時間とは何か 23
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>>711 わかるけど俺としてはそれは能力がどうというよりはその発想をその時たまたま持っていたかどうかだと思う もちろん能力が高い方がそういう発想をいくつも同時に抱えたり新たに気付いたりできるんだけど 天才が全くの無から思い付いてるように見えても、それは彼らがその裏にある理論を言語化できないだけで 彼らなりの思考の道筋というものはあるはず。裏に思考がないならたまたま当たることはあっても当て続けることは不可能でしょ >>763 イマイチ理解できなかったんで、展開期待したりします お前に俺の気持ちが分かるかよ。 まだ私欲で行動するのかよ。 中学生でも扱えるような簡素な放物線を使ったテレビゲームばっかり作りやがって 「裸の無」は保存則に従えない。それが保存してしまうと「空」になってしまうからだ。 「空」は保存則に従い、保存則自身でもある。 そして「主体」であり、「主体」であるがゆえに「空」は「空の『宇宙』」を持つ。 保存則が尽きると考えるならば、それは「空」の消滅である。 「空」の消滅とは「裸の無」になるということだが、「裸の無」は「無」であるがゆえに「ない」。 よって、保存則は尽きない。 すべては「空」の遺伝的発展である。 「空」とは「仏性」であり「神」でもある。 「神の存在証明」ではなく、「仏性の存在証明」である。「仏性」は尽きない。すべてのものごとは「仏性」の遺伝的発展である。 気を付けなくてはならないのは「遺伝的発展」という「煩悩」だろう。 「保存則」が「煩悩」をうみだしてしまう。 「保存則」こそが「煩悩」の元となる「愛」なのだ。 「空」は常に「可能性」をうみだしている。「可能性」とはなにか。それが問題だ。 「保存則」とは「自己射」であり、「対象」である。 「空」は対象としての自分自身を取り込もうとする。 ラッセルのパラドックスである。 パラドックスが矛盾にならないように「可能性」がうみだされる。 この「可能性」を「希望」であるとみなして、可能性をうみだす機構をパンドラ構造体と仮に名付けてみたわけだ。 矛盾+可能性=無矛盾 これが「変化」や「時空間」となるものの正体であろう。 パンドラ構造体、パンドラ機構への言及は先送りしてモナドを考える。 ライプニッツのモナドはモナドではない。 真のモナドは「空」であり、ただひとつである。 ライプニッツのモナドは「真のモナド」の遺伝的発展であり、やはり、モナドの定義から外れる。 時間には展望(prospect)と回顧(retrospect)があるんだよ。展望と回顧は、 対称的な関係にはない。なぜなら、回顧は既に起きたことの回顧であり、 個別の事象にかかわるが、展望は、これまでに生じたことの反復または 展開として見通されるのだから。 >>759 運動が継続している間、何も生まれないしなくならないのは理解できますが 身の周りでそんなことが起きないのは継続しているからではありませんか? 自然の存在形態そのものが停止する事態が起きる可能性がないと 人間が言い切ることはできないのではないかと思う。 光速より速いものはない 「今」のvelocityは光速 こんなに宇宙は広いのに遍く光速で同期 普く同時に訪れる未来 velo velo ばー 僕は理系の人達の方が好き。 だから、このスレは割と好き。 2 絶対座標の否定が示すこと 光速度一定の原理は不思議ですが、ここで注目されなければならないのは、絶対座標が実在しないということです。 地動説もそうですが、わたしたちは対象の運動を理解する場合には座標原点、運動量ゼロを適当に設けます。 光速度一定の原理は、自然における絶対座標、つまり自然における始点を実験で否定したものです。 座標原点はゼロ次元ですが、数学に拠れば数は部分を持ちません。その数をたとえ無限に集めたとしても0が部分を、つまり大きさをもつわけではありません。0×∞=0です。 このことは次元の実在が否定されたことを意味しますが、それは後ほど論じることにします。 この原理は静止が自然のどこにも存在していないことを示しています。 つまり自然の存在形態は運動ということになり、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を導くことが出来ます。 なぜなら運動を前提に有と無という否定関係が成立することはないからです。 いわゆるエーテルという光速度を変えるような物理存在は無いのですが、運動の普遍性を示していますから、物理存在そのものは否定できませんし、ディラックの海はそのことを裏付けていると言ってよいのです。 いわゆる真空はエネルギーの基底状態として理解すべきであり、何も無いわけではないということです。 ここから観測問題である対立する波と粒子と理解されている現象は実は波が渦の状態を呈していると考えれば対立、否定関係は解消されます。 自然は運動するエネルギーの濃淡の海ですからすべては波ということです。 (この理解はなんら突飛ではなく、現在でもブリゴジン学派の科学者たちはその予想で研究していますし、十九世紀の英国学者はそのように理解していますし、また古代ギリシャ哲学の一派は粒子は波の一形態だと述べています。 「ビッグバンはなかった」の著者であるラーナーはこの説に言及していますが、銀河系の渦状態を示す方程式との関係で面白い指摘をしています。) 重力は加速に必要なエネルギー量、諸力はある物理的状態から違う物理的状態、つまり渦の状態である粒子をさらに小さい渦状態に生成するのに必要なエネルギー量と定義すればよいわけです。 この理解において重力、諸力はエネルギー量に還元できるわけです。つまり力は実在しないのです。 重力は加速に必要なエネルギー量であり他の諸力は運動する自然の物理状態の生成過程に必要なエネルギー量という違う側面であることになります。 いわゆる最小単位問題は、ある物理条件が設定可能ならばいくらでも小さくできる、実際には渦の状態である粒子をより小さい渦状態にすること、つまり最小単位は実在しないことになります。 つまりすべては運動するエネルギーの多様な在り方ということです。 光速度一定の原理が示す無矛盾な自然観から、観測問題と最小単位問題の一つの解決案を出すことができましたが、不確定性原理は違う問題ですので次章以降で解決案を出すことにします。 二時間前に書き飛ばしたので推敲はあまりしていませんが ここで簡単に自己言及について考察したいと思います 三浦つとむ氏は、言語を対象ー認識ー表現という構造を持つとしました。 スポーツの実況中継はそれがよくわかります。 わたしという言語表現の場合、自己言及ですが、対象と認識主体が同一です。 この「わたし」という言語表現の認識構造を考えてみることにします。 わたしたちが地図を描く場合には、頭の中で街の空の上に自己がいるものとして描きます。 日本地図、地球、太陽系などそれまでの知識が元になって描くわけです。 またわたしたちは赤ん坊を見て自分の過去、年上の人たちを見て自分の将来をそれぞれ想像します。 テレビドラマを見たり、小説を読んだり、映画を観たりして頭の中で過去や未来、現在、他の天体に行ったり、宇宙人が来たり、またそれらの中の主人公とか空想上の、また歴史上の人物などになったりします。 わたしたちにはこういう能力があり、それは三浦つとむ氏は観念的な自己分裂と名付けました。 わたし、という言語表現も、頭の中で自己自身を対象として、認識し表現するわけです。 それを直接示すのが、鏡です。鏡を見てわたしたちは服装が似合っているかとかいろいろ観察します。 この場合、実は頭の中では鏡に映った自分が現実の自分を認識することになります。 この場合、鏡の中の自己が認識主体ということになり、現実の自己は認識対象であり、それが「わたし」という表現となります。 これまでが三浦つとむ氏が「日本語はどういう言語か」、「弁証法はどういう科学か」で展開された観念的な自己分裂という用語のわたしの理解した説明です。 わたしは、ただ一点この説明に疑念を抱いています。 それは表現された「わたし」は鏡の中の「わたし」が現実の「わたし」という理解です。 実はここにも「クレタ人の逆説」の本質である決定不能という命題が潜んでいるのではないのか、ということです。 認識対象である現実の自己と認識主体である観念としての自己は対立関係で、互に他者としての自己です。 つまり現実の自己、わたしは鏡の中の自己にとっては他者でもありますし、また鏡の中の自己は現実のわたしには他者なのです。 「わたし」という表現にはこの決定不能というクレタ人の逆説が潜んでいるのではないか、というのがわたしの疑念です。 認識対象と認識主体という対立、否定関係がもたらす決定不能ではないかという疑念です。 表現としての「わたし」という自己言及は認識主体と認識対象という対立が本質としてありますので、このような決定不能の命題を抱えます。 運動を理解するには静止という運動の否定で理解しますが、運動とは何かと定義することは、そのことの自己言及です。 数学では有限を無限で理解しますから、これも否定関係ですし、不完全性定理はこのことの自己言及です。 自然科学という学問は自然が生成した人間の脳が自然を理解しますから、その本質として自己言及であることに成ります。 意識が薬で変容することは知られますし、睡眠薬は意識を一時的に無くしたりできますし、また脳を無くせば意識もまた失われます。 このことは意識は物理存在のある状態の付随現象と理解されるべきことを示しています。 未完 (全て私見ですので(当たり前)、以降、断りません) 世界とは何かの問題 世界は、意味的に世界である。世界が、どういうものか、が説明される必要があるでしょう。 世界は、意味的に世界である、と言う言明は、また、主張でもあり、他者の同意を求めるものです。 意味の個別性 蕎麦の場合を、考えてみます。蕎麦は食べもので、如何の斯うのと辞書によって説明されます。しかし、蕎麦アレルギーの人にとって、それは食べものではありません。 意味は、個人的、個別的なあり方をしています。 個別的なあり方の意味から、世界を捉え、説明する試みは、他者との共通世界の成立を、またそこから、説明しなければなりません。 意味は、行為にある 意味は行為にあります。わたし、という言辞の意味は、その発言行為にあります。誰かに対しての、発言行為にあります。 人が、わたし、という言辞について思考する時、既に、その思考は言語行為の前提の中にあります。 前提が、仮定されています。そうでなければ、その言語は、発音されず、書かれてもいないので、それこそ、何の意味もありません。持ち得ません。書かれた言葉は、誰かに読まれることを前提してあります。すなわち、無言の中で、表象される(読まれる)、行為を前提して あります。 (全て、説明不足ですが、とりあえずの 概略にはなるでしょう) たかが「自然」世界の理解をするための部位でしかないということで 『神との対話』シリーズの神。 どこか特定の宗教だけの神ではなく、 世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。 思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。 イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。 今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。 この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。 《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》 https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome 意味は行為に 意味は行為にあるので、実行出来ないなら意味がない、と人は日常的に発言します。 そして、必ずしも実行可能性の見通せない物事について思考する(思考を繰り返す)事態が、人の実存が、サルトルの言うように、言わば、(即自存在と対自存在に、)分裂してあるかの様に捉えられる原因です。 共通世界 個人的、個別的な意味から捉えられた、言わば一次的な意味世界より、他者との協力共同する共通意味世界の、獲得、説明が、諸社会科学の基礎になります。 時間は実在する すべての存在は変化(生成・消滅・動)する 変化は少なくとも二つ以上の物が存在しなければ変化はない 一つの物しかなければ何物にも変化しえない 変化とは物と物との関係性が本体と言える しかし関係性それ自体はただの事実で現実的には何も動かすことはできない 物と物とを動かす別の力を必要とし、それは必ず継続的でなければならない そのようなものは時間しかなく、時間は実在すると言わざるをえない 翻って獲得される世界 人は、ある社会のなかに、既にあり、その社会のなかに流通する意味を受け取り、社会を(世界を)受け取り、その中の自己を了解し生活を始めます。 しかし、いつかフィロソフィア的思考を始める時、翻って意味とは、世界とは、自己とはと、思考し、そして個別的な意味世界を獲得します。意味世界は翻って獲得されます。そしてその個別的意味世界から、他者との共通意味世界が 獲得、構築されます。様々な、制約や条件付きだったとしても。 その制約や条件のあり方が、その時代と呼ばれます。 科学が示す事実として世界は一である すべては差異としてあることもまた示している 差異としての関係性というだけ 一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として減少しているだけ 科学は次元そのものの実在を否定している ここから出発しなければならない >一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として減少しているだけ 一つのものの存在形態が運動であり、その濃淡、差異が多として:現象しているだけ 否定関係で理解しているだけ 生物分類はそのことを示している ウィルスは生物もまた物理存在としてということを示している 生物は物理存在の差異でしかない わたしたちは時間とは何かを自然が示す事実から理解すべきであり、それ以外ではない 過程さんの「時間」は死体にとっての時間って感じなんだよなぁ 素の宇宙は死体か 理解とは 1足す1は、2ですね。数学者は、これを厳密な科学と言います。 しかし、実際1足す1は、2にはならないといった方が正しいのです。 まず、1リットルの水を正確に取る事が容易ではありません。更にもう一つ1リットルの水をとったとして、それを合わせると2リットルの水になりますか。 容器に張り付いて、移動しない水を考慮しただけで、それは出来ない事が明らかです。 更に、2リットルの水があったとして、それを1リットルと、1リットルの水に分ける事が出来ないなら、初めにあったのは、2リットルの水であると主張する行為は、どれほどの意味があるでしょうか。あるいは、あったのでしょうか。 我々は、人は、理解させられているのであって、それ以外ではありません。あるいは、それを越えて、理解していると言う者は理解の伝道者か、何かの諦めを呑み込んだ存在者でしょう。 理解とは 実存者の理解とは、理解させられていると言う、一つの現象である。社会内存在の現象である。 理解しょうとする行為が、悟りとか、何かの諦めに行きつくのてはないか。 (前項、最後は少し言い過ぎ) 宇宙を完全解明した人間はいない 実際に示している自然の運動から宇宙を理解しようとするのは認識学で 科学は認識を証明できなくても、自然法則から宇宙世界の構造を考えるのが哲学だな > 何も生まれない、無くならないのが宇宙 何も生まれないし無くならないのが自然だったものから宇宙という世界まで通用するかどうかが 自然を理解しただけでは不完全だろう 理解とは 水の件、の他に、二個のリンゴを検討してみます。街で美味しいそうなリンゴを見かけたので同じような大きさ、形、色の物を選んで二個のリンゴを買って帰ります。 二人の兄弟が、そろってリンゴが好きだからです。二個のリンゴは、一個と一個のリンゴに分けられるはずで、問題は無さそうですが、そうはなりません。 一方が、こちらが欲しいと言い、もう一人もそれが欲しいと言えば、事件の発生です。 最初にあった二個のリンゴは、リンゴ花(固有名詞)と、リンゴ雪だったのです。 自然を(傍観者的に)理解するということがそもそもの間違い。 ホイラー的見解では「理解」は「傍観」ではなく「参加」である。 参加型の理解でなくてはならない。 (ま、わたしの場合は、参加を通り越してメソッド哲学(c)なわけだが) 時間了解 ハイデガー風に言えば、我々は日々、時間のなかに居て、時間に対応して生活している。それでありながら、時間とは何かと問われると答えられない。 つまり、ある時間了解のなかに居る。 その了解は、意味的である。 傍観者では意味がとれない。 参加者であるからこそ「意味」があるのだ、と考えるとおもしろい。 哲学と量子論は同じものだなやはり。 時間とはマンコだよ オ マ ン コ を哲学する。A [無断転載禁止]©5ch.net 1 名前:考える名無しさん 2017/04/06(木) 00:37:12.63 0 おまたせ シーズン2だよ。 自然科学が示した事実でそれ以外ではないし そこからが出発点だろう e^t(cos(t)+isin(t))=(-1)^((1-i)t/(π))=(cos(π)+isin(π))^(2t/(2π)+2t/(2iπ)) 余計な括弧が入っていたから訂正 e^t(cos(t)+isin(t))=(-1)^((1-i)t/π)=(cos(π)+isin(π))^(2t/(2π)+2t/(2iπ)) 付随現象としての意識は、うまれて、なくなる から保存則的にはチャラですか? そも無関係? 出発する時が訪れる。訪れた時を振り返って見ると、そこに出発してからの時間がある。 >>812 この辺は説明が難しいなあ 物理状態は恒常として在るのですが、それはであって、ではない、ということが、です。 対象は、で在って、ではないという決定不能です 存在者の現れというのは、回顧的(retrospective)な反復の写し(double)である と言うことができるのかもしれません。 物理存在としては何もなくならない、生まれない 物理存在の運動変化による状態は、であって、ではないということ このことは無くならない ○○であって、○○ではないというのは不同一を同一として捉えるからです 運動変化の過程で差異としての物理状態に生成されていく 物理としては何も無くならない、生まれない やはり理解の在り方が生死という認識になるわけですが なんか手懸りが掴めそうなんですが やはり同一という理解の在り方の問題だとは思います 挟雑物が何か、ということが判れば >>811 この表現は、よく耳にすることのあるフーリエ変換と呼ばれるものと 関係しているようですね。私には、数学的な説明はさっぱり分らない けれど、存在者として認識されたものの時間的変化を現存在との かかわりで考えて言語化するためのヒントになりそうだと感じられる。 数学を専門とする人にそんなことについて尋ねても、無関係だと思うと 即答されるだけだとは思うけどね。 運動変化している自然を静止で理解する この今に於いて、であって、ではないという物理状態 今は運動であり、幅が無い 幅が無いとは静止で理解された運動 であって、ではないという物理状態が恒常 である、という静止で理解した対象は運動変化している わたしという静止で理解した対象 言葉は静止であり、理解に付き纏う 運動を静止で理解する 静止で理解された対象は運動変化して差異としての物理状態と成る しかし物理状態としてのであって、ではない、ということ自体は失われない どこで差異として質の違う物理状態と成るのかは、始点が無い以上認識できない この今に於ける差異としての物理状態というのは無くならない 因果的閉包性 - 心の哲学まとめWiki - アットウィキ https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/50.html アルキメデス「私に地球外の1点をお与え下されば、地球を動かして見せましょう」 「理解」とはなにか。 「わたし」である人間は想定しない。 人間を想定しない場合の「理解」とはなにか。最低限必要なものはなにか。 「理解」するということを「理解」できなければならないだろう。 それが「理解」できねば「理解」ではない。 しかし、人間を想定したとしてもそれは理想にすぎないのかもしれない。 >>823 なんだそれ? ゼノンのパラドックスってやつ? >>823 その理屈は通ると思う そしてその理解は科学的になんの役に立つ前提なのか 無くなるとは静止、否定として理解された運動変化する物理状態であり、運動しているエネルギーが呈する変化する物理状態自体は普遍であり無くならない。 同一であることは無い自然を同一で理解する。 同一であると理解された不同一である自然は常に生まれ、また無くなっているとも理解できる。 つまり存在すると同時に存在しないということ。 >>829 自然認識の在り方の前提です 有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり 自然そのものではないということです。 >>828 ゼノンの逆説をどう理解したらよいのかが出発点です 3 次元は実在するのか 次元の出発点であるゼロ次元を科学革命である地動説、そして光速度一定の原理も否定しています。 一次元はそのゼロ次元の無限集合であり、二次元もまたその一次元の無限集合、 三次元もその二次元の無限集合であり、運動しない三次元の実在は光速度一定の原理によってその実在は否定されます。 三次元はもともと自然の物理存在、たとえば木、机などの高さ奥行き幅などを計るためには便利ですし また時代が違っても場所が遠くてもその単位で計測された記録があれば理解できるわけですが 高さそれ自体、奥行きそれ自体は実在せず 物理対象としては分離できるわけではありません。 始点、幅、厚み、運動などの諸次元はそれぞれ独立して自然に実在しないのです。 つまり次元は対象の大きさを理解するために物理存在から抽象されたものであり、実在しないのです。 それは果物一般は実在せず、個々のミカン、リンゴ、スイカとして実在するのと同じです。 単位にしてもフット、つまり足の大きさで測られたりメートルで測られるのですが、 単位の設定は自由で、単位を変換すればヤード、尺で理解することも可能になります。 このことは単位が物理存在から抽象したものですから変換自体が可能になるということです。 また自然は濃淡の海ですから、ここからここまでということは量子の世界では在りませんし、 このことは物理存在の次元の実在を否定しているわけです。 わたしたちは濃淡の海である淡、エネルギーの基底状態としての真空は認識できないのです。 四次元である時間はどうでしょうか。 三次元が諸次元の集合ですが、当然四次元もまた三次元の集合ということになります。 四次元もまた三次元の無限の集合となるわけです。 四次元、つまり時間が実在すると仮定します。 そうだと仮定しますと一秒の時点にも対応する三次元があることになりますし、 どの時点を指示してもそれに対応する三次元が実在することになりますし、 最小単位としての時間、四次元が実在するとしたら、三次元が四次元を構成しますから、 当然その中に無限に実在しなければなりません。 仮に一秒という時間が実在するとしたら、一秒と自然に存在できない寿命の短い、 たとえば素粒子という物理存在はわたしたちの目の前には在るのと同時に無い状態に成ります。 次元が実在すると仮定しますとたとえ時間がどのように短くとも三次元 、つまり静止している物理状態が無限に実在しなければならないのです。 つまり四次元もまた三次元同様にその実在が疑問になるわけです。 三次元が物理存在のための頭の中にだけある存在ならば、四次元もまたそのようなものとして在るのではないのか、という理解になるのは当然です。 では次章では四次元、つまり時間とは何かを論じる前に論理と何かを考えてみることにします。 4 論理の性格について たとえば、わたしという物理存在は赤ん坊から大人になるまで大きく変化していても、同一としての「わたし」として理解されます。 地球でも太陽系でも自然でも、それ自体では常に運動変化していますしこの意味では人間と同じで、地球、太陽、自然という同一で理解します。そして人間も地球も太陽系も自然自体はどんな場合も同一であることはないのです。 光速度一定の原理が示すように静止は実在しませんし、同一であることはありません。 つまりわたしたちは非同一としての自然という対象を同一で理解するということです。 言い換えると運動する対象をその否定である静止で理解するということです。 このことは自然認識の在り方にどうかかわるのでしょうか。 ヘーゲルという哲学者は、今、此処と指示すると今も此処も飛び去ると指摘します。 このように運動は直接には捉えられませんから量で理解するわけです。 対象である物理対象、つまり人間、車、などなどの速度は座標原点を適宜に設定して運動を量にして理解するわけです。 このことは運動を静止、つまり運動量ゼロとして無限の集合としての四次元、つまり時間で理解することを意味するわけです。 微積分で、限り無くゼロに近いがゼロでは無いということ考えが前提になっていますが、この運動という有を静止という無で理解するということを示しています。 (この不思議な考え方はクレタ人の逆説とも関係しますが、それは後ほど述べることにします。) またヘーゲルは「運動とは存在すると同時に存在しないこと」と定義しました。 この定義を最初に読んだときにわたしはまったく理解できず、この謎のような定義は以降わたしの頭を離れませんでした。 この不思議な定義を理解する鍵であると思われる「クレタ人の逆説」を考察することにします。 「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というものですが、仮にクレタ人が嘘つきならば、クレタ人本人が嘘つきであるということは言いませんし、クレタ人が正直でしたら、嘘つきだと言うことは無いのです。 この命題は決定不能の命題と知られていますが、この問題は対象をその否定で規定するからです。 クレタ人が嘘つきであるということをその否定、つまりクレタ人が正直に言うからです。 運動を理解する場合に、わたしたちは静止という否定で理解しなければならないのです。 ゼノンの逆説の一つである「飛ぶ矢の逆説」というのがありますが、これは「飛ぶ矢は空間の一点に存在するが、静止もまた空間の一点に存在することだから、飛ぶ矢は飛んでいない。」というものです。 「存在」という定義もまた静止であり、運動を静止、つまり対象をその否定で理解しなければないないことをこの逆説は示しているということです。 つまりクレタ人の逆説と同じであり、運動という対象をその否定で規定するからなのです。 板倉聖宣氏が「新哲学入門」で示すように論理の本質は静止ということを「飛ぶ矢の逆説」は示しています。 ヘーゲルの運動規定もまた、対象をその否定で理解する、つまり運動を静止で理解するから「存在すると同時に存在しない」という決定不能となることを示しています。 いわゆる弁証法の主張する矛盾とは、この決定不能であることを示しています。 生物学者のある方は、生物は生きると同時に死んでいると語ります。つまり生物もまた物理状態としては同一であることは無いわけですが、同一で理解しなければならないことを示しています。 自然もまたその存在形態は運動ですから、同一であることは無いのですが、同一で理解しなければなりません。 ゼノンの逆説は良く知られたものに四つあります。 一つは「競技場の逆説」で時間と物理に最小単位があると仮定するとその半分が存在することを証明したもので、最小単位は実在しないことを示します。 またピタゴラス学派が主張するように自然を構成する数が部分をもたないのならば、アキレスの前にいる亀の空間には無限の数が実在しますから、その無限の数をアキレスは踏破しなければなりません。 (それ以前に部分の無い数、大きさの無い数を無限に集めても大きさを形成することはありません。 0×∞=0なのです。) 二分の一の逆説も大きさの無い数が実在したら目的地に到達することはできない、つまり運動は不可能であることを示しています。 「飛ぶ矢の逆説」は点、つまり大きさの無い数が実在したら、運動が不可能であることを示しています。 この逆説は座標原点が実在すると仮定すると、飛ぶ矢はその一点に実在するのですから、座標原点が意味する静止とその否定である運動は区別がつかなくなるわけです。 (ライプニッツは静止とは運動の均衡状態だと指摘しています。 野球のボールが静止している状態にあったとしても地球自身は運動しています。 わたしたちがこれらを、動いている、動かすと認識ことはこの均衡状態が破れる、つまり加速であることになります。 つまり運動の否定である静止は自然には実在しないのです。) ゼノンの逆説は、ピュタゴラス学派が主張するように大きさの無い数が実在したら運動は不可能であることを示しています。 科学もまた絶対座標の実在の否定を意味する光速度一定の原理によって、大きさの無い数の実在を否定しました。 しかしこの逆説は数で理解することは否定していません。 存在という言葉は静止であり、わたしを含む自然を静止として理解するということです。 つまり対象をその否定で理解することです。 自然の存在形態は運動である、という場合の存在という言葉は静止ですから、決定不能ということになるわけです。 科学革命である地動説はこの意味では地球が静止すると「仮定」、つまり座標原点を設定して天体運動を観測することを指摘したとも言えます。 光速度一定の原理は絶対座標が実在しない、つまりこの自然のどこにも静止する特別な位置が実在しないことを示します。 このことで自然の存在形態が運動、つまり無矛盾で理解可能であることを示しました。 このことは自然認識である自然科学という学問は、あくまでも人間の自然認識の在り方、つまり静止で理解されていて、自然とはイコール、つまりそのまま自然を写したものでは無いことを示します。 このことは自然科学の理論を規定してきます。 科学革命は自然が運動するエネルギーの濃淡の海であり、わたしたちを含めてその運動変化の結果としての生成過程に在ることを示します。 数、点が実在しないので空間に終始もまた実在しません。 座標原点、絶対座標が実在しないことはこのことを明白に示します。 ビッグバン仮説は未だに確たる証拠があるわけではありませんし、宇宙の果て自体も観測されていません。 いわゆるインフレーション仮説の前提である空間は光速度一定の原理から外れるという仮定は実証されていない仮説です。 あるビッグバン仮説を支持する科学者は新定常宇宙論を好き勝手な仮説を設定すると批判しますが、ビッグバン仮説もこのような仮説で成立していますし、 幾つかの観測事実を説明できていなかったりするのはどの仮説も同じで、近藤陽次氏が語るように、今のところこの仮説で決まりだということはできないのです。 この仮説はなによりも光速度一定の原理の前提である絶対座標が実在しないこと、つまり科学が発見した観測結果を否定しているのです。 さらにエネルギー保存則もまた否定しているのです。 これらの重要な基本法則を破り、検証されていない仮説で成立する学説をわたしは支持することはできません。 >>830 で、無くなる、無くならないということの説明を試みました まだイマイチかなあ・・・ 関係ないですが、例の731部隊のアメリカ公文書を調べた外人さんが 何も出てこなかったと記しているそうです なんかなあ・・・ アメリカが公開した731部隊の資料。 "To be honest, I'd hoped we'd find something," Mr. Drea says. "That's the historian's dream: fresh information that illuminates a dark problem. It just wasn't there." 「正直、何か見つかると思ってた。歴史家の夢、闇を照らす新情報、そんなものは無かった。」 731部隊関連文書、アメリカが隠してると散々言われ続けた機密文書が近年公開され 米の公文書図書館で10万ページを読み漁ったドレアさんのボヤキ http://chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm 〜まとめ〜 ・日本からの風船爆弾には細菌の散布装置はついていなかった。 ・石井中将には細菌兵器の戦略及び戦術的な使用に関する「着想」があった。 ・終戦後、731部隊関係者がモスクワ近郊で細菌兵器の研究プロジェクトに従事させられた。 ・患部の写真等の資料を石井中将が保管していた。 ・人体実験の証拠は一件も発見されませんでした。 ・ついでに「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが見つからなかった。 歴史としての事実はなかなか確定しないみたいだなあ 勝海舟の談話でも、法螺話もあるとかで、公文書とか調べたら 裏づけもある話もあるそうで 繰り返し検証できる科学観測もあるけど、それが何であるかはわからなかってりする わたしの科学への異議は、観測事実ではなくその理解です ライプニッツのニュートンの重力某定式への敬意と重力概念への異議と同じです 意味 閑けさや岩にしみ入る蝉の声、、芭蕉 どのようにしたら、岩に蝉の声が入ると言うのか、不可能である。蝉の声がうるさいのに、何故、閑かだと言うとか。論理矛盾である。 ランダムに打たれた点の集合を見て人は何かしらパターンを見つけると人はランダム性を疑う 逆にある程度の数値の上限を持たせた上でマクロに見ると均一に見えるものをランダムだと思う しかし真にランダムな場合は無限大に点の間隔が開く可能性があるために限られた範囲内に点が一つもない可能性の方が高い 数学や物理を用いて法則を導き出してもそれは人がそう思い込み法則を数学的に作り上げているに過ぎないのかもね 人は有限性の中でしか物事を捉えらないし 数学もまた有限の中で成立する学問だよね 文学も数学で記述は出来るだろうけどそこに有用性を見出さないから取り組む人はいない しかしAIに文学を書かせるといった取り組みも出てきている AIが文学を作る過程は複雑すぎて人間は把握できない、或いは把握に膨大な時間がかかり人間用には応用し難いだろう 意味 蝉しぐれ その山で作者が、体験した蝉の声は、何dBだったのか。その音量は、人が静かだと思える音量なのか。また、岩には確かに何パーセントかの音が入り込むが、それは音の周波数、その岩の表面温度、などで変化するだろうが、岩の表面で反射する音波の方がはるかに多量だろう。 音波が、しみ込むのであれば、周囲にある樹木への、浸透の量の方が明らかに多量だろう。 なぜ、作者は、樹木に吸収される音量に、言及しないのか。ナンセンスである。 3次元(パンドラ)は4次元を裏返したのだ 3から4で包まれたものは3軸加速度センサ なにかを理解するとは、そのなにかが当たり前になるということ 当然 同然 1/2*((-1)^((2t/(2π))+(2t/(2iπ)))+(-1)^((-2t/(2π))+(2t/(2iπ))))= 1/2*((-1)^((1-i)t/π)+(-1)^(-(1+i)t/π))=e^t(cos(t)) 1/2*((-1)^((2t/(2π))+(2t/(2iπ)))-(-1)^((-2t/(2π))+(2t/(2iπ))))= 1/2*((-1)^((1-i)t/π)-(-1)^(-(1+i)t/π))=e^t(isin(t)) 意味 『孝雄は、山路を登り始めた。連れは、いつもの山田である。山は実存する。風は無かった。傾斜は緩やかで、無言で登る。道は実存する。孝雄は、頭の中で繰り返す、私は実存する。 昼過ぎの、山路を他に登る者はいない。無は実存するのか。サルトルは実存を思考して、吐き気を覚えたのだが、孝雄にはそれは無い。傾斜が、いつの間にきつくなり、息が上がる。私は実存する。あたりは、杉の森である。 杉は実存する。突然、蝉の激しい声が辺りを支配した。道の左手は、黒い濡れたような岩肌である。蝉の激しい声は降りしきる雨のようだった。 ふと、気がつくと、山頂だった。野原が眼下に見える。山頂を示す道標に一瞥をくれて、二人、下り道にはいる。一陣の風が吹き過ぎる。孝雄は風は実存する、と思うと同時に、蝉の声でいっぱいだったその時、実存を、忘れていた事に気が付いた。 蝉はさっきの様に、激しく鳴くことは、もう無かった。 下りきった所に、お堂がある。入るとその闇の中に山田と座った。閑かである。 外に、出て帰り道を急ぐともなく歩く。再び、実存の問いが襲ってくる。闇は実存するのか。 ふと、気づいた、お堂の闇の中ではその問いは止んでいたと。、、、、完』 『、、から、、』、までは体験現象である。 それは、それの何であるかが、直ちに指摘出来ないが、ある意味を持っている。 翻って、芭蕉の一句は、ある物語の究極の凝縮ではないのか。 逆に、読む者は句から、自身で物語りをつくるのだ。 説明を若干、間違えました。 途中で、何を説明したいのか、混乱しました。 e^t(cos(t)+isin(t))=cos(t+t/i)+isin(t+t/i) e^t(cos(t)+isin(t))=cos(2πt/(2π)+2πt/(2πi))+isin(2πt/(2π)+2πt/(2πi)) 人間は自然というボールの上を乗りこなしているようなものですね ケージの中は自然エネルギーに満ち溢れ推移が激しく変動するため 科学で証明できることがあるものの ケージの外となるとエネルギーは停滞し、科学的認識の域を超え 推測の域をでない 生物、中でも最たる人間は、結果ボールの上でバランスをとるために 意識を開闢し乗りこなすしか術のない哀れなピエロですが、それを 自分の意思と信じ意欲的に立ち振る舞う人間という舞台を設け 自ら人生を強いている愚かな生き物、ボールから降りて歩き出すのは 不可能でしょう・・・ 地球の自転や公転を身体的感覚で感じとれる人っているのかな ほとんどの人は知識としての自転公転だよね >>861 好天の真昼間に野原に大の字になり寝っ転がって上空眺めてると雲の動きとかで身体全体が何となく自転公転してる気分になる 知識が全くなかった4歳の幼少の頃からずっとそう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる