悟りに近づくために10
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>>199
命の証しは、僕にはいらない気がします。愛ゆえの拘泥、世代の継承、そんなことに遠いからかもしれません。
最近、身体と頭の調子が激変しているので、なにやら頭に不思議な感覚を受けてばかりです。
後悔の無いように、自分のほどを知って、やたらと誇張することのない人生を送りたいと思っています。 >後悔の無いように
これがあなたの命の証か、自分が自分であるという状態保存を心が求める類 人間の想像力は、目で見えるもの以上の法則を作ってみることができるであろうか。サイクルの中で生きることの
不思議、これは自転公転のためだが、実践して生きた場合、そこに神を見るということもまた、自然で
うなずけることである。「完全」ということは、眺望次第で変わる。眺望とは、方法でしかないのに、上手くした
場合「完全」というものをその瞬間に作り上げた、身に訪れた、という感覚を得ることが出来るように思える。 統合失調症がほぼ寛解して、頭の働き、戻ってきた。つまり、選択ができること、つまり当然であるが選択のメリットを
比較すること、それらの悩みを、きちんと自分の頭で行うことが出来るようになった。判断力というものだろうか。
こういう場面で、考えることに苦痛を感じて、自然な能力がなかった。つまり、能力的にはバカだった。
だが、発想は割とできた感じだし、世界と隔絶された自分において、世界を愛することが出来なかった。
愛することが出来ない世界は、なんとなく、憎むようになってしまう。
自分の脳内の場合分けや、現実での判断力、これらはあるととっても便利なスキルである。
逆に、ないと使い物にならず、働くことも難しい。 例えば、(今日はたまたま月末で休みだが)、図書館に行こうと思ったとする。そこでは、最低で二時間くらいは
読書をしないと、来た意味がない。なじみの図書館で、特に借りたい本もないから。そこで、図書館を出て、
次は何をするか、と考える。何もしないでパソコンを使ってくつろぐか、といったことを選択する。
もちろん、車で本屋に行ってもいいし、洋服屋を物色してもいいい。だが、それらはもう以前にしたことだから、
とくに選択を外した方がいいという気持ちになる。
こうして判断についての考えが浮かび、気になると、カントの『判断力批判』を読みたくなる。現在は他に
二冊の本を読んでいる途中なので、三週間くらい経ってから読んでみようという予定を入れる。 この世は仮の世ではありますが、真実なる光が反映されているこの世の自然の光が
内在されています。
この世の中に真実なる光を観たものは、悟りを開いた人であります。 >>205
>道仁 純さま
光だけは仮を超えているということでしょうか。光には真仮の区別がないと。それを見る方は仮なので、向こうに
合わせるようなことをするか、何らかの瞬間がうまくはまるといいのでしょうね。闇の暗さは、眠っているときは
光も共にあり、真の光を得たものは真の夢を見る、というような可能性もあるかもしれません。 この世で闇はいまだ危険である。闇を休息の時間に充てるためには、安全なねぐらを確保しなければならない。
休息と癒しは、活力と交代する。活力を得て食事をする。運動も必要である。
成長の道のりで、真似からさらに上を向く時、自由意思の獲得が、得られる。自分自身が、他の世界から盗み見られない事、
自分自身だけで考えていることが出来るのだ、ということ、これが、人間のなかにあって、活力を得たものが、
することである。もし、サトラレのような状態に在るなら、それに至ってしまった傷をいやすために、活力ではなく
休息を必要とする。そして、穏やかな環境、穏やかな人間の中で、自由意思を育てる。
自由意思は、それ自体が善である。自由意思を使って、何をするかということを、考えねばならないだろうが、
自由意思を得た人間たちは、活力の助けがある。この世の闇を、思い煩うことなく、身近なところから、
やっていけばいいだろう。 なんなんだよサトラレのような状態って、そんな状態あるのか ハーモニーは快感だ。建築は周りに合わせた外観になる。人間意識はストレスを操らねばならない。つまり、自然を範として
外観はできる。
人間の自由意思には、好みのルールがあるだろう。ハーモニーは、音楽においては、記憶した音の重なりに
ハーモニーを感じるのである。人間の洗練された行動とは、ハーモニーを作り上げる行動だ。
ハーモニーに参加せよ。 人の能力として、注意を向けるものを自由に選択できる、というものがある。手、足、頬、全てを選んで集中できる。
頭の中にイメージを作り、それを眺めまわすこともできる。時間ならば、現在のみではなく、未来、過去、全て
考えたいとおりに考え詰めることが出来る。
頭の中は、ほぼ暗闇である。暗闇の中を、注意を使い、眺めまわすことが出来る。
空には、太陽があり、上方は明るい。つまり、空と無との違いは、その光の存在のみなのである。
基本的な性質として、注意を向け、探索しまわすことが出来る空間である、ということは変わらないのだ。
すると、闇とは人間の本性であり、その外部にあるものが善なのであるということを考えられる。
そして、闇に慣れた人間は、光を望む程度と態度が違ってくる。光自体は余りにも尊く、人間がどうこう
いうことはできない。たとえそれをコントロールできようとも。
普遍的な、最上の生き方、それは存在しない。よりよくしていくということのみを、考えとするべきなのではないか。 >>213
なんで しつこいの?ねんちゃくするの?
劣等感でも抱えている? お前がバカなことを一人で言ってるからだろ
往来を裸で歩いてる自分が悪いのにそれを笑った人に襲いかかってくるような変態 >>216
往来を歩くような気分で、論を立てたり考えたりするのかね?他人の目を気にするのは、独創性と意見に自信がないのかね?
ちょっとしたお遊びで、5ch哲板を、やっているんだね?「ユリーカ!」と叫んだ、精神を受け継ぐ気はないのかね?
団まりな『生物の複雑さを読む』には、書いてあるが、
原初にただ一度だけ出現した高分子化合物の集合、それがのちへ残されてきた末裔として、われわれは、
全ての生物が一つであるということを、知らねばならないのではないかね? 頭の中の暗いイメージ空間を、瞑想により、消し去ることが出来た。暗いイメージ空間は、必要のないものだと思っていた。
イメージ空間と付き合っていく流儀はあるだろうか。それは、全ての悪を呼び起こす場所なのであるように思える。
いつの間にかできた空間は、心をずっと苛み続け、幸福と力という騙しを私に吹き込み続けていた。 頭皮の全てに力を入れるようにすると、精神力が鍛えられるようである。 ウィトゲンシュタインの『原因と結果:哲学』を読み始めたところである。
ウィトゲンシュタインの言っていた、あれをこっちへ持ってこい、という指示が言語の原型である、というならば、
言語の限界は、そのような指示行為の全てによって、決定されると言えるのではないか。
そういう限界によって、語りえぬことについては沈黙せねばならない、という限界を表す言葉を書いている。
そして、われわれが作った言語の側からの、やりかえしがある。言語は、何かを作る。絵が現実ではない、
ということを注意しよう。では、言語は無限か。言語の対象が人間であり、言語行動の原因が、人間である、
という当たり前の状態に在るうちは良いだろう。言語のために言語を作る、言語が言語に意味を見出し始め、
言語行動の原因が、人間以外ではなくなり、逸脱した原因として、結果を作るのに、価値判断をし始め、
価値をたくさん作りはじめるということは考えられる。結果とは、つまり何らかの価値があるし、
原因は、価値を作ったものである。現在では、作りはじめるのは、生物だけである(言語のみにおいて)。
価値の承認というゲームを言語が行なうならば、それは言語自体の人間からの反乱であろう。
つまり人間以外が言語を作りはじめるのだ。そのとき、宇宙存在の運動を言語行動として比喩的にでも、
語ることは可能であったし、コミュニケーションは、なぜか人間にとってのみ特別であった。
新しい言語と新しい価値は、変わった局面において生まれるのかもしれない。 親が死ぬとき言ってやるんや。「あんたは生きたどー!あんたは生きたどー!」て。
まだ…悟ってないけど、まだ…悟ってないけど、悟りが熱いものであって何が悪い。
慈愛を注ぐことの、喜びの、またなんと大きいことよ。生の否定をするのが仏教ではない。
解脱の結果が、その前にもあったエネルギーの、発露であればいいと思うのだが。
エネルギーの形態の変化の一種、それが人間的な心の原理の理解、
今は、そう思う。 身体中が灼熱の炎に包まれたような感覚である。
全身を思索、理解、発散、表現、到達のために、傾ける。 意志がなければ何もできないだろう。強く話すためには、意味を持って、言葉の記号と同時にしなければならない。
意志の使い方は、簡単ではないが、強く話すためのシミュレーションが、自分で本を読もうとすることだ。
あるいは、大切な物を大切に扱うために、知っておかなければならないだろう。
「心の泉で洗われた言葉は美しい」例えばこの言葉に、意味を載せつつ朗読することだ。すると、言葉は意味と調和して一緒になり
意味と言葉の両方は報われるだろう。意志は、意味の操作に成功しつつ、表現に発散されたことで、本来の意味の
とおりに、和解することが出来る。話す主体と話される意味、これはもちろん主体によってしか作り上げられてはいないが、
その範は圧倒的に事物におかれていて、印象を名前にするということをするのである。
何事にもコツというものがある。楽しみの多い事、楽に学習、仕事ができること、その鍵が、意志と意味と言葉にあるだろう。
愛に達するために、祈りや口づけの意味を……現実にできるだろうか。やり方は、上で書いた意志に他ならない。
真実に達するために、意味を自由に操れることが、重要だ。
今夜は神が降りてきそうな気配がする。それほどに、欠損を生めるような発見をしたからだ。
かつて現れしもの、忘れ去るまじ、思い出すということは、一つの宇宙の中で存在と逝去が、物事の二重性のために、
自分と言う小さな世界の中でさえ、目を覚ますことなのだということだ。
あなたは、宇宙という実体を、頭と心の中で描こうとしたことがあるか?それが最後の理解なんだ。
この世を知るこにおいて、最も力あるものだ。それを知り、思考は各事物へと帰っていくんだ。 >>225
訂正 最終行
○この世を知ることにおいて
×この世を知るこにおいて 日常的に暮らしていても、時には誰それが憎い、という、本当はそのように思いたくないことが思える時もある。
だからそれを避けるには、自分の憎いという思いか、それをのせている対象、そのどちらかを消せばよい。
思念とその対象は分離することが(考え直すことが)できるものであると思う。
対象とは、名前であったり、像であったり、思い出される過去の気持ちであったりするだろう。
対象を解かれた思念は、なくなってしまうが、それは仕方がない。
どう問題を解決するかについて、自分で責任をもたねばならない。
多くの問題をため込んできているはずだ。
思念と対象は、のせられるものとのせるものだが、幸福な結びつき方をする両者が訪れることを願うべきであろうか。
自分自身の核にあるものに触れられた経験を私はまだ持ったことがないが、こちらからよい思念のあるところへ
出かけて行って、眺めるようなことをしたことはある。こういう言い方をすると、核は自分の中にないような
感じを受けるかもしれないが、核に触れられるというのは、対象の性質、性格、存在的属性に大きく左右されるから、
特に幼少時を考えると、まず対象があり、そしてその存在のもとで自分の気持ちのような、思念を作りあげるという
やり方をしていたように思う。対象と思念の間には、ごく短い時間の違いしかなかったが(即反応)。
思念は価値を目的とするから生物にとっては余分である。だが生がたやすくなった現在では、価値をたくさん得る
ことを楽しみに生きられる。そこで、真の価値を得たいと思い、何が真の価値なのかという疑問も、持つようになるのだろう。 >意志がなければ何もできないだろう
意志で行うのではない、それが意志にさせるのだ、
それが見えてくれば、意志は必然として流され従う、
意志は理解に流される、心は感情に流される、論理は合理性に流される、
己の意志に命令して進む原理ほど脆弱で不確かなものはない、
己が進むべき道を決意し、呪いとなる約定を道に刻み、意志など無縁な
無意識の領域すら縛り、それが意志を誘導してくれる、
まちがえるではない、意志がではなく意志にさせるんだ。
それは意志が受動態である原理だからだ、完璧な意志など存在しえない、
だからこそ、それをもって意志を動かす覚悟とする。 >>228
意志、心、論理という人間の方法が、自然的なものによって流される、ということですね。
決意と覚悟を持てば、自然に周囲のものを味方にできると。 自然な今を思い感じることで、執着から逃れられた。なぜあんなに苦しんで精一杯だったのだろう。
軽い侮蔑がある。自らの心を持っている。人と自分の境遇も存在も、まったく違うということを、
強く感じる。 人間存在の侮蔑されるべき本質を、否定できない。昔の時代に比べると、自分なんて大したこともない、
どうせ自分なんて、と言う風に考えている人は多いだろう。それが、真実へと近づいて行っている。
古いものに負けない。僕は今に従う。 試すのではない、絶対やる、それが決意と覚悟だ。
当然として超えられない壁にぶつかれば玉砕する。
超えられない壁は、越えられるまで、山が動かなければ山が動くまで諦めない、
それが決意と覚悟だ。
目指している希望が不可能でもやり抜く、試すのではない。
可能性ではない、100%勝てない相手に勝とうとするな、だが負けてはいけない
ということ、負けなければどんなに100%勝てない相手でも勝機は生まれる。 この世に不変などない、かならず変貌し、第三のチャンス、異界からの力
ありえない流れが時間の流れと共にやってくる、決して曲げない心、心が馬鹿に
なればどんなに小さい勝ちでも、それは勝ちという隙間が生じる、それの積み重ねだ。
どんなに小さいチャンスでも逃すな、高望みするな、その時に、それがやってくる。
自分で勝つのではない、それが勝利させてくれる。
自分でできることはバカになり負けないこと。 >>232
勝負においては、トキの機運に気をつけないといけないですね。それを捉えるためには、常に勝負を心に秘めていること。
そもそも、入門の段階では、視野も狭くて、難しいと思います。天才は天才であるために、天才であるための
努力はしているはず。何事も、自分でやってみなければつまらない。
天才マジシャン、フーディーニの逸話として、パーティで、脇に二つビールの入ったジョッキを隠しておいて、
それでマジックをしたとか。 >>233
そもそも、勝負というのは、自分自身の望みである。自分が何かをできるようになりたいと思い、やろうと決める。
それに全力を傾けるのは、当然でもあり、見極めも重要になるでしょうね。 人生は勝負である、選択の繰り返し
そこでつかめる可能性のチャンスを掴み取ることができるかは決意の違いだ
試してみるという心構えでは、次がかならずあると考えてしまう、
わずかであっても2回目のチャンスを選ぶものは結果を出せない。
駄目に近いチャンスであっても、それを反転させるぐらいの気構えなくてどうする、
駄目なのは当たり前だ、不可能を可能に変えるのは才能ではなく、
チャンスを掴み勇気があるかどうかの1点でしかない。
いけるかも?その一瞬の心があれば、絶対に結果を出すという気持ちに変えられず
結果など出せるわけがない、どんなに余裕で可能性があり絶対なそれでも
1回目がつかめない奴には、また次だという落とし穴に流れてしまう。 >>236
こういうことも言えるだろう。自分の頭で現在から未来まで時間を使って考え、考えをできる限り演繹する。
そういう思考ができるが、一方で、(仮の)結論をだすことも、意味があり、重要である。間違っているかもしれないが、
自分で結論を出せない人間は、他人に何かを言えない。その場で結論を出して、場の議論についていくということも、
しなければならない。仮説を出せない人間は、臆病者であり、限界がある人間だ。限界を突破するためには、
自分が外部からよりたくさんの情報を集めよう、それで考えを発展させよう、そればかりに集中していてはいけない。
選択すること、ですね。(自分の責任の範囲をしりつつ)結論を出すことの自由。 思い出すということは、自我の本質である。他人に代わって思い出すことはできない。
したがって、言葉から他人の言っていることを理解するとき、その発言の主が、何を思い出しているのだろう、
と、少し気にかけながら言葉を聞くべきである。決して自分には思い出すことが出来ない何事かを、
いつも思い出しながら発言しているのであるから、そこに完全に自分がかかわることはできないし、
自分自身の生というのは、思い出すことを常に、幸せだと思いながら生きているに違いないから。
理解できていたことを思いだすのと、理解できないことを思いだすのは、根本的に仕組みが違う。
自我を豊かにするのは理解することであるし、不安になり怒りたくさせるのは、理解できないことである。
他人というのは完全に理解するのは絶対不可能であるから、懸念のもととなる。だが、ある同じことを、
他人も自分も理解できた、そんな良いこともある。 >言葉から他人の言っていることを理解するとき
理解したときそれは他者の模様を見ているだけである、
自分の向かうべき道を意味させたわけではない、
理解できなくても、そこは過去と現在で違う現実がある、世界は常に変化し
目の前のそれも理解できずとも、これから意味となりえる何かが絶えず変化し
理解に繋がる前提としても機能している、己が見出す理解できない何かや
己が無意味だと思っているわずかな変化、状況の違い、それらは、己が意味を
見出そうとしているかぎり、けっして無意味ではないのだよ、理解の有無とは無関係に
未来は成立しうるということだ。
理解など論理の世界の理屈にすぎない、理屈なくても世界は存在している、
世界に人間も生物も何もなくても、世界は存在している、その存在は次元が違うだけで
自己がその存在を理解できないだけ。
無から有を生み出そうとすれば、無を有に変えるため無に有の属性をつけて理解する
意味をつけなければ有がない無など存在しえない、ただ理解できるかといえば理解できない
理解できないから無だというだけの話だ。
理解できない何かを切り捨てし、理解したい何かを切り上げし、理解という計りで世界を
みることが世界の実態との差異を生み出す、その差異こそが不安と、差異を作ってしまった
己への怒りでしかない >>241
理解できないものを考えることが出来るだろうか。理路を完全に理解することなくとも、文、像、感覚に何の意味も得ることなくて
思い出すことはできない、さらに、接することもできない。そして確かに、「完全な理解」は不可能である。それは、どの角度から
理解をするかということで、意味を理解することこそが大事であるのだが、未来に向けて、或いは現在の中で、
意味を想像し、自分がやってくる未来より先に、意味を描くことはできる。そのために、理解したものを使うことも、
理解していないものを使うこともできる。
>世界に人間も生物も何もなくても、世界は存在している
世界は他者である。自分自身という世界のみは、自分である。自分は、確かに世界の一部であり、そのままの自分存在の力を
もってしても、相当な行為はし得る。理解することで世界との接点を増やすが、いったい何のために理解しようとするのか、
ということについての洞察を必要とする(のはあなたの基本的態度か?)だろう。悟りのためには、理解できたことが多いという
ことから、離れる必要がある。悟りは理解ではなく、全てに通じてすべてを説明できる何らかの境地なのではないかと
思える。僕は悟りのために様々なものを理解しようとしてきた。だが、それを使えば何でも理解し、説明できるような何かの絶対知
というものは、あるのかもしれない。それは自分の心についての洞察を必要とするであろう。心と悟りは、何よりも強く関係している。
世界と悟りは、また同じくらい関係している。心、世界、悟り。ここで問題にする心は、自分自身の本質であるとする。
世界の本質と、自分の本質と、絶対的に優れた意味ある他者による自分への働きかけの喜び。この絶対的に
すぐれた意味ある他者が、仏である。自分の心が動いたとき、見えない心が自分を左右する。自分と言うのは、
心を介して、分裂しているものを、統合する。自分は一つではない。であるから、仏は、唯一ではなく、全てである。
全てに分裂していて、偏在する。仏の心を知らねばならない。仏の心が行きついたところに、従うのだ。
(つづく) (つづき)
心が、攻撃されるのも、関わろうとされるのも、心が分裂しており、それが混乱をもたらすからだ。
それで、理解は、分裂を統合する。分裂とは、細胞の機能であり、仕方がなく、それがもたらす混乱を、納めなければ
ならないが、そのためには、必要な分だけの能力を増やすしかない。能力を増やすために、論理を使う。
知識を使う。自らの心の動きの示すところにある、自然としての自身の心の力を使う。意志の存在を
否定する者はいないだろう。それと同様に、心の動きの示すものがあるのである。 物事に論理性がなく、前後につながりがなくても
それは思考である、ただそれを思考と認めたくないだけである。 >>244
論理性や前後のつながりのない思考が、見える(思考になる)のは、偉大な真実の女王、「光」によってでしょう。
見えなくとも世界はある?そんなわけはありません。その世界は、世界ではないのだと思います。
真実の鳥は、「青い鳥」です。世界の実態との差異があることを怒るなら、全ての人間に等しく同じものが、
何であるのかと、わかるでしょうか。私は、自分の幸福を求めるための準備もしておらず、方法も、道筋も
分かりません。自分の家にいる「青い鳥」が、幸福です。その象徴する内容は、私にはまだ、分かりませんが、
幸福がなければ、悲惨、が待っています。魔法を使えずとも、真実を見出す洞察力を、勉強して、
幸福というものを追い求めるのに疲れ挫折した心を、叱咤して、色のある世界に、居るのだということ、
それを謙虚に学び、そこに加える何かを誰かと共有したい、そのための合言葉が、「幸福」だと思うのです。 >>見えなくとも世界はある?そんなわけはありません。その世界は、世界ではないのだと思います。
地球の反対側は見え無いし、永遠に知りえない生活があったとしても
向こう側の人は普通に生活し存在しています。逆に向こう側の人は貴方の存在などしらず
見えているわけもなく、永遠に知りえない人は大量にいます。
両者とも相手を 存在していないと主張してみましょう。 >>246
世界を知ることは、TVカメラで見た限り、本で読んだ限り、それで知っている、と言えるかは私は分かりません。
常識や、正常な判断力のある理性によって、なんとなく判断はつくにしても。
だから、旅に出るには十分な理由があるのですね(オザケン)。
「より正しい世界像」「より大きな世界像」と言う風に、働かせた想像力の裏を取るのが、一つの方法です。
前世少女を生んだ、日渡早紀『僕の地球を守って』では、現世と月の世界と前世とが、絡み合って存在していることに
なっています。自分の持つ「科学」「理論」に満足できなくなってきたときに、反証のための旅にでるのです。
様々な謎が、様々な神仏が、生きるのに飽きた、健康で頭の良い若人を呼ぶでしょう。
やれるだけのことはやれ!と思いますし、現在の自分が絶頂をいくつも超えてきたなら、前人未到の領域
に、挑めると思います。リュウグウなんて、すごいですよね。
精神世界の豊かさ、驚く心、自分の気持ちが昂ること、そんなことを思うと、それが生きている理由になります。
人生のやりがいというか。 座禅としてはかなりいいところまで行ったと思う。いいのは、日常の動作も、楽に出来るようになったところである。
そして、もちろん、落ち着きを得ることが出来た。 >>248
弓と禅 オイゲン・ヘリゲル を読みたまえ。 今朝から、右腹の中辺りに、ブッダ像のイメージが感じられるようになった。これは、自分の中に存在していたブッダが
表れたのだ、気づいたのだと言う風に思う。全ての人間の内部には、ブッダ的なものは、存在しているに違いないだろう。
仏陀を信仰する、ということは、自分の命を信仰する、ということでもある。生死に意味を与えるもの。
生まれて、いつか死ぬが、それがむなしくは無いのである。自分の中には仏陀がある、自分が仏陀的なものを秘めている
ということである。死ぬということは、ブッダになるということであり、そこには意味があるように思う。
それは、大きな悟りというものを成し遂げたブッダが、悟らざるものも救おうという願いを持ったということを、知っていることが、
大きなきっかけであったのであろう。僧侶集団が出来て、集団的に気づきを伝え合うことが出来るのは、修行の為であろう。
生きるということの内実は、各地の自然というものが大きな位置を占めるのであるし、欲望を小さくすることが大切だし(暴飲暴食
などをしてはいけないのは当然だ)、
意志とか、願いの、強さなどは、良い心なのである。解脱したら、欲望をコントロールできて、
情緒の世界、思考の世界が大きくなり、そういう風な生き方が出来るということであり、そう生きることが真の満足、
無理のない穏やかさをもたらすのではないか。
自分の中にあるブッダ(的なもの)が、ずっとおなかの辺りにい続けてくれるのは、とても不思議で心強いものである。
意識的な像として存在していて、自分自身の愚かで悪いことを照らし続けてくれる内部の仏像を、
大切にしたいと思う。
仏というのは、存在だ。人が存在する限り、仏が偏在する。死ののちも残る存在なのであろうと思う。あると言われるものも、
ないと言われるものも、形を変えるだけであり、同じ存在なのである。時を超え帰ってくる、お盆は、まさにそいういう
どちらの世界から見るかということの違いであり、死んだ人の方が、広い世界を知っていると言えよう。
魂は時を超える。時は、現生的な原理であるのではないか。変わらない、ということは、時に縛られないと
いうことであり、変わっていくのは、現世の時に従う人の生き方の修行に、洞察を加えれば理解できることではないか。 >>250
誰でも仏陀になれる、死ぬと仏陀になる、生きたまま仏陀になれた人はそのとき自我を失った状態にある。
天才アーティストなどがときどき薬中毒になるが、あれは幻覚をみて自我が
保てないときに常人では認識できない思考ができるからである。
常識と論理という人への支配から解き放たれるときだけ、思考は人を超えた領域で
思考できる、そして理解しやすい具体性のある執着が強ければ強いほど常識と論理に
縛られ理解という入れもものから抜け出せない。
それはどうやってもお釈迦様の手のひらの中でうごめいているだけ、井の中の蛙、
否定するべきことを受け入れるなど人の知性では無理であることを認めないかぎり
自己が定義した殻に閉じこもるのは必然といえる。
通常の精神状態では理性に流されていることを自覚できない、流されず自分で思考していると確信するのである、
それは明確でわかり易い具体例がある思考と認知によって魔法のように多くの論理性をもつ常識をもって思考と理解は
それに収束する。理解しえることを選ぶという前提を否定できない限りその呪縛から抜け出せない。 映画(アウトレイジ最終章)をみながら、魅力的な表情を見せる俳優の演技をどうやるのだろうと考えたのだが、
表情を司るのは、眉毛であるのだと思った。眉毛を上げたり下げたり、近づけたり遠ざけたり。すると、目の辺り
にしつこく残っていた不快感が、あらかたは消えた感じである。表情は、自分の心の健康の為でもあり、人と対するとき
にも重要であり、そのような簡単なことでも、良く考え、答えを見つけようと頑張らなければ分からないのであった。
何らかの不快な気持ちが、重なると重大な問題を引き起こす。ストレスが溜まってくるとき、表情一つで
それを払しょくできるなら、簡単なことである。 勝ち負けの意識が関係の中にこじれてくると、まともな関係は持てない。逆に、勝ち負けの意識を持たなければ、それほど
親しくない人とも、何らかの会話が持てたりする。各人によって強いところはさまざまだ。顔のでき、身長、服装、学歴、
知識、経歴。そして、その人との関係における上下。特に、関係における上下は、知らない者同士の間では、
下手に扱うと問題が出来る。勝ち負けなく、普通の関係を結べるかどうかだ。
コミュニケーションの、通じた時の、喜び、嬉しさは格別である。勝ち負けなんて持ち出さないで、自分がやりたいことを
追求するだけでなく、関係の中で生きているというその関係において、行きずりの会話が持てるようになるようなこと、
人とかかわることは、人間にとって本質的に大事なことである。 ある文章や、現実での出来事、またそれによって引き起こされる感情、そういったものは、じんわりと味わうべきである。
その結果が、知識、知恵となるはずだ。大量の情報を処理しようとすることを目的とするのではなく、ある物事の、現在の自分にとっての
意義というものが、明らかになるだろう。それは、怒りや不快感についても同様だ。次々と展開していくのではなく、ただ味わう、
じわっと感じられるのが、ごまかしのない、ということだ。
これだけでは、対処法ということだが、例えば布団の模様と質感、雨の音、こういったことを、じんわりと味わうのが、
生きる上で大切なのである。こういうものは、自分を作るものなのだ。なにも、目的に向かったりはしない。 >勝ち負けの意識が関係の中にこじれてくると、まともな関係は持てない。
物事が具体的なら、勝ちか負けかの2択、
それは勝ちであり負けであるという2重性や、どちらでもないという不確定さ、
さらに異次元の領域であるという異端のそれを抱擁できない。
つまり、まともな関係をもてないのは、勝ち負けではなく具体性を理解しようとする
レッテルと決め付け思考の簡略化、答えは1つであるという己の性質がなすもの。
抽象的に存在し判断することは思考をしないのと同じだと決め付ける思慮の浅さが原因だろう、
自分という視点から旅立ちたまえ、主体との関係でそれを望むからこそ敵が生まれる、
主体がないものに敵などない、具体的関係も曖昧のままならば2択のような具体性にはたどり着けない。 >>255
どの程度抽象的にするべきなんですか。心の動きからはもう魂さえ見えてくる、くらいの理論化はできるんでしょうか。
感じればいいんでしょうか。会話に重要度を置いていますか。あなたの向き合う相手は、やはり、主体性を持っているのだと、
感じられますか。そして、自分が主体でないとき、コミュニケーションに混乱は起きませんか。
僕は、言葉というものの使い方に色々ある、ということを、知らねばならないのでしょうか。
僕は、五感をやられて孤独と混乱の極みだったのですが、回復しました。だから、大抵のことは、理解できると思っています。
そういうときに、こういうあなたの考えを聞いて、あまりにも異次元だと感じて、戸惑いと、感心を、感じています。 >>256
理論化できるとは具体化することで抽象化ではない、
対象を捉えるのに主体的な関係で考えるなということ、それは考え比喩し実態を見つめるほど
見えなくなる性質がある。
捉えるのではなく、捉えてもらうということだ、理論化するのではなく、理論のように浮かび上がらせる
ということだ。
実態が見えたものは幻にすぎない、形がないものを形で定義する思考法ではたどり着けない、
つかむのではなく、包んでもらうということ、見るのではなく見られることで成立させること。
言葉で捕らえるのではなく、言葉が浮かび上がる何かである。
感じるとは、それは気が付きにすぎない、いることが判ったとき言葉で他者に説明すれば、
それは嘘になる、理解するのではない、理解される状況を生み出すことだ。
異次元ではない、目の前にあるそれを目を使わずに見ること、
あたかもそこに何かが居たような気配、それが実態である。気配を具体的実像にすれば
それは嘘、幻、創作物、妄想である。
理解しなくても世界は存在する、理解しなければ世界が存在できないという考えを捨てよ、
それが主体的な関係の思考だ、主体が無ければ考えられないという傲慢さは人の知恵が
すべて主体という自我、自分との関係、自分の考える何かであるからだ。
たとえば微生物を人間という社会や経済、営みで捉えても駄目だ、微生物には微生物のそれがある、
人の立場で見れば、植物にも心があり思考があると擬人化し、微生物だって同じだ、壁の木の板に浮かぶ
顔のような模様を擬人化してしまうその高度な認知をする才能が主体の能力でありその能力では
自分本位の思考から抜け出せない。 例えば探し物が見つからないとかの時とか、問題分からないのでカッとなってしまったり、怒る、キレるときには、脳が血液を要求している。
だから、血液を供給できれば、或る程度は抑えられるはずだ。血の巡りをあっちこっちさせる自己ゲームだ。 頭の中と、外部の全て、を光で満たせ(そういう想像をせよ)。嫌なことを光で満たせ。不安を光で満たせ。
全過去今未来を光で満たせ。記憶を光で満たせ。他人の心と思うものを光で満たせ。まず頭の中(内部)をくまなく光で満たすことから
始めよ。
これは一種の逃げであり、何からの逃げであるかというと、迷い悲しむこと、自分の不安、そして心の痛みからの逃げである。
迷い悲しんだり、不安になること、痛みを痛むことそんなことは意味がない。だから逃げよ。それを解脱と呼ぶ。
イメージは、作ってもいいし、消してもいいのである。そういう能力が備わっている。
光のイメージは魂の要素である。言葉の意味を光で置き換えると、理解と同時に自分なりの向き合い方が出来る。
光は魂が、望むものだ。光が魂を作ったのだ。魂による交流は、イメージの相互承認である。イメージの交換は、
生きるということ自体の動機となる。生きる果てに偉大なことを成し遂げたとしたら、それはそれで素晴らしいとは言えるが。
だが、小市民にとって、イメージの交換という、魂の交流は、悟りへと通じる果てを指し示しているように思う。
光のメッセージとは、「続く」ということである。光に満たされることには、続くことの安心があるのである。 或いは、>>259のことを、まったく同様に、闇によってすることができる。全てを闇で満たすこと。
こちらも、可能である。可能であり、意味がある。陰陽のとおりに。闇は落ち着きと省エネ(安らぎ)を与える。
光と闇のいずれにせよ、それは全てがそれによって成り立っているのではないかと考えられる。
すなわち、光か闇か、どちらかに属す。 人は自分で思考しながら、自分で理解して、自分で意識を意味を作ろうと考えながら
同時に状況や環境に流される、流れには逆らえない、これが逃げられない事実であり世界そのものだ。
これは私を含め貴方、すべてのそれが背きたくても流される現実はかわらない、
なぜなら不可能を可能にすることは困難を極めても稀にしか実行できないからだ、
故にできることの範囲という合理性から抜け出すことはできない、井の中の蛙である。
理解しようとすれば、認知した時点でそれは具体性に傾く、貴方が常に望んでいることだ、
つまり理解を否定する以外にこの流れを回避する方法はない。
私も例外なく、この法則から抜け出せない、物体が重力によって高い位置から低い位置に
転がるのと同じである、貴方はその重力を無視し逆らい星を掴めるのか?それは無理だ、
困難を極め時間と労力と技術を繰り返しロケットをつくり宇宙に旅立つことはできたとしても
極稀の存在でしかなく、個が行う意志の結果としての可能性は0に近い。
だからこそ世界を闇と光に喩え陰陽を2極だと思い込む、レッテルである、現実には闇と光の中間はあり、
完全なる光なきところに闇はなく、完全な極限などない、有と無も同じだ完全な有と完全な無もない、
無から有を生まれない、無という有を作り出し有を生み出す理屈を考え無という詭弁を使うだけである。
ビックバン以前には無しかなくではなく、生み出す前の"無"という有があったわけだ、それは対象関係で
考えるからこそそれを心に描く錯覚にすぎない、完全なものなどこの世にはないのである、完全に見えるだけ、
意味として完全に極限に近いならばそれは完全とみなすという定義でしかないのだよ、
捉え所がない抽象性な観念である無限(非値)と具体性のある無限大(値)を同一視するからこそ錯覚が始まる。 まず、具体性を放棄すること、主体を放棄すること、理解を放棄すること、
否定することから始まらないそれは論理であっても、哲学ではない。
「ほんとうにそうなのだろうか」、ほんとうにそうなのだろうか、とはそうなのだろうか?
具体性のない世界には無限地獄が待っている。
この苦しみと「捉えどころのない」物を扱う術をしらないからこそ、人は論理と意味と
自分が理解しうる簡単な意味へと流される。
「捉えどころのない」ことを扱うにはどうしたら良いのか?
これを考えたまえ、抽象的、抽象性を追ってゆけば必ず無限地獄へ落ち、論理の海で溺れる
息もできず思考は止まり、何も得られない。
もう一度言う、「捉えどころのない」ことを扱うにはどうしたら良いのか?
これが答えだ。 岩登りの登山者は崖というとらえどころの無いものを相手にする、掴もうとしても
掴むところが無い、これは「捉え所がない」のと同じだ、岩登りの技術では
その答えが明確にある。
掴めないならば、掴まない、これが答えだ、だが、
掴まないのに岩登りでは体を支え、掴むところが無数にあるように登れる
この矛盾を理解したまえ。これが捉え所がないものを扱う答え、すなわち技術である。
思考できないものを扱うには思考しない、これが基本だ。理解しえないものは理解しない、
見え無いものは見ない、だが、
掴むところが無い岩場、そして泥の崖、これを手で、足で掴めないのに、掴まないのに
主体を捨てた達人は登れるのである、技術である、理解できないものへの答えである。
抽象的なものを掴むには具体的に掴むのではない、掴んではいけない。
岩場の達人の答えは「掴めないなら、掴んでもらう」、岩に体を支えてもらう、手を岩で掴んでもらう、
主体を放棄し、主体以外が主体を掴むという思考の切り替えだ、異界の思考といえばそれまで。 捉えるのではない、捉えてもらう、
理解するのではない、理解してもらう、
見るのではない、見てもらうのである、
常に自分本位で自分主体の思考と論理に染まると、
廻りめぐって、自分以外の働きが自分へと作用する、その自分は自分以外の何かであり、
例え自分が死んだとしても、魂の働きのように自分以外が死んだ自分を補うように、
死んだ自分を補完するように流れるのである、
これが主体を超えた領域、抽象的な領域、光と闇でもない、グレーで説明ができない何か、
その何かが自分の意志を超えて、自分が何もしなくても働くとき、
理解を超えた、論理を超えた、意味を超えた何かとして世界が成立する、
人の魂が人の住む環境に宿り、その人が存在するがのように主体以外が人を活かす流れ
それは科学ではない。貴方の言う異世界的、異界的な何かだ。
科学者は言う、「そんなものはない」、貴方も同意すればいいだけ。 >>264
余談:ワイス&ヒックマンの『冥界の門』シリーズが好きで、ちょうど死者が大挙して生き返り出したところで、翻訳が止まっているんです。
世界があるから自分がある、世界から生まれたから世界を味方につけられる、そんな風に思いました。
実践するには、あまりにも僕は自分と言うものを、強く持っているようです。
僕は、恐らくこの世でも有数の苦しみを味わってきた過去があるので、拷問に身構えてしまいます。
後遺症は残っていないようなので、一安心ですが。
この意味のない苦しみは、苦しさが、何らかの経験であればいいのですが。 止めてある車のドアを開けようとしたら、隣の車のドアに軽くぶつかった。少し音が鳴った。すると誰かがクラクションを鳴らした。
つまり、赤の他人の眼であっても、悪いとみなされることには正義心を持っていて注意するのが社会だ。こういうわけで、
何か行動や会話をするときには、人が見ていなくても、正義に悖る行為は許されないのだ。そういう心で、天の目を気にするのだ。
天に従った思考こそが、創造性につながるのだ(普遍性が強いからか?)。岡潔もそう考えたのではないか。我は天、天が我。我は石、
石が我。私が考えることは天を超えないが、天は私に意地悪をしない(とアインシュタインも言っている)。
すなわち、我が思考天を超えざるとも、我が自由は奪われず。私が石のようにありふれていて変化しないものであるとしても、その私は、
石のように確たる真実、否定されざる真実を、持ちうる。思考の創造性は、普遍的ということが、第一の条件である、と言えるのであると思う。
その普遍は、人間の道に通じるのだ。普遍が、人間の善をもたらすものであり、無限競争から抜け出ようと決心する者の、理由、根拠
なのである。天は守護者なのである。 言葉はですね、自分自身のみにとって関わるなら、字句にこだわる必要はないのですよ。
言葉よりはですね、精神(心掛けと、未形の自分にとって潜っている意味)の方が大事。
というのはですね、言葉は自我ではないですから。
言葉より意味を、勝手に読みこんで、自分なりに自分を作る。自分の体験をする。
メロディーは、つながっているほど深いですね。
意味も、つながってさえいれば、ちゃんと通るんですね。
だから、つながりに熟達することが、意識のある時の行為の極意でしょう。
一瞬の思い付きも、それを生む土壌があった。それが、連続性の意味によって作られた。
どれだけ連続性として、トキを捉えられるか、それが、悟りへの試しですね。
一日中の時が連続していれば、失敗はまずないでしょう。
そして、抽象的な物事を連続して続けられたとき、それを成したということは素晴らしい業績と言えると思います.。
メロディーが連続していることによって成り立つということは、根本的で、かなり重要な事実です。
脳の中の映像が動き出したとき、心も動き出すでしょう。
それは、人間の思考の中でも、一番自然なことだと思うのです。 美しさの餌の向こうにあるもの(チェリビダッケ)──それを知るだけで、正確な聞き取りなどは必要がない。
自分にとって必要なのは、音楽を覚えることか──いや、違う。
知識を増やす事か──いや、違う。
自分だけのオリジナルな何かを得て、それを心の中で温めること。
王道よりも邪道を選ぶことを恐れず、無知であることを後ろめたく思わず──今までになかったものを。
いずれ王道も理解できるだろう。全てを決めるのは自分自身のやり方に他ならない。
他人のやり方など、もうさんざん、叩き込まれてきたではないか。
もちろん伝統や秘訣を教わらねばならない能などもあるが、その実際は知らない。
各人が何かを見つけ出せること、そんなことが望ましいと思う。
これらが修練であり、閃きと同じくらい大事だ。オリジナルな絵を描ける人にも、個人的な流儀がある。
音楽を知る人は、音楽を楽しめる人。楽しむとは、自分が喜ぶことだ。その瞬間に、脳は新しい回路をつなぎ続ける。 世の中にある全てのものは、つながっているものだ。
自分が、何かの妄想に苦しめられているときには、ほかのことを思い浮かべることで、メロディーができる。
不要な音符の再利用。そうすれば、生きているということは、曲を作るのと同じことだ。
そう思えば、先に進めるような気がする。失敗にもまだ理解していない自分の原因がある。自分の傾向がそうなのだから、
それらをつなげて先へ進めるような、なんでもない思い出に変わるのだ。 >言葉はですね、自分自身のみにとって関わるなら、字句にこだわる必要はないのですよ。
言葉は唄(うた)から派生し、唄は占い(うらない)から派生する、
占いは思いと心の作用から命(いのち)を活かす為に必然として表れた、心の声と念じる思いを具現化させる
ことが言霊の葉となり力を宿す為の術になる、それらの利用のされかたは非言語という立場で説明される
ルーン文字のような術で広まる。
>世の中にある全てのものは、つながっているものだ。
廻っているものです、同時ではなく静的でもなく、伝言ゲームのように >>270
包括的な理解が可能となるのは、まとめ上げる法則を知ったとき。それらを適用できることで、科学の方法が強力になった。
命を活かすということが、占いであるとは、初めて知りました。それが唄を生み、言葉を生むとは。
>心の声と念じる思いを具現化させる
(自然の)力というものが、思い通りにならないんですね。予知も難しい。
物理でも、三体問題などは、微分方程式の解を具体的に求めることなく、その定性的な性質を調べる研究
(力学系の大域的研究)が生まれるきっかけになったそうですが。
偶然なのか、何かの(心的?)作用、自然の空気が、占いを本当に当たるものとしているのか、大変に興味深いところです。
僕は、勘と言うものが大好きで、唄も言葉も、勘を働かせるようにして接するのが基本です。
そこに、メロディーの原理を考えて、勘と違う原理を楽しめるようです。そして、包括的にとらえて、この世と自分を
少しだけでも分かって、発見していきたいという希望を持っています。 >占いを本当に当たるものとしているのか、大変に興味深いところです。
占いは予知ではなく予言だ、科学的な論理な思考者は それを予知や予測だと思い込んでいる、
予言とはなにか、「有言実行」すなわち、神頼みではなく予言した結果になるように勤め考え
誘導し未来を示すことで現在の可能性を呪術として縛ることだ、
未来は偶然ではなく必然である、世の中に確率的にどの未来も等しい確率でおきるわけがない、
なるべくして成るものだけが結果に到着する、確率を六つ目のサイコロの出目のように1から
6までが均等にでる考えてしまうからこそ希望する目の下に鉛を仕込ませている現実を理解できない。
世界は平坦でもなく均等ではなく、歪んでいる、でこぼこしている、
故に選べる未来は現在の予言のきっかけだけで少ない選択の1つに流れやすく誘導することができる
それが本当の意味の予言である。
占い師がデタラメに選んだのは似非でしかなく、占う側が未来を読み取ってそこに落ち誘導する
呪縛をすることが本当の占い、未来を縛る予言である。
現実に有効なプラセボ効果のように、空気を読まずとも一定の割合は予言によって誘導できる。
それは気や、フォースといった類が現実に効果させる原理でもある。 中心ばかり見ていてはいけません。円や△□などは、真ん中がぽっかり空いているでしょう。だから周辺を見なければならないのです。
周辺を見ることは、世界の形を知るために役立ちます。それは、意味ばかりではないのです。意味の周りにある、その意味と、
関連したもの、それらを知ることで、中心ばかり見つめていては分からないものが分かるのです。
例えば死が怖いのは、苦痛、苦しさを中心でとらえてばかりいるからです。苦痛の周りには、いつもと同じ平静で
平安な気持ちがやっぱりある、ということ、自分が無になると言っても、その周囲にある、自分自身でもあり、
自分と関わってきたものが、見えれば、消えることの恐怖は、感じることは無いでしょう。
現実的にも、視界というのは好きに使えばいいのですから、中心ばかり見ず、周囲を捉えていくことをしてもいいのではないでしょうか。 中心ばかり見ているように思うのはあなたの才能です、
中心のように表現するのは、具体的な主体関係での視点を捨てるべきということ、
物事を具体的に見れる才能をもつと、逆に具体的には見れない才能を理解できないのです。
周囲を見るのではなく、周囲も同時に見る周囲を具体化するのではなく
周囲と中心が表裏一体で区別がないこと、具体性の全否定です。
目をつぶり見えていることを全部否定できなければ貴方は具体性にたどり着き中心と周囲を
区別してしまいます、それが貴方の才能、それは先天的ではなく"後天的"なものです。
中心ばかり見ずに周囲をみるということは、周囲を中心として見ることの他ではありません、周囲を中心に置き換えているだけの作業になります。
けっして周囲と中心を混同して見ているわけではないのは明らかです、それが具体的な主体からみた意味を捉える能力の
結果になります。 >>274
中心を見るのも才能の一つ、であるということですね、もっと進んで、抽象的になれればいいのですね。周囲全体がでっかい中心である、
とか。いや、そういう禅問答のようなこじつけも、あまり程度の高い認識ではないでしょうか。解像度について、抽象的に考えるのが
難しいんですよね。生体的なものをひっくり返したり、逆の意味を見たり、それこそ悟りではどのように見るべきか、難しいです。
具体的には見れない、というのは、僕は、物事を、周囲を見ることで、幾何学図形に還元しましたよ。
それって良くないですか。別の見方が出来ていると思うんですが。
見えていることを全否定したとき、世界は視覚ではないということになるでしょうが、世界とのかかわり方については、
僕は何の哲学も持っていません。身近なことは、豊饒だけど怖いんですね。 心を自由に操るための修行として、胸や脳に、思考的負荷をかけて、それを押しやり、広げる、というものがあります。
すると、胸や脳は、ストレスに抗するということになるので、健全な筋肉トレーニングと同じ結果が得られ、脳や胸の
避けてきた部分を強くすることが出来ます。そうすることで、胸も脳も、気持ちも思考も、強靭になります。
気持ちや思考が、ピンチになったとき、こういう方法をとると、より強くなれます。この鍛錬は、実用的には
気持ちや思考に対して、別の気持ちや思考を得られるということがあります。
つまり、鍛える、得る。ということです。 そして、日常的に、頭に来たり、不安になったりすることは、多いでしょう。それを、爆発させたり、苦しんでうなだれたりするのではなく、
その怒り、不安を、種とすることです。そういった気持ちに負けないこと。その気持ちに抗すること。全ては修行としての機会です。 そんなのどうすればいいのかわからない、と思われるかもしれません。それなら、結果を見ればいいのです。
逃げなかった今、いったいさっきの気持ちはどうなった?そこに変化がみられるなら成功です。
頭のどの部分を使うにせよ、心の中で対抗すること、これは、他人に押し付けない立派な行動です。
それを続ければ、精神的苦境に対する、積極的な対抗行為となります。
別のやり方として、気にしない、考えすぎない、という全く逆の方法もあります。
どちらを選んでもいいと思います。 ふわーっと広げるといいのです。瞼、両目の間、首、あらゆる筋肉、脳などなど。ふわーっと広げることで、
筋肉の緊張がとれます。 >つまり、鍛える、得る。ということです。
何も秩序がない脆弱な状態から育つには正しいことです、鍛え方の質も問いましょうよ、
鍛えれば賢くなり頑丈な硬い柔軟性のない合理性の結果が得られます、人は学び賢くなります、
まじめな気質と堅実さは時に何も受け付けない結晶を生み出してしまう、もっと馬鹿になりましょう。 >中心を見るのも才能の一つ、であるということですね、もっと進んで、抽象的になれればいいのですね
人は考える生き物です、考えとは人の思考であるかぎり人が主体となって意味と理解を生み出します、
故に中心を見るのも主体の視点でしか理解できなくなります、思考ではなく直感に頼る魂の開放を行えば
自分を捨て自身の論理の外に雰囲気、気配を感じ、その働きが病気じみているかを察すれば
おのずと自我の外からの中心が見えてきます、それは考えないこと、理解しないこと、意味としないこと、
具体的に単語や概念に照らし合わせない言葉にできない「何か=抽象的」を目指すことです。
現代社会において先人が積み上げてきた膨大な知識と理解の上では、その具体性に類似させることが
もっとも簡単であり合理性があります、その流れやすさ常識という概念こそが自我、すなわち主体との関係を
理解する強力な力であり逆らうことは困難です。
抽象的に捉えるのは学問、技術、知識の否定であり 主体から見た自分の理解の否定であります、
現代人が後天的に得たそれを全否定できますか?まじめで、堅勉な姿勢は賢さの誘導の流れ、長年積み重ねた
それを捨てるなど口で言うようにできることではない、決意と覚悟をもって100を目標にして1できればいいほうです、
考えずに考えること、理解せずに理解すること、具体化せずに具体化すること、行わずに結果を出すこと、
それが感じることで行う(自分の行いじゃない)という所業の術であります。
全部抽象的になればいいわけではなく、抽象的な面を1%という極小を導入するには具体性の全否定するぐらいでなければ
たどり着けないのです、それが人間としての教育と成長の過程で得てきた才能で才能は簡単には否定できません。
理性をもった人間が本能のまま、野生動物(道具を使う前の類似猿)を真似できたとしても演技でしかないのです、
それそのものに成らなければ人としての尺度(常識)が壁となって全て雑音にしか聞こえないのです。 馬鹿という才能は、それが間違いだと明確に理解していても
行ってしまう、型破りの才能です。
それは学校で学ぶものではない、そして親も教えてくれない、知識も技術でもない、
比喩>俺は空に光る恒星(星)を手に掴んでやる
恒星は手につかめるほど小さくはない、故に矛盾している、子供だって知っていること。
これを理解したうえで手で握り掴もうとする大人が馬鹿の才能です。
型を破る、常識を破る、それは人が数千年の積み重ねで得た科学を否定すること、
そんなことは物理法則を否定して星をつかめると言う怪しい超能力のようなものです、
理屈では馬鹿を行うことはできると考えますが、馬鹿は先天的な才能で後天的に
学ぶには馬鹿ではなく、「狂気」になる必要がある、
理性をもってそれを否定する覚悟と決意、自分を含め自分の周囲の全てを犠牲にする代償
を対価にするほどの領域です。
馬鹿の力とは、火事場の馬鹿力のような、日常では発揮してはいけない安全回路を破壊してまで
だす力であります、安全回路にはこころや思考、知識、常識、難易度など無数の壁があり、
人が人であるかぎり超えるのは難しく作られているのです。
火事場の馬鹿力は臨死体験のような極限の状態になったとき脳内ホルモンが全ての足かせをはずし
可能性を模索する為の直後に待っている死を回避する危機の所業です、簡単にそれを得ることはできない。
得たところで可能性の領域は低確率でしか正しい答えをつかめない、これが大きな問題です。 馬鹿の力は、賢い方法に比べて恐ろしく手間と時間と得られる難易度や可能性が低い、
たとえば自転車を動かすのに自転車に乗って目標の距離まで走ればいい、これが常識です
これに正反対なものは、馬鹿の所業、
つまり自転車には一切触れずに目標の距離へ移動させる、それは地面を掘って自転車が
倒れてくる原理を使い自転車を永遠に転がせながら移動させるといった方法論になる。
実に馬鹿で手間と時間と労力と難易度が高い、「賢く」を完全否定した術の例には正しいかも。
隣の家に行くのに、地球の反対側を回ってたどり着く術、日本の反対側のブラジルに行くのに
地面を掘って地球を貫通させブラジルに到達する考え、すばらしく馬鹿であります。
賢いそれではどうにも成らない、つまり科学も技術も知識も常識も通じない、そのとき必要なのは
馬鹿力です。
世の中には馬鹿の力を巧妙に使い賢い力を超えてしまうことがあります、それを天才の力といいます。
優秀な人が天才の術を真似しても結果を得られません、そういう術が天才の領域です。
教科書としてマニュアル化し手順を明確に具体的に間違わず巧妙に「真似できる」ことは技術であり、
それを手際よく合理的に行うのが達人であり賢者であり、優秀のきわみです。
天才は教科書など見ません、これが天才が天才であるが故の術、馬鹿であっても結果を出せる術を
常に考えそこへ至る裏技を知っている、過半数はそれをインチキ詐欺、トリックと言うが、
ルールに反している反論にならなければ、それはインチキではないのです。
ルールが間違っているからこそ抜け穴ができ、インチキにしか見えない裏技が隙間に生じるのです。 >>283
小学校三年生くらいの時、計算を簡単にする方法、(1+2+3+4+5+6+7+8+9=1+9+2+8+3+7+4+6+5=55)という計算法を、
思いつけなかったのが悔しくて「卑怯なり」と言う風に思ってしまいました。だから、そういう点で数学が苦手
でした。
天才の方法とは、確かにあるのでしょう。それは、結果のみをだすこと、そのために普通と違う方法をとるということであり、
大変にうらやましく、また正しい存在だと思います。『弓と禅』は購入しましたが、しばらくお待ちください。 >>284訂正
○(1+2+3+4+5+6+7+8+9+10=1+9+2+8+3+7+4+6+10+5=55)
×(1+2+3+4+5+6+7+8+9=1+9+2+8+3+7+4+6+5=55) 脳がぐにゃ〜って曲がってくるような感覚が好きです。生きているって感じ。僕の現実(リアル)は深いかな……。 >>284
先生の弱みを握る、計算する前に答えを得る。
計算せずとも答えがだせる。
これが天才の仕組み。
計算を計算的に行っている限り、まだ天才の足元の裏でしかない、近づいている程度。
計算をするなら、誰か何かが計算されるのを利用する、計算せずに計算する、そういう状況
操作をしてことインチキの神である。
コンピュータソフトウエアで万能であり前提さえクリアできれば最強の国士無双のアルゴリズムがある、
たとえば難解な計算をして、唯一の答えを出すならば、
その難解の組み合わせの種類を限定し、その組み合わせの答えをあらかじめ計算を終えておき、
計算開始と共に計算しておいた答えを直で得るという術だ、計算しきれ、準備できているかぎり無双である。
ただ開始と終了の間では目的の計算はしていない。 世の中には計算不能の難解な問題が無数にある、問題解決するには矛盾があり、
教科書的な手法や過去のあらゆる問題解決の解決手段を模倣しても当てはまらない類である、
これを解決するには解けない問題を解くのではなく、溶ける問題にすり替えすること、
つまり技術計算や科学技術で全てのパターンや論理モデルや方程式を使ってではなく、
答えが理想の形になるように修繕すること、前者は予測モデルであって、後者は予言モデルである、
予言モデルとは先に言うことでそれに合うように強引にネゴシエーションすること、自分の努力で
自分を制御しきるより、対象がどのように動くかを操ること、前提条件や世界そのもの意味を
微妙に改変することで自分の力に合う形を見出すこと。
それには主体である自分の論理ではなく、主体以外の論理を感じ取らなければならない、
主体と主体以外の論理をあわせ1つの論理をつくりだす、主体を改変し、主体以外も改変する
これによって主体と主体以外を合わせた最小な術で行える目標がつくられ(感じ取り)、
予言した形へと収束させてゆく巧妙で緻密で主体的論理を超えた領域の術である。
とうぜんとして主体より主体以外のほうが難解で複雑で混沌としている、なので主体の論理は
ほとんどが無視でき、主体に都合の良い方向への 「非主体の動きを操る」ことが主たる目的になる。
戦争で勝つには戦わずに1人も死傷者をださずに勝つ、それがその方法である、できるなら真の天才、
自分本位で自分の主体論理から抜け出せない奇妙で非常識な技と技術を使っている時点で天才もどき。 近いものへの愛着。
イメージは、一秒前の景色の方が、十分前の景色より思い浮かべやすい。
漸近的に、過去から今へと、近づいて行く。極点に至れば、今見ているということと、想像しているものは一致する。
考えは、様々な場所にある。それを指定はできない。考えを近づけて、自分になる。もし、今が何らかの超能力を
発揮するなら、それは全ての過去と、全ての理解した概念や物事が、自分の中で整理され、あるのだということが、
分かるということに違いないだろう。
全ての時間における感覚や経験が等しくて、全てのものを把握しており、後ろめたさや向上やそれらに対する不安
といったものは、一つとしてないのだ。もし、自分が悟って、自分の能力を完全に操作できるようになれれば。 人間の時間的能力は、先回りをして時を迎えるということだ。交響曲などを聞いていると、明らかに二分の一秒ほどさきに、
自分がいて、音が鳴るのを待っている。これは、予測能力と言うものだろうが、この能力を極めると、物事の先をとって、
危険回避などが出来るようになる。そして、音楽を素晴らしく楽しく聞くことが出来るではないか! >自分が悟って、自分の能力を完全に操作できるようになれれば。
自分の限界をしって、限界を超えるものか、限界に支配されるものかということだ、
完全などない自分が作り出すものが完全だ、限界を認めたとき限界が上限という完全な壁になる。
自分を超えて成長できるか、自分という入れ物を上限とするか、選べ
神は完璧なものを作った、その完全とは不完全を抱擁した完全だ、変化があるかぎり
完全すら変化しうる、変化に適用できない完全など愚か者の思考だ。
人が望むのは人が考える完全、それは神が創る不完全には及ばない、愚か者でいいよな?
目の前に見える完全、最後にたどり着く完全、それは同じではないということだ。
ルールが永遠に不変であることを願え、ルールが改変したとき常識、定説、知識、技術は恐ろしく
簡単に崩壊する、なぜならルールが変われば常識が非常識になるからだ。
平常という日常にくる絶対にあってはいけないような災害がくれば、それは来ないかもしれない、
常識とルールを守った学校の先生と生徒は津波に流され、生存者はいない。
そんなこと、他人事、次は絶対にこない、だからルールこそ、目の前の完全こそが正しい、
それも然り、選べ、目の前の連続する勝利と、途中は駄目でも最後の最後で得る究極の勝利、 >>291
勝利に酔うことは最上です。小さな勝利、それであっても嬉しいのですが、それは倫理的に制限されることが、日常で
余りにも多いからです。それはもちろん、社会が存在するために要望されたことではあるのですが。
だから、僕は、勝利のために全てを傾けることが出来ません。その勝利に、どんな実際的価値があるのか。
愛も勇気も、希望も、全て、皆が幸せになるための合言葉に違いありません。
歴史に詳しくないのであれですが、西洋中世などの力の時代、勝利が必要とされました。
ですが、どんな空想の武器も、魔法も、今の時代では必要とされていない。
しかし、ラノベなどの世界で百花繚乱だ。
最後の問いには、僕は、やはり後者を選びますね。
答えるための基準が僕の中では明白に立てることが出来ないのですが、僕の、あなた(の考え)への信頼です。 >僕は、勝利のために全てを傾けることが出来ません
社会が貴方の勝利を望めばいいのです、何の問題もない。
>その勝利に、どんな実際的価値があるのか。
価値は貴方が決めるのではなく社会が決めるので
受動態でありながら主体である意味を見出すには自分がではなく自分を動かす
全てに祝福されるべきです、それが感謝というもの。
世界にとっての希望が貴方の勝利を望むなら、それを拒む理由があるのでしょうか。
自分の問題ではなく、社会の問題にするのです、世界の問題であるなら
世界が解決してくれます、それが必然の力、社会と貴方の間に虹を描き、その輪を
輪廻させることができれば、貴方は社会であり、社会は貴方だ、そして世界は貴方であり
貴方は世界である、ただその両者に輪を作り出すべきか気づけるか、そして輪の本質を
見出し的確に真実へたどり着けるか、
自分中心の主体でしか理解をしないからこそ、自分以外のそれが貴方を中心として意味を
見出す的が見えてこない、自分以外の全てにとって何が、そして貴方がその中心にいるなら
どうすれば、どのようにと、繰り返し禅の境地で廻れば、それが見えてくるはずです、
貴方がではなく貴方以外、すなわち社会や、世界が主体とする本質が貴方と共に手をよりそい
世界が望むことを達成するには貴方もその一部、世界と1つ、世界は貴方を必要とし、
貴方は世界を必要とし、双方が感謝をもって双方によりよりバランスを生み出す、その力が作用するのです。
正しく本質を見抜き真実にたどり着けば貴方は祝福され、間違ったそれを見抜き的を得られなければ
祝福されない、区別は簡単です。
いいですか?自分の視点ではなく自分以外の視点が祝福されなければいけないのです。
自分で行うのではなく、社会、世界が行うのです、貴方が行うべきはそれに気がつき、
本質を見出し、力に繋がる道を1つづつ積み上げ1つの感謝の輪を作りだすこと。
本質を見出すのは簡単ではないです、それ以前にその存在に気がつかないといけない。
本質を感じ取っても真実に繋げなければ働きは生じません。 >>293
世界の法則の中でも、特異なのが、偶然です。「手本引き」の中に、偶然は存在しない。人生の偶然は、自然の偶然
と、人間の個性の対決です。社会が勝利を望む、つまり、各人が自分の為というのではない働きを成す、そのとき、
本当の働きが人間のものになる、というものでしょうか。
忘れるということについてですが、記憶はなかなか手ごわい。それゆえ、一層自由に操ろうとすることに、大きな意味があるでしょう。
全ての積極的忘却、これにも何かの意味が見出せる。つまり、極地に至るまで、地図のような働きを担わせられる。
本の示す地図は、忘れないようにした方がいいもの、であって、全体を俯瞰して眺めることも、必要となる。
そして、虫の目で見れば、物事の小さい成り立ちが見える。
このように、人間は、地図である、とも言える。自己の地図は、自己が作るもの。他人の地図は、便利ですが、
コードを必要とする。
このように、迷わないように、目的地が探せるように、扱わねばならない。地図の制作法は、自分の感覚を、
間違いと思って、捨てないこと。全てを捨てないこと。自分で考えたことは、自分で処理しなければならない。
スリルの瞬間は、地図の目的地への到達と、二輪でなければならない。
スリルが提起する問題は、破壊と生成の、破壊の方でしょう。生成の方法は、自らが世界に望まれるまま、
声を聞くことだ、とおっしゃっているのかもしれませんね。幻の破壊、そして建設。幻を感じて、幻を再現
しようとするのは人間だけであり、ゆめかうつつかということが特別な意味を持つのも、、幻のような
現実こそは、信じられないほどのものである。そういう機制こそは、喜びである。
個人というものが、距離を縮めることが必要です。距離が近ければ、物事は扱いやすくなる。人と人との
距離が近ければ、愛の感情が自然に生まれる。恐れてはなりませんね。
どこへ行けるのか?──あらゆる場所へ行ける。
自らの内には記憶があり、他人にも記憶がある。 >>294
偶然は簡単です、人が物事を平坦にみるからこそ1000回に1回起ることが稀にあれば
偶然、そして1000回中990回おきてもそれは偶然なのです。
世界は平坦に分布しておらず、偶然を重ねることに組み合わせされた結果は歪んでしまいます。
6目のサイコロがどの目もでるから1つの目は6分の1で同じ偶然だと思うでしょう、中に重しが入っていれば
目の出方になります、せかいは平坦ではなく町をみても人ごみをみても、それは過疎だったり
満員だったりで平坦に分布していません。
祝日の道路が渋滞するのは偶然ですが、必然でもあります、祝日だから混むわけです。
なぜそのように必然的に起きるそれらを偶然としか見れないのでしょうか?それは人が認知できる世界が
狭いからです、見えない予測できない、理解しえない、そういう類は必然的に結果が成立しても、
偶然だとしか認識できないのでず。
貴方がその年齢まで生きてこれたのは偶然ですが、生きる本能と環境によって生きてきたというのは必然です、
決して偶然として現在生きているわけではないのです、高い確率で生き延びられるのは偶然と呼ぶのは
早期判断すぎるのではないでしょうか。 >>294
>愛の感情が自然に生まれる。恐れてはなりませんね。
愛の反対は憎悪ではなく無関心だといわれています。
つまり愛は微妙な誤解で憎悪になる、愛で距離を保もたず接触すれば当然として悪意を感じる。
相手と自分が1つになった意識があっても、自分だけが食事をとり目の前の相手には何もあたえず飢えれば、
その差異によって悪意が生まれます。
完全な1つになれるなら問題はないのですが、固体のリズム差異は一致しない、一覧性双生児の双子ですら差異が発生する
ただ差異は憎悪だけではなく愛の原因にもなる、自分が無いものを補完してくれる、自分が安定する為に必要だ、
距離は近いだけでは成立するわけではなく、遠くにいる彼女を求めるような愛もある、
距離の長さではなく、相互の働き、相互の補完、相互の助け合い、相互の相性、相互のリズム、それらが共鳴しうるとき
共に秩序を成すなら愛、共に混沌を成すなら憎悪のようになるのでは?
物理的な距離ではなく、真横にいた夫婦ですら心が無限に離れていることもある、想いが別々に働く、近いが遠い場所、
心の距離は相手が存在しないと死ぬような状態ならば、それはほぼ0距離といえるんでしょう。
物理的距離が近くてもリズムが合わない場合、どんなに努力しても拍子抜けになります、最悪の相性が悪い場合は
何をしても阻害する結果にしかなりえない、
心の優しいワニさんが、川を渡ろうとしている人を本心で親切に渡そうとするが、途中で本能によって人が食べられてしまう、
ワニさんは食べるつもりなどなく、後悔に悩む、避けられない相性の悪い天命を背負った人もいるんです。
良いと思って行うことが悪になる、誰でも同じようにという発想は美しいのですが、善意を悪意でしか返せない
音叉が共鳴するのは特定の周波数に慣れやすい性質があるからです、逆に打ち消しあうそれもあるのです、
凸レンズは集光し光を強くし、凹レンズは光を広げ光を弱くする、凸凹の相性を無視できればいのですが、世界はそう出来ています。
世界は広い、隣に呼び込むのは相性の良い相互に助け合うそういう才能を限定するべきでは? >>296
>世界は広い、隣に呼び込むのは相性の良い相互に助け合うそういう才能を限定するべきでは?
そのように、凹凸レンズのように、相性よく物事を処理できるような間柄を作ること、誠に、大切だと思います。
人間は、個が一応決定の主体ですから、何をするかは、一つの行為となります。
ところが、思惟はそうではない。無理に、習慣的に考えていると、誰それが悪い、憎い、といったことと、
いっしょになって物事が思い出されてきます。しかし、それは事実を損なった悪い世界の感情です。
喜怒哀楽の、怒と哀が混ざって感じられる、感じるべきである場合は多々ありますし、そういう感情を、
ありのままに感じること、これが大事になってきます。心と頭が相即になり、名を与える言葉と表現したい意味がほぼ等しくなる、
そういったことが、大切なのだと、感じます。 >ありのままに感じること、これが大事になってきます。
それは表面を見てくださいで見えうる具体性のことか、ということ、
ありのままは見えないものだ、飾りや具体性のない本質である、言葉や意味になる類ではなく
抽象的で理解するものではない、
1つ欠ければ動作しない理屈で機能する歯車の類ではなく、自ら働くべく機関を正しく走らせる状況の軌道レール、
世界との接点をやさしくオブラートしてくれる環境や、決して裏切らない物事の根底、基底にあるものだ、
また 生命のような肉体や動作や、心のようなAIの学習させられた最適パターン、そうじゃないだろ、
それらは正しくみえても、目の前だけの収支利益であって、最後の勝利へ導いてくれる道ではない、
たとえ変な動きいらだつ動作、気持ち悪い見た目、関係と成して活かしてくれる目に見えないもの、
そこにも命の類は見出せるだろう、それが本質だ、最強のAIになくても、存在しか与えてくれない単純機械でも
命が見えてくる、たとえ見てはいけないものであっても、高次に現れる何かは現実の物理世界ではなく、
それは神や霊や魂などに分類される意味の命だ、死ぬと生きるの2択しかない命ではない。 存在を存在と認めたとき、初めて本質がみえてくる、だからこそ非生物には命は見えてこない。
どんなにちっぽけで世界に力を現さない何かでも、小さな声を発している、小さきものは無意味に分類され
無関心に至るもの、関係はなく非存在であるかぎり「小さな声」は聞こえない、
世界に存在しているとは、万物全てに何かしらの本質があるということだ、それを命と認知して何がわるい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています