仏教哲学総合スレ4
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だな、自己流の解釈で好き勝手なことをやりながらそれを仏教だと言い張るのは図々しい態度だ 哲学を見い出せるかどうかは、 哲学の語彙と文法を持つかどうかによる “「禅定 samādhi サマーディ」は瞑想によって得られる、統一された高いレベルの心の境地です。 恐怖感があると禅定はひとかけらもなくなります。[略] 執着を断って真理を観察する状態(禅定)が壊れてしまうのです。 悪魔はこのことを理解していて「怖がらせてやればいい」と考えたのですから、けっこう頭がよいのです。[略] 阿羅漢はそもそも煩悩をなくしているので、そんな手には乗りませんが、迷惑は迷惑です。 悟っていない人は怖くなって、修行から逃げてしまうこともあります。[略] もし悪魔が瞑想道場にもぐり込んだら面倒です。” ― アルボムッレ・スマナサーラ 『般若心経は間違い?』 (2007) 説一切有部が説く三世に渡って実有の法とはイデアとどう違うのか? イデアは観念論だけど説一切有部は原子論に近いとも聞く 色んなサイトを見てみたけど結局のところは分からなかった 誰かイデアと実有の法の違いを分かりやすく教えてください 説一切有部の説く三世実有は、現象や実体を構成する要素の要素『五蘊』などと言い表しているもの さらにそれを成り立たせている最小のものが存在して常在で不変だと言うこと イデアの真実在は物理的実体を想定したものではない、実体は存在するとしている説一切有部は 観念論とは真逆の立場をとってる 有部の五位七十五法で実体視された75の法 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D 例えば有為法の心所法には受想思欲触慧念などがあるけどこれらは心理学的なものだよね まさか唯物論に沿って、受とか想は現状(これとて実体なのだが)を感受する想念を起こす時の脳内伝達物質の働きや海馬に蓄積されている記憶との関連性によって起こるものという説なわけではないと思うし となると有部のいう実体とはイデアみたいな永遠不変の概念に近いのではないか? 受というのを物質的実体にすることは難しいと思うし俺にはどんなものなのか想像できない 一番最初の大乗仏典が般若経です。 その後、維摩経や法華経や浄土経などの経典がつくられます。 私たちの知っている法華経(クマラジーヴァ訳『妙法蓮華経』)の原典はおそらく西暦3世紀の中葉までに成立したと思われます。 つまり、法華経はブッダの死後およそ400−500年後に、大乗仏教運動の宗教改革者たちによってまったく新しく創作された経典(大乗経典)の一つなのです。 これは「偽経」とも呼ばれ、 それゆえ、「大乗非仏説」(大乗仏教はブッダの教えではない)と主張する人もいるのです。 大乗非仏説というのは、「すべての経はゴータマ・ブッダが直接説いたもの」という建前に拘泥した極めて小乗的なもの 大乗の説くべきは、歴史的ブッダが何を言ったかではなく、ブッダとはそもそも何であり、ブッダは何故にブッダなのかということ 般若経ではそれは阿耨多羅三藐三菩提であるとしたが、法華経は更に進んで久遠実成のブッダであるとした ここにおいて仏教思想の頂点に至ったのであり、それゆえに法華経が最上の経典と言われる >法華経が最上 は、自称である。華厳経が上という人もあれば、密教が上という人もいる。 経典の高低論争ほど無駄なものはない。 中国佛教の影響を受けた我が国の佛教の考え方も概ね「教判佛教」なので、 天台宗出身の日蓮が「法華折伏破権門理」の天台の言葉を崇めて、 末法の世には『法華経』に帰依して「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしか救われる道は無く、他の経典を尊重している宗派は全て邪宗である。 として、彼独自の宗旨を建立したのです。 要するに天台大師も日蓮も、 インドに於ける経典成立の過程を知らず、 サンスクリット語の原典を読んだ訳ではないのです。 ことに『法華経』は「諸経の王」と言う文句がクローズアップされて、 この経典を翻訳した羅什三蔵は「創作経典の創作的翻訳」と西洋の研究者から後世に揶揄されるくらいに、中国人好みの文学的翻訳を行いましたので、 彼の翻訳した『妙法蓮華経』の評判は当時の中国に於いては高かったのです。 また、権威付けの為に「四十余年未顕真実」の文句のある『無量義経』というメイドインチャイナの経典まで偽作されて、いよいよその権威は高まりました。 法華経方便品の「正直捨方便」の真実 坂本・岩本訳注「法華経・上」(岩波書店)のサンスクリット語に対応した和訳が分りやすいので引用します。 『そのとき、余はうれしくなり、自信をもち、ためらう心をすべて捨てて、仏の息子たちの真中で教えを説き、かれらに「さとり」を勧めたのであった』 となっていて、それ以前に何か説かれていたものを、捨てるべきであるというような意味は含まれてないことが分ります。 「ためらう心をすべて捨ててかれらに「さとり」を勧めた」という原意を、正直捨方便という漢訳語に引きずられて、 『方便を捨てよと説かれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよと説かれて候』(「南条兵衛七郎殿御書」日蓮)と誤解してしまったのも分らないでもないですが、 もし、そうであるとすれば、声聞、縁覚に対する教えや二乗作仏という法華に見える思想は、如何に解釈してよいのか?となります。 法華経くらい中身のない経典は無いと言われてるね 主な内容と言うと、SFチックな描写を用いた自画自賛の嵐 とにかく、この教えこそが最高であると繰り返されるのみ そんなものを唱えてどうなる 日蓮は、法然のやりかたを丸パクリしながら批難の対象としている節操のない人間で 南妙法蓮華経は念仏のパクリだし、その排他主義においては念仏以外の雑行を 捨去れとする浄土宗の捨閉閣抛まんま 法華経を正統づけんがために書かれた、『立正安国論』に引用される多数の経典には 正法とは釈迦の教えのことを指しているとは書かれてるが、法華経だけが正法であるなどとする 記述などどこにもない、法華経を国教としなければ元寇で日本は滅び去るという予言も外れ すべて嘘八百です。 >>778 『無量義経』には、「四十余年、未顕真実」(四十年の教えでいまだ真実を顕さず)と記述されている これを拠点として、五時八教の教相判釈が天台によって説かれる訳だけど 無量義経が中国で書かれた偽経であることはもはや定説となってるうえに、法華経が順番的に 釈迦の説いた最後の教義であるとする主張にも根拠がないね そもそも、法華三部経の開教が遥か後に書かれた無量義経とだとすることにはもともと無理があるし 無量義経においてすら法華経が正法であるとしている箇所など見当たらない 結論的に、法華経が讃えられている経典は法華経だけであって資料家の日蓮が 何を見て法華経正義を判断したのか、理解に苦しむ。 仏教系の学校で六年間宗教の授業をうけた。 般若心経の研究に生涯をかけても、まだ終わらないのがざらだと言ってた。 サンスクリット語で無という意味の研究だけで何十年もかけてるとか。 最後の授業で、その坊さんが言ってたけど、とどのつまり、屁理屈らしい。 『村上春樹と仏教』 平野純 (2016) 『村上春樹と仏教 II』 平野純 (2016) パンタカ「あばばばばば」 ゴータマ「この布でお掃除してください」 パンタカ「あばばばオソウジタノシーあばばばココロもオソウジするおお」 そしてチューラパンタカは悟りを得ました。めでたし。 「大乗仏教/上座部仏教(原始仏教)」を理解する本 (1)『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016) (2)『別冊100分de名著 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』 佐々木閑 (2017) 1.日本の伝統的な〈仏教1.0〉と、上座系瞑想実践的な〈仏教2.0〉を、共に包み超えて、新たな〈仏教3.0〉を提唱。 2.原始仏教から大乗仏教へ、運用面での思想の変容を中心に解説する、数少ないリアルな仏教史。 上座部仏教(原始仏教、テーラワーダ仏教、ヴィパッサナー瞑想)の本 日本 ・『悟らなくたって、いいじゃないか ―普通の人のための仏教・瞑想入門』 プラユキ・ナラテボー、魚川祐司 (2016) ・『仏教思想のゼロポイント ―「悟り」とは何か』 魚川祐司 (2015) ・『「気づきの瞑想」を生きる ―タイで出家した日本人僧の物語』 プラユキ・ナラテボー (2009) スリランカ ・『自分を変える気づきの瞑想法 ―ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想』 アルボムッレ・スマナサーラ (2015) ベトナム ・『ブッダの<気づき>の瞑想』 ティク・ナット・ハン (2011) >>469 の中でも紹介されてるけど、 ティク・ナット・ハンがいいね。 ヴィパッサナー瞑想について、この人ほど平易な言葉で深い洞察をする人はいない。 そういう話をしながらも、時折、井筒レベルの唯識、華厳から曹洞宗まで、 大乗仏教の理論が縦横無尽に展開される。 臨済宗の人で、世界レベルの叡智。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html 佐倉氏の有名な縁起論です。今はどう言う評価か知りませんが。 龍樹の縁起説が十二支縁起の言い換えである>縁起を因果関係では無く論理的関係として解釈出来なければ言い換え出来ない... と言う風に議論が進行していく訳ですが。 一つ興味深い事に気がついたんですよね。 佐倉氏は「龍樹は初期の縁起説の対偶律を用いて〜」と仰っているんだが 「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(空七十論 11)」という書き方が佐倉氏の論理と矛盾しているんだな。 「ところが、もし、縁起を論理的関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定すると、そのような言い換えが可能であったことがわかります。たとえば、 B : もし食べ過ぎる(P)ならば、腹痛が起きる(Q)。 を、ナーガールジュナふうに言い換えると B’: もし腹痛が起きない(〜Q)ならば、食べ過ぎではない(〜P)。」 しかし龍樹の「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(空七十論 11)」 という「言い換え方」は佐倉氏の「言い換え」と異なっている。 佐倉氏曰く「行がなければ無明も生じないし」の部分が十二支縁起の言い換えに相当するらしいが 後半の「それ(無明)がなければ行も生じない。」をよく注視してみると 言い換える前の直前の文章は「無明があって行が生じる」というもので有ると分かる。 龍樹の空七十論 11をオリジナルに直すと「無明があって行が生じる。それ(無明)がなければ行も生じない。」というもの。 しかし龍樹は 「無明があって行が生じる。」の部分を「行がなければ無明も生じないし」と言い換えている。 これでは佐倉氏が 「まず、縁起を時間的生起関係・因果関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定してみますと、 このような言い換えは不可能であったことがわかります。たとえば、 A : 食べ過ぎ(X)によって、腹痛(Y)が起きる。 を、ナーガールジュナふうに言い換えると A’: 腹痛(Y)がないことによって、食べ過ぎ(X)が起きない。」 として例に挙げているように、龍樹が縁起を因果関係として捉えて言い直している事になってしまうんだが...。 佐倉さんは生きとるんかね... 時間・因果的な十二支縁起の言い換え(2つの文章に関係が無い) 「XによってYが起こる」→「Yが無い事によってXが起らない」 (無明があって行が生じる)→(行がなければ無明も生じない) 論理関係的な十二支縁起の言い換え(対偶の関係・佐倉氏の主張) 「Xで有るならY」→「Yで無いならX」 龍樹が十二支縁起を本当の意味で言い換えているつもりなら後者の解釈しかないが 実際には龍樹は前者の方法で言い換えているんだよね。 じゃあ龍樹は十二支縁起とは全く別の縁起を説いてるのか、と言われるとそうなんだよね... つまりこのままだと龍樹は十二支縁起を対偶律を用いて言い換えているように見えて 実際には全く関係の無い文章を用いて説法している事になってしまう(笑)。 これを回避する(=対偶律を用いた言い換えと見なす)為には 「行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。」 という文章を 「行が『生じなければ』無明も生じないし、それ(無明)が『生じなければ』行も生じない」 という風に書き換える必要性が生じるのだが 誰か「空七十論」の原文を持っていませんかね泣。 「これが生ずることからかれが生ずる」の形式と一致するので無理ではないと思うけれど笑 ちなみに 「行が生じなければ、無明も生じない」と書き直した場合 「これ(行)が生ずることから、かれ(無明)が生ずる」との対偶の関係が成立する。 「AがVするから、BがVする」を丸ごと「XゆえにY」と書き直せるという事。 問題は原文に「AがVする」に相当する文章が有るかどうかだけれど... まあそもそも龍樹は対偶律を用いるつもりが無くて、ハナから逆方向の時間的縁起を展開するつもりだったと解釈すればそれでストップする話なんだけれどね。 以下、『阿含経』より http://space.geocities.jp/buddha_res/2.html (リンク切れ) http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2 「…マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常 なりとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老いはあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩 はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える」 「…マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の 行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存 するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にも なお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するとき にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、 いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」 (増谷文雄訳『阿含経典』p52) 以下、末木剛博(すえきたけひろ)『東洋の合理思想』講談社現代新書33ー34頁より 「…カントはこれら三種(魂、宇宙、神)の問題に一定の解答を与えることは 不可能であることを論理的に証明している。したがってこれらの問題に関 する形而上学は論理的には成立しないといって、形而上学を排除したのである。 これを初期仏教の形而上学批判とくらべると、精粗の違いはあるが、主旨は はなはだよく似ている。初期仏教では形而上学の立場を前述のように常見と 断見との二種に大別しているが、さらにカントのあげた諸問題とほとんど 同じ問題を論じている場合もある。たとえば『中阿含経』の一部の「箭喩経 (せんゆきょう)」では次の諸問題があげられている。 (A) 自我および世界は時間的に、 (1)無限である。 (2)有限である。 (3)無限かつ有限である。 (B)世界は空間的に、 (1)無限である。 (2)有限である。 (C)魂と肉体とは、 (1)同一である。 (2)別異である。 (D)如来(完全な悟りを得た者)は死後に、 (1)生存する。 (2)生存しない。 これらの問題は、カントのあげた問題とは多少のずれがあるが、それは時代と国土 にもとづく関心のちがいである。しかし、たとえば(A)と(B)とは、カントの 第一および第二の問題とほとんど同じであり、(D)の如来の問題とカントの第三の 神の問題とも類似している。 相違点を挙げれば、初期仏教は(A)の問題に対して四種の解答を用意しているのに対し、 カントは、(1)無限であると(2)有限であるとの二つだけを用意し、その二者択一を せまるのである。 『箭喩経』では四種の解答を(A)の問題だけにそろえてあるが、他の文献では、あらゆる 問題に対してそろえている場合もあり、そのほうが論理的には完全なわけである。それで 後世には、この四種の解答、つまり一問題に対する(1)肯定、(2)否定、(3)肯定 かつ否定、(4)非肯定かつ非否定、の四つを四句分別と名づけている。 ともかく、カントの提出した問題と、形の上では多少の差はあるが、本質的にはほとんど同じ 問題をかかげて、しかもカントと同様にこれらの問題に対しては何らの解答も与えられない、 と言うのである。したがって形而上学批判に関しては初期仏教はカントの批判哲学と本質的に 一致するのであり、哲学上は一種の批判主義である。」 座禅の入門書 ・『禅を楽しむ本 』 ひろさちや (2008) ・『禅 ―心と体が綺麗になる坐り方』 池田書店編集部 (2004) 巻末には、参禅できる全国のお寺の一覧もある。 座禅や瞑想は、ちゃんとしたところで教わるのがいい。 800。.坐禅、瞑想は、悟れないバカがすることである。 http://www.hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2508.htm http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/LB-zen-14.html 「糞かきベラ」 ある僧が、雲門文偃(うんもんぶんえん)に尋ねた。 「仏というのは、どんなものですか?」 「糞をかき取るヘラだ!」 −無門関−[第21則] http://www.rinnou.net/cont_04/myoshin/2012-11b.html 禅の修行の中で大切な禅問答の中に、「仏とは何ですか?」と問うものがあります。 それに対し「乾屎*」と答える所があります。この「乾屎*(かんしけつ)」とは、 「糞かきべら」または「糞(排泄物)」そのものを指しております。 … 皆様も今日からトイレに行く度に「仏様に出会う」という心を持ってみては如何でしょうか。 悟るという抽象的で一般化できない現象を他人に対して訴えるべきではないね 大乗仏教は誤りで仏教とは鉄塔鉄扉、自己内省的な取り組み 804.糞をかき取るヘラ、か。 糞をかき取る、と綺麗になる、という問題である。 糞123師をかき取る、とスレが綺麗になる、という問題である。 「老子」 第十六章(抜粋) 致虚極、守静篤。 万物並作、吾以観復。 虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。 万物並び作(おこ)れども、吾は以て復るを観る。 心を出来る限り空虚にし、深い静けさをしっかりと守る。 すると、万物はあまねく生じるが、わたしには、それらが元に返っていくのがみてとれる。 仏典の内容が『老子』と似ているのは、 老子が天竺に赴き釈迦を教化したからであるとか、 釈迦とは西に出た老子その人であるなどといった、「老子化胡説」というのもある。 シュレーディンガーやハイゼンベルク、ニールス・ボーアなどの原子物理学者は ブッダや老荘を読んでいた。 「われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、 大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある 我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」 (ニールス・ボーア Wikiより) “本書を執筆するきっかけとなったのは、五年前のある美しい体験である。 夏も終わりに近いある午後、海辺に腰をおろし寄せくる波を見つめながら、わたしは自分の呼吸のリズムを感じていた。 と、その時、とりまくすべてが壮大なコズミック・ダンスを舞っていることに気がついた。 まわりの砂や岩、海や空気が振動する分子あるいは原子で構成されていること。 その分子や原子が粒子からなりたち、たがいに他の粒子を生成、消滅させつつ相互作用していること。[略] また、地球の大気には「宇宙線」(コズミック・レイ)が絶えず降り注いでいて、 高エネルギ−粒子である宇宙線が大気に突入する時に、衝突を無数に繰り返している…” ― フリッチョフ・カプラ 『タオ自然学』 (1979) >>815 仏教…原始仏教と大乗仏教、禅、華厳 中国…老荘、易経、淮南子 印度…ヒンドゥー、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター これぐらいの話が読み分けられている。 鍵概念は「万物の合一性 the unity of all things」 >>810 >すると、万物はあまねく生じるが、わたしには、それらが元に返っていくのがみてとれる。 これはバラモンのアートマンブラフマン思想に近いのでは? >>818 似てると思う。 老子の道(タオ)というのは、万物の根源、一なるもの、という感じ。 仏教的には、 > 万物はあまねく生じる 現象的意識の生起 > それらが元に返っていくのがみてとれる 心の働きの止滅、寂静、だろうか。 老子には発生論があるが 仏教は発生論を禁じている 批判哲学に近い 道鏡は以下のような図式を持つシステム論だが 道 ┏━┻━┓ 絶対の道 相対の道/政治 ┏━━┳┻━┓ ┣━━┳━━┓ 範囲 体 用 人の道 不道 非道 : ┏━┻━┓ 天下を得る方 天下を得たる後/修身 : ┏━┻━┓ : 積極的 消極的 : ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓ : 方針 教育 法 兵 刑 ┃ : ┃ ┏━┻━┓ ┃ :..柔弱 無欲 無智 ┃ : 等 ┃ ┏━┻┳━━┓ :........嬰児 学問 行為 多言 仏教はそれを禅問答のように内側から破壊する 華厳はライプニッツ的な多元システムだが再帰的である 老子にも逆説性はあるが再帰性とは違う 道教は以下のような図式を持つシステム論だが 道 ┏━┻━┓ 絶対の道 相対の道/政治 ┏━━┳┻━┓ ┣━━┳━━┓ 範囲 体 用 人の道 不道 非道 : ┏━┻━┓ 天下を得る方 天下を得たる後/修身 : ┏━┻━┓ : 積極的 消極的 : ┏━┻━┓ ┏┻┳━┳━┓ : 方針 教育 法 兵 刑 ┃ : ┃ ┏━┻━┓ ┃ :..柔弱 無欲 無智 ┃ : 等 ┃ ┏━┻┳━━┓ :........嬰児 学問 行為 多言 仏教はそれを禅問答のように内側から破壊する 華厳はライプニッツ的な多元システムだが再帰的である 老子にも逆説性はあるが再帰性とは違う ・旧約聖書、新約聖書 ・コーラン、ハディース ・タルムード ・アヴェスター ・仏典(原始仏典、大乗仏典) ・リグ・ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ヨーガ・スートラ ・孔子、老子、荘子、易経、淮南子 ・日本の古典 ぐらいは目を通しておくのがいい。 西田と井筒の間の世代にあたる人達。 宗教哲学を中心とした、西洋と東洋の比較思想を扱うが、今日的で読みやすい。 ・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』 ・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』 ・久松真一 『東洋的無』 ・田辺元 『仏教と西欧哲学』 ・九鬼周造 『偶然性の問題』 ・清沢満之 『清沢満之全集』 井筒のカバラとセフィロト(参考:『意識と本質』 10章) (1)「ケテル Kether」 意味は「王冠」。存在流出の究極的始源。 『旧約』(出エジプト記 3:14)の神言「在りて在るもの」に当たる純粋「有」の絶対的「一」。 仏教でいう「空」すなわち「真空妙有」の「妙有」的側面に当たり、一切の「多」を無文節的に内蔵する。 (2)「ホクマー Hokmah」 「叡智」。仏教の「般若」に相当するが、カッバーラーではこれを神の意識とする。 神が自らを観想するところに現成する知で、絶対無文節的覚知。 イマージュとしては、際涯ない空間の拡がりの中に、独り燦然と輝く巨大な太陽。 この太陽から不断に発生する光線の一つ一つが、もっと下の存在段階で結晶して経験的事物の「元型」となる。 (3)「ビーナー Binah」 「分別知」。神が自らをそこに映して、自らの内面をあるがままに眺める鏡に例えられる。 神は自らの一者性の内に潜む多者を見る。 あたかもプリズムを通った光のように、「神の顔」は無数に分かれ、ここに最初の存在文節が起こる。 密教でいう「種子(ビージャ)」。 (4)「ヘセド Hesed」 「慈悲」。神の創造性の肯定的側面を表し、全てのものに存在を与える。 ・ ・ ・ (10)「マルクート Malkut」 「王国」。先行するすべての「セフィーロート」のエネルギーが一つになってここに流れ込んでくる。 神的実在の世界は「元型」構造的にここで終端に達し、その下には被造界が展開する。 セフィロトの樹:http://blog-imgs-76.fc2.com/a/a/5/aa57/treeofflife20150115.jpg >>827 鎌倉仏教より千年、ついに気づいてしまったか >>830 大乗仏教の如来さんであります、阿閦如来さんの誓願には「夢精しない」「誰にも夢精させない」というのがあるそうです。 阿弥陀如来さんの衆生を極楽浄土に往生させて救済する崇高な誓願も素晴らしいですけれども、阿閦如来さんの誓願には修行者のリアルがあるような気がします。 |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::| ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::| (ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ ゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i )人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/ _ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i /;:;:/゚。 ⌒。゚\;ヽ ヽ_ ノ::``ーー''ヽ _/ |:;:;:;:;Y * /;く;:\ __人 ` ̄´ 人_ |;:ヽ:;:;: \ ̄/;:;/;:;:\ /: : : : : ` " λ : :ヽ: :\ |:;:ヽ:;:;:;:;ヽ/, / ⌒つニ/⌒ ヽ: : : :\ /▼ヽ/: :く: : : \ |;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__ |:;:;:;:\;:;:|| | < __)ゝ__人: : : : : : : ▼// ̄__つ (__) ;:;:;:;:;\:;| | <___ノ (___): \: : : : : :// / < __)(____) ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__) 反 知 性 主 義 者 結局のところ、おまえらが否定しつづけた悟り、悟りとは何かを理解できないことから 始まる あの大仏のデカさがまた、チャーミングだよな おい、こんなでけえのって 俺よりでけえの丸分かりじゃないの “日本語の「心」という言葉は、ふつう英語でmindと訳されますが、 この英語は主として「理性」を意味します。 ところが、禅でいう「心」は意味が広く、意識一般を指します。 たとえば、私たちが「心を静めて調和へ至る」と言うときには、 記憶、想像、感情、さらには理性を含むすべての精神活動を静めることを意味します。” ― イレーヌ・マキネス 『禅入門 カトリック修道女の歩んだ道』 (2009) 3章 >>836 “ある程度の意識の深みに達すると、 リニア思考の嵐は少しずつおさまってきますが、 そのかわり「ランダム思考」と呼ばれる 脈絡のない想念に煩わされることがよくあります。 [略] ランダム思考はさほど不自然なものではありません。 山田耕雲老師はこれを「富士山のまわりに浮かんでは消える雲」にたとえられました。 雲のように漂ってきては、そのまま消え去るのです。”(5章) >>836 “―― 体から光が出るのですか? いいえ、禅ではそれはありません。”(付録1) ここまでのまとめ。 1. 原始仏教に於て説かれた禅定(C)観は仏教独自のものでなく、その当時行なわれていたインドの修法に基づくものであろう。(吉瀬) 2. 仏教が成立した最初の時期には、禅定(C)の修行は行っていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。 すなわちdhyana、yoga, samadhi などである。(中村) 3. 瞑想(C)はその機能から大きく二つの範疇(止観(A,B))に分けられました。(箕輪) 4. samatha(止(A)) というのは、仏教が成立してしばらくたって一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた。(中村) 5. vjipassan(観(B)) という語は、原始仏教においても、かなり遅れて成立した。(中村) 6. 定には種々の使用例があり、止(A) 観(B)もその一部である(吉瀬) 引用論文 1.6. 〜 原始仏教の禅定観〜吉瀬 勝 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_823/_article/-char/ja 2.4.5. 〜 原始仏教における止観〜中村 元 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_24/_article/-char/ja/ 3. 〜 仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── 〜箕輪顕量 / http://zenken.agu.ac.jp/research/42/14.pdf スッタニパータ第四 マーガンディヤ経 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。 想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。 これは心解脱と慧解脱を指していると思われる だとすると最古層の段階で解脱には二種類あると説かれていた 『初期仏教キーワード』 星飛雄馬 (2008) スマナサーラと藤本晃による『ブッダ実践心理学』シリーズのリファレンス本で、 初期仏教の基本的な用語が紹介されている。 この本の中では、89種類のcitta(心)、52種類のcetasika(心所、精神的はたらき)、 40種類のsamata(サマタ、止)瞑想が定義、分類されている。 >>844 これを見ても、仏教がいかに心の分析を重視し、 それを体系的に行ってきたのかが分かる。 キリスト教では、ルターの時代まで、人の心の内は、神のみぞ知る対象だった。 ルターは、 “どのようにしたら人間が人の心を見たり、知ったり、裁いたり、判断したり、 変えたりできるのか、私に言ってほしい。 なぜなら、そのようなことは神のみに帰せられるものだからである。” とし、以下の章句などを引用している。 “すべての人の心をご存じである主よ”(使徒言行録 1:24) “人の心はなににもまして、とらえ難く病んでいる。だれがそれを知りえようか。 心を探り、そのはらわたを究めるのは主なる私である”(エレミヤ書 17:9-10) ― マルティン・ルター 『ルター著作選集』 徳善義和訳 (2012)p409 「この世の権威について、人はどの程度までこれに対し服従の義務があるのか」 「ちんちんとしての仏教」 著 タージ・マハール相川 >>846 >心を探り、そのはらわたを究めるのは主なる私である”(エレミヤ書 17:9-10) これは、心に「はらわた」があると言っているのですか、それとも 心=「そのはらわた」と言っているのですか? 「ちんちんとしての仏教」 著 タージ・マハール相川 「ちんちんとしての仏教」 著 タージ・マハール相川 「ちんちんとしての仏教」 著 タージ・マハール相川 ふぁーーーッ!(笑)大爆笑、面白い、腹がよじれたわーどうしてくれるんだい爆笑王 (艸□`*◆)・゚・ あ゙ぁあぁ゙ああぁぁうあ゙ぁあ゙ぁぁうぁ゙うぁ゙ぁ マハ―ル?よく覚えているよ。牛皮のコート売りだよなあ。5351プールレス オムの。 アバハウスの義経記の下駄とか アローズの虹蛇信仰色ビーサンとか 足元は東京は良いけどなあ。 笑われるな 笑われよ。 笑われるな 笑わせろ。 笑われるな 笑い給うべくなむありけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる