仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>37
昭和9年(1934年)というと、
『大正蔵』(1923-1934年)と
『南伝大蔵経』(1935-1941年)が刊行された頃だ。 “彼はゆっくりと歩きながらよく考えてみた。
その気持に深く彼は思いをひそめた。
深い水の中を下りて行くように、彼はこの気持の底まで、
原因のひそむところまで下りて行った。
なぜなら、原因を認識すること、それがまさに思考することであり、
そしてそれを通してのみ気持は認識となり、失われてしまうことなく、
実体をもつものとなり、その中にあるものを現しはじめるのだと思われたからである。”
― ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」(『ヘルマン・ヘッセ全集 12』)(1922/2007) ヘルマン・オルデンベルク 『仏陀:その生涯、教理、教団』 (1881/2011)
オルデンベルクはパーリ語仏典研究において、
リス・デイヴィッズと並んで先駆者的な役割を果たした。
ブッダの歴史的存在を文献的に立証した著作として名声を博し、
ニーチェにも影響を与えた。 リス・デイヴィッズ…『南伝大蔵経』の底本となったテキストを編纂したパーリ聖典協会(Pali Text Society)を設立。
リス・デヴィッヅ 『仏教時代のインド』 (1903/1984)
ライス・ダビッド 『初代仏教』 (1908/1912) >>39
全くその通り。不思議な体験なんて楽勝でできる
例えば脊髄に電流流れることを実感するとか
動物達との不思議な体験とか俺達は
性的快楽を一人で体現するとか
四方の空間に何かの存在を感じるとか
多分テレパスは存在する。それを使いこなすのか忍だと思う
相手に位置を察知させないとかね。これも一種のテレパス遮断ではないかと
思ってる。遮断できると言うことはコントロールできるのよね
人はそのテレパスを極限まで捨てたんだと思う
動物にあって人にないもの一つしかない毛だ
私は毛がテレパスの受信機ではないかと思ってる (一)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。ー車をひく牛の足跡に車輪が付いていくように。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
岩波文庫 中村元訳 (二)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。影がその体からはなれないように。 テレパスといってもジェダイみたいなもんではなく
存在認識レベルかな。視覚だけだと存在感じれないから
特に動物は直立じゃないから視野が人より狭い
見ようとすると首だけではなく体全体動かさないとダメ
キリンや馬は大丈夫だけど犬とかライオンとか顔が
平行近くにある動物は察知能力がすごく高い
平行にない動物は驚くと興奮するのよね。中々おさまらない
カバは特殊で目の位置と水辺の生活でテレパスはいらないんだろな ヴィパサナー瞑想の一番簡単な呼吸に集中する時点でわけわからん
息を現に見えている机のように物的な対象として観察するのか
息に付随する心的な感覚(冷たい・乾いている等)を観察するのか
呼吸をエポケーして純粋経験みたいなのを感じるのか
そもそも物心二元論をとるのに全ては私の現象(仏教でも少なくとも超越論的統合の機能を果たす我の存在は認めているでしょ?それを我とは言わないだけで)という立場をどのように退けるのか
またありのままというが、自分が再構成したものを後から認識しているだけではないかとか
無我と言っているものは勝手な、超越的な価値から無意味と言っているだけで、そのようにバイパスのかかった価値が本当にありのままといえるのはなぜかとか
疑問が延々とわいてくる
曖昧過ぎて付き合う気が失せる
こんなんでよく西洋哲学馬鹿にできるな かんそう【観想】
(1)[仏] 特定の対象に深く心を集中すること。観念。
(2)[哲] 〔ギリシャ theoria; ラテン contemplatio〕
(ア)感官的知覚や行為の実践を離れて、対象を直観すること。テオーリア。 → 思弁
(イ)宗教的修行や神秘主義で、超感覚的・神的本体を心に映ぜしめる霊的直観。冥想。黙想。静観。
(3)美の直観。観照。
(大辞林 第三版の解説) ヴィパッサナー(巴: vipassanā)は「観察する」を意味する。
ヴィパッサナー瞑想は、
ナーマ(こころのはたらき、名〔みょう〕)とルーパ(物質、 色〔しき〕)を観察することによって、
仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想。 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 (四)「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 西洋哲学は基本的に糞だよ。歴史と照らし会わせれば
糞は糞でしかない。その点仏教は争わんからね (五)実にこの世においては、怨みに報いる怨みをもってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 (六)「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 争いはなくなれど
人間社会そのものがなくなるのでは? 仏教はつきつけると人間社会には危険思想だと思います
もちろんこの事実に関して善も悪もありませんが みんながみんな上座部仏教で出家しちゃったら確かに社会は崩壊する。 関係ないけど、
むかし共産主義って純キリスト教的思想だと思ってた。 内容的にはそうだろうよ
そこに宗教的紐帯を認めるか否かという点で時代に流された側面がある 仏教=平和思いやり慈悲とか考えてしまう奴は
好い人に見せたいんだよ。本質的に私は人を救いたい
なら金をもてよ権力手に入れろ。それが合理的な回答だ
仏教は根本的には哲学なんだよ。生き方じゃない
真理は絶対変わらないこの世の理を理解する。つまり社会システムの
合理性の追及なんだよ。民主主義や共産主義とは一体なんなのか
自分は何処に根っこがあるのか。仏教徒なら民主主義に根っこが無いと
ダメなのよ。合理性の無い人間が真理を肯定的にとらえることはない
断言する。合理性の無い人間は自分が社会システムに組み込まれてることを
理解しないから祭りの音がうるさい子供の声がうるさいなどなど
クレーム入れるわけ。親が何とかしろってね。これを合理的に解釈すれば
子供は理解してないむしろ合理性から離れた存在こそ子供なのに
だって何が危ないか何をしてはいけないか全く理解できてないんだよ
体験して学ぶのにそれを閉ざす大人がいるんだから。バカでしょ
合理的にとらえればこれで一つ勉強したないずれ君は役にたつ人間になっていくんだと
肯定的にとらえられるんだよ。 さてさて君たちは民主主義に根っこがあるのか思考してみなさい 波平さん、僕たちはボロボロです。
この状況で普通を取り繕うことは僕にはできません。
幼稚だと罵ってくれても構わないです。 >>77
そうなの
仏教ってもっと虚無的というか実存系というか
なんかそういうイメージだった >>80
ご恩と奉公
何も手がつかず、なんのための寝不足だかね >>83
発狂さんか、懐かしい(笑)
いまはみんなから底辺ちゃんと呼ばれてますよ。 (この世のものを清らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めないものは、悪魔にうちひしがれる。ー弱い樹木が風に倒されるように。
『ブッダの真理の言葉 感興のことば』 中村元訳
岩波文庫 「とらわれないことにとらわれない」
(☆∀☆)✨👰 >>91
おはよう😆✋✨☀
今、デザート頂いてます。⭐ 般若心経 。音楽よりいいよ。哲学より。自由 自在 でさあ。 >>32
立てる指は中指と人差し指では意味が違う事 “構造主義(Structuralism)勃興以来、いわゆるポスト構造主義を経て、
今やそのポスト構造主義の彼方への乗り越えすら云々されております”
― 井筒俊彦「言語哲学としての真言」(1984年、高野山での講演) おまとめサポート
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特定非営利活動法人 STA 鈴木大拙の『大乗仏教概論』
岩波の復刻版ででたりしないかなー。
要するに
プッヘダラハ〜のゃなゃぁ〜のゃなオヒョップぴゃ?
ゼ〜っ
てプーッヘヘっプオ
オヒョップョップン
エズオドット〜ッコリ〜モエズオドット〜ッコリ〜モナ〜♪(hey!)
ナ〜♪(hey!)
りどわらずだこうしぶエズオドット〜ッコリ〜モナ〜♪(hey!)
り
にどわぶりぶりぶりどわらずだこうしのョョ!らがぼ
がらがらがぼオヒオヒョエ〜ッコリ〜
モナプッヘダラハ〜のゃなゃぁ〜のゃプシュカプシュワカ♪プシュカプシュワカ♪なオヒョップぴゃ?
ゼ〜っ
てプーッヘヘっププシュカプシュカプシュワカ♪プシュカプシュワカ♪プシュワカ♪プシュカプシュワカ♪オ
オヒョップョップン
エズオドット〜ッコリ〜モエズオドップシュカプシュワカ♪プシュカプシュワカ♪
ト〜ッコリ〜モナプシュカプシュワカ♪プシュカプシュワカ♪〜♪(hey!)
ナ〜♪(hey!)
+ ____
/⌒ ⌒\ ゚
° + /= =‐,、-= =- .\ . + + という事じゃな?
/ ,,ノ(、_, )ヽ、,, \ ゚
° | `-=ニ=- ' | + +
+. \ `ー'´ / ウンタン♪ウンタン♪
/⌒ \ >>83
全部波平の自演キャラだよ
ばれたら開き直って、今時自演を指摘するなんて古いとかのたまいよったww ひどいこといったから脅してみただけ。
ごめんなさい。 . | |
,( ⌒⌒つ . | シャシャシャッ シャ---------------------------------ッ
/⌒ ̄`ヘ '`;、| |
/ レ ハ ノ ハ) .| |
`ヘ∪^ω^ノノ . | |
`∪ ∪ . | | 仏は一人だけってのが納得てきた。仏は一人だけで良いし、一人は必要でもある。
他の人は菩薩道なりを進んでいれば良くて、実はそこが仏教の完成形と言えるんだろうな。
釈迦は道の先に見える偶像の役割を買って出てくれてるんだと思うな。 (八) この世のものを不浄であると思いなして暮し。(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔に打ちひしがれない。ー岩山が風にゆるがないように?
『ブッダの真理のことば 感興のことば』
中村元訳
岩波文庫 「善因善果 悪因悪果」に対して「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。
ブッダが前者の捉え方を選ぶことが智慧だとしたのは
「心の問題の片付け方」がテーマだからだと考える。 どうにもならないことを考えても仕方ないと、変えられるのは心の在り方だけだと説いたのがブッダだからな >>124
ちなみに、どうにもならないことを諦めるニヒリズムの先に
必ず希望があるっていうテイストを感じる
涅槃寂静も良いんだけど、もっと違う何かを感じるのは俺の執着心なのかも知れないけど 逆に言うと、人間万事塞翁が馬だからこそ善因善果悪因悪果を信じていれば良いっていう意味で矛盾はないということか ブッダの教えから読み取れることは、苦を取り除くという以外の関心事はなさそうだけどな
世界の広がりについて、或いは魂の不滅について考える必要はない、つまり徹底して外のことに
関心を向ける必要はないと言う構えだから仏教というものは心の在り方に終始している訳だ >>128
あなたにとって上手な座禅はどの様なもので、
どの様なことでうまくいってないと感じてますか? >>129
なんか体のあちこちが気になってもぞもぞしちゃうぞい >>131
足の痺れも体の痒みも、
禅定に集中すれば、じきに静まるでしょ。
どうしても無理な時は体を組み直す。
数息観とかやったかな? 息しながらかず数えるやつ?
あれやると、なんとかそれだけに集中できるよね。 >>81
入りはそこからでいいのよ。でも本質は全然違う
人の模範回答というか。見事に悩み苦しみ解決してくれるのが仏教なんだ
これを悪用すんのよ。ボンクラ僧侶は俺は知ってるからお前らに教えてやる
みたいなのテレビでいるだろアホかっての
答えは自分で手に入れるから意味があるのよ。人からもらうと
その人にすがってしまうほどのめり込むのよ
それは絶対したらアカンのよ。新興宗教がよくやる手だよ
真理なんてそんな難しいもんでもない学校で教わることはすべて
真理だからね ブッダも昔の経典だから、現代的批判より、歴史考証から、優れた点を
たくさん見つけ出すといいと思うよ。 自然過程説、マジレス、学術は許さない。
清見、しのさんはおっけー。 >>137
なりすまし発見だお。゚(゚´ω`゚)゚。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています