ニーチェ36 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
デリダは、まどろっこしく抽象的。しかも経験論でもない。
フーコーも比喩を多様するから、ドゥルーズ補正(抽出)があって分かる。
ニーチェは、本来的に、経験論だから分かりやすい。
だが体系的ではない。
それを、まとめる能力はドゥルーズがいる。
デリダは最初から抽象的、しかし体系的でもない。
ので、理解するのに時間がかかる。しかも「差延」というハイデガー
くさい概念を作ったが、これは「存在」とどう違うのか?よく分からない。
ドゥルーズの「差異」は問い、、関係、強度、非物体的。デリダのは? このドゥルーズ君かなり前からいるけどドゥルーズ理解できてない糖質系ゲェジだからスルー推奨
ドゥルーズのペダンチックな文章だけは習得したらしいが 市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。
まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降って来た。
他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも関わらずニーチェは一人雨の中を
頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。
心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、
ニーチェは校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから、と述べたという。
このエピソードは、よくニーチェという人物の生真面目さと結び付けられて語られている 「私が人間であるというのは偏見です。
…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。
…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。
…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。
…十字架にかけられたこともあります。
…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」 差異の「突端」に行ったものは、戦士であろうが
政治家であろうが、怠け者であろうが「同じ」だよ
「全力で肯定したもの」たちだよ。 >>832
とても「ムチうたれ、働かせられている」馬だった
そういうかわいそうな馬に見えたんだ。ニーチェには。 悪口や、嫌な言葉は、それにリアクション(反動、反応)
するとき、己が分かる。何に怒り、何に不愉快か?前もって知れない
というのも能動は「己自身である」ので
分からない。行動そのものであるので。オイディプス王やハムレット。
われわれは岩にぶつけて反応してそれから
己の能動(己自身)を見つけるしかない。ので傷を負わずに
己を知ることはできない。ただ賢明な人は、その傷が少なめなとき
にそれを知るというだけである。賢明とは後で知らされる事柄であるが。
つまり、それに気づくのが速いか遅いか
を前もって知れない。事後的にしか学べない。ので書物が多少
役に立つのだろう。 >>824
差延ってデリダじゃないの?
日本語に訳すには差糞の方が面白いと思うけど 統合失調症なんてそんなようさんいるか?希少価値だろう。血統的に。 まあ僕は一通り病院も経験したしデイケアにもいっていて作業所も継続中、
仕事もないわけじゃないし、外来でクスリのみの指示です。 普通は病院行かなくていいんだけど、そっちの人が多数。僕は転落事故していたからちょっとお世話に
なったかな。つまるところ症状というのは心理学用語で、カウンセラーにかかれば
いいわけだよ。 うーん、闘病中の人に頑張れとと言っても、頑張っとるわと言われそうだが頑張って マッハ「絶対的なものは存在しない」
ニーチェ「愛せなければ通り過ぎよ。人は人、自分は自分」
マルクス「人に関することで自分に無関係なものはない。世界は関係の総体である」
相対主義と弁証法的唯物論の違いについて ニーチェ的相対主義が飽きられて実在主義が流行する時代だけどねぇ。
ニーチェは聖書と同じで体系化されてなくてどうにでも解釈出来て使い勝手が良いから聖書と同じように引用は後々もされるかもなあ。
飽くまで聖書レベル(=物語レベル)での引用だろうけど。 ヒュームマッハアインシュタインスピノザマルクスドゥルーズニーチェカント
ヒューム
スピノザ
ドゥルーズが接着剤 知らないと恥をかく
「最新 脱ぎたて汚れ麺麭をクンクンしたい Best 5 」
1位 角柄 礁
2位 杜玖椀 晶子
3位 西内 まりや
4位 アン・ソルビン(Laboum)
5位 チョン・ヘビン >>845
ニーチェは絶対的自分主義でもあるわけだが >>848
http://shosuzki.blog.jp/archives/73236335.html
これは、ソクラテス的だ。「物質とは何か」ってとか。だがそう言われると困るから。
これは、ストア派に言わせれば、うーむ
・・「物質」は、これは空間、時間と同じように「様態」の効果である・・
つまり多であり、雑多なものの「抽象」である。すなわちそれらに
共通しているものの抽象の「表象」である。つまり「概念」である。
で、「概念」とは?となる。概念は諸特異点(微細な諸要素の中で
相対的に「より」異なるもの)が動き回っているものの、形成過程である。
「過程」とういうのは、概念とは「関係」であり、関係の形成そのもの
だからである。
例えば「水」は、水素やら、酸素が動いているけども、ある比(関係)を
維持する限り、「水」であり、特異点は「H2」とか「Oオー」である。
が、その「運動」の「関係」を形成している。つまり運動の関係の
同一性である。というか運動と我々が言うとき、ある「1つ」を言っている。
「水」が、「水銀」「酸素」になっても、要素の「入れ替わり」であって
「関係」であることに変わりはない。これが「物質」であって
最終の「単位」は、「関係」「比」「組み合わせ」である。これの「効果」が
「物質」である。「物質」という観念、概念である。と思うが・・。 >>850
850は、いろいろ説明がおかしいし、ちゃんと説明できていない
けど、・・。お許し願う。 >>851
おいらが許してもお天道様が許さねえんだよ。 俺は、オニオン氏が引用した言葉
ーニーチェ「愛せなければ通り過ぎよ。ー
これは、人間がル・サンチマンから逃れられないことを意味している。
これは「愛せないものを愛す」ことの不可能さを言っている。
嫌いなものを好きになれるか?
愛せなければ通り過ぎよ・・そうだなあと思う。 >>850
物質に関する議論は観念論者と原子論者(プラトンvsデモクリトス)の時代から続いている
観念論者というのは簡単に言えばファンタジー小説にありがちな、「宇宙は火・水・風属性など霊的なエネルギーによる不思議パワーで成り立っている」という考え方の延長線上にある。「物質は不思議パワーの表層である」
カントは科学的に説明できない多くの事象に関して「不思議パワー(物自体)の存在の可能性を認めるが、それに関する議論は言ったもん勝ちの神学論争になるからやめましょう」と主張した
しかしその後も「クオリア」だとか「意志」だとか、様々に用語を変えて不思議パワー哲学の観念論が展開された
読んでないが、ドゥルーズの「内在」
ニーチェはデモクリトスの手下のディオゲネスを称賛しているが、ニーチェ自身の理論はショーペンハウアーの「意志」を継いだ観念論でもある
そして彼は霊的エネルギーの復権を望んだ(唯物論 or 観念論の視点からニーチェを評価すると彼は双方からリンチされる)
http://blog.livedoor.jp/akamakigami7/archives/33974316.html
余談であるが、原子論者のライプニッツは「物質の最小単位である原子は、同じ原子であっても実は全く同じではない」というモナド論を展開した
エピクロスも理由は違うが同じようなことを述べている(現代の科学ではデモクリトスの同じ原子は同じが主流かな) 抜けてるところがあるので訂正
×読んでないが、ドゥルーズの「内在」
〇まだ読んでないが、ドゥルーズの「内在」うんぬんも正直怪しいと思ってる >>96
>>ヘッセの「ガラス玉遊戯」。4300円で買ったが、・・・
新潮文庫で廉価で今でも売っているでしょ
ヘッセの『デミアン』の後の作品で『ツァラトゥストラの再来』ってのがありましたよね
邦訳がでているか知りませんが、ニーチェの影響はその本によくみられると思います
ドイツ語習ったけど、今では忘れました スピノザ曰く、「自由な人間は死について考えない、悩まない」だそうだ
ならばニーチェの「愛せなければ通り過ぎよ」は「嫌なことは忘れろ、気にするな」といったところか
これには「"運命愛"はどうした? 嫌なことも全部含めて運命だろ。自分で書いたことぐらい忘れんなよ」と言いたくなる
自分の嫁がブスだとかさ、唯心論的に無視してもそれは客観的現実に存在し続けることなんだよね
ニーチェやマッハは相対主義や情報のエコノミーで「自分に都合の良い現実だけ見てるのが生きる知恵」と説くけどさ、ちょっと比較してみよう
マルクス・エンゲルス「現実を、運命を覆すべく戦う者のみが人間である。従って人は己の運命に対する怒りによってのみ、人で在り続ける」 《ドイツの哲学者ニーチェの言葉が心理療法的に有益であることがある。それは「自殺念慮
は多くの生命を救っている」との言葉である。つまり,人生の重荷が耐え難いものになったとき,人
間は自分の人生を閉じる自由をもっているという知識が,生活上の情緒障害に対処しようとして
いる多くの人びとを救ったのである.》邦訳フロム・ライヒマン『積極的心理療法』1964,1950、210頁
[《#4:一五七 自殺を想うことは強い慰藉剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごされ
る。》ニーチェ『善悪の彼岸』岩波文庫] 正しいと信じる考えのために生きるな、死ぬな!
生きるために考えなさい!!
――ツァラ男はそれっぽいことを言った >>856
文庫本で入手可能なのは旧漢字で読めないから買ってはいけない おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
あと、ブログよろしく!
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/ 革命を叫ぶ無神論者は地獄の番犬ケルベロスである
地獄の番犬は天国と神を否定するが、同時に現世を愛することができぬ、所詮あの世の住人なのだ
ところが現世の本質は黄金の大地である。世界は無条件にすばらしい!
――ツァラ男はそれっぽいことを言った この世界は素晴らしい――と言えば、神道の価値観もそうだ
神道は世界の万物には神々が宿っていると肯定的に捉えて感謝するのに対して、
仏教とキリスト教は世界は苦しみに満ちており、人は愚かだと説く
まあ神道がどれだけ「世界は素晴らしい、感謝しなさい」と説いても世界は糞だ
都合の悪いことを仏教に押し付け、その二枚舌によってしか神道的世界観は維持できない 神道から覗くニーチェ、唯物論者のマッハ批判から覗くニーチェ解釈……解読のアプローチは色々あるのだ ストア派については、
エミール・ブレイエの本があって幸運にも訳されている。非常に重要な本である。ストア派の、クリュシッポス、それを翻訳している江川氏も
本当に優れた人たちである。 ところでニーチェに関しては反時代的という、分かりやすい概念がある
常に「反時代的」である・・・それは、反抗ではなく、「No」という「差異」の「生成」であり、その「差異」が
「飼いならされていれば」、またそれに「No]と言うことである。これは、人間の生成の条件でもあるので、
そう難しくない。経験的には、ただ単にあらゆることに「ノー」と言っていても、そう間違ってはいない・・・と言えるかもしれない。それは、いずれにしても。役に立つ・・。
疚しい良心、恨み、憎しみ。。とりわけ「疚しい良心」・・。
これは、国家のわなである。この罠(わな)をすばやく見抜いた詩がある、これは、ランボーの詩であったと思う。
「俺は破廉恥にも、国のお世話になっている。そして俺は正しい」。 だったと思う。
翻訳すると、ーー 「俺は、貧乏で何もできなくても、詩は書けて、おそらく他の能力も
ずばぬけている、でも手段がない、貧乏だ、国家は俺に年金という手で保護する・・
・・そして・・、「国にお世話になるかよ」という「矜持」を古き倉庫から持ち出させ、俺を恥ずかしくなるようにして。・・俺は国に借りがあるという、
疚しい良心を持たせる、だが俺は・・引っかからないぜ。」。。。 ーーー。という意味。
だが国は彼(ランボー)が貧乏ゆえに、極端な行為、例えば、犯罪に手を染めると逮捕する。自分を疚しく思うか、犯罪するか
どっちにせよ、国家に従わせる、のである。
これをまた、現代的に、超翻訳すると、「俺は不適応者で、障害者らしい、で障害者手帳をもらった、ので
国に借りがある、だが俺は借りがない・・勝手に借りをつくらせるな(勝手に疚しい良心の持ち主にさせるな、手帳を自由に使うぜ・・ふふふ・・。」
ーーー。という意味。に近い。 ニーチェが指摘した「疚しい良心」は、「国に何らかの借りがある」とおもうことである。、皆、「国」が貸し借りに出てくるとき疑えということ。
税金のことは、アンチ・オイディプスか、ミル・プラトーに書いてあったはず。税金・・無限の債務。 ・・ん、まず、テレビは消す。・・。テレビを見てて、「俺はだまされない」とか思っていても
そう簡単ではない。
神道は、それはよく分からないが、それが「論理や、理屈」にならない限り、ほっておけば良いかなと思う。
神道の「理屈」は、明治以降に作られたものが多い。そして、より体系を形成するようになれば、これは危険である。
これは、キリスト教がヘーゲルになったのと同じである。
神道とか禅は、不思議なものとして存在してたらいい。 >>857
ニーチェの体系への批判は、単なる感情ではない。で、運命愛と力(=意志)は矛盾しない、が
その運命とやらが、残酷な場合は人間的には、恐らく苦痛、苦悩であると思う。
不治の病を背負ってる人が、その問いの中で生きるがごとく、ただ、それが出来たなら「超人」でしょう。 ・・マルクス・エンゲルス「現実を、運命を覆すべく戦う者のみが人間である。
従って人は己の運命に対する怒りによってのみ、人で在り続ける」・・・
これは・・「反時代的」の概念の説明そのものです。 他人を闘争を焚きつけてるだけ焚きつけて、己は静かな場所で執筆してるだけのクソジジイが
何と戦ったんだよ それを言ったらニーチェとかナチスの腰巾着ハイデガーとか思想家というのは大抵そんなもんなんだけど
「口だけ野郎じゃダメなんだ」ということでサルトルは選挙にでて世の中を変えるぞと地道に活動していたし(アンガージュマン)
ニーチェ側だとユンガーが実際に戦争に行って、戦争の時代に生まれた己の人生を賛美し、生を肯定する哲学を実践した >>869
ニーチェにとってワーグナーやワーグナーが心酔したバクーニン的なものではあるだろうな(決別したらしいが もう少し考えてみる
「反時代的」とは、すなわち自由意志の強度だな
マルクスは言う「人の意識が存在を作るのではなく、存在が人の意識を作る」(これに甘んじてる限り、人は奴隷である)
これは己が置かれている時代や病気や周囲の環境が人の意識を無意識に作り上げているという自然の力学のこと
意志の強い超人は、この力学に反発する意志の力が強いので、自然の力学(運命)に流されずに己の意識を保つ
人間という猿の進化系生物の宿命としての生きようとする本能から死を選ぶ自由
不治の病を背負ってる人が、その苦痛に流されずに生きることを選ぶ自由
しかし半端ない強度による純粋な自由意志とは極論的には何を意味するだろう?
宇宙の物理法則や人間が肉体的に猿の進化系生物に過ぎない現実を無視した自由意志とは?
「時代的」であること、「反時代的」であること、相反する2つの世界の調和、
あるいは2つ世界の互いが互いに刺激を与えて進化させる意志の弁証法的発展の持続こそが真の自由の姿だろう >>857
「愛せなければ通り過ぎよ」
ツァラトストラの中の言葉だよね。10代の頃に読んでから全く読んでないので裏憶えだけど、
単に「馬鹿がうつるから素通りしろ」という意味と解釈した記憶があります。
「嫌なことは忘れろ、気にするな」
との意味では決して無い。そんな事は不可能。人間の精神は嫌な事を都合よく消すようには出来ていない。
鬱病やPTSDのように過去を必死で忘れる為に陥る病気も有る。
解離性性障害も同じく。
1月にテレビの特番で記憶喪失の男性の身元をを探していたが、番組中にコンビニの店員だと電話があり解決。
記憶喪失なんて本当にあるのかと疑心暗鬼だったが、解離性障害として、自身を過度の外因性ストレスから守る為にある、脳の機能なんだろう。 以前、「善悪の彼岸」の270に俺が書いてあると記したら、真性だの言われた。
書いてあるのだから仕方ない。
おれは仮面を被っている。
278にも同じ事が書いてあるが、そこまで落ち込んではいない。
そもそもおれは音楽家だ。 ああ、「善悪の彼岸」に自分が出て来ないと思い込んでいる人へ。
畜群、賊民、他にも天賦つたいない人、いろいろ何回も出てくるから喜べ >>873
なかなか良い考察だね。物理的な自由は、人間や生命にはほとんどないというのが真理。
口を開けてみよう。果たして自由意思で、どれくらいの間、口を開け続けていられる?このように自由意思はほとんどないので、口は開けたら、閉じるが物理法則と
して決まっている。息は吸ったら、吐くが生理学的法則で、吸ったまま、吐いたまま、止めたままはあり得ない。そういう物理的な自由はない。
誕生も選択できないし、遺伝子も選択できないし、自殺を除外すれば、死の種類も
選べない。ニーチェは脳梅毒で発狂したように、そういうことも自由意思で選んで
いるのでなく、強いられている、強制されている。
こうした存在論的な強制や奴隷状態からの解放を目指すのは、
哲学として好ましいだろう その前に、皆さんのいう「自由意思」があるのか無いのかの
議論は終わったのですか? 二三度度ほどお会いできて、失点ずくの正体をみました。 アンチ キリスト 単品のほうがお薦めできますけど。 議論なんかしていない
俺は俺の書きたいことを一方的に書いているだけだ
デタラメだと思ったら通り過ぎよ、至言があれば野犬のように盗むが良い
――ツァラ男はそれっぽいことを言った あれは抜粋だからうまく行ってないよね。なんか適当な書。 自由意志ときて、自由とは何か?
自由とはまた抽象的な言葉だ
まずは自由を2つに区分してみる
ひとつは積極的自由、自らが望む己の姿に接近することができる自由
もうひとつは消極的自由、力学的必然などから離れることができる自由
続きはまた考えておく 混乱のもとは、「自由」というとき、その観念によって
表現されるものが、既に前提されているからである。
つまり、「任意に何でもできる」という意味が。
そして「任意に何でもできる」が「自由」という意味だ・・という悪しき循環になってしまう。
これは、しかし難病になったり、マウスをいじったり、100メートルを5秒で走れないとか、
自由には程度があるのである。この点でもう「自由」のその概念は「壊れている」。
つまり、それは適切な概念ではなかったということである。
そこに「程度」を持ち込めば、その概念は良いと思うかも知れない。
つまり、「可能性の程度」である。可能性は現在の引き写しの観念である。
「現在の希望」の引き写しと言っていいかもしれない。 「宇宙に今すぐいける」自由はない
というとき、そんなのは不可能と思っているから(希望しない)。
、また100メートルを5秒で走る自由がある・・と我々は、
とは言わない(希望しない)。手が骨折しているのに、手を今すぐ治す自由がある・・とは
言わない。 昔の人は「祈り」「念じる」ことで一瞬で治ると思ったかも知れないが、今のところ物理学
を持ち出さなくとも、ある種の不可能なことは、そもそも希望しない。希望はできるが、実現しない。
いろいろ考えれば、自由という概念そのものが、「虚構」だと気づく。
もし制限付きの自由などといえば、自ら転ぶ概念になる。ニーチェが概念とは、磨いたり、削ったりしなければならない
というのも、そのためだ。過去の人が混乱した概念を作ったのだが、それらをどっかから降って下りた「ありがたい」ものではなく
先人たちの、人間的な頭脳が作ったものにすぎないと言うことである。 また、「到達した自由の印は何か?・・・自らを恥じないこと」
と、ニーチェは言っていたが、これは「肯定」の概念に他ならない。
肯定から出る肯定、肯定からでる否定(反時代的)
これは、同じものであるが、否定からでる肯定は「ル・サンチマン」である。
肯定(ディオニュソス)と肯定(アリアドネ)が区別されるのはそのためである。
ディオニュソスがル・サンチマンによる肯定のような肯定をしている限り、アリアドネに
見放される。これは、我々の今の肯定が、未来によって肯定されるとき、アリアドネ(生成)。
父として死んでいて、母としては生きているというとき、「オピニオン」としては死んでいるが、
「生成の思想」としては、今でも活動している・・。俺がこうやって書いているのがその証拠かもしれない。
「自由」は問題にならない。 お前ら入不二のことどう思ってる?
この人明らかにニーチェの影響受けてるよね 888のものであるけども、永井均とか、の影響は一切無い。
そもそも彼らの「新書」などを2,3ページ読んで、あーあ、このような貧相なものでも
教授とか、ニーチェについて語れるんだなあ。と思っただけ。偽者はすぐ分かるんだ。
何にも考えてやしない。こういうやつらが、哲学が不毛だという原因なんんだなあと思った。
とにかく、間違っていても、彼らの影響をうけるない。なぜなら何も「発信」できてないから。影響不可能なんだなあ。
ボードレールが、レンブラントがいいっと言っても、ゴッホは、「何もわかっちゃいない」といったように。
知ってないものは知らないと言うんだ。けっして知らぬのに知ってる振りをしても見破られるよ。
ボードレールは、知ったかぶりをしたんだな。
入不二って、最初仏教用語かなと思った。
永井均という人は、「ニーチェはこれだ」だったかな、そういう新書版の本を
読んだけれど、残念な人である。恐らく、ニーチェ以外の思想も理解できないと思う。
第二の中島義道かなと思った。
こういう人たちがいるので、「哲学はくだらん」とかいう意見がでるのかなあと思う。
「趙訳ニーチェ」とかを立ち読みしていて、その中にニーチェの言葉があり、その中に、
私の一部の思想だけを抜き出して分かったような・・そういう風な意味ニーチェの言葉が引用されていた。
それを読んで、まさに「超訳ニーチェ」という本自身がそれじゃないか!なと思った。 ディオニュソスとアリアドネのことは分かりにくい。
ディオニュソスは迷宮の人。アリアドネは糸であり直線である。
例えば、ヒトラーの思想、行為が、ヒトラーそのものの肯定の気分から出ていた・・。
と信じることはできない。もしそうであったとしても、我々はそれを全力で否定する。
ヒトラーを現在とすれば、我々は、ヒトラーにとって未来である。
ヒトラーがディオニュソスであったとしても、
つまりディオニュソスかつヒトラーにとってアリアドネになる我々・・である。(また未来から見れば我々はディオニュソスである)。
アリアドネは、ディオニュソスが求婚する相手である。(アリアドネの同意=生成)。
しかし、ヒトラーがそもそもディオニュソスだとも思えないし、それを否定するのに
そんな「高価」な言葉が必要だとは思えない。ハイデガーの態度にしてもそうだ。
「超人」を誤解するには、レベルが低いのである。だけれども、ハイデガーの著作が
そうだとは言えない。がというのも、著作物には「今のところ」大分、まともであるし、また
大半が読めていないし、理解も難しいからである。 ナチスとニーチェに通低するものはあるがヒトラー自身はルサンチマンとコンプレックスの塊だったしなあ。 テレビに映らない 誰にも書かれてもいないし語られてもいないユルゲンヒトラーもいるのでは? マ マ
ジ ジ マ
レ マ レ ジ
ス ジ ス レ
の レ ノ ス
嵐 ス ア の
マ マ ノ ラ 嵐
ジ ジ マ ア シ マ
レ レ ジ ラ ジ
ス ス レ シ レ
ノ の ス ス
ア 嵐 ノ の
ラ ママ ア 嵐
シジ ジ ラママ
レ マ レ ジ ジ
ス ジ ス レ レ
の レ ス ス
嵐 マ ス の ノ
マ ジ 嵐 ア
ジ マ レ マ ラ
レ ジ ス ジシ
ス レ ノ レ
の ス ア ス
嵐 ノ ラ の
マ ア シ 嵐
ジ ラ ママ
レ シ ジジ
ス レレ
嵐 実存主義からポスト構造主義までずっとニーチェ主義や新ニーチェ主義が支配してて哲学者達も飽き飽きしてた。
そういうのに飽きた人達が実在主義に飛びつき現代の思弁的実在論や新実在論が生まれた。 バッコス ワインの朝敵 じゃないの?アリアドネ 糸の公敵 ニーチェがわかるのは自分だけだ
と思わせるのがニーチェだ
だけど誰もニーチェをわかっていない
ということをニーチェは書くわけ ニーチェの「世界」がわかると
ニーチェの「言いたいこと」もわかる
それはいわゆる
「語りえないこと」でもあると >>888
>「到達した自由の印は何か?・・・自らを恥じないこと」
自由そのものではなく自由がもたらす感覚が重要なんだな
ル・サンチマンは嫉妬と訳されるが、より広義には正義感や恥の概念が当てはめられるだろう
戦場カメラマンがアフリカの戦争難民を撮影しているうちに気が病んで自殺したりするのは
世界の不完全性、ひいては世界=己の運命を恥じるからだ
恥を知らなければ自由になれる
どうせ恥じたところで運命は変えられない
すべて(の忌まわしき運命もまた)は許される
愛せなければ通り過ぎよ
前に長文を連投していた「つるじょあ=ちゅん太郎」はここを極論化してたんじゃないかな ニーチェ は生の肯定。
ニーチェ事態が否定派詩人だからまきずりこまれるわけだな。
ニーチェがわかるということはあってもニーチェを感じるに勝てないし、
ニーチェが自分を見つめていたかというと古典文献を読みながら
もっと複雑な他人の内面を想定して干渉していたのだろうな。 他者の感じていることを完全に理解するなど隣に住んでるオッサンでも不可能だよ 生を肯定するとは己の人生を恥じないこと
しかし恥じぬに値する人生なんて物の見方(パースペクティブ)次第
従って実際には恥を知らぬ厚かましいブサ男ばかりが己の生を肯定する実態としての哲学的敗北
ホリエモン、ローガン・ポール、サカキバラみたいな失敗作のサイコ野郎ばかりをニーチェ哲学は生成した
これを否定するのは、北朝鮮は真のマルクス主義社会主義国家ではないと泣き言をいう左翼のようなものだ 過去が残っているのか?消えるのか?
未来はまだ無いのか?もうあるのか?
ということを考えると
永劫回帰という思想にはかなり正当性がある じゃけん時間を語るならベルクソン、ドゥルーズ、マルコポーロ、マクタガードはおさえときましょね〜 正直、ニーチェだけで時間論を語るのは無理
永劫回帰の基礎づけは量子力学を解明を待たないといけないだろうね
だから現在では信仰としての永劫回帰しか存在し得ないってことさ >>913
永劫回帰と量子力学には何か関係性があるはずという当てずっぽうじゃないの? >>912
他の二人は知らないが、ベルクソンとドゥルーズは、時間の理解にはなんの役にも立たないよ? 君の時間理解には役立たずだとしても、理解の契機は人それぞれ違うから言い切れないと思う >>915
それでは、理解した人に内容を聞いてみたい。
ベルクソンやドゥルーズを読んで、時間のなにをどう理解したの? 「存在は時間であり時間は存在である」(正法眼蔵有時の巻)道元 >>918
おもしろい言い回しだけど、存在も時間も理解したことにはならないよね?
存在 −> 時間の項を見よ
時間 −> 存在の項を見よ
ということだよね? 時間との関連性が論証できていない言い回しを持ち出してるだけだから理解できているかは明らかになってないんでスルーでいいと思う 万人が確信を持てる説明を書いた哲学者はいないだけに、どの書き方が尤もらしく感じるかしか評価の対象にならいような >>914
>>915
>>917
ペギオの時間の正体を読みたれw レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。