カール・マルクス 12
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>>152
現代は百姓は農民のことのように言われるが、
漁業も百姓だ。
そもそも日本は自然に恵まれている。
周りは海にがある。
海とはハイウェイだ。
江戸時代より遡っても、農民は単に農業だけに従事していない。
さらには日本の農民の自治は戦国時代に遡る。
秀吉や家康の全国統治は、すでにある農民たちの自治村を管轄したに過ぎない。
基本的に、村の運営は農民に任せる故に、統治できた。
>つまり士農工商にはそれぞれの役割があってその役割をきちんと果たすべきだという考え
この考えは比較的江戸時代の後期に、石門心学以降だろう。
その最初から、武士は商売による利益を卑しいとする伝統がある。 >>154
俺が知る限りでは職分論で一番古いのは北条氏長や山鹿素行
武士が商売による利益を卑しいとするのなら戦国大名が南蛮貿易に必死こいてたことの説明がつかない
江戸時代に入ってからも下級武士は内職をしていたし
藩政改革では専売制が行われたところもある
儒教も一枚岩ではなく宋代の王安石は国が利益をあげることを否定しなかった >>153
日本の基板は、戦国時代以降の、農民による自治村にある。
それまでの荘園制度から、自治村へ。
誰が統治しようがそれは揺るがない。
それは明治になっても変わらない。
勤勉革命は江戸後期に起こったが、
勤勉は自治であり、やればそれだけ豊かになる独立性から来ている。
自治村故に根付いたものだ。
明治に入ってきた勤勉は、プロテスタンティズムの勤勉をもとにした工業的なものだ。
たとえば時間通りに仕事をする。
秒単位で機械にそしてみんなで同期して働く。
この意味で、明治に日本人は役に立たなかった。
時間的な同期など気にしないやりたいようにやるから。
しかしそれも義務教育などで克服していく。
もともとが勤勉なんだから、
やり方を覚えるだけだ。 >すでにある農民たちの自治村
惣とかがそうだよな。 当然儒教の影響で商売を卑しいとする風潮が全くなかったわけではない >>156
百姓の自治を否定しているわけではない
江戸時代の勤勉と明治以降の勤勉が同一ではないということを認めるのか認めないのかだ >>155
儒教そのものが武士に重視されたのは、江戸時代から。
家康が推奨したが、実際に重視されたのは元禄で綱吉ぐらいからだろう。 >>160
おっしゃるとおり
だから>>154で
>その最初から、武士は商売による利益を卑しいとする伝統がある
と書いていることと整合性がとれない >>159
明治政府は、江戸時代に自主的に行われていた勤勉活動を国家推奨として、取り開けで推奨した。
日本人は明治時代に勤勉を学んだのでなく、
工業的な勤勉を学んだ。
工業的な勤勉とは、分業。
多くにおいて、時間的な連動だ、
たとえば近代の軍隊もその特徴は連動にある。
フーコー的な規律訓練。 柄谷行人は『遊動論』において柳田国男の後継者にコモンズを導入した宇沢弘文を置く。
しかし協同組合の原型であり得た江戸時代の(二宮尊徳の)報徳会を柳田国男は必要以上に
批判しすぎた。
信用制度が弱いのは当たり前なのに…
これで日本の協同組合運動は断ち切られた(オーバーな言い方かも知れないが)。
端的に言えば柳田国男の仕事はゼロからやり直す必要がある。 武士が商売から距離を置いたのは確かだろう。
まともに税を取らなかった。
なぜか?
単に職分なら、税を取ることに問題はない。
利益というものを卑しいと考えたからだろう、
商売を、利益を汚きという思想は西洋でもある。
マルクス主義の資本嫌悪もその伝統を受け継いでいる。 農民が豊かだったというのには語弊がある。
商品経済に適合して行ったのは確かだろうが、
貧農も昔からいたのは『日本残酷物語』を読めばわかる。 >>163
つまり接ぎ木されて形成されたものと認めるのか? >>166
農民の貧困は、幕府の取り立てではない。
主に飢饉だ。
こればかりは仕方が無いが、
単に飢饉ではないのは、
すでに市場経済故に、飢饉になると商人は米価をつり上げるために、米をため込む。
いまのような国家の経済政策もなく、
商人はやりたい放題。
だから農民は、商人に打ち壊しに向かう。 すでに市場経済故に、飢饉になると商人は米価をつり上げるために、米をため込む。
すると市場から米がなくなり、飢餓がサラに進む。 >>165
運上は江戸時代初期からあるし株仲間を認めるかわりに冥加金を納めさせている
もっと言えば御用商人の存在が武士と商売の癒着を示しているとも言える 飢饉は、気候だけでなく、単作やモノカルチャーにもよると言われているね。
商品経済に適合することによる負の側面だ。 >>170
それだと同一ではないということも認めないといけないが? >>168
水百姓と名主を同列に語ることはできないし
年貢の取り立ては地域によって差があるから
>>166の言う
>貧農も昔からいた
のほうが正しいだろう >>171
運上がどこまで機能したか怪しい。
そもそも商人がどれだけ稼いだか、知らないわけだから。
冥加金はさらに怪しい。
幕府が金がなくなったときに泣きついただけともいえる。
土地の広さと連動した年貢に比べれはざる。 >>174
貧農といただろう。
いくらプレ資本主義といえ、マルサスの罠を超えることはできないから。 話を戻すと、
西郷隆盛を敬愛した北一輝の国家社会主義、
献身的道徳による国家社会主義とは、このような江戸時代からの流れで理解しなければならない。
そしてなぜ日本が最も成功した社会主義国家になりえたかも。
みんな日本人に生まれてラッキーだよな!
北一輝の国家社会主義
・天皇は国民の支配者ではなく、国家の一機関。
・ブルジョワ市民社会の個人主義ではなく、献身的道徳による国家社会主義を実現すべき。
・国家は支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示す社会。 national socialismは国民社会主義とも訳されるから、
国家社会主義よりもそっちの方がいいかも。 >>175
商人から税を納めさせていたことは事実だからね
そもそも俺は運上冥加金が多額であったなんて言っていない
>>177
それが媒概念曖昧の虚偽だって言ってるんだよ 正確には、日本の場合は、世間社会主義。
世間は国家も政治かも、日本人すべてを内包する。
日本人には、西洋的な、国家と市民、資本家と労働者の対立概念が薄い。
みんな、世間じゃないか。
安倍首相だって世間、話せばわかる。
だから自民党一党政治で問題ない。
だってみんな世間なんだから。 みずほ総合研究所の「日本の格差に関する現状」
http://www.cao.go.jp/zei-cho/gijiroku/zeicho/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/08/27/27zen17kai7.pdf
に掲載されている「2(1) 所得格差の国際比較 @」という項の
「 所得が上位1%の家計に集中する割合(国際比較)」を参照してみてほしい。
アメリカ、イギリス、日本、フランス、スウェーデンのグラフが1980年くらいまで
かなりの一致した動きをしていたのが見て取れる。 >>180
ラッサールの国家社会主義と高畠元之の国家社会主義とナチスの国民社会主義は一致する概念ではないから使い分ける必要がある
国家社会主義か国民社会主義かのどちらかに固定しようとするのはナンセンス 世間を一番繁栄する政党が勝つ。
左翼は世間を無視して暴走するから絶対政権は取らない。
民主党のときもやばかった。
合議を無視した暴走した。
自民党はとにかく合議だから。
党内合議。
野党と合議。
世間と合議、
だから日本の国家の法案成立率は低い。 >>182
その理屈だと共産党一党政治でも立憲民主党一党政治でも問題ないことになる >>183
日本人の格差を語るときに注意が必要なのは、日本人の経済は個人単位ではなく、家単位ということ。
父は豊かで息子はそれに、寄生する例は多い。
だけど、個人ベースでは息子は貧困になる。
息子は贅沢に暮らしてるのに。 >>186
世間を一番繁栄する政党が勝つ。
左翼は世間を無視して暴走するから絶対政権は取らない。
民主党のときもやばかった。
合議を無視した暴走した。
世間はカンカン菅直人、
もうみんな二度と政権とらせないと言ってる。
自民党はとにかく合議だから。
党内合議。
野党と合議。
世間と合議、
だから日本の国家の法案成立率は低い。 >>188
みんな世間だと言ったり世間から外れる存在がいたり大忙しだな 個人単位の集計と、家単位の実際故に、
社会保障が貧しくない人たちにばらまかれてる。
しかしさすがに政府は、家単位の話はできない。
だから国の借金増やしても、どんどんばらまく。
その方が支持率も上がるし。
結局、国債は国民の貯金で賄われてるから、
国の借金で国民が潤い、さらには貯金が増える。
それで借金が賄われる……
まあ、いいんじゃない?(笑) >>189
キリスト教徒と共産主義者は、
世間ではない。 >>192
世帯と家はまた違う。
大きな流れでは、親世代は金を持ち、それに息子世代は寄生する。
しかし孫世代まで金が行かずに、
子供の貧困は進んでいる感じかな。
早く親世代は死んで、遺産を残して、孫世代まで潤わせるんだな。 なんだ、かんだ、いまの日本は歴史的にも絶頂期にある。国家社会主義として成熟している。
成熟しすぎた故に怠けて子供を作らない。
少子化。
これはマジやばい。
移民誘致をいつ進めるか、
待ったなし。
みんな外国人と仲良くやれよ。
日本人ならできる。 http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je09/pdf/09p03023.pdf
ここに掲載されている再分配効果の国際比較を見てわかるように、
日本が他の先進諸国と比べて再分配を重視する社会主義的国家だ
というのが疑わしいことがわかる。むしろそれを反証している。 >>198
安倍政権はそれを受けて高所得者への課税を増やそうとしていると思われる。 みずほ総合研究所の「日本の格差に関する現状」
http://www.cao.go.jp/zei-cho/gijiroku/zeicho/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/08/27/27zen17kai7.pdf
に掲載されている「2(1) 所得格差の国際比較 @」という項の
「 所得が上位1%の家計に集中する割合(国際比較)」
で重要なことは、日本、英国、米国、フランス、スウェーデンが共通して
戦前に格差が大きくて戦後に小さくなるという似たような変動を示していることだよ。
国ごとの違いではなく、世界システムとしての資本主義を見るべきだと思う。 >>200
世界システムとしてのブレトンウッズ体制が崩壊した理由はその国ごとの違いなんだよな 死を完成させること。子育てのスペースを作ってきたこと。 ソ連の経済的失敗はやはり消費財への移行がうまく行かなかったことだと思う。
つまり消費社会の開花に結びつかなかった。 柳田國男さんによれば昔の日本には「世間師」と呼ばれる人がいて、
村を離れて諸国を巡り、異郷のことをよく知る旅人を指したんだそうで。
その世間師の異郷話のことを「世間話」と言ったんだそうだ。
要するに彼によれば「世間(セケン)」とはウチとソトのソト、
つまり外部のことであって、それを人間社会という意味で使うのは
日本語の古くからの用法じゃないらしいんだな。
『定本柳田国男集』第6巻を参照あれ。 「世間」という言葉の現代用法でもたしかに「外部」という意味はあるんだよ。
「世間体が悪い」と言うとき、身内(家族)の外にある世間が思い浮かべられているはず。
つまり、外での体裁が悪いという意味なんだな。世間体=外面。 世間がどうとかいえば阿部謹也だけど、この人が世間と社会を対比した影響は大きいと思う。 外は内という観念の範囲次第で意味が変化する相対的観念なので、
世間もそのように考えなければいけない。
家族を内としたときには、その外側の村社会が世間になっているし、
村を内としたときには、その外側の異郷が世間になっているし、
日本を内としたときには、その外側の外国・海外が世間になる。
世間の顔色をうかがう日本人は外国人の顔色も気にするんだよ。 >>205
阿部謹也さんは世間を共同体とほとんど同義に捉えている。
そして共同体と社会と対峙させている。
社会は個人主義を規範とするもので、共同体は集団主義を規範とするとね。
柳田国男さんがいう世間(セケン)の古い用法とは違うんだね。 >>206
世間と社会を対比、
すなわち日本と西洋の対比を、
西洋の価値基準をもとに日本を叩くのは
ようあること。
社会は、明治にソサイエティの訳語として作られた。
それ以前は、世間の一般的に使われて、
いまのようなネガティブな言葉ではないどころが、
ポジティブな言葉だった。
世間はもともと仏教用語で世界のこと。
倫理的な意味があった。
>>
そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。
西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもることの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、
「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。
・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。
たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、
たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66
「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X
<6 >>208
阿部謹也は西洋の学者なのになにを勘違いしたか日本を見下すクソだから、
相手にしなくていい。 江戸時代のウチとソトは、いまでいえば、
ミウチと、大きなウチ。
というのは、世間は自分も帰属して、価値観が通用する世界だから。
今の外国のように、まったく価値観が通用しない外がある考えていない。
だから渡る世間に鬼はなし。
ミウチではないが、話せばわかり合える世界。 世間師という言葉は廃れてしまって世間体という言葉だけが残って、
その世間体の用法が家族内の個人(特に子供)にとってひどく窮屈な
意味を持つようになったというところに、阿部謹也さんの議論が出てくる
根拠がもしかするとあるのかもしれない。
何かと「世間体が悪い」という言葉によって日本の子供達は親たちから
行動を制約されてきた躾の記憶をもっているので、その心理的閉塞感が
阿部謹也さんが抱く「セケン」のイメージになってしまった可能性があるね。 もう忘れられているんだが、
江戸時代の人は思っている以上に仏教的な価値観の世界を生きていた。
倫理も仏教基準だし、
極楽と地獄。
それが世間。
>>
「いつまでいっていても仕方のないこと 。
早く早く殺して殺して 」と 、最期を急げば 、「承知した 」と 、脇差をするりと抜き放し 、
「サアただ今だ 、南無阿弥陀仏 、南無阿弥陀仏 」といっても 、さすがにこの年月 、いとしい 、かわいいと 、
抱きしめて寝た肌に刃が当てられようかと 、
眼もくらみ 、手も震えて 、弱る心を引きしめ 、取り直してもなお震え 、突こうとはしても 、
切っ先はあちらへはずれ 、こちらへそれ 、二 、三度ひらめく剣の刃 、あっと一声だけ上げたお初の喉笛にぐっと通るや 、
「南無阿弥陀 、南無阿弥陀 、南無阿弥陀仏 」とえぐり通し 、えぐりつづける徳兵衛の腕先も弱ってゆく 。
弱りきったお初を見ると 、両手を伸ばし 、断末魔の四苦八苦 、哀れといってもいい尽くせない 。
「自分とても遅れようか 。息は一度に引き取ろう 」と剃刀取って喉に突きたて 、柄も折れよ 、刃もくだけよとえぐり 、
ぐりぐりえぐりつづけると 、目もくらみ 、苦しむ息も 、暁の死ぬべき時刻をむかえて絶えはてた 。
誰が告げるとはなく 、曾根崎の森の下風に乗って噂が伝えられ 、
広まりつづけて 、身分の高下にかかわりなく大勢の人たちの回向を受けて 、未来成仏疑いのない恋の手本になった 。
曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島 近松門左衛門 角川ソフィア ISBN:4044011036
<< >>212
阿部はどーでもいいよ。(笑)
世間は仏教用語だから聖徳太子時代から使われてる。
明治に社会が生まれたときに、
社会は民主主義世界だから、
世間はネガティブに捉えられるようになった。
それでも、今も日本人は社会でなく、世間を生きている。
世間の皆様に迷惑をかけないように。 日本に限らず、会社社会主義というのが資本主義の中にあるように見える。
資本主義は個人個人がバラバラに市場で出会う自由な経済をモデルにしている
というイメージを近代経済学は抱かせる(錯覚させる)けど、実際には会社が
非常に大きな力・権力をもっていて、そこに人生の運命を個人は握られている。
これは日本に限らず欧米社会でも違わない。 >>215
日本の会社主義は特殊だと思うが、
終身雇用とか、人生、家族そのものが帰属する。
西洋では会社は会社、コミニティはコミュニティでは? 国家や社会がそのほうな統制を上から直接しているという面もあるかも
しれないけど、それと同時に、フーコーの議論を踏まえるならば、
そのような選択を個人に必然的にさせるようなインセンティブとして働く
ゲームの構造ががっちり仕組まれていると見るべきかもしれない。 >>204
その世間師の話はほんとかな?
江戸時代は檀家制度で、村々に寺があって、坊さんが世間とのネットワークをになっていた。
お話も坊さんがする。 収入あっての生活だから
会社ってのは大きいんじゃないの >>216
たしかに程度の差異はあるかもしれないですね。
でもそれはもう少し複雑かもしれない。
実証研究ではいくつかの矛盾するデータがあるようなので、
それをどう整理するか、さらなる詳しいデータが必要。 社会は、
個人単位、
民主主義の法が基準
世間は
イエ、村単位、
勤勉、正直、献身が基準 日本人は、政治でも、世間を重視する
左翼が忖度で首相を批判するのは笑う。
左翼なら法を基準を語れよといいたい(笑) 首相を批判する=左翼ってのが古臭い価値観じゃねーの 別に首相を批判するのは左翼だけではないが、
左翼なら忖度なんかで批判するなと ようするに、日本人はみな結局今も世間を生きてる右翼ということ。
だから献身道徳的国家社会主義もうまくいく
社会は、
個人単位、
民主主義の法が基準
世間は
イエ、村単位、
勤勉、正直、献身が基準 >>225
ムラ、イエ…左派が最も嫌悪、批判する概念の中にある
キーワードだね。 セクトという形でムラや擬似イエが残っているとは思うけどな。 正確には、日本の場合は、世間社会主義。
世間は国家も政治家も自称左翼も、日本人すべてを内包する。
日本人には、西洋的な、国家と市民、資本家と労働者の対立概念が薄い。
みんな、世間じゃないか。
安倍首相だって世間、話せばわかる。
法律なんでいざとなれば改訂すればいい。
法で裁かれたから償ったと思うなよ。世間がゆるさん。
だから自民党一党政治で問題ない。
自民党は世間のことを良く聞く。
だってみんな世間なんだから。 >>229
日本人と言われるのも嫌がる左翼も多いけどな。 大東亜戦争の意義はともかくとして、
とりあえずは自虐史観から入った方がいいと思うけどな。 左翼が概念化に失敗したのが大きいな。
過ちは過ちとして認める史観なんて長ったらしすぎるからな。
まあ、唯物史観に立った上で考えると、
前の大戦は大きな流れの中の一コマだと思っているあっさりした人もいるだろうね。 マルクス主義のスレとは思えないけど、哲学板ならアリかな?
マルクス主義周辺が純粋な経済学以外に人々に何をもたらしたか。一部のフェミニストとかもそうでしょ? フェミニズムがどうこうとかのようなアイデンティポリティクスなんかよりも、
貨幣発行自由化論、地域通貨、仮想通貨の方が今や流行りの物になってしまった感がある。 なんだかんだいって、民主主義の一番の問題は金がかかることだよ。
1回セックスすると子供ができるわけで、ねずみ算式に人口は増える。
急激に増える人口に対して、人権を確保して、平等を維持する。
どれだけの金がかかるか。
その意味で、自由主義は経済的な解だよ。
機会の平等の元、自然にゆだねる。
金がかければないなりにやりくりする。
そこに言われるのが、北欧信仰。
北欧では高い税金を払う代わりに、社会保障を充実されている。
人々の充実度も高い。
でも小さな規模だからできるんだろうと言われる。
ようするに、北欧の経済は閉じているわけではない。
輸入もすれば輸出もする。
自由競争に値段の下がった製品や、途上国の安い製品を買っている。
だから北欧のようなことを世界レベルでやったとき、
もう逃げ場はない。
閉じた中で成立できるか。
あるいは、ベーシックインカム。
最初にある程度のお金を等しく渡す、って、
それが無くなったらどうするの。
社会保障費をそこに使ってると、もう補助する財政ないよ。 共産主義のように、経済そのものを国家管理する。平等にする。
言うのは簡単だけど、人の活動全般を管理するってどうなの? その中で、なぜ日本だけが、社会主義に成功したのか。
公平な社会を維持できるのか。
それは、研究して、世界が手本にすべきだよ。 要するに意思決定に明らかな偏りがあるわけっでだ
これは特定の産業・企業に利益誘導を行っていたといっていいだろう
だからゼネコンや建築会社等が腐敗して日本の建築物の耐久性の低さが今問題になっている
日本家屋やマンションが何故30−50年で資産価値ゼロになるのか >>243
陰謀論(笑)
ほんと左翼はなにをやっても駄目だな 地震国だし、安全基準も厳しいしね。また綺麗好きな国民性もあるし、経済も回さないと。陰謀論にするのは簡単だけどさ。
「医学界や製薬会社の陰謀に利用されるぐらいなら病気行かずに薬飲まずに死んでやる!」みたいにはならんように。 クールジャパンでやってたな
なんで日本人は新築をほしがるのか
外国人の素朴な疑問
日本人の新しもの好きというのはある。
日本人ほど新製品が好きな国民も珍しい。
だから企業絶えず少しなにかを変えて新製品を出している。
モデルチェンジが早い。 違うよ
日本のマンションはメンテナンスを考慮して作られていない。
特に排水管の設置場所や構造が致命的で改修工事が大掛かりで実質できなかったりしている。
後窓のサッシなんかも日本は安物。
海外は二重構造はもちろんフレームの熱伝導とかも考えられているものを採用している。 資本主義の限界がきてもその次もまた資本主義か?
それとも衆愚政治となり果てた末に王政復古からの暗黒時代へと突入するのか
マルクスが言うような共産・社会主義のl機運は全く高まらないな >>249
俺たち人間だもの。マルクスのロボットにはなれない。 ちなみに、柳田の協同組合への着目(三倉=義倉・社倉・常平倉。柄谷行人『遊動論』、ケインズ
全集#27参照)は マルクス経由ではなく、飢饉の経験からくる
柳田はマルクスの抽象能力の影響下にはない
柳田は暴力革命を危惧していたから
マルクス資本論(抽象能力の産物)の影響はない。チューネン孤立國の影響はある(方言周
圏論-柳田国男『蝸牛考』)
ただマルクスはチューネン、ハイネの影響を受けていたから柳田とマルクスは学問状況的には同門であると言える
マルクスのチューネン評は以下で見られる。
資本論1:23:1(子供じみている)、クーゲルマン宛て書簡#32(ほろりとさせられる)。 参考:
チューネン自然労賃:(生活必要賃金a+超過分y)=√ a一人当たり生産額p
http://jshet.net/docs/conference/76th/mizuno.pdf
差額地代しか見ていないと揶揄される傾向もあるが
こう見るとチューネン自然労賃の認識はマルクスの再生産表式の認識とそこまで違いはない
《「…次ぎのような疑問がおこる、──資本の創造者たる労働者がいかにして、資本の
支配者から資本の奴隷となりえたか?」(フォン・テューネン『孤立国家』、第二部
第二篇。ロシュトック、一八六三年、五、六頁。)疑問をおこしたのはテューネンの
功績であるが、彼の解答はまったまったく子供じみたものである。 》
(『資本論』123:1河出書房新社版)
《このチューネンにはどこかほろりとさせられるところがあります。メクレンブルクの
ユンカーで…観察、微分計算、簿記等を使いながら、リカードの地代論を自分で組み立て
ているのであるから。これこそまさに大したものでもあり、滑稽でもあります。》
(「マルクスからルートヴィヒ・クーゲルマンへ〔1868年〕K.Marx-F.Engels[1965]Band32 >>247
逆だろ。
日本人は新築を好むから、長期を想定して金をかけた建物を立てても無駄。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています