数学を初めとした理系の学問と哲学について 10
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ということはスレタイの「数学を初めとした理系の学問」は哲学を考える方法の一つなわけか
だから「と」は並列じゃなくて、このスレで哲学をどう考えるかについての説明、もしくは数学的考え方と哲学の関係の意味だったんだ なにがどう記述できるのか、記述の可能性について考えてみること >>734
ゲーデルの哲学なんて
ゲーデルにとってどうでもいいことだよ。 このスレをただ理系の学問と哲学を語るだけのスレだと思っていた人が複数いたことに驚愕 数学で哲学は記述できないから、数学をはじめとした理系としたんでしょう
数学を初めとした理系の学問に関連する哲学についてどう解釈するかは各人の裁量
スレタイには命題がないからね gap> Q := Rationals;;
gap> x := Indeterminate(Q, "x");;
gap> y := Indeterminate(Q, "y");;
gap> ideal := [x^3 - 3*x^2 - y + 1, -x^2 + y^2 - 1];;
gap> lex := MonomialLexOrdering(x, y);;
gap> G := ReducedGroebnerBasis(ideal, lex);;
gap> Display(G);
[ y^5+y^4-11*y^3-17*y^2+9*y+17, -y^4+x*y+11*y^2-x+3*y-13, x^2-y^2+1 ] 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。原版は
国立国会図書館デジタルコレクションで無料で読めます
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V 原子命題
世界の最も単純な事実(原子事実)に対応する,固有名と述語より成る命題。
他の複合命題はすべてこれらの原子命題から論理的に構成され、世界の事実が
記述されるとする。ラッセルや前期ウィトゲンシュタインらの論理的原子論の中で
唱えられた。要素命題。 直観主義における論理式の解釈を、以下のクリプキモデルによって定義します
世界Wiの集まり{Wi|i∈I}をクリプキモデルと呼びます
各世界Wiは通常の古典論理における構造に対応します
また、世界Wiには到達可能関係→が定義され、以下が成り立ちます
反射律 Wi→Wi
推移律 Wi→WjかつWj→Wkならば、Wi→Wk
また、Wi→Wjのとき、以下に従います
Dom(Wi)⊂Dom(Wj)
P^Wiが真ならばP^Wjも真
P^Wi(a1,..,an)が真ならばP^Wj(a1,...,an)も真(a1,...,an∈Dom(Wi))
すなわち、クリプキモデルとは、通常の古典的な意味での構造=世界をいくつも持つものであり、
それぞれの世界は我々の持つ知識量に対応している、と解釈できます
すなわち、Wi→Wjのとき、Wjの世界においては、Wiの世界よりも我々の知識量が多いため、
より多くの事柄に関する真偽を決定できる、というわけです ある原子命題Pが真であるというのは、「世界Wiにおいて」Pが正しいと判断できる、
ということを意味して、Wi|=Pと表します
逆にPが偽であるということは、「世界Wiにおいて」Pが正しいと判断できないということ、
を意味して、Wi|≠Pと表します
命題¬Pが真であるとは、Wi→Wjなるすべての世界Wjに対して、Wj|≠Pとなることを意味します
言い換えれば、その世界より後ろは全部偽なわけです
今、Wi|≠P、とわかったとします
このとき、Wi|=¬Pと言えるわけではありません
Wiに関して言えば、真ではない、とわかっただけですから
Pは本当にWi|=¬Pとなるかもしれませんし、到達可能な世界を巡っていけば真だとわかることがあるかもしれません
前者を、Pは真に偽である、後者をPは保留状態にある、と言うことにしましょう
このようにすると、Pが偽、すなわちWi|≠Pであるとは、真に偽である状態であるか保留状態にあるかのどちらかだ、
と言いかえることができます
直感主義における偽とは、確証のなさを表していると言えるでしょう
本当は偽なんだけど自信がないときは真の偽、本当は真なんだけど自信がないときは保留状態であり、
どちらの場合も断定ができないので、真ではないという意味で、偽を与えるのです
命題∀xP(x)が真であるとは、Wi→Wjなるすべての世界Wjに対して、全てのa∈Dom(Wj)に対してWj|=P(a)となること、
を意味します。その世界より後の世界の対象をどれだけ持ってきても真になる、というわけです ¬¬Aの意味を考えましょう
Wi|=¬¬A、Wi→Wjとします
Wj|≠¬A、すなわち、「Wj|=¬A」ではない、となっています
これは、任意のWjに対して『「Wjより後ろは全部偽」ではない』、ということですから、
WiにおけるAは真であるか保留状態になっている、ということを意味しています
Wi|=¬¬AとWi|=Aは異なるわけです
Wi|=∀x¬¬A
これは、全てのWjの全ての対象xに対して、Aは真であるか保留状態となっていることを表しています
Wi|=¬∀xA
これは、任意のWjに対して、『「その世界より後の世界の対象をどれだけ持ってきても真になる」わけではない』
ことを意味しています
Wjより後の世界には、必ず偽となるような対象が存在する、というわけです
別に矛盾はしていませんよね >>812 文字化けしたので、再投
¬¬Aの意味を考えましょう
Wi|=¬¬A、Wi→Wjとします
Wj|≠¬A、すなわち、「Wj|=¬A」ではない、となっています
これは、任意のWjに対して『「Wjより後ろは全部偽」ではない』、ということですから、WiにおけるAは
真であるか保留状態になっている、ということを意味しています
Wi|=¬¬AとWi|=Aは異なるわけです
Wi|=∀x¬¬A
これは、全てのWjの全ての対象xに対して、Aは真であるか保留状態となっていることを表しています
Wi|=¬∀xA
これは、任意のWjに対して、『「その世界より後の世界の対象をどれだけ持ってきても真になる」わけではない』
ことを意味しています
Wjより後の世界には、必ず偽となるような対象が存在する、というわけです
別に矛盾はしていませんよね やはり、文字化けしてしまう
>¬¬A の部分は
>¬¬A に置き換えて読んで、not1個のところは、¬で置き換えて むむ。それはおもしろい。
ま。大きさとか重さとか速さとか、ないわけでもないけどねぇ。
そういうことを考えると、数には「情報」があるのかという疑問がわいてきた。
情報=エネルギーなのだから。
「数」には大きさも重さも速さも、もっといろいろなものも「ある」。
抽象的なものだけどね。
「情報」もある。とすると「数」にはエネルギーもある。
「熱」もあるだろうしねぇ。
ただ、残念ながら、それらは「抽象的」なものであって、豆電球すら点灯できないw 言葉を数学的に使うことによって『世界を正しく認識する』ことが哲学であり、
単に言葉を自分の五感で得た印象や思いつきで文章にして語っても、
それはその人の感じた世界であって、この世界=宇宙を正しく語ったものではない。
それは個人的な思想であっても哲学にはならない。カントやヘーゲルも厳密には哲学ではない。
数学的である言論だけが本来の哲学だ。だからプラトンもデカルトも出自は数学者なのだ。
数学者でない自称哲学者は本来の哲学者ではない。 言葉を数学-論理的に使うものには、命題関数や命題論理などがあるでしょう。
独断論的哲学や宗教には論理や証明が一切なくなく、結論に飛躍する。
だからそれらは直観主義的なもので、非数学的であると言えるだろう。 そのため独断論的な言説は、いわば何でも有りの世界なので、迷信含めて
全て想像的には可能なものとして定立される。彼岸や死後の世界における
描写についてもそうだ。それは、どのように語ることも可能だ。
数学はそれらのアプローチと真逆で、解の収束を期待する。
散文や空想的な何でも有りの世界ではなく、一意性を志向する。 数を人がどう認識してるかを街の人に聞いて回ればいいんじゃないか 数学的直観主義という概念もあるけれど、それは直観的どころか、むしろ
それは厳密な論理構成なりエビデンスを必要とする。
「直観主義論理は古典論理の制限であって排中律や二重否定除去が公理として
許容されないものである。直観主義論理に基づく数学によって得られる成果は、
古典論理に基づく数学に比べて制限されたものにならざるを得ない。
具体的には、ab = 0 から a = 0 または b = 0 を直接結論することはできない。
なぜなら、直観主義においては、「a = 0 または b = 0」が証明できるというのは、
「a = 0」が証明できるか、または「b = 0」が証明できることを意味するからである。
また、ワイエルシュトラスによる実数体の任意の有界な部分集合は上限を持つという
定理が証明できない。しかし、直観主義は単なる思想としてだけではなく、
数学基礎論や計算機科学科に様々な影響を与えている」
だから、数学的直観主義は概念的に言って古典論理よりタイトなものになるだろう。 数、あるいは数学とは何であるかを考えることは、別に数学基礎論のようなレベルで
取り組まなくてもそれなりに意義のあることだと思う。
たとえば、functionは、関数という意味の他に機能、働き、職務という意味もあって、
AIによって人間の役割、もしくは働きが代替可能になってきている今、人間を再定義する意味でも
数とは何かを考えていくことは、その裏面で人間を考えることにも連なるであろうからね。 たとえば、人はどのような言葉を掛けられると喜ぶのか?というのは関数で表せるようになるだろう。
つまり、AIが人情の機微に通じた繊細な応答をアルゴリズムとして実装されることで、
優しい人間のように振る舞うことが可能になる。
ここで、性格の悪い人間Aと性格の良い、あるいは性格の良さを実装されたAIが二者択一
となった場合、人は果たしてどちらを好ましく思うだろうか。ガミガミと上から怒鳴るだけの
人間の上司、あるいは、意地悪や陰口ばかり叩く職場の陰湿な同僚と、ラポールに富んだ
優しく親切なAIがいたら、人は前者より、後者の方を希望する、ということはありそうな話だ。
生産性や職場での精神衛生上の観点からも、そういう風になり得る。つまり、人間はAIには
ない何かを見つけ出すなり、定義していかないと、機能においては今後容易にAIによって
代替されうるし、なおかつ、感情的共感の領域でもAIの後塵を拝す可能性がある。 アメフトの監督を代替するAIには相手QBを壊せなんて指示を出させないようにしないとな http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1805/18/news112.html
慶大とIBM、量子コンピュータの研究拠点を開設 実用化に向け、化学・金融の4社が参画
慶應義塾大学とIBMが、量子コンピューティングの研究拠点
「IBM Q ネットワークハブ」を開設。発足メンバー企業として4社が参画し、
化学・金融分野への応用研究や量子アプリの開発などを進める。
今回の取り組みについて、慶應義塾大学理工学部長の伊藤公平氏は、
「IBM Qシステムは、あらゆる量子アルゴリズムが実行できるゲート式の
万能量子コンピュータで、最適化といった特定の問題に特化した
量子アニーラなどとは一線を画す」とコメントし、「過去20年間にわたり
慶應義塾大学が発展させてきた量子コンピューティングの研究レベルと、
ハブに参加するメンバー企業のニーズを合わせることで、実用的な
量子アプリケーションを開発することを目指す」としている。
IBMでは、ハードからソフトにわたる全階層での量子コンピュータ開発を行い、
発足メンバー企業の活動支援と、さらなるメンバー企業の参加支援を行うとしている。
ハブ機関とメンバー企業に対し、API、量子ソフトウェアツール、ライブラリー、
アプリケーションなどを提供。また、IBMのエキスパートによる新たな量子技術と
産業応用に関するコンサルティングも提供する。 世界や宇宙は最適化するように場や環境、システムを絶えず組み換えながら動いている、
(ここにヘーゲル的な「絶対精神」のような作用項を入れてもいいのかもしれない)と仮定すれば、
数学的な秩序がヴェールのように宇宙を覆い浸透している、その作用の表れこそが、
この宇宙であり、世界であると言ってもいいかもね。卑近な例ではDVDより、ブルーレイディスクの方が
青紫色レーザーによって波長が短くなるので容量が大きくリソースを効率的かつ画質もDVDより
高精細になっている、ということもそうした作用の一つ。
だから、ブルーレイよりもっと効率的に使える記憶媒体があれば、今度はそれへ移行するのは
コスト面等で問題がなければ、それが自然な流れとなる。すべてをマクロな観点でみれば、
このような最適化する原理で動いているだけだ、と言っても良さそうだ。人々の価値観や動線、
行動パターンであってもそうだろうし、慣習の変化も最適化の原理で解釈出来そうだ。 経済学だと「効用最大化問題」というのがある。これも効用関数が使われるので、
数学的な問題。
似た問題に、最適化の説明でよく使われる「ナップサック問題」というのがある。
これは泥棒が容量に限界のあるナップサックに、どのように盗む商品(容量と価格が異なる)
を組み合わせて袋に入れれば、一番、盗んだ物品のトータルの価値が最大化されるか、という
アルゴリズムのことで、計算複雑性と関連している。動物は、このナップサック問題が苦手、
というより、たぶん出来ない。目の前の餌に即飛びつくだけで、トータルでの損得や効用の
最大化ということは全然、考えられない。カラスやイルカとかは利口なので多少考えられそう
だけど。 AI開発なんてAIを開発するAIに任せとけばいいんですよ 数学が好きすぎてもはや数学信仰に近いものがありそうだ >>838
数学が独断論だとして
だからどうだってんだよ >>842どうにでもしろ若しくはどうもしなくてもよい >>843
おおそうか
結局、数が概念か否か>>825なんてことは
『どーでもいいこと』なわけだよ >>842
形而上学は独断論
数学は独断論でない
という構図が成り立たなくなる >>848
だから、数学が独断論だとして何か問題あるのか? >>849
形而上学の独断性を数学によって乗り越えることはできないということ >>851
だから
形而上学が独断論で
数学によっても形而上学が独断論のままだだとして
何が問題なんだよ お前は馬鹿のようだから、分かりやすく言ってやるわ>.851
もし数学が独断論であったとして
2+3の計算に困るようなことが起こるのか? >>852
俺もお前も困らない
困るのは>>822 822も別に困らない
なぜなら奴は、独断論的哲学と数学とを区別したかっただけだから
問題なのは、「数学も独断論だ」と口走った>>838 馬鹿にも分かるように言ってやるとだな
「人間と動物を区別しろ」と言った奴が>>822だとすると
「人間も動物だよ」と言ってしまうのが>>838 区別する能力がおまえには無いってことじゃねーの?
分かりやすく言ってやると「猫に小判」 数学が形而上学同様の独断論的というのは、意味的には完全に偽とは言えないけど、
表現法がやや拙いとは言えそうだ。
公理系は証明し得ないもの、もしくは証明不要なものが用いられるので、
そこにそうした恣意性が介在する要素はあるかもしれない。 ただ、これはゲーデルも言ってたことだけど、一度、ある公理を選択してしまえば、
そこからは演繹なり、そこから証明される定理があるのみで、独断論的となる、
あるいは、創造性を駆使出来る ような自由は、数学には全然ないと述べていたよ。
つまり、数学は想像でも信仰でもなく、厳密な手続きという観点だね。 だから、好き勝手なことが出来る創作やポエム、何でも仮構出来る信仰と対極にあるのが数学だろうね。だから数学が苦手な連中は、安易なポエマーになるのだろう。
そこには数学のような厳密な知的負荷がかからないので、頭を使うのが嫌いな人には
ニーズがあるのだろう。 感じた事を表現する為に理解できない言葉は使わないよね 男は女じゃないが同じ人間。
ふたなりは男であり女であり・・・と、
はっきり区別できないが同じ人間。
これがなにを語るか。 >>865
ポエマーの対局はどのように868を語るか期待。 数には大きさがない。
0次元が無限にあったら1次元になるのか?
二次元、三次元、四次元。
さて次元は実在するのか。 "if P(x) then Q(x)" is defined to mean ∀x(〜P(x)vQ(x)) . 遺伝子としたら男女ふたなりは差異。
猿、魚、亀、人間。
ウィルスは区別し難いが物理として差異。 分類は差異を否定で理解する。
分類困難が出てくる所以。
分類すると差異であることがわかる。 >>861
区別できないものを区別できたと主張することもまた独断論ってこと >>880
馬鹿だから区別できないものを区別できたと思い込んでいる可能性はないの? >>884
ないね
なぜなら、「分かる」とは「区別できる」ことだから 数学はclassification で合っているよ。機械学習もデータの特徴量を特徴ベクトルで
クラスタリングしているだけ、だと言ってもいいくらいだ。
集合でも「環・群・体」など、集合の構造の違いごとに分類したものだ。
ガロアが最初に群という言葉を使っていたらしいね。 今、ちょうどあなたにお薦めの本で、離散数学「ものを分ける理論」というのが
出て来たけど、まさに、今言ったことがそのまま著書名になっている。 ワインの違いが分からない人は馬鹿だよね
舐めただけで天然水の硬度が分からないと馬鹿だよね そりゃあ、連続量の方がアナログで自然な人間の感性に適合しているからだろう。
離散量は、そこからの抽象化だから。 >>885
区別の恣意性に無頓着すぎて区別できたと思い込んでいないことの証明になっていない
>>848で構図が成り立たなくなると言ったのは独断的区別に気付いてもらうため
>>879はその点をはっきりと述べている
恣意的に意味付けして区別できましたと言うだけなら誰でもできる
区別しないというのも実際は区別しているのであり意味付け行為だという指摘にはその通りだだから区別しないと区別するは区別できないのだとあらかじめ答えておく >>893
おまえの言うように、“区別しないと区別するは区別できないない”なら
そもそも証明がおまえにとって意味の無いことになるんじゃないのか?
そんなおまえさんに、何をどうやって“証明”してやったら納得できるんだ?え? >>894
おまえ何かを証明したつもりだったのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています