哲学とは考えることである
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哲学とは考えることであり、その過程を言語を用いて表現することである。 ちんちんとは
考える
”肉”である
マラ・パスカル 哲学の対象になりうるものであるための条件はあるのか?
存在、認識、人生、ちんこ
哲学として成り立つものと成り立たないものの差は? >>9
> 哲学の対象になりうるものであるための条件はあるのか?
ない。
> 存在、認識、人生、ちんこ
これらも当然ながら対象になりうる。
> 哲学として成り立つものと成り立たないものの差は?
哲学者個々人がそれぞれ考えたい対象か考えたくない対象かというやる気(=能動性)の問題でしかない。 では価値のある哲学とはなにか
存在論や認識論と同等の価値を持つチンコ論が見られないのはなぜか >>11
> では価値のある哲学とはなにか
哲学者が考えるに値すると判断した問題について、その過程を過不足なく言語表現を用いて表明したもの。
> 存在論や認識論と同等の価値を持つチンコ論が見られないのはなぜか
現時点において名称が下卑ているからにすぎないのだろう。リビドー論などの名で同等の思索が行われている。 >>12 チンコ論についての補足・追加
存在論や認識論は現物を特定しない分野での考察がなされている。
これに対してチンコ論は男性器という現物を持つ分野を含む考察にならざるを得ない。
医学や生物学、心理学、精神分析など諸分野の知見を取り入れたり、総合したりすることだろう。
よって、前者と後者とでは同等の価値を持ちえない。
もちろん、前者と後者との間で価値の高低を言っているわけではない。単に『同等ではない』という意味である。 >>13
>よって、前者と後者とでは同等の価値を持ちえない。
つまり、物に対する哲学と概念に対する哲学とで哲学は2つに分類できるということか
なぜ両者は違うのか
何がその違いをもたらすのか >>14
> つまり、物に対する哲学と概念に対する哲学とで哲学は2つに分類できるということか
> なぜ両者は違うのか
物事に対する哲学は独立した学問分野として成長する可能性があるから。
例えばこれまで物理学や心理学、経済学、生物学、歴史学などが独立してきた。
独立した学問領域として共有化されたならば、その専門分野の知見が深められ拡充される。
また、学問分野に応じた各種機器やデータ収集・分析など、客観性を保持するための現実的補助具が必要である。
この過程に応じて社会的存在意義も深まり社会的有用性も高まることがある。
哲学自体は別にこれらを必須としない。
> 何がその違いをもたらすのか
社会的有用性の有無。 >>15
ああ、「社会的有用性の有無」だと誤解を生むんだった。
有用性を考慮する必要があるかどうかの違いはある。 >>16
それは哲学とは有用性を考慮する必要性がない学問であると定義できるということか >>17
大雑把には「はい」。
社会的有用性を考慮するということは、その時代・社会におけるなんらかの物事についての思索ということになる。
つまり、>>15で述べたことに戻るだけである。
しかし、思索を深めることにより、その結果なんらかの社会的有用性を持つこともある。この可能性を拒むことはない。 哲学は有用性を考慮する必要性がないが、哲学は有用性によって分類できる
という結論には私は矛盾を感じる
私の考えは、哲学においては懐疑が手法の一つとして大きな意味を持つ
概念に対する懐疑は物に対する懐疑より容易で広がりやすい
よって、その二つは分類できるし、差がでる >>19
「懐疑」は手法のひとつではない。
懐疑の連鎖・応酬・広がりこそが思索であり、これらを言語表現したものが哲学である。
また、分類は様々な視点から行うことができる。
>>13-18においては物事に依拠した思索とそうではない思索について述べたまでである。
物事に依拠した思索においては、その始めから社会的有用性を内に孕んでいる。
物事に依拠しない思索の結果、社会的有用性を獲得することもあり、物事を生成することもある。 考えるということは感じるということとは異なる
感じるということは五感及び快・不快が心に生じる状態であり、意図して生じさせるものではないため行為とは言えない
考えるということは何らかの目的を持って意図して何らかの判断をすることであり、行為である
哲学が考えることの一種ならば、哲学は状態ではなく行為であり、そして何らかの目的を持ち、何らかの判断をする行為であるわけだが、哲学の目的とは何だろうか?何についての判断をするのであろうか? >>21
おっしゃる通り、考えるということはなんらかを解明する目的をもって行われることである。
この際、論理的操作、類推的連想、飛躍的想像などが用いられ、最終的には言語を用いて表明される。
この一連の流れの始めは懐疑という感情であり、その連鎖であり、解明作業に伴う懐疑の応酬や広がりを持つことであり、そしてこれらを言語表現することによる快である。
つまり、感じつつ考えている。
感じ続けていることを基盤にし、その上で考えている。
連続した感情の上で不連続に思索している。
哲学者個々人により目的も違えば、その思索の結果についての判断も違うだろう。
私個人の興味としては、言語の不確実さを徹底的に認識し合った上での対話的交流の可能性の追求である。
これをできるようにするためには、何が欠落しているのか、何が阻害しているのか、何が過剰であるのか、どのようなことが必要であるのか。
過剰しまくり欠落しまくり阻害しまくっているここ5chならば、なにかが浮かび上がってくるのではなかろうかと目論んでいる。 「馬鹿の考え休むに似たり」ってのとセットで考えないとね 何でも考えればそれは哲学みたいな認識広まってるけど
当の哲学者達は行き詰まった社会を動かそうとして本書いた人ばっかだよ
哲学の有用性が低いってのは所詮は机上の理論だから結果的にはあまり役に立たなかったというだけで
哲学にはれっきとした役割も目的もある、というかあった
要は自然科学や専門的な政治学がなかった時代に科学とか政治学の役目を果たしてたんだよね
そこから科学的手法とかが確立されて専門の学問に分かれていくわけでさ
そういう意味では哲学は今は役目を終えてしまったっていう感じはあるよね
ただ将来、今の科学とか政治学とかの学問がどうしても行き詰まったらまた出番は出てくると思う
なぜなら学問は手法であって自分をどうするかってことは問わないから
そういう部分をやるのは哲学の役目 >>25
あなたがそう思うのなら、あなたがそうであるのだろう。
あなたがそう思わないのなら、僕がそうであるのだろう。 >>24
『役目を終えた』という認識は浅い。
単に目立たないだけである。
個別学問が閉塞感に陥った際、そこで哲学が新たな突破口を作り出す。 >>27
それ>>24に書かれてることなぞってるだけだよね >>25 でュップ゚シュッ゚プチュップ゚チュッのだあ
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