時間とは何か 23
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5 ここでは四次元、つまり時間について考えてみます。
時間が実在したら、たとえどんなに短い時間を考えてみてもそれは静止
する無限の三次元が実在することになります。 ある物理状態はその中で無くなったり生まれたりするわけですが、それが
一緒に実在するということです。
これは実に理解しがたいことです。
では次元についてかんたんに考えてみることにします。
一次元は大きさの無い点、つまり実在しない点から成ります。
実在しないゼロ次元を無限に集めたら幅の無い一次元が実在すること
にはなりません。 実在しない一次元を無限に集めたら厚みの無い二次元が実在すること
にはなりません。 実在しない二次元を無限に集めたら運動しない三次元が実在すること
にはなりません。 同様に運動しない三次元を無限を集めても四次元が実在することには
ならないのです。
今には幅がありませし、その今を無限に集めても時間にはならないので
す。
四次元は運動しない三次元の無限の集合ですが、わたしたちはそれに
よって対象の運動量を測るわけです。
ゼロ次元によって位置を、一次元、二次元、三次元によって対象であ
る物理存在の大きさを、四次元によって運動量を測りますが、対象であ
る物理の存在形態は運動です。 わたしたちは目の前の自然の物理存在の大きさを測るときに縦横高さと
してその大きさを知りますが、縦横高さはそれぞれ独立して実在するわけ
ではありません。
どうように運動しない三次元は実在しないことからもわかるように、次元
自体は対象である運動する自然の様々な物理存在の抽象であり、対象
である物理状態の大きさ、運動などを認識する場合に必要な観念的存
在というべきものです。
三次元が物理の大きさの抽象であるように、四次元は運動の抽象です
。
いわゆる時間は常に定期的な運動をすると思われる、月、太陽、光の
運動量の抽象です。
これらでわかるように四次元、時間の正体は運動量なのです。 「此処」から、という座標原点、出発点は自然には実在しないことを科
学は示しています。量子力学は自然が運動するエネルギーの濃淡の海
であることを示しますから、わたしたちが「此処」と指示しても濃淡の境目
自体は自然には実在しません。
つまり仮定であり、近似値としてしか縦横高さは認識できないのです。
次元自体は抽象でしかなく実在しないのです。
語義から言いますと、現在は現に在る、過去は過ぎ去る、未来は未だ
来たらざる、ということで、過去も未来も現在には存在しません。
現在には幅が在りません。在ったらその中には過去も未来も並存するこ
とになりますし、基準の採り方で現在は過去や未来になります。
そして現在という有は無で理解されるからこそ、幅が無いということになり
ます。 様々なことは、現在の正体が運動であることを示しています。
わたしたちは運動を静止、つまり有を無で理解しています。
そして時間とはある対象の運動量をある物理存在、つまり太陽、月、光
速度などで理解していますが、この共通点はいずれも運動量です。
対象である自然はこの現在においてのみ運動していますが、次元が対
象である自然の物理存在の抽象であり、それで自然の物理存在の大き
さ、運動量を理解していますが、運動を量にしてその抽象が四次元であ
り時間で、ゼロ次元から三次元がそれ自体で独立して実在しないように、
時間という四次元は運動しない三次元の集合ですし実在するはずもあり
ません。
自然には数が実在しないことは、数に大きさが無いことでも明白ですし
、座標原点が実在しないことを科学革命は示しています。
時間もまた諸次元同様に自然を理解するために運動する自然の物理
対象を抽象した観念としての存在なのです。
この意味で、科学革命はゼノンの逆説の主張、つまり自然は数ででき
ていないということを裏付けたわけです。 6 ここではエネルギー保存則について考えてみることにします
エネルギー保存則については量子力学でその破れが言われています。
超心理学という分野では、理解できない超常現象と思われる現象がある実験方法で確認されますが
新たな実験方法でその理解できない現象が合理的に、つまり非超常現象として理解できるようになるのですが
それでもまた理解できない現象が出てくるという繰り返しの歴史だそうです。
エネルギー保存則もまた同じ歴史を辿っているという指摘があります。
これらは現在の科学の水準で理解できない現象は必ずしも超常現象、エネルギー保存則などの破れが実在することを意味しないということです。
科学の分野での一例をあげますと、雷はフランクリンの実験があるまで電気現象であることがわかりませんでした。
つまり理解できるまでは未解明現象であり、その時までの科学などでは理解できないわけなのですが
○○だと断定することは理解することになりますが、そういうことはいえないということです。
これは、雷の正体が不明なときに神鳴りと理解してはいけないということです。
その未解明現象が未来にわたっても未解明であることが証明されれば別ですが、それもわからない限り
それについて将来もわかる、わからないとは言えないということです。
量子力学分野でのエネルギー保存則の破れと言われている事象は、実は未だに確定しているわけではないということです。 量子力学のエネルギー保存則の破れといわれる現象は、自然認識は運動を実在しない静止で理解することですから此処からの此処は実在しない仮定である座標原点を設定した下での近似値ですし
不確定性原理の意味とは正確にそのまま対象を測ることが測定の本質上不可能ということです。
この破れといわれる現象は超心理学、エネルギー保存則の理解の歴史が示すように、対象では無く認識する側の在り方の問題だとするのが妥当なのです。 なによりも物理存在が無くなったり生まれたらどこに行くのかということにもなりますが、自然しか実在しませんから何処にも行くところはありませんし、また認識が近似値であり、そのままで理解できるわけではないのです。
そのことはミクロの世界であればあるほど顕わにされるということです。
量子力学でのエネルギー保存則の破れと思われる現象はあくまでも認識する側の問題でしかありません。
自然以外が対象として実在するとしたら光速度一定の原理である座標原点はどこにも実在しないという観測事実を否定することになります。
対象である自然には静止は実在しないということはそういうことでもあります。
自然は無限なのです。
わたしたちは、無くなる、生まれると認識します。
科学は何も無くならないし、何も生まれないと自然を認識します。
これはどういうことなのでしょうか。 生まれるというのは物理状態の変化です。
死ぬということもまた物理状態の変化です。
つまり物理状態の変化という観点からは生死は実在しないのです。
ある生物学者が語るように、生物は生きつつ、かつ死んでいるわけです。
生物もそうですが、自然自体は運動変化する過程に実在しているだけです。
それは或る物理状態から違う物理状態に生成していく過程に実在しているだけなのです。
或る物理状態は常に同一としては実在していません。
しかしこの不同一としての物理状態自体は恒常、つまり同一として実在することです。
不同一を同一で理解するから生まれる、無くなると理解することになります。
無くなるとは静止という否定で理解された物理状態であり、運動しているエネルギーが呈する変化する物理状態自体は普遍であり無くなりません。
同一であることが一切無い自然を同一で理解するのです。
同一であると理解された不同一である自然は常に生まれ、また無くなっているとも理解できます。
つまり存在すると同時に存在しないということで、決定不能であるということです。 7 一が多と成り、多が一と成り
科学革命である地動説、進化論、光速度一定の原理の発見によって自然科学は対象である自然が運動するエネルギーの濃淡の海であり、
濃淡の物理状態としての現象は差異であり
物理条件で他の物理状態との親和、反発の過程を経て様々な物理状態と成り、
またその物理状態もまた違う物理条件で様々な物理状態に成るという生成過程が自然であることが導かれます。
人間はその過程で生成され、また違う何かに生成されていく過程として実在します。
地球という自然環境も太陽との関係もありますし、また太陽もその基本として生成され、
また違う何かに生成されていきますし、自然は全てそのようなものとして在るわけです。
エネルギーの淡の状態は基底状態であり、無は実在しませんが、それを裏付ける事実として、
ディラックの海は真空は無でないことを示しています。 わたしたちの目の前の自然は多と現象しているのですが、それは一としての展開であり、濃であるエネルギーの状態が認識可能であり、淡の状態は認識できないということです。
むろん、濃であるエネルギー状態は条件によって淡となり認識できなくなりますし、またその逆もあるわけです。
一は多として現象しますが、それは一が濃淡の海であり、淡は認識できないからです。
一は多と成り、多は一と成る、ということです。 8 哲学と数学の諸問題
ここではかんたんに板倉聖宣氏が指摘した論理の本質である静止という観点から、
今までに述べきたことを概観することにします。
つまり古代ギリシャが提起した諸問題と、カントの二律背反、
つまり時空には終始があると同時に存在しないこと、ヘーゲルの運動定義と矛盾、数学の不完全性定理などです。
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解することが原因で決定不能となることを示します。
ゼノンの逆説は、自然が多、つまり数で出来ていると仮定すると運動は不可能であることを示しました。
科学革命は大きさの無い点が実在しないことを指摘しています。
わたしたちは自然という運動する対象を静止、つまり否定で理解するということです。
カントの二律背反は、自然、つまりは無限の運動する自然を理解するには否定である有限で理解するという
自然を理解する論理がもたらす問題です。
つまり自然は無限なのですが、論理は有限であるということを示しているわけです。
ヘーゲルの「運動とは存在すると同時に存在しないこと」という不思議な定義は、運動を静止、
つまり対象をその否定で理解しているために決定不能ということを矛盾と捉えたもので、正当だということです。
数学の不完全性定理もまた有限を無限で、つまり対象をその否定で理解するので決定不能な命題が在るということです。 またこれらは論理の自己言及という側面があることを指摘しています。
自然は運動し無限ですが、論理自体は静止であり有限です。
静止は実在しませんが、論理の中では存在します。
つまり論理は無が「在る」という矛盾で成立しています。
ヘーゲルの運動定義はそうですし、弁証法の矛盾とは決定不能の言い換えです。
つまり無矛盾である自然を矛盾である論理で理解しなけれはなら無いのです。
(科学革命は、自然においては座標原点が実在しないことを示しますし、このことは論理、つまり静止、有限の実在を否定していることを示しています。
科学理論は人間の認識に対象化されたものであり、実在しませんし、方程式も近似値であり自然の運動そのものではないのです。)
クレタ人の逆説でわかるように、運動を定義する論理は静止、つまり対象をその否定で理解するのですから、決定不能となるわけです。
アインシュタインは自然をなぜ理解できるのかは理解できないと語りました。
自然は無矛盾ですから理解可能なのですが、理解自体は無の存在という矛盾ですから理解できないのです。
自然という運動する対象を論理という静止で理解しますから、運動はヘーゲルが規定するように矛盾、つまり決定不能ということになります。 9 宇宙論の現在の主流はビッグバン学説ですが、近藤陽次氏はその著書で今のところは何も決定的な証拠がないと指摘していますし、
宇宙背景放射もまた火星に運河を発見した類ではないかという指摘を或る天文学者がしていて、
これでノーベル賞を受賞したスムート博士がこの可能性を否定していないことは前にも述べましたが、
この宇宙背景放射という理解については以前からビッグバン仮説に批判的な科学者たちが同様のことを指摘しています。
またいわゆる宇宙が膨張している証拠であるとする赤方偏移は必ずしも膨張していることを示しているのではない可能性を
アープという天文学者が観測事実を集めて指摘しています。
科学史は科学者が発見観測した事実を正確に理解しているわけではないことを数多く示していますし、天動説はその典型であるわけです。
この仮説はエネルギーの保存則を破ったり、インフレーション仮説は光速度一定の原理は空間には適用されないとしたり、
天動説がその綻びを繕うために周転円をたくさん描いたように、様々な仮説で一杯になっています。
現代科学、なかんづく宇宙論の分野では光速度一定の原理が示した絶対座標の実在の否定が忘れられていますが、
ある科学者が語っている、宇宙の始まりまであと僅かまで迫っているというのはかなり疑問だと思っています。
わたしたち自身もそうですが、身のまわりの全ては始まりはありません。
始点の実在、つまり静止は科学によって存在しないことが証明されています。 新井白石は、西洋では自然を神が創造したと主張し、神は元々存在していると考えているようだが、だったら自然が元々存在すると考えても良いと指摘しているそうです。
わたし自身はエネルギー保存則の何も生まれないし、無くならないという科学の示す事実からも、この新井白石の指摘はもっともだと考えています。
科学は自然が無矛盾、つまり理解可能だと前提しないと成立しません。
自然の誕生と死、無、つまり非自然から有、自然からの無ということはエネルギー保存則の否定となります。
ビッグバン仮説はこれらの科学の成立条件と基本法則と合致しません。
科学の基本法則と科学革命が示すように自然は生まれたものではなく、運動変化するエネルギーの濃淡の状態としてただ在るだけなのです。
新定常宇宙論もまたエネルギー保存則を破ります。
プラズマ宇宙論は、プラズマが宇宙のほとんどであるから宇宙はプラズマが主役だと主張しますし、無限宇宙論であり、エネルギー保存則、光速度一定の原理などの科学法則を破りません。
またプラズマ宇宙論を支持するぺラット博士は、シミュレーションで様々な形の銀河系生成を再現していますし、ラーナーは宇宙の泡構造を予想したと述べています。
ビッグバン宇宙論が主張する宇宙年齢ではいわゆる大構造形成に必要な時間はとても足りませんが、無限宇宙論であるプラズマ宇宙論では無視できます。
ビッグバン宇宙論、新定常宇宙論、プラズマ宇宙論とありますが、説明できない観測結果があるのは現状ではどれも同じですが、わたし自身は既成の科学法則を破らないプラズマ宇宙論に可能性を感じます。
なによりも科学革命が無限宇宙論を支持しているのです。 有限宇宙論と無限宇宙論について
エドガー・アラン・ポーは宇宙が無限だとすると重力で潰れてしまうと指摘し、無限宇宙論を退けました。
ここでは有限で無限ができていると理解されています。
しかし有限自体が自然には実在していないのです。
わたしたちは無限を実在しない有限で理解しているのです。
ゼノンは「無限とは理解不能の何かであり、したがっていかなる説明にも用いるべきではない」(「宇宙天体論」学研155頁)と言っているそうです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり此処という有限の出発点である静止が否定されています。ということは有限は自然には実在しないということですし、自然の何処にも静止が実在しないということは自然が無限であることを示します。
オルバースのパラドックスは無限宇宙論だとすると宇宙は光で満ちているはずだと無限宇宙論に疑問符が突きつけます。
これに対して無限宇宙論側の解答はわたしは寡聞にして知りません。(光は減衰するという仮説があるそうですがインフレーション仮説の前提同様に証明はされていません。) 地球が運動しているのならば裏側の人たちはどうやって地球にしがみついているのだという地動説批判について、ガリレオはそれは後世の人が説明してくれると語ったそうです。
この逸話は、各学説このように主張することが可能であり、決定的な証拠がない現在、たとえ説明できない事象があったとしても、それらはなんら各学説が誤謬であることを示しているわけではないのです。
有限宇宙論、無限宇宙論は各々現時点では説明困難な事象を抱えています。
私見だと、やはり基本法則を破らない仮説に魅力を感じます。
また哲学などの疑問にも解答から導き出すことができる科学革命が裏づけとなる無限宇宙論にわたちしは可能性があると考える者です。 付論 ここで簡単に自己言及について考察したいと思います
三浦つとむ氏は、言語は対象ー認識ー表現という構造を持つとしました。
スポーツの実況中継はそれがよくわかります。
わたしという言語表現の場合、自己言及ですが、対象と認識主体が同一です。
この「わたし」という言語表現の認識構造を考えてみることにします。
わたしたちが地図を描く場合には、頭の中で街の空の上に自己がいるものとして描きます。
日本地図、地球、太陽系などそれまでの知識が元になって描くわけです。
またわたしたちは赤ん坊を見て自分の過去、年上の人たちを見て自分の将来をそれぞれ想像します。
テレビドラマを見たり、小説を読んだり、映画を観たりして頭の中で過去や未来、現在、他の天体に行ったり、宇宙人が来たり、またそれらの中の主人公とか空想上の、また歴史上の人物などになったりします。
わたしたちにはこういう能力があり、それは三浦つとむ氏は観念的な自己分裂と名付けました。 わたし、という言語表現も、頭の中で自己自身を対象として、認識し表現するわけです。
それを直接示すのが、鏡です。鏡を見てわたしたちは服装が似合っているかとかいろいろ観察します。
この場合、実は頭の中では鏡に映った自分が現実の自分を認識することになります。
鏡の中の自己が認識主体ということになり、現実の自己は認識対象であり、それが「わたし」という表現となります。
これまでが三浦つとむ氏が「日本語はどういう言語か」、「弁証法はどういう科学か」で展開された観念的な自己分裂という用語のわたしの理解した説明です。 わたしは、ただ一点この説明に疑念を抱いています。
それは表現された「わたし」は鏡の中の「わたし」が現実の「わたし」という理解です。
実はここにも「クレタ人の逆説」の本質である決定不能という命題が潜んでいるのではないのか、ということです。
認識対象である現実の自己と認識主体である観念としての自己は対立関係で、互に他者としての自己です。
つまり現実の自己、わたしは鏡の中の自己にとっては他者でもありますし、また鏡の中の自己は現実のわたしには他者なのです。
「わたし」という表現にはこの決定不能というクレタ人の逆説が潜んでいるのではないか、というのがわたしの疑念です。
認識対象と認識主体という対立、否定関係がもたらす決定不能ではないかという疑念です。 表現としての「わたし」という自己言及は認識主体と認識対象という対立が本質としてありますので、このような決定不能の命題を抱えるのではないかということです。
運動を理解するには静止という運動の否定で理解しますが、運動とは何かと定義することは、そのことの自己言及です。
数学では有限を無限で理解しますから、これも否定関係ですし、不完全性定理はこのことの自己言及です。
自然科学という学問は自然が生成した人間の脳が自然を理解しますから、その本質として自己言及であることに成ります。
意識が薬で変容することは知られますし、睡眠薬は意識を一時的に無くしたりできますし、また脳を無くせば意識もまた失われます。
このことは意識は物理存在のある状態の付随現象と理解されるべきことを示しています。
意識とは自然の物理存在が自己言及可能な状態であると定義できます。 自己言及についてはもう少し考察する必要がありそうな あとは纏めですが、これはまだやっていません
今週中というか、必要があって水曜か木曜の早朝までに仕上げたいのですが 半世紀にかかりましたか
まだまだ推敲は必要ですが、ライフワークは八分がた出来上がりました
何かあったとしても悔いは無いと思っています
さりあえずです フランス構造主義
内田さんが、フランス構造主義を学生のときには読んで全く分からなかったが、時が経って大人になって読むと分かった。と言い、寝ながら読める構造主義、を書いたと言います。
これは、大人になったから分かったのではありません。その間、意識していない中で考え続けていたのです。 >>863
何でエネルギーが存在しないんですか
エネルギーって何か分かってますか? >>890
エネルギーってゆーのは
濃とか淡とかあって
運動してて
基底状態とかあって
万能薬みたいなもん とりあえずの纏めです
自然は光速度一定の原理が示すように運動するエネルギーの濃淡の海であり、すべてはその生成過程として存在します。
絶対座標は自然理解に必要ですが、実在しません。
生物分類は濃淡、つまり差異として実在する自然を否定関係で理解することを示します。
座標原点もまた否定関係で理解することを示します。
座標原点は実在せずいわゆる三次元もまた差異を否定で理解するということです。
此処からの、此処は実在しませんし、また此処までも実在しないのです。
わたしたちは対象である自然の運動をそのまま理解できるわけではないので、運動量としなければなりません。
四次元とは静止である三次元の運動量の静止の無限集合です。
運動する自然をその否定である静止で理解することは地動説、光速度一定の原理が示しています。
ゼノンの逆説は大きさの無い数で自然ができているのなら運動は不可能であることを導きます。
カントの二律背反もまた、運動する自然と論理の関係です。
生物分類で分類が困難な対象が出てくるのは、なんら対象の問題ではなく、差異を否定で理解するという分類そのものの問題です。
同様に、ゼノン逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定、光速度一定の原理、量子力学の理解困難な事象、エネルギー保存法則の破れなどは、対象とそれを理解する論理の問題です。 構造主義 レヴィ=ストロース
「実存主義は死んだ」⭐🌺 ハイデガーの実存哲学は存在無き存在論です。👰
「実存哲学は死んだ」
ハイネマン。⭐🌺 「キリストの誕生により、その時に哲学は終焉してる」
バルト。👰
皆様悔い改められますように〜🌠 白馬の王子さまは、現れない(;゜0゜)
「美魔女は詰んだ」⭐🌺 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 >>896
「誰がじゃぁ、なにがじゃぁ、どうしてじゃぁ」
間寛平♪😃 「現代の実存の呪いを解かなくてはならない」
バルト。👰 >>905
われ!(`ヘ´)なめとったら鼻の穴から割り箸…💦われ! >>831有限で理解する科学理論は、人間に確認可能な規則性なのだから
認識のあり方を媒介したもので自然そのものではない前提は
科学的に役に立つことにならないんじゃないか? うーん・・・
天体観測は地球が静止していると仮定してですよね
それを理解すると地動説になりますし
イコールというのは有りえないんです 天動説・地動説
結局のところはどちらの方が天文学として理解しやすいのかという選択に過ぎない >>910
学問は科学的な認識の上で行われるものなので
>有限で理解する科学理論は、認識の在り方を媒介したものであり
>自然そのものではないという自然認識の在り方の前提
は科学的な関与はないのでは?という意見です。
どのように科学的な学問に貢献する前提での主張なのかなと。 のび太に貢献するドラえもん
四次元ポケット
時間の要素は存在せず、4次元の空間に無限に物体を収納することができるというもの 科学的な認識は有限でしか有りえないということなんですが・・・
しかし無限は有限で出来ているわけではない、有限で理解しているだけです
ポーは有限で出来ていると理解しているからこそ、無限宇宙は重力で潰れてしまうと
有限宇宙論を否定しました。
科学者はこのことを意識しなければならないわけです 光速度一定の原理は絶対座標を否定します。
つまり方程式の座標原点は仮のものだと理解しなければならない。
それがどのように有効であったとしても。
地動説は観測結果はあくまでも地球が静止したものとしてであり
仮のものでしかないことを指摘したので、地球からこう観えるということは否定していない。
天動説論者の天文学者が観測したものでも、それは否定しないわけです。
一般相対性理論がどのように有効であったとしても、それは宇宙の始りを示さない。
出発点、つまり絶対座標が否定されているという光速度一定の原理の意味が理解されていないからこそのビッグバン宇宙論ということです。 科学者たちはこの原理が根本的に次元の実在を否定し、次元もまた否定されていることに未だ気がついていない。
そしてこの原理が示す事実は量子力学的自然観を導くわけです。
つまり次元で理解されるが次元の実在は否定される
地動説もまた座標原点で理解される、つまり地球からの観測はあくまでもその仮定で展開され
その結果自体は否定しません。
両方とも、それで理解することは否定しないのですが、それは仮であることを示しています。 認識は静止です。
それは自然には実在しませんが、それで認識するしかないのです。 地動説、進化論、光速度一定の原理は、認識の在り方の自己言及です。
わたしが、この原理が科学革命の一つだと主張する所以です。
つまりそれで理解しなければならないのですが、それは実在しないというこです。
進化論は自然の生物を認識している人間は認識主体であり、天動説の地球と同様に理解されていたが
やはり人間自身もまた生物の一つであり、なんら特別では無いこと、つまり認識主体は認識対象の一部であることとなります
静止という特別な立場など無いが、それで理解しなければならない 有限で理解されるが、有限の実在は否定される
最小単位など無いし、自然は生成過程として実在するだけです
絶対座標が実在しないことが理解されていないからこそのビッグバン仮説です
これが理解されない限り、周転円はまだまだ出てくることでしょう
つまり天動説は未だ克服されていない 意味
時間とは何か、と問われて答えられない。その問いは、時間の意味とは何かに置き換えられるとして、しかし、そもそも、意味とは何か、と問われても答えられない。
意味についても、人は、意味了解と言った状況にあるのか。 存在了解
ハイデガーは、存在と時間の中で、人は、現存在は、ある存在了解の中にあると言う。しかし、その了解は、していると、させられている、が混ざっている。
している、は主体的な判断であり、させられている、は社会的な状況を含んだ判断である。
そこで、主体的な判断を目指すとして、充分に主体的な判断としての、意味了解となる。ただ、さらに、充分とは、何に対して充分なのか。 意味了解
人は、現存在は、日常、自身の意味了解をかなり、自主的、主体的にしている。勉強しなさいと言われ、する者としない者といる。しない者は、すでに、主体的にその判断を、しているのだ。
意味は、個人的、個別的なあり方をしていて、個人的な現存在はその個人的意味了解にある。
勉強、アメリカの首都はワシントンである。
それを覚えて、一体何の意味があるのか。 https://www.wolframalpha.com/input/?i=cos(x)%2Bisin(x)%3Dlim(n%E2%86%92%E2%88%9E)+((1%2B1%2F(2i%CF%80*n))%5E(-2x%CF%80*n))
cos(x)+isin(x)=e^(ix)=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) 自然=万物というのを前提とした過程さんの仮説はなんとなく理解できた。
プラズマ宇宙論のように万物は無限に続いていく。常に変化しているが総エネルギーは変わらないという主張なのだろう。
絶対座標がなく相対座標というのも同意する。
でも"科学的な認識は有限でしか有りえない"という根拠がわからない。
宇宙論でも量子論でも有限か無限かはわかっていないというのが現状だ。
宇宙論でいえば、例えばマルチバースのような最新の宇宙論では(負の曲率にいる)宇宙の中の人から見れば無限だが、その外側にいる人から見れば有限(正の曲率)となる。
量子力学でも粒子で理解すれば無限になってしまうが、超弦理論で理解すれば有限になる。 "最小単位など無い"というのもわからない
"自然(万物)は生成過程として実在するだけ"は超弦理論で理解できるけど・・・
量子力学では、粒子の位置凅と運動量冪には、冪凅≦h/2というハイゼンベルクの不確定性原理という関係がある。過程さんもご存知だと思うけど、量子ゆらぎによって素粒子の位置と運動量は同時には確定できないということだ。
粒子の位置が近づきすぎると無限の運動エネルギーが出現してしまう。
だから粒子ではなく大きさのあるものにしたい。シンプルに点を一方向にだけのばし、最小単位を粒子(0次元)ではなく、大きさのあるひも(1次元)にしたのが超弦理論だ。 e^(ix)=(-1)^(x/π)=(-1)^(2ix/(2iπ))=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) 天動説も地動説も両立しえる。
意味とは言語という妄想に張り付いている
了承可能なもののことだろうな。時間にもそういう傾向があるが、
時間に遅れると神の次元から零落し、退屈とあきらめの日常になる。
早く務め励み、素早く信仰し、急いで善を行え。神の次元から遅れないように
準備しておくんだ。
存在を了解するべきだ等より存在を疑うべき。意味は他社投影の販社として写すもの
映るものだから。個人的な意味ナルシストじゃいけないな。
無限はなく有限はある。宇宙買いも平常テンションで想定できる。
光速は一定ではない。進化は事故や怪我によってもなされてきている、
断続平衡的ラインともいえるが。
過程さんの仮説にケチばかりつけて何も主張しないというのも恐縮なので、わたしの「時間とは?」の問いに対する仮説を一つ。
まずカリフォルニア大学バークレー校の野村教授などが中心となって研究されている「量子マルチバース」が前提となる。
量子マルチバースの実証可能性はこの宇宙に「負の曲率」が観測されることだ(現在の観測結果ではわれわれの宇宙は平坦とされているが、今後数十年で観測精度が2ケタほど向上すると考えられているので期待したい)。
野村教授によれば「量子マルチバース」は厳格に定義された確率を含んでいなければならず、この制約によってマルチバース全体の量子状態を決定できる見込みが出てきたそうだ。このことはマルチバース全体の量子量が静的な可能性を示唆している。
例えば、マルチバースの中にいる観測者から見て、あらたな泡宇宙が常に生まれ続けていても、マルチバースの外側にいる観測者から見れば、マルチバース全体の量子状態は変わらない。
宇宙の中にいる私たちの知覚が時とともに変化していくこと、つまり「時間」の概念は幻にすぎず、「時間」は、もっと根源的なものから生まれる「創発的な概念」の可能性がある。
「時間」とはマルチバースのそれぞれの局所的な枝の中にだけあるもの、それぞれの「宇宙の地平」の中においてのみ存在するもの、というのがわたしが今信じている仮説です。 宗教
何らかの宗教を信じる者は、他の宗教を排除する。その宗教が、すべてを説明するからそうなる。とりあえず、妥協できていても、何か衝突する事態がいつか、生じうる。
例えば、物理学で、世界を説明しょうとする者は(物理学で世界を獲得する者は)、たとえ意見が異なっても、論争にはなっても深刻な衝突には、なりにくいだろう。 >>924
どこかに座標原点設定しないと認識できません
科学革命はその座標原点の実在を否定することで自然が無限であることを示します
うーん、と
何回も書いているのですが、わかりにくいということかな いちおう疑問にはすべて答えているつもりではありますが 具体的に説明してもらえないと分かりません
頭が悪いので 過程氏の主張から推測するに
例「おにぎり」という物体は
認識上有限する認識として存在する
しかし、認識の前提では「おにぎり」という有限の物は存在しておらず
おにぎりはアミノ酸、糖質、水分等々のエネルギーが作用していて
夏場、1週間経過したらおにぎりと認識できなくなるように
有限の物質は、宇宙に何一つないと、すべては無限に運動していると
科学的な思考をするのには一端、有限する「おにぎり」と仮定認識せざる得ないということかな。
認識上の規則性に過ぎないそれらを科学的な前提としたところで
科学の役に立つわけではないけど、人間が科学を理解するための前提と言えるのでしょう。
おにぎりはご飯でできている前提が成り立つように 座標原点とは、いわゆる現存在のことでしょうか?
現存在はそのもの自体として表れることは決してなく、
存在者が時間的に現れることに映し出され、
そのことにより存在者としての地位を得る。
ただし、存在者としての地位を得た現存在を
座標原「点」と呼ぶことはできないでしょう。 >>935
通訳になったのかどうなのか?
そこは過程氏に判断してもらわないとね >>931
何回も書いてくださっているけど正直わかりにくい
わたしの頭が悪いのかな
>どこかに座標原点設定しないと認識できません
う〜ん、なぜ科学認識で座標原点を設定しないと認識できないの?
もしかして宇宙はビッグバンからはじまったというのが座標原点ってこと?
ビッグバンは量子のゆらぎからインフレーションが起こってはじまったとされているけど、ゆらぎがどうして起こったのかまだわかっていない。
だからまだ誰もスタートがどこかなんてわかっていない。ゆらぎの前にもしかしたら別の宇宙があったのかも・・・
宇宙の終わりにしたって何パターンも想定されている
つまり、科学に座標原点なんてない
>>934
わかりやすい^^ >>934
イメージ的にはこれですか
粒子というのはけっきょく波が渦を呈している状態です
厳密には境目など無く濃淡の淡が認識できないだけです
すぺて内も外も無い
アスペだったかな、一瞬にして情報がというのは自然に切れ目が無いことでもありますし
重力もニュートン的な遠隔作用というライプニッツが批判した魔術的理解を排除できる
他の力はくっ付けているのではなく、そのような状態にするのに必要なエネルギー量という理解です
力はこれですべてエネルギー量に還元できます
重力と他の諸力は本質として違います 座標原点は、此処から始めるという意味です
車の速度計測は此処からスタートします、とか
車が動き始めるというのは、地球が運動していますから加速です
山は動いていないと言っても地球は運動しています
つまり静止しているのはこの地球上のどこにもない
静止とはライプニッツが指摘するように均衡状態です
運動量は座標原点設置しないと測れないでしょう ビッグバンは仮でしかない静止が実在しているという仮説ですから、それはおかしいということです どんどんどんどんトンデモになっていくから、なにをやっているのかわからなくなるw
座標原点?
どっかに決めればいいだけでしょ?
有限も無限も、どんな意味でつかっているかすらわからない。
素朴存在論的トンデモ世界なんだろうねぇ。 「点」を考える。
「点」は大きさもなにも持たない。位置も持たない。「点」が存在する空間も無い。
そう考えれば、「点」とは、ただ「ある」ということである。
「自己同一性」も無い。すなわち「点」は「わたし」であることもできない。
しかし、なにものかによって語られている以上「自己同一性」を持ってしまう。
なにものか? 「点」しかいないのだから「点」が語るしかない。
なにものもなく、ただ「語られる」。
「語られる」ことで「空」(=空集合)が「ある」。
結局、「点」とは「空」である以外にありようがない。 おにぎり例がイメージ的にそう遠くないということなので
実在しない時間がなぜ時間が実在しているかのように
認識してしまうかを例のごとくおにぎりで推測してみましょうか・・・ 「空」が基本的なものではなく、「空」を作る「力」あるいは「ルール」が基本的なものであると考える。
それは、「集合化」である。
それも、部分集合の集合を作るということになる。
これがすべての「力」の根源であり、その名残りともいうべきものが「重力」であろう。
裸の無から部分集合の集合がつくれるのかどうかは検討中だが、
空集合の集合からは、この「ルール」によってあらゆるものが作成できる。
問題は空集合から空集合の集合がつくれるか、
そして、裸の無から空集合がつくれるかということだ。
空集合から空集合の集合をつくる、ということと、部分集合の集合をつくる、ということをひとつのルールとして統合はできるだろう。
選択公理とはなにか、というところに踏み込んでいる。ZFとCの統合は不可能ではないという予測。
「反集合」とでも呼ぶべきものを含めて公理系を再構築できるかどうか。考え中。 ネイピア数について教えるのに、最初に
e=lim(n→∞) ((1+1/n)^n)
の形式を導入するのはいいとして、続いて次に
e=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(2iπ*n))
の形式を教えていれば、三角関数との関係が明らかになって、
多くの理解の困難が避けられると思うんだけど、
なぜ、この形式が提示されることがないのだろう。 そりゃあな
冪数に虚数を導入できることは自明ではないからだ >>944
ビッグバンは宇宙が膨張してるってのを逆算すれば宇宙は最初小さな火の玉だったことになるってだけの話だぞ
別に神秘主義ではないのでその小さな火の玉になる前がどうだったかまではわからんし言及もしてない
wikipediaにすら載ってるぞ少しでも調べたのか 哲学は手法が古くて実際に調べるってことをしないから実践研究の話になるとすぐボロが出るのが嫌なところね フィロソフィアの可能性
空、点、集合、良いですね。
読ませてもらいます。おにぎり思考、も面白い。
大げさに聞こえるでしょうが、フィロソフィアの可能性を、感じている。実は、このフィロソフィアの可能性は、例えば、デカルトのコギトにあるし、ハイデガーの存在と無にもあると考えています。
フランス構造主義、ポスト構造主義、新しい世界が(人間存在に)、開きつつある、大袈裟ですが。 フィロソフィアの可能性
人間は、自身の考えているようになる。
これは、思考は実現する、という言葉とほぼ同じですが、何時からか、それは事実であると思う様に成りました。ある程は、その理由が説明できると考えています。
人間は、考えている事を、無意識下でも実践する。つまり、それへの実践、努力を10年以上などに渡り、し続ける訳である。東大教授になってやろう、がどこどこの教授で実現する。
有り得えます。
ここ事象を、集合としての人間存在にも(つまり世界、社会)、適応出来る。ただ、すぐにでは無い。 フィロソフィアの可能性
例えば、デカルトのコギトは、民主主義に実現しょうとしていると思える。(デリダが、来るべき民主主義、と繰り返しますが)
存在と時間も、何かに実現すると思われます。 意味としての世界
意味としての世界の研究、そして世界内存在者としての人間存在の考察に向けての研究は、人間存在と世界を変え得る。
父母未生以前自己
父母未生以前自己如何、禅問答の、この問いも、それが何かを意味しているなら、それは、いずれ解説可能になり、説明される。
そして、すでに、その問いを思いつき、人に問うた者がいた。 >>943
>運動量は座標原点設置しないと測れないでしょう
相対座標じゃだめなの? なんか返事をする気もなくなるようなレスばかりで w
何かが爆発したとしてのそれはその中で爆発しただけ
ビッグバンもそういうお話
宇宙のものが誕生したわけじゃあない
宇宙は誕生も死も無い
すべてはその中で レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。