時間とは何か
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時間の問いの周辺 『悟り』と言われるものは、ある種の諦観であるか、(諦観は時間に関係している)悟りをフィロソフィアで説明出来るか。 『父母実生以前の自己』、それが一つの(ーa)問いだとすると、その問いも時間に関係している。 ハイデガーの存在と時間は、一つの(ーa)言説である。それは存在と時間を説明しようとした。 可能性の物象化としての実現 でき・ごと(出来事)≒becoming-fact でき・もの(出来物)≒becoming-something 2ch も 英語とか フランス語 、ドイツ語に 翻訳した掲示板にしないとな。 古典学とか。 過程サン 死んじゃったぁー🎉 ウヒョヒョヒョウヒョヒョヒョ⭐✨ 可能性の物象化としての実現 いいですね。 概念 あらゆる存在者は可能性を持ってある。しかし、ではなぜ存在者は可能性をもつのか。可能性とは何か。存在者とは何か。存在とは何か、となる。 ここでも、問いは『存在とは何か』ではなく、『存在の意味とは何か』になる。存在とは『その存在の意味の担体』である。 すると存在とは概念である。概念とは、この形式でしか定義できない『もの』であり、それらはすべて『存在概念』である。 (仮説です) >>15 そもそも 問いが 間違えてるから 答えが 出ない✨😊 時間とは何か、と言う問いは、 『存在概念』などより 時間とは 何故 如何にして可能か を問わなければなりません✨😊 矛盾が決定不能 微積分の根拠 無矛盾な自然観 学の基礎を難問通して自分なりにできた 時間はこれらを通して解明可能だと。 物事は、よし(寄っていること)/あし(離れていること)なのだから、 静的ではあり得ない。「良し」とは「寄る作用」であり、自ずと 乖離が生じるからこそ、「寄る作用」が「良し」とされるのである。 To be oneself is to have a potential to be equal to another self. 自己の現象学/自己化と倫理を相反するものであるかのように捉える 「他者の存在論」というようなものは、そもそも存在論を別の前提に よって捉えてしまっているのではないだろうか。その前提とは、 他者を受け入れるにせよ、排除するにせよ、1であることこそが自己 であるとするもの、すなわち、"To be one is to be oneself"である。 自らが前提とするそのようなある種の障害を思わせる「self-sameness」 を逃れるために、自己化とは別のものとして、特別に他者を必要として いるのではないか。 >>22 ナリスマシがおおいねん☀ 久しぶり😆✋💕 存在という意味と、存在という構造は、随伴である。 哲学的に考察されるべき対象であっても、考察する行為であっても、常に随伴を考えねばならない。 ここでいう随伴は、おおざっぱに双対概念のことであると考えてもよいだろう。 表裏とか対称性とか共役とかではなく、粒子と波、意味と構造、もはやまったく異なるようにみえるものが、ある種の双対性を持っているということ。 そのようなタイプの二面性。 哲学とは「問い」であって、その随伴は? と考える。 「時間とは何か」という問いとは何か? まずこの「文」あるいは「問い」という屏風の中から「時間」を外に出さなければならない。 ここまでは普通の一休さんであって、公案でしかない。 それをくコ:彡にして踏み越えるか。 放置すれば近隣住民への執拗な付きまといを繰り返し、重症化すると頭の病院で扱う病気ってなーんだ? >物事は、よし(寄っていること)/あし(離れていること)なのだから、静的ではあり得ない。 物事が静的ではあり得ないとするなら、そこにおいて静的なものとして現れるとは どういうことか? ベルクソンは相対性理論に異議を唱えたらしいから 時間に関しては哲学者としては一目置いてるわ 「ドゥルーズ 思考のパッション」 ドゥルーズは矛盾を受け入れておらずパラドックスとしているようだ。 矛盾しているから、それを解消するためにこの世界が構築されている。そうは考えていなかったようだ。 矛盾でもパラドックスでもない、なにか新しい用語の必要性を感じる。 数学でよくおめにかかるのは「到達不能」。それもいまいち。 ま、しばらくは矛盾でとおそう。 この世界あるいは哲学的世界を暗号論的に考えるのもおもしろい。 到達不能あるいは決定不能な暗号を解釈したものがこの世界であり、哲学によって解釈されている。 現象とは解釈されたものであり、解釈とは意味であり、意味の随伴は構造である。 時間あるいは空間は、暗号の解釈であり...などと... このシナリオにたってみると、不完全であることは完全を求め、それゆえに世界をうみだしてしまう。 タロットカードの0番は「不完全」を意味するのだろう。 十二縁起でいえば「無明」。 胚でいえば、「卵割」。 ドゥルーズでいえば「パラドックス」w 過程サンが死んじゃったので🎉 私はまいにち毎日🎾 ⭐✨😊ウヒョヒョウヒョヒョヒョヒョウヒョ 概念 概念と言えば、存在の概念、時間の概念、そして、車の概念、などがある。冷蔵庫の概念もある。そして画期的な物が出来た時には、〇〇の概念は覆されたとも言う。 馬車の概念もかつてはあったのだろう。今、馬車の概念と言うと、奇妙な感じがする理由は、馬車をもう我々は『つくらない』からだ。 すると、時間とは我々が作り出して、今も作っている世界把握のある種の道具であり、それを概念と呼んでいる。しかし、現在、今、車の概念はそこそこ、説明出来るが、時間の概念の説明は、おぼつかない。おぼつかないまま我々は実存する。 意識はいつ生まれるんだ 受精した瞬間か 妊娠中は 身体の中にいるのだから 時間経過を経験してるわけで、既に意識は生まれてると解釈してもええんか 時間の概念 時間とは何か、の問いは、つまり時間の概念を作り上げる作業だ。車は作り出されてから、 その概念が出来たに違いない。車が構想された時、車のまだ見ぬ概念が生まれていたのだ。 時間の問いはその説明を自分自身に、現存在私に求めている。それは世界把握のために、その概念は有用で、無くてはならない必須だろうが、同時に実存する実存者も、時間のなかに終始いて、時間をつねに気に留めている。 矛盾やパラドックスではなく、「不完全」でよかったのであろう。 自然は不完全であるがゆえに完全を求める。 時間というものは不完全であることの証明であり、不完全さを埋め合わせるための道具あるいはパテあるいは機構である。 不完全さゆえに主体が生じる。不完全さゆえに因果が生じる。 不完全さゆえに変化が生じる。 不完全なのは人間などではなく、「領域」である。 これをうかつに「空間」などとは呼べない。 不完全なるがゆえに人間というものも生じる。 ドメイン哲学は可能か。というと不可能ではない。単に量子論のことである。 (量子)場の哲学。 そう考えると、哲学は最初から「量子化」を行っている。量子化なしに哲学はできない。 量子論と哲学は同じものである。つまり、量子コンピュータと哲学コンピュータは同じものであるw 共変的哲学場。それが哲学のすべてである。と考えたが、それでは足りない。 哲学のすべての答えは、「不完全」にたどり着く。 不完全さによる共変的哲学場。それがすべてであり、それがすべてでしかない。わかったよワトソンくん。真犯人は不完全性だ。 こうなってくるといよいよ現地人がうざくなってくるな 概念というと時間もそうだが、ある 概念があるということは物事を抽象 化するということだから、なぜかあるものとあるものの概念の二つに物事が分かれてしまうだろうね。世界を把握するということはどう見ても大したことじゃないが、 世界を把握しなければ二人の世界は成立しないし、というような美しい話なんじゃないかな。 意識がどう人格化して親や生命のの意識より生まれるのかは不思議だ。 その前段階には個人という境界はないのかもしれない。 自分の意識が生まれたのは出産よりだいぶ前の歴史の中のことであったように思う。 『ドゥルーズ 思考のパッション』ピエール・モンテベロ著 結構おすすめだ。ドゥルーズをうまく読めていない人におすすめ。 ただし、 『無意識の思考 ――心的世界の基底と臨床の空間』I・マテ-ブランコ 著 を事前に読んでおくこと。 この2冊はドゥルーズに感染せずに読むためのワクチンとして必須であるw 感染せずに読めるようになるには防疫態勢を整えなければならない。 まあ、たいていは翻訳のまずさで感染は防がれているわけだが、 思考のパッションによって読み方がわかるようになってしまうと危険率があがってしまうだろう。 ちゃんとお医者さんがついているドゥルーズの本であっても、そっち系のお医者さんこそ危ないのであるw ドウールーズについてだな。おれはドゥールーズにはたどり着かなかったけど、内容的にはどういったないようだ? フランス現代思想で読んだのは、メルロ=ポンティとミシェル・フーコーくらいかな。デリダについてはパラパラめくって読んだくらい。 サルトルとラカンは骨格はわかるが、ポストモダンのハシリであるレヴィ=ストロースとソシュールの理解もそんなに進んでないが 哲学でわかるのは本当に骨格の部分であって、知っているならドゥールーズやデリダのことを教えてほしいね。 フロイトならかなり話せると思う。 アンチオイディプスについての話しができるなら歓迎する。 出版社によれば、 数多いドゥルーズ論の中でも定評のある名著、待望の翻訳。スピノザ、ニーチェ、ベルクソンなどの哲学史の中にドゥルーズを位置づけ、哲学史を組み替えつつ、その「非人間主義」をきわめる。 などとなっているが、 非人間主義ってのは著者のピエール・モンテベロの仕事であって、ドゥルーズではない。 もし、理系であれば、哲学史という共変的量子場における組み替えがネットワーク上を伝播しているように読み解くのがベターかもしれないw なんてね。 文学的には江戸の時代における怪異譚のように受け入れるのがベターであろう。 哲学史という怪異譚の中にドゥルーズがいるわけだ。 哲学書読むと先入観もって世界を解釈するようになりそうなんだけど 秋山信友 穴山信君 甘利虎泰 板垣信方 一条信龍 小畠虎盛(小幡虎盛) 飯富虎昌(一期四天王) 小山田信茂 高坂昌信(春日虎綱) 三枝守友(三枝昌貞) 真田幸隆 土屋昌次 内藤昌豊 馬場信春 原虎胤 山県昌景(二期四天王) 山本勘助 >>54 へーっ、そうなんだ。 甘利と板垣は、武田信虎を裏切ったことに罪の意識を感じていたと思う。 だから二人そろって死に場所を見つけたように思ったんではなかろうか。 信虎と三人で内紛ばかりの弱小国だった甲斐国を統一、今川勢を撃退して、あそこまで持っていったんだもの。 青春の思い出を共有する仲だったと思う。 ちなみに武田信虎は富士山に登ったことがある。 暴政は事実かもしれないけど、無学なりに何か(外部?)を探求している人間だったと思う。 >>37 >実存する実存者も、時間のなかに終始いて、時間をつねに気に留めている。 時間のなかには終始いるが「つねに気に留めている」かなあ。 「時間を忘れる」体験は、誰にもあることだと思うが。 そしてこの「時間を忘れる」という表現もくせもので、われわれは「時間」を頻繁に思い出すがゆえに、あたかも「つねに気に留めている」錯覚に陥っているのでは。 武田信虎と晴信の確執は、晴信の長男義信との確執と対になっているね。大河ドラマ風林火山(キャストも含めそんなに良いできではなかった)でも描かれていたが、 家督は家臣団の派閥争いの元凶でもあった。甘利虎泰と板垣信方は、晴信の最古参でもある、いわば筆頭家老(ないけど)。 彼らから見れば晴信を立てた方が遥かに戦国の乱世を生きるのには適していたんだろうね。 そもそも家の構造が繰り返される時点で源義光流の甲斐源氏は縁組に難があったのか呪われているといっても過言ではない。 武田晴信が死ぬ前の三方ケ原では織田方や徳川方より力関係が優勢であり、最強であったのは晴信の経験によるところが大きい。 魚鱗の陣系や軍隊の統率、各隊のメンバー構成は徳川からみてもとても脅威であり、徳川はのちにまむし隊を武田軍の残党から構成している。 陣形か。 魚鱗の陣形が火の玉の如く徳川軍の本体まで突き破り、家康が自決を覚悟するほどの勢いをもって制圧したのは軍隊の構成によるところが大きい。 とてもメンバー構成や時の熟すまでの準備には余念がなかったのだろう。どういう構成にしたかはわからないが、恐らく顔を見て揃えたのだと思う。 武田軍を構成した各隊にはプライドがあり、みんなでとても友愛を感じていたことが伺える。みんな愛をもってやっていたのだと思う。 未だに、そのときの輝きと愛とを忘れていないが、穴山を皮切りに武田勝頼を裏切ってから武田氏は実質滅びた。 史実では天目山で自決とあるが、もしかしたら多くいる影武者が犠牲になり、宗家は山奥に逃れたのかもしれない。 まあ、現実はどうあれ武田軍が散り散りバラバラになってのちの子孫たちが現代を迎えたのは確かだ。 >>35 説明してるじゃん。 本質は自然を説明する認識道具。 やって来る時、今 時間をいつも気に留めている、表現が少し上手くなかった。時間を気に留めてある在り方をしている者が実存者である。そして、時間とは何かの考察では、まず時間を意識する必要がある。時間とは何かが、説明出来れば時間を忘れると言う在り方が判る、説明出来る。 これから来る時、時間を気に留めている。そうしてやって来た時間、今を過ごしている。未来と今である。この二つが解明出来れば過去は容易だろう。また、この二つが解明されて初めて過去の活用が可能となる。過去の意味はその活用、利用にある。 時間への問いと実存 時間とは我々が作り出して、そして現在も作り、作り出そうとしている何ものかである。時間は、すでにある、すなわち作られてあるが、我々が時間とは何かと問うのは、言ってみれば時間が、まだ不十分であるからだ。 そして時間の十分な構築には、その時間の構造の十分な解明が求められる。そうした問いと問いかけは、実存者特有の在り方である。 >>69 実存者がなければ 時間はないのかしら? 百年前、百年後には時間はないのかしら? 答えは 出せる❓✨😊 私は100年後時間を出せないし、巨大隕石が地球を破壊して人類滅亡していたら出せない、脇が甘い 公共時間と私時間 五百年後も、今は今です。五千年後も今です。 その時は公共時間で、多分それはやって来るでしょう。 公共時間と私的時間としていましたが、公共時間と私時間(しじかん、わたくしじかん) とします。私的と言う言語が、すでに社会的流通意味に汚染されています。私時間として初めてわたしの私時間と、Aさんの私時間、そしてCさんの私時間が出現します。これらの私時間は、もちろん公共時間の上に乗っていて、我々が成立するのです。 今、は公共時間にも今があり、私時間にも今があります。物理的、科学的時間は公共時間をより正確、強固にして、定義の基礎ともなっています。 普段、我々が五千年後を考え難い理由は、それが私の私時間としては無いからですが、公共時間としては、多分、来るでしょう。その時、それを体験する人も、多分、いるでしょう。 意味と時間 私(現存在私)は、我々の中(その社会)にいます。我々の中から脱出は出来ません。それでも私は、我々を超えて、私としてあります(あり得ます)。私の私時間は、決して公共時間を越えませんが、それでも私の私時間は私に固有の私的な、個別的な時間です。 これがコギトの新しい説明です。私が我々を超えて私であり得る事情は、私が意味において私であるからです。意味は公的な社会的な意味として流通しますが(社会的流通意味)、その根源は私的です。 >>72 ご免で済むなら警察いらない 多分でよければ哲学いらない >>75 多分永遠なのは自然の事ではないんでしょうか?だとすると 間違いなくというのは、それを時間と混同して認識しているからでしょう あしたの今と二百年後の今 二百年後も今が訪れます。その今は公共時間の今です。そしてその時その世界に実存する存在者がいれば、その存在者に私時間の今が、訪れます。 つまり、事情は、この時の(23日、午後6時過ぎ今)と同様です。このやがて訪れる二百年後の今は、あしたの今と同様です。あしたのお昼に今が訪れるでしょう。そのあしたのお昼は、公共時間のお昼ですが、また私時間のそれぞれの存在者としての私時間のお昼です。 アンドロメダの自然立体台座の方が、デルフォイよりおススメ。 時間に関してていえばね。 『(23日、午後6時過ぎ)今と同様です。このやがて訪れる二百年後』 括弧の位置が間違い >>76 夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない 人の思い描く時間は永遠ということです。 二百年後だろうとなんだろうと「時間」は「いまここ」にしかありません。 過去も未来も「いまここ」にしかないのです。 それゆえに、一般的にイメージされているような「流れる時間」は存在しません。 >>81 夢は比喩ですよ、観念論を知らないのですか? 観念論を知らないような人はここには来ないでしょう。 みんなインディアンポーカーをしているんですよ。 それが時間スレにおける正しいゲームです。 >>84 時間スレで哲学やってるのに観念論のカードは拾っちゃったら嫌だな 時間とは観念的なものだからしょうがない 時間という空間やエネルギーは存在しないからな ベルクソンは時間に絶対的自信を持ち 相対性理論を理解した上で アインシュタインに噛みつき敗れ去った そのアインシュタインを最も追い詰めたのは 哲学的な解釈もできる不完全性定理のゲーデル 時間論でパラダイムシフトが起こる可能性がある そのヒントは哲学者が出すべきだ 物理は無視してはあかん 時間とは記憶を整理する為の概念に過ぎない 物理では事象の持続的変化を追う為に観測的推移を時間的運動となどと呼んでいるのだが 時間とは現在の持続であり、現在とは宇宙の全てである。 変化によって定義されるのは時刻であり時間ではない。 世界は在るし、在り続ける。この世界の持続こそが時間であり、勿論、概念などではない。 アリス ?喪メール 妃と。在る酎 より 有財公もね。 綺うp。ブッサge ブッサge what up? ポルノ―ションvideo専門テレラジ作ろうぜ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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