時間とは何か 23
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>>618
プラズマ仮説はそうですね
直接にはそう言っていませんが無限宇宙論です エネルギー保存則をビッグバン、定常仮説、両方破りますからね
基本法則破りますから失格です 今の正体は運動です
そして運動が自然の存在形態ですから、その意味で一瞬は永遠です 自然は運動変化しているだけで、濃淡の海として在るだけです
宇宙のほとんどはプラズマです
でしたらその主体はプラズマというのは自然でしょう
いわゆるダークマターとか必要がありません
ペラットは銀河系の形をプラズマ仮説で作り出すことにシミュレーションでやっています
読んでいただければ手っ取り早いわけですが
「ビッグバンはなかった」ラーナー 講談社
九十年代初めで、まだ借りられると思います ゼノン4つの逆理
これも面白い読み物です
文庫本で再販していますが、図書館で借りられまい 新哲学入門 板倉聖宣さん
これは94年ですし、図書館にあるかどうか
日本語はどういう言語が 三浦つとむさん
文法とか苦手だったわたしが平易にわかる唯一の本
チョムスキーとかいろいろありますが???で正直のみこめません 始りがあると言うのなら証明すれば良いだけ
さて、あなた自身も含めて自然のすべてに始まりはあるのでしょうか?
在るのなら示してください
あなたが生まれた瞬間は? ワインバークは宇宙の誕生の瞬間にまであとわずかまで迫っていると語ります
本当に出来るのでしょうか、そんなことが
そんなことは「永遠」にできないでしょう
なぜなら始りなど無いからです 不確定性原理は位置は認識の在り方の問題です
近似値であるのは有を無で理解しなければならないからです
始りもまた認識のあり方の問題です
静止を認識は要請しますが、それは実在しないのです 運動変化が常態です
紙が灰に成る瞬間はあるのでしょうか?
物理として運動変化は常態です
紙、灰というのは同一、静止として認識されます
どの瞬間から灰に成るのか?
つまり灰としての物理状態の始りの瞬間は指示できるのでしょうか? 紙も灰も無くなり、他の物理状態に変化していきます
しかし物理そのものとしては何も無くならないわけです
紙が、灰が無くなるとはどういうことなのでしょうか
自然において何もなくならないのなら、それは認識の在り方に求めるべきではないかと いわゆる量子力学におけるエネルギー保存則の破れとは
認識の在り方自体の問題であることになる
不確定性原理は近似値でしかわたしたちは自然を理解できないことを示している
運動を実在しない静止で理解することに起因するということです >>633
自然過程説(о´∀`о)!!!
ぷぴぴ! プラズマについていろいろ調べてみます
やっぱ勉強せなあかんな、おもろいもんごろごろでてくる 先年天文観測でプラズマ宇宙論の裏づけになるような事象が報告されて画像が出ていました
いずれにしても結論は未だでていないとするのが妥当でしょう ブリゴジンが語るように科学は始まってさえいないのでしょう
文化もまた
剣道、武道の理解不能な事象は人間の能力の可能性を示唆している
わたしはそう理解しています 科学は天動説を真に克服していない段階だということです
哲学もまた始まってさえいないのでしょう
数学もまたその基礎が未確立です
教育はそのような文化の現状の下で彷徨っている >>608
過程さんありがとう
過程さんの「自然」は「万物」か
でも万物が一でしかもそれが多とは難解だな
最近の過程さんの説明は以前に比べると哲学素人にもだいぶわかりやすくなってきたけど
よかったら「万物が一でしかもそれが多」を詳しく説明してくれませんか? 現象としては多ということです
三次元でも量子レベルではエネルギーの淡は現象しませんが
ディラックの海で実在することがわかります
つまり全ては濃淡の差異でしかありません
それらがある物理条件で違う物理状態に生成され、またその生成された・・・という連鎖です
わたしたちは差異を否定関係でしか認識理解するわけです
ですから万物として現象する物理は実は一であり、その一は濃淡の差異ですから
その差異が万物として現象しているわけです
わかりにくいでしょうか
とりあえずです
また午後のいつになるかは状況次第ですが、わかりにくいところの是正に努めます
まあ、一人で勝手に前提にしているということは二十年ほど前にいやというほど判っているのですが
だからといって直るものでもないようです w >有限自体は無限の数から成る
戯れ言だけど
有限、帳尻が合う、割り切れる、、素数っぽいですね
素数は円とか境界的には周
素数は無限にある
個々の素数に必ず付きまとう1 時計が進むとはどういうことかを根底から考えましょう
そうすれば時間とは何かが見えてくるかもしれませんよ >>640
三次元でも量子レベルではエネルギーの淡は現象しませんが
ディラックの海で実在することがわかります
>ディラックの海=負のエネルギーのつまった海
それらがある物理条件で違う物理状態に生成され、またその生成され・・・
>極短い時間で、粒子と反粒子が生まれ、それがまた対消滅する・・・つまり「真空の揺らぎ」
その連鎖ということは、過程さんのいう濃淡とは「真空の揺らぎ」のこと?、 時間とは何か
と言う問いで、何を問おうとしているのか
つまり、
時間とは何か
と問う行為は、何なのか、何を求めているのか
と言う問題が、あります
この事情は、たぶん、存在の問い
つまり、存在とは何か、と問う場合と
同じでないとしても、確かに似てはいる 哲学とは何か
と問う行為は、毎日、毎日、
何かに夢中になっている者には、無い
毎日、毎日、生きる事に必死で
いる者には、無い
それと同じ事情が、時間への問いにもある
ただ、現在のこの国の人びとには、その問いは
時々は、浮かぶだろう >>4644
>その連鎖ということは、過程さんのいう濃淡とは「真空の揺らぎ」のこと?、
真空も運動するエネルギーの形態です
それは基底状態としてあるという理解です
わたしたち自身も含めた認識可能な現象としての物理状態は濃の状態です
運動していますから全ては揺らいでいます
わたしたちは濃の状態の生成の連鎖の過程での存在で、また違う物理的状態に生成されていくということです
素粒子もまた生成されまた違う状態に生成されていく過程に在るわけです 生物分類は多から一になっていきます
男 女 人間 生物 非生物と生物の中間としてのウィルスは物理存在に収斂します
多は一の差異の状態を否定で理解された状態ですが、生物分類は端的にこのことを示しています
そして光速度一定の原理は自然の存在形態が運動であることを示し、真空もまたエネルギーの一形態であることを示します
つまり一であるエネルギーの濃淡の海は認識能力の限界により、独立しているかのように現象して多と見えるということです
厳密には、ここからここまでというのは量子世界ではありえません
多とは一の差異の状態ですが、否定として現象しているということです
波が渦の状態を呈しているのが粒ですが、周りの波は淡としてあり認識できないわけです
進化論は生成過程としての生物の歴史としてですから、基本は了承できます
どのようにして進化の過程を歩んだのかは議論はあるところでしょうが、自然過程という理解からは必然です
もう少しかんたんに説明できればいけないですが 自然科学はパルメニデス哲学の自然は一であるという理解を支持するということです
ピュタゴラス派は理解の論理であり、その限りでは正しいのですが、自然そのものではありえないわけです サルトルは、ノーベル文学賞を辞退した。
嘔吐を、読み直している。彼が、辞退したのは当たり前。日本語訳ですが、あれを書いた人は、ノーベル賞をもらう訳にいかない。
もっとも、彼はあらゆる公的な賞を貰わなかったと言う。 山川さんはベルグソンはゼノンが科学側だと誤解して、ゼノンを批判していると述べている
いえ、科学は明らかにゼノンの側です
山川さんもまた誤解しているという皮肉
科学理論ピュタゴラス的に自然を理解するのだが、それが認識に対象化されたものであり
自然そのものではないと科学革命は指摘する
地球視点で観測された天体運動は視覚としてなら真理であるが、地球が静止していると理解したら誤謬になるだけ
天体観測結果ではなく、その理解が否定されるのと同様に、数で理解されるということがそのまま自然であると理解する
つまり座標原点、始りが実在すると理解することが誤謬
地動説、光速度一定の原理とは、座標原点で理解された自然の運動をそのまま自然であるとすることが誤謬であることを指摘してる
わたしたちは、どうしても静止で運動を理解しなければならない
この意味で自然観測は必然的に天動説的となる つまり宇宙の始りを主張するビッグバン仮設は本質として天動説であるわけです 意味不明でいいなぁ。ここは。素朴だ。
ムーミン谷みたいなもんだね。 まぁ、知を信仰せよ、哲学の正当性も所詮この程度ですよ 科学革命を認識論として考えると、認識の自己言及でありその相対化です
つまり観測、認識は静止が前提であるということで、必要なのですが静止はこの自然のどこにも実在しません
「現代」科学の主流はそのことに気がついていないということです
科学革命は明らかに自然認識そのものの在り方を指し示しているのです
つまり方程式もまたそのようなものとしてあり、光速度一定の原理は自然の存在形態が運動であるということと、自然認識には静止が必要だということです
座標原点、運動の否定である静止は自然認識には必要ではあるが実在しないと科学革命は一貫して否定しています
進化論もまた生物認識の場合の人間の位置もまた生物であり、なんら特別な生物ではないことを示します
科学革命は一貫して認識する側は認識される側の一つであり、なんら特別なものではないことを示しています
特別なものは認識に必要ではあるが、それは頭の中だけの存在ということです 科学革命はまた数、多は?認識には必要だが実在しないこと
つまり次元は実在しないことを示します >>657
哲学の意味は愛智、本来の意味は智を愛せよかな?
ちょっと違うよ。 知と行動との、関係です
我々は、知に基づいて行動する
そろそろ、カンガルーが通る季節だから狩りに行こう
そして、カンガルーの肉を取ってくる
ところが、時には苦労して遠征しても
カンガルーに出会わない時もある
なにか、まだ分からない理由で今年はカンガルーは、そこを通らなかった
もっと、カンガルーの事を知ろうとする 時間は実在を超越しているか否か
座標原点の実在とのフリーアクセス性
アクセス中もしくはアクセスするたびに変化している実在 >>662
時間も意識しない限り物理的に表示できない部類だから
物理的な実在は超越しているけど、超越している事を物理的に証明するのは不可能というだけかな 証明不可能ということは科学から外れるということにならないかな
無限もまたゼノンが言うようなものでしょう 外れていますね
人間が信じられない範囲で無効な科学は
哲学から外れているともいえます。 信じる
と言う、行為は
何なのか
これが、難しい
それと違いますが、責任と言う話も
誰もしていないと思ったら
デリダが、している
無限責任、と言う話をしている 存在の問い、つまり、存在とは何か
と問う行為の意味が、浮かび出てくる(問われてくる)
時間とは何か、と言う問いも同じで、
そう問う行為は、一体、どんな事態、意味なのか、となる
これは、外国の知らない街に行って、目の前に三つのレストランがある。どこに入ろうかとして、通り掛かりの人に、美味しいレストランは何処ですか、と問う。
三つのうちの一つを答えるのか、その通りの裏にある別のレストランをすすめるのか。あるいは、どんな物が食べたいのか、尋ねるべきか。
時間とは何か、の問いに、何を答えるのが良いのか。
そして、尋ねる者は、一体、何を知りたいのか。 宇宙は矛盾しているがゆえに時間によって補われねばならない。 矛盾とはP∧¬Pである。すなわち「空」。
遺伝的宇宙は「空」によってなりたっており、ゆえに宇宙は矛盾によってなりたっている。
辻褄があうためには「射」が必要となる。これが時空間や変化のもとになる。
ところが、ものごとはそう単純ではない。
「空」が自己射によってなりたっているとすると...結局矛盾するw
逆に考えれば、矛盾しているからこそ動的な宇宙が存在するのである。
矛盾の消滅こそ宇宙の「死」であろう。 2つの状態と3つの色とルールがあれば宇宙をつくれる。
そのへんがヒントなのであろう。
ルールは2*3=6あり、射である。
保存則、すなわち辻褄さえあえばなんでもありな「無」。
「無」とは「何でもあり」の別名なのか? 無矛盾にたったひとつの矛盾を加えたもの。
無矛盾-1
-1(宇宙)。たったひとつの欠損。病的宇宙というのは正解かもしれない。 自分の巣で概要をアップしたんですが、けっこう長い・・・
走り書き程度で推敲重ねています。
区切って少しずつアップしてみます。
十項目になりますが、興味のある方はどうぞ はじめに
学生時代に科学啓蒙書を読んでいましたら、エネルギー保存則が出てきて、物理として何も無くならない、何も生まれないという説明が出てきました。
しかし目の前の食べ物は食べたら無くなりますし、いろいろなものが生まれます。
歴史上の人間もまた生まれて、亡くなります。
そして地球自体も太陽系もまた同じです。
科学が何も無くならない、生まれないというのなら、一体これはどういうことなのでしょうか。
この疑問に対して直接答えてくれるような書物はありませんでしたので、しばらく悩んでいました。
このわたしの疑問もあるのですが、どう理解したらよいのか古来人を悩ませてきた問題は哲学、科学、数学の分野で山積しています。
ゼノンの4つの逆説、クレタ人の逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの「運動とは存在すると同時に存在しないこと」という規定、光速度一定の原理、量子力学の観測問題、不確定性原理、数学の不完全性定理などは未だどう理解してよいのかわかりません。
数学の不完全性定理などは、人間はなにもかも理解できないことの証明なのだとする人もいますが、「定理」である以上、理解したからこそですし、何かがわかったわけです。
なにも理解できないということが理解できたというのなら、なにも理解できないことが理解できたということはどういうこのなのでしょうか。 では人間は何も主張できないのでしょうか。
科学は自然の事象を発見観測し、いろいろ「理解」してきましたが、これらと不完全性定理との関係はどうなるのでしょうか。
このことは未だ「理解」できていないようです。
また宇宙はビッグバン仮説で決まりだというのが現代科学の主流ですが、この仮説を決定づけるといわれる宇宙背景放射には天文学者が違うのではないかという論文を出して、この観測結果でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性は否定できないとコメントしています。
科学では観測したものを誤解するのはよくある話です。
十九世紀末に火星を観測した天文学者はそこに「運河」を発見しましたし、酸素を発見した科学者は死ぬまで自分が発見したものが、自分が信奉する燃素説を否定していることに気がつきませんでした。
もっとも有名なのは天動説です。
このことは、対象の発見、観測は事実でも科学者たちが必ずしも正確には理解していないことを示しています。
天動説はいろいろと自説では説明できない天体運動を説明するために周転円という仮説をもちだし、いくつもの周転円を作り出さなければなりませんでしたが、ビッグバン仮説もまたいろいろな仮説で成立していますし、なによりも決定的な証拠に欠けるようです。
この仮説はエネルギー保存則を破りますし、またインフレーションという仮説が現在の主流ですが、これは光速度一定の原理は空間には適用されないという仮説が前提です。 科学者によっては、これで何もかも説明できると主張していますが、宇宙の大構造はビッグバン仮説が主張する宇宙年齢の約百四十億年では
到底足りない年月が必要であり、さまざまな「仮説」を試みていますが、発見以来三十年未だそれは説明できていません。
この仮説に否定的な科学者は地球年齢は聖書に拠れば数千年であるが、科学はそれを事実で否定したが、
大構造はビッグバン仮説に対する科学の回答だと述べています。
科学は対象である自然が無矛盾であること、つまり理解できることが前提ですが、
現代科学は光速度一定の原理が何を意味するのかを理解することは放棄していますし、量子力学もまた合理的な理解は未だに為されていません。 二十世紀末の九十年代に二冊の本が上梓されました。
一冊は「新哲学入門」板倉聖宣氏著、もう一冊は「ゼノン4つの逆理」山川偉也氏著です。
板倉氏はこの本の中で論理の性格を指摘し、山川氏はゼノンの4つの逆説が、ピュタゴラス学派が主張するように世界が数でできているのなら運動は不可能だということを、ピタゴラス学派が主張した前提でこれらの逆説を展開し、示したことをその著書で示しています。
この二冊の本を読んでいくうちに、論理の性格を指摘した板倉氏の理解で上記の諸問題が解けると考えるようになりました。
ライプニッツはニュートンの重力方程式には敬意を表しましたが、その重力理解は魔術的だと拒否しました。
わたしもまた「現代」科学の成果である方程式には敬意を表しますが、その理解には疑問があります。
現代科学が示した事実の合理的な理解を以下の小論で試みることにします。
これはあくまでも試論ですし、また現代科学の主流とは違う自然理解になりますが、主流派の仮説で決定していない以上、違う理解も基本として筋が通っていれば仮説としての存在を許されるわけですので、以降かんたんにわたしのそれらの理解を記すことにします。
この小論は科学が前提とする自然を無矛盾に理解することが目的であることをお断りしておきます。 科学的に、時間とは何か、にせまる試みがあります
哲学と科学との関係は、どうなのか。説明している者は無いと思いますが。
さて、科学的な理解は、何処まで可能なのか、です。
多くの反対があるかも知れませんが、私論では、世界は完全には解明できない。
それどころか、世界が完全には解明できない、つまり、世界が確定する事はない。
そして、驚くべき事に、世界は確定しない、完全に知ることもできない、そして、だからこそ、世界が成立する。
だからこそ、世界現象が可能である。現存在は、世界現象の当事者である。 ファッショナブル・ナンセンス風に言うと、
1^(t/2iπ)=xという数式が成立するものと想定して、
1が現存在、^(t/2iπ)が鏡としての時間、xが存在者ということになるのかもしれません。
なんとなくそう思っただけですので、あまり真に受ける必要はありませんが。 日本語で、哲学と言うと、何か権威を感じてしまいます。
それで、それをフィロソフィアとします。フィロソフィアは、事物を説明します。そして、人を解放します。何から解放するかと言うと、怖れからとしておきましょう。ただ、完全に解放するかと言うと、そうではありません。
完全にそれらのものが無くなれば、人は人で無い何かになってしまうでしょう。 人体という絶対的な形式があるので、人は人ではない何かになることは決してないんだよね
人が人ではない何かになってしまうのではないかという恐怖から開放(解消)されてこそ
人体や人間というネットワークがようやく起動すると個人的には思う。
現時点はネットワークの概要が見えた段階で、ここからこのネットワークの秩序を
自然ではない人智でどのように活性化させるのかというのが見物。 現存在、と言うと、すでにそれが良く分からない、了解できないと言う人がいるでしょう。
現存在とは、存在論的責任を持って世界内存在する存在者です。存在論的責任を持って世界の中にある、知的生命体と読み替えて下さい。
存在論的責任とは、基本的、根底的なある責任と、とりあえずしておきます。
さて、この現存在は、いつもある社会内にいます。ある社会内に在る現存在が、実存者です。現存在が、ある社会内に在る様態が、実存です。
実存者は、いつもある了解の中に、了解と共に世界内にいます。(世界内のある社会に) 宇宙が起きてる時にだけ時間が進んでて宇宙が寝てる時は時間は止まってる、そのことにヒトはまだ気付いてない この場合、1^(t/2iπ)=xという数式が成立するものと想定するというのは、
1^(t/2iπ)=(-1)^(2t/(2iπ))=
(-1)^(2t/(2iπ))=cos(2t*π/(2iπ))+isin(2t*π/(2iπ))
が成立するものと考えるということです。
2iπを周期として測られる数値として累乗の指数を表す^(t/2iπ)が、
現存在を時間的な存在者として映し出す鏡であるとするのは、いかにも
突飛に聞こえますが、それをラジアンの数値として三角関数に代入してみると、
なんとなく辻褄が合うように感じられるのです。 ここで、t=log(x)を代入してみると、
(-1)^(2log(x)/(2iπ))=cos(2log(x)*π/(2iπ))+isin(2log(x)*π/(2iπ))=x
ということになります。 推敲していたら、いろいろ出てくるなあ・・・
2-10
科学革命が示す事実
最初に生物分類が示す面白い事実を考えてみることにします。
男は女ではありませんが「同じ」人間です。人間はライオンではありませんが「同じ」生物です。ウィルスは生物か非生物かわかりませんが「物質」の在りかたです。
男、女、人間、ライオン、ウィルス、生物、非生物と否定関係で分類しますが、最終的に否定関係が同一関係に収斂していきます。
ウィルスが示すことは、生物、非生物は物理としてのさまざまな在りかたの一つであり、差異としてあり決して否定関係ではないということです。
このことは自然は差異としてあるのであり、それを否定で理解するからウィルスのような分類しがたい対象が出てくる、つまりこれは分類という行為自体の問題であるということです。
分類行為が示すこの事実は、分類しがたいことは対象である自然の問題ではないように、哲学、科学などの難問が出てくるのは理解する側、つまり論理の性格が原因ではないのかという予想が出来ます。 ここではそのことを科学革命が示していることを論じてみることにします。
科学革命はわたしは三つあると考えています。
地動説、進化論、光速度一定の原理です。
これらの特徴は自然には特別なものは何も無いということを示しているということです。
地動説は地球は不動ではなく、諸天体と変らない存在ということです。
進化論は人間もまた動物であり、なんら特別な存在ではないということです。
光速度一定の原理は、この自然には絶対座標は実在しない、つまり静止する何ものも無く、自然の存在形態が運動であることを示します。
わたしたちは自然という対象を理解しますが、それを理解する側は理解される側とは互に否定関係なのであり、その否定関係である理解する側の実在は科学革命によって否定されています。
座標原点、生物として人間は特別である、絶対座標、これらは理解する側なのですが、いずれも自然には実在しないのです。
科学革命は理解する立場は必要ですが、自然には実在しないということに言及したわけです。
科学革命は自然が無矛盾であり理解可能であることを示したわけです。
理解ってなんなんだろうと、時々思います
けっきょくある前提を考えることなく、その理論を受け容れれば良いのかなと思うようになりました
十代のときに教科書の重力の説明が皆目わからず、また数学もそんな感じで、脱落しました
後年、この説明ではわかるはずもないということを科学史家が述べていました
ヘーゲルの精神の現象学も序文は理解できたのですが、だんだん???が増えてきて、とにもかくにも最後までは読んだのですが、全然残りませんでした
ただ、序文のニュートン力学というか、科学認識の基本の指摘は今でも覚えています。
三浦つとむさんの論理学の本で試運転がされていたのか、エンゲルスとかの本は読んで、まあまあ理解できたかなとは思いました
ただ、運動とは存在すると同時に存在しないこと、という定義は???でしたが、三浦さんの言語学は前提を飲み込めば、とてもよく理解できましたので、そのうちに理解できるかも、などと思いながら読んでいました。
後年、三浦さんの学問では矛盾が前提で十分なのだが、自然科学はそうではないのでは、ということに思い至りました 武谷三男さんが大学院生を教えていたときに、理解力が驚異的な院生がいて、将来を期待したが、何もしない
またこういう人は何人か現われたが、こういう人に限って何もしないと書いていました。
メンサの会員が学問で画期的、ないしはそれなりの業績を残した人の割合を知りたいところではあります。
けっきょく人間の能力の在りかたというのはいろいろな意味でまだまだわからないんじゃないかなと思ったりします
わたしたちが学問に限らず、諸分野で何が出来るのか、出来ないのか、というのはいわゆる学校制度の中の優劣と正比例しないのは確かなようです
いずれにしても人間の文化の程度はまだまだということなんでしょう
剣道の達人、賭け事の達人などなどの語ることは人間の可能性を示していて興味深い
新渡戸稲造は、納豆作りの女性の技術に感嘆していましたが、やはり人間の能力の未知なる可能性ということでしょう 新渡戸さんの教養に対する理解はとても興味深いです
なぜ戦後で途絶えた観があるのか
やはり戦前の全否定もあって、彼は武士道という形で述べていますから、それもあったのかなと思ったりします
また教育の在りかたも、先生と生徒が対等な授業方式とか、いろいろ面白い
いずれにしても、科学の分野のブレゴジンが語るように人間はまだ始まってもいないということなのでしょう わたしは科学の最終理論は光速度一定の原理の理解から導かれると理解していますが、同時にそれは出発点だと考えています つじつまがあう。
理由がないということ、それだけ。
思いついたのでメモ。 わたしの実家は工場でしたが、そこで働いている人が講習会に行って
ある技術を数時間でマスターして指導していた人が驚いたそうです
小さい時から手先が器用だったそうですが、目の前でその技能を見ていて
こんなのは大人になった今でも俺なら数ヶ月は掛かりそうだなと思いました
本人は必死だったからと言っていましたが、いやいやそんな思いだけではと思ったりしました
数学は思春期に集中的にやらないと伸びる可能性はほぼ無いそうです
諸分野の能力の獲得は時期、環境の問題は大きいのでしょうが、可能性としての能力自体は個体差があるのかというと疑問だったりします
人間がこの先どのくらい生存するかはわからないのですが、後世の人たちが振り返ったら
人間の能力が先天的と理解していることに苦笑する気がします >理由がないということ、それだけ。
これはわたしの理解と同じですが、内容が一致するかどうかはわかりません 理由が無い
とは、理由がわからない、であるかも知れない
さらに、それは理由を説明できない、かも知れない
そして、説明できない原因は、それが(良く)分からない以外にも、何らかの理由で(今は)説明できないのかも知れない。
(ほとんどメモですので悪しからず) >>695
こういう人って、アスペだよ。
IQが高いほど、自閉傾向がある。
でも、しかしながら驚異的な能力というのは理解力じゃないよ。
現象が初めから捉えられている人。
何もしないうちから10段階中8くらい見えててあとやるだけって人がごく稀にいるらしい。
あとは学力が伴えばいいんだけれどね。
そういう研究者は、1人知ってるけれど、できすぎて人の気持ちが分からないみたいだね。 単なるアスペは、往々にして研究が苦手。
手先は不器用だし、深く考えすぎて行動に起こすのに人の何倍も負荷と時間がかかるから。 あとよくあるのが、教科書に書いてることしか理解できない人。こういうタイプは文献調査はうまいのだろうけれど、研究は苦手。 それもありますが
自然に存在理由は無いですからねえ・・・
この物理状態が、この物理条件だとなぜこうなるのかは究極としてはわからない
米を炊くと柔らかくなる
なぜ柔らかくなるのか
○○だから・・・無限遡行となる
可知は不可知であるから
これも決定不能のような
理由は人間が何故?と問うからであり・・・ 若いうちは先天的な能力が大半だが、(血統的な仕込みとか、)繁殖になると
より後天的な能力が重要。
・・・未だ理解力の段階か・・・。
アスペは無理に既存の人生のフレームに当てはめると苦戦するから、
セレブな、シードな待遇になるように育てなさい。 イマイチわからないけど、なんかわかる気も
初歩につまづくタイプですので、はっきり捉えられないのですが
>でも、しかしながら驚異的な能力というのは理解力じゃないよ。
現象が初めから捉えられている人。
何もしないうちから10段階中8くらい見えててあとやるだけって人がごく稀にいるらしい。
あとは学力が伴えばいいんだけれどね。 有名な武道家が達人、名人はけっこう普通以下の運動能力がいると語っている
アドラー心理学も、そんなところが大きくクローズアップしていたような記憶が在る
百メートルは才能だが、あとはそんなに必要じゃないと断言してけどね
個人的には特に欠損が無い限り、先天的なものはそれほど重要じゃないと認識している 武道に向いている人、学問に、ということは認めているけど
それは性格みたいのが大きく関係して、能力そのものとしてはどうなのかな
環境との関係も大きいんだろうけど
いずれにしても未だわかっていないことだらけでしょう >>708
いや、大抵これなんだよ。大発見ではないけれど、コンスタントに現象解明していく有能な研究者って。つまり、想像力に長けた人。隣に論理的で学力のある人がいればOK。 >>711
10段階中8、予めほぼ完璧に予測できる人は本当に稀だけれど。 いずれにしても、わたしにとっての学問は人間という存在の自己言及です
自然科学も人間存在の自己言及という側面が強い
宗教ではなく、学問で人間の在り方とか生き方の探求を考えてみたい
その時々の社会の枠もあり、それが撤廃しても良いのか、拡げても良いのかとかいう問題もあります
それらの洞察もして人間がそれぞれの能力を発揮できる社会というのが良いんでしょうが
それはそれできついのかなとは思いますが、社会制度の改善も必要なんでしょう
自由主義と社会保障のバランスをどう採るのかは、様々な発展との関係なのかなと思います
現状の資本主義社会はバランスを逸している観があります >>711
インドの事務員出身の数学者思い出しました
一日に定理を一つ、二つ証明なしに記し、それを英国数学者が纏めると言っていたような ちなみにそれを紹介していた数学者は、年に一個か二個定理発見している程度だと言っていました
それでも、そこそこなんでしょうか cos(2π/(2iπ))+isin(2π/(2iπ))=e
ですが、これが暗示しているのはやはり、
cos(2π/(2iπ))+isin(2π/(2iπ))=(-1)^(2/(2iπ))=1^(1/(2iπ))=e
ということなのではないでしょうか。さらに、^(t/(2iπ))が現存在を
存在者として映し出す鏡としての時間であると解釈するとき、
^(t/(2iπ))に現存在とされる1そのものが反射されるとき、つまり、
^(1/(2iπ))であるとき、存在者として映し出される現存在の
姿はeであるということを、このことは意味しているように思えます。
eは、それを日常言語で言い表すとするとやはり、習慣ということに
なるのでしょう。 >>714
これですね。ただこういう数学者がいたとしても、普通は利用されるだけ。例えば、結婚しててその夫が論文書いて出世するとかならいいよ。 個人的には、現行教育制度の中での優劣でしかないことがわかれば良いと思っています
仕事で有能な人たちが時折見せる劣等感は、やはりわたしたちが小さい頃から叩き込まれたことを示しているような
マーチあたりにも合格しなかった人でも、社会では十分能力を発揮してやっていける人もけっこう多いし
官僚になる人たちは、エリート意識は必要なんでしょうが、それでもそこから脱落したわたしたちとしては、それを振り回されても迷惑であり、どこかでそういう能力評価を在るべきところに位置づけたくあります
それは一つの能力であり、人間の能力全体の評価ではないのだと
ひいては人間そのものの価値の問題ではない
最近新渡戸稲造さんの語るところがとても面白く思えてきています
人間はいろいろな意味でまだ中世に毛が生えた程度の文化状態のような気がします このスレも小アスペと中アスペの群れかもしれない
俺は微小、ミジンコアスペかな ますます人間はスタート地点にも立っていないのかもと思えてきた >>716
それでも、普段、時間そのものとして認識されているのは、
cos(2tπ/(2iπ))+isin(2tπ/(2iπ))=(-1)^(2t/(2iπ))=1^(t/(2iπ))=e^t
におけるtの部分だけであるということなのでしょう。
現存在と時間と存在者の関係を説明しようとすると、説明や記述という
行為が一般に存在者についてのものであることを暗黙の前提とするので、
現存在も時間も存在者もすべて存在者として同等に扱われるかのような
錯覚を生じて、説明や記述は、一筋縄ではいかなくなる。そのような
錯覚を利用しなければ、記述は可能ではないが、他方、そのような
錯覚を脱しなければ、その記述の理解は不可能となる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています