や『中論』を含む、
学問寺での全十学年のカリキュラムが紹介されている。 チベット仏教では、空性を巡る中間派帰謬論証派の見解が重要視されるが、
密教はそれよりも高次のものと考えられている。 仏教は瞑想体験という実技試験なんです
哲学の様に自我で考えても駄目なんです
最終的に自我を消して無の境地が悟りなんです
自我で考えて想像する筆記試験じゃないんです
故に瞑想体験が最強なんです、悟れば哲学の事も含め、世の中の事すべてわかるのです 仏教は諸法無我や慈悲を結論とし、前提、判断基準に据えて物事を捉える。
哲学は諸法無我や慈悲を疑うところから始まる。 仏教信者は諸法無我や慈悲を信仰する前提で仏教を学ぶ。 中論(梵:Mūlamadhyamaka-kārikā、ムーラマディヤマカ・カーリカー)
madhyamaとは、madhya(中の)という形容詞の最上級ともいうべき「最も中央の」を意味する。
madhyamakaは「中にもとづく」、「中を語る」、「中道」、「中の思想」というニュアンス。 >>170
哲学者は真を追求する為を前提に仏教を学ぶ。 学んでいるのは自我なんです
自我は偽物なんです
本物は真我なんです→もう一段上もある
偽物である自我で考えても無駄なんです
理解するには瞑想による体験しかないのです
仏教は実践による体験なんです 仏教の目的は悟る事による苦の消滅
悟る為には瞑想や座禅による実技試験が必要
頭で考える理論では無理、瞑想や座禅とは考えない事です、真逆です、筆記試験だけでは無理
実技試験に通らなければ運転免許は取れません
ということです、当たり前の話ですね >>175
悟りの為の瞑想を助けるさらにその為の法や信仰心だと理解してます
瞑想だけで良いなら今頃。。。ですよね その通りですね、何が偽りの瞑想や日々の行いで、何が正しい瞑想や日々の行いなのか、それを見抜く叡智や理性も必要です、筆記試験も必要なんです、だがそれだけで満足してしまう人が多いんです、だから実技試験を強調するんです。ちなみに信仰心がいるかどうかは? 哲学を好む人は、宗教のような入口で信じる事を強要されるものを嫌う傾向があるんです、食わず嫌いで勿体ないんです、だから何処の宗教にも属さなくてもいいから、一人で実践してみてはどう?という提案なんです、過去の聖者は全て瞑想してるし、瞑想を勧めます。何故か! 瞑想や座禅したら、こんな感覚になるんだろうな、ていう想像で考えて理論構築しても駄目なんです無理なんです、実体験であって実技試験なんです、やってみな分からん事なんです。
強調しました。 みなさまはじめまして。
アートマンについて教えてください。
アートマンを我・真我と訳すことは正しいのでしょうか。
そして諸法無我は、アートマンの否定なのでしょうか。 あなたの読んだ本を読んでいない者からすれば、その本で、真我、自我、アートマン、諸法無我をどのように定義してるのか、またあなたがどのように定義してるのかが分からなければ答えようがない。つまり想像で理論構築する前に、先に実体験をせよ、その方が早いということ 瞑想や座禅による偽自我を捨てる程の体験をすれば疑問は出ない、疑問が出たり理論のぶつけ合いをしてるのは偽自我です、自我が偽物なんです、だから体験した者は、今までの自分がいかに無知だったか理解する。無知の知というのでしょう。だから未熟な私はまだアホなんです >>180
アートマンは前スレで結構詳しくやってたよ 自転車の乗り方は、いくら理論を完璧にしても、練習しないと乗れません、もっというと理論なんて勉強しなくても、実体験という練習を重ねるだけで乗れてしまう人もいる、目的は自転車にのれるようになる事であって、理論を完璧にする事ではないという事です 自転車に乗れるようになれば、理論は後から着いてくる、足りない理論だけ後で補えばよい。
目的は悟る事であって、理論を完璧にする事ではない、悟れば理論は後から着いてくる、足りない理論だけ後で補えばよい。
無駄な事は極力しない。 だから、セリフは、自然とこのようになる
『まあ、座れや』 >>184
そうですか。
見直して出直してまいります<(_ _)> 悟りへの道標、私が一番尊敬してる人は
『宇宙一いい加減な博士』
↑このお方、過去に某掲示板にて、素晴らしい講義をしておられた、仏陀の教えを現代の言葉で語られたお方、最も分かり易い。
後は各自体験するだけだ。 ジェームズの純粋経験が、どれぐらい仏教の影響を受けているのかが気になる。
ニーチェとも近い世代だから、そういうこともあっただろうとは思うが。
(1842-1910)ウィリアム・ジェームズ
(1844-1900)ニーチェ 心理学における仏教の影響−過去と展望−
https://www.psych.or.jp/meeting/proceedings/76/contents/pdf/WS125.pdf
たとえば,ウィリアム・ジェームズは,自らの講演中,仏教徒ダルマパーラに短い講話を求め,
この「仏教教理は,25年以内に,誰もが研究することになる心理学となるだろう」と述べている。
実際には,彼の予想通りにはならなかったが,心理学・深層心理学と仏教との関連は,何度となく議論されてきた。 井筒は今道友信との対談で、
光の仏陀である大日如来と、スフラワルディーの光の形而上学とを重ねたりもしている。 “十二世紀ペルシャの哲学者スフラワルディーが「東洋哲学」ということを考えた”
“その「東洋」ということはアラビア語で「マシュリック」Mashriqというんですが、
「マ」とは「場所」ということで、「シュリック」というのは「黎明の光」という、
暁の光がさしそめるその場所ですね”
“哲学とは精神の「東洋」を探求することでなければならない”
“(略)いわゆるアラブ国家、アラブ文化圏とインド、トルク、ユダヤ、それからペルシャ、そして中国、
チベット、日本などが全部一つになって、
それが精神の黎明の場所みたいな感じにぼくの心には映ってくるわけなんです”
― 井筒俊彦「東西の哲学」〔今道友信との対話〕(『井筒俊彦全集 第五巻』) 儒教道教仏教が思想で戦ったり融合したりする中国哲学?の本を初めて読んでる。 わしらの宗旨は只管打坐のこれ一法に尽きると聞くがこれどういうことや? 和辻も、
『古寺巡礼』(1919)で日本の仏教をやり、
『原始仏教の実践哲学』(1927)へと遡っているね。 “「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。
「もう川の水は飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。
ここはそういう場所なのだ」
それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をかぶりなおし、私に背中を向けて舟に戻っていった。”
― 村上春樹 『騎士団長殺し』 第2部 遷ろうメタファー編 (2017) マントラはバラモン教派生の考え方だけど、神秘性を方便に使う性質上、相性の良いやり方なのかも知れない。
智慧を獲得してしまえばクールなものだけど、彼岸に渡るまでの菩薩道では神秘的なエネルギーのイメージを引き連れて進むと良い、 バラモンの話するならそのスレでやれ
ブッタはバラモン否定してる >>204
バラモンの話じゃなくてマントラの話だよ
ブッダは言及してないかも知れないけど
般若経やその他の大乗系では大事な考え方だから全然スレチじゃないことをお知らせします >>205
お前がオウム真理教じゃなきゃ
そうだねって言ってやれたんだけどな 「音」(韻律、トーン、或いは没入)に効能があるのか → 翻訳された時点で効能が失われる
*マントラの考え方の原則は、ココ。
「意味」(翻訳された文言でも可)に効能があるのか → 無いからこそ、漢訳の際にも、意訳でなく音訳されてきた
「誰が唱えるか」に効能があるのか → 呪術、新興宗教との差別化を、
・「そんな行為に効能は無い」 とするか
・「それだけのスキルが身に付いていない者がやっても意味がない」 とするか
・「伝統諸宗派の系譜の中にいるもの
(かつ、きちんと過程を修了した者)でなければならない」 とするか >>207の、 課程修了とかスキルとか言い出したら、
道端で御地蔵様に真言唱えてるおばあちゃんの行為(→業)は、
まったく無駄wwwwwwwww
ということになりかねないけれどw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています