自然の斉一性が成立しないつまり世界は反復しえない以上慣習が因果関係を仮構させると言うことはできない
慣習が因果関係を仮構されるという主張においては世界が同じように繰り返されることが前提となっているからである
世界が同じものとして認識されなければ慣習は成立しない
ここで反復しえない世界を同じものとして認識させる能力は抽象化能力であって
自然科学と抽象的世界の関係についてはフッサール辺りが指摘したとおり
カントの用語では物自体が具体的世界であるのなら現象は抽象的世界であると言える
私達が生きているのは具体的世界であるにもかかわらず私達が認識しているのは抽象的世界である
抽象的世界を生きているからこそ世界を同じものと見做すことができる
因果関係を成立させるものは慣習ではない
理解社会学がその典型であり理念型はまさに抽象化の産物である
「歴史は繰り返す」もまた世界を具体的に認識していては出てこない発想である
モデル的思考や概念的思考が人間の世界に対する自由な(ただし恣意的な)意味付けの基盤であるとも言えるが
観点を変えれば具体的世界からその固有性をそして他の具体的世界との差異を消滅させている
その端的な例が判例法理であって判例がある事案に適用される時その事案固有の要素は顧みられない
厳密に言うと法的判断を行うのに不要な要素は顧みられない
もっとも分かり易い点は時空であって判例が適用可能かどうかを判断する際には場所や年月日の違いは考慮されない
情状酌量等個別性が考慮されることもあるではないかと思うかもしれない
確かにそのとおりであるがそれは構造主義における祝祭や供犠の論理と同じであくまで法中の法外に過ぎない
法的判断を行うのに必要な限りで考慮されるものに過ぎない
話を元に戻すと
抽象化能力こそが人間の自由な思考の根源であると同時に人間の思考の陥穽でもある
だからこそ
抽象的認識/思考を成立させるようなつながりとはどのようなつながりであって人はなぜつながりを求めてしまうのか
について考えなければならない
つまり「カントに帰れ」
併せて抽象化の陥穽に陥らないようにしなければならない
つまり「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」
私の問題意識はアドルノに近い