時間とは何か 23
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釘を刺しとくが、ヘラクレイトスからの引用は許さない そもそも空間に釘は刺さっていない
しかしそのことは、空間に釘のないことを意味しない
わかるな? タバコに火を点けるのは単簡だが
空間に点を見つけるのは容易じゃない 「単簡」は漱石の有名な造語
この言葉は無から産まれたか?
そんなわけない 一服する時間の単位はどうやって決まる?
それは「一服」の外延を創るしかないだろうに 一服終わり
観念連想に終わりはあるのか?
ないね
しかし時間の矢はある 連投規制もなしか
便利なこった
初めから考えようとするから誤る 時間の向きが「初め」から「終わり」に向かってる、と云う代わりに
「終わり」から「初め」に向かってると言ったって間違いじゃない 肝心なことはその間のどこを取っても平衡状態としてもいいわけだ
つまり、空間は動いてないと 具体的なことは抽象的なことで
抽象的なことは具体的なことだ
どちらで眺めて射ても的は当たってる
注記)
的は射るもので当は得るものだテストに出る >>47
火は可燃性の物質と酸素が反応して
熱と光を出してる「現象」⭐⭐⭐ >>50
物質と酸素が結びきを酸化といい
この酸化反応が、ある条件で起こるとき
熱と光を発して
この時、私達が感じる光と熱の正体が
火、🔥炎だよ♪⭐ 「かくて弓にはビオス(生)という名があるけれども、
実の仕事は死なのだ」byヘラクレイトス
※ビオスというギリシア語は、“ビ”にアクセントがあれば
生を意味するけれども、“オス”にアクセントがあれば弓を意味する
『古代哲学史 付 ヘラクレイトスの言葉』田中美知太郎 はじめに光ありき、と
はじめに言葉ありき、は同じことをいってる 言葉なくして我々はこの世界を分別して眺めることが可能であっただろうか?
この脳にすまう“言葉”とはどのように捉えればいい? 言語の起源説によれば、
音声説でなく身振り説が主流にあるとどこかで読んだ
身振りを可能にするものはなんだ? 身体性は否定できない
昨今はみなこの潮流からロジックを組み立てている印象がある
『数学する身体』はかなりつまらないのでオススメしない 神は身体を持つのだとすればいつそれに気付いたか?
ナイーブに過ぎる 本物を真似たって、本物にはなれない
ここにも非対称 真実は姿を変えない、との思い込みは幻想だ
しかし必要な幻想として現前する AIは問題を解釈しない
だから人間のように日々の問題を創造的に解決できない
固定ループに処理してるなら、そいつはもうロボットだ 問題のないところに問題を見出すのが人間だ
なぜなら、そうしなければ“意識”をもてないから 人が答えを求めるのは、安心したいから
わたしは具体層に戻りたい、いや戻ってる
最近恋をしているから >>69
言葉は現実を抽象化した観念です。👰
概念というか。⭐ >>36
その鏡をみているものが主体である。
主体と対象との間に射がある。
圏論と異なるのは、この射が主体に戻ってくるということであり、行って戻ってくるのは「物語論」だ。
自己射や射とは主体による物語論である。 フォン・ノイマン宇宙とはフォン・ノイマンによる物語論であると読み解ける。 主体はあらゆるところに現れる(すなわち関係を持つ)。
そして外延性の公理から、それはただひとつしか存在しない。
∅ではめんどくさいのでこれからは{}と記そう。
主体とは{}である。 >>80
宇宙とは「概念」ですのでフォン、ノイマンは
「時間」だとか「物語論」だとか、概念を当てはめちゃうのかなあ…
やっぱり私のが賢いね🔥 恋をしてるのは、私だけではない
紅白で郷ひろみは2億4千万の瞳を歌う予定だが
「出逢いは億千万の胸騒ぎ」と歌詞にある
この出逢いの主体が各々にただひとつであるということは
何物も主体は存在しない、と言い換えることに等しくなる
まるで、素粒子論で陽子を空虚な穴と見なすように ただひとつであるということは、存在しないということに等しい 自己言及のパラドクスを解決してるのは時間という要素だ
人は失恋も過ちもするが、それは数学とて同じ
時間だけが解決してくれる しかし数学的に証明されていることは、永久に不変だ
叶わない恋だってもちろんある ただひとつの恋が、名付け得ないものであるならば
それを“恋”と呼ぶことの関係に自分を浮き上がらせる
はたしてこの関係は抽象的なのだろうか?
言葉が具体的である現実であるならば、
「私」という主体のほうが抽象的観念である 君と同じ時間を過ごすとき
その引力は重力に沿っている
であれば、概念もそれにならう
時間とはなんだ?と独り自己に向かうとき
その時間は測り得ない“ただひとつ”のものである
だから、そこに重力は働かない
これは正しいか? いや、重力は働いている
しかし相対論が説くように、
時間の流れが異なるのだ 自己に向き合う思考が自己言及と同じ作用であるならば、
これを究極にまでつきつめればつきつめるほど、
時間は限りなくとどまって見える(誰から見て?) 各々の時間が相対的であることの
各々の解釈が相対的であることは
その思考の概念によって重力に測られる
概念が独りのものであればあるほど、
概念が組織的な秩序のもとにあればあるほど、
私たちの過ごす時間は異なる
なぜなら、重力は概念に拠っているのだから
独り重力なるものはありえない 重力の強いところ、すなわち独り思考の概念は
光がそこから伝わらない
光の伝わりは概念に、すなわち重力に沿っている 特異点とは、誰も理解できない支離滅裂な思考の産物だろう
誰にも伝わらないことは、時間が止まっているにちがいない ときどき、そんな中心から光の束が吹き出すように
外縁にいる我々はそれを偉大なメッセージに受け取る 誰とも伝わるということは、それに“意味はない”ってことだ
「時間とはなんだ?と問われるまでは、誰もが時間を知っている」by聖アウグスティヌス 有用的であることには、
効率的であることには、
伝達的であることには、
熱がない >>84
そのとおりである。主体は存在しない。
それを存在させてしまうのが矛盾的自己同一であり、煩悩であるw
(西洋)哲学は煩悩の学問であって、煩悩から逃れることはできない。
主体とは量子論でいうところの観測者と、ほぼ同一視できる。
量子論とは観測者の宇宙をいかに解釈するかということだろう。
多世界解釈とは多観測者解釈である。
時間や空間とは、主体が矛盾を解消するために生み出したツールにすぎない。
一種の封印もしくは呪文であるw
世界(宇宙)は呪文からできている。 効率化の過ぎたる社会なんてものを想像してみたらわかる
それはとても、冷たい世の中だろう
もはや“恋”なんて言葉も死滅しているにちがいない ツールとは“熱”なんだよ
世界は熱からできている
人間社会の衝突も、触れ合うことの温かさも
すべて摩擦熱を原因としてる
炎を産み出さなければ、
この世界は存在すらしなかっただろう 世界は常に揺らいでる
一つの恋が揺らいでるように
一つの量子が揺らいでるように
それは炎が揺らいでるように >マントルが饒舌に火を吹き上げて
>捨てられた野に立つ人を祝うよ
>静かな静かな娘の視野で
>見知らぬ都に灯が灯りだす
by「白虎野の娘」 意味が薄れるということは、エントロピーが拡散するということだ
では、意味の秩序を保つためには、意味を生み出すためには、
空孔が必要になる 明らかに、空孔は冷たい
逆説的だが、熱は冷たさから生じる 神は冷たい
なぜなら過去と未来の時間の経過を“予測”できるから
それはもはや予測とすらいえない静止画の絵巻だろうが
予測できればできるほど人は冷たくなる
映画を無限回見れば、
驚くような場面でも怖くなる場面でも
それで感情が揺れ動くことはないだろう
感情がなくなるということは、
熱がなくなっているということだ 人が、科学が予測したがるのは、
神のようになりたいからだろう
その能力は神の能力に依拠しているから
むろん、決して神にはなれないだろうが そろそろ、頭を冷やす必要がある
頭を冷やしたいなら、黙って考えることだ
感情的になることは時間に身を任せることだ
饒舌になって文章が洗練されなくなることは
意味が容易になるほどに詰まらなくなる
だから、
思考によって時間の流れを変えることだ
冷たくなる
冷えるとまた思考が洗練される
その文章は理解が難しくなるが
無に近づけば近づくほど、「私」は空になる
そこから、時間を動かすエネルギーを得る
よって、時間は何も無いところから生まれる 宇宙を作る。
Nelson GoodmanのWay of Worldmakingに従って、Way of Universemakingとしよう。
とりあえずひとつのversionを作らねばならない。
このversionでは空集合{}が出現しなくてはならない。
フォン・ノイマンはどこから{}を持ってきたのか、それは不明であるw
集合論的にはなにか集合の部分集合をとればよい。
圏論的には対象であり、自己射を持たねばならない。
このversionでは記号システムそのもの、すなわちversionそのものが出現しなくてはならない。
出現する「前」の状態を考えてしまうと、まだ組み立ててもいない「時間」が現れてしまう。
単純に、それは「前」なのではないと考えればよい。
出現後の宇宙からアクセス不能であればなんでもよい。原理の投入である。
その原理とはそのものが記号システムでもありversionである。
versionはなんらかの発展(あるいは変化)する仕掛けを持たなくてならず、「無」もversion内になくてはならない。
ここでいう「無」とは、単に「初期状態」のことである。それでいいのだ。 んhkでこんな番組がある
NHK・Eテレ「Q〜こどものための哲学」
http://www.nhk.or.jp/sougou/q/origin/schedule/
#1 「なんで勉強しなきゃいけないの?」
#2 「カッコイイってどういうこと?」
#3 「便利って本当にいいこと?」
#4 「死んだらどうなるの?」
#5 「みんなで対話しよう」
#6 「ルールって本当に必要?」
#7 「なんでウンコでみんな笑うの?」
#8 「なんでお母さんはいつも怒るの?」
#9 「そもそも自分らしさって何?」
#10 「良いこと、悪いことってなに?」 >>118
勉強したらどんな良いことがある
この手の教育番組は必ず勉強にはメリットが有るって結論になるから馬鹿馬鹿しい
勉強しなくても良いとは口が裂けても言えないからな 年末年始のTVをみながら宇宙を作成中。
細かいところを作りこんでいくと、Wolframの2,3TuringMachineに似てくる。
ひさびさにWolframのサイトを訪問してみるが、いまだに説明に間違いがある。
2,3Turing Machineは、とてつもなく不毛な宇宙を生成する。
実際の宇宙もそのくらい不毛なのかもしれない。 Wolframの2・3チューリングマシンは、よーするに「波」である。
テープを横軸とみれば、原点から左右に波が拡散し、その波のなすパターンはすべての可能性を取る。
2つのヘッダの状態と3つのテープの色と6つの実行ルールを持ち、一次元の両端へ無限に伸びるテープが必要となる。
初期状態も忘れてはならない。
初期状態を「無」とするならば、「無」もルールによって実行され、テープを形成するセルが作成されねばならない。
テープはセルの連なりであり、事前準備されているものではなくルールの実行によって生成されるとする。
このチューリングマシンにおける「時間」とはテープではない。しかしもうひとつの「次元」としてのテープに記録することはできる。
まだ検討はしていないが、ルールの実行に可逆性があれば「時間」をテープに記録する必要はない。
「可逆性」とは保存則である。
保存則がなりたっていれば「時間」は記録しておく必要が無い。
ここで暴力的に結論を出してしまうならば、「時間」とは「保存則」である。 ルチアーノ・フロリディ (著)
「第四の革命―情報圏(インフォスフィア)が現実をつくりかえる」
のamazonレヴューでチューリングでてくるよ インフォスフィアとは面白そうですね。レビューにもあるように前半だけwは読む価値がありそう。哲学としてもね。
正月休みに「宇宙」を実装テストしながら、ついでにWolframの2・3チューリングマシンも(ほぼ同じ機構なので)実装して動かして酒飲みながら眺めてみた。
1. 波が拡散している。それも我々が思っている過去と未来へ伝播している。
過去があって未来があるのではなく、過去と未来が現在から発生しているわけだ。
2. 「無」とは初期状態であり、「始まり」など無いのだとはいわれるが「無」があれば、それが「始まり」となりうる。
「無」が「ある」などといってしまうと「始まって」しまうのである。なのでうっかりと「無」などと語ってはならない。
3. すなわち「語る」ということが「ルール」の実行である。
「無」から「有」を作ってしまう。
4. 「語る」とはどういうことか。
わたしはこれを、(「無」ではなく)「空」に求めたい。「空」であることが「語り」をうみだす。
まあ、「無」を語ったものが「空」なわけですから、すでに「語り」は始まっているわけです。
5. 「語り」とは「自己同一性」のことである。
「自己同一性」こそが「煩悩」の根源であり、この宇宙を、うっかりとつくってしまった原因であるw 科学は自然を無矛盾に理解することが目的
それを失念しているからこそ今日の科学の混乱がある
静止を科学は徹底的に排除する
有、つまり運動は、無、静止という否定で理解する
自然の存在形態は運動であり、それを実在しない静止理解する
このことによって不確定性原理、つまり有を無で理解することの自然の裏づけであり
また量子力学のエネルギー保存則の破れが、有を無で理解、つまり破れ自体は
なんら自然の問題ではなく、認識理解する側の問題であることを示している
無、つまり静止はどこにも実在しない かなり前にビッグバン仮説論者の宇宙論読んでいたら、この仮説でなにもかも上手く行くと述べてありました
うーん、ここ言い切るのは良い度胸です
背景放射も信じきっている人が多いのは秀才たちのこの断言によるところが大きいのでしょう
わたしはプラズマ宇宙論仮説が保存則を破りませんし、光速度一定の原理もそうですし
新定常宇宙論、ビッグバン仮説のように基本的に無理がないと感じています
それは幾つか確証されていないところもあるのですが、それは二つの仮説同様ですが
周転円を重ねている仮説よりこちらに傾きます
新定常宇宙論支持科学者が時間が存在しない可能性を示唆していましたが、この仮説から
時間非在説は整合性から言って導けるのかどうか疑問だったりします
いや、予感だけですが、非在説は注目に値するのではと思っていますので 自然を無矛盾に理解するためには矛盾が必要となる。
その矛盾とは「原理」や「公理」などと呼ばれる。
これら原理の本体は、自然の体系の外側にあり、われわれからはアクセス不能である。
それゆえに本体などと呼んでよいのかどうかすらもわからない。 プラズマ宇宙論は、ビッグバン仮説をうみだした元となる現象をなんら説明できない。
それゆえに非主流の仮説である。 それよりバリウム検診2回とCT検診したので
被爆率300倍受けてもた!💦
😩 反復とは自己同一性のことであり、科学も哲学も自己同一性という煩悩なしにはなにもできない。 >>134
1回で被爆率がレントゲンの300倍です。👰 >>138
それすなわち哲学は心理学から逃れられていないということ。
精進しなされ。 美魔女↓
∧_∧
(`∀´) バリウム光線 ウリャッ
⊂二 \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ ) ) < 逃れられてないのは 貴方だけ。👰ブッ
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(_)_) 「色即是空、空即是色」の本当の意味をわかること。
はたして中村元あたりでも本当の意味をわかっていたのだろうか。
そう考えてしまうと、「仏性」というものの本当の意味がとても怖いものであるということがわかる。 いろいろなversionの宇宙をつくってみては壊した。
versionというもの、そのものも自己同一性を持つ。
自己同一性は存在であり変化でもあり保存則でもある。
そう考えるとおもしろい。
時間が存在ではないのだとしたら保存則でもない。
時間は保存されない。一方向なのではなく保存されないのだ。
保存されないものは存在ではない。
もしかしたら光速度不変の原理も量子力学も、数学全般すらも、保存則ひとつで突破できるのではないだろうか?
そのためには、そのために必要なものは。(架空の)パンドラ構造体。
以前に考えていたパンドラ構造体を実装する方向で再検討してみる。 変化すること自体は変化しないというのは自己同一性でもあります
光速度はたしかに保存則を意味しますね
量子力学も導きます
数学の性格も導きますし 何も生まれないし、無くならないというのは次元の否定ですからねぇ・・・
光速度は運動が自然の存在形態であることを示します
それは数学が静止という否定で理解することも意味します
有限と言い換えていいわけです
量子力学は運動が自然の存在形態であることになりますし
光速度一定の原理は保存則の一つの表現なのか
はたまた逆なのか 対象である自然は運動変化している
このことは自然が無限であることを示します
保存則はこの自然の無限であることから導かれます
わたしは自然の存在形態が運動であることから、光速度、保存則が導かれるのではと
>>143氏のを読んでそう理解しました 運動は保存則に従う。
変化というものも保存則に従う。
保存しないという理由がみあたらない以上、保存則が最上級の原理となる。
「変化」とは何か、保存則に内在するものなのか、と考えたとき、
「変化」がなければ保存もへったくれもないのだ、と思い当たる。
保存則は原理ではなく、もしかしたら「変化則」こそが原理なのか?
この原理を実装するモデルとしてパンドラ構造体を考えているわけだw
変化する理由。変化しない理由がなければ変化する理由になりうるだろうが、われわれが変化によって考え・生きている以上、変化しない理由がないような状況は考えられない。 二重否定の問題だ。変化そのものが、変化しない理由の否定を成り立たなくさせてしまう。
突破口になりうるのは不動点定理なんじゃなかろうかと。
一つ一つ吟味するにしても不動点定理は山のようにたくさんあってたいへん。 不動点定理の中でも、不動点コンビネータを扱うのが簡単そうだ。
不動点コンビネータを対象とするversionの宇宙。
はたして哲学的に語りうる宇宙となりえるのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています