【人類学】中沢新一
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『野生展:飼いならされない感覚と思考』
中沢新一のコメント
人間みんなが同じ世界に生き、同じような体験をして、夜見る夢も同じようになっていく現代に、
まだ管理され尽くしていない、まだ飼いならされていない心の領域が、どこかに生き残っている。
私たちはそれを「野生の領域」と呼ぶことにした。
この「野生の領域」に触れることができなければ、どんな分野でも新しい発見や創造は不可能だ。
どうやったら、私たちは心の中の「野生の領域」に触れることができるか、
どうしたらそこへの通路を開くことができるか。
生活と仕事の中でこの「野生の領域」への通路を開く鍵を発見することが、「野生展」のテーマである。 オウムを肯定してしまったこの人の感覚も思考も怪しすぎてノーサンキュー オウムが世に出た頃は奇妙奇天烈なことをやっているけど
真面目に宗教をやっている人たちと思われていたんだよ。
胡散臭いというイメージが強くなったのは選挙に出たあたりから。 亡くなった西部邁は、東大に中沢を推したら拒絶されやめる羽目に 実際、文化人類学の研究をしない
「文化人類学思想が好きな作家」
だから迎え入れなかった人は正しかった 大田俊寛っていう宗教学者が、
中沢のことオウムと同質だと痛烈に批判しているね 東大駒場騒動(1987-1988年)
1987年、東京大学教養学部社会思想史研究室主任の谷嶋喬四郎より、
ポスト・モダン系統の人材採用の可能性の打診が、
同学教養学部教授の西部邁にあり、
西部は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手(当時)の中沢新一を推薦した。
委員会では通ったが教授会の採決で否決された。
・西部支持
蓮實重彦、佐藤誠三郎、公文俊平、村上泰亮、
村上陽一郎、芳賀徹、平川祐弘、鳥海靖、舛添要一、松原隆一郎、大森彌など
・反対
船曳建夫、谷嶋喬四郎、折原浩、見田宗介 文化人類学がどれほど難しいか解ってればとても言えた台詞じゃねえな
試しにまともな文化人類学の文献挙げてみ 見田宗介は中沢新一のことを嫌っていたね。
北沢方邦も。
思想ベクトルは似ている気がするけど。 学問の研究をしない人間を排除するのは
大学として当たり前だぞ
芥川賞作家が大学教員になれないって
不満を言っても意味ないのと同じ 誰が誰にどう言ったとか
中沢と聞けば脊髄反射でオウムしか出せない猿どもが大学にいて何か得るものあった? 知っておきたい
「最新 脱ぎたて汚れ麺麭をクンクンしたい Best 5 」
1位 角柄 礁
2位 杜玖椀 晶子
3位 西内 まりや
4位 チョン ヘビン
5位 久松 郁実 中沢新一のレンマ論
(1) 「レンマの贈与」 (『現代思想 2017年11月号 エスノグラフィ』)
(2) 「レンマ的算術の基礎」 (『現代思想 2018年1月号 現代思想の総展望2018』)
1.中沢は中村雄二郎から山内のレンマ論を勧められたという話
2.華厳とSFとレンマ とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
LBJH0 >>20
中沢にとっては、
対称性人類学(対称性/非対称性)も同様の取り組みだった “フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールの著作『私たちはまだモダンではない』を知ったときに、
一気に明確な形をとりはじめた。その本の副題には「対称性人類学の試み」とあった。
この言葉を見て、私は自分の求めていたものの「名前」を知ったのである。”
― 中沢新一 『対称性人類学:カイエソバージュ5』 (2004)
(1)Bruno Latour "Nous n'avons jamais ete modernes. Essai d'anthropologie symetrique" (1991) (英訳1993)
(2)ブルーノ・ラトゥール 『虚構の「近代」:科学人類学は警告する』 (邦訳2008)
「対称性」という語の由来は、2の訳者解題で説明されている。 中沢新一対談集 『惑星の風景』 (2014)
クロード・レヴィ=ストロース/ミシェル・セール/ブルーノ・ラトゥール/吉本隆明/河合隼雄/
養老孟司/中村桂子/細野晴臣/杉浦日向子/藤森照信/河合俊雄/管啓次郎 中沢新一×東浩紀
「原発事故のあと、哲学は可能か」 『新潮 2014年9月号』
"「アジア」の脱構築へ"。言語起源論から、アジア環太平洋哲学の未来像まで。 『ロゴスとレンマ』でも読んでみようかと思ったけど、高すぎでプロレタリアには買えない >>29
木岡伸夫 『〈あいだ〉を開く―レンマの地平』 (2014)
山内の『ロゴスとレンマ』をすごく分かりやすく解説しているから、これ一冊読めば十分。 >>30
著者は京大系の研究者みたいね
確かに良さそうだから、読んでみよう 中沢新一×石倉敏明 「野生の科学、あるいは新構造主義の時代」 の自然/文化
『現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014:ポスト・ポスト構造主義へ』
・ニュートンの色彩論
自然過程と記号過程を分離。
・ゲーテの色彩論
人間の脳内過程と外界の自然過程を一つの連続として捉える。
・レヴィ=ストロース
神話は植物が「変態」するように自己変形を行う。人間の精神活動は自然過程そのものから生み出される。
構造とは自然界と人間精神の両方に内在する原理。
・ラカン
無意識の過程が生命的な自然過程に繋がっており、それが反自然的な象徴過程と分離せずに、一つの連続した多様体をなす。
・ヘーゲル『エンチクロペディー』
自然過程と人間の象徴過程を一連のプロセスとして捉えながらそこに弁証法を入れていく。
・中沢『対称性人類学』
脳内過程と自然過程の交渉によってそのつど無数の「新しい自然」が生まれる。
・吉本隆明
記号過程を記号として分離することを批判。
胎児や無意識の中で起こる前言語的な記号活動と、人間の意識的な言語活動との繋がりを持った多様体を構想。
・ガタリ『分裂分析的地図作成法』
フラクタルやカオス理論を開放系にして自然過程に結び付ける。
・自然と科学
現実の世界はすべてが非対称的で複雑な構造を持つ。
自然科学は、自然現象を単純で原始的な状態、対称性を持つ状態に引き戻す。 中沢新一先生というとやはりチベットやオウム
雑誌のアンアンやオリーブでの恋愛相談が記憶に残っていて
それがバイアスになってる事は分かっているが、何故か中沢先生の本を読む気が起きない
アップリンクでお会いした時は「今ストーカーの女の子に困ってるんですよ」と
初対面の私に相談していた事を思い出す。
人間的には面白い人だった。 >>33
マルクスの社会闘争も、こういうレベルから導かれる。 “自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。
人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体だということであり、
人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。
人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、
自然が自然と結びついているというのと同じだ。
人間は自然の一部なのだから。”
― マルクス 『経済学・哲学草稿』 長谷川宏訳 (2010) 第1草稿 4.疎外された労働 p100-101 >>36
ネグリ=ハートは、大都市をマルチチュードの「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」と位置づける際、
マルクス『経済学・哲学草稿』の一部を引用した。
『コモンウェルス:<帝国>を超える革命論 下』 ネグリ=ハート (2012) 第4部 キリスト教と自然過程
“どんなものも新たに生み出すことはできない、それはもとから自然に記されているのだから。
独創性(オリジナリティ)は起源(オリジン)への回帰によって成り立つ。《アントニ・ガウディ》”
“それこそが、自分にとってこのサグラダ・ファミリアが大きな意味を持つ理由のひとつなのです。
未来の聖堂…自然と直接つながる聖堂のように思えましてね”
― ダン・ブラウン 『オリジン』 (2018) つーかなんでお前らって本読んだことないの?
読んでも得るもの無いけど
「コモン・ウェルス」の概念は使えるかと思った時もあったが、所有の概念の無い日本では土台無理な話だった。
「器官なき身体」って何? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています