スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。
すなわち、スプーティよ、およそ生きもののなかまに含まれているかぎりの生きとし生けるもの、
卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれたもの、
みずから生まれ出たもの、形のあるもの、表象作用のあるもの、
表象作用のないもの、表象作用があるのでもなくないのでないもの、
そのほかの生きものもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、
それらのありとあらゆるものを、わたしは、<悩みのない永遠の平安>という境地に導き入れなければならない。
しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、
実はだれひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないと。
それはなぜかというと、スプーティよ、もし求道者が、<生きているものという思い>を
おこすとすれば、もはやかれは求道者とはいわれないからだ。
それはなぜかというと、スプーティよ、だれでも<自我という思い>をおこしたり、
<生きているものという思い>や、<個体という思い>や、<個人という思い>などをおこしたりするものは、
もはや求道者とはいわれないからだ。
金剛般若経