時間とは何か
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
時間の問いの周辺
『悟り』と言われるものは、ある種の諦観であるか、(諦観は時間に関係している)悟りをフィロソフィアで説明出来るか。
『父母実生以前の自己』、それが一つの(ーa)問いだとすると、その問いも時間に関係している。
ハイデガーの存在と時間は、一つの(ーa)言説である。それは存在と時間を説明しようとした。 可能性の物象化としての実現
でき・ごと(出来事)≒becoming-fact
でき・もの(出来物)≒becoming-something 2ch も 英語とか フランス語 、ドイツ語に 翻訳した掲示板にしないとな。
古典学とか。 過程サン
死んじゃったぁー🎉
ウヒョヒョヒョウヒョヒョヒョ⭐✨ 可能性の物象化としての実現
いいですね。
概念
あらゆる存在者は可能性を持ってある。しかし、ではなぜ存在者は可能性をもつのか。可能性とは何か。存在者とは何か。存在とは何か、となる。
ここでも、問いは『存在とは何か』ではなく、『存在の意味とは何か』になる。存在とは『その存在の意味の担体』である。
すると存在とは概念である。概念とは、この形式でしか定義できない『もの』であり、それらはすべて『存在概念』である。
(仮説です) >>15
そもそも 問いが 間違えてるから
答えが 出ない✨😊 時間とは何か、と言う問いは、
『存在概念』などより
時間とは 何故 如何にして可能か を問わなければなりません✨😊 矛盾が決定不能
微積分の根拠
無矛盾な自然観
学の基礎を難問通して自分なりにできた
時間はこれらを通して解明可能だと。 物事は、よし(寄っていること)/あし(離れていること)なのだから、
静的ではあり得ない。「良し」とは「寄る作用」であり、自ずと
乖離が生じるからこそ、「寄る作用」が「良し」とされるのである。 To be oneself is to have a potential to be equal to another self.
自己の現象学/自己化と倫理を相反するものであるかのように捉える
「他者の存在論」というようなものは、そもそも存在論を別の前提に
よって捉えてしまっているのではないだろうか。その前提とは、
他者を受け入れるにせよ、排除するにせよ、1であることこそが自己
であるとするもの、すなわち、"To be one is to be oneself"である。
自らが前提とするそのようなある種の障害を思わせる「self-sameness」
を逃れるために、自己化とは別のものとして、特別に他者を必要として
いるのではないか。 >>22
ナリスマシがおおいねん☀
久しぶり😆✋💕 存在という意味と、存在という構造は、随伴である。
哲学的に考察されるべき対象であっても、考察する行為であっても、常に随伴を考えねばならない。
ここでいう随伴は、おおざっぱに双対概念のことであると考えてもよいだろう。
表裏とか対称性とか共役とかではなく、粒子と波、意味と構造、もはやまったく異なるようにみえるものが、ある種の双対性を持っているということ。
そのようなタイプの二面性。
哲学とは「問い」であって、その随伴は? と考える。
「時間とは何か」という問いとは何か?
まずこの「文」あるいは「問い」という屏風の中から「時間」を外に出さなければならない。
ここまでは普通の一休さんであって、公案でしかない。
それをくコ:彡にして踏み越えるか。 放置すれば近隣住民への執拗な付きまといを繰り返し、重症化すると頭の病院で扱う病気ってなーんだ? >物事は、よし(寄っていること)/あし(離れていること)なのだから、静的ではあり得ない。
物事が静的ではあり得ないとするなら、そこにおいて静的なものとして現れるとは
どういうことか? ベルクソンは相対性理論に異議を唱えたらしいから 時間に関しては哲学者としては一目置いてるわ 「ドゥルーズ 思考のパッション」
ドゥルーズは矛盾を受け入れておらずパラドックスとしているようだ。
矛盾しているから、それを解消するためにこの世界が構築されている。そうは考えていなかったようだ。
矛盾でもパラドックスでもない、なにか新しい用語の必要性を感じる。
数学でよくおめにかかるのは「到達不能」。それもいまいち。
ま、しばらくは矛盾でとおそう。 この世界あるいは哲学的世界を暗号論的に考えるのもおもしろい。
到達不能あるいは決定不能な暗号を解釈したものがこの世界であり、哲学によって解釈されている。
現象とは解釈されたものであり、解釈とは意味であり、意味の随伴は構造である。
時間あるいは空間は、暗号の解釈であり...などと...
このシナリオにたってみると、不完全であることは完全を求め、それゆえに世界をうみだしてしまう。
タロットカードの0番は「不完全」を意味するのだろう。
十二縁起でいえば「無明」。
胚でいえば、「卵割」。
ドゥルーズでいえば「パラドックス」w 過程サンが死んじゃったので🎉
私はまいにち毎日🎾
⭐✨😊ウヒョヒョウヒョヒョヒョヒョウヒョ 概念
概念と言えば、存在の概念、時間の概念、そして、車の概念、などがある。冷蔵庫の概念もある。そして画期的な物が出来た時には、〇〇の概念は覆されたとも言う。
馬車の概念もかつてはあったのだろう。今、馬車の概念と言うと、奇妙な感じがする理由は、馬車をもう我々は『つくらない』からだ。
すると、時間とは我々が作り出して、今も作っている世界把握のある種の道具であり、それを概念と呼んでいる。しかし、現在、今、車の概念はそこそこ、説明出来るが、時間の概念の説明は、おぼつかない。おぼつかないまま我々は実存する。 意識はいつ生まれるんだ 受精した瞬間か 妊娠中は 身体の中にいるのだから 時間経過を経験してるわけで、既に意識は生まれてると解釈してもええんか 時間の概念
時間とは何か、の問いは、つまり時間の概念を作り上げる作業だ。車は作り出されてから、
その概念が出来たに違いない。車が構想された時、車のまだ見ぬ概念が生まれていたのだ。
時間の問いはその説明を自分自身に、現存在私に求めている。それは世界把握のために、その概念は有用で、無くてはならない必須だろうが、同時に実存する実存者も、時間のなかに終始いて、時間をつねに気に留めている。 矛盾やパラドックスではなく、「不完全」でよかったのであろう。
自然は不完全であるがゆえに完全を求める。
時間というものは不完全であることの証明であり、不完全さを埋め合わせるための道具あるいはパテあるいは機構である。
不完全さゆえに主体が生じる。不完全さゆえに因果が生じる。
不完全さゆえに変化が生じる。 不完全なのは人間などではなく、「領域」である。
これをうかつに「空間」などとは呼べない。
不完全なるがゆえに人間というものも生じる。
ドメイン哲学は可能か。というと不可能ではない。単に量子論のことである。
(量子)場の哲学。
そう考えると、哲学は最初から「量子化」を行っている。量子化なしに哲学はできない。
量子論と哲学は同じものである。つまり、量子コンピュータと哲学コンピュータは同じものであるw
共変的哲学場。それが哲学のすべてである。と考えたが、それでは足りない。
哲学のすべての答えは、「不完全」にたどり着く。
不完全さによる共変的哲学場。それがすべてであり、それがすべてでしかない。わかったよワトソンくん。真犯人は不完全性だ。 こうなってくるといよいよ現地人がうざくなってくるな 概念というと時間もそうだが、ある 概念があるということは物事を抽象
化するということだから、なぜかあるものとあるものの概念の二つに物事が分かれてしまうだろうね。世界を把握するということはどう見ても大したことじゃないが、
世界を把握しなければ二人の世界は成立しないし、というような美しい話なんじゃないかな。 意識がどう人格化して親や生命のの意識より生まれるのかは不思議だ。
その前段階には個人という境界はないのかもしれない。
自分の意識が生まれたのは出産よりだいぶ前の歴史の中のことであったように思う。 『ドゥルーズ 思考のパッション』ピエール・モンテベロ著
結構おすすめだ。ドゥルーズをうまく読めていない人におすすめ。
ただし、
『無意識の思考 ――心的世界の基底と臨床の空間』I・マテ-ブランコ 著
を事前に読んでおくこと。
この2冊はドゥルーズに感染せずに読むためのワクチンとして必須であるw
感染せずに読めるようになるには防疫態勢を整えなければならない。
まあ、たいていは翻訳のまずさで感染は防がれているわけだが、
思考のパッションによって読み方がわかるようになってしまうと危険率があがってしまうだろう。
ちゃんとお医者さんがついているドゥルーズの本であっても、そっち系のお医者さんこそ危ないのであるw ドウールーズについてだな。おれはドゥールーズにはたどり着かなかったけど、内容的にはどういったないようだ?
フランス現代思想で読んだのは、メルロ=ポンティとミシェル・フーコーくらいかな。デリダについてはパラパラめくって読んだくらい。 サルトルとラカンは骨格はわかるが、ポストモダンのハシリであるレヴィ=ストロースとソシュールの理解もそんなに進んでないが 哲学でわかるのは本当に骨格の部分であって、知っているならドゥールーズやデリダのことを教えてほしいね。 フロイトならかなり話せると思う。
アンチオイディプスについての話しができるなら歓迎する。 出版社によれば、
数多いドゥルーズ論の中でも定評のある名著、待望の翻訳。スピノザ、ニーチェ、ベルクソンなどの哲学史の中にドゥルーズを位置づけ、哲学史を組み替えつつ、その「非人間主義」をきわめる。
などとなっているが、
非人間主義ってのは著者のピエール・モンテベロの仕事であって、ドゥルーズではない。
もし、理系であれば、哲学史という共変的量子場における組み替えがネットワーク上を伝播しているように読み解くのがベターかもしれないw なんてね。
文学的には江戸の時代における怪異譚のように受け入れるのがベターであろう。
哲学史という怪異譚の中にドゥルーズがいるわけだ。 哲学書読むと先入観もって世界を解釈するようになりそうなんだけど 秋山信友 穴山信君
甘利虎泰 板垣信方
一条信龍 小畠虎盛(小幡虎盛)
飯富虎昌(一期四天王)
小山田信茂
高坂昌信(春日虎綱)
三枝守友(三枝昌貞)
真田幸隆
土屋昌次
内藤昌豊
馬場信春
原虎胤
山県昌景(二期四天王)
山本勘助 >>54
へーっ、そうなんだ。
甘利と板垣は、武田信虎を裏切ったことに罪の意識を感じていたと思う。
だから二人そろって死に場所を見つけたように思ったんではなかろうか。
信虎と三人で内紛ばかりの弱小国だった甲斐国を統一、今川勢を撃退して、あそこまで持っていったんだもの。
青春の思い出を共有する仲だったと思う。
ちなみに武田信虎は富士山に登ったことがある。
暴政は事実かもしれないけど、無学なりに何か(外部?)を探求している人間だったと思う。
>>37
>実存する実存者も、時間のなかに終始いて、時間をつねに気に留めている。
時間のなかには終始いるが「つねに気に留めている」かなあ。
「時間を忘れる」体験は、誰にもあることだと思うが。
そしてこの「時間を忘れる」という表現もくせもので、われわれは「時間」を頻繁に思い出すがゆえに、あたかも「つねに気に留めている」錯覚に陥っているのでは。 武田信虎と晴信の確執は、晴信の長男義信との確執と対になっているね。大河ドラマ風林火山(キャストも含めそんなに良いできではなかった)でも描かれていたが、
家督は家臣団の派閥争いの元凶でもあった。甘利虎泰と板垣信方は、晴信の最古参でもある、いわば筆頭家老(ないけど)。
彼らから見れば晴信を立てた方が遥かに戦国の乱世を生きるのには適していたんだろうね。 そもそも家の構造が繰り返される時点で源義光流の甲斐源氏は縁組に難があったのか呪われているといっても過言ではない。
武田晴信が死ぬ前の三方ケ原では織田方や徳川方より力関係が優勢であり、最強であったのは晴信の経験によるところが大きい。
魚鱗の陣系や軍隊の統率、各隊のメンバー構成は徳川からみてもとても脅威であり、徳川はのちにまむし隊を武田軍の残党から構成している。 陣形か。
魚鱗の陣形が火の玉の如く徳川軍の本体まで突き破り、家康が自決を覚悟するほどの勢いをもって制圧したのは軍隊の構成によるところが大きい。 とてもメンバー構成や時の熟すまでの準備には余念がなかったのだろう。どういう構成にしたかはわからないが、恐らく顔を見て揃えたのだと思う。
武田軍を構成した各隊にはプライドがあり、みんなでとても友愛を感じていたことが伺える。みんな愛をもってやっていたのだと思う。
未だに、そのときの輝きと愛とを忘れていないが、穴山を皮切りに武田勝頼を裏切ってから武田氏は実質滅びた。
史実では天目山で自決とあるが、もしかしたら多くいる影武者が犠牲になり、宗家は山奥に逃れたのかもしれない。
まあ、現実はどうあれ武田軍が散り散りバラバラになってのちの子孫たちが現代を迎えたのは確かだ。 >>35
説明してるじゃん。
本質は自然を説明する認識道具。 やって来る時、今
時間をいつも気に留めている、表現が少し上手くなかった。時間を気に留めてある在り方をしている者が実存者である。そして、時間とは何かの考察では、まず時間を意識する必要がある。時間とは何かが、説明出来れば時間を忘れると言う在り方が判る、説明出来る。
これから来る時、時間を気に留めている。そうしてやって来た時間、今を過ごしている。未来と今である。この二つが解明出来れば過去は容易だろう。また、この二つが解明されて初めて過去の活用が可能となる。過去の意味はその活用、利用にある。 時間への問いと実存
時間とは我々が作り出して、そして現在も作り、作り出そうとしている何ものかである。時間は、すでにある、すなわち作られてあるが、我々が時間とは何かと問うのは、言ってみれば時間が、まだ不十分であるからだ。
そして時間の十分な構築には、その時間の構造の十分な解明が求められる。そうした問いと問いかけは、実存者特有の在り方である。 >>69
実存者がなければ 時間はないのかしら?
百年前、百年後には時間はないのかしら?
答えは 出せる❓✨😊 私は100年後時間を出せないし、巨大隕石が地球を破壊して人類滅亡していたら出せない、脇が甘い 公共時間と私時間
五百年後も、今は今です。五千年後も今です。
その時は公共時間で、多分それはやって来るでしょう。
公共時間と私的時間としていましたが、公共時間と私時間(しじかん、わたくしじかん)
とします。私的と言う言語が、すでに社会的流通意味に汚染されています。私時間として初めてわたしの私時間と、Aさんの私時間、そしてCさんの私時間が出現します。これらの私時間は、もちろん公共時間の上に乗っていて、我々が成立するのです。
今、は公共時間にも今があり、私時間にも今があります。物理的、科学的時間は公共時間をより正確、強固にして、定義の基礎ともなっています。
普段、我々が五千年後を考え難い理由は、それが私の私時間としては無いからですが、公共時間としては、多分、来るでしょう。その時、それを体験する人も、多分、いるでしょう。 意味と時間
私(現存在私)は、我々の中(その社会)にいます。我々の中から脱出は出来ません。それでも私は、我々を超えて、私としてあります(あり得ます)。私の私時間は、決して公共時間を越えませんが、それでも私の私時間は私に固有の私的な、個別的な時間です。
これがコギトの新しい説明です。私が我々を超えて私であり得る事情は、私が意味において私であるからです。意味は公的な社会的な意味として流通しますが(社会的流通意味)、その根源は私的です。 >>72
ご免で済むなら警察いらない
多分でよければ哲学いらない >>75
多分永遠なのは自然の事ではないんでしょうか?だとすると
間違いなくというのは、それを時間と混同して認識しているからでしょう あしたの今と二百年後の今
二百年後も今が訪れます。その今は公共時間の今です。そしてその時その世界に実存する存在者がいれば、その存在者に私時間の今が、訪れます。
つまり、事情は、この時の(23日、午後6時過ぎ今)と同様です。このやがて訪れる二百年後の今は、あしたの今と同様です。あしたのお昼に今が訪れるでしょう。そのあしたのお昼は、公共時間のお昼ですが、また私時間のそれぞれの存在者としての私時間のお昼です。 アンドロメダの自然立体台座の方が、デルフォイよりおススメ。
時間に関してていえばね。 『(23日、午後6時過ぎ)今と同様です。このやがて訪れる二百年後』
括弧の位置が間違い >>76
夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない
人の思い描く時間は永遠ということです。 二百年後だろうとなんだろうと「時間」は「いまここ」にしかありません。
過去も未来も「いまここ」にしかないのです。
それゆえに、一般的にイメージされているような「流れる時間」は存在しません。 >>81
夢は比喩ですよ、観念論を知らないのですか? 観念論を知らないような人はここには来ないでしょう。
みんなインディアンポーカーをしているんですよ。
それが時間スレにおける正しいゲームです。 >>84
時間スレで哲学やってるのに観念論のカードは拾っちゃったら嫌だな 時間とは観念的なものだからしょうがない
時間という空間やエネルギーは存在しないからな ベルクソンは時間に絶対的自信を持ち
相対性理論を理解した上で
アインシュタインに噛みつき敗れ去った
そのアインシュタインを最も追い詰めたのは
哲学的な解釈もできる不完全性定理のゲーデル
時間論でパラダイムシフトが起こる可能性がある
そのヒントは哲学者が出すべきだ
物理は無視してはあかん 時間とは記憶を整理する為の概念に過ぎない
物理では事象の持続的変化を追う為に観測的推移を時間的運動となどと呼んでいるのだが 時間とは現在の持続であり、現在とは宇宙の全てである。
変化によって定義されるのは時刻であり時間ではない。
世界は在るし、在り続ける。この世界の持続こそが時間であり、勿論、概念などではない。 アリス ?喪メール 妃と。在る酎 より 有財公もね。 綺うp。ブッサge ブッサge what up?
ポルノ―ションvideo専門テレラジ作ろうぜ。
結局時間なんてのは存在しないだろ。
俺たち生物が時間というものを意識することで初めて時間が存在できるんだろ。
つまりおまいら全員に時間があるんだよだからタイムマシーンや時間を遡ることなんて無理 時間の発見、(私時間の発見)
森の中でノソノソと動く動物に遭遇する。
その動物がトラであると確認して初めてトラを発見します。人は確かに時間の中にいるのでしょうが、時間を発見しているでしょうか。
時間が何であるかが判らないのだから、人は時間に遭遇していません。時間の中にいわば
投げられていて、慌ただしい現代ではその中に溺れるかのように過ごしています。そして死が迫って来るような状況において、初めて、時間とはなんだったのかと気がつきます。私の人生はなんだったのかと。それがハイデガーの死への投企です。
時間を解明しょうとする試みは、他者に伝えられるある言説を目指していますが、それはまた時間の改めての発見にもなるでしょう。 >>105
時間の発見、(私時間の発見)
森の中でノソノソと動く動物に遭遇する。
それは動物だと発見して動物がトラであると確認します。人が認識するのに時間を要しますが、時間を発見しているのではない。
時間がなんであるか判っていれば人は時間に認識上で遭遇します。時間の中にいわば
投げられていて、慌ただしい現代人は、その中に溺れるかのようにすごしています。そして死が迫ってくるような状況においても、時間とはなんだったのか気づけないまま彷徨います。私の人生はなんだったのかと。それがハイデガーの時間への投企です。
時間を解明しようとする試みは、他者に伝えられる言説を目指すことで、それはまた改めて私時間の誤解も浮き彫りにするでしょう。 流通時間
人が投げられてあり、時には溺れたようになっている時間は、社会的流通意味としての時間です。これを流通時間とします。
ここで説明しょうとする公共時間は、公共的に、つまり社会的に使用され使用出来る時間ですが、いま、人々が思っている流通時間とは別の『意味』を持ちます。
流通時間の意味は判然としていません。ここで説明しょうとする公共時間は、その意味の判然とした時間です。ただその説明には、もう少し意味の解明と説明が必要な気がしています。 私時間
(十分に)説明された時間が、公共時間で、人はその中にはすでに投げられてはないでしょう。人はその中を泳げるはずです。その個人的な泳げる時間が私時間です。
(しかし、どの様にしたら泳げるか、泳げる為の練習は何かの課題はあります) 現代美術
青いバナナを30ほど、三つに分けてピアノ線にさし、あたかもバナナの木の様に、真ん中にはバナナの木の本体に似せたボールを立てる。その他に若干の演出が必要ですが。これを『バナナ、2018、TOKYO』とします。現代美術です。
さりげなく立て札を立てて、『食べられますが自己責任になります』と書きます。美術展の会期は十日ほどで、やがてバナナは腐り床に落ちます。終わりまでに観客に食べられたバナナが、数本、その皮が無造作に捨てられていれば、『バナナ、TOKYO』は成功です。
ここでは、バナナの意味が問われています。『バナナの意味』が展示されたのです。芸術とは意味への問いかけです。だからフィロソフィアと同類です。 泳げない人が溺れない泳ぎ方を伝えようと創意工夫した私時間は
流通時間という近代美術的な創作泳法を編み出し
独創的な『バナナ、TOKYO』という新たな哲学の途上が試みられ
溺れることなくなんとか泳ぎきり成功に終わった模様です。 芸術家
つまり、芸術家とは泳ぎ難い時間を(流通時間)をなんとか泳ぎたいと試みる者達への呼び名です。そして何時も実際の時間は(社会は)自己を求めて泳ぎたい人には泳ぎ難いでしょう。作品とは、その泳いだ(もがいた)航跡です。これは芸術家の存在論的な実存論的な定義です。
(たぶん世界で初めての) >>108
泳げる時間、ではなく、『泳いだ時間、泳ごうとする時間』とする。 人類史上まれに見る哲学が展開される歴史的瞬間をありがとう 泳げないけど水に浮くように近代化したクロワッサンたい焼きもよろしく 形式上の時間と意味
我々がいま時間と呼んでいるものは、流通時間とした方が良いのです。時間を説明すると、それは公共時間になります。それでその公共時間から私的な意味の私時間を展開したいのですが、うまくいかない。
それは人間存在が、今のその流通時間に囚われているからです。いま囚われているその時間を流通時間としていわば捨て去り、新しい公共時間を把握する必要がある。
時間とは、『世界内の意味のすべてをその中に含んである』と言えます。いま流通する流通時間も形式上、その様な形をしていますが、そこでの意味は様々な『権威によって固められている意味』です。
バナナ、TOKYO、は、そう言った『固められた意味』への疑問の提示にもなっています。疑問と反逆(新しい意味の構築、それが反逆)の提示です。 平泳ぎのバタ足とか、クロールの2〜3 の息継ぎまで。完璧ですよ。
金魚 サバ 様様。 羽があるのとないのと先天後天どっちがありやなしや? 時間はただの変化率だろ
すなわち本質的な議論は「変化しているかどうか」 時間は変化率じゃないでしょ
変化率というのは速度や加速度のことをいう >>130
認識世界のことなのか、認識世界と矛盾しない領域を含んだ世界なのか
存在とは目に見えている物の事なのか、考えのことなのか
変化とはそのうちどれを対象としているのか。
まぁ、いろいろと面倒くさいのよ哲学は。 ややこしくなるから、とりあえずは
人間の認識や意識を度外視して、物質世界
のみを考察すればよい >>132
そもそもなぜ物質世界が存在し物質世界は変化するのか?
シンプルに・・・物質に触れるから存在しているし動かせるから変化する
なぜ?と問うと認識や意識は度外視できないので哲学ができないということで 公共時間と流通時間
公共時間と流通時間の関係が、分かりました。民主主義と同様です。現在のこの国も
民主主義です。一応、同意します。ただ、
未だその実態は不十分である。それで、
デリダも来るべき民主主義と繰り返します。
この民主主義に満足はできません。しかし
それは皆さんで決めて実行して行くもの
なので、とりあえず民主主義と認めても
仕方ありません。
さて、今のこの時間は公共時間です。ただ、
それは不十分な公共時間です。そして私の私時間もその中にあるので、私はこの不十分な時間を公共時間であるとはどうしても言いがたい。この時間は、仕方ないとは言い得ないので、あくまでもこれは流通時間で公共時間とは別ものであると言わざるを得ないのです。
これは公共時間に未だなり得ていない流通時間です。 ハイルシュタイナー🙋
∧__∧
(о´∀`о) 底辺侍参上!
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
"""~""""""~"""~"""~" バナナTOKYO
食卓の上に食べごろのバナナが、三本あればそして家にはバナナの好きな複数の人間がいれば(状況)バナナは明日の夕方までには(経過した時間)すべて食べられてしまうだろう。脇のゴミ箱に、その皮が投げ入れられているだろう。(予想、皮は証拠、痕跡)
『食べられてしまう』(可能、対象)それがこの状況のバナナの意味です。しかしそれ以外にもバナナの意味はあります。バナナ存在の意味は多様で不可解だったり、予想も出来ない意味もあるかも知れません。予想され無い意味が出現するなら、それはある種の事件です。
バナナTOKYOは、それらの『バナナ意味』への問いかけでした。 全ての民というと人間ならぬものに開かれてていいなあ。 民主主義流通時間に行き公共時間着
公共衛生上、時間の流れを私時間で越えられる民はいないね。 お声がけ有難うございます!
皆様の貴重な公共時間をお騒がせさせて頂いております、民主主義の皆様、TOKYOばなな党 党首そんなバナナでございます。
お時間の許す限りそんなバナナの味をじっくりとお楽しみください。ご静聴有難うございました。 Well then (with your permission), I'll take a break. I'll give you a break!
暇をやる。 時間の話し
暇は、私のヒマであるから、私のものである。すると暇で無い時は、誰か他者のものなのか。
(この問いの答えは、私は私の暇を生きている、だから私が仕事をしている時も、私は暇だから仕事をしているのだ、と言う答えだろう)
人間存在、人としての生活は何時でもある社会の中にある。それが人の実存。サルトルは人の実存が何時でもある社会内にある事実を見落としている。
151さんの発言も興味深いです。時間の話しもある種、危険な水域に入りつつある、と言って良いでしょう。 社会科学者ならそうおもうだろう。各種科学によっても時間はゆがんでいて、
人間は身勝手なものだと気づく。僕は人文科学者だ。
昔の時間も今の一瞬も未来の時間もあらかじめ存在しそうだが、いつも同じところに
同じ次元にいるとは限らないだろう。 危険とフィロソフィア
ある社会とは、その中に社会的流通意味の流れる場所である、と考えても良いが、社会とはその社会内に社会的流通時間の流れる場所であるとも言える。(今この社会にゴールデンウィークが流れる、そう呼ばれてその時間は流れる、流されている)
経済的理由で働かなければならない、その社会は、構成員を社会(社会的流通時間)に縛り付けるために設計されている。これはジジェクが言っている事に似ていますが。この設計は歴史的につくられて来ている。
ジジェクは、西側世界で最も危険な哲学者と紹介される。 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」
ジェームス・ジョイス「ユリシーズ」 仕事に縛られて生きていても身体的精神的に造形やファッションがうまくいけばいいが、
ストレスになることも多いだろうなあ。 「時間とは何か」。その真犯人は「不完全性」である。
といっても、ゲーデルの不完全性定理と関係が無い。「完全」の意味が異なる。
「完全とは何か」。このGWに考える課題であるw
必要なものがすべて揃っている。はたしてそれだけで「完全」か?
欠落がない。たしかにそれは必要だ。
必要でもないものがあれば、それは過剰である。「完全」とはいえない。
「必要十分」または「必要最低限のものだけで欠落や過剰のないもの」。
ここでいう「もの」とは「体系」かもしれないが、もうすこし素朴に「集まり」と考える。
そう考えたとき、「不完全」とは「完全」から引いたり足したりしたものである。 「分断」されることによって「アクセス不能」となる「欠落」が生じる。
「自己同一性」あるいは単に「同一性」という「煩悩」による「欠落」である。
「欠落」を補うことで「過剰」になる。
「過剰」を制することで「欠落」に戻る。
とかくこの世はすみにくい。
このシナリオでは「欠落」が「先」ということになるが、「先」などというのは単に「煩悩」であるw
「過剰」が「先」という「煩悩」的シナリオも考えないといけないだろう。
それも「(自己)同一性」に求められると考えるのすなお(楽)だ。
「(自己)同一性」によって欠落あるいは過剰が生じる。
いや、「生じる」なんてことも「(自己)同一性」のしわざである。
と、考えると、真犯人の「不完全性」とは「(自己)同一性」のことでもある。
面倒なので(自己)を外そう。自己だろうと他己だろうと「同一性」だけを考える。
そうすると、「同一性」とは「相違性」でもある。同じか違うか。
この二面性が「不完全」であり、ひとつなのにふたつであり、それゆえに欠落と過剰を繰り返す。
そこまで考えると、ゲーデルの意味での不完全性をも含むことができる(はずだ)。 厳密ないいかたをさぼってゆるく語るとすれば、
「不完全」であるということは「完全」でなければ成り立たない。
「無矛盾」でなければ「矛盾」は生じないのである。
「パラドックス」ではなく、「矛盾」である。
「生じる」という言葉が問題なのである。
無矛盾であれば「生じる」なんてことは必要じゃない。
真犯人としての「不完全性」の正体が「同一性」であり、
「生じる」なんてことはこいつのせいである。
こいつの名前はjanus。
janusが外部から来たのではないとするなら、「無矛盾」として存在しているそのものがjanusである。
janusとはハムスターホイールである。そこに存在する以上、回さねばならないのだ。
バナナの皮も同様である。そこにバナナの皮がある以上、踏んでコケなければならないのだ。
「災厄」であるw
それゆにパンドラの箱に閉じ込められ...
などと考えてしまうと、パンドラ構造体って...アレだったのか!
この宇宙そのものがパンドラ構造体だ!
しかも「閉じて」なんかいない! 箱なんかじゃない!
やはり、「箱」ではなく、パンドラの「壺(ルビン)」がふさわしい。 「うっかり」というのはこの「災厄」によるものである。
それは、われわれが「パンドラの壺」の住人だからなのである。 捨てられてあるバナナの皮
バナナの皮があれば、それは踏まれて転ばな
ければなら無い。それがバナナの皮が捨てら
れてある事の意味だからである。それが最も
華々しい意味である。しかし、バナナの皮が
踏まれずに干からびて風で飛ばされていくのと、どちらがより華々しいかは、主観による。
何れにしても捨てられてあるバナナの皮には
何らかの意味がいずれ将来する。捨てられてあるバナナの皮さえ、意味を持つ世界内存在者
である。 揚げバナナはうまいが、大量の油を使って揚げるのに渋みが油に移って、
油が後で使えなくなるから作る気にならない。 この世界そのものがパンドラの壺であり、「ねばならない」という「災厄」の世界である。
内在者はすべてこの「災厄」に従わねばならない。
それが「存在」における「意味」であり、「意味」というものは「実行」されねばならないのである。
結論。「時間」とは「災厄」によってもたらされたものである。
「時間とは何か?」。それは「災厄」である。
さて、ここまでの話で、アインシュタインの宇宙方程式のパンドラ解をみつけた人がいたら、ぜひともノーベル賞をとってほしい。
これが、おそらく、ゆいいつの、現実的な解である。
謎のヒントは「555」。豚まんは「551」。豚まんではない。
なぜ、宇宙は静的ではなく動的なのか。謎は解けたよワトソンくん。 しゃべりすぎて疲れた喉に、ノーベル賞、飴ちゃん>>174 パンドラ構造体を考える。(パンドラ構造体はオリジナルな考えなので誤解せぬように)
0次元あるいは0ビット次元では同一も相違もないので却下。
1ビット次元では、とりあえずこれを0と1とするならば、0!=1である。
これと"同時"に0==1となるならパンドラ構造体である。
"同時"の意味は先送りするが、「時間」ではない。「&&」が適当かもしれない。
すなわち、(0!=1)&&(0==1)=trueとなるならパンドラ構造体である。
一般的に、これはfalseとなる。(とりあえずjavaで表記している)
&&ではなく排他的論理和であるべきだ。
((0!=1)||(0==1))&&(!(0!=1)||!(0==1))
これは恒真であって、それゆえに無矛盾である。
単純にいって、
(0!=1)||(0==1)
のことである。
0/1という値に惑わされてはいけない。A/Bにしよう。
(A!=B)||(A==B)
となると、最初の形は
(A!=B)&&(A==B)
である。
ふりだしに戻る。
これが「災厄性」であるw
とりあえず、お出かけの時間なので帰って来てから続きを考えよう。 でかけそこねた。昼飯は午後にでかけよう。
振り出しに戻る、とは、波動性である。
なんのことはない、
ψ = α|A> + β|B> である。
1ビット次元におけるパンドラ構造体の性質を波動関数であらわすとこうなるわけだ。 ただし、意図的に混同している。
この波動方程式ではA==Bにはならない。
すなわち、A=0, B=1なのではない。
それをどう克服するか、手法はいろいろあるだろう、その手法のひとつとしてパンドラ構造体を考えているわけだ。 さて、
A==B&&A!=Bが真である。
一方
ψ=α|A>+β|B>である。
前者の、&&の左辺と右辺が真に成るためには、左辺と右辺の位相が異なればよい。
パンドラ構造体によって隠されているのは「位相」である。 この位相の違いという情報からホログラフィックに世界を組み立てるとき、
時間や空間や変化というものが立ち現れてくる。
が、それらは実在ではない。
位相が隠されているというより、位相としてしかとらえることができないのだ。
うん。それでいいのだ。 われわれの宇宙は計算機である。
不完全であることが動力となる。
パンドラ構造体は計算機として機能する。
ブレーンワールドにおける仮想世界であるという痕跡はみつけられるだろうか。
というか、痕跡だらけだから気づけないのだろう。 時間とは何か。
それは不完全であるがゆえにそれを補完するためにうみだされてしまうものである。
(われわれの)宇宙あるいは自然は、不完全であることを資源とした計算機構による仮想世界である。
ユニマトリクス・ゼロである。
この(われわれの)宇宙計算機の外側はあるのか?
一般的な外側・内側という概念は仮想世界内での概念である。
そのことに注意しながらも、軽はずみに想定してみるw
外側の世界をブレーンワールドと呼ぶならば、
われわれの宇宙(コンピュータ)はブレーンワールドの中にある小さな泡である。
ブレーンワールドからみればウイルスあるいはバグのような存在。
別の想定をしてみる。
ブレーンワールドはわれわれの世界でのブラックホールに似たようなものであり、
われわれの宇宙(コンピュータ)はブレーンワールドの表面にある。
表面全体か、ちょっとしたくぼみにあるのか、といえば、くぼみにあるとしたほうがよいかもしれない。
ブレーンワールドの表面には情報があり、われわれの宇宙(コンピュータ)は、その情報をホログラフィックに投影した仮想世界である。
これもまあ、ちょっとした泡にすぎない。 少しだけポジティブな世界も考えてみる。
われわれの宇宙(コンピュータ)はブレーンワールドの生長点のひとつである。
ブレーンワールドは生長点が残した残骸の積み重ねである。
残された残骸(情報)を再生しながらも可能性を計算してあらたな残骸を残しながら成長する。
ブレーンワールドはサンゴ礁である。 過去
過去は自由に活用できるに違いない。過去の事実は変えられ無いが、その意味は変えられる。つまり、事実の解釈である。そして事実の解釈は、現状の把握となり、我々、私は新しい計画を立て得る。やはり事実をしっかりと確定するべきである。出来るだけはっきりと。 過去の情報がブレーンワールドをつくる。ブレーンワールドには時間が無い。
しかし、それではエネルギー論的になんらかの辻褄合わせが必要になるだろう。
このシナリオでは、(自己)同一性さえあれば、この宇宙からブレーンワールドまでをつくることができる。
それは「射」であり、写像というものもあるいは函数というものをさらに抽象化したものである。
なんらかの「射」。それがなければ「時間」などというものもないし、哲学だってない。
哲学は「射」によってなりたっており、究極的には、哲学とは「射」の学問あるいはなんらかの行為である。(いや、学問だって、なんらかの行為だって「射」なのだからあたりまえだ)
ひととおり考えたうえで「射」という振り出しに戻る。 思考
振り出しに戻らないアイデア、思考。その降り出しに戻らない思考は戻らない、つまり戻れないのだ。すべての思考が、正確には、厳密には戻れない。してしまった行為は、完全には取り消し出来ない。思考はある行為である。 降り出しに戻ったら濡れてしまう。
こんどは濡れないで行く準備ができたから振り出しに戻ってみるのだw
先送りにしていた問題を回収しながら最初からたどってみるわけだ。
部屋中の圏論とか位相数学の本を集めて再検討しようと思ったがめんどくさい。
哲学における「射」とはなにか、ということで本を返すついでになにか借りてこようと思ったら、
今日は図書館が休みであった。自分が連休だったのでうっかりしていた。
この「うっかり」こそが問題のひとつでもある。
哲学問題を圏であらわすような仕事をしている学者はいないのか? 今日はうっかり落し物をしてしまった。
「しまった」と気づいてももう遅い。
「うっかり」してしまったことは取り返しがつかない。
あまりにも気を使うべきことが多かったため、
意識からこぼれ落ちてしまったのである。
こぼれ落ちてしまったものを取り戻そうとしても、
無駄なだけでなく、そのことでまた「うっかり」が生じる。
「うっかり」してしまったことを消そうとするのではなく、
巡ってきた機会として活かそうとすることが必要だろう。 キーを使える頭がない♪あーこりゃこりゃ、うっかりよ〜 センスないね。
数学から入ってはだめだよ。
数学は仕方なく使うもんだよ。
アインシュタインを見習った方がいいよ。 「哲学」における「射(morphismあるいはarrow)」とは何か。
海をみながら考えて来た。
単純にとらえようとすると、どうしても「メタ哲学」になってしまう。
なんらかの肉付けをしようとすると、なんらかのxx論に捕らえられてしまう。
できるだけあたりさわりのない哲学概念にあてはめようとすると、「双対性」ということになるのかもしれない。
哲学に「双対性」という概念があるのかどうかよくしらないwが、
二項対立あるいはパラドックスでよいと思う。
メタ哲学に陥らないようになんらかの肉付けをしたうえで〜論に囚われないようにした結論である。
あるいは(哲学や思想における)「狂気」でもよいだろうw
哲学における矢印は狂気(のこと)である。
浪江に行ってきた。ほんとにゴーストタウンである。
牛と衝突注意の看板もあった。ほんとにあった。
宮城から福島の沿岸地域は慰霊碑だらけだった。
沿岸地域の集落はほぼすべてがまるごと無くなっている。
「時間」とは「狂気」である。 現象学
論とは何か。あるほどまとまった(ある事柄
を説明する)言説であると、とりあえず定義する。そのある論を誰かが読んで同意するか、
どうかは、とりあえず問わない。何故なら、一部だけは判るなどという場合は多いし、暫く経ってから判ると言う場合も多い。つまりまとまっているかどうかである。
では、時間とは何かと言った様な問いに対するある論とは何か、空回りしない論とは何か。それが現象学です。ただそうだとしても、さらに何故、現象学がこの場合の説明する空回りしない論なのかの説明は必要だろう。
現象学の原理は、夕日が綺麗だ、と言う。傍の相手が、夕日が綺麗だと同意する。そして夕日は美しい。これが現象学の原理です。
少し複雑な場合がある。私は空腹でハンバーガーを美味いと言って食べる。相手は満腹でそのハンバーガーが美味いとは言わない。この場合、人は満腹と空腹とで、天と地の相違なのだと互いに理解していれば解決するだろう。
満月を見て少しも綺麗だとは思わない人もいると言う。 気分
ハイデガーは、実存者はその時その時をある気分と共にある(気分で捉えている)と言う。確かにそうです。それに反対出来ない。それは現象学である。 哲学におおける「射」とは何か。
「双対性」では先に行き過ぎた。
哲学とは「人間」であり、西洋哲学は「人間」から逃れられない。
哲学の(人工)言語としての論理学が(哲学において)成功しないのは「人間」が排除されたからだろう。
「宇宙論」としての哲学は非西洋哲学であり、西洋哲学には無理だw
そこで「人間中心」に考え直して、人間を一度消滅させてから(人間)を再生する。
「浪江理論」である。考え中。
人間を second quantization(第二量子化)することで哲学場をつくるのである。
人間ではなく、「場の哲学」なわけだ。
>>214の現象学の解説が役に立った。ありがとう。
(哲学と量子論は同じものである)
古典的哲学から場の哲学へ。構想中。 「お」が過剰になった。不完全性とは「欠如」ではなく「過剰」であるという警告かもしれない。
「場」というのは「海」である。
共変的量子場におけるネットワークの組み替えの伝播とは、「海」のことである。
綿津見神社にて考えた。 時間は変化だろ
何が変化したという事は時間がたったということ
以上 ディラックの海とはとても古い概念だ。
そのいくつかの問題点が解消されて「場の量子論」に受け継がれ、ディラックの海は消失した。
そして、現在は「場(field)」ではなく「ネットワーク」。
「ネットワーク」という意味での「海」であって、ネットワーク上に「場」がある。
どちらかというと満たしているものではなく容器の側か?
無限とか有限とか曲率とか相対性とか、そういうものをすべて古典的にしてしまう(予定)w 「我思う、故に我あり」。有名な誤訳であるw
思うという行為をH、あるという存在をEとすれば
Hψ=Eψ というシュレーディンガー方程式と等価であるw
思うというエネルギーがEで、あるというハミルトニアンをHとしてもよい。
ともかく、異なるものが波動関数を介して等価になればよい。
そう、すでに波動関数による第一量子化がすんでいるわけで、
これを第二量子化すれば...
などと、とてもくだらないことを考えたわけだ。
(以下、抹消。いろいろ書いたが物議をかもしそうなので削除)
ま、演算子などというとつまらないので、それを「言葉」と呼ぶw
(あ、演算子は削除した部分だ。意味不明になるけど気にしない)
哲学における「射」も、当面は「言葉」として扱う。
なんのことはない、「日常言語による哲学」に戻っただけだ。
ただし、日常言語という「場」であって、「我」は「場」に再生される存在である。
われわれの世界は、日常言語というフィールドでホログラフィックに再生された仮想世界である。
(仕掛けはひとつだけある。最初の「我」と再生される「我」の違い。伏線はいつか回収する) 自己の在り方と意味
我思う、ゆえに我あり、の在りは存在と言う認識される対象では無く、行為。だれかれとして在るのでは無く、我としてある。それが、つまり実存。
時間の中で、我は最初の我と、再生される我とに分けられて在る、認識される。サルトルの即時存在と対自存在である。我と言う在り方を捉えている構造にその原因がある。我の在り方を我々は、意味として捉えるのだ。何故ならたぶんそれ以外では、捉えられないからだろう。
これからのフィロソフィアは、単に意味として自己を捉えるだけで無く、意味として自己を構成するのである。 実存、共同実存としての社会(世界)
夕日を見ている、しかし相手が夕日を正しく見ていないなら、情報の交換も上手くいかないだろうし、何らかの同意も困難だろう。自身の在り方、つまり実存、人の在り方がつまり実存であると言う同意は成立しているか。
実存が、(いまや)人の在り方であり、自由と責任との根源である。 「存在と無」レジュメ
3、対自と価値存在
コギトは人間が意識する過去と将来を拘束するはずである。つまり、人間存在は瞬間的な即自と連続性としてある対自への移行によりコギトへ向かう。
↓
ハイデガーの了解(関心)は「最初の意識次元を無視することができない」ことの困難にぶつかる。
→即自(無意識的な)におちいり、コギトへ投げ返される
↓
「対自は、みずから自己を一つの存在欠陥として規定することなしには、無化を支えることはできない」
「みずからたえず即自であらぬように自己を規定していく」
*無化は存在無化であり、対自の存在と即自の存在との間の根源的つながりを示す。
「存在と無 p117」
人間存在の直観に与えられる存在は、常に「欠如者」すなわち「現実存在者」 人間存在の意味性
『コギトは人間が意識する過去と将来を拘束するはずである。つまり、人間存在は瞬間的な即自と連続性としてある対自への移行によりコギトへ向かう。 』
人間存在は、常に自身の過去と将来を気にかけているが、コギトはその全過程(つまり存在関数としての存在)に関わり拘束するはずである。つまり(サルトルの思考では)人間存在は
瞬間的な在り方としての即自存在から、連続性を取り戻すべく対自存在を試みる、コギトは
その過程に生じまたあり続ける。
ここでの議論では、人間存在の意味を追求していますから、人間の在り方を瞬間的な在り方
へと解体は出来ません。瞬間的な在り方へと
解体出来るかの様に現在、人々は誤解しています。
あるいは言い方を変えれば、人間存在は意味の存在であり、それはその構造からして時間性を含んでいます。
(サルトルがコギトへ、この様に言及しているとは読み落としていました) 即自存在から、〇〇へ
『ハイデガーの了解(関心)は「最初の意識次元を無視することができない」ことの困難にぶつかる。
→即自(無意識的な)におちいり、コギトへ投げ返される 』
ハイデガーの了解は、最初の意識次元の即自存在から、一切の抜け出を不可能にしている。それは無意識的な即自存在から抜け出られない。その様な人間存在の状況では、人の意識は無批判のつまり発展性のないコギトへ投げ返されるのみである。 全体存在と無
『*無化は存在無化であり、対自の存在と即自の存在との間の根源的つながりを示す。 』
存在無化である無化が出来るなら、それは対自存在と即自存在をつなげるはずである。無とは実は存在の全体であり、全体としての存在の裏側です。
全体としての存在、とはその中に時間を必然的に含んでいる。全体としての存在はただ意味的にだけ捉えられるに違いない。 意味があるとは、
全体としての存在、はつまり世界ですから、それは時間を含んでいる。そして世界は意味的に世界である。意味的にだけ世界はあり得る。
世界は意味的にだけ説明可能である。
(世界は不確定なので、それは意味的にだけようやく把握可能である)
何故、世界があるのかの問いは、何故、そこに意味があるのかの問いだ。 対自存在ー
人間は事物と違って、つねに自分自身に対して何者かが存在する意識を所有している。
↓
この無化的断絶を実現しうる不断の可能態が「自由」
自分に対して否定的態度を取りうる意識「自己欺瞞」
即自存在ー
あるとのろの存在、即自はそれ自体で充実している「無限の密度」
信念ー捉えられる信念はもはや信念ではない。信念についての信念は取り返しのつかないほど意識を変容させる。
信念についての意識と信念とは同一の存在であり「絶対的な内存在」
信念についての意識ー信念(同一的存在」
「意識は反射である」p103=二次元の一元性(信念)
「それ自身の反射作用である反射」 サルトルもハイデガーも馬鹿だと思う。
もちろん彼らの言うことに筋がある。が、とりわけ時間を掛けてやれことでもない。言葉を遣って悪戯に深い藪の中入っても何もない。 フィロソフィアと方法論としての経済学
何かを考える行為が、思考であり、まぁ哲学もそこに入る。それをフィロソフィアと言う。
考えた内容を実行する、その方法論が経済学です。現在の経済学は、金品流通の学になっていますが、それは本来の経済学のほんの末梢です。
それでフィロソフィアでの内容を実践するとなるとその経済学が必要になる。その経済学はたぶん実践を含みながら開発されるので直ぐには出来ない。
フィロソフィアの結果、今度の土曜日にバーベキューパーティーをやりたいとなる。どこでやるか、誰を呼ぶか、何時からにするか、どこなら誰は来られるが誰は来られない、誰と誰は最近ケンカしたらしいがどうするか、経済学です。
さて、最後に会費制にするか、いくらにするか、どこで材料を買うか、此処だけが現在、経済学と言われている。 「思う」ということがハミルトニアンとしてあらわせるなら、
「ある」ということは全エネルギーである。
そして固有値としての「我」がある。
「我」は「定常波」なわけだ。
「思う」ということが「位置」と「運動量」を持っている。
こう考えるのもおもしろいのだが、量子力学でも古典的な部分であるw
最初から言葉というネットワーク上で考えるたほうがおもしろい。
言葉はleafなのか? nodeなのか? edgeなのか? 用語が混乱する。
「言葉」は「言葉」そのものを対象としないかぎり、対象そのものではない。
よってedgeである。morphismでもarrowでもよいし、operatorでもよい。
operatorとした場合、これに作用させても同じものが返ってくるなら固有状態であり、
それが「対象」である。
そう考えると、もはや対象など必要ではなく、operatorだけ考えればよい。
operatorによって形成された構造(ほんとうはsyntax)が意味(と双対)である operatorということで「我思う故に我あり」を考えてみる。
operatorは「我」「思う」「故に」「我」「あり」とする。
それぞれのoperatorの固有状態が、それぞれの「対象」である。
なんらかんらと細かいことはすっとばして文全体も固有状態を持つ。
固有状態は波動関数であり...
ふーむ。なんとなく計算できそうな気がしてきた。検討中。 フィロソフィア
人間存在は何時でもある社会の中にあり、様々の事物に縛られ拘束されている。拘束するあらゆる権威から、人間存在を解放する試みが哲学であるので、それを権威から離しておく為に、それをフィロソフィアと呼ぶ。
人間存在は様々な権威の影響下にある。知識でさえ権威から押し付けられている側面がある。フィロソフィアの試みは、人間存在の解放の試みである。
時間の問題も、その方向で研究されなければならない。そしてフィロソフィアは、その実践を可能としていなければ(それこそ)意味が無い。その実践の方法論と研究は、経済学と呼ばれる。それは新しく開始される経済学である。 固有値・固有ベクトル・固有状態・固有関数。
とりあえず「固有」なんとか。
以前、自己同一性には不動点理論でどーにかなるだろうと思ったが、固有状態なら一挙に解決する。
これが「うっかり」を招く。
簡単のため固有ベクトルを考えてみるか、と思って、ともかく図書館へ行ってくる。 時間とは何か、と言う問いに
「持続」だとか「変化」だとか「状態」だとか「運動」だとか
すでに時間を含んだ概念を用いて答えるのは、
論点先取り👌の誤謬ですわね。🌟
やっぱり私のが賢いわねぇ🎵👰 いつまでも美魔女たんみたく賢いまま時空を彷徨っていられないんだおー そうだね、君は賢い
それでも多分、「時間とは何か」には答えられないだろう 僕は愚か者だから、みんなの哲学を読んで大うけしてるだけでいいんだおー >>257 とっくに答えは知っていますよ🎵⭐
「なにがじゃぁ、いつにじゃぁ、どこにじゃぁ」
今は今でしゅ👰💗 今は今、か
論点先取りは駄目でも同義反復は誤謬ではないわけか君的には
それはともかくとして
今とは何かのか
に答えることもできない >>260
同義違うよ♪
貴方言葉に囚われすぎのバカね😃ほほ。
今迄何をやってきたの。😣
言葉で語っても仕方がないの。👰💗 >>261
それなら持続でも変化でも構わないわけだ
「今は今」など、『言うだけ無駄』だったな >>262
構わないわけだ、になんないよ〜☆
レベル低すぎです😣
的外れです😣
今は今でしゅ🔥👰 B魔女とかいうおっさんは2・3周遅れてるんだから相手にしない。
ポーカーを続けましょう。 >>263
そのワケを語らなければ、「お前の母ちゃんでべそ」と同じことだよ
その前に、なぜ『構わない』か、教えてやろう
時間を含まないように『持続』や『変化』を使えばよいからだ
お前の「今は今」と変わらんよ >>264
最先端を書いてるのに理解能力が無いのよ✨⭐
実り無いポーカーを死ぬまで続けて下さいませ。😜
それでは。🎵👰 >>265
なんですって?😨
時間を含まないように『持続』や『変化』を使えばよいからだ
⭐✨😊ウヒョヒョウヒョヒョヒョヒョウヒョ
今は今でしゅ🔥👰
三球も同じ玉を見て打てないなら無能ですよ♫ >>267
同じことの繰り返しは無能ではないのか君にとっては
無能なお前にもうひとつ教えてやろう
「今」という概念は、すでに時間が前提だ >>268
ヒント挙げましょうか
概念なんかじゃナーイ😃(^^) 「語る」という「行為」。そして「書きこむ」ということ。すべて「時間」を含んでいる。
でも、語らなきゃ哲学はできないよねってことになったのは昔(時間を含んでる!)のことだ。
だから2・3周遅れてるといっている。 >>269
「概念なんかじゃない」と、お前が信じているだけだよ いや多分、信じてもいないのだろう
「言葉に囚われすぎ」というのは、ある意味当たっているのだが、
しかし「言葉とは何であるか」については、誰にも分からない >>270
どんな行為にも時間が「かかる」でしょ。👰
時間の説明に『持続』だとか『変化』だとか時間を「含んだ」概念を用いるのが
論点先取り👌の誤謬ですのよ。🌟
頭がついてこれなかったのね😃
可哀想に。😫 >>272
ほらね🌟。私の言うたとおり。👰
貴方は、言葉に囚われすぎすぎ、しているのよ。🙃 「概念なんかじゃナーイ」と言ってみることによって
相手の心に何事かが成立するのを期待してるわけだが
だがこれってのは、実に無責任な話でな
その無責任な悪意に対してこちらがお人好しになって
言葉に囚われてやらないと終わってしまう
面倒くさいないろいろ >>276
私の言ったとおり、か
自分のことは自分では見えないものだからな
そんなことばっかりやってると、お前の言葉は軽くなってしまうぜ >>278
貴方 「時間」に頭ぶつけて気絶したほうがいいわよ😵☆彡 >>282
波平レベルの返しだぞそれ
それはともかくとして
「今は今」
今とはそれほど端的なものだろうかな
そうとうに構成的だと思うぞ私は 時計はどーでもいいが
「今」が現象するためには、「今はない今であったもの」という妙竹林な理解が
成立する必要があって、これは「ありありとした事態」からは導かれない >>285
記憶が成立するためにも、まず時間がないとね。😉⭐ 「記憶が成立するために時間が必要」
これに対しては常識的・経験的な解釈が一つ可能で
それは、「時間を掛けないと記憶できない」ぐらいの内容になるわけだが
しかし全く違う内容として捉えることもできて
それは「記憶(として認識される現象)はそれ自体、時間的にしか現象しない」
という解釈も可能ってことだな
言葉に囚われるのも悪くないぞ >>287
貴方そうとうなおバカね。😪
哲学板でこんなこと言うわけ無いでしょ。👰✧
「時間を掛けないと記憶できない」 >>288
いやいや哲学板のレベルはこんなもんだよ まあしかし「今は今」では話にならんよな
何年も前に少しだけこのスレにいたが
そのときには「今しかない」論者がいたな
これもどうにもならん >>290
過去は今の想起で、未来は今の予期。💒
「今しかない」💡
これだけでは足りませんね。(☆∀☆)想起も予期も時間がないとね。🎌
今は今でしゅ🔥👰 >>292
貴方はほんとうにおバカね。😪💧
今が無ければ貴方は生きていないのでしゅ💀🌃 >>293
まさかな
君が今生きていることをどうやって確かめる?
「生きているのが今だから」という論点先取によってだろう 毎朝鏡の前で時間の残酷さを実感している美魔女に言葉は無用 なにやら妙な議論が進んでいるけど、そんなことは気にしない。
「言葉」とはoperatorである、ということで図書館に行ったのだが、
目当ての本が、「存在」するはずなのに棚に無い。
いちばん読みたかった本がなかった。明日は別の図書館の書庫から旧版を出してもらおう。
\left.{\hat {A}}\Psi =a\Psi \right.
めんどくさいのでそのまま、hat Aを言葉とみなそう。
aは物理量に相当する固有値だろうけど、真とみなして表記を省けばよいだろう。
それぞれの言葉の固有値としてψがある。固有状態だ。
問題はそれをどうやって別のoperatorにもってくかだ。考え中。 >>294
アプリオリ先見的に時間と空間の直観形式により認識しているのでしゅ。😸 \left.{\hat {A}}\Psi =a\Psi \right.
ところでこれは何言語なの? 今、現実存在を成り立たせているのは「関心」
その「関心」を成り立たせているのは「時間性」 小学生のときに小島という女が妙に突っかかってきてツンデレするものだから、お前何なの? と尋ねたら、嫁と応えた。 過程のは科学の基礎作りだな。
否定もできないし、肯定もでないな、現段階では。
アリスは過 過程のは科学の基礎作りだな。
否定もできないし、肯定もできないな、現段階では。
アリスは過程を否定しようと、鵜の目鷹の目なんだが
かえって自分のボロを出している。
AIについては過程の論理は一理ある。
過程が言うように学問はそれほどの段階じゃないということだな。 時間の反対に空間がある
条件など図形に書いて表現できるようなものは空間に過ぎない まぁ、哲学的には時間の概念を文面に言語化するのが哲学なんだろうから
単純化するというのは、逆の発想だよね。 地下鉄で待ってた
やっと自分の車両が発車したとおもたら
隣だった 車両の終わりと駅でわかったんだけど。
これが永遠に気付かない事も可能だろうか
時間とは これに近いのか 「我」「思う」「我」「あり」。
「故に」は誤訳とのことゆえ省く。
4つのoperatorを接続してひとつのoperatorを作る。
「我」が2つある。これは多層であると考える。両面に貼り合わせよう。
「我・思う」・「我・あり」。これでひとつの固有状態がつくられる。
「我・思う」と「我・あり」が同じ平面上にあるようにふたつの平面を貼り合わせると、
メビウスの帯ができあがる。
「我」の貼り合わせによって、「思う」と「あり」も裏表になるように感じられるが、それは文の魔力であって、貼り合わされることで意味がでてくるのかもしれない。
ここの貼り合わせの強度によって、固有状態あるいは固有関数という量子状態の存在確率が変わる。
哲学的言明は、たいていこのようにどこかで貼り合わされて多層的な帯になる。
では哲学問題はどうなるのかと、考えてみたが、「時間とは何か」をどのような量子状態にみるべきなのか。試行錯誤中。 哲学的言明は、ひとつの小宇宙である。
しかし、哲学問題は小宇宙になっていない。
答えは小宇宙にならねばならない/なるべきだ。
哲学問題はどのように構成されているのか。
構成のされかたによって哲学のスタイルがわけられる。
〜論・〜派、西洋哲学もあれば東洋哲学もあり、それぞれである。
言葉というoperatorの固有値のありかたも異なる。
単純に真偽となるだけではない。
固有値をscalarではなく、元のtensorよりrankが低いだけでよいと考えても、おもしろい。 >>314
錯覚は意識状態だから、認否能力のある認知段階で
あえて遠近感覚でどちらかというなら残念ながら遠い。
でも、物理的な観点より(変化とか)、錯覚の観点のほうが
入り口はより哲学に近い。
文学がなければ、哲学からは遠ざかると思う。 「時間とは何か」という問題文を考える。
「時間」というoperatorに対して|時間>という固有状態はあるのか? あるとすれば...
という問題なのかもしれない。
「何か」というoperatorは、xという求めるべき固有状態である。
なんとなくふにおちない。
求めるべきものは固有状態ではなく、その固有状態を有する哲学的言明であろう。
同じ固有状態をあらわす別のoperatorである。
それは辞書的であり、固有状態は同じというわけでもない。
本家の辞書では、項目と内容の固有状態にどのような違いがあるのだろうか?
おそらく、内容は「辞書的言明」という構造を持っているのだろう。
「辞書的言明」と「哲学的言明」の違いも考えねばならないし、
「〜的言明」を幅広く考察することも必要になるだろう。
これも「哲学」だとするならば、「辞書の哲学」。はたして辞書はどのような哲学を持っているのか。 辞書的な「時間」にはいくつかの説明がある。
ある時刻と他の時刻との間の「長さ」であるという説明もある。
「時刻」「間」「長さ」。
これらの関係から得られる固有状態は、「時間」という固有状態とどう違うのか。
さらには「何か」という哲学的状態も考えねばならないだろう。
辞書的言明には、この哲学的「何か(という問い)」がない。
「何か」というのは哲学的「宇宙」のことかもしれない。
どちらかといえば、辞書的言明は外延的であり、哲学的言明は内包的なのかもしれない。
哲学的言明は寄せ集めではない。そこに隠されている何かをひっぱりだしてきて、それから構築される「セカイ」でなければなければならないのか? >>303
ある意味正解、ある意味不正解。
謎。www つまり、哲学とは世界を制作することであり、大人(だよな?)のラノベである。 認識される対象が存在であるとすれば、存在論なくして認識論はない。
また、認識論なくして存在論はない。
このふたつをひとつの概念でとらえようとして「射(morphism)」を考えた。
「射」が認識論と存在論をつくっている。
「射」が「正」「滅」をつくり、「つくる」ということもつくる。
単なる抽象概念ではあるが、万能なのだ。
ほぼ「神」であり、ほぼ「愛」である。 は! 「射」を量子状態と考える。
通常の量子状態とは人間が辻褄合わせのために考えたものだが、
その逆(方向)を考える。
哲学と量子論が同じものだとすれば、「射」が人間からみた哲学というものをつくっている。
唯射論かw 圏論的実在論。 時間というのは近域では、時刻というフィクションと、間というタームを、
合わせている意味が解らないことかな。概念としては時空というものがありえる
結びつきだと思う。陸上に於いて真空という意味も含めると
。 コンポーズとかコンセプチュアルの世界をだな。変わること。 この世界は「音楽」でできている。
時間・空間・変化。そしてエネルギー・情報。
これらをまとめて一言で語るならば「音楽」である。
量子論も哲学も「音楽」でなければならない。物理学も数学も生物学も社会学も...
違うということと同じということダケでできている。
となると。「射」には「同じ」ということと「違う」ということの二種類ある。
さらに考えると、3つあって2つの違いがあって、2-3チューリングマシンが形成される。
2-3チューリングマシンが波でありスピンである。
哲学機械とは2-3チューリングマシンなのだろう。
The Wolfram 2,3 Turing Machine をもう少し洗練させればよい。
足りないのは保存則だろう。
ネーターの定理からいえば対称性があれば楽だ。
「時間とは何か」。それは「対称性」である。もしくは「破れ」である。
「無」とは「無秩序」のことなのか。 「無」とは「無秩序」のことである、と考えるのが無難なようだ。
そして「無秩序」には小さな変動がある。
変動があっても「無秩序」であるがゆえに「対称性」を持つ/あるいは「対称性」が維持される。
そこに「時間」があるとすれば対称的な時間であり、時間の矢は無い。
しかし、その小さな部分(必ずしも小さいとはいえないので別の言葉が必要だ)の内部には時間(あるいは時空間、関係)の元となる「矢」がある。
そして、対称性が「破れ」ることで「セカイ」ができる。
「無の海」。舞の海ではない。「対称性」の海。
サンゴ礁型のブレーンワールドを考えるなら、「無の海」の中にある残骸である。
「破れ」が「セカイ」を作り、その残骸がブレーンワールドに積み重なる。
すなわち、われわれの「セカイ」は、猫だましの世界であるw
より高い「対称性」から、「破れ」て、より低い「対称性」に移行するとき、時空間として認識されるものが立ち現れる。 変換に対して不変であることが対称性であると考える。
AからBへの変換が静的に展開されているとしても、
主体の側で2つの対象と、そのつながりを一度に得られるのなら時空間は不要だ。
ひとつひとつしか得られないのであれば、その間のつながりを主体側で補完せねばならない。
補完に使用されるのが時空間や変化である。
だんだん時間実在説に近づきつつある。しかし、その「時間」はわれわれの扱っている「時間」とは異なる。
実在する「時間」と補完された「時間」にはどのような違いがあるのか。
実在する「時間」は静的であり、およそ時間と呼ぶにはふさわしくないしろものだろう。
時間の矢の原因は対称性の破れである。そう考えてみる。
「破れ」の反対語はなんなのか。よくわからない。
「破れ」がエントロピーの増大であれば、その反対はエントロピーの減少ということになるだろう。 サイクリックであると考える。
大きな対称性から「破れ」て小さな対称性に移行していくと、
どこかの時点でそれは大きな対称性になる。裏返し?
裏返しによる自動砂時計。第一種永久機関か。シズマドライブの原理か? breakを切断とすれば反対は接続。
make,connect,join,link.
「射」は「破れ」の逆と考えられる。
逆でありながら「射」は「破れ」もつくる。
「無秩序の海」において「射」は万能であり、あらゆるものは「射」によってつくられる。
自己射による無の分断。最初に考えたことに回帰した。この回帰こそがbreakingであり...
「無秩序の海」が少しだけみえてきた。
哲学的な「射」とは、「切断」と同時に「接続」である。図と地の関係にある。
「知」と「モノ・対象」も図と地の関係にあり、逆転する。
もしかすると「問題」ということが哲学において、「知」と「モノ・対象」の間にある「射」なのかもしれない。
とすると、逆向きの問題もあるだろう。
「時間とは何か」を時間を解明することと捉えるなら、主体側が時間によって(逆?)解明されるという向きもある。ほんとか? 美魔女(あいな)さんを応援しよう!
【イエス】 私たちは神に愛されています 【キリスト】 Part.10
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1526273157/ 「無」は「無」であるがゆえに「実在」しない。
「無」は「概念」としては「存在」するが、それは「空」であって「概念化」されることで「空」になってしまう。
その意味では「無」は「存在」すらもしない。
「時間」とは「対称性の破れ」を再結合させる「見かた・考え方」のひとつである。
「対称性の破れ」の逆方向(破れの前)を考えるとき、「時間」(前)という概念がうみだされる。
未来ではなく過去というものを考えてしまうから「時間」という概念が形成され、「現在」や「未来」もうみだされる。
「今ここ」ではなく、「過去」が「時間」という「幻想」をうみだす。 >「無秩序の海」が少しだけみえてきた。
ウヰスキーを水割りにします。水割りのウヰスキーになります。
少しずつ水の量を増やしていくと、薄い水割りのウヰスキーになりますが、
いつまでウヰスキーなのでしょう。ウヰスキーとしての秩序が消えると、
その大量の水にウヰスキーは入っているはずなのに、ウヰスキーは存在
しなくなります。 我々が仲間割れしても残るのが、我なのか?
しかし、我々が完全に仲間割れして互いに無関係になってしまえば、
我々が割れて生じる我も残らないだろう。
互いに仲間割れできる関係を保っているからこそ、我であり得るのではないか。 等式とは何か?
74考える名無しさん2018/05/16(水) 12:59:02.650
>>68-69
できることのadéquation、それが「あた(能/値/与)ふ」ことである。 1000 美魔女 2018/05/16(水) 18:43:44.51 ID:5sIHTwng
全能者は本質的に全能で無い者には成れない
ついに1000をゲッツ(σ・∀・)σ
美魔女を応援しよう!
【イエス】 私たちは神に愛されています 【キリスト】 Part.11
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1526463699/ 「無」は「実在」しない。
そうなるとなにかが無くてはならない。
そのひとつは「我」なのだが、とてもつまらない。
モノではなく「秩序」をだけを考える。
「無秩序」は「対称性」を持つ。
これが「破れる」ことでモノではないとしても「分割」あるいは「同一性」というひとつの「秩序」がうまれる。
うまれるとは、より低い対称性を持つ状態になるということだ。
イメージとしては「卵割」が適当かもしれない。 そう考えると、「意識」などというものも「より低い対称性」になることでうみだされるものだろう。
そもそもの「無秩序」とは極限状態であり、ところどころに小さな秩序があるわけだ。
「統計的」にみれば「無秩序」ではあるが、それゆえに「統計的」と呼べるわけではなく、単にイメージであるw
たとえば、エントロピーも極限的な状態では減少もする。
もはや増大しないのが極限状態ではあるが、微小な部分をみれば増大と減少がある。
ま、もはや一般的な、ともいえるワードで語れば「ゆらぎ」なのである。
「無秩序の海」における「ゆらぎ」。これがすべてなのだろう。 ネットワークの組み替えが時間や空間やモノのような幻想をつくる。
つねに変化しており、ネットワークの振動といってよいだろう。
時間や空間やモノは解釈のしかたによる概念である。
解釈する側も、同じくネットワーク(の振動)である。
このように考えれば、「時間」という幻想の元になるものは「ある」。
それも「時間」と呼ぶのであれば、「時間」は実在する。(実在の再定義は必要かもしれないが)
ま、すごく単純にいいきってしまえば、「時間」の正体は「ゆらぎ」である。 うんうん。順序対。
だからフォン・ノイマン宇宙を考察したのだった。
遺伝的集合。
その順序対集合となるためには、振動があればよい。 点だけを考える。空間考えない。
ひとつだけの点。それは秩序でもなく、無秩序でもない。
ふたつだけの点。それでも秩序も無秩序もない。なにも変化できない。
ふたつの間になんらかの関係の違いがあったとしても比較できない限り変化はない。
これは、秩序と無秩序が共存している、とも考えられる状態だ。
秩序と無秩序が分離されずに重ねあわされたままの状態。
未分化であり、なんらかの要因で卵割がはじまりそうな予感だけはあるw
0の世界は「無」であるがゆえに実在しない。
1の世界は「完全」である。よけいなものがなにもないw
2の世界は「完全」でも「不完全」でもないように思われる。
3の世界は「無秩序」がある。「無秩序」がある以上、「秩序」もある。しかし、共存はできない。 3の世界を考えたとき、やっと、「変化」というものがみいだせる。
そこに、「時間」や「空間」のようなものはあるのだろうか?
1の世界+2の世界=3の世界と考えてみる。
1の世界と2の世界は同時には存在しない。
「+」が曲者のようだ。こいつが「時間」か?
並置するならば「+」は「空間」である。
1+2=3なのではなく、(1,+,2)で3の世界なのだろう。
この3つを演算子と考えるなら、
1(+)=2, +(1)=2, 1(2)=+, 2(1)=+, 2(+)=1, +(2)=1
2の世界も同様に考えるなら、
1(2)=2, 2(1)=1
1の世界は、
1(1)=1
0の世界は、
() この()が、いわば「射」である。
(())=()
この「=」も曲者であるw
「=」をとっぱずそう。
((()), ()) あたりが適当か? 2次元平面を考えた時に、厚みの無い世界が実際に存在できると想いますか
同様に進む時間、考えられる次元空間も形而上のものでしかありません その形而上とかいうものを、人間から切り離すとしたら、
無秩序の海そのものが形而上であり、
無秩序の海という思考体がさまざまなものを生み出す。
われわれの世界も、われわれも、無秩序の海がみている「夢」である。 ((()), ()) をカリー化すると、
(())(())であろうか? ()((()))であろうか?
ゲートでみればIゲートである。
単なる恒等射あるいは単位行列あるいは...
これを「うっかり」と誤読してしまうことでセカイがうまれる。
誤読する原因は、分断されたということであろう。
「無秩序の海」とは、結構なうっかりさんなのである。
それゆえにわれわれがいるのであって、うっかりに感謝すべきなのかもしれない。 端的に、無秩序の海の夢とするのであれば、
時間とは、無秩序の海の夢がみている夢(あるいはもすこし深い夢)である。
根本原理があるとするならばI()であり、「アイ」である。
このI()を「うっかり」と遺伝的にみてしまうことですべてがうみだされる。
「射」としての()だけでセカイという夢がつくられる。
この()とは、この界隈では、(笑)とかwとかから派生した()である。
結論。「時間とは()」である。
()そのものが「うっかり」でもある。
セカイは()だけで記述可能である。(だれか証明せい)
フォン・ノイマンとかゲーデルが証明済かもしれないが。
たったひとつだけの公理。それがI()である。
キリスト教的な「愛」でもあり、仏教的な「渇愛」でもあり、
捉え方は異なるが、根本原理を求めるならそこに落ち着く。 西田哲学における絶対矛盾的同一性も()に求めることができる。
となると、哲学も量子論も()で扱うことができる。
現象学も、もっとつきつめて()だけにすればよいのだ。 ()、すなわち「空」が真のモナドである。これは無記名のoperatorでもある。
()がなぜ「ある」のか。それがわかるのはまだまだ先だろう。
とりあえず、コンピュータとしての()を考えて、そこからすべてがうみだせればそれでよい。
分断としての()、そして内側と外側、これだけの役者からチューリングマシンが作り出せればよい。
計算的実在論、とでも呼んでみようか。
思弁的実在論と、その反転でもあるoooをひとつにすると計算的実在論になるわけだ。
いままで語ってきた「うっかり」とは「計算」のことだったのであろう。
このoperator()が「うっかり」であり、バナナの皮自身が自分自身を踏んでコケるということである。 ダジャレってわざといい間違えて笑うだろ
世界の創始は案外そういうものかもしれないね 宇宙(世界)を構築するためには「射」があればよい。
それってなんだ、ということで思考した結果が「空」である。
「空」こそ、求めていた「射」だったのである。
「空」こそが基本的な「自己同一性」であり、それを「うけとりそこねる」ことでセカイができてしまうw
基本的な「煩悩」であり、タロットカード(大アルカナ)の0番目の「愚者」をうみだす、21番目の「世界」である。「空」そのものが「愚者」なのか「世界」なのか。そこはわからん。
「空」(という分断)によって「配達されない手紙」が生じ、それがいろいろな物語を生み出す。
セカイとはそのような物語である。
われわれは「うっかり」とできてしまった「セカイ」という「物語」の中にいる/その一部だ。 時間とは形のありよう、模様のありかた、存在の見え方 セカイとはそのような物語である。などと書いていたことに気づく。
語られているのである。セカイは語られている。物語である。
誰が語っているのか、というのは最初の問題でもあった。
語っているのは「空」というoperatorである。
時間を語るには記憶/記録/痕跡のようなものが必要である。
「今ここ」などといっても「点」ではなく「ひも」状のものであるw
そこには量子時間がある。
「時間とは何か」と問われている「時間」とは異なるが、「量子時間」は実在する。
「実在」の再定義は必要かもしれないがね。 >>368
なかなかすばらしい。時間とはお腹がすくものである。
エントロピーの増大、ということなのであろう。
量子時間は、おそらく、お腹がすかない。
そう考えると、「空」は空腹に違いない。だからこそ貪欲になんでも吸い込む。
基本的にはブラックホールの一種なのかもしれない。
とすると、情報は「空」の表面に貼り付く。プランク単位の領域が1ビットの情報となるはずだ。 >>369
ヒモですから長さがあると理解していいのかな なんらかの長さのようなものはあるはず。プランク単位のなにか。
振動の最小単位。
長さというか大きさですね。
それが「空」のどこらへんなのかと、思考実験中。 自己同一性によって「空」が分断される。
わわれは「空」の表面に貼り付いており、
あるひとつの「空」の内側に貼り付いているとすれば、他の「空」によってさらに分断された
「空」の外側をみることができる。
おそらく、これがカラビ=ヤウ多様体になるのだと思うのだが、よーわからん。
とりあえず「空」の数を減らして考える。
「時間」となる「空」が主であり、その「空」に絡むように他の「空間」としての「空」がある。
とりあえず、operator()「だけ」によってカラビ=ヤウ多様体に類似したものはつくれそうだ。
新たに出てきた問題は、「大きさ」ってなんだよってことだ。
「大きさ」がないと「時空間」はつくれない。
ま、われわれ(の宇宙)が貼り付いている「空」こそが現在考えられる「時間」の正体なのかもしれない。
チャイナリングのリングと空間を入れ替えて考えているのだが、どっちがどっちでもいいような気がする。
1+3の4次元だとするとリングは全部で6つ必要になる。
われわれには4つ(の外側)しか見えない。6つの内部は見えない。
しかし、この考えだと、あと2つ、見えない時間のリングが存在する。
6つのリングは、それぞれが他の3つのリングと絡んでいる。
問題は見えない時間リングの外側あるいは内側がどのように影響を与えるのか。
超弦理論にあらわれてない2次元分は無視してよいのか? 6本の外側と内側を持つチャイナリングから成り立っているとすれば、
あと2つの時間があるはずだ。時間も3次元である。
われわれにはひとつの時間しかみえないが、3つの空間次元は後2つの時間の影響「も」うけているはずだ。 どれを図としてどれを地とするか。ちょっと混乱してきた。
なぜか「射」には「大きさ」がある。
これを「(」とする。1単位だ。1次元である。
この射の端が閉じる。「()」。2つではなくこれで1単位と考える。2次元になる。
これが「空」だ。最小単位の「空」。
2次元上では「無」を2つに「分断」してしまう。
「()」の内側と外側にそれぞれ「空」ができる。「()」と「)(」である。
しかし「空」であるがゆえにひとつである。3次元目が必要だ。
この2つの「空」がひとつになったものも「()」としてあらわされる。
ひとつめの「()」と2つめの「()」は、2つのリングはチャイナリングのように絡み合う。
位相が異なり、直交するとすれば90°である。
1次元の「射」が「空」のリングとなり2次元。
リングによって分断された「空」の中身が2つめのリングとなり、ひとつめのリングと絡み合って3次元。
ひとつめのリングが「時間」であり、「時間」は2次元平面上にある。
ひとつめのリングに(おそらく)直交して絡み合う2つめのリングも別の2次元平面上にあり、
これが「空間」となる。
ひとつのめのリングと2つめのリングはひとつの次元を共有しており、全部で3次元。
1次元の時間と1次元の空間が3次元上にある。
「時間」は片方向の向きを持つ。「空間」は自由であるため2方向の向きを持つ。
ここまでで、ひとつだけ語っていないことがある。ひとつめのリングの秘密。
これはとりあえず秘密にしておこうw
この「秘密」が「時間(ただし量子時間)」を「時間」たらしめている。 operator()がトーラスを生み、トーラスの表面によってトーラスの内側と外側が分断される。
このトーラスが2つめの「射」である2つめのリングをうみだし、これもまたoperatorであり、
ひとつめのリングと絡んだまま2つめのトーラスをうみだす。
2つめのトーラスは2つめの「時間」をうみだし、これもまた2つめの「空間」時間をうみだす。
問題は、このシナリオで、なぜ1+3=4次元時空間で止まってしまうのかということだ。
そこで止まるのではなく、われわれの宇宙はさらに空間次元が増えていくのかもしれない。その途上にあるだけかもしれない。
あるいは、見えない残り2つの「時間」が歯止めになっているのかもしれない。
ま、なんにしても、ここまでは般若心経の読み方次第でみちびきだされないこともないw
すべてはoperator()という煩悩の起源がうみだす幻想である。
「空」こそが根源的な「煩悩」である。そう考える。
「無明」や「生死」などの「煩悩」も「空」というoperatorによってうみだされている。 残り2つの時間状のリングが場のひろがりなのだろうと思う。
これが場を形成している。
1-3時空間は3-3時空間の一部しかみえていない。
このシナリオは、1-1時空間から2-2時空間、3-3時空間になったあと、
なぜ4-4時空間にならないのか説明できていない。
ま、ここまでの考えが正しくて、4-4を解決できればノーベル賞ものだろうけどねw
単なる思考実験なので、般若心経が読み解ければそれでよい。 空即是色、色即是空
(私的な解釈)
空と言っても、それは既に何らかの意味を持つ
(だから)あらゆる意味がつまり、空なのだ。
(釈迦は実践する実存者だったのか) 時間は牢屋である でありゆえに時間の外
すなわち脱獄は不可能である 「(」を時計回りとすれば下から上への「射」である。
これをスピン1/2と考える。
「)」を上から下への「射」とする。これもスピン1/2である。
2つ合わせた「()」が「空」であり、手前から向こう側への新たな「(スピン1/2の)射」がうまれる。
このセカイを駆動させ、煩悩をうみだすのがスピン1の「空」である。
セカイは、この(量子)時間に囚われる。 「(」を反転と考えると、そのまま戻ってきてもなにも始まらない。
行って戻ってくるだけ。「物語」にはならない。
さらに「)」によって突き進むことで新たな「射」が発生したうえで元に戻る。
これが「物語」になる。
「物語」が「時間」である。
発生した「射」もそのまま戻るのではなくさらに回転して、さらに新たな「射」をつくる。
「物語」が「物語」をつくり、「物語」のネットワークが形成される。
これは「静的」ではなく「動的」であり、組み替えがネットワーク上を伝播する。
「物語」は「射」によって「語られる」。「語って」いるのは「空」である。
そこにある「時間」は「物語時間」だ。
「モナド」を分割不可能なものと考えるなら、「空」の1/2である「射」が「(真の)モナド」になる。
「モナド」は「半身」である。
「半身」が「うっかり」と「空」になってしまうことで「物語」が「語られる/奏でられる」。
それは「音楽」であり、「世界」は「音楽」によって成り立っている。
その「音楽」の理論が「超弦理論」なのだろう。
「物語」は「音楽」であり、「時間とは音楽」である。
「時間」が「存在」であるなら、「存在」とは「音楽」ということになる。
音楽的実在論か? 顔だけはカッコいいって認めてやるよwww
取り柄は癌だったとこぐらい。
癌の経験が1番利用できるのに、なぜ利用しない?最も人助けに使えると思うんだが。お涙頂戴ではなく、それを経験した人は少ないから。
実際、専門卒とか死ぬほど舐められるwww
その知識の浅さや思考力の低さに関してな。いや、知識が浅くなくても思考力があっても。
せいぜい頑張って生きろよwww
頑張った証明書が一つもない人間の話なんて誰も聞いてくれないぜwww
お前が人生で頑張ったのって客観的に見て癌くらいだろwww
頑張る必要なんてなく幸せに生きることに徹するべきだが、人の足引っ張るなカス。
お前が死ぬほど下に見てるやつからいわれて悔しくないのか?みてればなwww
お前を恨んでるからな社会のゴミwww 不細工ネット弁慶登場
かまわぬ、思いの丈をここで吐き
ちんぽの白い液吐いて寝なさい。 バイクで転倒しながらも考えた。
空が射をつくるのか射が空を作るのか。電場と磁場と同じ関係。
波なので進行する。波が進行をつくる。
進行とは空間であり時間である。時空間である。
(ここで考える)射は「半分」である。戻ってくるのではなく、もう半分つきすすむことで時空間ができる。
「空」による「鎖」のネットワーク。
「時間」とは「量子時間(空間)」の鎖型ネットワークなのだろうか?
これが量子場であるとするなら、「時間」とは量子場におけるネットワークの組み替えかもしれない。
「時間」は「実在」するのかもしれない。
ここで単純に、時間と空間を電場と磁場のような関係と考えてみる。
時間が空間をつくり、空間が時間をつくる。
時間も、(少なくとも)あと2次元分あるのではないだろうか? 時間「も」3次元あるのではないか、と考えたが、
4本のチャイナリングがあれば十分かもしれない。
4つで1+3次元の時空間になる。
このリングがトーラスであれば外部と内部の表面によって8次元になる。
あと2次元足りない。
これを時間2次元に求める必要はなく、4本のトーラスがお互いに2本ずつと絡んでいるのであれば、
2つのペアが形成されるので、それを足りない2次元に与えればよいわけだ。
しかし、まだイメージが固定しない。しかもこの2つは折りたたまれていなければならない。
時空間を1+3と考えてイメージしていたのは間違いであった。
時空間は2+2である。
時間状の次元が2つ、空間上の次元が2つ。
つまり、時間は2次元である。
ここから先は虚数とオイラーの公式が必須になるのでこの板には書かないw
ここに書けるのは時間が2次元であるというのはどういうことなのか、空間が2次元というというのはどういうことなのかということである。
ただし、ここで使用している「次元」は「自由度」のみを考えている。
身体が痛い。 む、「空間上」。「空間状」の変換ミスである。
ここでいう「状」とは、単に概念をショートカットするためのものである。
それがかえって悪い効果をうむことも多いので多用はしたくない。
「上」というのは先に定義されているものがなければならないだろう。
(日常)言語とメタ哲学の考察も必要なのかなと思う。
認知意味論か。そんなスレもあったような。書きこんだような気も。 0と1だけの世界を考える。
0->1,1->0が「変化」である。ただし、0や1という値は評価されたものであり、絶対値ではない。
「観測」という問題は、「評価」であり、「値」を決めることとなる。
「変化」は必須だが、それを「時間」とまでは呼べない。
必要なものは...「記憶」であり「比較/評価/観測」となるだろう。
「時間」に必要なミニマムな役者は「変化」「記憶」「比較」なのかもしれない。
それに「変化」する世界と「記憶」する世界の2つ必要となる。
2-2世界から2-3世界になって、やっと10次元の波になれる。
時(空)間機械としての2-3チューリングマシン。
「(量子時間ではなく、このスレのお題である)時間とは2-3チューリングマシンが生み出す『夢』」であるというところにたどり着けるかどうか。 Aだけがあり変化しないとする。時間は無い。
AがBに変化したとする。それを観測するものがなければ時間は無い。
Aと空があるとする。空はAを吸い込み反対側に出すとする。
AはAのままであるが、「場所」が異なる。「変化」である。
ここで時間あるいは空間を考えるのであれば、それを認識するものが必要となる。
認識とは遺伝的情報であると考えてみる。
空を横断したAは単なるAではなく遺伝的情報を持ったAなのかもしれない。
遺伝的情報をもっているということが時間であり空間となりうる。
遺伝的情報を実在とするならば、時間や空間は実在しうる。
「実在」とは情報である。
情報論的実在論か。 認識論や存在論ではなく、情報論こそが今世紀の哲学なのかもしれない。
量子も場も情報である。情報でない哲学はない。
無秩序の海は情報の海でもある。ほぼ攻殻。
operator()がうみだす幻想である。空であるがゆえに保存則を満たす。
ん? ()は黒体か。合わせ鏡の世界。 ベンタブラックはナノチューブ
ベンタブラック vs 光学迷彩
ゴーストは情報か? 「時間」を情報から得るのであれば、その情報は履歴を持っていなければならない。
[1,0]がNOTゲートである[[0 1],[1 0]]を通って[0,1]になるなら、
[0,1]は通ってきたゲートの情報も持っていなければならない。
過去だけでなく、未来も考えるのであれば、
[1,0],[[0 1],[1 0]],[0,1]の3つのうち、2つの情報がそろっていなければ「時間」を得ることはできない。
この真ん中の可逆ゲートこそが「時間」であるといえないこともない。
「時間」とは「ユニタリ変換」である。
(ほんとうは球ではないのだが)ブロッホ球の回転による変換とみなしてもよいだろう。
とりあえずこれを「時間球」と呼ぶのであれば、「時間球」の1単位の回転が時間の基本単位と等価になるだろう。
「時間」とは「時間球」の回転によってなされる変換の連なりである。
つーことは、相対性理論を「時間球」によって再定義できるかもしれない。
正解ではないにしても、考えるだけの価値はあると思う。
ここまでは本気。
ここから妄想するとすれば、ブラックホールを量子コンピュータとして使える!(かもしれない)
だれかちょいとホーキングを生き返られせてくれ。これが可能かどうか聞きたいw >>400 ホーキングなんてただのアフォ。哲学の初歩かじっている人から見たら、時間順序保護仮設なんて、幼稚な時間論だし。 ホーキングも偶に、世間の目を引くようなことを言っておかないと成り立たないんだろうな
AIなんて専門とは何の関連性もないのに思いつきで口を出してみたりする
基礎研究ってのはスポンサーがつきづらくて地味な分野だからしょうがない 時間順序保護仮説だが、遺伝的有限集合であれば、おそらく、自然に順序が保護されるだろう。
可逆という概念を更新しなければならない時代になってきたのだと思う。
可逆は存在せずすべては不可逆であり、かつ、不可逆は存在せずすべては可逆である。
矛盾するようだが、矛盾ではなくパラドクスなのだ。
可逆と不可逆は「重ね合わせて」存在している。
マテ=ブランコによれば無意識の思考である。 ウラシマ効果はアインシュタインによって既に立証されてるが過去に逆行するような
タイムトラベルは理論的に不可能ってことになってるんだがな
AIが今後人類の知能を超えるという確実性ある見通しがある話でもないのに
可能性の段階であれこれと夢想するのはSF作家と変わらん 矛盾が実在しない世界は静的でなにも起きない。
矛盾こそが「実在」ではないのか?
そう考えるならば、「時間」とは「矛盾」によってうみだされている。
認識や理解というものが無矛盾をつくろうとしている。
しかし、実在するのは矛盾のみである。
そう考えると、すべてがすっきりする。 運動する自然を静止で理解する。
ゼノンは飛ぶ矢は空間の一点に存在するから
飛ぶ矢は静止していると逆説を提示する。
わたし、は赤ん坊から現在に至るまで大きく変化しているのに同一とする。
つまり論理は静止。 クレタ人の逆説、ヘーゲルの運動規定
不完全性定理、みな対象をその否定で理解するから。 その辺のことはもうみんな聞き飽きてるし、それはそれとして理解済みなんですよ 理解しているのに批判する必要がないでしょ、過程さん。 まあ今はラッセルに没頭しているけど。
いや矛盾が実在するというのは?だし。 理解された対象は認識がつきまとう。
だから矛盾する。 矛盾は理解によって生じるものであり、認識で生じるものでは無い。認識から生じるのは矛盾はではなく錯覚かな?
それに、無限は認識ではなく理解だよ。 スピノザの、規定は否定という考えがこんなに本質的だとは。
矛盾も否定の否定も、わたしが若いときに遭遇して
以来悩んできたことがほとんど解決できた。
あとはラッセルだけ。
科学革命はその裏付けに過ぎない。 有限は認識形式で、科学革命は認識主体の実在を否定する。
有限は否定だから否定の否定で無限が復活する。
次元、つまり無はないし、四次元である時間は認識に必要な形式に過ぎない。 クレタ人の逆説の系列だと思うんだが。
つまり、認識の在り方だと。
予想の段階だが、さて。 一を多で理解する。
多は認識の在り方で否定。
ゼノン、クレタ人、カント、ヘーゲル
光速度、観測問題、不確定性原理
不完全性定理、科学革命はここから一望のもとに見渡すことができる。
さて、ラッセルか。 真偽は自然が決める。
それは科学史で明らか。
後世の審判に任せるしかない。 そもそも自然が有限か無限かなんて
分かりようがない あと一踏ん張りか。
どうか生を終えるまでには始末できますように。 科学史から分かるのは
真偽を決めるのは自然ではなくて偶然 詐欺師の手口が通用するのは最初だけ
何回も繰り返すのは馬鹿ですよ 終わったらハイヤーム読みながら酒だな。
ゲーテ、カフカ、ヘーゲル、マルクス
三浦、滝村、周五郎、漱石、バッハ、モーツァルト、ベト、ブラームス、定番所おさえて。
パルメニデスか。
オデュッセイアも面白そう。 頭の悪い人が本を読んでも自慢にならない
読書歴を披露しても嫌味にならないのは頭の良い人に限られる 地動説、銀河系論争、大陸移動説、
登場当時は不利で否定され、後に認められた。
いずれにしても、科学史家は議論では決まらないと指摘する。 ああ、どう理解するかはその人の意識を露骨に示すな。
Wwwww 真偽を決めるのが、どうして偶然に支配されるのか
それは、真偽とはそもそも勝ち負けだから 三浦さんは学問を面白い所から論じている。
私の尊敬する諸氏はいずれも学問は凡才のものだと語る。
最初の予想が正しければ事実はあとからついてくるともかたる。
さて、ラッセルにかかりますか。 そうそう、自慢していると映るのはその人の意識がそう思わせているだけだ。
言いたいのは楽しみは沢山あるというだけ。
若いときにつまらなかったゲーテが近ごろ面白い。
ブラームスなんかちっとも、だったな。
ヘーゲルは序文以外は。w
さて、どこまで享受できるか。 自分の問題を解決してくれた学者たちには感謝それだけにしかない。
あとは自然が審判する。
それだけだ。 この例えが適当かどうか判断しかねますが
打率0割の打者が「素振り1日1000本してるんですよ、面白いっす」とか言ったとして
「あ、そっすか(苦笑)」としか 差別。
反社会行為してない。
職がある。
正社員である。
会社に対し重大な義務違反無し。 ヘーゲル ヘルダーリン 詩学 翻訳 でなんか出したら?生死現象学。 久々に古本屋にいったらマクタガートの「時間の非実在性」があった。へえ、懐かしいなと思って手に取ると、なんと翻訳は永井均だった。2017年2月の第1刷だから比較的新しい。読み物としては面白いね。昔よく議論したんだけどな、旧2ちゃんの哲学版でw 冷麺の汁が不味すぎて、やけくそでそばつゆで食べたら悪くなかった。 マッキンタイアのがいいと思う。スルーで続くと。時間もまだ掘りあてていない
謙虚さも。 永井均さんはマクタガートの時間論を独我論の視点から応用してますよね
独今論はマクタガートのA系列が独我になってる感じ 矛盾とはP∧¬Pである。
∧を∩とみなせばP∩¬P=∅である。
すなわち、「空」こそが矛盾となるわけ。
よって矛盾は実在する。「空」(=矛盾)のみが「実在」である。
operaterとしての()さえあれば宇宙を制作できる。ビッグバンも可能だ。 生きながら死んでいる
生命は矛盾の実在ではないか? 空という矛盾。
矛盾は、同一性と相違性が重ね合わせで存在している。
同一であるということは相違性があるということであり、
相違があるということは同一性があるということだ。
それが、時間という矛盾の親玉wになる。時間こそが矛盾の王だ。
なんてね。 結局のところ、「射」とは「空」であって、されにそれは「矛盾」であった。
われわれの宇宙をつくる根源的な動力。
「哲学」の動力源も「矛盾」に求めることができる。
阿耨多羅 三藐三菩提 智を愛する。それは矛盾を愛していることでもある。
矛盾を破壊せずに智に転化・昇華させる。
矛盾とパラドクスの関係ではなく、矛盾というものの真の姿。
contradiction.
否定を愛するのが反抗期であれば、智を愛するのは大人の反抗期w >>467
宇宙もまた。
同一で理解するから、であって、ではない。
矛盾は理解するからこそ。 >>477
神はいかにして徳を積む限られたものに与えたのかな? >>474
お前の母ちゃんデベェソってか。
アリスの知能。w >>478
神は魂を不死に作った
魂は不死で死後、神の下へ行く
魂に徳を与えていないと、神様にバレてしまうからだ >>481
そんなことはない
道徳の実践には欠かせないことだ 宗教とは道徳を実践させる為の原理である、と考えると十分合理的だ >>484
人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問だから、そっちは宗教にまかせるよ >>484
そういう意味ではな。普通、哲学は宗教とかの問題も取り扱うよな。
一度、宗教にどっぷりはまって幸せになってみるしかない。 >>487
宗教の幸せに嵌るより
自由で豊かに活きられる
哲学の道を生きてるもんで >>488
ヘーゲルとかカントも宗教にどっぷりだったろ
むこうでは哲学と宗教は分かれてない
何で、日本の哲学がいかんのかっていうと、宗教が異なるからだろうな
一番大切な部分を考えてるはずが
日本では暇人の学問ぐらいの値打ちしかない
それも妙な自由や豊かさの幻想を見てるからだろう
何言ってるのか、若い時、正直さっぱり分からなかった HGウェルズ「透明人間」では、独占的自由を獲得したリアルな人間の振る舞いを描いている
罪が誰にも発覚しない確実な状況が存在すれば人は殺人すら厭わない
完全な道徳は、神と人との実存的関係によってのみ可能となる >>491
それって異常者の話しでしょ?西洋人だからって、変態の言うこと、真に受けないほうがいいよ。 作家なんて、トンデモなんだから、作家の作品を教科書にはできんでしょ
日本の教科書ってよく文学作品なんて載せるよね どの分野でもだよ 作家はヤクザな商売だろ
ファンタジーなんて剣で斬ったりするだろ
銃刀法違反だって捕まえに行ったヤツが誰もいなかった どの作家というんじゃなくて、世界を自由にできるなら
ひみつ道具を与えられたのび太みたいに悪事に使うのは自然じゃないかってことやろ >>497
そうとばかりも言えないよ
アメリカは銃社会だけど、銃乱射する奴はちょっと出るぐらいだ
大多数は殺せても引き金引かないで済ますでしょ
>>498
文学を道徳所にするなんて無理だよ。あれ愚弄して書いてあるんだよ?後は綺麗にお化粧してあるだけで。
酔っぱらって読むようなもん。 そうそう、文学は本当にただのクズが通ってしまう時があるけどな
そこまで落ち込んだヤツが先生になれる妙な業界ではある 矛盾とはP∧¬Pのことである。
これをどう読むかは自由だ。論理から逸脱さえしなければよい。
この矛盾を解決する方法は、いくつか考えられる。読み方次第だ。
「時間」や「空間」によって解決もできる。
集合論と論理をごっちゃにして、
P∧¬P=∅
としよう。
∅は「空」であり、φとかψであらわすとすれば...
ψ=P∧¬P
波動方程式であるw
波動方程式は「空の方程式」なのである。
それは同時に「矛盾の方程式」でもある。
だったら...「射の方程式」でもある。
波動方程式のみが「実在」である。 >>499
銃を使ったら確実に捕まるか射殺だろ、透明人間のように絶対罪に問われない状況があったら
人は誰でも狂うと言うことや 嫁と家政婦の共犯と思うが
二人が自白しなければ完全犯罪になるよ。
イヌは決め手にはならない。 なぁ サーフィンて時間っぽいよな お前らも そうおもうだろ P=0,¬P=1としよう。0,1は真偽値ではない。
矛盾とは0かつ1の状態である。なんのことはない、重ね合わせである。
この状態がもっとも基本的な「空」である。
空の波動方程式は
ψ=α|0>+β|1>
となる。
α,βは複素数であり、|α|^2+|β|^2=1である。
確率として、とりあえず1/2と考える。
αとβのとりうる値は、±1/(√2),±1/(√2)i の4つのどれかの組み合わせだ。
空には8パターンある。
この8パターンの解釈(のひとつ)が時空間であり、「時間」だけ、「空間」だけ、を単独で成立させることはできない。
「空」の別の解釈では「易経」がうみだされるw
中心に皇帝?(北斗?)を置くことで「九字」がうみだされる。
これらすべては量子論の読み方のひとつなのである.
臨兵闘者 皆陣列前行
あるいは
青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女 サーフィンは波乗りであり、まさしく波動方程式だ。
その意味での量子論の聖地は「かっぱ橋」にある。 あれ?8つじゃねーや。数え違えたw
12もしくは9もしくは10
考え方によって数がかわる。8もありか...
直観的には8なのだが。ちょいと考え直そう。
(統計の違いの問題である。悩み中) 立方体を考えたとき、面は6つだが、角は8つだ。
そういうことか!
3次元球面で考えても同じだ。
ちょ、ちょいと周易の本を読み直し。もしかするとこれってホログラフィック理論の本なのかもしれない。
ネクロノミコン以上の存在なのかもしれんぞ。 客体ー主体
科学革命は主体の実在の否定
多、数、次元の実在否定。 無限を否定の有限で理解する。
有限の実在否定したのが科学革命。 いつもながら、どのような意味で「否定」を用いているのかがわからない。
negation や denial ではなく、わたしはこれを contradiction であると理解しているw
すなわち「矛盾」である。
K氏の「否定」を「矛盾」に置き換えれば、ふつーに量子論にたどりつけるのだ。
もうひとついえば、K氏の「理解」もわからない。
わたしとしては「主体」としての「知的存在」ではなく、「非知的存在」すらも抱合する「存在(あるいは関係)」そのものが「理解」である、としている。
認識論的存在論/存在論的認識論から離れて、(量子)情報論的な立場で考察する。
西洋哲学の煩悩、そしていかがわしき唯物論から離れる(否定する:far from)べきだろう。 過程さんはあえてストライクゾーンを広くしてあるんでしょう。
理解している人や理解しようとしている人の意見によってより明確に言語化され
ストライクゾーンの照準が定まっていくことへの期待を込めて ま、なんにしても、ただのトンデモさんに付き合っている暇はないw
遺伝的有限集合としての時空間(時間と空間は分離できない)は、
空の方程式としての波動方程式によってあらわされないということもないわけだが、
問題は、波動方程式って、認識する人間からみて構築されたものだということだ。
「存在確率」としての「解釈」であって、「解釈」でしかない。
確率的解釈は捨てる/棄てるw それが哲学的に正しい態度だw
非確率的情報論。はたしてソレを構築できるのか。
(すでに存在する、とみなしているが、よーわからん) 観測問題を考える。
観測者効果と不確定性効果を区別する。
時間スレなので時間を観測するということになるが、時間と空間が切り離せないとすれば、時空間の観測ということになる(はずだ)。
遺伝的有限集合としてOperator()によってうみだされる宇宙だけを考えるとき、
観測対象と観測するものは、遺伝的関係になければならない。
遺伝的ネットワークでつながっている必要がある。
つながっていなければアクセス不能なわけ。
「時間」を考えたとき、この「遺伝的ネットワーク」はフラットに展開できるようなしろものにはならないのではないかという「不安」がある。
遺伝的ネットワーク上で時空間は常に更新されている。
量子論的時空間そのものではなく、われわれが認識している時空間という概念は、
量子論的時空間の変化(更新)の伝播である。
はて? commitできなかった更新はabortするのであろうか。
もし、abortするとしたら、その痕跡が発見できるかもしれない。 観測問題は粒子は渦、つまり波の一形態。
古代ギリシャの一学派、英国科学者、ブリゴジン学派はこの理解です。
対立関係ではない。 科学は自然の無矛盾な理解を目指す。
この一点は手放してはならない。 >>524
一個人が科学を代弁しちゃうのか
独善だなあ君はやっぱり 論点を摩り替えればストライクゾーンは広がるからなぁ
自然の無矛盾な理解が哲学であり科学はこの一点を手放すべきではないという個人的思想
なら祈りはすべて通用するしな 対象が矛盾したら理解不能。
科学者たちは粒子と波は対立すると理解する。
だからこその観測問題。 時間も重力もわからないのが現在の学問。
誰もあれは❌、⭕とは断言できない。
ある仮定で矛盾が無い自然観を構築したい。 非物理存在は物理として存在するのか。
ライプニッツはニュートンの重力理解は不合理だと否定した。
やはり学問は非合理、矛盾を嫌う。 独善的だと思う。
私は浅学で詳細は知らないが、社会科学の学際化が唱えられた時代もあった。
詳細を知った所でそれを振りかざしてもダメだ。
ともかく私は当分黙る。 板倉聖宣という学者は新哲学入門で、科学の基本を語り
現代科学の状況をのべている。
わたしはそれに同意しているだけ。
ただひとつ違うが、基本は同じ。 独善的と言っても、専門的に、経済学であれば経済学的に言えば、こう言えるという消極的な独善だと思う。それでも独善ではあると思う。
しかし、科学と学際化は殆ど矛盾してしまう。科学はある特定の側面の認識に特化したもので、学際化したら科学じゃないじゃないかと。
ともかく私は黙る。 旧来のそれだけど経済学でいえば、世界は経済学的には出来ていないけども、経済学的な世界があると仮定して、その世界の成り立ちを科学的に考察する。
その様な経済学による経済学的な世界について、科学的に語る。 思うのは勝手。
我が道を互いに行けば良い。
独善的と独善的に裁断しているように見えるけどね。 所得や利子率といった経済のカテゴリーはあって、経済学でその動きが説明できれば良しとする。
出来ているのか分からないが、その精度を高めるべく、理論は勿論、計量経済学も発展してきたと思う。
理論は経済学的世界の狭隘さ、それは経済学の独善性に繋がる、を広げるための努力であると思う。
すまん黙る。 >>539
物理学にせよ経済学にせよ、それぞれの世界を論じるが、世界は物理学的でも経済学的でも無い。
科学は○○的に論じるしかない。その意味で科学は、また科学者も、独善的だと思う。 科学革命は一貫して理解する立場の実在を否定する。
言い換えると客体ー主体の主体の実在の否定。 >>541
なかなか饒舌だが。w
科学は自然に問いかける。
実験結果は独善的ではない。 >>543
問いかけは理論に基づいてなされる。
その理論は偏っている。 偏りのない恐らくは理論なんてない訳で、科学は独善だとだけ言ってもダメなんだけど。
独善的なのはそれはそう。理論の枠組みを広げてもそうだと思う。 ○私
私が学者であっても楽しく語るものじゃない。
楽しむのは研究。その成果を語るのを楽しんではダメだと思う。 関係はあまり無いが。
社会主義はかなり実験されたが成功例は無いから
駄目なんだと板倉さんは語る。
そうなんだろうな。 ラッセルのとっかかりが掴めたように思うんで、没頭したい。
やはりクレタ人同様否定が鍵だと思う。 ともかくそれでも科学が閉鎖的ではダメで、かつて唱えられた社会科学の学際化は重要だと思う。 独善は独善なんですよ。それで満足してはいけないと。
俗にいえばそういう事だと思う。 自然は差異として実在し、否定で理解される。
生物分類が典型だ。
ヌエ的なものは理解の問題であり、ウィルスはそれと無関係にある。
矛盾もまた理解の側の問題。 ○私は
学者じゃなくても黙らなくて良いんだけど私は黙る。 非物理が物理として実在しないという理解を
独善的と言われたら議論は諦める。
話は通じないから。 >>557
非物理が物理として実在しないというのは独善的では無いけども、
そうして非物理を捨象して出来た物理学は独善的だと思う。
私は教養が無いし、私と会話をしても混乱すると思う。私は黙る。 科学は静止を否定してる。
自然の存在形態は運動、つまり矛盾しない。 >>558
わたしが求めるのはその一点の承認なので満足です。 >>560
非物理が物理として存在しないという理解が独善的でないというのは承認します。
寝ます。おやすみなさい。 一安心できたので寝ます。
付き合ってくれてありがとう。
では。 コーヒーさんは黙る黙るとしゃべり続けるのが面白い。
真摯な感じは好きだな。 あらゆる学問は、理解を突き詰めて真理へ至る事が目標だ。
理解は独善的であるが、真理は独善的でない。
>>543
一見すると実験結果は独善的独善的で無いと思われるが、その結果は観測によって得られる。
問題は観測だ。ここでフィルターがかかる。
これが現代科学の直面している大問題かな? 自然の無矛盾な理解が哲学であり科学はこの一点を手放すべきではないという個人的思想理解に基づき
承認欲求が満たされ安心して眠りについたんだな >>567
フィルターがかかった観測で現代科学が直面している具体的な大問題をお願いします。 真摯っぽさしか私には売りが無い。
何もしない真摯な人もいると思うけど、何かをして真摯である人は結果を出していて内容がある。
真摯である事の価値は人付き合いにおいてしかないと思うけども、人付き合いせずには生きていけないし、真摯でない付き合いは社交辞令はともかく、不都合。 ○真摯である事の価値は人付き合いにおいてしかない
こう言ったのは私が真摯さを功利性において考え、真摯でない事を人付き合いを避けたという真摯っぽさで誤魔化した。
人付き合いが無くても真摯であるというのは、論理的に分からないけども大事だと思う。 私は真摯でないのだけど、真摯さは人付き合いの中にしかなく、真摯に他人を避けた私はそれによって真摯になれなかったのだと。
それは取消します。 真摯さは人付き合いの中にしかないというような事を言うと、他の人はそうかもしれないなと思ってしまう。 5ちゃんは止めるけど一レスにまとめる。
真摯さにおける真。それについては分からず黙る。 真摯っぽさしか私には売りが無い。
○
何もしない真摯な人もいると思うけど、何かをして真摯である人は結果を出していて内容がある。
真摯である事の価値は人付き合いにおいてしかないと思うけども、人付き合いせずには生きていけないし、真摯でない付き合いは社交辞令はともかく、不都合。
とは言え、真摯さは人付き合いの中にしかないという考えは、他人に迷惑をかけなければ真摯で無くても良いではないかという考えである。
功利を超えた超越的な真を重視しない、その意味で功利的な考え。
功利は、自分のそれもそうだけども、他人のそれもそう。迷惑は功利的に言ってまずい。
迷惑をかけなければ何をしても良いではないかとも思うけどそうでは無いと。
それでは非功利的には真摯さに価値が無くなるが、非功利的な価値はあると思う。 こういう話は、どういう話か分からないけども、雑談的にするのは私は止める。 真に関わる話だと思う。
厳しく言えば、言動には自分が真であるという信(タイプミスでは無い)が無ければダメだと思う。私の場合は人権に叶うようにしたい。
人権を否定する真があるとは私は思わない。
自分の言動が真であるという信が無く私は黙る。 自分が真であるという信の無い言動は真摯さに欠ける。
ただ自分が真であるとと信じるのは危うくはある。難しい。 人権への意識があればその危険は回避できる。
真のために人権があるのではなく、逆な気がするのだけど。
人権が真であるのは、真摯さは人付き合いの中にしかないという話に戻る。
人付き合いを超えたのが真ではないかと言ったのだけども。難しい。 見切り発車が良くもあって分からん。
5ちゃんは止める。 >>567
フィルターがかかった観測で現代科学が直面している具体的な大問題をお願いします。 >>584
「そんなことはない」と
ベルの不等式が言ってるよ。 自然は矛盾か無矛盾か。
無矛盾であれば動的である理由もなく、時間や空間などのようなものが「ある」理由もない。
問題は「自然」の見方である。
神的視点からみれば自然は無矛盾であり時間もないw
自然の一部であるなんらかの「存在」からみると、自然全体を捉えることはできないので「矛盾」である。
「矛盾」を克服するために「時空間」や「変化・運動」などが必要になる。
認識論的に必要なのか存在論的に必要なのか、という問題はある。
しかし、「情報論」的には、矛盾する世界を無矛盾にするために「情報」というものが必要になると考える。
「神」ではないので「情報」が必要なのだ。
そう考えると、新たな「情報」というものの形が見えてくる。
矛盾+情報=無矛盾=消失=無。
無ではなく空という矛盾があるから情報がある。そして哲学がある。 時間とは命の次位に大事な物。
資産であり財産でありお金では買えない物。増やせない物。
そもそも時間を大事に使えないと良い生き方も出来ない。お金より圧倒的に価値がある物だ。
お金を節約する人は多くいるが時間を大事に使う人や無駄に使わないようにする人は少ない。
お金よりも圧倒的に時間の方が大事で価値があるのにね。
不思議な物だ。 運動を静止で理解するから矛盾する。
差異として実在する生物を否定で分類するから
ヌエ的なウィルスなどが出てくる。
ウィルスがヌエ的なのではなく、分類するから。
それと同じように運動が矛盾などではなく
理解する側の問題。 生まれる→物理的状態の変化
亡くなる→物理的状態の変化
この観点からは矛盾はない
物理的状態は差異として、つまり運動として常にある。 物理の運動は常態、つまり同一としてある。
また解説する。 ?
差異を同一で理解する。
差異としての対象を同一で理解するしかない。
決定不能。。 差異としては普遍、不変。
運動は普遍、不変。
対象は同一ではなく実在する。
宇宙は同一として実在することはない。
差異、運動は普遍、変わらない。
変わること自体は変わらない。 差異だのクレタ人だの理解したところで時間とは何かはまったく解明されていない >>604
対象である自然と理解とは何かがわからないと時間もわからない。 対象ー理解は客体ー主体、否定関係
対象を存在という否定で理解する。
対象は科学は差異であり矛盾しないと示す。
クレタ人は対象をその否定で理解するから決定不能になることを示す。 時間は次元。
出発点である0次元は実在しない。
対象を無で理解する。
地動説、光速度一定は無で理解し、無が実在しないことを示す。
つまり、時間は実在しない。 対象は矛盾しないから理解可能であり、また論理は矛盾だから決定不能。 >>608
訂正
科学は対象が差異としてあることを示す。 つまり次元である時間は自然を理解する媒介で実在しない。 ヤジしか飛ばさないという評判を覆す解答です。
出来るものならやってみろ。 >>607
解説できているつもりで解説してもやっぱりわからないものはわからないということと
対象である自然と理解と時間も解明されませんなぁ >>618
?示しているが。
理解出来ないんだ。
ヤジしかとばせないんですね。 科学を主観的に定義したものに過ぎないな、クレタ人は君の主観的定義の都合に沿う例え
科学を理解したつもりになって時間と科学を都合よく関連付けた解釈
結果、決定不能だと決定したろころで時間は解明されていない
とどの詰まり、自然を理解するための媒介に時間を利用しました、科学的でしょwという時間過程説だな
オーマイガーww >>619
精一杯時間過程説を示したのはお察しします アリスと過程の因果関係が継続するのはどっこいどっこいだから
引き合いに出して晒される宿命 ,r:::::::ァ::::::ー、
く:::::::::::::::::::::/
i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
_ ,,..〈;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;-::::`:ー:-:、_
<_:::::::::::::::::::::::::;, -::::':::"::_:フ
冫ー ‐7´ ̄ i::::ヘ::::::`、
イ:::::::i ー |:::ノ:::::::::',
|::::::::| __ j::::::::::::::::i 次元の出発点が0次元?
ヾ::::j ´,,、_ ` /:::::::::::::::/ アホだな。
ゝ::::::':::::::::`:´:::::::::::;シ
_,ゝ-::、::_::::::ノ K"´
-..─..''::":: ̄:::/:::::ト、 r:::┐/::ー、_
:::`ヽ:::::::::::::::::/:::::::::i ヽ/ヽ:::ト、 ::::::::、ー、_
:::::::::::';:::::::::::::::>::::::l i::::i ヽ::::::::ヽ:::\ 【永さ】と【時間】
ピンときたら、多分同じ結論に至る。 【永さ】は感じるが、【時間】は感じられない。
【永さ】は生きているだけで有するもの、【時間】はそれを数値化したもの。
ピンときたら、多分同じ結論に至る。 >>636
満島ひかり言わされている恥ずかしさが顔にでちゃってるのが痛々しいw >>637
そうか。あそこら辺にピンコ立ちするのか。 物事が有する【永さ】は分かるが、
【時間の長さ】など知らないね。
時計の進み、および時計の進み方なら分かるが、
時間のそれは知りようが無いだろう。
何か、両者を混同しちゃってんじゃね?
ピンときたら、多分同じ結論に至る。 >>638
>>639
お門違いの頓珍漢な同じ結論に一人でピンッと立った事にしとけばよろしい なにが問題かといえば、自然あるいは時間などもろもろの矛盾を無矛盾で理解しようとすることであろう。
自分が無矛盾に理解できる範囲にものごとをねじ曲げる。
そして反論には聞く耳を持たない。
それこそが真の哲学なのかもしれない。
まさしく、それが自然の姿である。
無矛盾であろうとすることがすべてを生み出す。
しかし、無矛盾であろうとすることが矛盾を生み出してしまう。
自然は報われないのだw >>638
反論に聞く耳を持たないというより、
言っている意味がほとんど不明だから、
雑音でしかないんだよw
それはともかくとして、
あなたの言う自然って「自ずと在る真理」っていう意味なの? 「自然」に意味は無い。
「すべて」でもいいし、Universeでもいいし、人間も人工物も含む。
なにかと対立するもので対峙するようなものでもない。
極論としては自然=矛盾でもよい。自然=言葉でもよい。
数学的には遺伝的有限(あるいは可算)集合であり、自然数と同一視してもよい。
もっとも意味を持たない「存在」。「存在」が意味だとすればそれすらも持たない。
あ! 自然=空(くう)です。それでいい。そいつが矛盾と無矛盾をもたらす真犯人だから。 む。対立するもので「も」。
「も」が抜けたのは致命的だ。
欠如あるいは過剰。
致命的かもしれないが命をうむものかもしれない。
「もぬけ」か。魂魄という考え方もあるし、なにかしら降りて来たような。 なおさら分からないw
仏教でいう「空くう」って、もともとの本質を持たないってこと? 時計は人生より早いプラクチュアルナ模型ですが、シュールレアリスト以降、
時計の時空では測れないバロメーターが、異次元とかの交流、オカルトの時代時間
感覚、などの接点を生み出し、時計人の周回遅れを計算に入れ、急いでいますました。
時間自体が。
永いことは安定するが、長いことは自助努力です、他力、自力、に関係あって
無力 となるかどうか。有力者もいるのにね。 空とは真空に近い大東亜以降のぶんも入れてどぎすまされた感覚を有する
思想かな。何かの東アジア圏の気候風土の術覚の前れで幻視 幻声 等の幻知覚を伴うことも多いと思います。
自由 自在 簿冊。 私達には死がない
だから時間を創った
それで罪を償ってもらおう 時間を分轄すれば、対分裂狂馬対兵として戦える線(セン限定)がでてくるかもね。 無我の境地っていうのはある意味頭空っぽの状態だよね、禅とか瞑想も邪念を払い空にすることで馬鹿を受け入れ受け止めてひたすらに仏の道を生きますよと 変化を考える。
AがBに変化したとしても、そこに「時間」を見出すことはできない。
Aに対する記憶がなければ、それをBと結びつけることはできない。
Aが¬Aに変化したとき、¬Aという記述には履歴としてのAが残っている。
なぜ、否定かといえば、基本的な情報単位であるbitを考えているからである。
もし、¬(¬A)がAならば、そこには1bit時間しかないということになる。
これは1bit空間でもあり、時間と空間に区別はなく、同じものである。 ¬(¬A)≠A
そうしなければ、われわれが考えるような時間にはならない。
A,¬A,¬(¬A),¬(¬(¬A))...
これが時間であり、空間の拡張を伴う。 ただし、これは、ひとつの時間線しかみていない。
空間も拡張されるのであれば、時空間の構造はもうすこし複雑になる。
矛盾とは、P∧¬P=TRUEであり、
P∧¬P=∅ とみなすとき、∅をTRUEとして捉えないと、時空間はうみだされない。
自然は矛盾でなければならない。 認知科学的には時間は「記憶」になる
現象的には時間計測装置(時計など)による経過の変化
では「時間」は実在するのか?
時間は少なくとも「物質」ではないので
「非物質的存在」ということになる(尚、実在と存在は違うことは言うまでもない)
全く違う
「実在」とは「物質によって構成されているもの」のこと
「存在」とはその人にとって「ある」と感じられるものごとのこと
だから「幻覚」をみたひとにとっては「幻覚」は「存在」していることになる 物質で構成されているもの、としてしまうと、
物質は実在か?という問いが...
と、たまたま「なぜ世界は存在しないのか」を借り出してきたのあった。
新しい実在論。 そういう定義なんだよ
意味としては
物質を構成する素粒子ははたして本当に最終のものなのかどうかは
また違う問題
眼の前から突然ビルがボンボン消えていくということは
実際問題として起こらない
そこらへんの
カテゴリーを混同して考えてしまう輩がオカルト系や中2系にいるが
勝手に話題のカテゴリーを変更拡大しているにすぎないから
彼らとは議論にすらならない
哲学や数学でいえば「集合」の概念が欠落している連中だねw なんか「実在」の意味が違うような。
少なくとも「物質」ではない。
それは素朴実在論。 マルクス・ガブリエルによる新しい実在論。
内容をざっとみたかぎりでは、おれからみても周回遅れのような気がする。
ネルソン・グッドマンの「世界制作の方法」のほうがよい。
それを、単に、現代(哲学)風に焼き直しただけという感じがしなくもない。
時間は実在する。そのほうがおもしろい。今、実在論が熱い。 数には大きさがない。
大きさがない数は無限に集めても大きさがない。
時間非在論の出発点。
素朴そのもの。w この単純素朴な論拠を否定すれば良いだけ。
出来るものならやってみてください。 数には大きさがない。
そんな話は聞いたことがない。
0ですら大きさがある。
ここは異次元とつながっているのか。 頼みますから、少しでも何かお読みになってください。
お願いします。 大きさがない数で大きさを表す矛盾。
そこに気がつけば、知の探究が始まる。 それで理解するからそれが自然に存在するという理解を否定したのが科学革命。 >>974
全く矛盾ではない
記号とはそういうものだ
「青」は青くはない
「3」は一文字だ
数には大きさがない
3にも大きさはない
何の問題もない >>667
時間の非在を出発点にするために
数に大きさがないと都合がいいだけで
その単純素朴なただの意見を論拠と言われても
論がない。
出来るものならやってみてください?
やらせたいなら、少なくとも文字数ぎりぎりまで使って
時間とはなにかを論で示すことですね。
話はそれからかなぁ 当人の時間考の中では知識のつもりなんだろうけど、数には大きさがない?それなんの思考実験ですかってだけだしな >>675
科学的に、それで理解するからそれが自然に存在すると言う理解を否定したのが科学革命でございますと公表された論文はあるの?
単純素朴に、君はそういう見解を持ってますっていう主観的主張じゃ根拠にならないよ。 数の話かとおもえば記号に大きさが無いという話。
それは数の問題ではないし。
情報としては、最低でも、1bitあたり(1?)プランク単位の領域(大きさ)が必要になります。
記号であっても、情報であるかぎり、大きさは必要なのです。 それに、時間「非在論」というものもない。
すでに存在しているのだから。
存在と実在を混同している。へたすると実存とすら混同しているのではないだろうか? 時間はもっと自由なはずだ
何で、そんな補助器具を付けた? 時間の非在を出発点にするために
数に大きさがないと都合がいいだけで
その単純素朴なただの意見を論拠と言われても
論がない。
出来るものならやってみてください?
やらせたいなら、少なくとも文字数ぎりぎりまで使って
時間とはなにかを論で示すことですね。
話はそれからかなぁ 繰り返し過去スレでやってるから古参は飽きた。
それより某すれのやってくれ。
面白いがもやもやする。
理解するつもりがないのは相手にしても。
アリスでわかれ。 >>668
客観的にいって5ちゃんでやってみてもらおうと思う程度の内容なんだし
小出しに、ごにょごにょ言っててもスレちだし
時間とは何か理路整然と論にしてから書き込んだほうがいいですよ。 数に大きさが無いと時間が非在?
時間は数であるって事なのかな?
アホ過ぎるな。 教えてあげたいけど 馬鹿げてるから 信じないから教えない >>687
馬鹿げてても、客観的な根拠があれば聞いてあげたい 時間があるかぎり、空間も拡張されている。
時空間は成長する。
その成長点にあるからこそ「時間」がある。
とりあえず、ブラックホール(または重力)はあとからはめ込もう。
成長点は矛盾が無矛盾をうみだし、無矛盾が矛盾をうみだす。
外延性公理と内包性公理が対称でなくてはならないとこうことだと考える。
まさしく「ラッセルのパラドクス」が成長点そのものであろう。
「空」を考え始めたのは「外延性公理」と、ZFCの体系には含まれない「内包性公理」からである。
「集合」と「クラス」の狭間。
某氏はラッセルのパラドクスに取り組んでいるそうだが、こちらはラッセルのパラドクスが出発点である。
両側からほりすすめたトンネルが接続されるかどうかさだかではないw
遺伝的ネットワーク上で、場の生成点/消失点から発生するタイム・ウェイブが時空間の正体かもしれない。
それって、いわゆる「力」であって、たしかに「時空間の正体」でもある。
共変的量子場におけるスピンネットワークの組み替えの伝播。 話すと言う行為
あら、らぁ。皆さんやってますね。
実は時間の意味がわかりました。つまり説明出来る様になりました。その説明は異教徒にも聴かせられる説明です。
ただ、どれ程の人がなるほどと思うかは分かりません。さらに、その時間の説明は、それをいわば第三者である、他者に話すべきものなのか、話して良いのか、話せるのか(可能)、分かりません。
話し手と他者との関係性に置いては、そして話の内容によっては、話せない。話す行為がある危険を伴うと言う事態はあり得ます。
意味とは(意味そのものが)実存的な在り方を、しているからです。
意味そのものが実存的にあると言う事情は、だれかれの実存とは別に意味だけが流通して、その意味だけで実存的な事態だという事情を指しています。 集まりは「集合」である。
しかし、すべての「集合」の「集合」はつくることができない。
「集まり」のようで集まりではない(真の)「クラス」というものがある。
「ある」などといってしまうと間違いになる。「考えることができる」という程度でよいだろう。
そこに「うっかり」が発生するw
「ある」わけでもないものを「うっかり」と「ある」にしてしまうのである。
それは「存在」ではなく「実在」である。
「実在」は「うっかり」によって「存在」している。
結論:「実在」とは「ラッセルのパラドクス」そのものである。
きわめて暴力的で危険なので信じないように。 >>691
語ってはならないのである。湯殿山にいけば、なぜ語られないのかがわかる。
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」松尾芭蕉 物理学では時間を数学の変数として扱う
時間そのものはそれ以外に表現する方法がないだろうな
それ以外に自分にとって時間についてのイメージや感情はどんなものかを文学的に表現することは可能だし
詩的に語り合うこともよいと思う >>695
それらを散々25までやり続けてもこのザマなのが、5ちゃんねるクオリティーの限界なのだ なにかモノがあり、とりあえず時空間も無いとする。
モノは点でよいだろう。
点しかない。ゆえに座標も無い。位置すら持たない点。
その点に「時間」だけを持たせるとしたら。
ふと、
そんなことを考えてみた。
最低限に必要なもの。とりあえず寝ながら考えてみる。
そもそも、位置すらも持たない点でも「点」と語られる以上、最初から持っているものがある...
語られるだけのなんらかの性質を持っている。 |:::::::::::::::::::::::::::::
|" ̄ ゙゙̄`∩:::::::::::::
|,ノ ヽ, ヽ:::::::::::::::::
|● ● i'゙:::::::
| (_●_) ミ::::::::: さしこ
| ヽノ ノ::::::::: タイム・・・
{ヽ,__ ):::::::
| ヽ /,:::: >>700
美魔女のギャグとかけまして、
受験とときます。
その心は?
どちらも「滑り止め」が必要です。 つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 点以外なにもないとする。
点は「ある」。
点と語れるのだから自己同一性を持っている。
「存在」とは「自己同一性」である。
「時間」を持つためには、「履歴」必要となる。
自己同一性は「履歴」の一種であるとも考えられる。
自己同一性が「時間」であると考えた場合、過去と未来と「今」は同じものであって、とても時間と呼べるようなしろものではない。
それでもこれを時間と呼んでしまおう。
0時間、0型時間、点時間。(あるいは0空間、0型空間、0次元、点空間。時間と空間は同一である)。そんな感じか。
無秩序の海の中で自己同一性が維持されるなんらかの理由。それが問題だ。
うっかりとでてきてしまった自己同一性が無秩序の均衡を破る。
対称性の破れである。 ふふふ。ここでいう「うっかり」とは、
決定論的な偶然とでもいうか、そう「必然的偶然」である。
きわめて平衡的な極限状態に発生する。
だが、どうやってそこまでたどり着くのか、それが問題だ。
そのへんはとりあえず先送りする。
点が存在すれば反点も存在する。反自己同一性を持った反点。
いや、存在する、というのもおかしい、反存在。そんなものを考えてみる。 >>706
同意。本当邪魔で鬱陶しいフリーライダーだよな。
いつもここで書いている物理の人は頑張ってください。
ちゃんと読んでますから まだはじまっていないのにわからんといわれても困るのだ。
前提となる世界感の表明に過ぎない。
夢をみた。
箱に四角い小さな穴が開いており、その中に麻雀牌が積み重なっていた。
真ん中は牌がとられておりすり鉢状だった。
これは、上海の逆バージョンである。
上海とは、牌の積み重なった山から同じ牌を対消滅させていくというゲームだw
この、なんらかの逆バージョンが箱の中にあった。
上海は、うまく対消滅wさせないと手詰まりになる。
対生成・対消滅の中で、手詰まりが積み重なってわれわれの世界がある。
この手詰まりの構造を、以前は、パンドラ構造体と呼んでいた。
手詰まりというよりは、結び目理論のほうがてっとりばやいのではないか、と考えたこともあった。
もし、このような手詰まりが積み重なるとしたら、その残骸はカラビ・ヤウ多様体となり、サンゴ礁型のブレーンワールドを作るのではないかとも考えた。
時間は、後戻りしない以上、このような手詰まりの一種ではないかと考えられる。 点が対生成によって発生したとすれば、2つあるはずだ。
われわれには片方しかみえていないのかもしれない。
対生成がもつれであるとすれば、対生成したという履歴をもっているはずだ。
この履歴こそがもつれかもしれない。
(一般的なもつれの概念とは異なるので要再考、もつれを作る原因?)
この履歴こそが、見えていないもう片方の反粒子なのかもしれない。
この線で量子計算ができないか検討中。
このみえていない反粒子が(量子)もつれを作るのかもしれない。 うむ。かもしれない、だけなので、
量子計算モデルがつくれるかどうか検討中。
時間は履歴であるという根拠がみいだせるか。 酒のみながらだらだらと考えた。
点の履歴を量子計算しようとして点を考えてみたら...
点が対生成で発生したのであれば「スピン」を持っている!
われわれが(おれだけか)点としかみていなかったものは、上向きスピンか下向きスピンのどちらかである。(上向きと下向きしかないとするw)
そうすると、スピンは「履歴」である。対生成したのだ、という「履歴」なのである。
時空間は「スピン」という「履歴」によってつくられる。 君たち、『ループ量子重力理論』はやらんかね?
ループ量子重力理論はスピンネットワークという数学的構造から時空が生まれるとする概念
http://kamusabia.com/loopryoshijuryokuriron-spinnetwork-sugakutekikozo-jiku-gainen/
量子重力理論の中の1つの有力な仮説とされている「ループ量子重力理論」では、
「スピンネットワーク」と呼ばれる数学的な構造を想定することにより、
時空という概念そのものが消滅してしまうようです。
ループ量子重力理論の元になっているのは、「ループ(輪)」と呼ばれるものであり、
ループ状のエネルギーの塊を基本的な量として重力を扱います。
ループ量子重力理論は、ループ状のエネルギーの塊が時空の「原子」であると考えて、
時空を不連続なものとして扱う理論であり、極微の空間の量子状態は
「スピンネットワーク」(不連続な時空)という図で表現しています。
「スピンネットワーク」が生み出すデジタルで格子状の時空という概念
ループ量子重力理論では、理論の始めに時空を仮定せず、仮定するのは「スピン」という
量子論的な属性のつながり、すなわち「ネットワーク」という数学的な構造だけだといいます。
そして、そこから二次的に時空という概念が派生してくるようです。 これは何度も言ってることだけど、科学云々じゃなくて、
時間というのは「今」しか無いわけだよな。
それはどんなバカでも分かるわけだ。
それで、この世界(空間)が存在しない、ということの説明だけど、
「存在」というのは、時間の幅で成立するものなわけだよね。
たとえば、流れ星は一瞬だが、1秒なら1秒の継続(時間の幅)で、
存在が成立するわけだ。
では、「継続」とはどういうことか、ということを考えた場合、
それは過去から現在へと続く認知ということになる。
つまり記憶とか、もっと無意識で深いところで言えば、カルマだ。
たとえば記憶喪失の人は、自分が誰だったかという記憶は失っているが、
「私」と「あなた」というレベルの記憶は失っていない。
それが俗にいう相対分別というもので、「思考」というもので、
もっというとカルマだ。
思考は過去を継続させ、存在を成立させる。
思考は「時間の幅」を作り出す。
この「時間の幅の世界」が、我々の、常日頃から見ている世界だ。
この世界が今しかないという時の「今」というのは、0.1秒でもない、
0秒の世界だ。
0.1秒でもあれば、思考が働き、存在を成立させることが出来る。
しかし、0秒の今しかない、ということであれば、
いかなるものも継続出来ない。
これが仏教でいう、諸行無常(一定の物が0.1秒も継続しない)ということであり、
諸法無我(思考 [時間の幅] で作られた存在は、幻想である[空] ) ということだ。 継続している世界を、断片的に認識してるだけだよ。
継続は認知?認知された物自体が継続してないとしたら、継続として認知できないよ。 >>724
>認知された物自体が継続してないとしたら
認知された時点で継続しているってことなんだよ。
前で言った通り、たとえ1秒の流れ星だったとしても、「あっ! 流れ星だ!」と認知する時は、
時間の幅が生じているわけだ。
つまり、「継続」が生じているってこと。
0秒だったら認知出来ない。
なので、「認知された物自体が継続してない」、という言葉は、
矛盾した言葉ということになる。
>断片的に認識してるだけだよ。
これもそうで、もし「断片的な認識」の断片というのが、0秒以上の時間の幅を持っているとするならば
それは真実の「今」という世界ではなくて、思考によって作られた「断片」ということになる。
もし「断片」が0秒ということであれば、断片同士を組み立てる
「継続」ということは成立しない。
認識ということで言えば、「ただ在る」という意識だけの状態はあるかもしれない。
今をただ見つめるという意識で、今を見つめるということは、
時間の幅を必要としない。
これは「認識」の「識」の部分であって、「認」というのは時間の幅を必要とする。
なぜなら「認」は「存在」を前提としているからだ。
そして「存在」は時間の幅がないと成立しないからだ。 >>725 追記
>もし「断片」が0秒ということであれば、断片同士を組み立てる
>「継続」ということは成立しない。
断片同士の組み立てを成立させるために、説一切有部は、断片に1/75秒(一刹那)という
時間の幅を設けたわけだ。
しかし・・・
「唯識教学の開祖である龍樹は、刹那に具体的な時間的長さを設定する思想を否定している。」wiki
つまり、龍樹は刹那(=今)は0秒だと言ってるわけだ。 点は空間ではないので誤った仮説だと思う。点から空間は生まれない。
最初を問うから人は絶望的になるんじゃないかな。あるものはあるとしか言えない。
時間の前後の問題じゃない。 点は空間ではないので誤った仮説だと思う。点から空間は生まれない。
最初を問うから人は絶望的になるんじゃないかな。あるものはあるとしか言えない。
時間の前後の問題じゃない。 >>727
点は空間だよ。
「今」というのは「点」でもない。
0(ゼロ)だよ。 >>733
そうだよ、空間じゃない。
「今」という0秒の世界では、空間は存在出来ない。
空間もまた、思考の産物と言える。 自身の体は空間に実在していますが存在しません キリッ!! >>736
意識的時間とはなにか
身体的時間とはなにか 反復する現象の観察から推定されて、単位として用いられる曲率円の円周長 ごめん書き損じた
0秒に限りなく近づく時間
であって、決して0では無い何か 水面という空間に何者かが小石を投げて発生した波紋という空間の振動が観測できる間が時間 >>735
>>745
説一切有部はどうしても、この世界に実体が無いということが信じられなかった。
だから最後まで、ダルマ(法)というものにしがみついたんだよ。
何はなくても、ダルマという実体があるとした。
そして、ダルマを存在させるために、1/75秒という時間を必要としたんだよ。
お釈迦様の言うことを最後まで信じられなくて、いつまでも存在する何かにしがみついたということ。
ちょうどあなたがたや、一般の人みたいに。 >>748
時間とは何かの謎は哲学的に自由に思考するエンターテイメントみたいなもの >>749
まあそうだよね
俺の彼女は月に一度くらい変な臭いがするんだよ、何か沼くさい臭いがね
時々「こいつは実はスワンプ・ウーマンなんじゃ無いか?」と
思考実験に走る >>729
「点」は「空間」ではないよ
「点」の集積が「空間」を構成している
「点」そのものは「位置」であり
厚みも長さもない
ユークリッド幾何学の原論くらいは読んでから書け 確か和算の本に書いてあったんだけど
立体と立体が交わるところに平面が生じ
平面と平面が交わるところに線が生じ
線と線の交わる所に点が生じる
確か和算の本だ >>753
非常に自分が矛盾していることを言っているのに、
気付かないか?
点が空間でなかったら、ゼロポイントを示すのだったら、
その集積が空間になるはずがない。
ゼロはいくら集積しても、ゼロだ。 >>753
原論読んだぞ。
おまえ、デタラメじゃん。
>ユークリッドの『原論(Elements)』は定義から始まる。
>その最初は「点とは部分のないもの」という点の定義である。
>無定義語の「部分」を使って、点は部分をもたないものとして定義されている。
>その点にサイズがあれば、その半分のサイズが考えられ、それは元のものの部分であることから、
>点には部分があることになり、これは定義に反する。
>それゆえ、点にはサイズがないことになる。
>つまり、ユークリッド幾何学は「サイズのない点から始まる幾何学」、
>「サイズのない点からなる幾何学」、つまり、「大きさをもたない
>点の幾何学」である。
>点から始まり、点を集めて線が、線を集めて面が、さらにはそこから色々な
>図形がつくられることになる。
>すなわち、あらゆる図形の出発点にあるのがサイズのない点なのである。
http://huukyou.hatenablog.com/entry/2015/10/16/073921 >>756
君は縦読みでもしたのか?w
>>それゆえ、点にはサイズがないことになる。
「点にはサイズない」とちゃんとあるよね
サイズのない点が集積して〈集合〉が〈線〉や〈面〉や〈空間〉となる
幾何学における基礎の基礎だぞ
だから〈空間〉とは「囲われた内部」であって
なにかで満たされた何かをさすわけではない
点を2点結べば〈線(長さ)〉となり
点を3点結べば〈面〉にすることができ
点を4点結べば〈空間〉を構成することができる 続き
そして〈点(位置)〉を連鎖していくということによって
〈線〉や〈面〉や〈空間〉というものを構成することができるとも考えられている
これは微積分の概念を導入することでも証明される 「数学」はすべて概念上のことだよ
というよりも
人間が考えること
そしてそれを言語や数式で表す行為はすべて「概念」にほかならない >>761
いやそういう「意味」から逃れられないんだよ
人間の思考や認識というのは絶対に
「概念」なくして人間はなにも考えられない >>757
基本的にユークリッド幾何学の定義は間違ってると
言わざる負えない。
もし点にサイズが無かったら、「場」を取ることが出来ない。
つまり、「点」は置けない。
「点」が置けるということは、「場」がある・・・ つまり、サイズがあるということになる。
「場」のないものがいくら連続しても、0(ゼロ)だよ。
おそらく、ユークリッド幾何学では、点と点を結んで線(空間)ができるという発想だろう。
もし、おまえの言うように、「点の連続で線ができる」とするならば、それはユークリッド幾何学の完全な間違いだ。
定義の段階で崩壊している。
ユークリッド幾何学の定義を調べたところ、「点の連続が線」、というような定義や説明は載ってないよな?
おそらく、定義の基本もわからない人が、勝手に点が連続するものだと
思いこんだんだろ。 >>763
定義:「直線とは、その上にある点について、一様に横たわる線である。」
「点に横たわる線」と書いてあるのであって、「点の連続が線を構成する」とは書いていない。
そして、点とは線が生じることによって、初めて意味を持ってくるもので、
線(空間)が生じなければ、点はゼロのままだ。
点は単独で存在することは出来ない。
例: 定義「線の端は点である。」
それで、時間で言えば今(点)はゼロだ。 幅を持たない。
しかし、おまえの言うように、今(点)の連続が時間の幅を作るというのであれば、
その今(点)にはわずかでも、時間の幅(空間)があるということだ。
だから、おまえの説明や、その他同じような説明(点に幅があるような説明)をしているものは、
ユークリッド幾何学の正しい説明ではない。
ユークリッド幾何学を、より正しい説明をするために修正するとしたら、
まず、「点というものは存在(空間)である」ということ。
なので本来、「点は存在しない。」
しかし、線が生じることによって、そのポイントである点が
意味を持ってくるということ。
たとえば、過去から未来の時間の流れの中で、「今」という「時」は存在しないわけだ。
もし「今」が認定されれば、それはどんなに極小でも、幅を持っているということになる。
幅を持たなければ認識、認定できない。 ゼロだからだ。
しかし、最初から、「過去から未来」という空間を作れば、つまり、「線」(空間)があるならば、
そのポイントとしての「点」は仮定できる。 >>763
だから〈点〉の連続というのは幾何学からの考え方ではない
「集合」と「微積分」による3次元空間の考え方
「x 」「y」「 z」軸上の点をそれぞれ結べば三次元空間となる
そして「空間」というのは「囲われた内部」のことだから
粒子のようなもので満たされている必要はない
「完全な真空」というものが人工的にできたとしてもそこには
「真空の空間」があるということになる
ちなみに空間の定義については「数学」においてはかなり緩いことしか
定義していない
物理学の方がそうした定義をちゃんとしている
ただし空間に限らずすべては人間が考えて決めた概念だから
「0.9999…=1」のように視点を変えることで違うことを説明している場合もある 空間を作る場合の「思考実験」と
人間による「空間認知」として空間には違いがある
往々にして大部分の疑問というのは
我々の現実における感覚知覚認知現象と
思考実験のあいだの違いを混同することよって生じているケースが多い 厳密な直線などない。簡略化すると世界をゆがめてしまうだろう
。 厳密な直線などない。簡略化すると世界をゆがめてしまうだろう
。 厳密な直線などない。簡略化すると世界をゆがめてしまうだろう
。 >>766
それもひとつの考え方でしょ
『空間について』っていうような内容の論文なんて
物凄く沢山あるぞ
今でも色々な考え方の論文が出てくるくらいだからさ
まあ極論すれば「空間なんてない」なんていう考え方をする学者もいるぜ
現代数学だって細部だとかなり個人の見解が違うんだよ >>773
「時間とは何か、空間とは何か 数学者・物理学者・哲学者が語る」岩波書店 ペンローズ他著
たしかに上のような本も出ているからそれはそうでしょう
しかし色々と定義できるならばこちらの説明がまずいということは言い切れないでしょう
少なくとも「空間」なんだからそこにはなにかある必要はない
囲われた内部としてのスペースがあれば「空間」と呼べるはずで間違ってはいない >>774
間違っているとか誰も言ってないしw
そういう考え方もあるだろうさね
その本は読んだことないけど
数学と物理学とだってかなり違う考え方するのは事実じゃん
時間も空間もまだ誰も最終的な説明には至ってないっていうことさ
その色々ある説明の中のひとつとしてアンタの説明もよくある類だと思うよ
よくある類だからそれも説明としてアリっていう意味ね
でも他の説明だってある ええっと、おれの打ち込んだ「点」だが、「点」の議論が活発なので、そのじゃまはしない。
とりあえず思考実験を続ける。
位置すら持たない点を考えて、それが対生成で生成されるとすれば、
点は「スピン」を持つ。「上向き」か「下向き」(上とか下にたいした意味はない)。
2つ生成されるはずだが、思考者(観測者)としてのわれわれにはひとつしかみえない。
そのひとつの点は履歴としてのスピンを持つ。
ここで重要なのは、「対生成」によって生成された「点」は、1ビット(時)空間という大きさを持つということだ。
「点」の「向き」は、いまだ観測者がいないために不明である。
量子状態にあると考えるのがベターであろう。
ψ=α|↑>+β|↓> であらわされる。
観測されない時点(といってもいまだ時間はない)での、点の波動方程式である。
しかし、点に対して反点も生成されているはずだ。それはどこにいるのか? 現実の空間はそんな単純なものではない。質量によって歪んだり、電磁波や重力波を伝えたりする。
ユークリッド幾何学の定義とは似ても似つかないね。 >>766
だから、点の連続が空間が出来るというのは、具体的に集合と微分積分の
どういう考え方なの?
そこを説明しない限り、きちんと説明したことにはならないよ。
ただ漠然と微分積分の考えだ、で済ませてりゃ、
それは中身の無い受け売りだ。
たとえば、直線状に10個の区切りがあるとする。
1〜10まで番号がふってあるとする。
1を点と捉えれば、1が10個集まったのがその直線だ。
1㎤を一つの点と捉えれば、それの集積によって空間を作ることが出来る。
いずれも、ユークリッド幾何学でいう、「点にはサイズない」という定義から外れる。
点を空間として捉えるなら、集積は可能。
点が空間ではないとするならば、0ゼロ故に集積は不可能。
それはたとえ微分積分だろうが、集合だろうが、同じだ。
ユークリッド幾何学のときは点は空間ではないと言いながら、
微分積分では、都合よく、点を空間として扱ってる・・・
もし、微分積分や集合で、点に幅はない、とするならば、
その説明をきっちりしないといけない。 >>776
この場合のスペースとは、存在の背後にあるスペース全体のことを言っている。
たとえば、部屋の半分がゴミで埋まっている・・・
もう半分は空で、スペースがある・・・ という対比ではなくて、
ゴミで埋まってるということは、そこにスペースがあるからだよね。
スペースがない所に、物は存在出来ない。
空の部分であろうが、物が詰まっていようが、そこに立体的な
空間があるということになる。
ここでいう、「空間が無い」というのは、物が詰まって隙間がない、ということではなくて、
そもそも立体的な世界がないということ。 >>779
〈点〉が位置を表す記号であって
実質としての〈物〉ではないのは明々白々でしょう
数学でいう〈点〉はあくまでも思考実験内としての「存在」
そうした仮想について何故を問うても仕方のないこと
そういうルールとして決められているわけだからですよ
ある〈点A〉とある〈点B〉の間の距離は無限に刻むことが可能
その無限というのは「無限小」の考え方においてでの無限
この場合ある〈点(位置)〉を沢山ある〈点〉の中のひとつとして考える
すると〈線(長さ)〉が無限に分割できると考えた際にそれらの無限分割した〈線〉の中にも
無限の〈点〉としての位置が存在し得る
しかしこれを実際に現実の物理世界で実証することは不可能だが
思考実験内世界においてならば〈点〉は「位置を表す記号」として仮想できる
だからこそ様々な現象の思考実験が可能であるわけ
無限の〈点(位置)〉の集積が〈線〉になるというのは思考実験では可能なのはいうまでもない
そしてその逆も可なり
ならば実際の物質で囲わなくとも
位置を特定すれば〈空間〉に発展させることができるのもまた可なり
極めて単純な理屈で中学生レベルの数学 時間とは何かを架空の形式概念(ストーリー)で構造化した数学時間て、哲学とは違う分野の問題なんで数板にお持ち帰りください >>781が言っていることが、数学的に王道というか普通のこと。
それに反論しているのは、数学音痴かつ哲学的にも音痴かな。
プラトン引くまでもなく、数学的実在論とイデアは通底しているので、
点に物理量がないと、その拡張において矛盾するということはない。 数理物理学は、物理法則を数理的に解析した結果、より根源的な法則を見出す事に成功したのだ。
形而上学であり、元々物理法則が含まれていないユークリッド幾何学から、現実の物理法則が導かれる訳がない。 >>781
いや、おかしいでしょう。
>数学でいう〈点〉はあくまでも思考実験内としての「存在」
>〈点〉が位置を表す記号であって、実質としての〈物〉ではない
つまり、ユークリッド幾何学の定義で言う通り、「点は幅、空間を持たない」 ってことだよね。
つまりは0ゼロ、ということだ。
そして、「数学的に点は[位置]」、というならば、それは前にも言った通り、
線、空間が生まれた時に初めて、「位置」を決められることになる。
「位置」は単独で存在することは不可能。
なぜなら、「〈点〉が位置を表す記号であって、実質としての〈物〉ではない」
(空間、幅を持たない)からだ。
また、あんたの言ってることがおかしいのは、「線を無限に分割できるポイント」を決めることが出来ても、
それはあくまで「位置」であって、「位置」の集積で「線(空間)」は出来ない。
「位置」はあくまで目印であって、「線」を構成する何ものでもない。
「線」を構成するものは、必ずどんな極小でも、長さを生じる。
ゼロポイントとしての目印ならば話は別だ。
「実際に物(線を構成する何ものか)」ではなくて、仮想としての位置だ。
あんたはいつも最後に恣意的に話を結論付けてる。
線を無限に分割できる「点」というところまではいい。
ユークリッド幾何学の話でも、「点」が空間ではない、というところまではいい。
しかしなぜ、その「点が集積したものが線だ」、と言い張るのだろうか・・・?
おそらく、どんな数学の理論を探しても、「点の集積が線になる」。という説明はないはずだ。
それはあんたの勝手な想像だからだ。
構成要件ではない、単なる仮想(目印)としての点が、その集積によって実際の
「線」を構成することはない。
それはユークリッド幾何学の定義でも、「点上に横たわる線」ということで表現されている。
線の中に点という実体があるわけじゃない。 「〈点〉が位置を表す記号であって、実質としての〈物〉ではない 」
と言いながら、一方で、「点の連続が線を構成する」 と言っている。
これは明かに矛盾してるよね。
数学上で線を引くときは、その「線」は、存在物ということになるんだよ。
たとえ数学上の計算でもだ。
計算上、そういう曲線、直線、空間が「存在する」わけだ。
それを仮想上の存在、計算上の存在、としてもだ、
それは計算上、0ぜロではない。
計算上の「存在」だ。
どうもここのところと、実際の「物質」というのを混同しているような気がするね。
これを混同するのは、数学の在り方というものを
洞察出来てないレベルだよ。
仮想上の存在としての「線」が引かれている・・・
そこに目印としての「点」で、分割した・・・・
この「点」は、「仮想上の線」という「存在」に対して、
仮に置かれたポイント(目印)だ。
この目印は、仮想上の「線」という「存在」を、一切構成していない。
なので、目印の集積が、仮想上の「線」を
作るということは一切ない。
数学計算上の仮想の存在でも、実際の物体としての存在でも、
まったく同様に論理づけることが出来る。
理は同じだ。
仮想だからどうのこうの、実際だからどうのこうの、
ということはない。
存在の定義はすべて同じだ。 線上には無数の点が見出される。
だから線は無数の点の集まりかというと、そうではなく、特定の方向に並ぶ必要がある。
線とはこの特定の方向とであり、単にそこに無数の点が見出されるだけの事だ。
ユークリッド幾何学の定義はインチキ。 >線の中に点という実体があるわけじゃない
だから、線の中に点という非実体を仮構して、その連続量の連なりや点列で
線という非実体を数学上で仮構しても、別に矛盾も問題も発生しないよ。
現実でも同じ。パソコン上で線を引いて見ればわかる。点の集積が線として
表示されている。その線にはミクロな間隙があるけど、私たちはそれを線と
して十分認識できる。
点のように位置だけを持ち、その大きさを持たない存在は仮構できる。
ベクトルで0ベクトルだと、大きさを持たないベクトルのこととして表現される。
つまり、点が零ベクトルになる。あと、ベクトルでは大きさは問題にするけど、
その位置は問題にしないよ。 つまり、世界は0ベクトルの集積であると?
実に数学的だね。 >>789
反論としては非常に弱い。
>連続量の連なりや点列で線という非実体を数学上で仮構
点列で「線」が引けるということは、「点」に幅があるということだよね。
もし、数学的にその「点」を仮構するならば、どのくらいの幅を持った「点」なのか、
正確に仮構しなければならない。
1cmの線は、一体幾つの「点」で構成されるのか・・・
点の幅を決めなければ、正確な計算が出来ないよね。
もし、点は任意に決めることが出来て、一定していないということであれば、
それは数学としては不可解ということになる。
数学上重要な「線」の長さを構成しているわけだから、当然、点の幅も
正確に割り出さないといけない。
こういうように、点の連続が線を構成する・・・、というようなこを言うと、
数々の矛盾が起きるんだよ。
ユークリッド幾何学ではそのことを承知していて、点はあくまで幅を持たない
目印として扱われてる。
これを線を構成している一つの部分として、点を想定すると、
長さ(幅)が生じることになる。
長さが生じているうちは、点として存在出来ない。
なぜなら、A〜Bまでの長さのうち、どの部分をポイントとしての点と捉えているか
分からなくなるからだ。
ふたたびポイントを決めても、またそのポイントに線を構成する幅があるというなら、
またそこで、「点が定まらない」という事態が生じる。
これが無限に繰り返されるわけだ。 >>789
パソコンの点というのはドットってことだよね?
ドットにも幅があるわけだ。
幅があれば点は定まらない。
ユークリッド幾何学では、点に部分はない、と、明確に定義されている。
部分があると、明確な意味で点にはならないからだ。
たとえば、「今」という「時」があるとする。
そして、これが連なることによって、時間の経過が成立しているとする・・・
つまり、「今」という点が、時間の直線を構成しているわけだ。
仮に説一切有部のように、その点を1/75秒という幅にしよう。
それが連なることによって時間の経過が起こるわけだが、もし0秒だったら、
いくら連なっても時間の経過は怒らない。
点が線を構成できるほどに幅を持つ・・・
この場合は、1/75秒間という幅を持ったとする。
そうすると、その1/75秒間の間でも、時間の経過が起こるわけだ。
過去から未来への時間の流れ(直線)が生じている。
これでは正確に「今」が定まっていない状態だ。
仮に1/75秒の間に「今」を定めたとしても、その「今」が、また直線を構成する幅を持っているというのなら、
また時間の流れの直線が生じ、また「今」が定まらなくなる。
そうして無限ループになるわけだ。
「点」と言いながら「間隔(幅)」を設けるということは、
それ自体が大きく矛盾している。 >>791
だから、>>789では点だけでなく、線も数学的な仮構で実体はないと述べているでしょ。なぜなら、線の定義、「幅を持たない長さが線である」なんてものが、
そもそもこの世にはその対応物が存在しない概念的なイデアだから。
だから、そうした仮構としての非実体の線が大きさを持たない非実体の点で仮構、
構成出来ても矛盾しない。論理式では、否定の否定は、二重否定の除去となって、
肯定になるよ。
それと同じ論理で、矛盾1点と矛盾2線で理論を構成しているのだから、
その概念上の数学の仮想下ではそれらは整合している、ということになる。 あと、ユークリッド幾何は現実の物理に対応していないと述べているものがいるけど、
現実の物理に対応させるために数学が作られた訳でないので、それにも何の問題もない。
物理は必要に応じて数学の知見を借りているだけだし。だからユークリッド幾何で
間に合わない世界の記述には、その拡張や派生系としての非ユークリッド幾何、
位相幾何学などを用いれば、量子的な世界の記述にも利用できるだろう。 >>792の論理を簡単に説明すると、パソコンに書いた線はドットで構成されていて、
またそれを拡大して厳密に見れば、間隙だらけのスカスカなので、それは線じゃない!と
主張しているのと同じこと。
ただ、普通の人や数学の側では、それを空隙のある点の連なりを線とみなしても問題ないとし、
矛盾もないと考えているということだよ。なぜなら、数学は概念上、あるいは
公理のもとで整合し矛盾がなければいいだけなのでね。それを現実に写像的に投射して
も同じこと。点の間に空隙のあるパソコンで書いた線は、線とみなせる。
それは線じゃない、と主張する方が異常に見える。まあ、少々哲学的かもしれないけどw >>793
>だから、>>789では点だけでなく、線も数学的な仮構で実体はないと述べているでしょ。なぜなら、線の定義、「幅を持たない長さが線である」なんてものが、
>そもそもこの世にはその対応物が存在しない概念的なイデアだから。
いや、そこがおかしいんだよ。
「実体がない」んじゃなくて、数学上において、「実体がある」んだよ
「数学上の線」として。
なぜここがわからないのかな・・・・。
世の中に物質として実際に「線」があるわけじゃない。
そんなの当たり前だ。 数学上の計算で線を引くわけだ。 点も同じ。
その数学上の計算で、点を定めたとする・・・
その計算上の点に、「点が連なれば線になる」 などという理論は、数学のどこを探しても
存在しないということ。
ユークリッド幾何学に「そういうことはない」と書かれているのは、
何もユークリッド幾何学だけの定義じゃなくて、
数学としての基本の定義だよ。
ユークリッド幾何学では、点の定義をハッキリさせておかなければ学問上支障が出るので、
あえて、その部分を明確にしようとしたんだろ。
もし、「点が連なって線になっている」というのならば、そういう
数学上の定義をここで紹介してくれ。
おそらく、俺の考えではそのような定義は、数学には存在しない。
それは素人の勝手な推論のレベルだ。
仮構だからなんでも勝手に作っていいってもんじゃない。
勝手に点に幅を持たせたり、勝手に自分の都合のいいように定義をしてはいけない。
仮構としての線は計算上成り立っている。
実際にないものだからといって、法則や計算に則らず、
線を引いていいってことじゃない。 それは点も同じだ。 (1) 点はゼロではない
※数学は論理であり、文法も正しく使わなくては成り立ちません。
点はゼロではありません。点は何かというと、実は定義はされて
いません。点は言い換えれば何でも構いません。
ただし、明らかなことは点が複数(2個以上)有った場合には、
点それぞれは決して(数の)ゼロ"0"ではありません。数の集合において
ゼロ"0"はユニークなものです。
複数の点を要素とする集合とユニークなものゼロ"0"を対応させることは
点の定義としては無意味です。属性として数を対応させることは可能です。
例えば、「点の長さ」とか「点の面積」という属性に対してある量、
つまり数を対応させることは可能です。
その場合でも数学では勝手に定義して構いません。点Aと点Bに量的差異が
見いだせなければ、それぞれに「点の長さ」=0とか「点の長さ」=1と決める
ことができます。 >>795
いや、そうじゃないって・・・。
パソコンに線があるのを、「拡大したら隙間があるから線じゃない」、
なんて言ってないよ。
しかし、誰かが、「線には隙間があるんだよ。」と、
定義したらまた話は別だ。
そういう定義だったら、「線には隙間はない」、と反論するかもしれない。
今問題なのは、「点が連続して線になる」と、勝手に定義されて
しまっているということ。
そのたとえで、ドットを点としてみなしているわけだ。
数学上の線は仮構されたものだと言いながら、パソコン上の実際の線はドットという点によって
成り立っているというわけだ。
今度はこっちが「仮構だろ?」と言いたいよ。
たとえば数学上の計算で、パソコン上に引かれた線は、
仮構による線だ。
たとえドットがあっても、隙間があっても、仮構では
点の連続ではない直線だ。
それをパソコン上でもドットが線を構成しているから、数学上の線も点の連続ということが出来るというのは、
奇怪至極だよね・・・。 >>797の続き
数学の分野には色々あって、点や線も意味合いが違います。
それではこの限られた場において説明も理解もし難いので、
中学や高校の範囲で回答します。
中学や高校において点や線はユークリッド空間の前提で扱います。
数直線は1次元ユークリッド空間です。
数直線上には無限個の点があります。
各点にはそれぞれ固有の属性を持っています。それは「位置」という属性です。
数直線において「位置(座標)」=0(ゼロ)である点は原点O(オー)1個だけです。
例えば、別の点Aの「位置(座標)」=-1、また別の点Bの
「位置(座標)」=1と固有の値を持っています。
さて線分の長さは次のように定義されます。
線分の長さ = 左の端点「位置(座標)」 - 右の端点「位置
(座標)」 の絶対値すると
線分ABの長さ = 点Aの「位置(座標)」 - 「位置(座標)」
の絶対値 = |-1-1| = |-2| = 2
つまり、点の属性である座標(位置)を表す数値から
線の属性である長さが定義される。 線が点の集まりかというと当たらずも遠からずですね。
線は連続で途切れないものを言います。点は隣とくっついてないから点なんです。
実際に鉛筆で書いた線は点の集まりですね。
点は線ではありませんが、点がたくさん集まることで線と「見なす」事ができます。
逆に線も細かく切り分ける事で点と「見なす」事ができます。
この「見なす」というのが数学や理科の世界では重要になってきます。 >>797
そりゃ知恵袋で勝手に個人が言ってることだ。
人の受け売りをこういう所に張り付けてはいけない。
わかりやすく説明しようか?
前のレスで誰かが言ってたけど・・・、「線を無限に分割できる」って言ってたよね・・?
では、仮に「線」を「縄」に見立てて、薄さ0mmの包丁で無限に分割したとしよう。
そうすると、その縄は消えてなくなるか・・・?
切れば切るほど点が増えるわけだから、縄にとって代わって、
切り込みが縄を構成するはずだ。
だが、そんなおかしなことは起こらない。
何億回切断しようとも、(点をいくら増やそうが)、切れた縄を繋げたら、
また元の同じ長さだ。 >>799
の説明が一番分かりやすいだろう。点は位置の属性しか持たない、
すなわちそこに物理量を示す属性タグがないのにもかかわらず、
点を2個使って、線を構成できているでしょう。線には長さという物理量が伴っている。
つまり、反論してくる者が主張すのとは違って、物理量を伴わない点によって線を
矛盾なく数学では構成できるということ。 揺らいでいるからなあ。
不確定性原理はそういうことじゃない? >>801
点で構成されてはないということだよね?
なら面、立体も、か。 >>802
位置に物理量がないが物理として存在するということ? >>805
自己レス
面は線、立体は面を無数に作り出せるが・・・
ということかな? >>806
正確に言うと物理や物理量と言うよりも、数学の概念上にある大きさ。
つまり、位置の属性しか持たない点を使って、線という大きさを持つ
概念を構成できる。ベクトルもそうでしょ。座標平面上で位置Aを決めれば、
それと原点Oを結んでOAという向きと大きさを持ったベクトルを構成出来る。
そしてベクトルでは位置は関係ないので、そのベクトルOAをいくら平行移動しても、
そのベクトルは同じベクトルとみなされる。ただそのベクトルの座標を知りたい時に、それを原点Oの基準点との座標(位置ベクトル)で、そのベクトルの成分表示が
できる。
つまり、点でベクトルを構成できる。1点だけでベクトルを構成するのが
零ベクトル。集合の反射律、ループのようなもの。 >>810
数学の世界から、物理の世界に移せば物理の世界としては物理量はあるんじゃない。
スカラーや速度、加速度、力はベクトルで表せるから。もちろん幾何学的な
イメージも物理の世界では頻繁に使われる。 >>813
もやもやするなあ。
いまいち理解できない。 点の重要な部分は「位置がある」ということです。
面積はありませんが位置はあるのです。
点の位置を集めたものが線の位置になります。
線も面積はありません。
ですから点(の位置)の集まりが線(の位置)というのは
間違っていません。ただ、位置だけで面積がまったくないのでは
実際には目に見えなくてどこにあるのかわからないので
鉛筆などで若干の面積のある点や線を書くわけです。
「点」を間隔を開けて配置すると空間的な集合体として
広がりをもって見えますね?無限に間隔を縮めていけば、
広がりの度合いが連続的になってきます。その集合を「線」
と表現するのです。集合が2次元的になったら「面」と言われます。 俺にはあなたの説明がわからないが、それが
俺の理解力のせいかどうかもわからん。
もう少しいろいろ読んでみるかな。
解説ありがとう。 >>816
面積はないのに?
眠いので寝ますが、ここがネックかな。
では落ちます。 >>816
そんなようなもんだけど、点や線は空間でしょ
時間とは違わない?
そんなようなもので時間を表現したいのなら解るんだけど >>819
かわいそうに君の家には時計も置いてないんだね。
今度、お母さんに頼んで大きな時計を買ってもらうようにね。
そうすれば馬鹿な君でも、点と線と空間が時間とかかわることが分かるからね。
哲板なんだから、ベルクソンの時間の非空間・非定量的考察くらい知っときましょうね。 時計が発明される前は時間は無かったのか?
初耳だな。ベルクソンはどこでそんなことを言ってたんだ? オカシイな?
ベルクソンは時間は持続って言ってなかった?
点と線なの?
俺もベルクソンをそこまで読んでないんだけど、
どこに空間と時間の接点が点と線だって書いてあったの? 映写機が発明されたその第一号があたらしい暗室文明の興りなんでしょう
夜の世界とは違う世界ってか2次元の時空間 劇場ってゆー箱の中に椅子と観測者を並べて暗くして
白い平面に大きく投影するMC2
この場合のエネルギーは同期する心理作用なんだろうね
時代背景と共にいろんなスター達も次々に出てくるし 時間とはなにか点や線で解説しても実態解明はむりだろうねぇ ピタゴラスがスターだと思ってる信者さん達もいれば
いやビートルズでドラムを担当してたおかしなおかしな石器人がスターだろとか
その辺いろいろ説は解れますが スタート地点も情報量も性質も違うからね、万民が理解できて、哲学で覆せない時間とはなにか論が最強 >>777
点を色とすれば反点は背景かな
割合が多いほうが反点になり
反点と違うものは点として観測できる 位置すらもたない「点」を考える。
無秩序の海の中で、対生成によって「点」が発生するとすれば、
「点」は「スピン」を持ち、「点」と「反点」が生成される。
「点」は1ビットの情報を持つ。これは1ビットの時空間が生成されたということを意味する。
「反点」はどこにいったのか。おそらく、そこにあるのだろうが、どのように「ある」のかは考え中。
ここではじめて、「点」は1ビット時空間上で「スピンの方向」という「位置」を持っていたということがわかる。
この「位置」がいわゆる(1ビット時空間上での)「情報」である。
「情報」とは「情報(時)空間」上での「位置」のことだ、ということになる。
この点(=ビット)が過去にタイムトラベルするならば、対消滅する。
おそらく、この点が未来に行くとしても、ひとつの選択肢として対消滅がある。
対消滅以外の選択肢がなければ過去も未来もなく、対生成・対消滅を繰り返すだけになる。
この、「繰り返した」という「履歴」が残らなければ、そこに「時間」は無い。
未来の選択肢として対消滅があったとしても、「時間」があるのならばどこかに「履歴」が残るはずだ。
残ったとしても保存則がらみの問題がある。
ひとつのアイデアとして、時間の矢があればその反時間の矢もあると考えることもできる。
これなら相殺されるので保存則を維持できる。
「反時間」。それはどこにあるのか? >>833
点に対する反点は、点という位置が存在する1ビット(時)空間側かもしれない。
対生成によって粒子と空間が生成される。
反点側からみれば点は(時)空間である。
そう考えるならば波動方程式とは、図と地のどちらが図になるかという波動である。
エッシャー的な世界だ。
これで量子計算が可能ならば、ほぼ正解である。計算モデルがつくれるか考え中。 どうして、時間を空間で説明するんだ?
時間の語彙が足りないのか? 終わって初めて履歴が確定するなら時間とは履歴の閲覧だ 確かに盲目だったら閲覧できない
どこで情報を読み込むのか >>816
わかんないかなぁ〜
位置は、観察者が認知しているんだよ。
観察者無しに位置が存在するわけじゃない。
たとえば計算で2点を通過する曲線が描かれたとしても、
それは2点に横たわる線だ。
もちろん、必要に応じて点が生成されることがある。
だが、最初から、観察者無しの点が、線を形成していると考えるのは
非常にナンセンスだ。
観察者が5つの点を認知していれば、線下に存在するのは5つの点だけだ。
必要に応じて3つの点がプラスされたら、合計8個しか点は存在しない。
計算上、必要な点が存在しているだけだ。
たとえ1ミリの線でも、点は無限につけることができる。
0.00011、0.00012〜、という風にだ。
もしも水滴の落下する直線が、点の連続によって出来ていると考えるなら、
その水滴は永遠に落ちない。
たとえば水滴の落下する行程に、すべて点を打て、という問題が出てきたときに、
0の次の点すら、打つことが出来ないだろう。
なぜなら、0.0000000〜 で、どこが次の点か分からないからだ。
仮に0.0000001に次ぎの点を打ったとしたら、 0〜0.0000001の間の点の連続を
見逃していることになる。
点の連続で線が成り立っていると考えるのは、非常にナンセンス。
それは時間が点で進んでいると考えるのと同じだ。
そういう風に考えると、やがてその点としての時間の幅を
割り出さないといけなくなる。
線を構成している点の幅を割り出さないといけないのと同じだ。 数学実在論的には観察者も観測者も要らないらしいよ、天啓だから >>841
>観察者無しに位置が存在するわけじゃない。
位置だろうが💩だろうが
人間にとっての概念だろ
人間不在だったら数学だってない
すべて人間の存在が暗黙理に前提となっているじゃん
何かを語るときに
こうして別のカテゴリーに勝手に転換するのはアホな奴の特徴
かまってちゃんのレス乞食かよ???wwww 構ってチャンのレス乞食って言うほど不愉快なら構わなきゃいいのに 数学とか物理で人間を考える人は間違いいつか犯すよ
人間を改造するとか、そういう変質者になる あのね・・・ 哲学だろうが何だろうが、相手の論に利を説いて反論するのが
正しい議論というものだ。
相手の反論がどんなに稚拙なものでも、どんなに複雑なものでも、理を説かなけれ
自分の説の正しさを証明できない。
相手が低レベルであればあるほど、反論が難しくなる。
相手に合わせて反論すればするほど、余計なことを書かなくてはならなくなる。
ただ相手にバカだとか、そりゃダメだ、とか、
言うのは簡単だ。
ただし、そいつはなぜダメなのかという説明責任を放棄しているし、
それはイコール、自分が相手の話が理解できない、ということになる。
つまり、バカなのはそいつということだ。
あと、哲学と数学、という風に、切り離して考えるやつもアホだ。
哲学というものを全くわかっていない。
哲学で証明されたことは、数学でも証明されるのが望ましい。
これが結び付けられないようなヤツが、こういうスレに登場すると、
そいつは単なる荒らしと化す。
邪魔以外の何ものでもない。 >>848
お前はオウムとかあんなレベル
テロやって死刑になってお終いだろ どのスレも最後は同じ
こういうバカ >>849 が出てきて
スレをめちゃくちゃにする >>848
哲学で証明されたことなんて何があるんじゃろけ?
教えてけろ >>850
じゃあ、何で、どの哲学書も数学の証明で書いてないんだよ?
お前の言ってることはオカシイじゃねえかよ オカシイな
時間って、もっと、道徳的じゃなかったっけ?
ところで、人類に何を残したい訳よ
道徳的にしたいって話しなら聞いてやってもいいんだけど
数字にするなんて、ちょっと、ねえ?
お前には哲学する才能が無いんじゃないかと思うんだが
何するつもりなの?数学の式にして 数学で理解したら知的な理解になるの?
馬鹿にし出すまで、大人しく聞いてやってたけど
数学じゃあ、知的好奇心は満足しないよねえ?
おい、おっさん 数学に翻訳して、倍に増やしたら、何か良い事あんのかよ 数学が得意=数学の知識が豊富だから、数学の知恵で時空の解説してるだけなんじゃない。 アホだな〜
哲学というのは、洞察によって本質を探る
ということだろうが
それは数学でも物理でも同じだ
その根底には哲学があるわけだ
なんの論拠も無しに、ただバカにするやつ
こういうやつは本物のアホだ
バカにするにも論拠が必要なんだが、その論拠も説明できない
そういうやつがなぜこういうスレに現れるのか…
ここまで点の連続が線を形成しているという、マトモな論証は無し
論証できなかったわけだ
論証できないやつが突然、バカにし始めるというのはよくあること
論証できないやつの最後の手段だ
これで点は線を形成しないってことが確認されたから、今という時が積み重ねによって
時間を形成するという理屈が否定されたことになる
これについてもう邪魔するなよ
すでに結論が出たのだから 数学より先に時間の理解がなければ無理じゃない?
読みたいのは、記号とか数学の式じゃなくて、時間の理解のほうだからさ
時間の理解があれば、数式無くてもよくない? >>857
まあ、お前じゃあ、無理だろ。同じこと繰り返して、話が全然進まん。
直線とか、曲線とか、もっと、線でも色々あるだろ。
何をモタモタしてるんだ。
早く数学で時間を表現してみ給え。 >>859
おまえ、アホか?
話が進まないのがオレのせい・・?
バカか?
こっちは散々論証してんのに、いつまでも点が線になると言い続けてるやつがいるから、
話が進まないんだよな?
それはどんなバカが見てもわかるだろ。
こちらはそういうやつに合わせて丁寧に反証してる
だから、話が進まないと文句言うんなら、そういうヤツに言うべきだろ。
それをなぜかこっちに言う・・・
なぜならそのバカ張本人だからだろ。
てめーが反論出来なくなったら、今度は相手をバカにしだす・・・
これはもう、悪質な荒らしだよ。
なんでこのカテにいるの?
元はと言えば、ユークリッド幾何学を持ち出したアホがいたからだろ。
こっちは何も数学なんて興味がなかったが、相手に会わせないと反証できない
だから相手の論証のフィールドに乗って説明したんだよ。
それを頭の悪いやつが、数学で説明しようとしてるなどと言いがかりをつけ
バカにする始末・・・・ ホント、低能ばっかりだわw
哲学・・・ 洞察で本質を解明するという行為は、どんなフィールドでも
応用出来ないといけない。
それを理解出来ないやつは、フィールドが違えば哲学じゃないと言い張る。
とんでもないアホだわ。 >>859
そしてまた、数学のフィールドに持ち込むやつがいる。
そうして延々と、相手が話しを進めたいところをストップさせ、延々と自分で証明すべきところを
相手に論証させつづける・・・・
こっちの論証は完全に終わった。
「線は点の連続ではない。」 以上。
これを反証したければ、今までのレス以上の反証を持ってこい。
余計なつまらん反証で、話を長引かせるな。
それが出来なければ、これ以上、自分の証明出来ない論を
言い張るのをヤメロ。 >>861
ちょっと、読んだけど、時間は点と線のどこに入って来るんだって?
ひょっとして、脱線して数学の議論に引き込んで煙に巻いたりしてない? まぁよくわからない理論を論証した論証したと言い張られても、それはそれとして
意見したい人がすればいいんですよ。 オカシイな
ベルクソンは時間は持続で、空間は延長って言ってなかったけ?
点と線は延長を持ったものの話しだよね
ベルクソンやってて、どこに持続の話しがあるのよ
何か嘘くせえな
ベルクソンの延長の証明の本を間違えて持って来なかった? >>862
脱線と見るのがもうダメだ
ましや、数学で煙に巻いてるとか…
ちがう、点が連続して線になるか、それとも点が幅を持たず、線を構成しないというのは
時間を語る上で、非常に重要な部分だ
なにしろ、時間線上の今という点が、時間線を構成するかどうかによって、
時間があるか無いかが決定されるからだ
説一切有部は、過去〜現在〜未来 という時間線を存在させるために、今という点に
1刹那という幅を設けたわけだから
なぜ時間線を存在させたかったっていうと、それは時間がなければ存在が
存在出来ないからだ
つまり、時間が無ければ空間は存在出来ない
およそありとあらゆる存在は、0.001秒でも、継続することが求められるからだ
継続しないものは存在出来ない
だからお釈迦様は、諸行無常と言って、世の中の一定のものは
少しも継続しないと言って、存在を否定したわけだ ベルクソンの学説じゃないとまでは疑ってないんだけどさあ
数学君は、中身がねえ、延長の話ししてるんじゃないの
君、ちょっと、いくら何でも、素人だと思って、妙なもん、売りつけたらいかんよ
記憶違いかな
ベルクソンの時間と言ったら、もっと、優美な時間じゃなかった? ディスリ商法?
馬鹿にしながら学説を売りつけるという
それで中身がまるで違うってヤツを最高の値段で取引しろって迫るヤツ
時間って言ったら、超高値付くよ?
式とかじゃあ、安くてさあ、交換できねえよ たぶん、バカにするやつって、相手の言ってることを
理解出来ないんだろ ちょっと誰かわかる人、教えて。
時間や質を空間や量として扱うと錯誤が生じるって
ネット上のどっかで読んだんだけど
時間を時空と扱うことでも大きな錯誤は生じるの? なんか嘘くせえ
学説が足りないから、ディスリで間に合わせてるのと違うんかい! 優雅路線か道徳路線か、選り好みしないと哲学は思うように語れないのはわかる気がする。 暴力振るわれながら、安値の商品を超高値で売りつけられるの、かなりスリルあった
延長してもいいですか 諸行無常は諸行無常なのか
諸行無常の自己言及
諸行という集合 微積分の基本定理も知らない
数学における点についての概念すら調べようとしない
それじゃ理解は死んでもでけまへんがなw
https://en.wikipedia.org/wiki/Point_(geometry)
【点 (数学)】
数学における点(てん、英: point)の概念は、今日では非常に広範な意味を持つものとして扱われる。
歴史的には、「点」というものは、古代ギリシアの幾何学者が想定したように、直線・平面・空間を形作る根元的な「構成要素」、
「原子」となるべきものであり、直線、平面、空間は点からなる集合(点集合)ということになる。
「数(実数)」は実数直線上の点であるという言い回しを用いることができる。
つまり数学者にとって最も一般の意味での「点」とは、集合が「空間」と捉えられかつ公理によって規定される特定の性質を
備えているという状況さえあれば十分で、そのような「空間」の任意の元がすなわち「点」なのである。したがって、今日における
術語「空間」は全体集合に、また術語「点」は元に、ほぼ同義である。
考えている問題がもはや幾何学とは何の関係もないような場合でさえ、何らかの示唆的な期待によって「点」や「空間」という語が
用いられている。 >>878
1+1=2が何で正しいのかとかも教えてくれよ あの持続のベルクソンで時間を数学で表現する学説を初めて見た!
こんな学説、見た事ないよ! 私と貴方が手を組めば世界を敵に回しても怖くないとか露骨すぎるぜ。 あのベルクソンの時間論で分割物を売ろうというのがまた、すごい知性の持主だよね
ドツキ商法の人 世間で語られている時間は、<生きる時間>が成り立つもの
であり、人それぞれの経験に基づくものだから、物理学で
扱う時間とはまったく違うものだ。これが面白い。 物理学で扱う時間と人それぞれの経験に基づく時間の違いで何がどうが面白いの? ドツキながらで加点を求める証明スタイルが斬新過ぎて、すごかったです
あのベルクソンを分割論で語る所も周りで見たことの無い斬新なスタイルでした >>887
1度しかない人生。繰り返しがきかない。
その有限の長さを世間の人は、生きる時間と呼ぶ。
もっと生きられるか、死んでしまうかなので、それが時間の不可逆性である。
時間がもったいない=くだらないことに関わって生きる時間を費やしたくない。
物理学は、逆であって、繰り返し検証可能な物理現象を扱う。
時間の進みに伴っての変化と唱えられるが、一方では、
時計で何を計っているか分からないという学者さえいう。
現象が逆に展開するのであれば、時間の進みも逆だと考えてみたり、
熱力学の概念を持ち出して、不可逆性を説明したりしている。
この違いの甚だしさが、俺にとっては興味深いのだ。 正確には
時間の可逆性→過去を思い出せる
時間の不可逆性→過去には戻せない
だな >>890
どうでもいいが、
俺からすれば、大分ずれた見解だ。
思い出すためには、さらに生き続けなければならない→不可逆性。
思い出したところで、幼稚園児の自分に
戻ってしまうわけではない→不可逆性。 時間論で時計出された時はビビった
新しい哲学の潮流に乗り遅れてるのかと思って辞書引いた >>892
何が正しいか以前に整合性なんだと思う。
たとえば、世間でいわれる<手間賃>。
労力+時間であって、これに対しての対価。
時間が外在的な何かであれば、
その時間に対してお金を払う必要は無いよな。
しかし、限りある生きる時間の一部を費やすという
ことを考えれば、対価を払う理由が見出されるわけだ。
<費やす>も<かかる>も同じことの異なった表現。
<時間の切り売り>とか<時間をください>とか<時間の猶予>
こうした表現は生きる時間という意味が分からなければ、
戯言にしか感じないだろう。 数学君は間違えて偏差値の高い学校に受かってしまって
自意識過剰になってるオタクとか、その辺りだろう
えーい、元の冴えないオタクに戻れー
そんな下等な時間論は哲学じゃあ、食い足りないんだよ 9割空間で埋め尽くされてて、カレーの福神漬けみたいに持続って付いてるだけじゃねえかよ
それじゃあ、時間論にならないよ
全部、時間でかけよ
1割ぐらい線とか点とか特別に使うのを許してやってもいいけど
お前!さては、俺たちの前であからさまに間違ったことをやって怒られないかテストしてるだろ!
怪しからんヤツだ 時間の価値観はひとそれぞれの見解があっていいし、自分の中で整合性も取れてるだろうし
そういう時間とはなにかに興味を持つ人がいればレスつくでしょう 時間の価値観じゃなくって、
生きることの価値観だよ。
生きるのがいやになっている人に
<時間は貴重>といったら睨まれるわ。
<生きる時間=生きる長さ>だよ。
待つのも、作業するのも、眠るのも
その一部だから、待ち時間とか作業時間とか
睡眠時間といって通じるんだろW >>899
本当は価値観まで詳細に説けそうなものだけどな
生きる意味なんていうのも、魂を分けてもらって再燃する人も出て来るかもしれない
だが、価値観は今の哲学界では生れずらいんじゃないかな
貴族や王制を打倒して自由に転換した時代の哲学だから
今の時代、価値観を見つけずらい時代なのかもしれない
高級を殺して生えて来た自由なんだよ それと、価値は国家と結びついて優生思想を生やすから危ない
ニュースで頻繁にやってるけど、障害者の強制不妊が問題になってる
植松聖が優生思想を掲げて、障害者施設で大量殺人したのは最近でしょう
ドイツの断種法をモデルに罪の無い人を大勢犠牲にした悪法があった
それと、ナチスのアーリア人の理想だね
最高の価値ある人を作り出すせば、最低の人種も見つけ出すことになった
ユダヤ人を大量虐殺したのはあまりにも有名だ
価値は福祉と差別の配慮の問題をクリアーしないと世の中で流行らせるのは難しい
有害過ぎる <人生は1度切りだ>と思っている人でなければ、
生きる時間という意味は共有し得ない話なんだよ。
俺はこれを読むであろう人もそのように思っている
という前提で書き込みしている。
生きる時間という意味が分かる人々にとっては
時間=在り続ける長さ、何かをし続ける長さ、
現象の長さでいいのでは?。
これは、押し付けではないからね。
<あなたにとっても、そうではありませんか>という
問いかけでもある。 点は観測されないとき1qubitであり、図と地の重ね合わせである。
量子計算で検討してみた結果、観測されない量子状態での計算にはなんの影響もなかった。
量子テレポーテーションでは観測が必要なのでなんらかの影響があるかもしれない。
その前に、1粒子系ではなく、2粒子系を考えねばならない。
量子計算ではテンソル積をとるわけだが、2入力の量子ゲートでもよい。
そもそも、別個に対生成した粒子が出会うのだろうか?
そこが問題だ。
もしかしたらポケットの中でビスケットが増えるのかもしれない。 時間の価値なら兎も角、人生の価値はかなりスレチだけど
自分の人生は自分の好きなように判断するそれが価値 >>903
誰かゼノンのパラドックスに回答してあげて?
昔の人と同じこと、言ってる人がいるんだけど 流れるとか、動くとか、追い抜くとか時間を抜いておいたものを出してさあ
さあ、パラドックスが起きてる不思議だろ
ここに時間を戻すと、元通りになる
見てください。これが私の時間論です。
それって、当たり前の話しなんじゃないの(笑)
オシイな。
時間論じゃなくて、時間抜いたままで、パラドックで止めておけば、
ちょっとした、不思議なことを考え付く人になれたのにな
残念だったな
オシイ バカにしながら批判をさせない哲学なんてみたことない
君たち、何派の哲学だか知っているかね 時間論で家に時計無いのかって咎めだてられて耳疑った
俺たちのやってるのは時計で満足できるものなのか 咎めだれられ耳を疑った君の責任で満足する時間とは何かを完成させたらいいんじゃないか、俺たちにとは別に だって、ゼノンのパラドックスを持ち出して来て、世の中で一番知恵があるって顔してるからさあ
ツンツンしたくなるじゃない パラドキシカロリー
宗教食も大事だよ。哲学ばかりじゃ美食かカツカツ。 時間は結構、人間に重要なキーワードじゃないですか
それなのに、パラドックスに時間をあしらうっていうのは、どーなの!
設計思想からしてさあ、グチャグチャの脳みそしてない?
時間を添えるなら、もっとスラリとしてなきゃ
それじゃあ、バカ呼ばわりしても、ねえ?
どんだけ知恵があるのって検査入るよ!ビシビシ行くよ バカにするぐらいだから、
もっと、人間の理性にえぐり込むような話題を提供して来るとか
天の境地を開示してくれるとか
すごいお手並みを拝見できるのかと思ってたのに
パラドックス程度でバカ呼ばわりするなんて、がっかりだ 新機軸 時計の時間論 今13:53分 ふー 知的欲望が満足したよー 時間とは、無限じゃない事を知る事。
そして限られている。人により生かされた時間も違うという事。
だから今を大事に真剣に生きる事が大事なんだ。
明日は今日ある与えらた時間が明日もあるとは誰も限らないからな。
だから時間を大事にして無駄なく過ごす事が大切だ。
時間は圧倒的に価値が高い物。世の中の人は時間よりもお金を大事だと思っている人が多い。それは根本的に間違っている。
普通にサラリーマンで雇われで働いている人やパートやアルバイトもそう。
会社や組織からお金や給料を貰っているんではなくて。自らの時間を売っている。その報酬をお金で貰っているに過ぎない。
あなたの時間の価値は時給2〜3千円程度ですか?それとも1〜10万円ですか?
そんなに時間は安いと思いますか?
時間の価値はお金では表せない位に高い物だと思っています。
そして今ある時間は買えないし取り戻せたり増やす事も出来ません。
あなたは貴重な時間をお金なんかで失っているのかも知れません。
お金何かより圧倒的に時間の方が価値があります。そしてお金も時間が生み出します。
目先の小さなお金に捉われてあなたは貴重な時間を失っているのかも知れませんよ。
時間を大事にしましょう。
以上生きる哲学こと大川☆万券でした。
ブログを見て下さる方はいつもありがとうございます。 点が生成されれば無秩序の海は2つに分断される。(ただし、外延性の公理も忘れてはならない)
もうひとつ点が生成されるとすれば、分断された2つのどちらかに生成される。
どちらが先にできるかなんてのは問わない。
どちらか、ということも重ね合わせのまま考えれば、
2粒子系(といっても、2qubit)で量子状態のテンソル積と同じだ。
観測によって、この組み合わせのどこになるのかが決定される。
古典的ではないので、量子もつれがあり、観測されない領域の部分の量子状態も影響を受ける。
あれ? 時間の話はどこにいった?
履歴、すなわちスピンがどのようになったかということが問題だ。
誰かが履歴の閲覧といった。閲覧、すなち観測された履歴が宇宙であり、
そこには量子状態のまま観測されていない部分もある。
この観測されていないものこそがダークマターとかダークエネルギーとかになるのか?
量子状態が古典的情報になるときわれわれの考える時間がうみだされる。
量子状態をうまくコントロールすれば未来をコントロールできる。
量子コンピュータは量子コンピュータ内部での未来をコントロールして計算を行う。
宇宙を量子コンピュータとみたてるのなら、未来をコントロールできる。
ここまではあたりまえすぎてつまらない結論だ。
しかし、方法はみえてきた。なにかおもしろい応用はできないものか。 >>880
じつに簡単な質問だな
「数学」では
そういうことにすると最初に決めたんだよ
決めごとをちゃんとしないと数学の計算が出来ないからね
まあ学問は大抵なんでもそうか
「四則演算」の方法を決定して
それからどんどん数学は進歩していった
そして現在はご存知のように… 過去現在未来なんていう区別は、考え方でどうにでもなる。 >>921
哲学に来たら、こういうパラドックスを見事に解くとエクセレントの名声を獲得できますよ。
数学の話しではなくてね。
分割のパラドックス
矢が的に向かって飛んでいます。矢は今いる位置と的のちょうど半分の位置を通らねばなりません。
その後その位置と的のちょうど半分の位置を通らねばなりません。
またその後その位置と的のちょうど半分の位置を通らねばなりません。
こうしていくと、矢は無限の課題をクリアーしなくてはならなくなります。 その矢の先っちょと尻の間には、無限の位置が…wwww なぜ個体にはタイムリミットがあるのか?
タイムリミットのない個体は存在し得るのか? ドツキながら私が発見したみたいな顔してるのが単なるパラドックスだったのは笑ったけど
数学君、いなくなったね
最後に時間入れて全部チャラにする
刺身のたんぽぽ入れるアルバイトみたいな仕事止めたのかな >>927
「飛ぶ矢のパラドックス」は
そもそも設定の時点で「矢が的に到達する前」という条件になっていることに
ゼノン自身が気がついていないとう愚
矢が飛ぶ過程がまさに漸近線として扱っているから
そりゃ無限小に分割が続く
設定時に誤謬を犯している典型例 >>932
点の間を無限に分割できるでも一緒だよ
古典的にゼノンのパラドックスで説いたほうが、知的度は高評価だ >>932
そういうことを言い出したら、二点間に無限に点を置けるという前提で話してることもオカシイよな
何個かしか置けないものだ
何か前提条件を加えてやらないとね
ゼノンのパラドックスで謎解きしたほうが、哲学的でカッコウがいい 見たことも無ければ、想像することさえできない
点や線、あるいは瞬間などというもをを
真剣にアルアルと考えている時点であほやで >>936
数学の発見もそれぐらいなんだよ
数学君は古典でちょっと腕前を見せてみろ >>936
馬鹿加減は、
おまえには相当負けている
それは認めよう それぞれの<速さ>を競うのに、
何ゆえに【点】なんていう観念物を持ち出すのか?
幅を有しないものを、
通過することもできないし、追い抜くこともできない。
ゼノンは【通過しなければならない】と言っているわけだから、
彼の言う【点】とやらはどんなに小さくても、
幅や大きさを有しているのでなければならない。
道のりが有限なのに、無限に並べ置くことが出来る物など存在しない。
それ以前に、
追い越すべき対象は、亀であって、地点ではないわけだ。
その地点というのも、亀が居た地点だから、<この辺>程度のもの。
いきなり追い越すな。まずは亀が居た地点までだ。
なんていう誘導が成り立つのなら、そもそも競争ではありえない。
分割して考えることはできるが、
かといって人や物が【瞬間ごと】に存在するわけではない。
なんで、【瞬間】なるものを人は考えるのか、それを疑ったほうがよいと思う。 >>933
ゼノンは「数学的・論理学的」以前の誤謬なんだよ
ちなみに現代分析哲学では
前提がそもそも間違っているという観点がスタンダードになりつつある
あと科学哲学の方でもそう
一番最初のこのことを指摘したのは誰だったか忘れたけど
クリプキも同様の指摘をしている >>939
この逆説がどういう前提か知らないのか。
まったく違うんだな、これが。
そのまま空回りしてろ。 >>940
バカ丸出しだな。
何が現代分析とつがくだ まあこんなもんだな。
ある数学者は数学的解決に否定的に語っている。
つまり数学者の間でも一致していない。 >>939
「点」を「位置」として認識すれば得心が行くだろう
定規だってcm とか mm を刻んでいるけれども
世界中で誰も正確な位置を刻むことが出来る人間はいない
あくまでも「思考実験」によって導き出された概念だから
現実では完全に一致するものは不可能
なんでも実務では誤差が許される範囲というものがあるだろう
それだよ >>942
「とつがく」じゃない
「哲学」な
分析哲学も知らんのか? >>941
設定は語られているが、前提は語られていないだろ。
もし語られているのなら、その前提とやらを示してもらおうか。
とりあえず、それだけでは何の反論にもなってない。
>>944
「位置」として認識しても
<この辺>しても同じことでは?
測る以前に対象が動いてしまってはどうにもならんからね。
経過はどうあれ、
ゴールまでたどり着いて初めて、勝ち負けが決定する。
<速さ>が語りうるのは、結果次第。
ゴールに至るその経過において、
ハンデを負ったアキレスは亀が居た<地点>に到達しなければ
ならないと言っているわけだから、これは、アキレスがどんなに
速く走ってきても<まずは、ここまでだよ>とゼノンが前に
立ちはだかって誘導しているのと同じであって、
<つぎも、ここまでだよ>というわけだから、決して追い抜けない
構造をゼノン自身が作り上げているだけである。 >>946
まさに>>932の内容と同じことでしょう
ゼノンが「アキレスと亀」でやってることも
「飛ぶ矢」と同じで
スピードの早いアキレスが亀に追いつく前の設定にしてしまっている
だから「時間」から考えた場合は
ゼノンの言う通りにしたらどんどん時間が短くなっていくでしょう
全部同じミステイクなんだよねゼノンは
早いスピードで走るアキレスの方が極めて遅く歩く亀よりもスピードが早くて
時間が経過すれば当然ながらアキレスが亀を追い越すのは子供でもわかること
だから「ゼノンのトリック」と俺は勝手に呼んでいるんだけどもね
ゼノンのがやったトリックは「時間を追いつく時間までは進めない」という
極めて単純なトリックなんだよ
まあもうすでに多くの学者が過去に指摘していることだから
説明の必要はないだろうけれども >>947
半分同意です。
半分だというのは、
時間に対する考え方がまるで違うんだなということ。
<経過>とか<流れる>とか表現されているものは、
【永さ】の空間的イメージにすぎないと思っているのでね。 >>948
なら、まるで違うという君の時間に対する考え方を意見してみてくれ。 >>948
いや自分の「時間」に対する「概念」ではなくて
世間一般におけるありふれた「時間感覚」での意味ですよ
「時間論」なんかに興味がない人でも
「時間の経過」というのは記憶と感覚で持っているじゃないですか
ジョン・マクタガートみたいなA系列・B系列という考え方もありますが
日常感覚としての一般的な「時間」は一部の病気や障害を持った人を除いて
通用する概念でしょう
それを説明に使わない手はない
そういう日常的な側面からも「ゼノンのトリック」について考えてもいいわけで >>948
【永さ=在り続ける長さ】。
天体の存続、国の存続、人の一生、出来事…
在り続ける永さ、現われつづける永さは内在である。
永さは、始まって、続いて、終わるという構図で捉えうる。
始まりの状態と終わりの状態は同時に見出されることはないが
記憶や推測の能力によって、この永さは空間的に捉えイメージしうる。
※流れる・経過する・来ては過ぎる…
※【永さ】を数として共有する手法・物差し→予定や記録に役立っている。
※数値化された永さ→1年、2時間というように示される。
大雑把過ぎて分かりにくいかも知れないが、なにしろ駄文だ。
俺が時間と呼んでいるものは、じつはこうだったという話であり、
ほかの人の時間論を否定するようなものではない。 >>948→>>949
俺、そろそろ消えるよw
いきなり投稿欄に駄文書き込む馬鹿。 神経が電気信号を使ってるだけで、超音波に信号を付けても知覚するってよ? 世界と宇宙と自然の違い。
だんだんわからなくなってくる。
文脈依存であり、それぞれすきかってな意味を持つw
西洋的・東洋的・日本的にとらえてもそれぞれ意味が違うかもしれない。
哲学の世界、哲学の宇宙、とはいえても、哲学の自然とはいいにくい、自然の哲学なら意味がわかる。
世界の哲学、宇宙の哲学、自然の哲学、それぞれかなり哲学とのかかわりかたが異なる。
世界は認識論的・存在論的で、宇宙は科学的・情報論的で、自然は人(あるいは人工)と対立するものなのだろうか。
哲学で扱うのは「世界」なのだろう。
そうすると「宇宙」を扱うのは科学かもしれない。
「自然」はなんだろう。
世界の「世」が時間であるのは明白なのだが、worldに時間があるのかどうかは不明だ。 とりあえず、「宇宙」は外延的、「世界」は内包的、「自然」は否定的(あるいは矛盾的)、であるとでもしておこうかw
そうすると、肯定的なのは「形式」とか「人工」とかそういった類か?
この中で「矛盾」を含むは「世界」と「自然」である。
とくに、「自然」とは「無矛盾」の意味でもあり、「無矛盾」は「矛盾」を含む。
「宇宙」や「形式」も、「矛盾」を巧妙に回避しているだけであり、「矛盾」を持ち込むことはできる。持ち込むどころか「矛盾」こそが「本質」なのかもしれない。
「555宇宙」におけるclock(あるいはtickあるいはtick tac)こそがわれわれの宇宙・世界・自然を形成しているものであり、「本質」であり、それがすべてであり、それが「時間(時空間)」である。 tickは「ダニ」でもあり、「鬼ごっこ」でもあるのか。
時間とはダニである。
時間とは鬼ごっこである。
われわれは宇宙のダニなのか、ダニと鬼ごっこ(どっちが鬼だ?)しているのか。 本来、自然の世界には、点や直線や瞬間という物はない。これ等は不自然であると言うのが、ゼノンのパラドックスから得られる帰結である。
本来、自然の世界は円や螺旋でできている。自然をよく観察すれば、直ぐに気付くだろう。 自然は矛盾する。
矛盾が世界をつくる。
矛盾なくして宇宙は成立せず、肯定とは矛盾を「無矛盾」に見立てるということである。
この、矛盾原理によって成立している宇宙を「555宇宙」と命名しておこうw
よく考えれば、現在のコンピュータも555の原理が動作原理である。
555と量子論の関係。これが新実在論の鍵かもしれない。
555の、もうひとつの隠れた意味はSpeed Racerでもある。
Machは音速であり、超音速というのは意味深だ。
計算速度を超えた計算、超因果。結果が原因をつくる。
因果の壁をどうやって破ろうか。
(超因果)それが文学であり、こうなってくると文系哲学こそ新実在論の要になるのかもしれない。
なんてね。 「点」を考えたら、「点」は「位置」だけではなく「時空間」を持っていた。
その「点」しかないとすれば、点が持っているのは1bit時空間と、その時空間内での位置である。
この「点」は「対象」なのかと考えた。
「点」は「位置」であり、時空間とセットになった「情報」である。
「対象」ではない。
「対象」となるのは、この時空間と位置をもたらした「分断」である。
「分断」がもたらす「情報」から「対象」そのものを「誤解・誤読」しているのであって、
「対象」としてふさわしいのは「分断」そのものである。
この「分断」を「量子状態」と考えるならば、「量子状態」こそが真の「対象」ということになる。 「なんらかの意味の場において現象する」(なぜ世界は存在しないのか)
それが存在だという。どういうことなのか?
「点」を考えたわけだが、「点」は時空間と位置の情報であって、「存在」ではない。
すなわち、それを「存在」と考えた場合、それは「存在しない」w
マルクス・ガブリエルのいう「意味の場」の「場」とは、わたしが考えてみた「点」の時空間である。
そうすると「意味」とは、その「時空間という意味の場」での「位置」である。
「位置」を「存在」としてしまうと、それは「存在しない」w
たしかに、その「世界は存在しない」のである。
そこまでは納得できる。
「なんらかの意味の場において現象する」のではなく、「存在」が「意味の場」と「現象」をつくるのではないだろうか?
そう考えれば、「存在」は振り出しに戻されるw 「意味の場」と「現象(=位置)」は、「情報」あるいは「意味」と呼んでしまってもよいだろう。
「情報空間における位置」が「情報」であり「意味」である。
そう考えれば、「時間」とは「時間情報空間における位置」のこと、となる。
「時間」は「情報」であり「意味」である。
問題は「情報空間」という言葉における「情報」と「意味」としての「情報」の違いだろう。
「情報空間」とは「情報場」でもよい。情報ネットワーク場とでもしておこう。
いろいろと冗長なので、単に「ネットワーク」と呼ぶ。
「情報」あるいは「意味」とは、「ネットワーク」上の「位置」である。
「時間」あるいは「空間」とは「ネットワーク上の位置」である。
どのようなネットワークを扱うかで、区別される。
時間ネットワークを扱えば時間であり、空間ネットワークを扱えば空間である。
問題は単純ではなく、ネットワークと位置の間に不確定性があるわけだ。
それが量子状態であり、量子状態は量子状態のまま扱うのがベストだろう。 人類絶滅したら時間もなくなるの?それが時間の正体なの? 人間が創造した周期が時間であって人類絶命しようがしまいが関係ない 人間のみが主体ではなく、自己同一性を持つもの、すなわち、その意味で「存在」するものがすべてが「主体」である。
たくさんの「主体の宇宙」がある。 「視点を変えるとね、わかりきったものが迷路に変わるだけですよ。
例えばぼく昔なんかに書いたことあるんだけどね、“犬”ね、
犬ってのはほら、目線が低いでしょ。においが利くでしょ。
だから、においでもって、においの濃淡で記憶やなにか
全部形成しているわけでしょ。だから犬の感覚で地図を仮につくったら、
これはすごく変な地図になるでしょ。
体験レベルでもってちょっと視点を変えればね、
我々がどこに置かれているかという認識がぱっと変わっちゃいますよね。
その認識を変えることでね、もっと深く状況をさ、見る、ということ。」
安部公房の例えは分かりやすい。時間について知りたいのなら、犬や猫の視線で物事を見る、というのも一つの手立てだよね。 時を求めて氏他しょっちゅう投稿して頑張ってた人はとうとう諦めたのかな Roger PenroseのAngular momentumなど読んでみると、
最初はおれとおなじことを考えていたらしい。
書いている図がおれのやっていることと同じだw
同じといえばマルクス・ガブリエルもおれの試作してみた図と同じものを書いている。
が、結論が異なる。
彼は解釈は短絡的でつまらない。「無」からすべてをつくりだせなければ意味はないのだ。
ただし、おれはKobayashi-maru techniqueをつかっているので物理ではない。
仮想物理あるいは仮想哲学か。どちらかというと計算機哲学(=人工知性)かもしれない。 本読めば、なんんかしら哲学があるのかわかるかもしれないけど
インタビューざっと読んだらもう、著書への興味が失せた マルクス・ガブリエルの手法で、「時間は『存在』しない」と語ることはできる。
そう、「時間以外のものはすべて『存在』する」のだ(大笑
かんたんにいえば、理解しているのか無知なのか無恥なのかよくわからないけど、
ラッセルのパラドクスを(間違って)応用している。
ただ、「哲学」というものは、「数学」や「科学全般」に対して「無知」であることによる「トンデモ」な発想がおもしろいのであって...それはひとつの「芸」である。 ともかく、「無知」であることは強いw
「時間」は「存在」せず、「時間」以外のものはすべて「存在」するとしよう。
もちろん「すべて」とは「時間」というクラスに属する「すべて」のことだ。
やや、「クラス」を使ってしまった。「クラス」については知らないふりをしなければならない。
「すべて」は「時間」の中にあるのだから、「時間」と関係しているが、「時間」そのものは、
「意味の場」としての「時間」の中にない。
そうすると、「時間」とは(時間という)「意味の場」である。
これを短絡的に「時間とは何か」の答えとしてしまおうw
そして「時間は存在しない」のである。
問題は、Operatorがどこにあってなにをするのか、ということだ。
Operatorが「存在論的還元」であるとすれば、「時間」という「意味の場」において、「時間的存在」をうみだす。
よーするに、マルクス・ガブリエルはoooの変形である。
(新)観念論的oooという特殊な形態となるだろうw
そのように読み解くとするならば、「時間は観念論的実在である」としてもよいのかもしれない。
なんじゃそりゃ。 思弁的実在論と、その周辺やそれと対立するかのような実在論もふくめて、
すべてを、「フィクション実在論」とでも名付けてしまおう。
「仮想現実」である。
ただ、知的な存在によるシミュレーションワールドではなく、あくまでも「自然」である。
自然=仮想現実 すべては「矛盾」というOperatorによってもたらされる/されている。 数学、科学なんて誰にも、そう、専門家でも分かっていない
某マルクスもまた違うんだろう
それは間違い方の違いに過ぎない >>985
そう、無知であることは強いとは
そのままあなたに言えること 色んなところにガブリエルオタが出張してきて邪魔でしょうがない
山手線しか語れない鉄オタに要はない 無知であることがよけいなものにまどわされない。
ともかく、最小限必要なモノだけを考える。
そこが強い。
できれば「考えない」ということも大事だw
大いなる無知であるアザトース。クトゥルフ神話の哲学的応用。
過学習を回避するためのドロップアウトという手法なわけだ。 かなり前に著名な物理学者が現代科学は不健康と書いていた 私は愚痴と夢だけ。
研究結果をアドリブをこみで語れるようになりたい。ともかく私は並で5ちゃんは止める。前向きに行かせて下さい。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 88日 14時間 22分 29秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。