仏教哲学総合スレ4
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心と宗教板の仏教スレで学んでいたんだが、
ほんとうに悟った人の書物を読むと、それだけで宗教体験に
繋がることもあるらしい。悟った人の指導なら、修行の
スピードも速まるらしいし。
そういうのは悟りに導くための方便なので、体験しないと
理解できないのだが、最初はわからなくても何度も読んでいる
うちに腑に落ちることもあるらしい。
ある人は、仏教書を読んで宗教体験して、無我とかが体験的
に理解できるようになり、神経症が治った人もいるらしい。
自分も精神病んでて、深い仏教の力を借りないと無理っぽい
ので、頭で理解しただけの研究者の仏教書とかではなく、
歴史的に有名な仏教者の仏教書を軽視しないで読んでいく
べきだなと思った。
具体的には、「正法眼蔵」を読み始めて一ヵ月で宗教体験が
出た人もいるらしい。悟った人が書いた本物の宗教書に触れる
ことがいかに大切か、ということだ。
仏教は頭だけで考えるのには限界がある。ちゃんとした宗教書
に触れたり、実践する。これは自分への戒めだな。 特に神経症の人には、仏教は向いているらしい。仏教の理解や
実践が、自分の症状の改善でわかるからだそうだ。
>不正をはたらかず、哲学するモノは救われる
おじゃるは哲学系もキリスト教系も、わからないけど
たとえば
罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられた
キリストとかと宗教的な類似性がある
ということかしらん?
(前世は一在家師匠かしらん?)
間違っていたら スマソ m(_ _)m とりあえず、「正法眼蔵」がいいらしい。
曹洞宗の高僧とか、在家の修行者でも、
これを読んで悟りを開いた人が、昔から非常に多いことで有名らしい。
他に、「歎異抄」によって目を開かれたという人は沢山いる。
経典では、「法華経」を熟読することによって
悟りを得た人も多いと言われる。 > 仏教では「経」・「律」・「論」がありますが、
> 三番目の 「論」の中にすぐれた内容のものが多く、
> 特に有名なのが「中論」、「唯識二十論」、「唯識三十頌」 などで、
> それらを研究することによって
> 悟りを得た人たちも沢山いることが知られています。 歎異抄は、やはり内容的に刑務所で好まれるらしい
悪人正機説の誤解を説くのに親鸞がどれだけ奔走したかも理解せずに > 一つ大切なことを書いておきますと、本物の仏教書というものは
> 普通の人が読んでも理解は出来ないということです。難しいという
> よりもチンプンカンプンと言った方がよいでしょう。 しかし、それは
> 当然のことであって、悟り(救い)を知らない人に理解できれば
> 却っておかしいのです。
> 大切なことは 「理解できないまま触れ続ける」 ことです。 河村
> とし子さんも何もわからないまま法話やお姑さんの話を聴き続けた
> 結果、ある時突然にわかるようになったことが書かれていますね。
> 宗教の歩みというものはそういうものです。
> (私も意味などはまったく理解できないまま正法眼蔵を読み続け、
> ある日突然体験が現れたのです。)
>>79 >何かをつかみさえしなければ構成されることはない
本当にできるのか?わからないけど、とりあえず
道元禅師 普勧坐禅儀
たとえば
禅宗系とかの場合の
真如・仏性からの真如縁起によって
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
(心意識が依存している)想いを手放して
(念想観が依存している)想いを手放して
真如・仏性からの真如縁起に気づくこと
余念を交えず、ただひたすら只管打坐
↑美魔女師匠も試してみては?
(おじゃるの場合は無理だけど…) 悟り?
おまえの慈悲と同じ
それこそ「空」
じつに仏教的だな ある日突然光が指してくるような神秘体験のように悟りをイメージしがちだが
ほんとの悟りの姿は日々の体験の延長線上というか今この瞬間にもあるもんだと思うんで
我々は、それに気づかず過ごしているだけだろう 悟るとは悟らないことであり、
悟らないことは悟ったということ ある日突然に世界が開けて一切の苦しみから解放されるそんなSFチックな悟りなどない
お釈迦さまだって、悟った後も日々の生活は続くし、感覚器官が失われぬ以上は
苦痛からは逃れられない 悟ったと言い張るやつに出会ったときいきなりそいつの首を締めにかかれば直ぐに分かる
苦しそうな面して慌てふためく様が見られなければそいつの言ってる悟りは間違いないだろう スピリチュアルが神経症に効果があるかもしれない。
でもそれは仏教とはなんの関係もない。
悟りとは真逆。 悟ったかどうか、わかる簡単な方法は、
誰に挨拶しても嫌な顔されないなら
それは悟り >>102
あまいわ
嫌な顔されても平気でいられるのが悟り
おまえはほんとにダメな子だな >>97、>>100
名札に「禊」とまで書いて、
「慈悲だ、慈悲だ」と言って回っているような奴にはどうするのがいい?
「悟った、悟った」と言ってる奴と何が違うの? >>107
そんなだから
おまえのことを好いてくれる女は
この世に一人もいねーのよ >>108
一時はいたわ。
キミと同じにすんなよ。 >>109
おまえと一緒にいて楽しと思ったことなかったわけよ
全ておまえの勘違い
>>80 >仏教書を読んで
読んだだけで無我とかが体験的できると思えないけど、とりあえず
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派 トゥルシック・リンポチェ
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
− これを対処するために −
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
依他起性している世界の中の
すべて一切の諸法は、夢・幻の如く [ 空性である ] と観照せよ
>>109 禊健太郎師匠へ
美魔女師匠が
禊健太郎師匠の彼女になってくれるかも?
美魔女師匠が女性なのか?わからないけど(冗談でつ スマソ m(_ _)m ) 「ある」「無い」に拘らず
仏教は「中」を説くのです。 顔面が紅潮し、もはや虫の息となってもさらに首を締め続け安らかな死に顔であったならそいつは仏である >>111
「空性」の理解を日常に持ってくるから
可笑しくなる。⭐ 死んだら仏という単なるジョークなんだが、そんな真に受けられても困るが(笑)
>>113 >美魔女もあれで割りときっつい奴やで
そうだったんでつか?
可愛くて優しい黒魔術系の巫女萌え魔法少女系なのかと
かってに妄想しておりました
>>79
美魔女師匠へ
冗談なので
怒らないで下さいませ スマソ m(_ _)m おじゃるも悪よのお
それはそうと
土佐源氏の番組見た奴いるか? おらんのか
仕様のない奴らじゃのー
そんなんでは、俺にすら軽んじられるぞ
>>118 >「空性」の理解を日常に持ってくるから
冗談なので怒らないでね☆彡ということで、とりあえず
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
中観帰謬派
仮設としての
依他起性している世界の中の
世俗の次元においても、自相(自性)を否定します
脳みそが腐っている、おじゃるの場合は
今のところは
『仮設としての』という意味で
地水火風空識の微粒子に依存して
色受想行識の仮和合が現れて、そして滅している
みたいな感じ?でつ スマソ m(_ _)m
おじゃるは見てないけど↓これ?
ttp://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2017-12-23&ch=31&eid=28806&f=20
Eテレ
2017年12月23日(土) 午後11:00〜午前0:00(60分)
88歳で現役の役者、坂本長利さんがライフワークとしているのが一人芝居
土佐源氏
今年で公演50周年、演じた回数は1190回に
記念公演の旅に密着し魅力に迫る
122師匠の感想は?面白かったとか? 裏を返せば
根本無明が無くなった時に存在の意義が分かるんです。⭐⭐⭐
>>126 >根本無明が無くなった時に
そのためには
ヒンドゥー系の導きがよいのか?
上座部系の導きがよいのか?
中論系の導きがよいのか?
唯識系の導きがよいのか?
密教系の導きがよいのか?
それ以外の系統の導きがよいのか?
ということなのでつ
たとえば
おじゃるの場合は
輪廻肯定なので
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性で、おじゃる ヨロ m(_ _)m ジョン・ケージ初来日(1962)〜鈴木大拙との会話
http://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/d4a65ba9f6db638c74436e6215d47a14
【来日したジョン・ケージが鈴木大拙と交わした珍問答】1962年 東慶寺
ケージ コロンビア大学時代(中略)先生の講義の中で、忘れられない言葉は、「山は山で
ある。春は春である」という、あの名句です。私は、そのとき、「音は音である」と霊感の
ように思ったんです。(中略)
鈴木 私はケージさんたちの現代音楽というものは、よくわからないのだけれど、現代音楽
というものは、非常に知的なものだということをいう人があるが―。
ケージ 現代音楽の中には、たしかに、そういうものもあります。
鈴木 ものもありますというと、そうじゃないものもあるわけですか。
ケージ 僕なんかは、それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力して
いるのです。知的なものじゃつまらない。
鈴木 なるほど。
ケージ 僕たちは、音は、ただ音であるようにしたいと思っています。
(芸術新潮1962年11月号「前衛音楽の発想と展開」より)
http://tower.jp/article/series/2012/08/20/silence
http://tower.jp/article/series/2012/08/20/%7E/media/2A187F16FF78474596F627FDBC7AFCD6.jpg
参考:
https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E5%88%8633%E7%A7%92
『4分33秒』(よんぷんさんじゅうさんびょう、4'33")は、ジョン・ケージが1952年に作曲した曲の通称である。…
John Cage "Water walk"
https://youtu.be/gXOIkT1-QWY?t=41s
鈴木はケージに永平寺の暁の行事(午前3時の勤行)を音楽的に賞賛し、鑑賞を薦めている。
NHK永平寺
https://youtu.be/MOHHS8rG8TQ?t=26m20s 五木寛之の 百寺巡礼 永平寺
https://youtu.be/lJMGpxNXIH0?t=10m45s
永平寺 参禅研修
https://blogs.yahoo.co.jp/kokoronoariyou/32031627.html?__ysp=5rC45bmz5a%2B6IOiyp%2BetieOCkg%3D%3D
「五観の偈(ごかんのげ)」
食事前に全員で唱えます。
一には、功の多少を計り、彼の来所を量る (感謝)
二には、己が徳行の全欠とはかって供に応ず (反省)
三には、心を防ぎ過(とが)を離るることは、貧等(とんとう)を宗とす (修養)
四には、まさに良薬をこととするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんがためなり (目的)
五には、成道のための故に、いまこの食を受く (理想) @私たちと平等の命をいただく
A今頂く命を食べるだけのことをしたか?
B三毒(むさぼり、いかり、おろかさ)をおさえ、修行の心をもって頂く
C健康と保つための良薬として、この食事を頂く。
D私の煩悩を満たすためでなく、天地のまことの道理を実践、究めるめに、この食事を頂きます。
参考:
道元禅師と『典座教訓』
http://tenzo.net/kokoro1/ スティーブ・ジョブズが影響を受けたのは鈴木俊隆(曹洞宗)の方
ただし鈴木大拙がケージに薦めた永平寺には行っている(鈴木大拙は臨済宗の方が縁が深いが)
鈴木俊隆著
"Zen Mind, Beginner's Mind "は45ヶ国語に翻訳されている(日本語訳は「禅へのいざない」)。
<スティーブ・ジョブズ氏>伝記翻訳者が明かす日本とのエピソード 「アップル製品に禅の影響」
http://seiryouzan.exblog.jp/16733526/
[ジョブズが]もともと、禅に傾倒したのは、60〜70年代のアメリカ西海岸で東洋思想の流行があって、
興味を持ったということのようだ。若気のいたりで「かじってみた」という人も多いと思うが、
彼(ジョブズ氏)はかなりまじめにやった。永平寺(福井県)に行って、出家しようとまで考え
たということは、今回(翻訳して)初めて知った。出家は、禅の師匠、知野弘文氏に止められたという。
[ジョブズの]師匠は、知野氏(改名後、乙川氏)と鈴木俊隆氏の2人。鈴木氏は彼(ジョブズ氏)が住んでい
た米カリフォルニア・ロスアルトス近郊で禅を教え、知野氏はサンフランシスコ禅センターで座禅の会をや
っていたという。彼(ジョブズ氏)は結婚式も仏式で、お経を上げた。東洋思想のなかで、なぜ禅になった
のかという経緯は分からないが、かなりの傾倒ぶりだ。禅の簡素で華美を排するところに引かれたらしい。
それは彼の製品に表れていると思う。伝記にも「シンプルにしろ」という表現が出てくる。 134.
修行なんてものはバカがやるものである。
なんでか。 その人達が修行するのは勝手で良いが、托鉢して廻るのはどうなんだろうね
ワガママ過ぎないかな >>137
托鉢できずになにが修行か
修行は托鉢だけで言い >>138
修行 = 托鉢 はありえない
暴言もいいところ 139.
托鉢は乞食の行為である。
それは軽犯罪法に違反する。 144.
悟れないバカが托鉢をすれば良い。だからして、管長は托鉢しない。
我思う、故に我在り
デカルトがなんちゃらかんちゃら?
ハンムラビ法典
我を前提として
自と他の分別を前提として
目には目を、歯には歯を?
我を前提としているので
>>154 俺 > 金 > 女 > 神 > 仏
みたいな感じ?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C
理趣経(りしゅきょう)
十七清浄句
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>155
結局
役に立たない知識ばかり
本当にそれで良いのですか?😆🍀
>>156
たとえば
チベットとかの密教は
ボン教との習合もある
日本とかの場合は
神仏習合
大乗密教による系列化
…神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら
国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説として
諸国神宮寺の心を捉えたのが
空海の伝えた真言宗であった
たとえば密教とかは
勝義諦だけではなくて
世俗諦も認めて、そして
世俗諦の人々の心の働きに合わせて導いていく
たとえば
「男女交合によって子孫を残す」ことを認めて理解した上で
最終的には
すべての衆生が『真如・仏性そのものに成る』までは
たとえば
ダライ・ラマとかが観音菩薩の化身として現れる
最終的には『真如・仏性そのものに成る』という導きでつ
(禅宗系の場合は「成る導き」ではなくて『真如・仏性そのもの』という感じ?) 弘法大師は今も毎日御飯食べてるの?
あの毎日の儀式は必要か?
織田信長は何故、延暦寺の根本中堂だけのこしたのか? 通りすがりの人々と自然に挨拶をかわせたとき、
それが悟りである。
↓知りませんでした。ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
アドラー心理学
マイナスの状態から → プラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して
仏教は、真如・仏性からの宗教なので
心理学とは違うかも
とりあえず↓似てる感じがするものは
上座部系の
第一禅定から → 第四禅定へ
その次の段階として
空無辺処から → 非想非非想処へ
そして非想非非想も超えて
滅に触れて → 想滅定が生起して涅槃(ニルヴァーナ)
アドラー系?と似てるかもしれないけど
上座部系も、とりあえずは
真如・仏性からの真如縁起を前提としているので
心理学と仏教(宗教)は世界観?が違うかも? 心理学とスピリチュアル系は似てる。
ともにプラトン主義 >>169 の補足として
ちなみに
「想う!」という想いも手放して
「想わない!」という想いも手放して
非想非非想も超えて
滅に触れて → 想滅定が生起して涅槃(ニルヴァーナ)
この時には
涅槃(ニルヴァーナ)
現れることもないので滅することもない
そして
劣等感という想いもなく
優越感という想いもなく
ということであるらしい
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
(上座部系)
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」という想いの終わりである >>171
先ずお風呂に入るといいよ
心まであったまって気が楽になるよ
極楽、極楽
>>172 >お風呂に入る
おじゃるは貧乏なので
風呂から出た後で
暖房がないので
寒氷地獄で、寒い、おじゃる
ヒュー彡カタカタカタ(((寒゚゚Д゚゚寒)))カタカタカタ彡ヒュー
>>159 >悟る悟りは夢の悟りぞ
『「悟る」という想いが無明である』という意味なら
美魔女師匠の場合は禅宗系?
道元 普勧坐禅儀
真如・仏性からの真如縁起そのものなので
それゆえに
そもそも仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
我々が修行したり、悟り証したりすることもない
物事の本然の姿は全て塵や汚れから離れたもの
しかしながら
ほんの僅かでも方向性を誤れば
天と地ほども悟りから隔たってしまうのであり
僅かでも分別心が生ずれば
たちまちに本心を失ってしまうものである
自らの仏法の理解を誇ったり、悟りを多く重ねたと自負し
僅かな智慧と通力をもって仏道を得た
心を明らめたといって有頂天になって騒いでみても
それはほとんど自らの解脱の道をふさいでしまっている… 釈迦は言いました。👰
「アーナンダよ。世界は美しい。」 南泉斬猫
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.7.htm
ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた。
南泉は猫を提示して言った。
「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨
てよう」
誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。
夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州
は履( くつ )を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉は言った。
「もしお前があの時おったならば、猫は救えていたのに...」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています