仏教哲学総合スレ4
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別に一切の形而上学的議論を排斥してたわけではないぞ、実際原始仏教聖典の中にも形而上学的議論と呼べるものは出てくる
バラモン教に対して相対的に形而上学的議論は程々にしてもっと実践的にやろうということだ >>643
インドでは聖者らしく振る舞えば施してもらえるから食うには困らない
その上で目指していたのは苦の滅却 暗記しただけの知識しかない波平、
底辺だからこそ妬み、苦しむ、そして5chにその負の感情をぶつける
その行動は量と質から考えればわかる、底辺で彼が苦悩している地獄の様子、
その自分で行う自分への呪いは永久に続く、死ぬまで。 >>643
自分が前提にあって他の生命のことも考えるのが仏教の基本だけどそういう話知らない? 明日2月24日(土)21:00より、TBS「世界ふしぎ発見!」にて「超人 空海 唐留学の謎に迫る!」が
されます。映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』も24日公開です。
TBS HP http://tbs.co.jp/f-hakken/ 仏教は自己の内面の変革を起点としている
自身の心もままならないのに上から目線で社会をどうしてやろうなんてのは
傲慢な態度で大乗仏教ってのが行き着く所は必ずカルトになる
まず、自分の愚かさを認めるところからだな >>652
大衆化という点においては大乗の中の大乗といえる浄土真宗の宗祖は自分で愚禿親鸞と名乗ったのだが 呪術 呪詛 カポエラ系ブレイク ダンセ 呪い 祈り 解く 謎 解く 世界九位の次のなぞめいた。 王が賢者に人生について説明を求めた。
超長文だったのでもっと短くせよと命じた。
それも長文だったので再び短くせよと命じた。
王の寿命もあとわずかという頃、返ってきたものは
4文字だった。それは「生老病死」だった。
ーーー
こんな話をどこかで読んだ記憶があります。
出典はわかりますでしょうか? 古典サンスクリット語を学ぶためにパーニニスートラを勉強したいのですが、初学者にわかりやすい参考書、論文を教えてください。できれば和文それが無理なら英文のものがいいです。VasuやKatreの英訳を見たのですが、いきなりこれから始めるのはちょっとハードルが高いです。 660.
生老病死、か。
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではないよ。 663.
心根の卑しい人間だけが悟れる、のだよ。
バカには理解できないよ。だからして悟れない、よ。 そこは馬鹿だから悟れると言うべきだろうな、南宗の慧能なんかは
文字も読めないで悟りを得てるんだが禅ではそういうことが多いことも知らないんだろう
だから君は悟るのに適してる、現代社会で無学なのは辛いけどね 煩悩こそが悟りの種
煩悩離れて悟りなし
煩悩即菩提 ほんと馬鹿だな
煩悩即菩提が示す煩悩ってのは、悟りたいという一心のことで
金もちになりたいとか、いい女を抱きたいとか
世俗的な欲望を指すのではない 悟りたいと思う気持ちは発心(発菩提心)
煩悩は純粋に煩悩だよ、煩悩即菩提においてもね 煩悩は切っ掛けだと言ってるに過ぎないよ
悟りたいという欲求が悟りに向かわせると言うのは極めて妥当だが
腹減ったとかそんなものは仏教には関係ないし
純粋な煩悩なんか相手にしてない 666.669.
煩悩は悟りの一部ということであるよ。 悪さをすれば成仏できると勘違いした無法者がその通りのことを実行した
親鸞の悪人正機説と同じだね 671.
煩悩を排除する論理の問題であるよ。
親鸞の悪人正機説は一部正しい。
だが、南無阿弥陀仏で救われることはないよ。 仏教では、煩悩(ネガティブなエネルギー)を
ポジティブなエネルギー(菩提=悟り)に転化するということをやるね。 >>673
直接煩悩を大欲という衆生救済への大きな欲望に転化するとなると仏教のなかでも密教になるね
>>670
それも間違い
分かっててわざと間違えてるのかどうかは知らないけど 673.
転化、か。
エネルギーの問題ではない。
内容の問題である。
悟りの内容は全部を包含する、ということかも。 >>674
> 一切の煩悩は、これは如来の種なのです。 大乗仏教は救済と布教ばかりで悟りを軽視するし仏教の本質から離れてる そもそも悪の明確な定義は法と倫理と道による後付けであって、自然界では食べられるのも善であり悪で、食べるのも善であり悪 >>681
そういったことは自然から離れて暮らすようになった人間には既に当てはまらない
人には善悪感覚が必要だ 立場、思想が違えば人間社会でも善が悪で悪が善はある 531 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2018/03/04(日) 17:54:37.80 0
底辺、好きな人と付き合いたい。
底辺、人の気持ちを考えるだけで、セックスとかめちゃくちゃ下手だお(о´∀`о)自信もないし、やりたくもない。正直、いまとなっては、乳首舐められながら手コキされたいくらいしか欲はないおな。気持ち悪くてすまんが。
底辺、誰かと付き合うのは本質的に無理だと思う。
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1519363752/531 空海
(1)ちくま学芸文庫 (2004-13) 宮坂宥勝、頼富本宏、福田亮成
『空海コレクション 1 秘蔵宝鑰 弁顕密ニ教論』
『空海コレクション 2 即身成仏義 声字実相義 吽字義 般若心経秘鍵 請来目録』
『空海コレクション 3 秘密曼荼羅十住心論 上』
『空海コレクション 4 秘密曼荼羅十住心論 下』
(2)角川ソフィア文庫 (2007-15) 加藤精一
『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』
『空海「性霊集」抄 』
『空海「三教指帰」』
『空海「般若心経秘鍵」』
『空海「秘蔵宝鑰」』
『空海「弁顕密二教論」』
(3)筑摩書房 (1983-86) 弘法大師空海全集編集委員会
『弘法大師 空海全集 全8巻』
(4)
『空海 (KAWADE 道の手帖)』 河出書房新社 (2006)
世界的な思想家として空海を捉え直す。
インタビュー・中沢新一、前田英樹、竹内信夫、落合仁司、井筒俊彦、中村元、司馬遼太郎×福永光司、五来重、松岡正剛、幸田露伴など。
1〜3は翻訳。4は解説本。
文庫本も哲学的で読みやすいが、
空海全集は別次元。日本語で書かれた本としてもトップクラス。 ブラタモリ「#82 高野山」
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=jjh5738&skey=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%80%80+%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1&prgid=55139670
ブラタモリ「#83 高野山と空海」
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=jjh5738&skey=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%80%80+%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1&prgid=55170490
ブラタモリ「#84 高野山の町」
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=qkfn&skey=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA+%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1+84&prgid=55199852 _胎蔵界曼荼羅____東___________最
| __________ __________ 外
|| |______文殊菩薩_文殊院_| |院
|| |_釈迦院__釈迦如来_____| ||
|| | | 遍智院 | | ||
|| | |____△____| | ||
||地 | |弥勒 宝幢 普賢| |除 ||
||蔵 |蓮華| |金剛|蓋 ||
北 院 |部院| 天鼓 大 開敷 |手院|障 南
|| | | 雷音 日 華王 | |院 ||
|| | 中 台 八 葉 院 | | ||
|| | |観音_無量寿_文殊| | ||
|| | | 持 明 院 | | ||
|| |__|_________|__| ||
|| |______虚空蔵院_____| ||
||__|______蘇悉地院_____|__||
|___________ ___________|
西
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/Taizokai.jpg _金剛界曼荼羅____西___________
| ____________________文様帯
|| | | ||
|| | 大日 | ||
|| | 如来 | ||
||四印会___一印会_____|理趣会___||
|| | 阿弥陀 | ||
|| | | ||
南| |宝生 大 不空| |北
|| | 日 成就| ||
|| | | ||
||供養会___成身会_阿しゅく|降三世会__||
|| | | ||
|| | | ||
|| | |降三世 ||
||微細会___三昧耶会____|三昧耶会__||
|_______________________|
東
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Kongokai.jpg >>690-691
胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、
金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。 仏教に描かれる性の問題
『セクシィ仏教』 愛川純子、田中圭一 (2012)
『セクシィ仏教2』 愛川純子、田中圭一 (2012) ・顕教
教えを求める者すべてに開かれた教え
すべての衆生に対しその能力に応じて説かれた仏の教え
・密教
灌頂という入門儀礼を通過した者以外には示されない秘密の教え
言語を超え、凡夫の理解を超えた悟りの教え 顕教と密教
歴代のダライ・ラマを輩出したチベット仏教の正統派であるゲルク派の開祖ツォンカパは、
密教を顕教よりも高い位置に置いたが、
密教は顕教を修めた後に初めて学ぶことが許されるものであり、
仏教の土台は顕教にあるとした。 道元/正法眼蔵
『正法眼蔵 全8巻』 増谷文雄、講談社学術文庫 (2004-05)
『現代文訳正法眼蔵 全5巻』 石井恭二、河出文庫 (2004) (現代語訳のみ)
『「正法眼蔵」読解 全10巻』 森本和夫、ちくま学芸文庫 (2003-05)
『道元禅師全集:原文対照現代語訳 全17巻』 水野弥穂子ほか、春秋社 (2002)
『正法眼蔵:現代語訳 全6巻』 玉城康四郎、大蔵出版 (1993)
『正法眼蔵 全4巻』 水野弥穂子、岩波書店 (1990-93) (現代語訳なし)
『現代語訳 正法眼蔵 全13巻』 西嶋和夫、仏教社 (1978-87)
『全訳正法眼蔵 全4巻』 中村宗一、誠信書房 (1971-73)
『正法眼蔵:全巻現代訳 上・下』 高橋賢陳、理想社 (1971)
『Shôbôgenzô, la vraie Loi, Trésor de l'Oeil 全8巻』 de Dôgen、Yoko Orimo (2005-16) 道元は沢山の名文を残しているし、
訳者によって見方や解釈に違いもあるので、全部読んでいくしかない。
禅的な思索というのは、日常言語からかけ離れたところにあるのものだから。 眼横鼻直なることを認得して、人に欺かれず。|夢中説夢
https://ameblo.jp/70702/entry-10758775101.html
「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」道元禅師
ameblo.jp/kikouhealing/entry-12210353615.html
道元禅師が、中国で悟り、帰国したときの 言葉で、「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)」と
いうのがある。 道元 禅師は、経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ「目は横に、鼻は縦についていることが わかって、
空手で帰ってきた」と言った。
〈師 (道元禅師 )は嘉禎二年 (一二三六 )十月十五日に 、当山 (興聖寺 )の仏殿 ・僧堂 ・法堂等を開堂
するにあたって 、香を焚いて祝聖を行われ 、これを終えて上堂された 。 「山僧 (私 )は 、それほど多くの修行
道場を巡り歩いたわけではないが 、ただ 、たまたま先師天童 (如浄禅師 )にお会いすることができて 、たちどころ
に眼横鼻直というあたりまえのことをはっきりと会得して 、それ以後は誰にも惑わされることがなく 、何も持
たずに日本の故郷に帰ってきた 。だから 、特別に持ち帰ってきた仏の教えというものは 、ほんのわずかもない 。
今は過ぎゆくままに時を過ごしているだけである 。毎朝 、太陽は東より昇り 、毎夜 、月は西に沈んでゆく 。
雲が晴れ上がると山並みが現れ 、雨が上がり青空が広がると四方の山々が低く見える 。結局 、どういうことか
というと … … 、三年経つと閏年があるし 、鶏は毎朝五更に鳴く 。久立を感謝します 」と言って法座から下り
られた 。その他の謝詞は記録しない 〉
師 、於嘉禎二年丙申十月十五日 、就当山開堂 。拈香祝聖罷 、上堂 。山僧歴叢林不多 、只是等閑見天童先師 、
当下認得眼横鼻直 、不被人瞞 、便乃空手還郷 。所以一毫無仏法 。任運且延時 。朝朝日東出 、夜夜月沈西 。
雲収山骨露 、雨過四山低 。畢竟如何 。良久云 、三年逢一閏 、鶏向五更啼 。久立下座 。謝詞不録
( 『永平元禅師語録 』 、春秋社本 『道元禅師全集 』第五巻 )
禅のすすめ 道元のことば (角川ソフィア文庫) Kindle版
角田 泰隆 (著) _,_
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| 美 | ♡モルゲッソヨ♡
| 魔 |
| 女 |
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_ | . |、_
/´`' l | ヽ
{ , i/ ヽ/. ` 、 ..;;l
. | ,´ i, ;;|
l. { ░▓░ l ░▓░ l リ
| ヽ__ __人_ __ノl 〉
l´ | 〉 ̄- l - ̄''";l i
| .i/ ;ヽ、.| “ギリシャ正教の修道院における祈りは、ヘシュカズムと呼ばれる行法に則って行われる。
ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ語でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、
イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐み給え。」を繰り返し称える行法である。
その際、自己の内面への精神集中の一助として、座法や呼吸法をともなった精神身体技法、心身技法を援用する。
イスラームはスーフィズムのズィクル(神の名の連禱)や仏教は真言密教の三密(身、口、意)瑜伽行とほとんど変わる処はない。”
― 『ギリシャ正教 無限の神』 落合仁司 (2001) >>704
ズィクルと真言密教は同根だろう。
前者は井筒、後者は小滝がそれぞれ詳しい。
『イスラーム哲学の原像』 井筒俊彦 (1980)
『密教とイスラーム 高野山修行記』 小滝透 (1987) とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
1VIMI 慈悲、か。
その慈悲の主体が問題となる。
その主体は人間ではないよ。 無始無終、か。
その主体が問題となる。
その主体は人間ではないよ。 安心しろ、多数決ではなく貴様は普遍的、一般的に
他の追随を許さぬアホだ http://www.biwako-trust.com/btrust-articles/f330-1.pdf
●比叡山延暦寺はおみくじ#ュ祥の地 (大津市比叡山 延暦寺)
神社仏閣におまいりするとつい引きたくなるの
がおみくじ=Bそのおみくじの祖は比叡山延暦寺を中興した元三大師良源(がんさんだいしりょうげん)という高僧。
平安時代中頃(10 世紀中頃)経済的にも精神的にも疲弊荒廃していた延暦寺を天台教学の場として立ち直らせ、
僧はもとより多くの民に尊崇された方だ。 おみくじは元三大師が観音さまから授かったという五言四句の偈(げぶん)
文百枚が起源。これを江戸時代初めの僧天海大僧正が大師のお告げで発見。これが「元三大師百
籤 (ひゃくせん)」となり、番号のところに記された偈文を人々は人生の指針として頼みとするようになった。この元三大師百籤は
次第に天台宗以外のところでも使われるようになって、おみくじ≠ニして広まっていった。なので、比叡山元三大師堂
のおみくじは、自分が引くのではなく、お坊さんが引いてくれた籤を戴き、そこに書いてあることの教えを受けて、我
が心の指針とする。
因みに、魔除けのお札とされる鬼の姿の角大師(つのだいし)は元三大師が疫病神を退散させたときの
姿で、これを戸口に貼っておくと厄難が近づかないと言われている。 『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
あと、ブログよろしく!
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/ おれ悟ったんだけどwww、何か相談ある?
あと、ブログよろしく!
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/ NHK 100分 de 名著 法華経 2018年 4月 [雑誌] (NHKテキスト) Kindle版
第三章 「譬喩品(ひゆぼん) 」 (第三 )
「三車火宅(さんしゃかたく)の譬え 」
…続けて釈尊は言います 。
「その時 、舎利弗よ 、その資産家は 、腕力が強いのに 、腕力を差し置いて 、巧みなる方便
によってそれらの子どもたちを 、その燃え上がった家から脱出させ 、脱出させて後に 、それ
らの子どもたちに立派な大いなる乗り物を与えた 。まさにそのように 、舎利弗よ 、正しく完全
に覚った尊敬されるべき如来もまた 、如来の智慧の力と 、四つの畏れなきことを具えている
のに 、如来の智慧の力と四つの畏れなきことを差し置いて 、巧みなる方便という智慧によっ
て 、屋根と覆いが燃え上がっている老朽化した邸宅のようなこの三界 ( * 3 8 )から衆生を
脱出させるために 、三つの乗り物 、すなわち声聞のための乗り物 (声聞乗 ) 、独覚果に
到る乗り物 (独覚乗 ) 、菩薩のための乗り物 (菩薩乗 )を示されるのである 」
資産家は自分で子どもたちを抱えて連れ出そうと思えばできた 。でもそれをやらなかった 。
ここに仏教の特質が出ていると思います 。相手が納得していないのに強引に外に連れて行
くのではなく 、子どもたちが自分で自覚し 、自分たちの意志でそこを抜け出してくることを尊重
しているのです 。つまりここで釈尊は 、超能力や神がかり的な救済を説いたのではなく 、
方便など言葉を駆使して 、子どもたちの自覚的行動を促したのです 。
* 3 8三界仏教の世界観で 、悟って成仏することのできないすべての衆生が 、生死流転
する三つの迷いの世界 。欲界 (欲望にとらわれた境涯 ) 、色界 (欲界は超克しても 、なお
物質的制約を受けている境涯 ) 、無色界 (欲望も物質的制約も超克した純粋精神の境涯 ) 。 キリスト教のGod brass youとか、イスラム教のアッサラーム・アライクムみたいに他人の幸せを日常的に祈る挨拶みたいなので、仏教には何故ないの? >>726
印度の挨拶は「ナマステー」。
それで足りないとしても、
祈りの表現を、そうした慣用句として使わず(→形だけのものにせず)、
都度都度明確に言葉にするから、定型表現が形成されなかった、
ってことじゃね? ありがとう!
でもやはり弱いですね〜。
定型化したくないというのもわかりますが、他方、南無阿弥陀仏的な定型文はいくらでもありますしね。
やっぱり無いのかな、定型文は。 佛とは嘘で在り、悪で在る。
仏教なる名目に於いて一般労働からの逃亡を謳歌せし僧侶達は常に自己と周囲を欺く。
何ぞ反動的冒険を行えど、其れすら仏道の証と決定し、粉飾に塗れた生涯の一頁に刻むのだ。
例を挙げん。特権階級は道義的な労働条件から全く逸脱した人権の蹂躙たる酷使や富の再分配を忘却した独占主義なる犯罪行為に手を労働者の血で染めては其れを「ノブレスオブリージュの代償」と呼ぶ。
労働争議で被虐者が起てば、工場は生産是れ唯一の場所に非ずと言い出す。
資本家は青春の二文字をさも金科玉条かの如くに思慕し、如何なる一般的解釈も社会通念も屈曲する。
支配層に係れば虚偽も欺瞞も、詐術も弾圧さえも青春の香辛料でしか無いのだ。
又、封建領主は其の悪行に、其の詭弁に特別性を見出す。自己の労働からの逃亡は遍く青春の一部分で在るが、労働者の逃亡は青春でなく只の叛逆にして重罪であると断じるのだ。
仮に逃亡する事が仏道の証で在るのなら、資本家化を拒絶した労働者も又青春の中軸でなければ破綻的矛盾を生む。
しかし、肥え太った僧侶共は其れを認め無いだろう。
何の事も在らぬ。全体汚らしい豚の都合主義の範疇を超え無い。畢竟、其れは欺瞞に他成らぬ。虚偽も欺瞞も詐術も弾圧も糾弾される可き物だ。
資本主義は悪の源泉だ。
演繹的にも帰納的にも前衛的に仏道(笑)を謳歌してい無い労働者の方が正当な真理的正義で在る。
結論を言おう。
共産主義こそ根本である。 以下、
「ハリウッド・ゼン」シナリオ、大島渚全集4、280頁より
雪洲「禅師のところに来て、“師よ、私は何も持っていません。どうしたらいいのでしょうか?”
とたずねた日本人の男の話がある。禅師は“全てを捨てよ”と答えたのだ」
参考:
厳陽尊者が、趙州に聞いた、「私は全てを捨てて、何も持っていません。
この先どんな修行をすればよいでしょうか?」。
趙州は云った、「捨ててしまえ!」。
厳陽は云った、「私は既に何も持っていないのに、一体何を捨てたらよいのでしょうか」。
趙州は云った、「それなら、担いで行け」。
世界古典文学全集 第36巻 A 禅家語録 筑摩書房 1972.12 趙州録所収 >>726
願わくは此の功徳を以[もっ]て、
普[あまね]く一切に及ぼし、
我等[われら]と衆生[しゅじょう]と、
皆共に仏道を成[じょう]ぜん(ことを)。
この功徳というのは主に経典読経の功徳をいう
決まった相手ではないが一切衆生に功徳を分け与える(回向という)時の定型文
あいさつには使えないけどね
【回向】
自分の修めた功徳(くどく)を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすること。 禅語
「本来無一物」
http://rinnou.net/cont_04/zengo/1610.html
(『六祖壇経』)
「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」と
トップクラスの神秀上座が言う。これを聞いた寺男の盧行者(後の六祖慧能)は「身体も心もその
ように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ。どうして無いものの上に
塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露した偈の一句。 般若経の中でも奥義が語り尽くされてるのは理趣般若経 理趣経はセックスについて書かれた経典であり、空海はあまり世間に出すには好ましくないとしたものでもある。 >>2にもあった。
『仏教を読む 秘密の庫を開く <密教教典 理趣経>』 花山勝友 本来無一物、か。
本来=根本は無である。
人間は、その無からの距離として測定することができる、ということである。
だからして、無、を理解しないで、修行しても、それは無意味である、ということである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています