ニーチェ36 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>758
>>759何意味不明な事言ってるんだキチガイ!
どこがキリスト教に染まってるか答えられない無能を誤魔化すなよ(笑) じゃあなんでクリスマス祝ってバレタインデーやって天皇は支配者から落ちぶれたんだよ。
処女信仰も出て夜這いも消えて着物も丁髷も辞めただろ。
これを教化と言わず何という。
そしてお前自身がニーチェが日本で過大評価されているといった言葉が自己言及の矛盾となっているだろう。
日本で評価されてる=ニーチェの哲学・キリスト教的文化に侵食されている証拠だ。
アホが。 そしてルサンチマンとして赤軍の様なものが出てくる。
それに賛同した人物がおり共産党や社会党が出来、ソ連や中国に寄った事も西洋的価値観の影響だろう。
少なくとも日本の中世においてキリスト教を幕府が恐れて禁じた事からわかるように、現代においてキリスト教は侵食している。
天国や地獄に土日休むのもキリスト教の影響だろうが。
日本は仏教で輪廻だろ。 >>761
大体お前ローマ法とかなんとかいってたがそれと自体が見当違いだろ。
ボケ。
お前がそもそも反論できてねーじゃねーか。
トンマ。 >>762
逆に文化の違いと哲学はあんま関連ないんでは?
現代人は哲学を天文学、量子、脳、認識から読み解くし。
キリスト教でも仏教でも結局一応同じ人間だから哲学的な思想は
どっかでオーバラップするか、しなければ知ろうとして体系立てるものかなと >>762
そんな些末な事が教化?これだからキチガイは(笑) >>766
消えろ。
お前程度の知識じゃもう反論すらできないのが分かったから。
読み直してからこい。
ゴミが。 文化の違いがあるから日本哲学なりドイツ哲学なりアメリカ哲学なりの違いがある。
もちろん文化交流や移植はあるけど。 自分はニーチェの意義はキリスト教ヨーロッパの父権的倫理的唯一絶対神及びそこから派生する価値を相対化したところにあると思う。
日本にはそうした背景はなく単なる欧化ブームで入った舶来品の飾り物にしか思えない。 >>768
ハイハイ君には下品で中身のない罵倒しか出来ないんですね(笑) 日本の歴史を語った所で現代的価値観においては西洋化されている。
だったらキリスト教に改宗していなくともその価値観は日本人に生まれた時から刷り込まれておりニーチェの価値観は通じる。
それを舶来品というならそれは懐古主義か戦前から生き続ける余命幾ばくもない老人の妄言だ。 大体今時結婚式も洋式は多い。
衣替えで両方着たりもするし。
それに仏教の本は読まなくても聖書を趣味で読むだろ。 自分はニーチェのものは余り感銘受けなかった。
ウィリアムジェームスのものは何故夏目漱石や西田幾太郎が影響受けたかわかった気がしたが。 昔東北大学教授だった矢島羊吉のもの読んだ事あるがニーチェより仏教の方がより優れてるという論調だったな。 531 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2018/03/04(日) 17:54:37.80 0
底辺、好きな人と付き合いたい。
底辺、人の気持ちを考えるだけで、セックスとかめちゃくちゃ下手だお(о´∀`о)自信もないし、やりたくもない。正直、いまとなっては、乳首舐められながら手コキされたいくらいしか欲はないおな。気持ち悪くてすまんが。
底辺、誰かと付き合うのは本質的に無理だと思う。
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1519363752/531 >>762
確かに、日本の風習は、本来「恥らうことではないこと」に
西洋風な「恥じらい」を持ち込まされた。こういうことは
いったい、何が起きたのか?と、人間本来の恥が出てきたというふうに
解釈されてはならない。 >>775
仏教とニーチェを比べては…
仏教と西洋哲学を比べなくては 矢島の著作はニーチェだけじゃなくヘーゲルはじめ他の西洋哲学との比較もあったはず。
元々彼は専攻が西洋哲学だったから。 矢島は仏教はニーチェより優れてるとしたけど自分も仏教の方が根底的という意味でよりラジカルに唯一価値批判をしてると思う。
ニーチェ自身ショーペンハウエル通じて仏教の影響を受け彼のツアラトゥストラはキリストと釈迦の中間の人物として構想された。
更に彼の座右の銘「犀の角の如くただ独り歩め」は原始仏典のスッタニパータから取られたもの ニーチェは得意な種族かもしれないから仏教が大でおかかっても
倒せないかもしれないね。 ニーチェがもし諦めずに自然科学を勉強していたら永劫回帰をどういう風に解釈していたのか気になる >>783
マッハなど当時最新の自然科学を勉強してたレーニンの思想みたいになるんじゃないの(笑) 仏教を簡潔に、しかも深みを保って書いた作品は、ヘッセの「シッダールタ」くらいしか知らない。短編なのでお薦め。 >>783
サイコロを投げ続ければ必ず同じ目が複数回出る的な話もあるが
それだとレベルが低過ぎる
ラッセルの世界5分前生成説みたいなの方がレベルは高い ニーチェとマッハの思想は似ていると言われていて
マッハはレーニンに唯物論と観念論の間で揺れる観念論者と攻撃されている
またショーペンハウアーが唯物論を攻撃した観念論者であると考えると
ニーチェもまた唯物論に潰されていく時代に足掻いた観念論者に過ぎないのかもな 木田元が「マッハとニーチェ」書いてるな。両者は似てるとか。 >>790
仏教は端的には「全てのモノやコトは変化し移ろい行くものである」という諸行無常と「諸行無常故に全てのモノやコトには究極的には実体が無い」とする諸法無我という世界観を持つ。 東洋の哲学の欠点は「すべては・・・」ということ。
普遍的にしてしまうこと。 ブッダの自灯明法灯明なんて
とてつもなく的確だぞ
これ以上言いようがないくらい 諸法無我は、私は認識するものであると同時に認識として識別可能なものは
認識されるものであり、いずれも私ではないというヴェーダの基本概念であるから
世界に実体があるとか無いということとは関わりがない 世界に自我が位置付けされる場所は無いからね
西洋哲学でもそこには達している 仏教が西洋哲学と異なる点は、諸法無我を含めた三宝印を体験知として
体現しなきゃならないところだな
いくら、世は無常だ、無我だと言ってもそれを頭で理解しているだけでは
心の闇から逃れられない 倫理は実践だし信仰という実践と結び付くこともあるから
西洋哲学が頭だけというのもまた誤解 仏教においても自我は身体のどこにもない
というような教えをすることがあるし 仏教と西洋哲学を明確に分けてしまうのは
逆説的に仏教的ではないかと 逆に、仏教では西洋哲学のようにもはや理論が追求されるということは無くなってるからな
大乗仏教の人は信仰として、上座部のひとは悟りの道として取り組んでいる 仏教の理論は独断論的に思うことはある
ブッダは緻密な理論を作るようなことはしなかった >>798
それだけだと我空法有か我空法空かという対立点が出るかなぁと思った。 独断論すなわち先天的観念論
あらかじめ完成された、進化することのない永遠の真理 つまり、「すべて」は「多」について、差異について言われうる。
「すべて」は「1」を語っているが「1」は多のことである。
永遠は、変化について言われうる。つまり、永遠という概念が壊れるとしても。「道徳的意味外における真理と虚偽について」
筑摩文庫、ニーチェ全集3、哲学者の書にある。ハイデガーがよく引用する・・。
仏教は詳しくないけれども、ストア派に似ている。存在の一義性についてのことである。
ドゥルーズは「意味の論理学」で幾らか混乱し、間違っている。ある観点からみると
それは、量の概念と、シミュラークルの概念である。
ドゥルーズ自身、シミュラークルの概念は後に放棄される。
ストア派から見れば、「量」は様態、強度の一種ということである。
シミュラークルは、以前として「イデア」に繋がっているということである。
これらは、俺もよく分かっていない。
自我はない、Aを見るときAは自我とAの関係が「A]である。
Bを見るときBは自我2とBの関係が「B]である。
Cを見るときBは自我3とCの関係が「C]である。 相互に交じり合っており「お互いに形成し合っていて、
その結果が個体Aであり、自我Aである。つまり、個体=結果、であり、自我=結果である。
バークレーとカントの物自体が「合体」したような事態である。こう行くと、現象学に行きそうになる。
つまり、認識論と存在論の同一性である。
禅に無理に近づければ・・。座禅そのものが悟りと存在であり、座禅そのものは座禅以外の何ものでもないということになる。 ポストモダンもボードリヤールも過去の物になったな結局。
今流行してるのは思弁的実在論だったか?
ニーチェ主義に飽きて食傷した人が飛びつくとか。 どれだけ流行りに飛び付いても
生き残っているのは古典なんだけどね デリダとかドゥルーズ=ガタリとかも色褪せたしなぁ。
ただ古典というのは右でも左でもどうにでも解釈できる物という意味合いも含まれると思う。 ニーチェ飽きた
結局は理論化できなかったカスじゃん そもそも哲学者が理解した思想を理論的に記したのが哲学書だから読み手の思想と食い違えば理解できるとは限らないしね 理論化して、さあ「どうする」。表象を整理し、カテゴリーに詰め込む。
哲学はプラトンの注釈だとホワイトヘッドは言った。またライプニッツの中には何かがある・・
といったのはニーチェであった。ニーチェは神学者ライプニッツに、無神論者を見出していた。
ライプニッツの慇懃無礼さ、巧みにスピノザから距離をとり、無神論を隠す。ただそれが自然に、無意識に
やったのかどうか?
「将棋の秘密・・将棋の友へ。藤井君との対戦でのこと。
羽生氏の73桂のとき46歩の手が見えるのに・・それをしない。
故に13角を誘導、不思議な12歩打ち、99銀は、「それを原因:に負けたとする・・という意図。
これらはどうも、羽生氏が
序盤まあわざと、もしくは早差しでありえるような失敗を・・したのである。プロ棋士たちは皆知っているだろうが。
もちろん、それは自然な失敗である・・・ように見えるように。」そしてそれは、俺がそう断言できないような感じで。
つまり、本当にミスした・・とも言える。なぜなら、羽生氏もミスを本当にするから。ただ今回のは・・・。」
哲学に戻ろうデリダは、手に負えない、何を言ってるか?ハイデガーをなぜそこまで擁護する?
タルムードの「ホンモノ」はなぜ手に入らない、レヴィナスなどは読んでいる、「人類最低の書物タルムード」を。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
3U3V7 >>815
日本語もできない池沼は書き込み自重してくれや 進化論に影響を受けた観念論者、ストア派のニーチェ
進化論に影響を受けた唯物論者、エピクロス派のマルクス
ストア派とエピクロス派の運命論の違いの延長線上に立つ時代の申し子 >>815
何を言っているのかわからないのが重要なのだ
聞いたことがあるよね デリダは、まどろっこしく抽象的。しかも経験論でもない。
フーコーも比喩を多様するから、ドゥルーズ補正(抽出)があって分かる。
ニーチェは、本来的に、経験論だから分かりやすい。
だが体系的ではない。
それを、まとめる能力はドゥルーズがいる。
デリダは最初から抽象的、しかし体系的でもない。
ので、理解するのに時間がかかる。しかも「差延」というハイデガー
くさい概念を作ったが、これは「存在」とどう違うのか?よく分からない。
ドゥルーズの「差異」は問い、、関係、強度、非物体的。デリダのは? このドゥルーズ君かなり前からいるけどドゥルーズ理解できてない糖質系ゲェジだからスルー推奨
ドゥルーズのペダンチックな文章だけは習得したらしいが 市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。
まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降って来た。
他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも関わらずニーチェは一人雨の中を
頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。
心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、
ニーチェは校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから、と述べたという。
このエピソードは、よくニーチェという人物の生真面目さと結び付けられて語られている 「私が人間であるというのは偏見です。
…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。
…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。
…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。
…十字架にかけられたこともあります。
…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」 差異の「突端」に行ったものは、戦士であろうが
政治家であろうが、怠け者であろうが「同じ」だよ
「全力で肯定したもの」たちだよ。 >>832
とても「ムチうたれ、働かせられている」馬だった
そういうかわいそうな馬に見えたんだ。ニーチェには。 悪口や、嫌な言葉は、それにリアクション(反動、反応)
するとき、己が分かる。何に怒り、何に不愉快か?前もって知れない
というのも能動は「己自身である」ので
分からない。行動そのものであるので。オイディプス王やハムレット。
われわれは岩にぶつけて反応してそれから
己の能動(己自身)を見つけるしかない。ので傷を負わずに
己を知ることはできない。ただ賢明な人は、その傷が少なめなとき
にそれを知るというだけである。賢明とは後で知らされる事柄であるが。
つまり、それに気づくのが速いか遅いか
を前もって知れない。事後的にしか学べない。ので書物が多少
役に立つのだろう。 >>824
差延ってデリダじゃないの?
日本語に訳すには差糞の方が面白いと思うけど 統合失調症なんてそんなようさんいるか?希少価値だろう。血統的に。 まあ僕は一通り病院も経験したしデイケアにもいっていて作業所も継続中、
仕事もないわけじゃないし、外来でクスリのみの指示です。 普通は病院行かなくていいんだけど、そっちの人が多数。僕は転落事故していたからちょっとお世話に
なったかな。つまるところ症状というのは心理学用語で、カウンセラーにかかれば
いいわけだよ。 うーん、闘病中の人に頑張れとと言っても、頑張っとるわと言われそうだが頑張って マッハ「絶対的なものは存在しない」
ニーチェ「愛せなければ通り過ぎよ。人は人、自分は自分」
マルクス「人に関することで自分に無関係なものはない。世界は関係の総体である」
相対主義と弁証法的唯物論の違いについて ニーチェ的相対主義が飽きられて実在主義が流行する時代だけどねぇ。
ニーチェは聖書と同じで体系化されてなくてどうにでも解釈出来て使い勝手が良いから聖書と同じように引用は後々もされるかもなあ。
飽くまで聖書レベル(=物語レベル)での引用だろうけど。 ヒュームマッハアインシュタインスピノザマルクスドゥルーズニーチェカント
ヒューム
スピノザ
ドゥルーズが接着剤 知らないと恥をかく
「最新 脱ぎたて汚れ麺麭をクンクンしたい Best 5 」
1位 角柄 礁
2位 杜玖椀 晶子
3位 西内 まりや
4位 アン・ソルビン(Laboum)
5位 チョン・ヘビン >>845
ニーチェは絶対的自分主義でもあるわけだが >>848
http://shosuzki.blog.jp/archives/73236335.html
これは、ソクラテス的だ。「物質とは何か」ってとか。だがそう言われると困るから。
これは、ストア派に言わせれば、うーむ
・・「物質」は、これは空間、時間と同じように「様態」の効果である・・
つまり多であり、雑多なものの「抽象」である。すなわちそれらに
共通しているものの抽象の「表象」である。つまり「概念」である。
で、「概念」とは?となる。概念は諸特異点(微細な諸要素の中で
相対的に「より」異なるもの)が動き回っているものの、形成過程である。
「過程」とういうのは、概念とは「関係」であり、関係の形成そのもの
だからである。
例えば「水」は、水素やら、酸素が動いているけども、ある比(関係)を
維持する限り、「水」であり、特異点は「H2」とか「Oオー」である。
が、その「運動」の「関係」を形成している。つまり運動の関係の
同一性である。というか運動と我々が言うとき、ある「1つ」を言っている。
「水」が、「水銀」「酸素」になっても、要素の「入れ替わり」であって
「関係」であることに変わりはない。これが「物質」であって
最終の「単位」は、「関係」「比」「組み合わせ」である。これの「効果」が
「物質」である。「物質」という観念、概念である。と思うが・・。 >>850
850は、いろいろ説明がおかしいし、ちゃんと説明できていない
けど、・・。お許し願う。 >>851
おいらが許してもお天道様が許さねえんだよ。 俺は、オニオン氏が引用した言葉
ーニーチェ「愛せなければ通り過ぎよ。ー
これは、人間がル・サンチマンから逃れられないことを意味している。
これは「愛せないものを愛す」ことの不可能さを言っている。
嫌いなものを好きになれるか?
愛せなければ通り過ぎよ・・そうだなあと思う。 >>850
物質に関する議論は観念論者と原子論者(プラトンvsデモクリトス)の時代から続いている
観念論者というのは簡単に言えばファンタジー小説にありがちな、「宇宙は火・水・風属性など霊的なエネルギーによる不思議パワーで成り立っている」という考え方の延長線上にある。「物質は不思議パワーの表層である」
カントは科学的に説明できない多くの事象に関して「不思議パワー(物自体)の存在の可能性を認めるが、それに関する議論は言ったもん勝ちの神学論争になるからやめましょう」と主張した
しかしその後も「クオリア」だとか「意志」だとか、様々に用語を変えて不思議パワー哲学の観念論が展開された
読んでないが、ドゥルーズの「内在」
ニーチェはデモクリトスの手下のディオゲネスを称賛しているが、ニーチェ自身の理論はショーペンハウアーの「意志」を継いだ観念論でもある
そして彼は霊的エネルギーの復権を望んだ(唯物論 or 観念論の視点からニーチェを評価すると彼は双方からリンチされる)
http://blog.livedoor.jp/akamakigami7/archives/33974316.html
余談であるが、原子論者のライプニッツは「物質の最小単位である原子は、同じ原子であっても実は全く同じではない」というモナド論を展開した
エピクロスも理由は違うが同じようなことを述べている(現代の科学ではデモクリトスの同じ原子は同じが主流かな) 抜けてるところがあるので訂正
×読んでないが、ドゥルーズの「内在」
〇まだ読んでないが、ドゥルーズの「内在」うんぬんも正直怪しいと思ってる >>96
>>ヘッセの「ガラス玉遊戯」。4300円で買ったが、・・・
新潮文庫で廉価で今でも売っているでしょ
ヘッセの『デミアン』の後の作品で『ツァラトゥストラの再来』ってのがありましたよね
邦訳がでているか知りませんが、ニーチェの影響はその本によくみられると思います
ドイツ語習ったけど、今では忘れました スピノザ曰く、「自由な人間は死について考えない、悩まない」だそうだ
ならばニーチェの「愛せなければ通り過ぎよ」は「嫌なことは忘れろ、気にするな」といったところか
これには「"運命愛"はどうした? 嫌なことも全部含めて運命だろ。自分で書いたことぐらい忘れんなよ」と言いたくなる
自分の嫁がブスだとかさ、唯心論的に無視してもそれは客観的現実に存在し続けることなんだよね
ニーチェやマッハは相対主義や情報のエコノミーで「自分に都合の良い現実だけ見てるのが生きる知恵」と説くけどさ、ちょっと比較してみよう
マルクス・エンゲルス「現実を、運命を覆すべく戦う者のみが人間である。従って人は己の運命に対する怒りによってのみ、人で在り続ける」 《ドイツの哲学者ニーチェの言葉が心理療法的に有益であることがある。それは「自殺念慮
は多くの生命を救っている」との言葉である。つまり,人生の重荷が耐え難いものになったとき,人
間は自分の人生を閉じる自由をもっているという知識が,生活上の情緒障害に対処しようとして
いる多くの人びとを救ったのである.》邦訳フロム・ライヒマン『積極的心理療法』1964,1950、210頁
[《#4:一五七 自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされ
る。》ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫] 正しいと信じる考えのために生きるな、死ぬな!
生きるために考えなさい!!
――ツァラ男はそれっぽいことを言った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています