仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>206
100%負け惜しみにしか見えない哲板特有の高度なギャグだな
>>207
結局は信仰心によるエネルギーを高めるための方便だから
それに沿ったやり方に拘れば自然とそうなっちゃうよね >>209
寧ろ >>208 に対する見解を請う ノシ >>210
神秘性は信仰心と価値エネルギーを増幅させる
これらよって障壁となる迷い(考えること)を捨てて彼岸に渡ることができる
お地蔵さんに真言を唱える瞑想も十二支縁起に業をもたらし役立つ
だし、高僧による真言も同じ様に役立つ 多重人格者は色盲や眼振を抱えた人格を持つと思い込み
盲目の人は記憶喪失と共に光を取り戻したと思い込む
諸行無常諸法無我であり五蘊皆空であり無色無受想行識も真理 西田、井筒、真如、ハイデガー、仏教
“西田が「真実在」を「純粋経験」に求めたのは、主客未分・主客合一の〈境涯〉を披歴するためではなく、
そうした直接的経験の中に見て取られる「統一的或者」であり、
つまり意識の統一的秩序をそこに読み取ったこと、このことである”
“大乗仏教で説かれる「本体的一元論」は、例えばイスラーム学の碵学井筒俊彦氏が最晩年に『起信論』を取り上げて、
東洋的思惟の特徴として揚げる発出論的な形而上学とも異なっていることである”
“「真如」であれ、「仏性」であれ「法界」であれ、それらは「本体」であっても、
決して形而上学的な実体的根拠を意味しない。
むしろあらゆる実体性を打ち砕く「ハタラキ」なのであり、
すべての存在者が実体性の軛(くびき)から自由になって、
言い換えればいわゆる「根拠」から解き放たれて、いわば「無根拠」「没根拠」のままに、
おのずから立ち現われてくる「場所」”
“ハイデガーの所謂「存在(有)」が、あらゆる存在者(有るもの)の根拠として「神」でないように、
「本体」とは「実体」ではなく、場所的性格をもつもの”
“釈尊が掴んだリアリティはおそらくそうした場所的な性格をもつ般若智なのであって、
いわゆる「縁起」という、まことしやかな「理屈」、論理の知的理解ではなかったはずである”
― 井上克人 『〈時〉と〈鏡〉 超越的覆蔵性の哲学―道元・西田・大拙・ハイデガーの思索をめぐって』 (2015) 仏教的真実は言葉によっては説明できないと言われる。(1)
しかし、語れないのであればそれを伝えることが出来ない。
だから、「仮名」や「仮設」という仮の形をとって言語化される。(2)
(1)離言真如…真如は本来言葉にはできず、心に思うこともできない
(2)依言真如…言葉を仮設することで表される真如の相
その他、
(3)不変真如…時間・空間を超越し、変わることのない真如の実相
(4)随縁真如…本来不変である真如のあり方に対し、縁によって種々の現象として生じる真如のあり方 トレンドからみると、
(1)井筒や西田は、形而上学的な大乗仏教の解説に優れていたが、
原始仏教(ブッダの仏教)についてはあまり触れていない。
↓
(2)最近目立つのは、大乗仏教から原始仏教への原点回帰。
↓
(3)井上>>215は、大乗仏教に軸足を置きながら、そこに原始仏教の原理を読み込もうとしている。 西田はこちらでやろうと思ってる。
【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1494594731/334-
336 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/10/06(金) 23:55:26.34 0
しかし、西田哲学を安易に禅哲学だと理解しているようでは
読んでいる内には入らない。
337 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/10/06(金) 23:57:04.39 0
“併し君だからよいが普通無識の徒が私を禅などと云ふ場合 私は極力反対いたします
そんな人は禅も知らず 私の哲学も分からず
XとYとが同じいと云って居るにすぎぬ”
― 西田幾多郎 「昭和18年 2月19日 西谷啓治宛」 『西田幾多郎全集23』 (2002-2009) 西田さんかしらんけどレベル低いな。
仏教を仏教としてしかみれないレベルが低い
大きな意思とは何かを悟れば解ってくるんだけど
事象についてしか語らない 仏教は哲学ではなく思想であり理性によって真理を導きだそうとするものではない “我々の有限なる意識の背後に横たわれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。”
“我々が或一曲線を意識するといふことは此の如き意味に於て限定せられた曲線である”
“意識するといふことは無限なる全体が己自身を限定することである。”
― 西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」17 『西田幾多郎全集3』 (2004) 任意の直線を意識する時は、実在する無限な直線に対して限定をかけている。
無限な潜在性から有限な現実性が、「限定」=「自覚」として立ち現われる。 “仏道をならふことは自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己の心身をして脱落せしむるなりと云ふ(道元)。
それは限定するものなき限定、絶対無の自己限定と云ふことでなければならない。”
― 西田幾多郎 「哲学論文 第六」 『西田幾多郎全集10』 (2004) 訳
(仏道を習うということは、自己を習うことである。
自己を習うということは、自己を忘れることである。
自己を忘れるということは、一切万物を知ることである。
一切万物を知るということは、主客を分け隔てるものをなくしてしまうことである。)
― 道元 『正法眼蔵』 「現成公案」 禅哲学としても、道元論としても最高度に洗練されている。 そんなものは古代インドのウパニシャッドに回帰してるだけだ ヘン カイ パン 全体主義のはしりだね。そっちがかちじゃないかな。
今もヨーロッパ人はそうも全体主義化間で統率だよ。今戦は。 西田はまあまあできてないな。無茶苦茶な研究してたぞ。 以下、末木剛博(すえきたけひろ)『東洋の合理思想』講談社現代新書33ー34頁より
「…カントはこれら三種(魂、宇宙、神)の問題に一定の解答を与えることは
不可能であることを論理的に証明している。したがってこれらの問題に関
する形而上学は論理的には成立しないといって、形而上学を排除したのである。
これを初期仏教の形而上学批判とくらべると、精粗の違いはあるが、主旨は
はなはだよく似ている。初期仏教では形而上学の立場を前述のように常見と
断見との二種に大別しているが、さらにカントのあげた諸問題とほとんど
同じ問題を論じている場合もある。たとえば『中阿含経』の一部の「箭喩経
(せんゆきょう)」では次の諸問題があげられている。
(A) 自我および世界は時間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(3)無限かつ有限である。
(B)世界は空間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(C)魂と肉体とは、
(1)同一である。
(2)別異である。
(D)如来(完全な悟りを得た者)は死後に、
(1)生存する。
(2)生存しない。 これらの問題は、カントのあげた問題とは多少のずれがあるが、それは時代と国土
にもとづく関心のちがいである。しかし、たとえば(A)と(B)とは、カントの
第一および第二の問題とほとんど同じであり、(D)の如来の問題とカントの第三の
神の問題とも類似している。
相違点を挙げれば、初期仏教は(A)の問題に対して四種の解答を用意しているのに対し、
カントは、(1)無限であると(2)有限であるとの二つだけを用意し、その二者択一を
せまるのである。
『箭喩経』では四種の解答を(A)の問題だけにそろえてあるが、他の文献では、あらゆる
問題に対してそろえている場合もあり、そのほうが論理的には完全なわけである。それで
後世には、この四種の解答、つまり一問題に対する(1)肯定、(2)否定、(3)肯定
かつ否定、(4)非肯定かつ非否定、の四つを四句分別と名づけている。
ともかく、カントの提出した問題と、形の上では多少の差はあるが、本質的にはほとんど同じ
問題をかかげて、しかもカントと同様にこれらの問題に対しては何らの解答も与えられない、
と言うのである。したがって形而上学批判に関しては初期仏教はカントの批判哲学と本質的に
一致するのであり、哲学上は一種の批判主義である。」 カントは、経験を超えた命題について二元論の立場を取っている訳ではない
それらは二律背反として人の認識領域を超越しているから論証不可能としているんだよ 参考までに、
カントのアンチノミーもカテゴリーごとに分類される
以下wikiより
量・質の二律背反は数学的、関係・様相の二律背反は力学的といわれる。後者の力学的
二律背反においては、物自体と現象とを区別する限り、定立と反定立の双方が真であり、
現象における経験的性格の必然性と当為における自由による原因性が両立…
https://ja.wikipedia.org/wiki/純粋理性批判
カントは二元論というよりも二進法的に二分割を律儀に重ねることで新たな認識に到達する
分 析
|
量 | 質
規____|____反
定 | 省
関係 | 様相
|
総 合
バラモンやスピノザだとこれが(主体化を急ぐために)三角形になる
ちなみに、般若心経にもカントのカテゴリーと同じものが出てくる
是諸法空相[様相]、不生不滅[関係]、不垢不浄[質]、不増不減[量]。 仏教はアンチノミーを倫理的次元で活用する
《ダブルバインドの作用
禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなかの一つ
に、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が
現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないと言うのなら、お前を
これで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」分裂症者の人間はたえずこの弟子と
同じ状況に身を置いているという感触をわれわれは抱いている。しかし彼は「悟り」とは逆
の、「混乱」の方向へと導かれる。禅の修業僧なら、師から棒を奪い取るという策にも出られる
だろう。そしてこの対応を、師が「よし」と認めることもあるだろう。しかし分裂症者がそのよう
な選択をとることは不可能だ。相手との関係に対して大胆になることは彼は許されていないし、
彼の母親と禅師とでは、その目的も意識も大きく違っているのだ。》
(ベイトソン「精神分裂病の理論化に向けて」『精神の生態学』2000年297頁)
参考:
《…徳山 (宣鑑 ・七八〇 ―八六五 )は堂に来る時 、必ず長い棒を携えていた 。そして言う 、
「道い得るも三十棒 、道い得ざるも三十棒 」と 。これが彼の弟子達に言ったすべてであって 、
彼はこれ以外何事も言わなかった 。》
(鈴木大拙「大肯定の禅」『禅学入門』より)
臨済録勘弁
http://marihouse.biz/kokoro/rinzai/rinzaiR4.htm
師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。 分裂 新約聖書 病 仏教
国語学、漢文学的にはこの熟語はおかしい。信仰を極めていないと
悟り や 預言 ができないわけで。 感自由自在菩薩か。真空の表象
ソニックブーム。グングニル。 >>238
> 無茶苦茶な研究してたぞ。
どの研究? >>205
般若の間違いすらわからずになにいってんだろな
大乗事態が仏教じゃねぇーのよ
というか日本の仏教事態が仏教じゃない
仏教=慈悲とかいうバカばっかり
仏教=悟りだから。慈悲なんて全く関係ない
悟りが浅すぎて話にならないから悲観の目で
見られてることを慈悲と呼ぶのならな
一般的な教育受けてて凄いバカな子見るのと同じ
それは慈悲じゃない。事仏教哲学において他人に慈悲をやる
時間はない。 257.
慈悲の主体の問題である。
それが省略されている。
慈悲の主体を、仏、と表現しただけのことである。
愛、の主体を神とかイエスとか表現しただけのことである。 ☆ >>157 >チベット 入菩薩行論
仮設としての
ttp://www.e-trans.co.jp/egaia01/buta111701.pdf
第一章 六
無始からの(輪廻を繰り返し)
無明を持って真如に薫習し妄心を生じている
無明薫習に依存して
悪は常に、大きく圧倒的な力を持つ
− これを対処する為に −
完全な菩提心の他に
どんな徳が悪を打ちのめすことが出来ると言うのであろうか?
それゆえに↓
ttp://www.classics.jp/RCS/NL08/NL08Sait.pdf
無明している世界の中の
他の人々をも慈しみ
他の人々にも涅槃に触れさせて
(「苦しい」と掴もうとしている想いが依存している)
「無明している世界を手放しせよ」と導いていく(VI.37; VIII.94)
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものにも
如来の智慧と慈悲の光が現れますように
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E4%BE%9D
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E7%A4%BC%E7%9C%9F%E8%A8%80
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ >>257
関係ない。言い切る関係ない。
死ぬまでにその世の理手に入れるのが
仏教。それは答えを探すこと人に慈悲をかける必要性は全くない
探求者が何故慈悲を与えるか意味がわからんね
科学者も探求者だが誰に慈悲をかけるのか
草生えるのはお前だボンクラ。空に入ったものが慈悲とかあり得ないわ
仮も慈悲とは無縁。なら中は中も慈悲とは無縁だ
つまりお前らは空も仮も中ですらない。偽物だということだ
全てつながり人の生を紡ぐのであれば慈悲などいらん
勝手にそうなるんだよ。わかるかニセモノお前らはブッタの嫌った
一番やってはいけない事をずーと続けてる。
悟りきってもいない。お前らが誰に慈悲をかけ誰を救い誰を悟らせる
おこがましいんだよ。等しく命は平等なのに何故か階級社会化して
優劣を決めている。良いものを着て現世に依存し欲を捨てきれない
基本すら出来てないのに何が慈悲だ如何様なんだよ ☆ >>258 123師殿 >愛の主体を神とかイエスとか表現しただけのことである
たとえば仏教とかの場合は
仮設としての
愛 − 渇愛
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
『苦しみが現れてくる過程について
無明している世界の中の
苦は、渇愛から生じます
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています』初転法輪
_ _ _
>>254 >仏教哲学において他人に慈悲をやる時間はない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99
上座部仏教
『 智慧も・慈悲も 』
瓶から瓶へ水をうつすように瀉瓶(しゃびょう)のごとく伝えてる
ttp://www.tibethouse.jp/dalai_lama/introduction/
「ダライ・ラマ」とは、モンゴル語の尊称で 『 智慧の海 』 という意味である
歴代のダライ・ラマは、『 慈悲の具現者 』 たる観自在菩薩の化身とされている
無明に依存している
すべて一切の諸法を涅槃に触れさせて
「無明している世界を手放しせよ」と導いていく 『 智慧と慈悲の具現者 』 答えを探す探求をすれば周りなんて見えない
熱中すれば見えないんだよ。見えない存在に慈悲とか
アホすぎる。慈悲=徳を積むつもりだろ
如何に自分は優れてて素晴らしい思考をし優秀かを示してる
つまり欲だろこれ。欲を捨てることが悟りの道なのは間違いない
欲をすてて思考する。欲は悪だから捨てなさいではな欲が邪魔だから
欲をすてるんだよ。真理は欲があると見えない
人の次元でしか語れない。欲は人のみ持つもの非常に強い
自分は~という思考がではなく世界は~や生物は~という思考に行き着かない
だから欲を捨てろって言ってるんだよ。悟りの道を教えてるのに
他人にかまける時間何てない 俺は言うダライラマも偽物だと。本物は現世では誕生しにくい
慈悲を語るものは全て偽物だ 263.
慈悲を語るものはすべて偽者、か。
その主体の問題である。
仏は慈悲の主体として、設定しただけのことである。
私が慈悲の主体であっても良いのだ。独占禁止法があるからであるよ。
そうである、と自覚できないのは、多忙なバカであるからであるよ。
閑を持って自覚すれば悟れるよ。 >全て偽物だ
紐タソというコテハンの人と論調が似てる気がする
紐タソというコテハンの人の論調
「すべてインチキだ〜っ!」
「俺は絶対に信じない〜っ!」
「無我とか言う奴はキチガイだ〜っ!」
↑実際のところ無我をわかりやすく説明するのは難しいかもしれない
↓これは>>263殿宛てではなくて紐タソというコテハンの人宛てとして
仮設としての
無明している世界の中で
地水火風空識の微粒子に依存している
色受想行識の仮の現れ(そして滅)が
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性している
(遍計所執性が依存している)無明している世界の中では
『我ではない』の意味がわからない
円成実性の世界から → 依他起性している世界を見て
仮設としての
無明している世界の中で → 依他起性しているので
それゆえに
それ自体、単独で成立しているのではない
それ自体の自性によって成立しているのではない >空、の説明、か
たとえば紐タソとかの場合は
空という変化している性質の中で
『変化している我があるんだ〜っ!』と頑張ってた
ちなみに
仏教で言うところの
『我は変化しないもの』という意味なので
紐タソのセリフ
『変化している世界のなかで → 俺は変化しないものである』と頑張ってることになるのでつ
もっとも
円成実性は
(主客の実在視とかの想いが依存している)無明している世界を手放してるので
円成実性は
変化しているものではない
現れることもなく滅することもない
ということであるらしいので
それゆえに
もう一度
紐タソのセリフ
『変化している世界のなかで → 俺は円成実性である』と頑張ってることになるのかも? 267.
空、は存在の問題である。
それは科学の問題である。
それは宗教問題ではないよ。 簡単な話悟りとは知識であるのに。
他者を重んじた所で人の目的を見出だせば
それが如何に無駄かわかる。自分他者も歯車できかなく
慈悲はその歯車の駆動を妨げる不純物でしかない
皆が何も考えず進む未来にこそ意味がある
それは同意の名の元に形成されているからだ
何も考えない同意とはそれは直感である
しかし直感が鈍い人間が多数なので才能ある人のみが
言論を有する。そして大まかな流れを作り世界は変わっていく
何も考えなくても実は情報得ている。だから好みがあるのだ 269の文読んでも多分今のボンクラ知能なら理解出来ない
慈悲にすがりつき無意味な人生おくればいい
いくら慈悲を要しようとも。この世の理は1つ
何故生まれたのか明確な回答もないから悩みすがる
人の目的とは何かを少し哲学してみろ。慈悲何て無いことがわかる
生物として純粋にとらえれるか?無理だね君たちには
思考が神様だからしかも慈悲といいながら全て救えないことを知りつつ
あきらめ言い訳する。慈悲に恋こがれてるのは他者ではなく自分
自愛である。私は違う明日死ぬ覚悟をしてるから自愛は必要ない
悲しいかな君らはこれの意味する事もわからない >>264
それ事態が変更解釈である。ブッタは誰も救ってなどいない 271.
救っていない、か。
それは事実の問題か。
救う、という信仰の問題である。
その両者を区別する必要がある。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
真俗二諦
その当時のインドの人々にとって仏教を理解せしめるためには世間的な考えを一応認めて
さらにその理解のうえで
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
ttp://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った三種類の行為を行う(カルマを積む)
身体的な行為・言葉による行為・心による行為
無明している世界の中で
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れる(そして滅する)
献呈歌
現れることもなく滅することもなく
独自の性質がなく
そして概念的構築から解放されていることである
それゆえに
悟りとは
無明している世界の中の
>知識
ではないということであるらしい
ttp://suttanipata.com/a/
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧と慈悲)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
↑この場合の信仰は
無明している世界の中から離れてる
如来の智慧による
『 慈悲の信仰 』 と言う意味も含まれているかもしれない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている如来
この如来の智慧をもって
→ (慈悲の)信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
ttp://suttanipata.com/2017/06/07/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF%EF%BC%99%EF%BC%96%EF%BC%97%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC/
スッタニパータ
967
(光り輝いている如来の智慧をもって)
弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html
ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、
Sutta Nipata by M. Coomaraswamy
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf
《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる
結句のひとつを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、
ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト
教的な言い回しと結びつけないでね。
――(三行略)――
生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか?
認識せんと 意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は
思うのだ。一方 には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》
(理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集T」塚越敏訳) http://37073327.at.webry.info/201512/article_2.html
《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むこと
がない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(五)*」
これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもって
いる発言です。
ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国
に賠償を要求したのですが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しま
したが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、この法句経のことばを引いているの
です。
なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。
「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神で セイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》
中村元『原始仏典』
*ダンマパダ法句経より
新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで
『反キリスト者』(#20, (―“enmity never brings an end to enmity”: the moving refrain of all
Buddhism …. ))に引用している。
オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm
新田訳:
「なぜなら、敵意によりては敵意は終わらず、敵意無きことによって敵意は終わる、
これが昔からの秩序だからである」 276.
純粋観照、か。
その主体の問題である。
仏像は純粋観照の状態を表現したものである。
だからして、仏像になりたいか否かの問題である。
仏像礼拝は、その仏像に価値がある、ことを表現することになる。 参考:
キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは
「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで
しょう。』
『仏教が注意しているのは、次の二つです。
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、
苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的な
ものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中に
ずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。』
『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的
処方箋なのです』 279.
仏教とキリスト教と。
それは方法論の相違である。
その内容は同じである。
キリスト教の神とは、それを説明したものが仏教の内容である。
神の内容を説明したものが仏教であることになる。
神の座から見れば、仏教の内容が見えるということである。
総論である。各論は個別に検討することになる。 「日本を破滅に導いた戦前の極右思想は、親鸞(1173〜1263年)の影響を受けていた」。
日本仏教の戦争協力といえば、満州事変を起こした石原莞爾(かんじ)らの国柱会など、日蓮系の団体が思い浮かぶ。
実は、親鸞の浄土真宗系も負けじと猛威を振るった。
戦前にリベラルな大学教授を排撃した極右団体「原理日本社」の中心には、親鸞を学んだ人々がいた。
政治や行政を改善しようとするあらゆる思考を「自力」だと攻撃した。
全面的な現状肯定と天皇中心の国体への忠誠こそ、いわば「他力」に導かれることだとした。
浄土真宗の教団本体も、戦争の激化に応じて「弥陀の本願=天皇の大御心(おおみこころ)」「浄土往生=靖国の神になる」と、極右も顔負けの主張に傾いた。
「そもそも、国体論の祖といえる本居宣長は、浄土教の影響を受けています」。本居が否定した「漢意(からごころ)」は「自力」、
日本古来のものとして肯定した「やまとこころ」は「他力」に従う精神に相当する。「論理が似ていたからこそ、親鸞思想は国体論にのみ込まれた」。
今の真宗教団は、反戦・護憲運動などが盛んだ。「ただし、『親鸞がこう言ったから戦争反対』と教義を道具にしたら戦前と同じ」なのである。
https://mainichi.jp/articles/20171029/ddm/015/070/015000c 信仰の受容とか裂け目とかは難しい問題だよ。宗教版へ
ベッドは向かない人もいるよ。僕自身もそう。病気が悪くなる。 281.
日蓮の批判とか天台教学の批判とか、をやっていないことが問題となる。
親鸞とか法然とかの浄土教の批判をやっていないことが問題となる。
それらを信仰するのはバカである、と認識すべきである。
日本神道もバカの代表である、ことを確定すべきである。
宗教は御利益があれば、なんでも良いとする日本人のバカさを問題とすべきである。 批判精神は哲学にはいいかもしれないけど、政治には向かないしなあ。 キリスト教は 後悔と贖罪の宗教だと思う。悪いことをしても
更生して立ち直れば癒しができるし、意外にしてマティックな宗教だが
そこまで単純ではない。
しかしカントの純粋理性批判の通り後悔は無意味だから、なにかはるもの
ができるような、現実的な宗教になり、仏教よりは、人間不信からの
リアルな宗教である面がある。プルーストやサルトルなど、
ヨーロッパのクリスタニズムは、シェイクスピアから同じようなテーマを扱っており、
そこからの回帰が皆にも叫ばれる。 《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むこと
がない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(
永遠に―。 286.
怨み、か。
それは正義のために存在している。
よってして、それを捨てることは、正義を捨てることになる。
だからして、それは怨み、の問題である。
それが正義であるか否かの問題である。
そこにバカ感情論があることになる。 >>287
アンカーくらい使えるようになってから言えよバカ 正義か。うーん。ロールズの正義論じゃないけど、なかなか難しい
問題に思うけど。 例えばマッキンタイアは完ぺきじゃないけど、アメリカプラグマティズム以後なんて
なかなかいい正義だよ。 正義とか軽々しく口走るようなやつに哲学は向いてない諦めろ 哲学は、正義や道徳について考えるけど悪について無関心だな 悪という単語を発したものに悪が詰まっているというのか。 お前が相手に悪意を感じたとき相手もお前に悪意を感じている
類は敵を呼ぶ 家族の群れとイカれて孤立したオトコというのは
敵対しているのだとNETインプリントされすぎると
どう村八カツヲは
行動パターンとんお?? あたしゃ虐げられてマスみたいな顔してるヤツが
大っ嫌いなんだYO!! ・『『華厳経』と『モナドロジー』―村上俊江におけるライプニッツ受容』 酒井潔 (2014-03-01)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3132&item_no=1&page_id=13&block_id=21
・村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 『華厳思想』 中村元編 (1960) >>265
紐氏は仏教で真に価値があるのは無我や縁起や空や悟りではなく、慈悲、自灯明、無記の三つとしていたから、
その持論に変わりがなければ「全て偽物だ」の>>263は紐氏とは違うね 以前、波平が「仏教は慈悲だ」と言って聞かなくなってしまったことがあったが、
その様な時にはどうするのがいいか? 龍樹の言葉に「空亦復空(くうやくぶくう)」というのがある。
空に達したところで、その空観もまた空ぜられねばならない、というもの。
方便として、仏教は「空である」とか、「慈悲である」とか説明されることがあるが、
それ自体が目的化されたり、執着する様になってしまっては本末転倒。
龍樹は、空という言葉を脱構築した。 イスラムには、ジュナイドの「ファナー(消滅)のファナー」というものがある。
これは、自我意識を消滅させる意識そのものの消滅、という無の体験。
参考
・井筒俊彦×ヘルマン・ランドルト 「スーフィズムとミスティシズム 」 (1984)
・井筒俊彦 『超越のことば』 (1991) 304.
それは心理学であるよ。
それは宗教ではないよ。 303.
空観を空ずる、か。
それは心理学であるよ。
それは宗教ではないよ。 こいつは何時になったらアンカーをつけられるようになるのだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています