時間とは何か 23
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風邪って、やることとか寝てられない環境だとなかなか罹らないというか
撃退できるもんだけどね
逆にそれが無いと引きやすい
わたしも十八年ぶりに少し風邪気味
気がつくとその間病気一つしなかったことに気がついた w
いずれにしてもお大事に トスカニーニ生誕百五十年、没後六十年か
あまり馴染みのない指揮者だけど、ホロヴィッツとのチャイコ第一番だけ持っているか 主体を考えたとき、客観的主体であっても主観的主体によって捉えられたものにすぎない。
この主観的主体は「わたし」であろう。
すべては「わたし」から始めねばならない。「わたし」が先にあるという意味ではない。
Von Neumann universeにおけるV(0)は∅だが、始めるべき「わたし」も空集合だ。
「わたし」は、ただ、空集合として「存在」する。
「わたし」はrank0である。 「わたし」の宇宙に「わたし」しかいなければなにも始められない。
「わたし」の他にもうひとりの対象Aを考える。
その対象Aは「わたし」によって捉えられる。「わたし」によって語られる。
しかし、「わたし」は空集合なので、「わたし」と対象Aを組み合わせても対象Aのままである。
あるいは、「わたし」という空集合に飲み込まれて消滅する。
保存則から考えると、消滅とは語れなくなるだけであり、どこかに保存されているはずだ。
「わたし」の内部に取り込まれているのかもしれない。
そうすると、最初に考えた対象Aは「わたし」の外部にあったということだ。
取り込まれたのなら、「わたし」はもはや空集合ではない。 空集合ではない「わたし」の問題。
対象Bがあるときどうなるかの問題。
対象A・Bから考察される「わたし」が出現したという問題。
さて、次はどこから攻める/迫るか。
「わたし」だけの宇宙、あるいは「わたし」と「対象A」だけの宇宙、どちらでも「わたし」や「対象A」が生まれたという問題には迫れそうもない。
3つめの対象Bを考えることで問題を解決/解消できると考えていたのだが、想定外の「取り込み」という考えも浮かんでしまった。もう少し考えてみる。
取り込むことで「わたし」は肥大化する。もしメタ的立場から「わたし」を見ることができるならば、「わたし」の表面に対象Aが貼り付いているように見えるのだろうw 四次元は三次元の無限の集合です
三次元自体は運動しません
出発点であるゼロ次元は運動の否定です
静止している三次元が無限に集まったら運動するのでしょうか?
運動はどこで発生するのでしょうか? 飛ぶ矢は空間の一点に存在します
静止とは空間の一点に存在することです
飛ぶ矢は飛んでいません たとえどんなに短い時間だとしても実在すると仮定すると、そこには無限の三次元が実在することになります
自然としてのわたしが無限に実在するというのも理解できませんが、三次元自体は運動しません
その時間をどのくらい集めたら運動が発生するのでしょうか
発生するとしたらどこなのでしょうか 偽装入院
仮病岩の暴行が発覚のブーメラン
この裁判記録で驚かされるのは、貴乃花部屋内の暴力問題だ。
元貴斗志は、09年初場所でともに初土俵を踏んだ“同期”で、当時すでに幕内の関取だった貴ノ岩と暴力騒ぎを起こしている。
元貴斗志の主張によると、14年4月に番付上位の貴ノ岩が「お前、あいさつもしないのか」と絡んできたため、
「すみません」と謝ると、「お前何様のつもりだ」と平手で3発殴られたという。
しかし貴ノ岩は法廷で「元貴斗志が『あんたの若い衆(付き人)ではない』と殴りかかってきて、
喧嘩ではなく一方的に暴力をふるわれたのが真実」と反論している。
「相撲」衝撃!貴ノ岩にも暴行容疑 元貴乃花部屋力士の訴訟で発覚「逃げ回る力士にエアガン」
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1514449606/ 仮に、この世界を四次元時空とするなら、実在する全ては四次元であり、それ以外は一切実在しない。
当たり前。
0次元とか1次元とかは、馬鹿の言う戯言でしかない。 952 自分:自然過程説 ◆/Pbzx9FKd2 [sage] 投稿日:2017/12/25(月) 16:02:48.39 0
じゃ、人工知能蒸し返そうか?
将棋は対応できない、省略していたのをほかならぬ「人間」が対応させた
別にコンピューターがやったわけではない
ソロバンと同じで人間の認識を置き換えただけ
その他のも「人間」の認識の置き換えという意味では本質はなんら変わらない
さて、コンピューターは今まで自己自身をまったく違うものに変えてきたのか?
違う、いつも人間の認識を置き換えているだけだよ
機械は考えない 考える機械なんてのは認識論的に弱い科学者の妄想
コンピューターが考えるのならソロバンだって考える 次元を単に自由度のことであるとすれば、必ずしも無限を伴う必要はない。
1ビット次元は1ビットの自由度はあるが2つの状態しか持ちえない。
次元を無限と関連付けてしまうのは、どこかに最初から間違いがあると考えた方がよい。 宇宙人はたくさん地球に来ていますが
あまりに小さいので見えないだけですよ♪😃 空集合としての「わたし」の他に対象Aと対象Bがあるとする。
冪集合は{「わたし」、{対象A}、{対象B}、{対象A,対象B}}になる。
「わたし」と対象Aしかなかったときはあらわれなかった{対象A,対象B}が生まれる。
対象Aを主体としての空集合とすれば{{わたし,対象B}が生まれ、
対象Bを主体としての空集合とすれば{{わたし,対象A}が生まれる。
「わたし」と対象Aだけがいる「わたし」の世界は、そこにいない対象Bを主体とした対象Bの世界である。
その対象Bの世界で「わたし」が主体として振る舞う。
「わたし」が主体として振る舞う「わたし」の世界は、そこにいない対象Xの世界の中にある。 この対象Xを神と呼んだり、対象Xを巨大コンピュータと想定したり、対象Xにより規定されている「わたし」の世界では証明できないものを原理と呼んだりする。 すなわち、「わたし」の世界における神の不在証明である。 class of hereditary well-founded sets.
すなわち、遺伝的整礎集合全体のクラスだが、それそのものを時間と読みかえることもできる。
これをフォン・ノイマン(ステップ)時間(またはフォン・ノイマンtick?)と呼んでしまってもよいのではないか。 フォン・ノイマン宇宙そのものが「時間」であり、西田哲学における絶対矛盾的自己同一とはフォン・ノイマン宇宙の内部の「わたし」という主体から語られているのかもしれない。
おそらく、そのように見えるだろう。 >>22
親戚かなにかに韮澤さんという名前の人いない? フォン・ノイマン宇宙そのものを時間とみたとき、時間は集合ではなく真のクラスである。
集合であることを存在であるとみなすのであれば、時間はクラスであり集合的存在とは異なるが、クラス的存在であるといえないこともないだろう。
クラスといっても「級」ではなく「類」のほうだ。
時間とは類である。類とはなにか。絶対矛盾的自己同一のことかもしれない。
そう考えて西田哲学を読み直すのも楽しい。 時計の時間のもとは集合かもしれないけど、歴や暦のほうがクラスなのか。 絶対矛盾的自己同一を絶対矛盾的主体と読みかえてみる。
(自己同一性を持たないという意味での)「無」から何かがうみだされるとするなら、2つでは足りない。2つのうちどちらか一方に主体性を与えたとしても、そこから発展できない。
3つのものが「無」からうみだされるならば、どれに主体性を与えても発展できる。
しかも、その主体性から矛盾的自己同一としての新たな主体を遺伝的/継続的/因果的につなげていくことができる。
現実的なコンピュータ内に「宇宙」を作成する準備が整ったと思う。動かしてから再検討してみよう。 動かしてみれば、先送りしていた「取り込み」についてもなにかわかるかもしれない。
ただしく「取り込み」できればAIも「思考」を持てるようになる。
そう、「取り込み」が「思考」なのだと考えているわけだ。
このわれわれの宇宙も思考体である。 無から何かが生まれる?辿っていっても無にたどり着くんだろうか。 年末年始、急な入り用の時…
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そんなアナタのお金の悩み、相談はエスティーエーで、ホームページもあります、エヌピーオーホウジン、エスティーエーでケンサク! 鏡を見ればいい
そこに移るどちらの対象も主体とはいえない 「映る」ことは「移る」ことであり
運動なきところに運動が現れる 何も無いところに世を写す鏡が有りうるとはどのような事態か? 物理の自明だが、そもそも対称であれば時間は生まれない アナログとデジタルのどっちが本質的かなんて問いかけは
ちっとも時間の本質に触れていない 類の異なる2つのクラスと演算子の3つの項があれば住む “人が主「住」”であることに済んで射るに棲んで居る 空間に矢があるのでなく、矢が空間をもたらす
誰が射たのか知らない 水の波紋が斉一に潜ましを火と見立てるは
木になる何かが要るからでしょう 簡単なことだ
どこから火が生まれた?
美魔女解いてみよ 「熱」がなんであるか説明できた人間は有史以来一人もいない 釘を刺しとくが、ヘラクレイトスからの引用は許さない そもそも空間に釘は刺さっていない
しかしそのことは、空間に釘のないことを意味しない
わかるな? タバコに火を点けるのは単簡だが
空間に点を見つけるのは容易じゃない 「単簡」は漱石の有名な造語
この言葉は無から産まれたか?
そんなわけない 一服する時間の単位はどうやって決まる?
それは「一服」の外延を創るしかないだろうに 一服終わり
観念連想に終わりはあるのか?
ないね
しかし時間の矢はある 連投規制もなしか
便利なこった
初めから考えようとするから誤る 時間の向きが「初め」から「終わり」に向かってる、と云う代わりに
「終わり」から「初め」に向かってると言ったって間違いじゃない 肝心なことはその間のどこを取っても平衡状態としてもいいわけだ
つまり、空間は動いてないと 具体的なことは抽象的なことで
抽象的なことは具体的なことだ
どちらで眺めて射ても的は当たってる
注記)
的は射るもので当は得るものだテストに出る >>47
火は可燃性の物質と酸素が反応して
熱と光を出してる「現象」⭐⭐⭐ >>50
物質と酸素が結びきを酸化といい
この酸化反応が、ある条件で起こるとき
熱と光を発して
この時、私達が感じる光と熱の正体が
火、🔥炎だよ♪⭐ 「かくて弓にはビオス(生)という名があるけれども、
実の仕事は死なのだ」byヘラクレイトス
※ビオスというギリシア語は、“ビ”にアクセントがあれば
生を意味するけれども、“オス”にアクセントがあれば弓を意味する
『古代哲学史 付 ヘラクレイトスの言葉』田中美知太郎 はじめに光ありき、と
はじめに言葉ありき、は同じことをいってる 言葉なくして我々はこの世界を分別して眺めることが可能であっただろうか?
この脳にすまう“言葉”とはどのように捉えればいい? 言語の起源説によれば、
音声説でなく身振り説が主流にあるとどこかで読んだ
身振りを可能にするものはなんだ? 身体性は否定できない
昨今はみなこの潮流からロジックを組み立てている印象がある
『数学する身体』はかなりつまらないのでオススメしない 神は身体を持つのだとすればいつそれに気付いたか?
ナイーブに過ぎる 本物を真似たって、本物にはなれない
ここにも非対称 真実は姿を変えない、との思い込みは幻想だ
しかし必要な幻想として現前する AIは問題を解釈しない
だから人間のように日々の問題を創造的に解決できない
固定ループに処理してるなら、そいつはもうロボットだ 問題のないところに問題を見出すのが人間だ
なぜなら、そうしなければ“意識”をもてないから 人が答えを求めるのは、安心したいから
わたしは具体層に戻りたい、いや戻ってる
最近恋をしているから >>69
言葉は現実を抽象化した観念です。👰
概念というか。⭐ >>36
その鏡をみているものが主体である。
主体と対象との間に射がある。
圏論と異なるのは、この射が主体に戻ってくるということであり、行って戻ってくるのは「物語論」だ。
自己射や射とは主体による物語論である。 フォン・ノイマン宇宙とはフォン・ノイマンによる物語論であると読み解ける。 主体はあらゆるところに現れる(すなわち関係を持つ)。
そして外延性の公理から、それはただひとつしか存在しない。
∅ではめんどくさいのでこれからは{}と記そう。
主体とは{}である。 >>80
宇宙とは「概念」ですのでフォン、ノイマンは
「時間」だとか「物語論」だとか、概念を当てはめちゃうのかなあ…
やっぱり私のが賢いね🔥 恋をしてるのは、私だけではない
紅白で郷ひろみは2億4千万の瞳を歌う予定だが
「出逢いは億千万の胸騒ぎ」と歌詞にある
この出逢いの主体が各々にただひとつであるということは
何物も主体は存在しない、と言い換えることに等しくなる
まるで、素粒子論で陽子を空虚な穴と見なすように ただひとつであるということは、存在しないということに等しい 自己言及のパラドクスを解決してるのは時間という要素だ
人は失恋も過ちもするが、それは数学とて同じ
時間だけが解決してくれる しかし数学的に証明されていることは、永久に不変だ
叶わない恋だってもちろんある ただひとつの恋が、名付け得ないものであるならば
それを“恋”と呼ぶことの関係に自分を浮き上がらせる
はたしてこの関係は抽象的なのだろうか?
言葉が具体的である現実であるならば、
「私」という主体のほうが抽象的観念である 君と同じ時間を過ごすとき
その引力は重力に沿っている
であれば、概念もそれにならう
時間とはなんだ?と独り自己に向かうとき
その時間は測り得ない“ただひとつ”のものである
だから、そこに重力は働かない
これは正しいか? いや、重力は働いている
しかし相対論が説くように、
時間の流れが異なるのだ 自己に向き合う思考が自己言及と同じ作用であるならば、
これを究極にまでつきつめればつきつめるほど、
時間は限りなくとどまって見える(誰から見て?) 各々の時間が相対的であることの
各々の解釈が相対的であることは
その思考の概念によって重力に測られる
概念が独りのものであればあるほど、
概念が組織的な秩序のもとにあればあるほど、
私たちの過ごす時間は異なる
なぜなら、重力は概念に拠っているのだから
独り重力なるものはありえない 重力の強いところ、すなわち独り思考の概念は
光がそこから伝わらない
光の伝わりは概念に、すなわち重力に沿っている 特異点とは、誰も理解できない支離滅裂な思考の産物だろう
誰にも伝わらないことは、時間が止まっているにちがいない ときどき、そんな中心から光の束が吹き出すように
外縁にいる我々はそれを偉大なメッセージに受け取る 誰とも伝わるということは、それに“意味はない”ってことだ
「時間とはなんだ?と問われるまでは、誰もが時間を知っている」by聖アウグスティヌス 有用的であることには、
効率的であることには、
伝達的であることには、
熱がない >>84
そのとおりである。主体は存在しない。
それを存在させてしまうのが矛盾的自己同一であり、煩悩であるw
(西洋)哲学は煩悩の学問であって、煩悩から逃れることはできない。
主体とは量子論でいうところの観測者と、ほぼ同一視できる。
量子論とは観測者の宇宙をいかに解釈するかということだろう。
多世界解釈とは多観測者解釈である。
時間や空間とは、主体が矛盾を解消するために生み出したツールにすぎない。
一種の封印もしくは呪文であるw
世界(宇宙)は呪文からできている。 効率化の過ぎたる社会なんてものを想像してみたらわかる
それはとても、冷たい世の中だろう
もはや“恋”なんて言葉も死滅しているにちがいない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています