カントならどう考える? [無断転載禁止]©2ch.net
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「我は孤独である。我は自由である。我は我みずからの王である。」
ってカントの言葉らしいんですけどどの著書に書かれた言葉ですか?
著書ではなく講義か何かで言った言葉でしょうか?
出典を知りたいです。 出典のない名言とやらはデマか似たような言葉が全然違う意味で一人歩きしてるかのどちらか もうカント全集をめくり続ける作業をするしかないだろう >>46
レフレクシオーンと呼ばれる遺稿集のことかも
岩波の全集には全訳はない 8年くらい前に買った『諸学部の争い』の序文が読めた。
買った当時は哲学的訓練が足りなくてひとつも読めず、
タイトルだけを見てアマゾンで買った俺はアホだと思っていた。 カントは考えた哲学者じゃなくて実践つまり実戦が多いぞ。 王様から来た手紙への返事の手紙を出すという
恐れ多いことをやっていたわけだしな。 カントが考えに置いてる道徳は聖書らしいから
臓器移植は、我が身を捨てて他者を救い敬う美しい行為ということになるだろう
主イエスがそうであったようにキリスト教においては自己犠牲こそが
道徳の究極形態だから まあ、『純粋理性批判』では神殺しがなされたというような見方(京大系のミネルヴァ書房の哲学史の本)もあるけど、信仰の余地を残したとも言われているしなあ。 カントは新教圏の人だから神さまに配慮する必要はなかったし
良識としての信仰を否定するつもりもなかった 真理っつーのは対象物と認識表象との齟齬のなさ、そんなふうに考えられていた。それはハイデガーまでは続くんだろう? まあ、カントはプラトンのイデーを露悪的に復活させたという向きもあるだろう。
しかし、カントなくしてハイデガーの認識論はあり得ない。 >>59
カントは認識論ですがハイデガーは存在論でしゅ。👩 >>60
存在論の大元には認識論がある。まあたしかに存在論の人だが。 >>60
カントは存在論では不可能だから
敢えて認識論にしたの カントは存在論では失敗するのを知ってたから敢えて認識論で続行したの カントはこの世わ現象界だと解き明かした。👩
本体界も有ると >>64
ほほう、しかしそれが彼の負の遺産でもある。 すべては経験とともにはじまるのじゃ。
感覚的な印象という土台となる素材において。
by
カント 971 :可愛い奥様 :2020/04/17(金) 00:33:36 ID:Qh8sNIUS0.net
私も東大卒とお見合いしたことある
爽やかでややイケメン、そつなく会話できる人だった
でも当時の私はバンドでベースやってるダメ男に入れ込んでたからお断りした
若い=馬鹿 超越論的な自己統合の意識というのが、キーワードになる。
三大批判のすべてにおいて。 そして、カントいわく、
経験において現象は、自己統合の意識の統一という条件にしたがわねばならないのである。
そもそも認識というものが可能となるのは、この自己統合の意識の必然的な統一によってなのである。 ものをつかむ意識なくして、概念はあり得ない、と純理には書かれておる。
現象そのものは心に思い描かれた感覚的な像に過ぎない。
心に思い描かれた現象を、対象そのものとみなしてはならない、ということ。 純粋理性批判においては、オルガノン道具的数学における特殊論理学性認識論と一般的基礎論理学を併置ささせた。 ささせwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 可能モードなのか不可能モードなのか現実存在モードなのか非存在モードなのか必然性モードなのか偶然性モードなのか。
能動関係なのか受動関係なのか因果関係なのか依存関係なのか付属関係なのか自存関係なのか。
実在質なのか否定質なのか制限質なのか。
全体量なのか数多量なのか単一量なのか。 そもそもがウアタイレ(判断)を列挙することからはじまっているが、ドイツ人はギリシア人っぽいねちっこさがある。 おれたち人間はかならずカテゴリーを媒介している。
ただ、それだけのことさ。
多様なものの再認の根拠となるのは、こうした根拠が経験一般の形式だけにかかわるかぎりでは、すでに述べたカテゴリーなのである。
だから、想像力の総合におけるすべての形式的な統一も、
この統一による想像力のあらゆる経験的な利用も
(把握においても、再生においても、再認においてもである)、
ついには現象においてもカテゴリーが根拠となるのである。
『純粋理性批判』初版 意味不明
『純粋理性批判』w
こんなこと、あんなに難しく論文に残す必要なんてあったのだろうかwww 247 :糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2020/05/16(土) 00:04:49.82 ID:zzqOMtSl
とにかく何をやらせてもダメ。
「構成要件とは、実践理性の定言命令」であると書いてあったが、
純粋理性とは「経験豊富な女」という意味であり、
実践理性とは「処女」という意味です。
定言命令とは「レイプ」という意味であり、
仮言命令とは「和姦」という意味です。
社会の病理面がたまたま「処女レイプ」であるだけであり、
純粋理性の仮言命令(パートナーとの和姦)ならば問題は少ない。
そこで「主婦層のしかめっ面」(違法性)が、刑法だけが特別に重いだの、違法一元論だのと議論しているんだよ。
病気にもなるわな。 >>1
実践理性によれば
移植提供者にとっては死んでいるので意味を有しない
移植獲得者にとっては不必要になった臓器を貰うだけだから
問題ない 難しいというより認識主体の構造がそうなっているんだからそう表現するしかなかったわけ。 アート系ヌードとか哲学よりはっとと我に帰るぐらいいいけど。 >将来の行く末が大事で。
行く末なんて大事とかしたら流されているだけじゃないか、
予想して予測しているだけ、予知しようとしない無能さ。 クレイジー銃術とかのほうがカントの丸読みよりいいよ。 学歴でも学術で銃の使い方や組み立て歴史や装備の要綱種類、値段、倫理など教育したほうがいいんじゃないの? 銃武装しないから強姦されたり殺されたりする。日本は良い社会ではない。 Immanuel Kant
deutscher Philosoph (1724 - 1804)
169 Zitate, Sprüche & Aphorismen
https://www.gutzitiert.de/zitat_autor_immanuel_kant_699.html
Das Weib wird durch die Ehe frei;
女は結婚することで自由になる
der Mann verliert dadurch seine Freiheit.
男は結婚することで自由を失う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています