◆◆キルケゴール、キリスト教と実存主義◆◆
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複雑化した現代社会において人は、言語を過剰に運用するので知性的に、言語に過剰に
依存するので一般的に、言語によって過剰に分析するので受動的になる。この様に
社会構造が個人を透明化させてしまう。個人の充実のための社会が社会の充実のための
個人となり、個人の生が蔑ろにされているのではないか。それに対抗するために
生まれたのが実存主義であり、キルケゴールは感性的・個別的・能動的な生き方を
推進する。 人類は生きる為に生存実感を必要とする。単に生きているだけでは新鮮さが失われ実感
が無くなり、飽きが来て苦痛に感じるようになるし、ついには精神崩壊してしまう。
そこで人類は飽きに対抗し生存実感を更新する為に、前近代においては祭りを行って
いた。前近代の社会は単純であり流動性も低かったので、運営に支障をきたすこと
なく共同体の成員全員が祭りに集合可能であり、また自ら選択することなく受動的に
祭りを享受可能であり、また時間の中で定期的に祭りを行うことが可能であった。
しかし近代以降の社会において無が進入してきた。
なぜなら社会が複雑化して流動性が高まったからであり、それゆえに通勤や納品時期
などの社会の運営に支障をきたす為祭りのために成員全員の集合が不可能になり、
また祭りが来るからこそ主体的選択をせず目標が無くてよかったのに自ら能動的に
選択することになり、また個々人の都合で祭りを空間的に選び取るようになったから
である。 すなわち前近代の一般性・受動性・時間性が、近代以降は個別性・能動性・空間性と
なったのであり、こうして何百万年の人類史上初めて人々は主体者として意味の無限
指定に囚われたのである。最早無の前に人は不安におびえるのであり、生存実感は現実
逃避となった。そんな無の深淵の前に立たされた人類が意識的に選択できる態度は
3つある。それが享楽的実存・道徳的実存・宗教的実存である。
享楽的実存は近代において感受性を更新し生存実感を得ようとすることである。
この様な享楽追求には外的変化追求と内的変化追求がある。外的変化追求は外的対象
を享楽に費やして、それに飽きが来たら次々とその対象を別のものに変えて楽しむと
いうものである。風景を次々に変えていく転居魔や、抗争を通じて暴力を楽しむ
チーマーや、さまざまなゲームと戯れるゲーマーや、薬物使用を繰り返すジャンキー
や、性的快楽を追及するナンパ師などがこれに当たる。しかしこれは既存の外的対象
に限定されてしまうし、また引き出す快にも限度があるため快が得られなくなったり
、より高い刺激を求めて社会の外側へ突き抜ける可能性がある。内的変化追求は個別
的な外的対象に様々な手を加えて楽しもうというものであり、対象から空想したり、
人間関係において相手と様々な関係を取り結んだりして、日々の生活から遊離した
世界に自らコミットして快を引き出す。これは外的変化享楽追求とは異なり対象に
限定されず、また無限に快を引き出すことが出来る。しかし外的であれ内的であれ、
享楽の後に残っているのは無である。ここでは何故それを選ぶのかの理由が欠けて
いる。 実存は現実に存在するということであるが、事物と人間の場合では異なる。事物の場合
は職人が作る際にまず本質としての概念があり、それに基づいて存在としての実存が
作られる。つまり物は本質としての一般類種的同一性に基づいた個別的自己同一性で
あり、本質が実存に先立つ。
しかし人間の場合はまず存在する実存があり、その後に自らで自らを作り本質である
概念として語られるものである。つまり人は鋳型にはめ込むような同じ存在ではない
のでまず事物とは逆にまず個別的自己同一性があってそれが更新される中でその都度
一般類種的同一性としての本質が語られうるのであり、実存が本質に先立つ。事物に
おいては事物ならしめる本質は不動であるが、人間においては本質は更新され続ける。 この様な人間の実存は近代的自我であり、事物とは異なる感性的な存在である。これは
出来るようになりたい理念に向けて、可能性に過ぎなかった現実的には無の存在を、
現実の存在へと変化させ感性を高めるものである。これは自己関係を総合して自己関係
自身へと近づけ自己生成を行う、自覚的な生き方である。
ここでは人間は情熱によって動くが、選択する際には不安に絶えず付きまとわれる。
しかし反復を通じて鍛えられ自信を得て感性を高めていくが、いずれかの関係項に
偏向することによって総合できずに絶望し頓挫することもある。絶望することなく
正しく総合することで、人は理念へと近づき自由が拡大していくのであるが、
しかし神に成り得ない人間のやれることにはいずれは限界が訪れる。 キルケゴールにとっては、関係が関係自身に関係するのが実存するということであった。
これは自己が自己自身に関わるという意味であり、すなわちキルケゴールにとっての
自己とは関係性なのである。自己関係は4つの関係項である無限性と有限性、可能性と
現実性で構成されている。無限は有限性と相対的規定項であり、抽象的な絶対的な
自己への意識である。有限性は無限性と相対的規定項であり、抽象的な平均的な自己
への意識である。可能性は現実性と相対的規定項であり、具体的な選択をした自己
への意識である。現実性は可能性と相対的規定項であり、具体的な自己への意識
である。
この様な自己関係が4つの関係項の総合によって至るのが、より自分らしさを持った
自己関係自身であり、絶対者に近づいた自己が行き着くべき未来の立場である。各々
の関係項のいずれにも偏向することなく総合を果たしたことで、感性の高まりに
よって自己は他の誰でもない自己自身へと近づいていく。 今月の生活費が足りないかも… 。
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そんなアナタのお金の悩み、相談はエスティーエーで 不安は目標を前提にしている者に根本的に漂っている雰囲気であり、これはある共感的
な反感・ある反感的な共感である。すなわちやれるようでやれない・やれないようで
やれるという思いであり、恐怖とは異なる。なぜなら対象がないからこそ不安なので
ある。この様な実存的不安を持っているのが精神としての自己である。
反復は理念に向かって感性を高めるべく何度も行為することであり、成功できるよう
になりたいことを試行錯誤の失敗を通じて感性を高めることによって受け取りなおし
て、成功できる感性とそれに伴う自信を獲得することが出来る。 >>11
無とは神の死によって訪れた新しい時代の地平であり、それは社会の複雑化によって
起こる。すなわちそれまで受動性・時間性・一般性で生きていた人類が、時代の要請で
能動性・空間性・個別性の生き方に転じて、こうして社会の経済的繁栄の対価として
人類は無を招きよせることになる。
すなわち個人が自らの意思によって選択しなければならないという、意味の牢獄で
永遠に暮らさなければならないということだ。今では当たり前になっていること
だが、何百万年の人類史を顧みるとこの様な事態は近代から初めてのことである。
さあ無がやってきた。 道徳的実存は道徳に準拠した生き方をすることであり、共同体の成員がその普遍性の
中で仕事・家庭などを通じ、幸福を見出すことである。その社会の日常的な道徳義務を
果たすことによって、現実から遊離することなく幸福を実現していく。ここでは同胞
と如何に幸福になるかが問題であって、個別者がその個別性を捨てて普遍的・一般的
なものとなるのが目的である。しかし一般性であるということは紋切り型であると
いうことであり、それは既存性でしかない。
このような客観的な役柄を目指してもそれを取り入れて感性にするのは不可能で
ある。なぜなら自己を捨てて普遍を拾おうとしても、拾おうとするのもまた自己で
あるから自己がついて回るからである。この様にして完全なる道徳者は完成され
えない。小さな自我を温存しつつ普遍になりきれないのである。またこの様な日常
生活の義務の反復は本質の変化であって、けして自己生成は起こらない。そして
合意解消により共同体が衰退すると、行動前提を失って幸福自体獲得出来なく
なってしまう。 絶望は自己関係の齟齬によって実存できない状態のことであり、無限性と有限性・
可能性と現実性の関係項の取り違いによって起こる。ここでは自己生成が起こらない。
絶望に陥った人間は何ものにも依拠することはできないのであり、無の深淵に飲み
込まれるしかない。これは理論上の絶望と現実的な絶望がある。
理論上の絶望は現実に起こる絶望ではなく理念型として分類した4つの絶望の類型で
ある。これには無限性の絶望、有限性の絶望、可能性の絶望、現実性の絶望がある。
無限性の絶望は自己関係において無限性と有限性が総合されること無く、一足飛びに
理念へと向かって無限性に意識が偏向している事から起こる絶望である。理想主義者
がこれに当たる。有限性の絶望は自己関係において無限性と有限性が総合されること
無く、自己を平均化・固定化して人類だとか大衆だとか員数の一般性の一人と捉える
ことから起こる絶望である。共同体主義者がこれに当たる。可能性の絶望は自己関係
において可能性と現実性が総合されること無く、理念への意識を忘れ可能的な仮想
現実の中で生きていこうとする事から起こる絶望である。空想家がこれに当たる。
現実性の絶望は自己関係において可能性と現実性が総合されること無く、理念への
意識を忘れ現実がどうにもならない必然的なものと捉え、この現実にしがみつこうと
する事から起こる絶望である。運命論者がこれに当たる。 現実的な絶望は理念型ではなく現実にその人の人生において起こりえる絶望の類型で
ある。これには第1に自分が絶望していることに無自覚である絶望、第2に自分が絶望
していることを自覚している絶望、第3に罪としての絶望がある。自分が絶望でして
いることに無自覚である絶望は実存することの必要性を理解していない自然的な生を
送っている無知な者に起こる絶望である。自分が絶望していることを自覚している
絶望は理念に気づきながらもそれが挫折することにより陥る絶望である。これには
弱さの絶望と強さの絶望がある。弱さの絶望は絶望して自己自身であろうとしない
絶望であって、これには地上的なものについての絶望と最高度の段階としての永遠
なるものについての絶望がある。
地上的なものについての絶望は不幸の理由を無為であるが故であることを自覚できず
に運命に腹を立て自己自身に嫌気がさして新規の自己を望む絶望であり、空想に
よって可能的世界の中で完全なる自由を満喫する。しかし夢から覚めて待っている
のはみすぼらしい自己である。永遠なるものについての絶望は不幸の理由を無為で
あるが故であることを自覚しているものの、弱い自分に腹を立てて無為に留まる絶望
であり、挫折とそれに対する後悔に恐怖を抱き実践に踏み出そうとはしない。理念
への運動に掻き立てられながらも、気後れして過度の分析に従事し、絶えず自己の
殻の中に留まってしまう。強さの絶望は絶望して自己自身であろうとする絶望で
あり、自己生成のために自己を否定しなければならないことに腹を立て、自らの自我
を絶対視して固執するのである。権威主義者や体系的哲学論者やソクラテスなどが
これに当たる。ここでの最高度の段階が悪魔的狂乱である。悪魔的狂乱は権威を誇示
して世界を支配することに失敗した者が、逆に世界から不当に扱われることに対し
愚か者にはわからない、と自己の高貴さを感じる絶望であり、ここで自我の殻への
自己閉鎖性は極限に達する。しかし実存しないので脆弱な自己が温存されるだけで
ある。罪としての絶望は自らの罪を自覚しながらも信仰への立場へと飛躍しない絶望
である。 キルケゴールはキリスト者へと誘導するべく、客観的な皆がこうすべきというような
一般的な思想ではなく、主体的な個人が如何に生きるべきかというような個別的な思想
の伝達を試みた。そこで直接伝知ではなく間接伝知が行われる。この様な匿名での発表
は、彼自身が伝達しようとしたことが客観的真理ではなく主体的真理だからである。
もし実名で主張すれば主張者の権威に左右され、ある者は隷属しある者は反発し、
主体的な決断に至らない。キルケゴールは人生の三段階を踏まえたうえで、人々を
信仰の道へ誘うべく信仰の虻として人々にまとわりつき、気付きを供給するので
ある。 信仰は対象を信じ不信を除き去る立場であり、対象と信仰者が人格関係であって成功
する。人格関係は相対的で客観的な条件を充たせば誰でも築くことが可能な非人格的
関係ではなくて、人格的な個人のみが築くことが可能な絶対的で主観的な関係のことで
ある。これは対象が自らの意識の根底にあるような感性に取り込まれているということ
であり、この様な関係はどのような論理によっても合理化することは出来ない。それ
はもはや当然のことであって理屈ではないのであり、それゆえ人はその事を言葉に
表して他人に説明することができないからである。
しかし人格関係でない信仰は、けして完全に達成されることはない。何故なら感性に
取り込もうという者もまた自己であるから、自己が常について回るからである。 信仰誇りは信仰者の真理を知っているという誇りであり、真理と無関係な他者に対する
優越感である。敬虔な信仰者にとっては当然のものであるが、これは自らが信仰者と
して努力したという自己への信頼感が伴っていなければならない。非人格関係に基づく
形式的な信仰者は、信仰者としての努力をしていないにも拘らず信仰者という形式的な
権威で自らを大きく見せて尊大に振舞う。
自称信仰者が高みから土足で人の人格に踏み込んで否定するのは、自身の力を誇示
しようとする弱さの現れである。そして他者への誇りだけで自己信頼が伴っていない
ので、弱い人間が権威にますますすがって努力せず傲慢になっていくという悪循環を
生む。これに対して人格関係に基づく真の信仰者は、神に選ばれているという誇りは
持っているがそれとともに信仰者としての努力をしているという自己への信頼がある
ので、尊大に振舞わないし自信を持っている。 キルケゴールの立場は、一切衆生の救済を目指した大乗仏教とは明らかに異なるもの
信仰はどこまで突き詰めても、主観的な実感でしかないので
それを万人向けに広めようとした時点でウソになってしまう >>21
そんなことはないです。既にある程度の説明はしましたが、宗教的実存を説明した
あとに、それについて反論します。 宗教的実存は主体的選択に基づいて完全なる自由を実現する存在を目指す立場であり、
これには宗教Aと宗教Bがある。
宗教Aはやりたくてもやれないという不自由さから来る不安を情熱に基づいて反復する
ことにより、主体性が真理となって自らの中に完全な自由である神を見出せると信じる
立場である。相対的な平均的生ではなくて、絶対的な独自の生を追求することは、
完全に自由である絶対者を自己において実現しようとすることである。そのために
世間からの一般化の圧力を撥ね退けて、独自の生を貫かなければならない。自己関係
を総合して自己関係自身へと運動しなければならない。この様な実存者は存在の変化
をし自立していくが、しかし人間の可能性は限界があり結局は完全なる自由を獲得
することはできない。 宗教Bは主体性は虚偽であり個人の内に絶対者を実現するのは不可能であることを自覚
し、自己への信仰を離れ自己が自己自身でありまた自己自身であろうと欲するに
当たって、自己自身の内にではなく彼岸において神を確保出来ると信じる立場である。
これはあの特定個人であるイエスを神と信じて、聖書に従いイエスの生き方を自らの
実存に透明に基礎付け、その真似人として自らの生活を根拠付ける。単なるイエスの
客観的な真似ではなくイエスと同等の理念を持つことで、イエス同様に迫害される
ような主観的な真似である。
こうして彼岸にて神を確保し死後絶対の福祉を手に入れられるとしているが、これに
は常に躓きの石がある。神が個人であるイエスとしてすべての人々のために受難の中
で死んでいったということを信じ、イエスの教えを守り行動しなければならない。
しかし信仰しても信仰するのも個人であるからどこまで行っても自己がついて回る
ので、完全に信じきることは出来ない。不信を取り除いて信仰する者は神と人格関係
になるのであり、神の前における倫理的なものの目的論的停止が起こる。 >>21
キルケゴールが著作を教化であると位置づけしているように、全ては宗教的実存の
ために存在している。そしてその中で匿名の表現形式で書かれたりするのは、
キルケゴール個人の権威に左右されないように、真理の中にだましこむためである。
等しきものが理解するような与えて理解させるものではなく、貴方の言うとおり個人
が個人の主観で実感する主体的真理は直接伝えることが出来ないので、本人に間接的
に気付きを供給することで自らの意志で歩ませるためである。キルケゴールはあえて
匿名の何某の名前において「私はキリスト者ではない」とへりくだることで、逆説的
にともにキリスト者への道を歩ませようとする。 大乗仏教は、教団と等しいものだからやはりキルケゴールの言う信仰とは本質的次元が違うんじゃないだろうか >>26
私は貴方が「主体的真理を万人向けに広めるのは嘘になる」といわれたと思ったので、
嘘でもなんでもなくそれは可能であると反論しました。仏教とキリスト教の教えの
次元が違うのは当然のことです。 次元が違うのは、信仰に向き合う態度についてだよ
キルケゴールはそこにポイントを絞っていたはずだが?
仏教の話じゃないと言うなら最初から言うんだ、なぜここにきて覆す 貴方は最初から文章が出鱈目なので人に伝わっていない。信仰に向き合う態度とは
個別的態度についてなのか?しかし貴方はその前に万人に広めるのは嘘になると
信仰一般について語っている。それにキルケゴールは教化だから信仰一般についても、
個別的態度についても言及している。とにかく文章をもっと整理して主張して欲しい。
歪曲して伝えておいて返答が曲がっていたら怒るとか意味が分からない。 カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になったという洞察があります♪
素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったなぁ😃
「相関」は20世紀の現象学であれ分析哲学であれ免れてないわね♪😃
そして言語論的転回やポストモダンも例外ではありませんね♪😃
こうした相関主義を乗り越え、思考から独立した「存在」へと向かうのです。👰
その意味で実在論を目指すのですが
かつての素朴実在論とは区別されます♪
実在と考えているのは数学や科学によって
理解できるものです。🍸
その立場を「思弁的唯物論」と呼びながら
思考を深めて行くのよ♪🌟🐰 >>29
デタラメな独断論ばかり演じているのはお前だよ、伝わらないのも全てお前の理解力のなさです
文が読めないなら目ン玉くり抜いて代わりに銀紙でも貼ってろカス >>34
この書き込みも分かりにくいです。それに論理的な回答は断念してしまいましたね。
またその内容でこちらが傷つくと思いましたか。
ただ貴方の言っていることに回答したのは、それなりに高いレベルにあると思ったから。
こちらはなんとも思っていません、お互い理解を深めていきましょう。 あんたの言ってることも十分わかりづらいです、その証拠に独壇場で誰も反応しようとしないでしょう
論議がしたいのか持論を述べたいのか意図が分からない 神の前における倫理的なものの目的論的停止は、神と人格関係で結ばれるがゆえに既存
の普遍的な道徳を超越し、例えば神が愛するわが子の殺害を命じたらそれを行うのが
信仰者である。この様に神の倫理が既存の道徳の目的を停止させうる。
キルケゴールは主体的選択の無限指定から逃れられない意味にさらされた中で、無に
対抗すべく当時支配的であった特定宗教の教義に基づいて、今世では論理的に無理
だから彼岸にて神を確保しようとした。しかし真理が何故彼岸にあり何故キリスト
教なのかという問いだては、躓きの石として宗教の物語の一部として収斂され信仰
の対象となってしまう。 >>37
キルケゴールの宗教は出口が無いって思う。👰 >>38
確かに結果的にゴールを隠してるよね。そうすることで永久運動装置となってその人の
動機付けを強化し続けている。武道の達人であれ右翼の英雄であれそしてイエス・
キリストであれ、実現不可能なゴールすなわち出口を隠すことで、運動体を存続させ
ようとする意図が見えてくる。 キルケゴールって日記の方がいいよ。死に至る病より。
字が出てさ。地の文ともあう。 >>39
出口を隠す余裕があったら
「不安の概念」や「絶望」が成立しないって思う。👰 >>41
出口を隠したのは聖書を作った連中ですよ。あれでいて聖書というやつは相当巧妙な
作りです。信仰者を動機付けして僧侶の利権を膨らませようとしたのかもしれない。
キルケゴールは人がいいからそれに乗ってしまったのではないでしょうか。不安も絶望
も全部宣伝ですね。 >>43
聖書は、そうかも知れませんね🌟
でも キルケゴールは真剣だったように聴いておりますが…
不安も絶望も真剣だったのでは無いでしょうか
時代のちゃんと絶望と闘った人ですよね? >>44
だからこそ キルケゴールのファンは現代でも
残っている >>44
そうです、彼は真剣だったと思います。だから34歳に死ぬと思い込んだり、最後まで
死後の世界を信じていました。だからこそ人のいい彼は僧侶の商法に乗ってしまったの
であり、その結果宣伝をしてしまった。 >>46
なるほどです。👰
つまり、我々人類のための犠牲者です。🍸
その お陰で、今の我々があると思います。🍸 「今日 真理を得られないのなら明日は いらない」
キルケゴール。🍸 >>46
私が間違えてたら遠慮せず、どんどん
おっしゃって下さい。👰 ニーチェの神は身体に立脚するディオニュソスであり、キルケゴールの神は彼岸にて
再結すべきヤーウェであり、この様に身体性と自己同一性という全く異なる立ち位置を
思想の立脚点にするからには、近いようで全く異なる思想である。キルケゴールの道徳
的実存はニーチェの駱駝概念であり、宗教的実存は獅子概念であり、享楽(審美)
概念は小児概念にそれぞれ当たる。ニーチェが小児を一番上位に持ってきたのに対し、
キルケゴールはそれを一番下位に持っていったのが特徴的である。キルケゴールは
神がヤーウェでなくディオニュソスであることを知らなかった。
キルケゴールは人類史を知らなかった。キルケゴールは問題を社会的連関として
捉えられていないというマルクス主義的非難があるが、人類史的な生存実感という
意味でも問題の根幹が正しく理解されていなかったといえるだろう。しかしこう
捉えることはできないだろうか。すなわち思想を超えてしまったニーチェに対し、
思想の手前ギリギリで単独者すなわちニヒリストの選択肢を正確にいぶりだす成果を
出したということである。 キルケゴールにとって実存とは関係が関係自身に関係するような自己同一性のことで
あった。ではこの様な自己は何を起源とするのだろうか。人間は対象意識と自己意識を
持っているのであり、この自己意識が実存である。しかしこの様な自己は物象化の所産
であって、そもそもとの自己は未決状態で単に感じられるような曖昧な存在である。
この様な志向意識で捉える自己とは異なる曖昧な自己は自己感ともいうべきもので
あって、この様な自己感の起源こそ近代社会である。
近代社会が呼び込んだのは言語・自我・時間である。動物とは異なり人が言語体系を
必要としたのは、協働する際に意思疎通をするためであり、物象化した物を言語で
一般化することで行われる。原始共同体社会においては小規模の面識圏内で作業も
単純だったので、協働の必要がほとんどなく言語の使用も極めて限定されていたが、
近代社会になると面識圏内に留まらない異なる共同体同士の接触や、同一共同体に
置いても複雑な作業があり広範に言語が用いられるようになった。 >>53
>>このような自己意識は何を起源とするのだろうか
拠り所の無い人間それ自体の自己の「不安」だと思います。👰 >>54
あなたの呼んでいる人間は近代的自我であって、それは本当の自己ではない。真の自己
はニーチェのいう身体であって、前者は相対性に過ぎず後者こそ絶対的なものである。
前者の視点が物語るすべてのことをニーチェはニヒリズムと呼んでおり、全ては徹底的
に没落すべきものであるといっている。そして前近代においては前者など存在して
いなかった。ではこの様な不安を持つような後付けの偽の自己の起源はどこに? また自我も生じた。前近代までは曖昧に生きており選択することが極めて限定されて
おり、例えば鍛冶屋の息子は鍛冶屋に、靴屋の息子は靴屋になった。この様に主体的
自己はほぼ無かったが近代に入ると、社会の流動性が活発になり自ら選択する必要性が
産まれここでの選択する際に準拠するものが自我であり、私自身という人格的主体性
が生じたのである。
未決状態で曖昧に捉えられるものが事(こと)、志向意識で明確に頭の中で判断
されるのが物(もの)であるとするなら、意識を志向し事を対象化することは、事
からの刺激と受容者の感性を通じて記号としての対象を産出する。そして事としての
自己自身に意識を志向し対象化することもまた、自己自身という事からの刺激と
受容者の感性を通じて近代的自我という言語としての対象を産出する。そして
この様な自我が時間の中で同一性を維持できていると判断される根拠は、差延の効果
が反映しているからである。こうして現在において人は自己同一性を担保する。
しかし現実には自己自身の同一性など存在せず擬制によって成立しているだけで
あり、事としての自己同一性は単なる差延にすぎない。自己は実在しない。近代的
自我がこの様なものであるからには、キルケゴールが準拠しようとした思想も、
流行思想に過ぎないということが出来る。 >>57
美魔女さんが仰るとおり近代的自我に準拠すると無によって絶望するわけですが、
そこで問題になるのは、そもそもその近代的自我の起源はなんであるかということと、
それは信用できるのかということなんですね。それを今説明しているわけです。なぜ
ならそもそも胡散臭いもので信用ならないものであったなら、それに準拠した理論
なんてどれだけ荘厳壮麗な建造物であっても、元々腐ってるわけだから意味なくなる
でしょう。だから少し難しいかもしれないですが説明しますね。 差延は自我の時間的把持が出来ていると判断する根拠であり、差異と遅延を合わせて
差延としている。外的であれ内的であれ事(こと)は、原理的に志向意識で捉えられ
ないがゆえに媒介性として代替的に物で捉えるということができる。そしてその物は
対象の本質という事が不在であるがゆえに、直接性から間接性において差異と遅延が
生じる。
差異とは、自己を認識する際に概念で捉えるわけだが、言語表象群から選び取ると
いうことは他とは違うという差異があるということであり、すなわち言語表象群全体
を相対的に捉えた上で、モノ/モノ・・・/モノの他でもありえたという並存的な空間
的差異がある。 >>56
キルケゴールは熱烈なキリスト信者ですよね⭐😄 >>56
キルケゴールはそんなことを言うてないわ。👰
「主体性が真理だ」
「真理とは私がそこで、生きかつ死ぬ真理」
という話をしてるの⭐⭐⭐ >>62
ここをファンの集いにしたければすればいい。しかし誠実に真理を目指した
キルケゴールを私は馬鹿にしたくない。マルクス同様に自らの主張が誤っていれば、
きっとそれを受け入れてそれを超えようとしたはず。止めを刺すのもまたこのスレの
意義だと私は思っている。 遅延とは、記号・言語において何か意味がある際、それは物であるがしかし元々の事の
代理物であり、直接性ではなく本来の存在が不在の形で認識されている。すなわちこの
様な物は事の橋渡しすなわち媒介性であり間接性でしかない。つまり物としての自己と
事としての自己自身の、同じだが違う違うが同じであるという同一の非同一、
すなわち根源的には同じだが派生したものとしては違うという、継起的な時間的遅延
がある。
この様な物は差延の結果としての過去の痕跡であって、間接的に過去に媒介されない
現在はなく、現在は不可避的に過去を含む。すなわち現在の中に痕跡として残って
いる過去であって、これは現在であり当の過去は不在である。この様に現在は時間性
の中で自己を失う欠如としての側面を常に包摂しつづけているのであり、現在は独立
して存在することができず、その外部である過去とのひらかれた関係を必要とする。
そしてここでの根源である私自身は一つであるがゆえに2つの自己が対立するのでは
なく過去の自己は抹消された痕跡に過ぎない。これを根拠に間接的に人は自我の時間
的把持が出来ていると判断する。 また時間も生じた。原始共同体では単純な社会である為に生きられる共時性にすぎず、
精々時間は太陽の位置や鳥の鳴き声などが目安になる程度でほとんど気にすることが
なかった。しかし近代社会においては未決状態としての生きられる共時性だけでは
なく、協働のために言語を使用し選択主体となるのであり、起床時間や出勤時間や
就労時間などを時計やカレンダーなどの目盛りを標にして知ろうとする。こうして
時間は私自身の志向意識によって物象化されるのであり、すなわち知られる共時制に
も成りうるのである。
また人にとっての時間は未来と過去の間の現在によってのみ成立する。つまりこの
現在という観点は私自身であり、私は私を生きている限りはやめられないので
あって、この様な私にとってはまず未来と過去があってその間に現在があるのでは
なく、まず私という現在があってそこから意識を未来と過去の両方へと志向する
ことで、それぞれが推し量られる。こうして近代以降の我々は二つの方向に時間を
見出そうとする。この様な既知としての現在までと未知としての現在からという
両方向性は不可逆性が見出されるがこれは時間の本質ではなく、人間が消滅する
べきものであるということの反映である。時間は実在しない。 この様にキルケゴールが準拠した近代的自我の思想は、前近代まで何百万年もの間に
連綿と続いた人類史が端的に無視されており、近代以降に登場したに過ぎないものに
絶対性を持つ精神的自己とする倒錯である。また自我の時間的把持についても差延に
おいた効果による自己感に過ぎず、ここでの自己は後付の相対性であり協働の道具に
すべく産出されたという自我との社会的連関も理解されていない。
この様にキルケゴールの思想は最初から最後まで根拠が無なのであり、また要するに
真理にだましこむはずが本人が宗教の利権にだましこまれてしまっており、無根拠に
死後に永遠の福祉を得るという価値の転倒である弱者による強者へのルサンチマンに
絡め取られてしまっている。実存の論理構造をたった一人で理論化したことは驚嘆に
値するが、実存する事に全く根拠はないのであって、思想家のとしての覇権がどこに
あるかという意味ではキルケゴールは終わっているといえるだろう。最早実存思想に
復活の可能性はない。 実存ってのは、ギリシャ哲学から受け継がれてきた「いかに良く生きるか」という課題を克服するためのものに過ぎない
実存は存在の本質を解明しようとする主観性の分野であり、なにが事実なのかってのは自然科学に任せて置けば良い >>67
実存を前提に考えたいのはあなたの勝手だが、キルケゴールにおける実存は思想が前提
におかれている。実存は個別的だが個別性のみで解決する問題ではないからこそ、
キルケゴールは世間に向かって訴求し続けたわけであって、あなたのそれとは異なる
分野だろう。同じ実存というワードが絡んでいるからとはいえキルケゴールスレに
おいて異分野を持ち込まれても首肯しかねる。 ニーチェは神の死を宣告し、自らが最初のニヒリストである事を明らかにした。では神
とはなんで、そして何故死んだのか。その疑問を紐解く鍵がギリシャ悲劇にある。
ギリシャ悲劇とは人間の生存という悲劇を表したものであり、そこにこそギリシャ人の
偉大さがあった。なぜなら一見ギリシャ文化は華やかで、アポロン神に象徴される
ような芸術活動が光り輝いていた。しかしそれは端的に明るいのではない。それは
ギリシャ悲劇で表されるような、人間の生存における苦しみに耐えうるべく、産出
されたものだったのである。アポロン的にあるだけでなく、そこに奥行きがあると
いうことがギリシャ人の偉大さであった。この様な人間の生存における光と影を、
ギリシャ人は教えてくれる。 人々は意志によっては生まれない。それは不条理に基づいており、この虚無は悲劇だ。
アポロン神に象徴される光は、影を耐え忍ぼうというものであり、それはこの影にこそ
生み出されたに過ぎない。ではこの影とは何か。これこそ人間の本質であり、借り物に
過ぎないアポロン的な相対性とは異なる、絶対的なものである。
人間の本質とはアポロン的な表層的なものではなく、その奥にある根源的なもので
ある。アポロン神と対置して、ここで出てくるのがディオニュソス神だ。この神は
自我を殺すものであり、言葉を滅殺するものであり、忘我の境地で陶酔感を与える
ものだ。人間の誕生という不条理がなかったならそれこそ最善だったのかも
しれない。しかし既に存在している人類にとって、次善はディオニュソス神と共に
あることであり、根源的なものと合一するということではないのか。この
ディオニュソス神の与える生き方こそが、人類を何百万年も維持させてきたのでは
ないのか。生存の悲劇を真に救うのはこの神なのである。キルケゴールは自己超克
より高次の自己没落を知らなかった。だから実存する自己に拘り続けた。自己を
没落させ言語を解消するどころか、出口のないものに向けて自己超克するように
仕向けた。ニーチェは神に拘りながらも真の神を知らなかった。 ↑
すみません、>>70最後の人名ですが、ニーチェではなくキルケゴールの誤りです。 神は3条件を充たすことで神といわれるのであり、それは一般性・受動性・時間性で
あるということだ。この様な神が人類を何百万年も維持させたわけだが、近代社会に
入ると神は死んでしまった。いや、人類の進化が神を殺したのである。ニーチェの著作
における、狂人の「お前たちに言ってやろう、我々が神を殺したのだ、お前たちと
俺がだ!われわれは皆神の殺害者なのだ!」の一説はこの事を言い表してる。
3条件の一般性とは、全ての人々においてということだ。社会の流動性が低い単純
な社会においては、社会的に振舞うことと一般的に神を享受することが同時に成り
立つ。また受動性とは、神がやってくるということだ。自らが選択するのではなく
選ぶ余地が無いという所に、神の存在が当然である事を表す。また時間性とは、
歴史のただ中に神が出現するということだ。それは仮のフィクションではなく現実
的なものである。この3条件を充たすものが神といわれるのであるが、近代社会が
これを解消した。 キルケゴールにおいては思想こそが実存であって、実態のない形而上学は信仰だと自ら認めてるようなものではないか
そうやって何を言っても曲解する天邪鬼では哲学にはなりえない、ソクラテスのやりかたから勉強し直せ >>73
天邪鬼とレッテル貼りする前にどれだけあなたは私と議論を交わしたのか。ほとんど
交わさないうちにレッテル貼りするのは議論を回避しているようにしか思えない。
またあなたは思想や哲学の概念を理解していないようだ。思想とはこの文脈では人類
全体を導くような発想のことで、実存そのものが思想なんて基本的な国語力が欠けて
いるようにしか思えない。また哲学は主観性であるから事実問題は科学に委ねるべき
も、哲学を通俗的な人生哲学か何かと混同してるようにしか思えない。そもそも哲学
を部門ごとに分けたのが科学であって、哲学もまたどこまで行っても事実問題だよ。 社会の流動性の高まりは社会を維持するために、成員各々が多様な生活をする事を
もたらした。もしかつてのように社会の成員全てが集まれば、今日の複雑な社会は立ち
行かなくなるだろう。神は最早成員全てではなく個別的な出会いになったのである。
こうして一般性は廃棄される。また自ら神へ赴くということは、成員に無神論の立場
を与えることである。無神論の立場にあるものが、敢えて神へアクセスしようと
する。しかしそれは一時的な気晴らしであって、再び着地するのは無神論の立場だ。
こうして受動性は廃棄される。また空間的にアクセスするということは、神を相対化
するということである。神へアクセスしてもいいし、しなくてもいい。行きたい時に
自己都合で合一すればよいのだ。こうして時間性は廃棄された。しかし一般性でなく
受動性でもなく時間性でもないようなものは、神ではない。これは神の取り違えで
あり、無の信仰でしかない。
こうして一般性・受動性・時間性である神は近代社会に殺され、個別性・能動性・
空間性となることで偽神となったのである。現代の我々が崇めているのは神とは
無関係な何かであって、今日も神は死んでいる。 ひらひらのついてる枕とひらひらのついてない枕って
なにが違うの?? >>74
事実があるのではありません♪😊
あるのは解釈だけです。🍸 化粧品とか化学の方がいいんじゃない。科学は地球自身。 神は意味で捉えることは出来ない。意味とは目的合理性のことだ。つまり例えば人は
虫を捉えようとして網を振りかざす。確かにそれで虫を捉えることはできる。捕獲
するという目的を掲げて、それに対して合理的にアクセスすることで虫は捕らえられ
うるのだ。しかし神は違う。
神は確保しようと思った途端に手からこぼれて落ちてしまう。神を目指し努力した所
で神は網の目からこぼれてしまっており、いくらそれを振るっても捉えることは
出来ない。優れたキリスト者であるキルケゴールは神の捕獲に挑戦した一人である
が、彼の挙げた提案は「死後に神を確保する」というアクロバットであった。これは
彼自身が意味的に神が確保できると考えていたのではなく、現世で確保することが
不可能であると自覚していたからこそ、信仰というアクロバットに依拠せざるを
得なかったのである。 この様に神の確保を目標に掲げた時点でそのこと自体は神とは無関係になる。神を
目指すということ自体が新たなる偽神の捏造であり、ニヒリスティックな振る舞いで
あり、神殺しなのだ。意味的にアクセスする神などは無への信仰という気晴らしでしか
ないだろう。では意味で捉えられない神とはどのようなものなのだろうか。
それはこちらから探したり、確保するものではない。神は確かにおり、いつでも
感じられるのだ。神が感じられるというのは無神論の立ち位置がまずあり、そこに
侵入してくるということではない。神は常にいるという関係性を示すということだ。
太陽が明日昇る事を疑う人間がいるだろうか?神はあり、神は探すものではなく
感じられる。受動性としての神がここに示される。 >>78
事実が何を指すかと言うと、客観性だよな
万人が妥当すると認めたものが事実と呼ばれる概念に過ぎず
そういうことは自然科学を始めとした非哲学に任せておけば良いのであって
あえて哲学でする理由はない >>82氏に論理的でない部分が3点ある。
第1点は議論もろくに交わさず早々にレッテル貼りをして結論付けたのは、
議論回避なのではないのかという点。都合悪い部分を無視しているのか。
第2点は哲学については論及するのに思想に関しては無視をしている。
これは自らの非があるのを内心認めているものの表明したくないからなのか。
第3点は哲学は科学に先鋭化したものの、その諸科学をつなぎ合わせた
世界観についての学問としてその役割を維持しているということ。例えば
唯物論であれ力学ぐらいしか科学が発展していないときは、哲学の出した
答えは機械論的唯物論だったりするし、近代的認識論も眼球を取り出し
たりして発生したものだし、ソクラテスの想起説も魂云々の科学レベルだった
から生じたもの。
この様にその時代の諸科学をあわせて打ち立てられた世界観を形成する
のが哲学だ。哲学がその様なものであるからには科学と無縁でありえるわけ
がないし、そもそもある観念が生まれるのはそれを反映する立場があるからで
あって、観念の内だけで留まるのが哲学というのは、ある種のイメージに絡め
取られているだけだ。
3点について反論を待ちたい。 医療関係者が またなんかいってんのかハゲ言ってんじゃろ!! 神は彼岸にいるのではない。少なくとも人類を何百万年も支え続けたあの神は、現世に
存在していた。では神が彼岸に追いやられたのは何故か。それは現世で神が死んだが
ゆえにその代わりを望んで、そこでまがい物をこしらえてその代替としたに過ぎない
のである。
今日崇められている神はまがい物であり、代替品である。この様な現世で捉えられ
ない彼岸の神は、実は無なのだ。彼岸の神を掲げることを謳うものは、現世で神を
獲得することの不可能性を担保しつつ、現世で権力を獲得する。 86.
キルケゴールが自分を否定して、人間を否定したときに、
そこに存在するものは何か。
それが神である。
そこに存在するものは、全宇宙だ、と言うバカもいる。 >>87さんの言われていることは少し違うと思っていて、つまりキルケゴール
が自己を否定したのは事実だと思う。なぜなら現世で神を確保するのは無理
であることを知っているから。そこで彼が望みをつなげたのが神人イエス
であって、すなわちイエスの真似人として自己を捉えなおすということ。
だから>>87さんのいう自己否定からの新しい自己肯定が神につながる可能性
であるというのなら賛同します。 あの人類を支えた神は、その人類によって今日死んでいる。そしてその神が復活すると
いうことは、けして他の何かによって代替するということではない。それは彼岸の神
でもなければ、神を僭称する教祖でもない。それは人類史に則った現実のあの神なのだ。
神とは皆のものであって初めて神といわれる。皆の神というのは通用的なものであると
いう意味だ。通用的とは自明性のことであって、これはつまり我々に通低する価値観
や概念の枠組みにおいて、神が受け入れられているということだ。 ハイヤーセルフとは自分の魂の高い波動のところです。
「大霊」「真我」とも言われています。
魂の低い波動のところを自我という。
ハイヤーセルフはどんな時に繋がるかというと
のんびりしてる時に、リラックスしてる時に。
ハイヤーセルフこそあなたを最高に愛してくれるのです。 我々の個人の認識と思われているものは実は個人の認識ではなく、実は我々の認識の
影響を受けている。例えばある認識に対して議論しあえるということそれ自体が、ある
種の同型の価値観や概念を前提に行われているわけだ。犬/猫という概念があったと
して、そこでは確かに微妙な食い違いはあるにせよ、大抵は共通する線引きが
なされており、犬と猫で分けて考えられる。その様な前提的な枠組みを我々は無意識
的に採用して生活を送っている。
この様な個人の認識に先立つ、無意識下における我々に共通する通用的な価値観や
概念は共同主観性といわれるのだが、皆の神とはこの様な共同主観性が関わって
くる。すなわち時には不協和が先鋭化して更新を迫られることはあるものの、通常は
前提の枠組みとして無意識下に存在する共同主観性において、神が懐かれていると
いうことが皆の神ということなのだ。あれは犬/猫であれ、今日は暑い/寒いであれ、
あの人は美人/不美人であれ、それは自明なことである。それと同様に神はいると
いうことが自明なのである。 繰り返し神とは何か、という問いについて答えるなら、それは3条件を充たすもので
ある。この条件とは受動性・時間性・一般性を充たしているということだ。受動性とは
「追わなくても存在する」ということであり、時間性とは「選択するようなものでは
なくそれでしかない」ということであり、一般性とは「個人の認識ではなく皆の認識
においてつまり自明」ということである。これが神の正体であり理念であるとする
なら、前近代における現実の神とはどのようなものだったのだろうか。
まず人類においてはハレとケがあり、これは非日常と日常のことだ。日常とは刺激の
無い普段の生活であるが、しかし人はそれだけだと生存実感を失って生きることが
出来なくなってしまう。もし日常、すなわちケだけだと自らが生きているのかどうか
分からなくなってしまい、気が狂ってしまうだろう。そこで人類存続の課題は常に
ケを維持するためにハレを獲得することであった。 95.
それは神の属性である。
そこには神の内容が省略されている。 >>96
神とは何かについてはもう語られていて、すなわち神が自明の存在として感じられて
いるということ。根源的なものすなわち共同主観性として神の存在が刻印されていると
いうことです。信仰は不信を解消する為の運動に過ぎず、最早不信が滅殺されて自明に
なっている状態が超人です。そこでは全てが肯定されており、何が起きても神の与え
た意味として収斂されるから、十字架の上でも「神はなぜ私を捨てたのか!」とは
いわない。全身汚物まみれでも困窮にあえぎ飢えて死ぬ瞬間も幸せと感じられる。 97.
神とは何か。
神の与えた意味、か。
それは迷信である。
なんでか。
神は信仰の対象ではないからである。
それでは何か。 ちゅん太郎がキリスト教徒で聖書のとおりに
神を信じるなら、キリスト教的に救いもあるかもしれないが、
哲学的概念としてだけの神を語ったところで、そこに救いはあるのか?
哲学なんてそもそも無益なものだから、そういう営為も
否定はしないが、自分だったら空しいなと思った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています