「ためらう心をすべて捨ててかれらに「さとり」を勧めた」という原意を、正直捨方便という漢訳語に引きずられて、

『方便を捨てよと説かれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよと説かれて候』(「南条兵衛七郎殿御書」日蓮)と誤解してしまったのも分らないでもないですが、

もし、そうであるとすれば、声聞、縁覚に対する教えや二乗作仏という法華に見える思想は、如何に解釈してよいのか?となります。