数学を初めとした理系の学問と哲学について 11
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直感的理解と証明(論理的理解)
数学における初等幾何において、最初の証明といわれているのが二等辺三角形の二つの
底角が等しいというものだ。これは三角形の合同を用いて証明する。二等辺三角形は、
裏返しても同じものになるのでもとの三角形に重なる。これを合同というのだが、
重なるので二つの底角は等しいと言うことが論理的に証明されると考えるわけだ。
これは、証明としてはごく簡単なものだが、なぜ証明が必要なのかと言うことを理解するのは
難しい。両底角が等しいことなど、ちょっと正確に作図してしまえば、見て分かるじゃないかと
感じるからだ。見て分かるというのは、直感的にそれが分かると言うことだが、
直感的に分かるものをなぜわざわざ論理的に証明するかというのは、問題を難しくする
だけで面倒だと感じるのではないだろうか。 なぜ証明が必要なのかということに対する一つの解答は、直感は間違えるときがあるからだと
言うことだ。真理としての信頼性を高めるために証明をするということだ。これは実際に直感が
間違えているときには有効な発想になる。例えば、地球が平らに見えるのは直感から来る
理解だが、これは人間の視覚の範囲に対して地球があまりにも大きいために、それが球体で
あることが直感では見えないということが原因している。
そこで地球が球体であることを理解するには、直感に反して証明をしてそれを信じることになる。
しかし、地球が球体であるという事実は、我々はすでに知っているので直感に反する証明を
考えることが出来ると考えられる。ところがそれを知らなかった昔の人々は、どうして地球が
平らでないこと・球体であることを証明しようという発想が生まれてきたのだろうか。それは
論理だけでは生まれてこない発想であるように感じる。 実際には地球が球体であることもある種の直感から得られたもののようだ。一つは、
月や太陽の観測などから、天体が球体であることを直感していただろうと思う。
目に見える天体はみな球体なのに、地球だけが平らなのはどうしてだろうという
疑問が直感として浮かんでくるのではないだろうか。
さらに月食などの際に、月が欠けたように見えるのは、地球の影が月に映っているのだ
という理解が出来る。そうすると、その影を見ると地球は球体ではないかと直感出来る。
地上の景色を見ているだけなら、地球は平らであるという直感にとらわれてしまう
だろうが、もっと大きな天体間の出来事を見ることによって、地球は球体かも知れない
と言う直感が生まれてくる。地球が平らであるか球体であるかというのは、相反する
矛盾する直感である。このような直感のどちらが正しいのかということを考えるために
証明というような考えが生まれてくるのではないだろうか。 アリストテレスは、沖から陸地へ向かう船から山を見るときのことを語っていた。
もし地球が平らであれば、山の姿が見えるだけの距離に来たとき、山の全体がいっぺんに
見えるようになるはずだ。しかし、経験が教えるその姿は、まず頂上の方から先に
見えてくるというものだった。これは地球が球体であるという一つの証明になる。
この証明は、直感として地球が球体かも知れないと言うものがあって初めて発想出来るもの
ではないだろうか。そのような証明の意図がない限り、このようなことに注目する人はいないのでは
ないだろうか。アリストテレスの話では沖の船から山を見るという設定が大事な
ことだ。陸地の方から船を見たときに、マストのてっぺんから見えると言うことはない。
それは、地球の大きさに比べると船の大きさがあまりにも小さすぎるので、実際には
船の姿はいっぺんに全体が見えてくるのだ。だから、船を眺めているだけでは地球が
球体であることを証明することは出来ない。山という大きな対象を見ることによって、
その証明が得られるのであって、山を証明に利用すると言うことは、それを証明しようという
発想を持たなければ生まれてこないだろう。 直感における矛盾が生じたときに証明をしようという動機が生まれて来るというのは、
かなりありそうなことだと思う。証明が出来れば、どちらの直感が正しいのかが決定出来る。
これは我々の日常生活でも多く現れる現象ではないかと思う。どちらの直感が正しいかは
単純な問題ではない。二等辺三角形の底角のように、誰が見てもそう見えるというものでは
ないからだ。この問題は論理的な検討をして証明出来れば、どちらの直感が正しいかが
分かる。この場合は、条件付きの命題としての証明になって、ある条件下ではどちらも
正しいという証明になるかも知れないが。
直感において反対のものが出てきたときに、我々は証明の必要性を感じる。どちらが正しいか
を確立したいと思うからだ。そういう問題を深く考えたいからこそ論理というものの重要性を
感じる。それでは、誰もが直感的に正しいと考える単純な事柄にも証明をしようとする数学は、
どのような動機で証明をしようとするのだろうか。 一つには哲学的な完全な知を求めるという動機が働いているのではないか
と言うことを感じる。直感で99%正しいと感じても、残りの1%をも間違える
可能性がないように完全なものにしようという動機で証明を考えると言うことが
あるだろう。だから、このような完全性を求める必要がないところでは、
証明という動機も生まれなかったのではないかと思う。
エジプトでは、3辺の長さが3:4:5の比率を持つ三角形は直角を作ることが
知られていた。ピラミッドの建設などに利用されたらしい。これは経験的な事実であって
証明はされなかった。しかし、これは建築などで利用される範囲で間違いを犯さなければ、
直感的理解で十分だと思われるような知識だった。このようなところでは、自明に
見える事実は証明の必要は出てこないだろう。自明に見える事実に対しては証明の
動機が生まれないと言うことは重要なことではないかと思う。本当は自明ではない
事柄なのに、それが自明のように見えてしまうと、「世界はそういうものだ」という
受け止め方をして、それ以上深く考えないようになってしまうのではないかと思う。 他に相反する直感がないときでも、この直感を証明しようという意識が生まれると、
その直感が本当に正しいのだろうかという疑問が生まれてくる。これは、証明という
ものがそもそもそういう疑問から生まれてきたと考えられるのだが、いったん
証明という技術が確立すると、何でもまずは証明しようとすることで、逆に懐疑を
生じさせるという反作用が生じる。これが学問の進歩をもたらしたのではないかと思う。
ある直感が、感覚的に自明のことであって証明の必要がないと思われても、あえて
それを証明しようと試みることで、全ての出来事に対する懐疑精神というものが
生まれてくる。自明なものを証明しようとする動機は、そのような直感に対する懐疑
というものとつながってくるのではないかと思う。これは複雑化した現代社会を
深く理解しようと思えば、そのような動機を持った方が確実に役に立つ。社会の出来事を
あるがままに受け取ったのでは、その本質を理解することが出来なくなるだろう。
どんな出来事でも、自分が関心を持ったものは、全て証明可能かどうかを考えることは、
本当に確かなことは何かと言うことを教えてくれるだろう。 >エジプトでは、3辺の長さが3:4:5の比率を持つ三角形は直角を作ることが
知られていた。ピラミッドの建設などに利用されたらしい。これは経験的な事実であって
証明はされなかった。
↓三平方の定理は、こんな図をかけば簡単に証明できる。
発見者はピュタゴラスともユークリッドとも、いろいろ言われてるが、
もっと大昔から知られていた可能性が高い。
http://www.ndl.go.jp/math/images/F/column6-2-2.png しかし、ピラミッドを建設してたほどの大昔ともなると、さすがに知られてなかったか。 >>3
「二等辺三角形の底角」という数学の話と、「地球は球体」という物理の話では、哲学的にはちょっと違うんじゃないか。
物理の話に、経験や実験がモノをいうのは当たり前。
数学はそれとは違う・・・っていうのは、カントの「純粋理性批判」の最初のほうに出てきた覚えが。 >>14
lim[x→α]f(x)=f(α)
⇔∀ε>0,∃δ>0 [|x - α|<δ⇒|f(x)-f(α)|<ε] 「ε-δ論法」って、大学数学での躓きの鬼門となるもののようだね
これ使って、関数の連続性を定義するんだから
位相で使えば、連続写像になるけど >>14
真理に近づけば近づくほど、それは見えなくなる、
見えているのは遠くから欲しているときだけ、真理を掴んだとき、それは実感できるものではない。
真理の中心にいるのに、真理が見えるわけがない。
ご都合の良い真理を心に描き、それを具体化しても、それは本当に真理なのか?
自分で真理を定義しそれを真理だと信じれば、われ思うが故に真理あり。
誰が真理を欲しているか、誰がそれを真理だと理解し認定するか、まずその辺から哲学してみよう。 現代哲学は、真理の不在という前提からスタートするんじゃない。
近代以前では真理の保証人は神だった。その保証が切れたのが
近代以降の科学技術なので、真理不在の中、真理を巡って哲学するというのが
現代における哲学のアプローチになるだろう。
だからこそ、数学が哲学にとって重要なキーになってくる。 数学が人々、特に頭の悪い人たちに敬遠されがちなのは、数学の複雑性にあるのだろう。
もし、数学がシンプルで簡潔なものであれば、人々は数学を忌避することもなかろう。
また、もともと人間の脳は物事を抽象的に把握するようには出来ていないので、
数学は人間の自然性に反する。だから数学は、ごく一部の知的な者のみが扱える
特権的な道具となる。だから、数学は知と無知を分けるフィルターのようなものかな。 数学が人々、特に頭の良い人たちに敬遠されがちなのは、数学の単純性にあるのだろう。
もし、数学が複雑で本質的なものであれば、人々は数学を忌避することもなかろう。
また、もともと人間の脳は物事を抽象的に把握するようにできているので、
哲学は人間の自然性に即しているが、数学は自然から抽象化した形式だから、数学は、
ごく一部の得意な者も論理形式的に扱える万能な道具となる。
だから、数学は哲学的に知と無知を分けるフィルターのような役割をしているわけだ。 支配の道具として使おうとしてるから脅しと嫌がらせが必要になるんだよ 差別と区別は違うだろう。ここは学問板であるのだから、学ぶ意思がある者らが
議論しているなら価値があるが、単に暇つぶしに下らないこと書きに来ているのなら、
そりゃあ、三角関数も出来ない程度のオツムで哲学は無理だろうと、バカにされるだけ。
差別でなく、区別だよ。 プラトンのアカデメイアの学園の入り口には、
「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と書いてあるよ。
それをここでは、三角関数も出来ない低能は荒らしで邪魔だから
このスレ入ってくるなよ、と言い換えているだけ。プラトン同様、
差別しているのでなく、区別しているんだよ。 馬名 文系 哲学・・・・・・。 オッズ 理系 数学・・・。
ダービー予想書いてね。僕はもう済ませました。マルクスが下でしょ。 5ちゃんで学ぼうなんて間抜けな奴がいまだにいるのかw 幾何学と哲学について議論してみろよ、できるのならw ガイジのようなキショい馬鹿づらしてるんだろうよ。
きっと親もガイジだろ 議論ができる人だけ集めるなんて内向的
せっかく開かれた環境なんだからさ 議論するスレとは書いていないですしぃ意見交換とか軽いノリでいいんじゃないですかぁ?? >>45
ところで三角関数できるの君?できてもそんなことしか言えないんじゃ会話にもならないわねぇ 三角関数でも幾何学でもいいから哲学してみなよ、校正してあげるよ >>47
前スレであれほど馬鹿は黙ってろって言ったのにまたそうやって性懲りもなく書き込むのか
いい加減にしろ 無駄口たたいてないで、数学を初めとした理系学問と哲学についてとっととはじめろ>>50 >>50黙っててやってもいいよ、早く学習成果を書き込め豚 黙ってればいいだけなのにどうして黙らないんだろう
かわいそうになってきた >>55
ブーブー 情けなく 泣き ながら 豚 走 するしかない 豚 乙 >>35
幾何学は、プラトンのイデアの元ネタと言って良い。
この世には、純粋な三角形などない。この世の三角形は、みんなどこかが歪んでいる。
では、理想の三角形は、いったいドコにあるのか?
それは、人間の意識の中にある観念。 三角関数できない馬鹿は出ていけ
書き込み禁止を命ずる >>60
三角関数の豚が 豚舎から 発令 しても無駄でしょ 数学を初めとする豚は哲学と生涯関われない件についてのスレはこちらですか? プラトンのイデア論は、数学実在論にも通じる考え方だろうね。
つまり、数学は独断論的あったり、人間の恣意性で運用されるものでなく、
観念として、客観的な抽象的構造物として存在する。人間は、それを想起に
よって引き出しているいるに過ぎないと。ゲーデルも数学の恣意性を否定しているから、
基本的にはプラント同様の数学実在論だろう。
誰かがソシュール使って、シニフィアンとシニフィエの結びつきは偶然的、恣意的で、
そこに必然性はないと述べていたけど、数学はそれとは逆の立場を取るのだろう。
確かに、リンゴは、ゴンリであってもいいのかもしれないし、プラスを−という
演算子で表記しても構わなかったとも考えられるけど、イデア論だと、その様には
考えないだろうね こういうプラトン的な抽象論やイデア論、数学・論理学的なアプローチに
反対するのが樽の哲学者のディオゲネス。このスレだと、哲学に数学は
要らない派の立場に近いだろう。
「ディオゲネスは、知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学を
蔑んだ。プラトンのイデア論に反対し、「僕には『机そのもの』というのは
見えないね」と言った。プラトンは「それは君に見る目がないからだ」と言い返した。
プラトンは、ディオゲネスはどういう人かと聞かれて「狂ったソクラテスだ」と評した。
運動の不可能(おそらくゼノンのパラドックス)を論じている哲学者の前で、
歩き回ってその論のおかしいことを示した。
また「人間とは二本足で身体に毛の無い動物である」と定義したプラトンに、
ディオゲネスが羽根をむしった雄鶏をつきつけて「これがプラトンの言う人間だ」
言った「プラトンの雄鶏」の故事でも知られる」
つまり、経験論がディオゲネスの立場だね。ディオゲネスは犬から思想上の影響
受けていたらしい。だから犬儒学派に入る。 ルソーの一般意志やカントのアプリオリも、プラトンのイデア論に近いだろう。
数学も人間の創造や意匠とは別にアプリオリにあると考えれば、それが数学実在論になる。
太陽や月や宇宙は人間が恣意的に構築したものでないと同様に、その観測に必要な
数学や物理学の体系も人間が恣意的に構築したものではない。だから、それらは
恣意的で独断論的な創造ではなく、真値や法則、定理の探究という発見的な存在となる
だろうね。 ゲーデルを引用してみよう。彼の数学に対する考え方が分ると思うので。
数学的命題が時空において存在する物理的あるいは精神的対象についての
命題でないという主張は、正しいのです。たしかに数学的命題は現実の
物質世界に関わりなく、数学的用語の意味に基づいてのみ真だからです。
けれども、その数学的用語の意味は人間が生み出したものであり、
意味論的規約においてのみ存在するという主張は間違っています。
私が信じている真理とは、それ自体の客観的実在の概念であり、人間が
生み出すことも変化させることもできず、ただ知覚することや記述すること
のみができる概念なのです。
したがって数学的命題は時空において存在する対象について、何事も
主張しないにもかかわらず、数学的概念の関係について何かを主張して
いる限り、非常に明確な客観的内容を持つと考えられるのです。数学の
概念の間に非恒真命題的関係が存在するということは、数学における
原始用語、すなわち公理が仮定されなければならず、それらはどのような
方法でもa=aに還元されるという意味で、決して恒真命題ではないけれども、
考察中の原始用語の意味から導かれるという状況が現れます。 中略…
しかし、ここで用語「恒真命題的」、すなわち、それらの内容がない
(空虚)という用語を用いることは、ここではまったく不適切です。なぜなら、
これらの公理を満足する集合、あるいは、これらの公理の無矛盾性の概念と
いう存在を主張することさえ、集合自体の概念や他の類似した性質の抽象的
概念を再び用いることなしでは証明できないほど、空虚からは逸脱して
いるからです。
……
私はここで用いている分析的という用語が「私たちの定義によって真であること」
を意味するのではなく、むしろ、「そこで生じている概念の本性によって真で
あること」、もっと総合的に言えば、「物事の性質とその行動によって真である
こと」を繰り返し確認しておきたいと思います。この分析的という概念は、
分析的命題が決定不可能、あるいは確率的にのみ決定可能であることが完全に
起こりうると意味で、「内容が空虚」という意味からは程遠いのです。 というのは、概念の世界に対する私たちの知識は、物事の世界に対する知識
と同じように制限されて不完全であるかもしれないからです。ある状況では
この知識は不完全であるばかりでなく、不明瞭でさえあることも否定すること
はできません。このようなことが生じる集合論のパラドックスは、しばしば
プラトン主義への反証として主張されますが、私は全くそうではないと
考えています。
たとえば、私たちの視覚はしばしば触覚による知覚と矛盾しますし、
水の中の棒は水面から下では曲がって見えるかもしれませんが、
それを正しく考えることができる人であれば、誰もそのように結論
することはないでしょう。 …もちろん私は、ここまでお話した考察が、数学の本性についての
実際の証明を意味するとは考えていません。私が断言することのできる
最大の成果は、数学を単に構文論的規約とそれらの帰結から成ると
みなす唯名論的見解を反証したことです。さらに私は、数学が私たち
自身の創造であるという一般的な見解に対して、強い反論を提示しました。
しかしプラトン主義に代わる他の選択肢としては、特に心理主義と
アリストテレス的実在論も挙げられます。プラトン主義的実在論を
確立するためには、これらの理論は各々が反証されなければなりませんし、
しかも、それ以外の可能性がないことが徹底して示されなければなりません。 心理主義の可能な形態の一つは、概念が私たちの意思によって創造
されたものはなく、私たちが変化させることのできない実在として
与えられたものであり、その概念の関係を研究するのが数学だと
認めます。ところが、この見解によれば、これらの概念は単に人間の
心理学的傾向であり、いわば思考機械における車輪のようなものに
過ぎないと主張します。より正確に言うと、概念は次のような傾向
によって構成されるとみなされます。
1.私たちがそれを考える時、ある心理的経験を持つこと
2.他の概念や他の経験的対象に対する関係について、ある判断を
下すこと、あるいは、直接的知識の経験を持つこと
この心理主義的見解の本質は、数学とは私たちの思考や確信などと
同じように、心理学的法則に基づく精神現象だと考えるものです。
その意味で、私たちの感情が心理学的法則で解明されるのと同じように、
数学も心理学の一部として解明されるとみなすのです。 この見解に対して即座に浮かぶ反論は、もしそのような見解が
正しいならば、人間は、いかなる数学的知識も持てないだろうという
ことです。たとえば、この見解によれば、私たちは2+2=4を
であることを知っているのではなく、私たちの心理状態が、
私たちは2+2=4と信じるように構成されていることになります。
しかしそれでは、他の心理状態によって、それと正反対の結論に
到達すべきでない理由が説明できません。したがって、それが
いかに小さな領域であっても、人間が真であると知ることのできる
数学的命題が存在する以上、心理主義的な見解を受け入れられない
のです。 私は、ここで問題になっている概念を十分に解明した後には、
これらの議論を数学的厳密さによって構成することができる
はずだと考えています。そしてその結果は、否定しがたい一定の
仮定に基づいて、特に、いずれにしても数学的知識が存在するという
過程に基づいて、プラトン主義的見解が唯一の可能性であることは
否定できない結果になるに違いないという印象を持っています。
それによって私は、数学が非観念論的な実在を記述するものであり、
それは人間精神の行為や心理的傾向から独立して存在し、おそらく
非常に不完全にのみ人間精神によって知覚されるという見解を意味
しています。 ゲーデルの解釈はとても助かる。
が、丸ごと貼らずに、貴方自身の要約を書けば良い。
各知性間において共有出来る領域に、数学は在る。 ヒラリー・パトナム
私には、哲学が今日の古典的数学に見出している困難が、真の困難とは思えない。
そして、私は、我々が四方八方から提案されている数学についての数々の哲学的解釈は誤っており、
「哲学的解釈」はまさに数学が必要としていないものだ、と考えている。
まともな哲学的立場だな 結局はゲーデルの信仰告白に過ぎないし数学は日常の言語よりも厳密なコードを設定しているからの一言で終わる 数学の客観性は、あの懐疑的なヒュームでさえ認めていることだよ 私の考えだと、哲学や形而上学から数学や論理学的な要素が一切取り除かれると、
それは単なる言葉遊びや独断論、ポエム、主観的信念の表明(信仰)と記述に過ぎなく
なるので、それは哲学を不毛性や無意味なトートロジーへと追いやると思う。
だから、古典的な偉大な哲学者は、大抵、数学くらいは出来るし、それで己の哲学を
整序しているので、その思想がある程度の普遍性や、それなりの射程を帯びたものと
なるのだろう。
哲板でも、馬鹿そうな書き込みをしているのは、だいたい数学が出来なそうな奴で、
頭良さそうな書き込みをしている者は、たいてい数学の素養がありそうな者だ。 哲学と数学は最初から最後まで無縁であって、哲学に数学がかじりついている
後塵を拝してな、それだけど。 >>哲板でも、馬鹿そうな書き込みをしているのは、だいたい数学が出来なそうな奴で、
頭良さそうな書き込みをしている者は、たいてい数学の素養がありそうな者だ。
数学できない馬鹿が言いそうなこと「ありそう」。
数学出来ない馬鹿は定義もせず印象で語る。
数学出来ない馬鹿は書き込むな。 数学というのは概念の拡張だね。ある式の解がゼロと自然数では導けない場合は、
整数の概念が必要になる。それでも解が求まらない場合は、有理数、以下同様に、
実数、複素数いう風に、解を得るために数の概念を拡張していく。
あとは、構造の抽出、もしくは対象に構造を入れていくのが数学。
集合に位相という構造入れたり、集合の構造ごとに、半群、モノイド、
群、環、体といった構造を入れていく。
こうした数学の抽象的な操作が哲学的な思考と相性がいいのは自明。
なので、数学に哲学が不要とか言っている奴らは、それだけで十分低脳認定できるよ。 間違えた、哲学に数学が不要と言っている奴らはDQNに修正。 なんか数学で哲学したとしたら、それ端から見たらただの数学じゃんって思っちゃいそう ある式が実数以下の数の概念では非可解である場合は、数の概念を拡張し
複素数を用いることで可解性となった場合、その意味は、抽象度を
上げたことによって、解を導くことが可能になったということだ。
これを言い換えれば、抽象度の低い状態のままでは、その式や問題を
解決出来なかったということ。そして抽象度の高い概念は、抽象度の
低い概念を包摂する、もしくは止揚する。哲学でもヘーゲル弁証法などで
止揚が使われるけれど、それは要するに矛盾したものやアポリアあっても、
抽象度を挙げれば、それは可解性の問題となって、ちゃんと解けるぞ、と
言っているのと同じこと。逆に言えば、抽象度の低い人間は、問題解決も
儘ならぬと言えるだろうね 哲学は数学に限らず物理でも量子でも必要に応じて情報を用いれば事足りるからな 人が考える哲学らしさがやんわりと哲学を包んじゃってるよね ヒラリー・パトナムが言うように、今日の古典的数学に見出している困難が数学にとっての問題かどうか峻別できていないんだろう
それを哲学に所望している形だか、例えば小数点以下が割り切れないのは、数学が自ら出した答えであって
拡張したところで、数学構造では解答不能、数学はあくまで形式的性質・関係についての抽象的な構造の定理を用いる学問。
哲学がその抽象概念を専門に問題とする必要がどこにあるのか?ないな。低脳認定するべき。 哲学はなんでもウェルカムだよ
これはだめ!てのはいけない 入り口が見えないから拒絶されているように感じるのかもね、頑張って数学的に探してみるがよい哲学の門は常に開いているよ、歓迎されるかどうかは知らないが メイヤスーは、その研究分野に「数学の哲学」がある。彼は数学実在論の立場だね。
やはり、まともな哲学者は数学についてもよく考えている。日本の思想家で国際的に
著名となる者が出ないのは、数学がまともに出来ないから普遍性を獲得出来ないんだ
ろうね。「複素解析」って、一体何ですか?というレベルの人間に、抽象度の高い
高度な哲学的構築物を構成出来る訳もなかろうから。 あと、ヒラリーパトナムを引用している人がいるけど、この哲学者の師匠、クワイン
だよ。もろ、数学系じゃん。
>哲学以外では、パトナムは数学や計算機科学の領域でも業績がある。
マーチン・デービスとともに、ブール代数の充足可能性問題を解決するために
デービス・パトナムのアルゴリズムを開発し、ヒルベルトのいわゆる第10問題が
解決不能であることが証明される一助となった
つまり、パトナムも数学が得意だということが分かる。一流の哲学者はみんなそんな
感じ。水槽脳の思考実験は、なかなか秀逸だね。宇宙がインフレーションし続けている
というのも、確かに単なる脳内現象かもしれないよ。 哲学は高度な数学的構築物を構成するはずだという思い込みが数学実在論とやらの確信につながっているんだろうな
ここに一流の哲学者なんてそもそもいないし、一流の数学者のいないからね。 水槽の中の数学(魚)は水槽脳の哲学と相性好すぎて水槽の中から出られない構造になっているところが秀逸 哲学をかんがえる時に色んな事に興味が湧いた
そのなかにたまたま数学があった
それだけだ 事象や対象における不変的な性質を探求する上でも、数学は最適なツールと
なることだろう。三平方の定理を考えてみれば分る通り、数学的な真理は
時を経ても変わらない不変的性質を有している。
本来的な哲学もそうだ。今年だけ通用する理論とか思考など哲学のすべきこと
ではないし、ましてや目下の時事問題をジャーナリズム風に記述するなど、
哲学からもっとも解離した行為となる。哲学なら、時代性や時事性にベタに
絡め取られるのでなく、時代を超えて通底している不変的性質や不変量を
抽出して、初めてその考察が哲学的なものと呼ばれるものに値するようになる。
せめて1000年単位くらいで通用する認識、そういうのを考えるのが真の哲学者で、
今世紀だけのこと、あるいは自国のことだけ考えているような者は、のらくら者と
呼べばいいと思う。 以上、「のらくら」にしか反応出来ない三角関数も出来ない馬鹿>>104の一行レスでしたw のらくら一言で見事に抽象化したちゃねらー哲学にブヒブヒ唸らされる三角関数の豚w マンガリッツァに失礼だ、誰にも食用とされない三角関数の豚は料理されることに哲学的な味がある サインコサインタンジェントリックな哲学レシピに震える三角関数の豚 セカント、コセカント、コタンジェントってどの業界で使うんや 話の流れ関係なく頼まれてもいないのに数学やらプログラミングの話はじめて、称賛されると思ったら板違いって言われて泣きながら「三角関数出来ない馬鹿」って必死で住人を見下して心のバランスをとろうとするパターン、何回やれば気が済むんだろう?
学習能力ゼロなんかね? 双曲幾何学、またはボヤイ・ロバチェフスキー幾何学とは、まっすぐな空間
(ユークリッド空間、放物幾何的空間)ではなく、負の曲率を持つ曲がった空間
における幾何学である。ユーグリッド幾何学の検証ということでサッケリーなども
幾つかの定理を導いているが、完全で矛盾のない公理系を持つユークリッド幾何学
ではない新しい幾何学と認識してまとめたのは同時期にそれぞれ独立に発表した
ロバチェフスキー(1829年発表)、ボヤイ(1832年発表)、およびガウス(発表せず)
らの功績である。 ユークリッドのユークリッド原論の5番目の公準(任意の直線上にない一点を通る
平行な直線がただ一本存在すること、平行線公準)に対して、それを否定する公理を
付け加え、その新たな平行線公理と無矛盾な体系として得られる幾何学である
非ユークリッド幾何学の一つである。双曲幾何学の場合には、
「ある直線 L とその直線の外にある点 p が与えられたとき、p を通り
L に平行な直線は無限に存在する」という公理に支えられて構成される。 双曲幾何学では、ユークリッド原論の平行線公準以外の公理公準はすべて成立する。
これは平行線公準が独立した公準であり、ほかの公準からは証明できないという
ことである。なぜならば他の公準から証明できるとすればその他の全ての公準が
成り立つ双曲幾何学でも平行線公準が成り立つはずだからである。この幾何学は、
もともと平行線公準をユークリッド原論のほかの公準から証明しようとして
作られた幾何学だが、皮肉なことにこの幾何学により平行線公準は独立で
ほかの公準からは証明できないことが証明された。 例えば、平面においては任意の直線にその直線上にない一点を通る平行線は
一本しかないが、無限に開き続ける漏斗のようなものにおいては、任意の直線に
その直線上にない一点を通る平行線は無限に存在することになる。このような面は
ベルトラミーの擬球面と呼ばれ、双曲幾何学の成立する面(双曲平面)の一種である。
また、ベルトラミーの擬球面などの双曲平面は、双曲幾何学が完成した後に発見された。 以上は数学的な双曲幾何学だったが、物理学的な双曲幾何学によりこれを
現実の世界に応用することができる。 高速で回転する円盤上ではローレンツ収縮
により物体の長さが縮む。このとき円盤の中心から遠ざかるにつれて回転速度が
速くなるため、端に行くほどローレンツ収縮の効果が強く出ることになる。
このような場合では二点間を結ぶ最短距離は(円盤の直径を除いて)回転の
遅い中心よりの線になり止まった状態の円盤から見ると曲線になる。
つまり高速で円盤を回転させたために直線が曲がり3次元の空間が負の曲率を
持ったのである。 実験ぶつりやさんにはむずかしい話だなぁ
相対性理論の背景にある深遠な数学の御話ありがとね それを考えるのが俺たちがここにいる理由じゃないのか >>121
ブルーバックス読みゃ書いてある程度の書き込みご苦労さん そんな提案をするってことは哲学と数学の関係について話す気がないのか
(自分は話す能力がないけれども) 原論の第五公準を否定することで広がる数学があり、実際の現象にも応用された。哲学で似たようなことあった? >>128
理系は学んで理解した知識で現象を変え結果をだす試練と栄誉が哲学的に与えられる
似るも何も、本質的な概念を哲学が享有しているから >>129
済まない。"哲学的に与えられる"ってどういう事でしょうか。 >>131
また興奮した豚が出てきそうだから、すまんが自分の頭で答えを見つけてくれ。 豚じゃなくなれば理解できる可能性は残るということだったんだ >>132
勘違いさせてすまん。
126は長文カキコに対して言ってる。
122-124にはかかってないんだ。 ただ数学の話するだけなら数学板でやればいい
哲学板のスレなんだから哲学と絡めるのは当たり前のこと
それすら理解できなず数学の話だけ延々やる日本語読めない馬鹿は困る 無知にも程があるよね。
ドルゥーズ = ガタリだって、リーマン幾何学やリーマン空間、リーマン多様体の概念を
使って哲学しているよ。構造を哲学するなら、幾何学や非ユークリッド幾何学、数学を
使うのは自然で当り前のこと。馬鹿は三角関数さえできない己の無能を恥じることだね >>139
ドルゥーズ = ガタリの数学力が中学レベルであることを、
ソーカルが証明したのでは? >>144
ありがとうございます。では哲学のうち客観性のあるものを数学、そうでないものは哲学という認識でしょうか? 馬鹿と呼ばれる人は多いけど
賢いねと言われる人はここにはいない
その理由は? >>147
哲学とは、学問の構造自体を指します。
他者に示される事が必須なので(でないと役に立たない)、
客観的な視点は必要です。
哲学のうち、要素と演算に特化したものが数学。 ありがとうございます。
客観性と再現性が求められるのは数学ないし自然科学の特徴と思っています。
数学こそ位相構造や代数構造など構造を扱うもの学問と思っています。
集合の要素に対応する写像、関連付け、分類といった図解できるもの(構造)は数学の扱う領域という認識です。
哲学は定義についてどうあるべきか、先日の例で言えば公準とはどうあるべきかといった話
なんとなく分かってきた木がします >>147の要点は学問の構造上、要素と演算に特化したものが数学という事であって
哲学が学問の構造自体を指すという極端に狭義な表現は
主観的な定義だと注釈を付け加えるべきだなという感想ですね、客観的な視点を重視するお方なら。 上で述べられた双曲幾何の話が単に事実を列挙されただけの印象を受け、123、128の質問をしました。
第五公準だけ他とは違う違和感から、色々な試行錯誤の後、それがどうあるべきかという哲学的な問いに至った点書いた本人の気持ちは察することも出来ませんが自分の中で一つの帰結が得られ納得しました。言葉足らずですみません。 >>154よくわからなかったけど(こっちの無知が原因)、レスありがとう >>153
愛とは○○である。なぜなら…というような主張が浮かんだので、哲学に含まれる数学との違いは客観性であると思い書きました。もちろんそれだけでは区別できず、再現性であったり無矛盾かどうかもキーワードになります。 >>142
>ドゥルーズ = ガタリの数学力が中学レベルであることを、
ソーカルが証明したのでは?
していないよ。無知だね君は。むしろ、ソーカルは、D=Gが高度な科学的知識や数学を
理解していることは認めると、そのことは評価していた。リーマン多様体使っている彼らに
中学レベルとかバカだろう。お前のレベルだろ、中学レベルの数学はさ。 哲学は学問の構造自体を指す、という表現が誤謬を誘ってしまった、すまん。
構造ではなく仕組み。
疑問を持ち、回答を模索する。
これが哲学。
全ての学問は哲学から始まった。
故に、数学も哲学に含まれる。
現在は、各学問に対するメタ学問を指す。
学問の仕組み自体が哲学。 数学に哲学が必修かというと、そうでもないと思いますよ。
経営哲学なんかの方がより高度で難しいと思うよ。一般書とかね。 >>していないよ。無知だね君は。むしろ、ソーカルは、D=Gが高度な科学的知識や数学を
理解していることは認めると、そのことは評価していた。
要引用だな >>157
いや、中学レベルの数学にも達していないな。
算数レベルだと思われる
>>162は、養護学校卒レベルだろう 学校で学ぶ数学は既に体系化されてあるので哲学は必要ないかもしれない。新たな数学を生み出す現場ではクリエイティブがないと出てこないし、それには哲学や価値観がいる。 ビジュアルでつなげられるところまで数学の哲学的クオリティが完成すれば、人間の哲学をハイパーテキスト化できるかもね というか、現代数学の方が、現代哲学よりもずっと難解・高度で、先に進んでいるからね。
少なくとも教師と生徒くらいは離れているよ。 確かに、数学のための数学に進んでるから一般には無関係状態だしな
そののち、近づいてくるまで哲学が気長に待つ構図 >>157
同意。
D=Gは日大数学科程度の数学力は持っている。
ソーカルに指摘されて、D=Gは
「知ってる数学用語を書き出しただけで、意味も分からずに書いてしまった」
と弁解している。 へー
数学は理解しようと思わないと全然勉強の手が進まない
無知な我々を許して やたらと何でも人格に結び付けたがるんだよね。
論文が著名なジャーナルに掲載されたとか、〇〇賞を受賞したとか、
〇〇大学で〇〇という職位にあるとか、結局、その人が職業的に個人として
どれだけ成功しているかって話で、職業的に成功しているからお手本にしろ
とでも言いたいのか?
数学で解法に名前が付けられていても、それは、人格とは切り離された
技法として確立されているから誰にでも役立つのであって、その名前の
人が本当にその解法を発見したのかどうかすら不確実なことが多く、
別に、実は違う人物がその解法を発見していたのであっても、
その解法を利用する人々には何の問題もない。ましてや、その名前の
人物が職業的に成功したかどうかなんて、何の関係があるというのか。
工学技術においても、まったく同じだ。開発され、有効な技術は、それ
を開発するのに貢献したのがどのような人物であったにせよ、後世に
残り、利用される。
哲学というディシプリンが、そのような個人の人格の成功/失敗をお手本と
することにこだわっている限り、哲学というディシプリンにおいて本当の
意味で哲学をすることはできないだろう。 >知ってる数学用語を書き出しただけで、意味も分からずに書いてしまった
これは、もちろん、彼らは本気で言っていないけどね。ソーカルがD=Gを
批判したのは、彼らが高度な物理学や先端の数学を理解していないから
ではなく、それらを用いて、本来それらを適用すべき対象でないもの、たとえば
政治システムや社会システムとか、資本主義批判などへ縦横無尽に、ある意味、
恣意的に用いたことに対して、それは科学ではない、高等レトリックに過ぎない、
だから、物理学者の俺なら、簡単にその程度のものなら書ける、ということを
実地でポモっぽい文章作って証明してみせたのさ。
でも、ソーカルのポモ批判は少し変なんだよね。だって、D=Gは科学者でないの
だから、別に何を書いてもいいのであって。そこに先端の数学を使おうと
科学知識を使おうと本来、自由であるはず。ただ、ソーカルの目にはそれが
衒学的な紛い物に映ったというだけの話。つまり、好みの問題だよ。
哲学者が最先端の科学や数学に通じていることは、むしろ、望ましいくらいだ。
三角関数も出来ないで哲学とか言っている連中の方が、むしろ知的レベルの低さでは
異常であり、特異点になっているよ。 哲学的な知的レベルの評価ができる人間なんていないんじゃないかね、異常とか特異点とかジャーゴンな印象に知性が感じられないように >>171
同意。
ソーカルの専門は物理で、数学は素人だよ。
ソーカルの数学力は日大数学科の3年程度だね。
ということは、ソーカルが言ったなんてことは何の意味もない。
それに反論できなかったD=Gの数学力は至学館レベル。
そうだとしても、お前らの哲学力も日大哲学科1年の足元にも及ばないわけで、
それでいいじゃないか うん
哲学は自由だから
数学もロシア語も同じ
出来ないのではなくやろうとしないだけ
やろうとしなかった事がやっている人にとって「愚か」であるから、そこに知的レベルは関係ない >そうだとしても、お前らの哲学力も日大哲学科1年の足元にも及ばないわけで、
なに、哲学力って?その力はどうやって測るのかな。哲学史に通じているとか
古典的哲学者の一般的な学説に通じている、それをもとに多少論文書けるくらいの
意味で言っているだろうけど、そういうのを哲学力と言われると、やや疑問が生じる
けどね。むしろ、それは既存哲学の解説屋やファシリテーターになっているだけ
じゃない。日本でまともな哲学者が輩出されないのは、そういう紛い物の哲学力に
安住しているからだろうね なんか哲学的だね、というのは怠け者の誤魔化しにも聞こえるね。
言い訳や屁理屈、言葉遊びや詭弁、椎名林檎の歌詞も哲学的だね、と言える訳で。 >>181
自己評価だけに自分の哲学に適う文章や意見について哲学的だねと、判断しているだけで評価してるわけじゃないし
ましてや掲示板の書き込みだけで誰かの哲学を把握できるわけもなく。
>>117は何を基準に哲学的じゃないと言えると酷評してるの? 哲学的では、単なる自己満足のポエムでダメなんじゃないかということを
示唆したまでだよ。それが哲学だと呼ばれるレベルになるためには、それなりの
体系的な記述が必要とされる訳であって、それがある程度、周囲に認められたり、
受容されたり、人々を唸らせてこそ、それは哲学と呼びうるものになり得る。
たとえば、東浩紀の「存在論的、郵便的」のような異様な熱量と密度の濃い思想書
書ける人は、哲学者と呼んでいい訳で、単なる自称哲学者とは異なるよね。
素人には、ああいうもの、なかなか書けない訳でしょ。 >>185
哲学だと呼ばれるレベルが基準なのかな? 他人の評価、した人の解釈次第だよね、評価されなかったら哲学曲げるってのもどんなもんなの? だから、評価されないレベルの哲学じゃダメなんだよ。
人々が驚き魂げるような新たなパースペクティヴや着想を提供しないと。
既存の哲学と同じことやってても無意味だろ、それなら古典を読めば済むのだから。 哲学は納得できる範囲にだけある
たった一人しか納得しなかったとしてもその人にとっては哲学
納得できない事が納得できる人にとって「愚か」だから哲学的かどうかの閾値はひとつに定まらない 学問の世界でも正常化バイアスを最大限に利用している
これは、学問の世界で世界のトップ・レベルとされる人々の生態を直接に
それなりに長い期間、観察する機会がなければ、にわかには信じがたいこと
だろうけどね。それで、学問の世界で名声を確立し、認められている
という事実によって騙されるか、学問に全く価値を認めず、反感を抱くことになる。
学問の世界自体が正常化バイアスを徹底的に利用して、フェイクの世界を
作り上げて、人々に反感を抱かせるか、共犯者にするかの二分法で
対立を煽ってように仕組まれていることに永遠に気づかない。 当然、共犯者は、そんなことはないと必死に否定する。
共犯者ではない人間は、学者は現実を知らない愚か者だと自己満足する。 私は学者の書いたことを平気で無視したり、批判したりするが、
別にそうすることで、自らが代わりに学術的な権威として認められたい
とか全然思ってないんですよ。こんなところに書き込んでいるのだから、
当たり前だけど。「学問の世界」と呼ばれるところで、世界的に
名の知られている人々によって行われていることがどれだけデタラメで
あるかは、直接の経験でよく知っているので、いくらダメージ・コントロール
のための発言を聞かされても、心を動かされることがない。
無論、まともな研究をしている人々は大勢いる。まともであるかどうかは、
その研究の内容によって判断されるのであって、それ以外のものは
完全に無視して構わないと考えている。 哲学的に見てフェイク世界がないと、専門分野は科学的に発展しないといっても過言じゃないんじゃないかなぁ(想像)
だまされる人がいてくれるお陰で現実の哲学的現象が消え去らないというか。
対立を煽っても仕組まれてても、それはそれで競争原理の機能を果たしているわけだし、気づきの
機会が損なわれるわけでもない。
191が言ってるように、納得できる範囲にだけある哲学という、範囲は学問や人生経験重ねることで
確立してくるもので人生観や価値観も運や劇的な変化でもなければ、そうそう変わらないしな。
自分が納得してる哲学を形成してたらわかると思うけど、それだけで他人を愚かだとか
本心から見下したりできないし、(気分的なものは人間だからあってもね)正常化バイアス?でもなんでも
人間のためには、間を引き継いでいくしかないから、コントロールされてしまっても
されていることに気づかなければコントロールされていないのと同じだし、気づいたときは見っけもの。
まぁそんな感じで、哲学は生ぬるく息を潜めつつ人間の根っこを預かればいいんでないの? 哲学は所詮素人相手の商売だよ。
ワイドショウは偏差値45に受ければ視聴率がアップする。
哲学は偏差値55に受ければ本が売れる。
数学は偏差値95に受ければ大数学者になれる。
だから、
「数学を初めとした........」
なんて数学から見れば意味がない。 哲学を商売だと思う価値観の人もいるし面白いね
すべての価値観を哲学は黙認する
真に自由で公正な平等
哲学は高尚ではないが偉大だ >>125
君のレベルだと、加法定理も分からんだろうがw 数学は暗唱だから最近は記号が増えたけど、実数解が出ないとどうにもならないんじゃないのかなあ。素単位が少ないし大した計算量になっていないのが
最近の数学の流れだよ。哲学は一向に議論が進まないことを特質としていて、
まあ数学と哲学では学問の質が違いますよ。 数学?商学関係の方がいい学問があるんじゃないの。
経営経済、とか、そういう風に役に立つかもしれないけど、応用しないで
数学自体を突き詰めてみてもあまり意味はないでしょう。 高校なら政治経済とか、昔でいうたら倫理とか、そういう学問に数学、数学後
が必要でしょうね。哲学版でいうのであれば。
数学なんて中学で初出だから、どちらかというと基礎の学問で
高校では分岐していって、色々数式、法則を使った新しい学問があるから、それでもその後のことを
やっていないと意味ないわけで。 いくら計算したって、いくら複雑な関係性を考えたって、物事の捉え方は
単位がどう認識されるのかによって変わるからなぁ。その最も重要な
部分を無反省な常識に依存してしまうと、いくら数学的に高度な技法を
用いても、陳腐な結論しか導き出せないんじゃないかな。 数学は単純化をしすぎたってこと?それならなおさらね。 理系:プロ相手の商売(数学、物理、工学)
文系:素人相手の商売(哲学、文学、法学等) 陳腐な結論を導き出してでも人間を動かさずして、反省成り立たぬだな。
巧妙な計器、絶妙なバランス、複雑な頭脳、単純な契機・・・
あまりにできすぎた宿題、哲学することは人生の幸運
生まれて来て良かったとつくづく思う。 >>203
数学が暗唱?
それは君がそのレベルの数学しか知らないだけ 論理と解釈で哲学
論理と「一意な解釈を表す記号」で数学 ガダマー?面白かったよね。経営 経済 の紙面ぐらいだよ。東洋経済とか
ダイヤモンドの方が現実的じゃん。数式なんてやっぱりクルアーンのように働くわけで。
数学なんて
中学で終えたよ。ダブい浪人にならないか?数式にさわると。 記号を手書きするのがいいかと言えば、一つ一つフォントが同じだし、
2ch数学もどうかと思うよ。書かれたもの、真似るものが記号ではなく
到来するものが数字かもしれないから、それを正式にしてもいいわけじゃないの。 公式 ガイド ドラゴンクエスト とかのほうが高くないかなあ。数学どまりより。 ダメージと レベルアップ のほうが数の難題だよ。漢字導入も面白かったし。 攻略というとアマチュアサイドだから、文学的だよなあ。 初期のドラゴンクエストやファイナルファンタジーの空間は、トーラス構造が使われていたらしい。
つまり、位相幾何学やトポロジーの意匠がそれらのゲームには使われているということ。 数学が未来を先導しうるのは、その抽象度の高さ故なのだろうね。
抽象度の高いものが、抽象度の低いものを包含する。
AI、ホログラム、完全自動化、量子コンピュータ、クラウドと、
数学は抽象化の階梯を上り続ける。
つまり、数学が分からないような人間は、未来も分からないんだね。
数学は常に未来志向だから洗練されているように映る。
土着から遠く、野蛮から遠いのが数学。 預言 予言 の違いかもね。性差があって、男子に未来は閉ざされてるから。 市役所の広報が便利だなあ。レイアウト デザインは開拓の余地ありでさあ。
狭い視野にったら、世界を広げてみよう。家の改造費用が障がい者福祉から
支給されるのも朗報だよ。 数術関係もやりこみすぎるほうがいいのかなあ?よくは知らない分野だけど
アイム ノット
ネバ― プレーイアになるために
みたいに。祈祷技術も刷清されるといいね、哲学分野からだけでも。 抽象的でいろんな解釈をもつ概念はいっぱいある
数学の力を使えばいつかそんな概念も一意な解釈をもつ記号で表せるのかな
多義的な解釈をもつ概念を一意な解釈をもつ記号で表現できちゃう? >>220
美学をぶち壊して悪いが現実的な話、科学に包含されて抽象化の階梯を担いはするけど、数学単体は抽象度は上がりも下がりもしない尺度の領分を占めるのは物理学と科学。
数学が常に未来志向で洗練されているように映る事もあるだろう、でも度を超えた数学信仰は、土着から遠く、野蛮から遠い幻を君に与え数学が分からないような人間に見せてしまうだけ。 解釈癖でも 新約聖書や、狂気ぐらいのランクだから、ま、
狂火レベル上げたり、旧約女神転生の事後譚でも掘るかな。 >>225
多義的な概念にそれぞれ名前をつけることでは駄目でしょうか >>229
それらがあらわならいいんだけれども、あらわじゃないことがあって >>230
あらわでない場合、コンテキストで判別できなければ新たに言葉を定義するしかないのでは? 射影平面なやクラインの壺を経験できる方が楽しそうと今なら思える >>232
あらわではない何かが何なのかは分からないから、解釈の際に色んな意味を持ちうるし時として矛盾を含む
数学はこれを無視して定義してオッケーなの? >>234算数レベルで割り算で無視してるから度外視じゃない? >>234
申し訳ない。付いていけてない。
具体例をお願いしてもいいですか? >>235
そうか
確かにゼロで割る割り算は定義しないことになってるよね
なんかwiki見るとリーマン球面について書かれてある。よく知ってる人がいると嬉しいんだけれど
全然別の話だけど、あらわでない所ばかりの「愛」は数学では歯抜けた定義しかできなさそう >>236
「愛」とは何か、「電子」とは何か
と聞かれれば人それぞれ違う答えが帰ってくる
つまり愛、電子には解釈がたくさんある
でも電子はスピン±1/2、電荷-eのフェルミ粒子として表現できる
これが数学の力を借りた物理的に正しい解釈で(うろ覚えなので違うかもしれないけど)、これ以外にこれと同値な正しい解釈はない(と思うが調べてないから断定できない)。
だから電子は数学の力を借りて一意な解釈を持つ記号の集まりによって定義できた
愛は数学の力を借りて表現できるのかよく分からないなと思った次第 同値な正しい解釈がないってのは変だな。忘れてくれ
同値な解釈があっても数学にかかれば明らかに表現できちゃう、の方がいい 相互作用なら2体以上必要っすよ
L(r1,r2) ; r1(x1,y1,z1) , r2(x2,y2,z2) 一方的な愛なら片側だけでもよい。
愛は相互作用なのだろうか。
二回反転してやっと愛になるのではないかと考えてみる。
対称と対象の間に穴があり、同じ穴に落ちようとするのが愛なのかもしれない。 形式的性質、関係・・・数学で正しく定義すると正に形だけの愛だな >>246
そういう事。
仮説を立てたり、結果を推測するならともかく、
先に形だけ作っても、役には立たない。 数学者は、数学の証明方法において特にエレガントさを評価する
・最小限の既知事実や付加的仮定を使用した証明
・異常に簡潔な証明
・驚愕的な方法により結論を演繹する証明 (例えば、一見無関係な既知定理を用いた証明)
・新しい独自の洞察に基づく証明
・類似の問題群を解くための一般化が可能な証明方法 論理合成や論理最小化も、こうしたエレガントさに含めていいかもしれない。
最適化の原理も同様。 >>249
まんま数式化したらいいんでない?
> ・最小限の既知事実や付加的仮定を使用した証明
> ・異常に簡潔な証明
> ・驚愕的な方法により結論を演繹する証明 (例えば、一見無関係な既知定理を用いた証明)
> ・新しい独自の洞察に基づく証明
> ・類似の問題群を解くための一般化が可能な証明方法 >>254
極低出力で広範囲の相関性検索するときのデバイスって感じ。常時接続じゃない端末みたいな。
はぁ?だろうけどw >>255
それは、なるほどなのですが、
人間が意図(使おうと)しなければ、ただ示されるだけな訳で。 >>258
哲学できてないから示されても繋がらないだけかと >>259
理解を拒む哲学というのは、それこそ意味がないぞ。
貴方が自身にとって役立つ、と認識している事なら判るけれども。 今月発売予定のブルーバックスに科学と神ってのがあるらしい 解析学における陰函数は、陰伏方程式すなわち適当な多変数函数(しばしば多変数多項式)
R によって R(x1, …, xn) = 0 の形に表される関係によって(その函数の引数のうちの
一つの変数の値を残りの変数に関係付ける)陰伏的に定義される函数のことをいう。 たとえば、単位円を定める陰伏方程式は x^2 + y^2 − 1 = 0 であり、このときの
y に対する陰函数 y = f(x) は、x^2 + (f(x))^2 − 1 = 0 によって陰伏的に定められる。
この陰伏方程式が、x の連続函数として f を定めるのは −1 ≤ x ≤ 1 に対してのみ、
かつ函数の値として非負の値のみ(あるいは非正の値のみ)を取るものとしたとき
である。すなわち、非負または非正の二つの連続な枝がある。
陰函数定理はこのような関係がいつ陰伏函数を定義するのかという十分条件を
与えるものである。 R が多変数多項式であるときの R(x1, …, xn) = 0 なる形の関係に対して、
この関係を満足する変数の値の組全体の成す集合を、n = 2 のときは陰伏曲線、
n = 3 のときは陰伏曲面と呼ぶ。このような陰伏方程式は代数幾何学の基盤であり、
古典的な代数幾何学では多項式の零点を記述する陰伏方程式からなる連立方程式の解
を研究する。そのような零点集合はアフィン代数的集合と呼ばれる。微分方程式の解は
一般には陰函数の形で得られる。 よくある種類の陰函数は逆函数である。直観的には、函数 f の逆函数は、独立変数と
従属変数の役割を入れ替えることで f から得られる。f が x の函数であるとき、
f の逆函数 f^-1 は、x を y の式として方程式 y = f(x) を解くことで与えられ、
その解が x = f^-1(y) である。
別な言い方をすれば、陰伏方程式 R(x, y) = y − f(x) = 0 を x について解いた
ものが逆函数を与える。例えばランベルトのオメガ函数は、陰伏方程式 y − xex = 0
を x について解いた陰伏函数、つまり y の逆函数として与えられる。 代数函数は係数がそれ自身多項式であるような多項式方程式を満足する函数である。
例えば一変数 x に関する代数函数は、陰伏方程式
a_n(x)y^n + a_n-1(x)y^n-1 + … + a_0(x) = 0
を y について解くことで与えられる。ここで、各係数 a_i(x) は x の多項式である。
代数函数は解析学および代数幾何学において重要な役割を果たす。代数函数の
簡単な例は、単位円の方程式 x^2 + (y^2) − 1 = 0 を y について解いた
y = ±√(1- x^2) である。 ただし、この陽に表された解を特定することをせずとも、この単位円の陰伏的な解に
言及することは可能である。例えば y に関する二次、三次および四次方程式に
対しては同様に陽に表された解を求めることができるが、例えば
y^5 + 2y^4 -7y^3 +3y^2 - 6y – x = 0
のような五次あるいはより高次の方程式においては、一般には解を陽にすること
はできない。それにもかかわらず、陰伏多価函数 g を含む陰伏解 y = g(x) に
関して考えることができる >>266
× 例えばランベルトのオメガ函数は、陰伏方程式 y − xex = 0
○ 例えばランベルトのオメガ函数は、陰伏方程式 y − x(e^x) = 0 陰関数も因数分解も哲学も対象や対照群の中から、共通の要素なり構造を抽象的に
取り出すことだから、そこに類似性を見出すことは可能だろう。
そのため数学に親和性のある者が、哲学において比較優位を持つことは当然の帰結
だと考えられる。それを逆に言えば、数学に親和性のない者は、以下、略 陰関数も因数分解もスポーツのプレーの選択も対象や対照群の中から、
共通の要素なり構造を抽象的に取り出すことだから、...
とか何でも言えてしまうのではないかな。 分析哲学だったら、ウィトゲンシュタインが終わりを証明しただろ。 >>272
スレタイを数学を初め、としたことで数学が形だけは先立っているかのような前提になってるから
数学の形式的性質の関係からして、哲板住人の観点からみた書き込みを
数記号と数式と言語を組み合わせて哲学した感じの関係になれば
哲学を初め理系の学問には影響ないし構わないということで。 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。原版は
国立国会図書館デジタルコレクションで無料で読めます
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V 言葉というのは単に文字全体の部分集合であり、そこに定義付けすることで数学の理論は広がる。言葉の定義は存在しても人によって解釈(解釈の仕方)が違うので哲学の存在意義がある。数学はじめ自然科学は真理の探求が主目的であるが哲学は必ずしもそれを要求しない。 数学 : 主に抽象的な人工言語を使う
哲学 : 主に抽象的な自然言語を使う 確率的なアフィン変換を使うと任意の点列を描けるんだよね 法則:「ある素数pに対し、(p-1)桁のpの倍数は桁をひとつずらしても常にpの倍数となる」
7の場合は6桁のabcdefが7の倍数ならbcdefaも7の倍数(例:356426)
13の場合は12桁のabcdefghijklが13の倍数ならbcdefghijklaも13の倍数
41の場合は40桁
4649の場合は4648桁で成立する、という法則です
これをライプニッツの証明した定理に則ってp>5において証明しますが、
夜までに興味のある人がいたら書き込みます 定理に則ってp>5において説明するとか、数学に片想いし過ぎだな 自然言語において、抽象的な用語や概念が多用されているものが抽象的な自然言語。
文学や日常会話は、非抽象的な用語が多用されているので、非抽象的な自然言語。
法学は、抽象的な自然言語。 『岩波数学入門辞典』が今日届いたが、使いこなせるかな?
例えば、「理想数」……ideal number
クンマー(E. E. Kummer)は円分体で素因数分解の一意性が成り立てばフェルマ予想が肯定的に解決できることに
気づいたが、円分体では一般に素因数分解の一意性が成立しない。そこでクンマーは「理想の世界に存在する数」
として「理想数」を導入し、理想数の世界では円分体の素因数分解の一意性が成り立つことを用いて、
フェルマ予想に関する多くの結果を得た。この「理想数」の考えを後にデデキントが、整理、発展させた
ものがイデアルの概念で、「理想数の世界での素因数分解の一意性」とは、代数体の整数環(代数的整数環)
におけるイデアルの素イデアル分解の一意性にほかならない。ドイツ語の「理想数」という言葉が、
「イデアル(理想)」という語の起源である。
いっぱい新しい世界があって面白いな♪
数学が哲学に寄与するには、ハーモニーの世界を乱すような素因を世界の中に見つけること、そしてそれを取り除くこと、
ということを考えました。 実は、このスレが哲学板で一二を争う哲学的な良スレなんだよ
その理由は、数学が内包している元に、哲学的な要素があるからだろう イデアルも知らない馬鹿は、理想数がプラトニズムのような幻に映るのだろう。
単に数学知識がゼロの馬鹿だと自己紹介しているだけなのに。 >>292
別にいいじゃん
数学の知識を得ようとする数学の知識がゼロの人はバカじゃないと思うよ 学ぼうとしている者は良いんだよ。
291、293のような無知に居直る白痴数ではだめなんだよ >>281
ずらす方向って片方だけなの?
どっちでもいいの? p>5で、適当な値を代入して、p-1桁のpの倍数をサンプルでいくつか乱数生成して、
その逆方向の操作も演算して、とりあえずは自分で検証すればいいんじゃないの こんなところに数学の証明書きますとか、スレタイ読めない馬鹿だからほっとけ 法則:「ある素数pに対し、(p-1)桁のpの倍数は桁をひとつずらしても常にpの倍数となる」
7の場合は6桁のabcdefが7の倍数ならbcdefaも7の倍数(例:356426)
13の場合は12桁のabcdefghijklが13の倍数ならbcdefghijklaも13の倍数
41の場合は40桁
4649の場合は4648桁で成立する、という法則です
これをライプニッツの証明した定理に則ってp>5において証明しますが、
明け方までに興味のある人がいたら書き込みます ライプニッツの定理 : pが素数であるならば、(p-2)! ≡ 1 (mod p) 数学知識って箸が転がっても笑えるレベルで嵌るツボがあるよねw おかしい。ニュートン卿はこのような事を書く方ではなかったはずだ。 https://www.amazon.co.jp/dp/4627062419
Coq/SSReflect/MathCompによる定理証明:フリーソフトではじめる数学の形式化
単行本(ソフトカバー) – 2018/4/18 萩原 学 (著), アフェルト・レナルド (著)
コンピュータと協働して数学する!
定理証明支援系Coq/SSReflect/MathComp,待望の入門書.
◆定理証明支援系とは?
数学の定理証明を支援するソフトウェアのこと.数学の高度化に伴い、
従来の「紙と鉛筆」では証明の構成・検証がますます困難になるなか、
Coqをはじめとする定理証明支援系が開発されてきました。
こうしたシステムには,証明の正しさを保証する機能のほか、証明をコンピュータが
扱える形に翻訳する「数学の形式化」の作業を効率化する仕組みが備えられています。
実際Coqは「四色定理」や「ケプラー予想」といった歴史的な大問題を解くのにも
利用され話題をよびました。 本書はCoqとその拡張言語SSReflect/MathCompの初となる解説書です。
定理証明支援系の研究利用と普及を手がけてきた著者らが開発環境のインストール手順
から基本的な操作、代表的な命令・ライブラリの使い方までを案内します。
集合論、代数学、確率・統計,そして情報理論の簡単な定理を題材に、
Coq/SSReflect/MathCompの使い方を易しく例示.本書をひととおり読みこなせば、
幅広い分野の定理を形式化する力が自然と身につくはずです。
数学者を目指す方は「大規模証明時代の必須ツール」として、プログラマの方であれば
「ソフトウェア検証などの応用を見据えた基礎トレーニング」として、
Coq/SSReflect/MathCompに触れてみてはいかがでしょうか。
コンピュータと手を携えて定理をつくっていく――その新感覚の面白さに、
きっと魅了されることでしょう。 >>307
何をイライラしているの
まずは落ち着かないと ケプラー予想は、17世紀の数学者・天文学者ヨハネス・ケプラー
に由来する、三次元ユークリッド空間における球充填に関する
数学的な予想である。それによると、等しい大きさの球で空間を
充填(パッキング)するとき、平均密度が立方最密充填配置
(面心立方)ならびに六方最密充填配置を越えることはない。
これらの配置の密度はおよそ74.05%である。 1998年にトーマス・C・ヘイルズはラースロー・フェイェシュ=トートが提案した方法に
従ってケプラー予想を証明したと発表した。多数のケース一つ一つを複雑なコンピュータ
シミュレーションでチェックするしらみつぶし法であった。査読者は証明が正しいことを
「99%確信している」と評した。
よってケプラー予想は定理として受け入れられる寸前に来ている。2014年、ヘイルズに
率いられたフライスペック・プロジェクトのチームは、定理証明支援ツールである
IsabellおよびHOL Light を組み合わせて用いることにより、ケプラー予想の形式的証明を
完了したと発表した。 結晶格子構造では面心立方格子は球4個で表せて
体心立方格子は球2個で表せるので、
宇宙の無限空間に球をより高密度に敷き詰めるには、
面心立方格子の構造の方が体心立方格子の構造よりも倍の密度で
それが可能になるということだね 数学は哲学から排除されるべき(もしくは数学のみのレスはこのスレから排除されるべき)と暗に考えている人がいるけれども、これには明らかな理由があるはずだよ
きっと意味のあるとても興味深い理由がある 数学は哲学から排除されるべきと考えている人の問題だから哲学的には排除されないということで それじゃあダメだよ
その人たちの意見を(その人たちの持つ哲学を)聞く必要がある
そこに数学と哲学の間にある隔たりがあるはず(これは言葉の意味の違いという意味じゃない)で、何らかの反省点が見つかるかもしれない
批判や否定、懐疑ではなく論の共有によって分かることもあると思う ただ数学のことを書いてるだけの人にはどういう論があるっての? そっちも大事だね
自分は数学だけのレスを張り付けている人ではないけれど
まず認めてほしいのは、数学も哲学も分かっている人だけがこのスレにいる、というのが誤解だということ
多いのは数学と哲学のどちらかだけ詳しい人
つまり、ここには数学を知らない人と哲学を知らない人が同居している特殊な空間
数学の内容を書いて哲学の人が視野をを広め、哲学の内容で数学の人が数学の世界を探求するヒントを得る貴重な場所にしたい
そうすれば自ずと数学と哲学の関係が見えてくると思う >>308
こういうのって証明とはどうあるべきかの哲学が重要で面白そだね 哲学は人間がやるもの。
数学はAIでもできる。 というか、2045年にはAIだけがやるようになる。 形式的な証明を採用するのは人間ならではの知恵なんっすよ 音で名字=名前な日本人に
会 愛
さんがいて、クレジットカードに表記されている名前
AI AI
だと ポアンカレ予想とは、数学の位相幾何学(トポロジー)における定理の一つである。
3次元球面の特徴づけを与えるものであり、定理の主張は
「単連結な3次元閉多様体は3次元球面 S3 に同相である」
というものである。7つのミレニアム懸賞問題のうち唯一解決されている問題である。
境界を持たないコンパクトな2次元曲面が、どのようなループであっても連続的に
引き絞れば回収できるようであれば、その曲面は2次元球面に同相である。
ポアンカレ予想は同様のことが3次元についても成り立つと主張する。 ポアンカレ予想は、1904年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレによって
提出された。ポアンカレ予想は現在では「単連結な3次元閉多様体は
3次元球面S3 に同相である」と表現される。すなわち、境界を持たない連結かつ
コンパクトな3次元多様体は、任意のループを1点に収縮できるならば、
3次元球面 S3 と同相であるというものである。
ポアンカレ自身、デーン、ホワイトヘッド、古関健一、コリン・ルーケ 、
イアン・スチュアート、ビング、などの数学者達がこの問題に挑戦した。
3次元閉多様体の分類については1970年代に提唱されたウィリアム・サーストン
の幾何化予想があり、これは3次元ポアンカレ予想を含意するものである。 ポアンカレ予想の同値な言い換えには次のようなものがある。
「3次元ホモトピー球面は S3 と同相である」
ここで n 次元ホモトピー球面とは、n 次元球面とホモトピー同値な
n 次元閉多様体のことである。一般の位相空間においてはホモトピー同値は
同相よりも弱い概念であるが、その逆が3次元球面の場合には成り立つ
ということである。そこで高次元には次のようにして一般化できる。
n 次元ホモトピー球面は Sn と同相である。 ポアンカレ予想を n 次元に一般化すると n = 2 での成立は古典的な事実であり、
n ≥ 4 の場合は20世紀後半に証明が得られていた。n ≥ 5 の時はスティーヴン・スメイルに
よって、n = 4 の時はマイケル・フリードマンによって (1982) 証明された。
2人とも、その業績からフィールズ賞を受賞している。
スメイルの証明は微分位相幾何学的なものであったが、フリードマンの証明は
純粋に位相幾何学的なものである。実際、フリードマンの結果はその直後に
ドナルドソンによる異種4次元ユークリッド空間(位相的には通常の
4次元空間だが、微分構造が異なるもの)の発見へとつながった。以上より
オリジナルである3次元ポアンカレ予想のみを残し、高次元ポアンカレ予想は
先に決着してしまった。(微分同相については4次元ポアンカレ予想も未解決である) >任意のループを1点に収縮できるならば、 3次元球面 S3 と同相である
というものである。
この意味は、位相空間をホモトピー群で置き換えて考えると分りやすくなるね。
点というは、あらゆるパターンや型のループが凝縮したものと考えられる。
つまり、点はループなんだね。なぜなら点は、起点a0と終点a1が同じだから、
位相構造で考えるとループと同じになる。だから、位相空間を群の世界に移すと、
それは、>に書いてある点が単位群{e}として表現されることが分る。
外からは全く違った外観に見えるものでも、群などを使って、その位相量(構造)
を見ていくと、実は同相構造、位相不変量だった、なんてことが分るのが
数学的なメタ認知の一つ。だから、抽象度を上げて考えていくのが数学だね。 >>341
> 位相構造で考えるとループと同じになる。
突っ込まれるのが目的? 馬鹿が突っ込み出来ると考えるのは見物だね。お笑いw [0,1] * [0,1] = {e,δ}| e∈[0,1],δ∈[0,1]} 違うと思われていたものが実は同じだった
事が分かるのってすごい そもそも抽象さの度合いを指定する事ができたとして、数学の視点から見るとそれに意味はあるの? ところで>>337の書き込みは>>337にとって哲学なの?数学なの? ウィキ見りゃ書いてありそうなレベルのことを長々と連投して何がやりたいんだろうね
しかも書きっぱなしで哲学には全く触れず
数学の話したいだけなら数学板でやるといいよ
こんな当たり前のこと教えられないとわからないのかな? 数学と哲学の区別がついてないんならしょうがないんじゃない キーワードを知らなければウィキで調べることも出来ないわけで 三角関数もできない池沼は、このスレ出入り禁止!
何度も言わせるな、ボケカス共 >>352
ポアンカレ予想なんてクソ有名じゃん
そもそもこのスレに来る人間は多かれ少なかれ数学に興味を持ってるとは想像出来ないの? >位相と代数の構造に抽象的な上下はない
当たり前じゃん。そんなこと、どこにも書いてないだろ >>355
352じゃないけど 数学で哲学はなぜ学べないのか
に興味があってみてる >>355
クソ有名でもクソ知ってる訳じゃない
自分も名前だけは知ってた ループは点だけでなく、集合で表現すると反射律となるからね。
だから、不等号1<2<3<4<5・・,<1000000000,<n. という関係だと、その自然数の大小関係
にループ構造を作れないので、この集合は半順序集合でも順序集合でもないただの
集合になる。それらの集合を作るには、<の代わりに、≦で自然数の関係を示して
あげる必要がある。
つまり自然数の大小関係を全順序集合にするためには、
N∋∀n<に対して、反射律と関係n≦nが必要になる。 哲学でも対照群の構造を抽出するにあたって、こうした数学的なツールが役立つことだろう。 >>360が構造の抽出を要請される哲学問題の対象郡を具体的に知っていて数学的なツールとやらを用いて哲学問題を解決できるなら、確かに役立つだろうけど、どうなの?できるの? アジカンはサイレンよりループ世代もいるのね。レミオロメンは関東連の対象化。 永遠を前に余りに脆く の方がいいね。精神が脆弱だから発病当説明ではない
解釈だ。 >>362
ラグランジュの未定乗数法を使えば、条件つき極値問題を解けるし、
ヘッセ行列を使えば、detH(ヘッシアン)で、2変数および多変数関数の極値問題を
扱えるようになる。それらを哲学的な問題系へと敷衍・拡張すればいいだけ。 進んでいるんだねえ。関数も三次四次はオヤ次ですか。 >>362
極地問題にどのような条件をつければ哲学問題を羅軍需の未定乗数法で解けるのか不明
哲学的に扱うべき問題かどうかの関係性がヘッセ行列を使っても証明できないのに
敷衍・拡張しても哲学問題系にならないな。 >>351
AIでもできるのが数学
人間にしかできないのが哲学 三角関数もできない>>344には確かにπ_1の計算は無理だなw 人間にしかできないのが哲学というか扱える人間にしかできないのが哲学だろ 三角という図形を、平面で、しかも立体図現象化せずに、あり得る世界だけでで語ることは
善い事なのか?理論なしで、解を得ることの限定の本、簡素化したものを、最初かた使って応用と名乗るのはどうかと思う。 次元が交差すると、複雑な夜霧となったのがアウシュビッツ時代だから、
ま、その先へ進んでいくのは理系かな。 文系 の文法が大事なわけは、実戦数でサービスあるからだね。
ウエルサイユのオスカル見ての通り。 癒しや治療奇跡より文法やぐらーまーの方が大事です。 grad fのような勾配ベクトルを使えば、それは偏微分係数x,y,zを
成分に持つベクトルのことなので、対照群の構造をそれらの勾配ベクトル
を使って比較・計量したりも出来るだろう。それを哲学的な対象に
敷衍・拡張して使えばいいだけ。
ドゥルーズ=ガタリだって、そうしたことかなりやっているよ。
数学的な素養がない無知の輩には敷居が高く感じられるだけで、
それは無知のヴェールが作り出している錯覚にすぎない。 >>366
哲学的な問題系への敷衍・拡張の例を挙げてくれ。
あなたの中の解釈でいいから。 >>371
的を得てますね。
>>373
何かに疑問を持てば、即ち哲学ですから。 ジル と ガタリは精神分析で落ちているよね。
散文としては印象に残らない。千のプラトー時代で限界だったんだろう。 >>381
だから、数学的な概念の哲学的な問題への拡張・敷衍は自由にやればいい
んだよ。別にそこに解釈なんて必要ない。
たとえば、鞍点は極値を持たない。しかし、ある方向から見れば、
鞍点は極大値にもなっているし、また、ある別の方向から見れば
極小値にもなっている。哲学者が考えている対象に、そのような
鞍点に似た二重構造があれば、それを使えばいいだろうということだよ。 >>380
数学は真実なのでなく、公理のもとでの客観であり、真偽を決定できるということ。
文学なら、作者や登場人物の気持ちを類推するのはあくまで主観なのに対して、
「鞍点は極値を持たない」は客観だから、数学知識のある万人に共通理解が得られる。 >>384
哲学が何かわからないけど
役に立つなら 数学をお使いくださいってことですね >>386
うん、数学が出来る人は、どんどん使えばいい。鞍点は、最適化問題にも使われているよ。
問題を主問題と双対問題の別方向2系統で考える。最適化を進行させていく過程で、
その目的関数が一致した地点=鞍点を最適化された地点と考える。AIも哲学的な対象に
なるし、逆にAIの考え方を哲学に敷衍することも出来るだろう。厳密でありながらも、
自由自在な思考が哲学には必要だし、それに数学が適していることくらい簡単に分りそうなものだけどね。 >>387
それは理解した。
その様に用いる事が出来るんだね。
貴方が行える例示に興味があるんだ。
実学としての例示をお願いします。 何でもかんでも他人に教わらないと自分では少しも考えられないのかな。
どこまでも低スペックな脳だなw 哲学に役立てられない数学しか出ない低スペックな脳じゃおおめに見てやって https://www.quantamagazine.org/evidence-found-for-a-new-fundamental-particle-20180601/
Evidence Found for a New Fundamental Particle
An experiment at the Fermi National Accelerator Laboratory near Chicago
has detected far more electron neutrinos than predicted ―
a possible harbinger of a revolutionary new elementary
particle called the sterile neutrino, though many physicists remain skeptical. 数学に自信あっても理系の学問と哲学に弱いとこうなるんですよという見本 物理などは、数学そのものと言える。
たとえば質点の単振動は、変位xはsinの関数、速度vはcosの関数、
加速度αは、微分方程式で表せる。それは、等速円運動を正射影した
もので、時間tでのばね振り子の変位xの運動の様子を表せる。
また、単振動の周期Tも、2π√m/k (kはばね定数)で表せるので、
数学と理系の学問を分離する>>397の発想自体が、バカ丸出しなんだよ 数学は呼ばれれば飛んできて忠実に仕える犬みたいなもの 分野的には最も優れた消耗品だよね、ごみもでないし使いたい放題でプライスレスw >>403数学はおとなしく可愛がられてこそ科学の道具足りえるのだよ、万能だからって偉そうに尻尾振っても犬は犬w https://www.msn.com/ja-jp/news/world/【歴史戦】英団体、韓国兵の性暴行追及へ-米議会議事堂での慰安婦像計画に合わせ/ar-AAyjF62?li=AA4RHB&ocid=spartanntp#page=2 >>397
> 数学に自信あっても理系の学問と哲学に弱いとこうなるんですよという見本
>>403
> 数学と理系の学問を分離する>>397の発想自体が、バカ丸出しなんだよ
数学と理系の学問を分離されたと慌てふためく403の知能が犬以下なのだろう そもそも数学とその他理系の学問を分離など出来まいよ 数学が科学に呼ばれる犬とか言っている偏差値35がいるようだけど、
むしろ、数学の方が主人だけど。数学は科学なしでもやっていけるのに対して、
科学は数学なしでは存立が不可能になる。偏差値35は、こんな簡単な理路さえ
馬鹿なので掴めない 道具を使って仕事をする人がほとんどだが、道具は大切に敬うもんだと教わる
道具がなきゃ仕事ができないから 「数学は必要な時にやればよい」
by Einstein 君達は、そんなに自分の人生から問われているのか…?
違う違う、そうじゃない、と。 他スレでネットという科学の恩恵ツールを使いながら、科学批判する輩がいて笑える。それなら駅前で地声でやって下さい。文明がない時代の方が人々は早死に
しました。すべて科学の恩恵に十分に浴して甘やかされた状態で、
文句を言っているだけです。電気なんかいらないの、人一番電気を消費してきた
坂本龍一と同じです。 宮台とかコミュニティーを復活させよう、と言っているけど、そうならないと思う。
人は最適化の原理で動くので、自然と易きに流れる。だから、昔は良かった式の
懐古趣味ではダメなんだよ。昔なんか、少しも良くなかっただろうし、美化されて
記憶が改ざんされているだけ。常に進化した生活スタイルなり、社会モデルを選択する方が、人間社会には適している。昔と同じままでいいなら、生きている価値はないだろう。以前にはなかったものを生み出してこそ、生きている価値を生んでいると
言える。従って保守主義が、この世で一番、最悪な思想だと思われる。 だから、未来性のある数学はいいんだよね。微分方程式などもそうだけど、数学は
未来を予測することにもよく使われる。過去はどうでもいい。未来が大切になる。
だから、数学を使う科学も必然的に未来志向になる。過去へ向かう科学とか、
考古学みたいなのを除けば、あまりない。 人は最適化の原理で動くとされてきたけれど実際はそうじゃない事が分かってきたらしいよ
先月か先々月か辺りのサイエンスに書いてあった そうなんだ。でも、それも実は最適化の原理で動いていると思うよ。
最適化は、別に効用や利得を最大化することだけではないから。
その人が感じる精神的な満足も最適化の方途となる。
だから一見すると、損するような行為や無駄であっても、
最適化の原理に適っているものがあるだろう。つまり、最適化の概念は拡大できる。 必ずしも最適値ではないっていう話?合理的な選択をとるかどうかとは別なのかね。人間のモチベーションは常に変化しているから 行動に寄与する精神的な作用をパラメタで表現する事になるのか
合理的なことと精神的なことの違いをどうやって明確にするかが全く思い付かない たとえば、ある局面で(就活、婚活など)、人間が2つの選択肢a,bから
一方だけを選択出来るとする。
選択肢aは、全てAIの助言通りに従うことが強いられる。
選択肢bは、AIを使うことは禁止されて、全て自分で判断することが強いられる。
人が選択肢a,bのどちらを選択しても、その人にとっての最適化の原理は
満たしていると思う。アルゴリズムを重視するか、人間的な直感や本能、
経験を重視するかで最適化してaかbのいずれかを選択していのだからね。 ご冗談を
a、bの選択を自由にできてこその最適化ですよ 人はAIの結果を経験として含めた上で他の経験、直感、本能から総合的に判断すると思う
aを選んだらAIに判断の権利を譲る事になるから、それを気味悪がる人は多いはず だから言いたいことはAI云々ではなくて、人がどんな選択をしても、それはその人の
最適化原理にかなった振る舞いだということ。ゴミのような一行レスを書く
馬鹿や掲示板荒らしでも、その本人にとってはそこに効用なり価値を認めている
ということだよ。それが、すなわち最適化 選択は間違ってなかったと思わないとやってられないもんねw 人がどんな選択をして、それによってどんな結果になったとしても、合理化によって最適だったと結論付けるよね
ちゃんと反省して次に繋げられる人はあまり多くない 最適化だの何だの言ったって明日地震が来てしぬかもしれないし
選択してつもりになってるのが人間だからね そうだよ。馬鹿は馬鹿なりに最適化している。もちろん、馬鹿な行為の枠組みの
中においてだけど。知的な人間と最適化している枠組みや対象が異なるだけ。
後者が数学や物理をする間に、前者は掲示板荒らしに勤しむ。 そもそもその人にとっての最適化はその人の生き方
つまりは一個人にのみ適用される哲学 ミクロな視点で見ると最適化でも
マクロな視点で見たらそうじゃない ガチな専門家なら雑誌にコメント書いてお金もらってるよ 哲板とかもそうでしょう。一貫して知的レスを付けられる者がいるかと思えば、
一貫して下らないことばかり書いて荒らし続ける者もいる。どちらも最適化に
励んでいるのだけど、戦っているゲームが違う訳だね。一方は知的レベルを上げる
ためのゲームをしているのに対して、もう一方は知的レベルを下げることに
低脳なりの喜びを感じている。 >>442
喜びっていうか、なんとなく書き込んでるだけだからなぁ 偉大な人の「最適化」による判断は皆も注目するよね
プーチン大統領に国民が質問してその場で回答するテレビ番組は高視聴率だとか 哲板自体、常駐してる少数で回してるだけだからこれといって知的なレスなんてないよな 知的さをたった一つのレベルという尺度で決めるのは難しい
読み手が文章だけで判断するなら、大体文章中の「読み手が知らない単語」の数で決まるんじゃないかな
専門用語を多用していれば自然と知的に思われると思う うおおおおおおお!シコシコシコシコ
ふぅ
は知的じゃないけれど、
村上春樹の限りなく透明に近いブルーの性描写は知的? 知的レベルは抽象度の高さで測れるよ。動物より人間の方が抽象度が高い。
だから人間は動物を制御出来る。AIは人間よりも抽象度が高い。だから今後、
AIは人間を制御してくる。頭がいい人間が数学が得意なのは、抽象度の高い思考が
出来るからだろう。 >>452
それが違うらしいよ
コミュニティにおいて知能指数が高すぎる人は排除される傾向にあるみたい とりあえず何とかして一意なパラメータで表せるって考える習慣ができてるからかもね 数学に対する執着が異様に強くて気色悪いから、弄くり倒したくなってくるのはある >>456
中野信子もそのような体験談語ってた。だって、学校の授業だけで全部覚えられるのが普通で当たり前だと思っている人と、それに周囲が共感できないのは頷けることだろうから。アインシュタインが排除されたのかは知らないけどね >>459
いろんな意味で(この流れだったら知能指数が)近い人でコミュニティは割と自発的に作られるんだよね
きっと >>460
ふーん、それは黒人スラム差別にもつながる発想だね。
知能指数も環境で変わると思うよ。教育環境が充実している富裕層の多い地域は、
知能指数の高い市民が多いだろうし、教育環境の充実していない貧困地域では、
知能指数も高くならないだろう。文化資本も貧しく、ハイテク機器もないとなったら、木登りでもするしかないんじゃないかな。つまり、環境が人を作るのだろう。 >>461
差別するつもりはないよ
知能指数「だけ」なら差別だね
それに人は移動するもんだよ >>437
これ、最適化=現実は1つ、
っていう事が言いたいのかな?
その意味ならば哲学的。 >>449
それは真逆だなー。
簡単に説明出来ないんだから、理解出来てない。 >>458
ちゃうちゃう。
数学みたいなのが出来てる気がする自分カッコいいし難しそうな文系哲学叩いて俺スゲーって認めてくださいお願いだから…
という自己承認欲求の現れだよ。 >>464
専門用語の使われ方の特性を知ってているという過程のもとではそうかも
胡散臭い雰囲気をすぐ見分けることができるよね
テレビ番組の内容、ニュースの解説の人の話、ブログやネットの文章を鵜呑みにする人は一定数いるもんだ 例えば、感情を数学で記述するとどうなるのか?
生物学系の研究者が人の感情をモデル化するのに単に+/−の数値に変換
して何かうまくモデル化しているつもりになっているのを見て、
呆れかえったことがあったが。 >>466
数学板じゃ誰も相手にしてもらえないからって、哲学板でブルーバックスに書いてある程度のことでドヤ顔されてもなぁ 法則 : 数学が出来ない池沼は、その鬱憤で掲示板を荒らす 暴走族とかもそうだよね。学校の勉強ができない鬱憤を暴走行為で解消しようとする。ナマケモノゆえに、正の方向での充実感が得られないので、負の行為でその愚劣な承認欲求を満たそうとする。掲示板荒らす馬鹿と偏差値35の精神構造と一緒。 まあいずれにしても三角関数もできない低脳には、哲学なんて出来る訳もないので、
ここで馬鹿にされ続けるのがいいだろう。己の無能と無学を呪うことだな。 フーリエ変換の話すれば?
教育的なレスもいいと思うけど いいよ、フーリエ変換の話でも。
フーリエ係数はフーリエ級数で展開すると+1,-1,+1,-1,+1,-1,+1・・・
といった感じで振動する。つまり、振動するものや周波性のある対象には、
そこに三角関数で表せる構造を有していることが推測される訳だね。 あとフーリエ変換するためには、単なる波形を有する対象では不十分であると
いうこと。たとえば、音は波形だけど、そのままではフーリエ変換できない。
その波形をスペクトル解析するためには、音を計算可能な数値列に変換して、
ようやくフーリエ変換することができる。こういう処理を数値解析と言う。 数学?中2ぽいよね。中学で初出だから中学の教科だよ。
高校は確率統計とか基礎解析代数幾何微分積分を自分はやったけど。 愛情と未練の関係を数学的に記述するとどうなりますか? そして、身の回りにある波形は周期関数であるとは限らないので=ランダムな波形、そうした観測波形をフーリエ変換するためには、その観測波形の中から
特定の区間を切り出して、その区間が周期関数として繰り返されるように
フーリエ変換を行う必要がある。つまりランダムな波形を周期関数へと拡張、
正則化してあげないといけない。 あと、サンプリングしたデータの中に、非整数周期成分が含まれていると、
ゴーストという突出的な値(ノイズ)を生じさせてしまうことがあるので、それを
除去するために、フーリエ変換では窓関数という特殊な関数を用いて、
そうしたゴーストのあるデータを数値解析のしやすい関数にしてあげることが
出来る。三角窓関数や方形窓関数といったもの、その他さまざまな窓関数があるよ。 >>466
数学で満たされないフラストレーションの塊になっているよね
最適化できなくてますます増幅してるけどw 形式的関係が本来の姿だけに、数学の本来あるべき姿を哲学的に認めたいよね、わかるわかる ,. - ─── - 、
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ', おじちゃん
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l | どうしてはたらかないの?
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l | まいにち いるね
_ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬'´ハ` '`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ'¨不ヽ 技術的な話は本質とはかけ離れちゃうからって本質に相当する部分を平易な文体で書くからブルーバックス風になっちゃうのかも
しかしまあそれはそれでいいのかもね
滑らかな曲線、曲面はsinとcosの足し算で書ける
これはどんな画像もsinとcosの足し合わせで表現できるってこと
カオスゲームというアルゴリズムを使うと任意の2次元点列が描ける
つまりやっぱりどんな画像でも表現できる
係数に具体的な値が代入された数式やアルゴリズムと、それらが表現する画像は一対一の関係にあるわけだ
数学という名の巨大な人間にモナリザを描いてと言えば、彼は巨大な紙に有限個の記号で構成された一つの一意な論理を書いてこちらに寄越してくるだろう 数学と哲学の境界を定めることに意味があるとすれば、教える側の都合?最初に考えた人間の影響? 理系の学問、と哲学の関係がスレのお題目。
数学を始めとした…は蛇足。 科学は経験や感覚的予測がつきものだよね
これに再現性を与えるために数学が役に立ってるわけだけれど
これは人間が判断権を数学に譲った事になるのか
いやなんないな
数学は幸いにも自律していないから、辛うじて人間によって制御されてる >>494
もう12は要らないけど、たてるなら数学を初めとしたはいい加減抹消したほうがいいな 哲学としての『数学』は世間で知られる実用数学とは全く異なる別物 恋愛と 死の空間意識→ 恋愛と 詩の 空間時間意識 モフ ワーズ 数学によるあらゆる概念の完全な意味分解が果たせれば、任意の哲学は単位的な一意の意味を持つ記号の集まりとして一意に決まる >>502
記号の集まりは記号の形式的
に一意に決まっとるがなw 1の原始n乗根など考えれば分かるように、数学は単なるアルゴリズムでなく、
構造を抽出するものであることが分かる。可解性や非可解性の判別も大事だけど、
そこに可解性があった場合、それはどんな構造をした解であるのかを推定できる
ことがネックとなる。哲学も構造や形式をまずは重視すべきだね。 >>503
記号「あ」と記号「い」を使おう
人生とは「あい」である
これは一意じゃない
記号に病的な一意性を与えるのが数学だから、記号は生まれながらにして一意じゃない 哲学としての『数学』をまったく知らないようだねキミたちわ >>507
アフォ
言語は「ひらがな」だろうが漢字だろうがアルファベットだろうが
すべて記号だ 形に意味を持たせたものが記号であってる?
意味が与えられてなくてもそこに形があるならそれは記号と見なしていいのかな 数学とは正しい学問なのか。そもそも数学という学問はあるのか。
フィロソフィーと、マセマティックスの差異は?
それを反復しない哲学と、反復する数学の相性、繁殖はいかなるものか?
と問うてみればよい。 経営判断側からすると、昔の教科を、14〜15才ぐらいに詰め込んだことは
どうなのかなあという問いを立てれる気がするけど。
自分の数学というものはゼミナール系だから、系統立てて
議論するべきだろうな。 総合政策とか、江戸文学総合とかにはかかわりがあったがなあ。
精神分析は阿Q正伝、魯迅からアプローチしたぐらいだ。大陸モノの方が
善い気がするがね。 そもそも、総合と分析は何故、正しいのかって所から頼むよ 資料解釈 数的処理 文章理解 判断推理 ときて何を連想しますか?
正義 と 正伝 どちらが好みでしょうか? >>512
なにも形あるものに限らないんだよ
「音」だって記号になるし
人間の感覚だって記号になる
記号とは人間にとって代理表象となるもののこと 記号でいうたら 江藤淳か ソシュールか、地域環境にもよるでしょうが、
記号と思うと記号に見えるし、何かを忘れるでしょうね。言語というと、
話すことが念頭にけうかぶでしょうか。
手続きを速めに済ませて認識認知近くを送れないものにする時間に哲学
はまだ君臨しているでしょうね。 遅れない。誤字脱字といっても、言い間違いレヴェルより面白くない。
誤変換もね。 たとえば
「そこには、意味不明の記号が記されていた」
というような文なんかよくある
記号か記号ではないかという境界はじつは曖昧
「それでは記号の定義なっていないじゃないか?」という指摘があるかもしれないが
「記号」という用語自体が人間が後から作った「概念」だから
そりゃ曖昧で変なところも出てきて当然のこと 記号?記号というのは書く人(作成した人)に開かれているわけではなく、使用する人に
開かれているから難易度があるんだと思うよ。
意味不明のものとして割り切るわけにもいかないし、完全理解でメッセージ
を伝えることもまれだろう。どう反応するか、どう発声するか、
というようなことが出し手には大事で、受け手の側は、
何かの匂いのようなサインを感じたり見つけたりするものだと思う。 記号の送り手はそれが記号だと送り手に分かって欲しいから工夫するのか
なるほど >>527
誰かにとっては「記号」であっても
別の誰かにとっては「記号」ではないという場合もある
記号というもの自体が
じつはそもそも「現象」に属するものであもある
だから「記号論」とか「記号学」という分野が存在しているわけ こうして「言語記号」を用いて「記号」を説明しているという
奇妙な循環が生じてしまう
しかしそれは仕方ないんだよ 記号論理学の選言って何に使ってるの?用途が意味不明なんだけど
記号論理学で解までの導き方って、どうやってんの? 「記号論理学」というのは
「記号」を使用した「論理学」のことでしょう
論理学のあとに記号論理学は出てきた
記号論理学のメリットは説明すると長くなる集合などの概念を
予め記号に置き換えて記号式化するから
説明が脱線しにくくなる
つまりうだうだと説明が寄り道する輩が多いから
記号でシバリをかけて説明できているかどうかを明らかにさせるため出来たようなもの 記号論理学の計算の仕方がよく分かんないんだけど
定言とか選言とか仮言とかあったよね
あれ、式で、どういう働きして答え導いてるの 寓意性一言の意味すら数学では記述不能だけど、そこはまあ数学信者は最狂だからネ 記号が現象かというとソシュールなら切り分けて区別するだろうね。
江藤なら、そのまま続けるだろうが。
記号で記号を説明することは不可能だね。
なぜなら世の中には記号は一つ或いは一単位しかないからね。
経済学を絡めれば、記号の束が単位ごとに売られているということになるわけで。 >>534
記号論理学というのは
べつに計算しているわけじゃない
数学ではないからね
だから記号論理学にも色々な約束事があるわけ 数学を記述すると意味になってしまわないかい?言語装置や
記憶装置を、使うこともこれからはおすすめになってくるが。
つまりハード数学フリーソフトのようなものがいる。パソコンを超えるね。 >>536
ソシュールは「言語学は記号学の一部」
だと述べているよ 結局、記号論理学、よく分かんなかったんだよな
教授に聞いても、自分でもよく分からないとか答えるし 記号学か。記号というと トウカイテーオー(ダンディー)という記号 の戦記 みたいなもので
急がねばなるまい。 模試記号と論理が接点があるとすれば、論理と言ったら理詰めで親子喧嘩をすれば
見えてくるだろうし、記号と言ったら、走るものの中で記号の先鋭に出会うだろう。 ちなみに「記号学」は
記号とはなにか?という極限の問いをする
「記号論」というのは
記号の経路を示していく学問分野であり
論理学の一部でもある >>540
記号論理学は「外国語」だと思って習得しないと
なかなか理解できないよ
ある何かを意味させるために記号で代理をさせている
それを記号式にしているわけだから
けっきょく「読解」という作業が必要になる
その過程はまさに外国語の翻訳みたいなものだから 0487 考える名無しさん 2018/06/08 09:49:58
数学こそが哲学の本来あるべき姿なんだよ >>496
理系の学問と哲学の関係とかはっきり書いた方がいいだろうな
哲学板まで来て数学だけ語るバカがいついてるから いや、三角関数も出来ない馬鹿が居着く方が問題だなw >>536
記号を別の記号に置換して受け手が理解出来るように工夫することが説明なのかも >>546
JPEGは画像の圧縮にフーリエ変換の一種を使っているよ 賢さは
知識の量で
決まらない
どう使うかで
決まるもんだよ >>547
別にスレを立てたほうが良さそう。数学だけ語る馬鹿と三角関数の豚がもれなくついてきちゃうから 知識の塵の中に蟄居していても、宇宙の秘密を知悉することはできない
これ初めて聞いたときは感動した 置換の概念って、大事だよね。恒等置換であれば、元や値が保存される。
置き換えをしない単位置換であればεで表せるし、置換群であれば置換を
続けて行う演算で閉じた置換の群のことだからね。
数学と論理は繋がっているし、また、論理と哲学は繋がっているのだろう。 あと、ニコラ・テスラという発明家がいるじゃない。彼が言うには、この宇宙の謎を
解く鍵の一つに周波数を挙げているよ。つまり、それは三角関数が大事であると述べているのと一緒。イーロン・マスク率いるテスラ・モーターズの社名は、この発明家
から取ったのは有名な話だよね。だから、彼は宇宙までその企業活動を拡張している
のだろう。この宇宙の秘密に周波数が関係しているということだから。
あと、ニコラ・テスラは哲学にも造詣が深い人だったらしいよ。 >>555
君の場合、数学に置き換えることで哲学になるという思考回路しか繋がりがないよね まぁ急ぐことはないよね
無理矢理繋げてもいびつだもん 結局、このスレに問題意識が共有されない以上、ただの頭の体操で終わる >>560
このスレの問題は数学を初めとしたことだと共有され頭の体操は終了するつもりなのかと思ったら違うのかw 形式論理学は、思考しているものの実体を捨象し、抽象モデルによる
形式的法則での推論を進めていくものなので、AIと親和性が高そうだね。
そこでは実体としての真理性は問われることなく、形式を満たす真理のみが
探索される。哲学も形式から入った方がクールかもね。 そういやπ/π君は死んだのかな
数式から意味を汲み取ろうとしてることだけは三角関数よりはマシだった ただひたすらに批判する人は実は議論に必要なんだって気がついた ラッセルの型理論の記述法が面白いんだよね。
たとえば、形式論理だと、論理和はA∨B、論理積はA∧Bと記述するけど、
型理論だと、論理和はA+B、論理積ではΣx : A,bと記述する。 含意であれば、形式論理ではA→Bだけど、型理論ではΠx : A,B
形式論理で全称記号ならば、∀x∈A,B(x)、存在記号だと∃x∈A,B(x)
となるところをラッセルの型理論での型で表すと、
全称記号ならば、Πx : A,B(x), 存在記号だとΣx : A,b(x)で記述する
上記を自然言語に訳すと含意はAならばBは真。全称記号のところは、
Aに属するすべてのxに対して、b(x)が真。存在記号のところは、
Aに属するあるxに対してb(x)が真となる。ラッセルの型理論での記述法は、
論理ではあまり見ないことだろう。 あと、ラッセルのこの型理論の考え方が、実はプログラミング言語に使われている。
プログラミングは、整数型(int)、浮動小数点数型(float,doubleなど)、
文字列・リテラル型など、型指定を伴う言語が多いけれど、その考え方に
論理学者かつ数学者かつノーベル文学賞を受賞した哲学者でもある
ラッセルの作用があるというのは、とても嬉しい気がするね。 PHPerは、馬鹿の書くゴミコードがネット上にもテキスト上にも多いのでバグの温床となるとよく聞くね。型指定いらないのが良くない原因の一つじゃないかな。 >>569
勝手に型変換する言語はどうなるんすか? 初歩だよ。ラッセルは、ヴィトゲンシュタイン以降であたまイカレテなさい。 >>403
ライプニッツ調べるとそうは言えない。
広中さん誰かが何か言ってたような。 >>576
動的型付け言語であれば、コードに変数の型の種類についての
アノテーション(注釈)などを入れて明示的にし、誤ったコンパイルが
入ることを防ぐようにするとか工夫すればいいんじゃない。 それとラッセルの型理論の記法を単なる記法の違いだと言っている者がいるけど
違うよ。考え方の違いが記法には表現されている。だからΣのような総和やΠの
ような総乗記号がラッセルの論理式には出てくるのであって、彼の論理式や
論理構造に対する考え方や思想がそこには反映されている。
英語と日本語の違いもそうでしょう。単なる記号と文法の違いではなく、
そこには英語圏の人々の思想と日本人の思想なり感性を表現する構造が
各言語には埋め込まれているだろう。主語を強調する英語に対して=主体性重視
の英米圏、主語がなくても意味が通りやすい日本語=空気読む日本人の特性
などがそこには反映されているでしょう。 だから、各国の言語だけでなく、各プログラミング言語の記法の違いについても、
そこには言語の設計思想の違いが埋め込まれている、と考えておけばいいだろう。 数学の次は言語学か、柔軟の次はラジオ・・・頭の体操引き続きがんばれ いや、まだまだ数学が続くので覚悟してくれたまえ。
数学実在論の考え方はゲーデルがそうだと思うけど、ガロアもそうらしいね。
例えば、虚数i は人間が創造したものでなく、予めどこかに存在していたような
実在概念で、それを人間が発見しただけ、という感覚になる。
数学実在論は、プラトンまで遡ることができるね。 覚悟してくれたまえ( ー`дー´)キリッ
だってさ 「文系バカ」が、日本をダメにする -なれど"数学バカ"が国難を救うか (WAC BUNKO) 新書 – 2018/5/19
経済学者の高橋洋一は東大の数学科出で、卒論は「フェルマーの最終定理」に
関するものだそうだ どこかに存在していたような
数学者なら決して行わない表現。 >>588
数学狂が5Chを貶める
なれど現実には何の心配もいらないw 数学用の新たな言語をさっき導入してみたよ。難しくて面倒だったら
どうしよう、と少し心配したけど、導入は至って簡単だったね。
「Gallina」なんていうプログラミング言語、みんな聞いたことないでしょ?
あと、プログラミング言語で自動的な論証が出来るというのもあまり
馴染みがないと思う。ヒルベルトの公理の形式化などもこの言語で
出来るらしい。
プログラミング言語で最初にやるコードは、「hello world」で
ビルゲイツの初めてのtwitter投稿もそれだったね。それの数学
バージョンを少し書いてみた。簡単な論証。
次のコードでは、「モーダスポネンス」という肯定によって肯定する様式の
論証を行っているよ。 From mathcomp
Require Import ssreflect.
Section ModusPonens.
Variables X Y : Prop.
Hypothesis XtoY_is_true : X -> Y.
Hypothesis X_is_true : X.
Theorem MP : Y.
Proof.
move: X_is_true.
by [].
Qed.
End Modusponens. 出力結果:
1 subgoal
X, Y : Prop
XtoY_is_true : X -> Y
X_is_true : X
______________________________________(1/1)
X -> Y 今やったモーダスポネンスの例は、
「XならばYである。Xである。従ってYである」、という意味
これを論理演算の記法で記述すると、
((X→Y)∧X) ⊢ Y
証明図で同じことを記述すると
((X→Y),X)/Y
という風になる。 数学実在論の立場であれば、未だ発見されていない数学的な真理について、
それがどこかに、未知のXとしてあるだろう、と表現しても全然おかしくないし。
プラトンのイデア論だって実在論なのだから、それがどこかにあるだろう、
という表現で良いし。逆に、渋谷やローマにイデアの源泉がある、と主張する方が
変だろう。
君たちって、本当に頭が悪いね。地頭含めてさ。何も物を知らないし。
それで哲学とかあり得ないでしょ。 >>596
そりゃ上の方に書いてあった本のヤツか? バークレーだかのニュートン批判が解読できれば見込みはあるが。 最近書き込みが多すぎて読む気しない
お前らの書き込みなんてどうせ大した内容じゃないだろうからよけいに読む気しない 大した内容を読みたいなら書店に行きましょう
そして知識を蓄えた上でこのスレの存在意義を考えてみては このスレのレーゾンデートルかとか思ったけど、
存在意義と存在理由って英語とかフランス語だと全然違うものだな。
日本語の言葉の編み方の違いは、多様性というところで存在価値がある。
文系哲学は、日本でこそ意味・意義があるのかもしれん。絶滅させてはいかんなw ガウスの「平方剰余の相互法則」は、ガウスの「整数論」の中で
最初の証明がされているようだね。この法則で、ある整数aがある整数
pの平方剰余になっているか、平方非剰余かを分類出来る。
pが素数であれば、平方剰余の個数も、(p-1)/2個で表せる。
それはちょうど、三角関数が出来るか否かで、馬鹿を分類できるのと
同じかもね。ここは低劣なクレクレ星人かクレーマーばかりで、実りあることを
書ける奴がほとんどいないな。 超自我ってのが、どう働いて、どう遺伝して、どうめぐってるのか?興味ある? >ガウスの「平方剰余の相互法則」は、ガウスの「整数論」の中で
>最初の証明がされているようだね。この法則で、ある整数aがある整数
>pの平方剰余になっているか、平方非剰余かを分類出来る。
>pが素数であれば、平方剰余の個数も、(p-1)/2個で表せる。
実りあることを書けないクレクレ星人の実りない書き込みの例文ご苦労さまです
>それはちょうど、三角関数が出来るか否かで、馬鹿を分類できるのと同じかもね。
低劣なクレーマーの例文まで付録して頂き恐縮です 「平方剰余相互法則」の意義がまるでわかってないようだね? 有理数は次数1の代数的数
√2,√3,√5は次数2の代数的数
ネイピア数eと円周率π は超越数
実数 に対して,μ(ξ) > 2 ならば ξ は超越数
μ(ξ) は無理数度 複素数 ξ は,P (ξ) = 0 となる整数係数多項式 P (X) ∈ Z[X] \ {0} が存在するとき
代数的数という。複素数で代数的数となる数全体の集合を Q と表す。
ξ が代数的数のとき,P (ξ) = 0 となる P (X ) ∈ Z[X ] \ {0} のうち最小の次数を
ξ の次数とよび,deg ξ で表す。また、代数的数でない複素数を超越数とよぶ。 >>627
インドでは占い師の落ちこぼれがやるもの。 ラマヌジャンとか
日本では理三に入れなかったやつの慰み 数学を初めとした理系で説明できない狂祖様 哲スレで嘆く 初等幾何が好きだったけど、
このまえ兵庫県の高校入試の問題を見ているときに円周角の定理を忘れていることに気づいて愕然とした。 数学系のプログラミング言語は、フランスのものが多いらしい。
MLのような自動定理証明系の言語も英国発でありながら、
実際にMLが発展したのはフランスにおいてのようだ。
著名な数学者はフランスに多いイメージがある。哲学者もそうだろう。
Haskellは、アメリカの数学者かつ論理学者の開発した言語だけれどね。 >>635
それはあり得るだろうね。
フランスでは0は自然数に入るらしい。
0は、自然なのか。むしろ、不自然で人工的な香りがする。 ペアノの公理は以下の様に定義される。
自然数は次の5条件を満たす。
自然数 0 が存在する。
任意の自然数 a にはその後者 (successor)、suc(a) が存在する(suc(a) は a + 1 の "意味")。
0 はいかなる自然数の後者でもない(0 より前の自然数は存在しない)。
異なる自然数は異なる後者を持つ:a ≠ b のとき suc(a) ≠ suc(b) となる。
0 がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者 suc(a) もその性質を満たすとき、
すべての自然数はその性質を満たす。
5番目の公理は、数学的帰納法の原理である。 また、集合論における標準的な構成では、
0 を空集合として定義する。 数学って、並べ替えをよくする。置換なども並べ替え。
対称式であれば、あらゆる置換を施しても値や元が変化しない。
意味や記号の配列を並べ換えることで、異系統や構造や意味を発生させることも
可能だろう。固定観念というのは、こうした並べ替えや置換を拒絶する、
頭の固い退化した者が持つ属性(劣性)なのかもしれない。並べ替えや置換を
自在に出来る者は、むしろ、新しい何かを生み出す可能性があるだろう。 >>641
問と解、その過程と技法を体系的に纏めたもの。 哲学は文系にカテゴライズされているけど
文系か理系かを根拠に哲学的な判断を下す人はあまりいないだろうね。
どっちであっても哲学的な問題ではないと思われる。 学問とは何かね
からの
数学とは哲学である
どゆこと? >>653
数学で学問して哲学したいのであるということだな >>651
哲学は学問の基礎。学問学を含む一般学。 >>654
とすると、数学学と哲学にはどの様な関連があるのだろうか。 >>655
そういう解釈も哲学は尊重すると思う、655さんの判断で哲学に問題は生じないから >>656という質問が寄せられました>>652さんどうぞ >>659
それで誰かが困るような問題じゃないからそう思うならそれでいいよ >>662
661って
>何かに疑問を持てば、即ち哲学ですから。
の人なのかもね 哲学を誤解している阿呆ばかりだな。
哲学は人生相談だよ。 ssrfun.commutative =
fun (S T : Type) (op : S -> S -> T) => forall x y : S, op x y = op y x
: forall S T : Type, (S -> S -> T) -> Prop
Arguments S, T are implicit
Argument scopes are [type_scope type_scope function_scope]
[commutative : 可換性] (0+1+2+3+4+5+……+ n)×2 = n(n+1) >>670
Fixpoint sum n := if n is m.+1 then sum m + n else 0.
Lemma sumGauss (n : nat) : sum n * 2 = (n+1)*n.
1 subgoal
n : nat
______________________________________(1/1)
sum n * 2 = (n + 1) * n
1 subgoal
n : nat
IHn : sum n * 2 = (n + 1) * n
______________________________________(2/2)
sum n.+1 * 2 = (n.+1 + 1) * n.+1 1 subgoal
n : nat
IHn : sum n * 2 = (n + 1) * n
______________________________________(1/1)
2 * (n.+1 + sum n) = (n.+1 + 1) * n.+1
以下に、右分配法則(mulnDr)を左辺に適用. a*(b+c)=a*b+a*c
______________________________________(2/2)
2 * n.+1 + 2 * sum n = (n.+1 + 1) * n.+1 2 * n.+1 + n * n.+1 = n.+2 * n.+1
「上記の左辺に、左分配方式(-mulnDr)を逆向きに適用. (a+b)*c=a*c+b*c」
(2 + n) * n.+1 = n.+2 * n.+1
>>671
これでファイナルアンサー終了。
これらで、自然数に関する命題やを定義を扱っていたのだった。 ブール代数は、0と1を使って論理の真偽を記述するもので、
プログラミング言語だとBoolean型としてよく知られている。
SQLのようなリーレショナル・データベースだと、それに加えて、
NULL(不明)の項を加えた3値論理の構造を取れる。実は、
この3値論理の考え方の方が、この複雑な現代社会には適している。
たとえば、
「シンガポールでのトランプと金正恩の会談が成功裡に終わるか」
という命題に対して、現時点ではBoolean型の真1、偽0では回答出来ないの
に対して、3値論理であればNULL(不明)の項を与えてあげれば命題と整合的に
なる訳だから、こうした3値以上の多値論理は現代的で洗練されていると言えるね。 つまり、命題を真偽の2項で切り分ける古典的な2値論理は、神の存在を
前提とした論理になっている。なぜなら、ここで想定される神は完全であるので、
すべての対象に対して真偽を決定できるから。そこに誤謬の入る余地はない。
しかし、ニーチェ以後の近代人は、神を素朴に信仰できるほど、無知ではない。
すなわち、現代では神は懐疑されているのだからBoolean型の2値論理では不十分となる。
そこで、非古典的な命題論理としての3値論理や多値論理がスマートな現代人には要請
されるようになってくる。つまり、無神論であっても、あるいはゲーデルのように
数学体系内に矛盾を導出しても、あるいは不条理を目撃しても、アノミーに陥らない
ような新しい論理が必要になる。それが多値論理の考え方。
NULL(不明)であれば、未知も矛盾も、ダークマターも、不条理も、M理論も仏教の空も、
ラカンの晦渋な言説、カントの「もの自体」も回収できる、という論理構造になっている訳だよ。 >>678
意味がまるでわかってないようだね?
>>680
いい加減なことばかり言ってはいけないよ? 2値論理は、排中律(A∨¬A)で考えると分りやすい。この2値原理を
使えば、ある命題がAかAでないかは常に成立することになる。
不確かな世界は、この2値論理の内部には存在していない。
たとえば、「現アメリカ大統領はドナルド・トランプである」 という命題
であれば、現時点では真となる。でも、この命題に、3値論理のNULL(不明)を
付けてもいいのではないだろうか。なぜなら、この命題を100年後の人が
ネット上で読んだら、この命題は偽となる可能性があるので、真偽を決定できない
未知の要素Xをこの命題は内包しているからだ。 つまり、命題の真値は可変的であるということだね。あの人、いい人なんだよね、
という命題も、ずっと真だとは限らないように。人は必ず死ぬという命題も、
それほど自明ではない。なぜなら、バイオテクノロジーの発展で、不老不死の
人間が誕生する可能性も未来には、可能態としてはあり得るから。
だから2値論理でなく、複雑なこの現代社会では、多値論理の世界観の方が
比較優位があるということ、あるいは適合的となるということだね。 いいんじゃないですかね、どうせこのスレタイそもそも機能してないんだし 量子論を認めないと固体物理が学べないんだからしょうがない >>692
はたしてそれは自由と言えるのかな? 真実は一つしかないのだよ
教科書を鵜呑みにしていては真実に到達することは不可能なのだ 実験結果にに一番当てはまってるんだよね
仕方ないね 地獄の存在を信じていないことと、地獄に落ちろと思うことは矛盾しない 多値論理は、人間の曖昧な認識に合致するので、ファジー論理などにも使われている。さっき、yahooニュースで金正恩がシンガポールで夜の観光に出かける写真で、
コメント覧読んだら、彼の顔が日焼けでずり剥けているというコメントが多かった
けど、手前の人の影が彼の顔に映っているだけなのに、認知力が低い者は、
その程度のことでも正しく認識できない。
つまり、人間の認知や論理には、もともと不完全であるということ。 だから、そうした人間の不完全性を予め折り込む形で、Nullやunknownという
真偽以外の第3項を用意し、そうした人間の不完全性や論理を補完するように
した方が、複雑な現実と整合的な論理となることだろう。
これは倫理においても同様で、勧善懲悪の2値論理では対応できない。
差別主義者のトランプがアメリカの大統領にまでなり、義兄や叔父を処刑した
金正恩がシンガポールでただで高級ホテルに泊まり、綺麗な妻を持てる。
自国には飢えでやせ細った国民が大勢いるのに、本人は肥え太った痛風持ち。
だから、倫理においても2値論理で真値を見るのでなく、3値論理や4値論理などの
多値論理で考察する方が、少なくとも現実的にはなるだろうね。 だから、SQLの3値論理にあるNullで集合を作ってあげると認識論的な見通しが
良くなるだろう。そして、NULL自体も2種類にフォークさせることができる。
その一つは未知(Unknown)。もう一つは、適用不能(Not Applicable)。
ちなみに、この分類を行なったのは関係モデルの創始者E.F.コッド。
このNull集合の中に入れるのは、たとえば、
神の存在の有無
この宇宙に始まりと終わりはあるか
決定論か非決定論か
死後の世界や輪廻はあるか否か
霊や宇宙人は存在するのか
未来の核戦争はあるか
AIは人類を支配し滅ぼすかetc.
といった具合に、とりあえず未知であったり、不明であるものは
Null集合の中に放り込んでおけばいい。 兄貴、いてえよ
宗教板の奴らに
1+1がなぜ、正しいのか哲学的に答えられねえって言うんで馬鹿にされたよ
兄貴、哲学的に答えて鼻をあかしておくれよ 世の中の人々は、本来、こうしたNull集合に入れるべき命題に、信念や信仰によって、
真偽値の1と0を無理矢理割り当ててしまう。そこに争いの生じる土壌が出来る。
宗教戦争や強硬な政治イデオロギーで歴史上多くの死者や犠牲者が生まれたのも、
その原因は、単純な2値論理や正義の概念で物事を理解する短絡思考にありそうな気がする。 そんなんじゃあ、全然、納得できないよ
もっと、批判精神旺盛に説明してくれなきゃ >>694
真実はひとつ?
なぜそう言えるのかね? <科学技術白書>「国際的地位は低下」研究力の低迷あらわに 6/12(火) 15:49配信 毎日新聞
政府は12日、2017年度の科学技術白書を閣議決定した。人材力、知の基盤、
研究資金といった科学技術・イノベーションの「基盤力」に多くの課題を挙げ
「わが国の国際的な地位のすう勢は低下していると言わざるを得ない」と指摘。
近年の日本の研究力の低迷ぶりを如実に表す内容になった。
各国の政府の科学技術関係予算の伸び具合を00年と比べると、中国が13.48倍(16年)、
韓国が5.1倍(同)、米国が1.81倍(17年)になったのに対し、日本は1.15倍(18年)
とほぼ横ばい。
博士課程への進学者も03年度の約1万8000人をピークに減り始め、16年度に
1万5000人を割った。海外へ派遣する研究者の数は00年度(7674人)を
ピークに15年度は4415人と減っているほか、国際共著論文の数も伸び悩むなど、
国際性の低下も問題になっている。新たな研究分野への挑戦不足も指摘している。
注目度の高い研究分野への参画度合い(14年)では、米国91%、英国63%、
ドイツ55%に対し、日本は32%と低迷。研究者を対象にしたアンケートでも、
挑戦的・探索的研究が減っている、との回答が多かった。 ∀ A,B : [数学の出来る者(A)は、哲学の素質がある(B)」という命題と
その対偶「哲学の素質がない者は(¬B)、数学の出来ない者である(¬A)」は
(A⇒B)⇒(¬B⇒¬A) で表せる >>716
こういう「だから何?」と言いたくなるレス増えすぎ 「この道具だとこう表せるよ」
見つけちゃった!えへへ
自分の主張がないぞ!おい!! バカって、すぐに己の貧しい創造性に訴えるんだよね。
学ぶのが嫌いなので、妄想に耽る 自然数の帰納的定義の仕方に色々あるので、紹介しよう。コンピューターの
原型を作ったノイマン(N)、整列可能定理と選択公理で知られるツェルメロ(Z)、
述語論理を創始した論理学者・哲学者のフレーゲ(F)、3人によるもの。 自然数0の場合
ノイマン(N)型の表記:φ
ツェルメロ(Z)型の表記 : φ
フレーゲ(F)型の表記 : {φ}
自然数1の場合
ノイマン(N)型の表記:{φ}
ツェルメロ(Z)型の表記 : {φ}
フレーゲ(F)型の表記 : {φ,{φ}} 自然数2の場合
ノイマン(N)型の表記:{φ,{φ}}
ツェルメロ(Z)型の表記 : {{φ}}
フレーゲ(F) )型の表記 : {φ,{φ},{φ,{φ}}}
自然数3の場合
ノイマン(N)型の表記:{φ,{φ},{φ,{φ}}}
ツェルメロ(Z)型の表記 : {{{φ}}}
フレーゲ(F) )型の表記 : {φ,{φ},{φ,{φ}},{φ,{φ},{φ,{φ}}}} 上記のように自然数が帰納的に定義されていくのだけど、哲学者でもあった
フレーゲの自然数の定義が一番、複雑な感じに見える。フレーゲ型の場合は、
自然数0が空集合でなく、空集合を含む単元集合になっていること。
単元集合は元や要素が一つの集合のこと。こうして、型の違いはあっても、
自然数というものが入れ子集合で定義できることが分る。
フレーゲの自然数の定義は入れ子の多いLispのコードみたいだね。 馬鹿って、すぐに己の貧しい抽象性に訴えるんだよね。
思考することができないので、形式に耽る。 >>フレーゲの自然数の定義は入れ子の多いLispのコードみたいだね。
見た目だけの感想
だから何?といか言いようがない LISPは、プログラミング言語である。前置記法などが特徴である。
1958年にはじめて設計されたLISPは、現在広範囲に使用されている
高水準プログラミング言語の中でもFORTRANに次いで2番目に古い。
ただし、FORTRANと同様に、現在のLISPは初期のものから非常に大きく変化している。
これまでに多数の方言が存在してきたが、今日最も広く知られるLISP方言は、
Common LispとSchemeである。元々、LISPは、アロンゾ・チャーチのラムダ計算表記法に
影響を受け、コンピュータープログラムのための実用的かつ数学的な表記法として作られた。
そして、すぐに人工知能研究に好まれるプログラミング言語になった。
最初期のプログラミング言語として、LISPは計算機科学にて、木構造、
ガベージコレクション、動的型付け、条件分岐、高階関数、再帰、セルフホスティング、
コンパイラを含む多くのアイディアを切り開いた。 LISPの名前は、「list processor」に由来している。リストはLISPの主要なデータ構造で
あり、LISPソースコードはそれ自体がリストからできている。その結果、LISPプログラム
はソースコードをデータとして操作することができ、プログラマーは、マクロ・システム
で新しい構文やLISP埋め込みの新しいDSLを作成できる。コードとデータの互換性は、
LISPにそのすぐに認識できる構文を与える。
すべてのプログラム・コードはS式または入れ子のリストとして書かれる。関数呼び出し
または構文は先頭が関数または演算子の名前で、その続きが引数であるリストとして
書かれる。具体的には、3つの引数を取る関数fは、(f arg1 arg2 arg3)として
呼び出される。 たとえば、ある人間αさんの価値観や嗜好、思考、判断の特性や傾向、行動モデルを
計算機科学的な形式でβとして実装出来たとする。すると、αさんが自ら動いたり、
指示・命令することなく、αさんらしいタスクや選択をβは自律的にこなすことが
できるようになる。
これはすごいことではないだろうか。たぶん、私のネットでの書き込みや買い物、
口癖にもパターンがあり、傾向性が見られるので、私が書きたがるようなことを
βが自律的に書いたり、ネットで予約注文したり、実行する。そこでは私らしい
価値判断が、私の命令や手を離れて永遠に継起していくことも可能だ。 ただ、人間の好みや価値観など変遷があるもので、私など特に飽きやすい性格を
しているのだから、計算機科学的な形式で現在の私の概念・判断・価値観モデル
をβで実装しても、すぐに月日の経過と共にそれが非整合的となり、使い物に
ならないと考えられるかもしれないけど、それは違う。
なぜなら、βの実装をそうしたモデルと現実との解離を生じさせる0,1の
離散値で2値論理として実装するのでなく、0~1の実数の連続値で多値論理で
ファジーにしてモデル化したら、αさんなり、私の判断の事後的な移り変わりや
傾向性の分岐も、ある程度、トレース出来る、よりその人間と適合・同一的な
モデルが出来るのではないかと考えられる。 そのため多値論理に基づくβはαをかなり上手く代替し、その十分な写像となって、
αがすべきことをαの存在や命令なしで、βが自律的に拡張的にαのタスクを実行、
もしくは自動生成するようになってくる可能性は十分にあるだろう。
そうすると、どんな世界が今後、未来に誕生するのかと言えば、αとしての
私が不在、あるいは私がこの世界で非在であっても、私が存在するという矛盾した
二重構造がこの時空に生じることになる。
「私は存在しない、だが私は存在し得る」というのが未来型の存在論であり、
これはファンタジーではなく、計算機科学的な形式の巧みな実装によって
誰にとっても共通の存在論的な形式となり得るだろうね。 一般言語のもつファジーさを数理モデルに落とし込むことで失われる情報もあるだろし、数理モデルの持つ生真面目な性格が現実世界に反映されがちになりそうやよね。
いうても一般言語ファジーさを完璧に数理モデルで再現できるほどの技術はまだまだないわけやからね。 >>739
オーバーフィッティングに陥ることに対する対策なら、現在でもあるけどね あと、審美性なども実装できるといいだろうね。あるファッションデザイナー
αの美的感性や価値観を計算機科学的な形式でβで実装できれば、そのデザイナー
がデザイナーを辞めても、あるいは、死んでしまっても、そのファッション
デザイナーαは、βのもとでこれまで通りに仕事を自律的に創造的に進める
ことが出来る。
αは、作家でも哲学者でも漫画家でもいいし、経営者でも政治家、科学者でも、
著名人でも一般人でもいい。αが不在、もしくは非在となっても、βとしてαは
自己のモデル像を転写し、継起していく。そのためここで必要とされるのは
存在論の定義の根元的な書き換えと更新である。未来においては、存在する
ためには、現前の存在は決して前提にはならない。むしろ、不在の中において
存在出来ることが、これからの新しい存在論のテーマとなることだろう。 >>740
脳みそとか、DNAのエラーの出方と、機械工学におけるエラーって根本的に性質が違うってのもあるしな。
というか、生体や、生態系ってエラーが巧妙に仕組まれてるし、多重でフラクタルなレイヤーが相互に関連しあってて、数理モデルでパッケージングすること自体にムリがあるっていうか。 哲学の本ってなんであんなに分厚いんだろうね
半分くらいは例なのかな >>744
読んだことないの?
大半は挿絵とか写真だよ 数学では読み解けない文学の多重でフラクタルなレイヤーが相互に関連しあっている仕組まれた構図に良さがある >>746
そうなんだ絵が多いってのは分かりやすくていいね John Stillwell著 三宅克哉訳
「初等数学論考」
(原題 Elements of Mathematics From Euclid to Godel* )*Godelのoは本当は上に点が二つついてるドイツ語のやつ
共立出版(2018)
・何となく分かった気になれる
・「哲学的な雑記」が各章に載っててこのスレ向きなんじゃないかな ゲーデル数は、数理論理学において何らかの形式言語のそれぞれの記号や整論理式に
一意に割り振られる自然数である。クルト・ゲーデルが不完全性定理の証明に用いた
ことから、このように呼ばれている。また、ゲーデル数を割り振ることをゲーデル数化
(英: Gödel numbering)と呼ぶ。
ゲーデル数のアイデアを暗に使っている例としては、コンピュータにおける
エンコードが挙げられる。 コンピュータでは何でも0と1で表し、「apple」のような
文字列も0と1による数字で表す。 ゲーデル数化とは、このように文字列に数字を
対応させる事を指す。 ゲーデル数化は、数式におけるシンボルに数を割り当てる符号化の一種でもあり、
それによって生成された自然数の列が文字列を表現する。この自然数の列をさらに
1つの自然数で表現することもでき、自然数についての形式的算術理論を適用可能となる。
ゲーデルの論文が発表された1931年以来、ゲーデル数はより広範囲な様々な
数学的オブジェクトに自然数を割り振るのに使われるようになっていった。 計算可能性理論において、「ゲーデル数化」は上述よりさらに一般化した意味を
持つ用語として使われる。
1.形式言語の構成要素に自然数を割り当てて、形式言語の構成要素の操作を
数を操作するアルゴリズムでシミュレートできるようにする。
2.より一般化して、枚挙可能な数学的オブジェクト(例えば枚挙可能な群)に
自然数を割り当てて、その数学的オブジェクトにアルゴリズム的操作ができるようにする。
ゲーデル数化という用語は、文字列としての「数」を割り当てる場合にも使われること
がある。これは数というよりも文字列を操作する計算模型(チューリングマシンなど)
に必須の考え方である。 なぜゲーデルが、依然として現代的かと言えば、彼の不完全性定理が
無神論的な意匠のもとに、その論理をタイトに徹底させているところに
あるからだろう。そうした冷徹な振る舞いに、洗練された要素が見られる
からだ。当然、その論理には恣意的な超越的飛躍などはない。
デカルトやライプニッツの数学や真理は、その真理性の保証人として
神を戴くことを是とする点が、ゲーデル以降の現代数学とは大きく
異なるだろう。 >>756のこの関係をメタファーで記述すると、
完全性 : 神の論理
不完全性 : 人間の論理
となる。現代では、この中間にAIの論理とでも呼べるものが入ってくるだろう。
そのAIの論理は、完全未満で、不完全よりは大きい論理。完全性と不完全性の
論理積の位相にあるような未来型の論理。 ゲーデルの不完全性定理とは(成功したかどうかは別として)神の存在証明だと思うが? そうした神を真理の保証人とする近代科学の体系や論理構造に看過出来ぬ、バグや穴、
欠陥があることを見抜いたのがヒュームだね。また、数学の体系における無矛盾性が
端的には明証的ではないとして、そこにバグとしての証明不可能性を発見したのが、
ゲーデルになる。
つまり、ヒュームもゲーデルも、従来、完全だと見做されていた近代化科学や数学の体系に
不完全な要素があることを洞察した点で共通している。だから、2人は、論理を完全な神の領域から、
不完全な人間の領域までに厳密に現実化した、と言えるだろう。 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
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(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V
d 科学的な因果律や数学の体系にバグがあることを発見したヒュームやゲーデルの
洞察によって、合理性が自ずと内包している不完全性や矛盾、穴への明示的な
認識というのがそれで可能になった。
すなわち、合理性の追究と貫徹だけでは論理は完全とはならない。それはかえって、
論理の外部にあるような未知性を呼び出す契機を生じさせるかもしれない。
人間的な既存の論理だけでは導き出せないものとして、時には、AIの論理という
ものでも仮構してみて、それを人間的な論理の拡張として、想像的仮説として
用いながら思考実験してみるのも興味深いかもしれない。 ゲーデル不完全性定理の証明には選択公理が使われてんじゃない? 選択公理を認めると
バナッハタルスキーのパラドックスが起こる?みたいだけどよく分かんない カントール(1845~1918)「数学の本質はその自由のうちにある」 不完全性定理の成り立たない世界だってあるんじゃまいか? ゲーテルさんは数学は完璧ではないという意味で哲学的に意味あったけど、昔の数学者が思い上がって数学が完全無欠だとのたまったから反撃を食らったって話で。
数学の良さは精密さを適宜調整できて、まるで欠陥がないように運用できるし、そう見せてくれることにある。
数学モデルを見た時に僕らが気をつけなきゃいけないのは、完璧なんてないてことを一応頭の片隅にはおいておかなきゃだよね、ぐらいの教訓としての不完全性定理。 >>768
この世界とは違う世界?
時間が2軸とか? >>769
完璧なものに変化なし。
変化なきものには関われない。
只、示されるのみ。 1のn乗根は、x^n = 1 で表せるので、右辺を移行して、
x^n - 1 = 0 でxを計算すればよい。
一般に 1の n 乗根は、
1^(1/n) = cos・(2kπ)/n + i・sin・(2kπ)/n (k = 0,1,2,3,4,…,n-1)
という極形式で、複素数平面上で表せる。cosがx座標の実軸で、sinがyの虚軸。
n = 13と置くと、それは半径1の円周を13等分していることになり、その円周上の
13地点の座標を求めることと同じになる。それを円周等分方程式で表すと、
(x^(n-1) + x^(n-2) x^(n-3) + … + x^3 + x^2 + x + 1 ) = 0 を解けば
1のn乗根の解を求められる。1の13乗根をプログラミングで計算してみると、
次の結果になる。iは虚数単位。 1.00000000000000
0.88545602565321 + 0.464723172043769i
0.568064746731156 + 0.822983865893656i
0.120536680255323 + 0.992708874098054i
-0.354604887042536 + 0.935016242685415i
-0.748510748171101 + 0.663122658240795i
-0.970941817426052 + 0.239315664287558i
-0.970941817426052 - 0.239315664287558i
-0.748510748171101 - 0.663122658240795i
-0.354604887042536 - 0.935016242685415i
0.120536680255323 - 0.992708874098054i
0.568064746731156 - 0.822983865893656i
0.88545602565321 - 0.464723172043769i >>766
ACを認めないとRの濃度よりR/Qね濃度が大きくなったりもする。
どの気持ち悪さを選択するかなら使えるACを選びたくもなるのが普通の感覚じゃないかな。 >>762
君は、まず「ゲーデル数」とは何ですか?
と、哲学的命題を示すべきだ。
問われもしない事を、ただ書き連ねても、
そこに意味を見出す事は困難を極める。
何故ならば、君の意図や君の哲学、君の姿勢、
君の生き様、いわゆる人生が反映されていないからだ。
命題を示した後に答えを書き、詳細はその後だ。
一連の流れから察するのは、
「自分の哲学は拙い為、ボロを見せたくない」
「それらしい単語を使えば、まるで学がある様に感じる」
といった、君の自身のなさであり、
そこには、自分の人生に対する悲観的見解が根ざすのであろう。
まず、堂々と胸を張り、己に命題を示そう。
全てはそこから始まる。 Banach-Tarskiパラドックスて別におかしくないよね?
実際に目の前にあるボールを分割するわけじゃないし ハゲ頭のパラドックス
「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)
「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)
ここで前提1に前提2を繰り返し適用していく。つまりツルッパゲの人に髪の毛を
一本ずつ足していく。そして次の結論を得る。
「よって全ての人はハゲである」(結論) 砂山のパラドックス
砂山から砂粒を個々に除去していくことを想定する。ここで、次のような前提から
論証を構築する。
「砂山は膨大な数の砂粒からできている」(前提1)
「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである」(前提2)
前提2を繰り返し適用したとき、つまり、毎回砂山の砂粒数は徐々に減っていく、
最終的に砂山の砂粒が一粒だけになる。前提2 が真であるなら、この状態も「砂山」
だが、前提1 が真だとすれば、このような状態は「砂山」ではない。これが矛盾である。 砂粒が10粒くらいになったらもはや砂山ではない、前提2が誤り :>>780>>781は、いわば数学の極限的操作に近いね。ミクロな微分的操作を極限
的に繰り返すことで、ミクロでの正しい前提が崩壊して、矛盾に陥る。
合成の誤謬も同じで、ミクロの系での正しさは、マクロの系においては矛盾に
なる。つまり、座標系が変わると、前提の正しさがそのまま継承されなくなる、
ということだろう。だから、木を見て森を見ずではダメなのだ。全体観や
大局観で物事を俯瞰的捉えることで、そうした矛盾に陥ることを上手く
回避できる。 砂山の砂粒が何粒になった時点でそれが砂山でなくなるのかという境界条件の設定が困難なので、砂山のパラドクスみたいなのが生じるのだろう。なぜなら、境界設定
出来たとしても、それに±1砂粒にした対象は、本当に砂山ではなくなるのか、
あるいは、砂粒ではなくなるのか、と依然として問える訳だからね。 >>781
前提1が真なら砂粒は砂山ではないのだから矛盾しないし
砂山から砂粒を取り除けば砂山のままではないが真だから前提2は偽だし
論証のための前提が間違えて砂山のパラドックスを虚構してしまったと
論証できるね >>788
だから、その境界設定が変だろうということ。
砂山を構成する膨大な砂粒の数が何個までになったら、それが砂山と違うものになるのかが明確ではない。たとえ砂粒3粒と砂粒4の間に境界設定できても、それが砂粒と砂山を分ける境界設定になっているという妥当性が不明瞭だし、あくまで恣意的な
定義によるものとなっているだけだね。 >砂山から砂粒を取り除けば砂山のままではないが真だから前提2は偽だし
前提2は、偽じゃないし。膨大な砂山から砂粒一個取り除いても、
それは依然として砂山である、という命題は真でいいだろう。 砂山は、膨大な砂つぶで構成されている。
君、書き損ないを補完する脳の機能もないのかよ。
こっちは書きづらいiPadのキーボードで書いているんだよ。
揚げ足取りの構ってちゃんなら、今後は無視するよ 砂山は、膨大な砂つぶで構成されている。その砂山から砂粒を取り除いた時点で
それは依然として砂山であるというところの、当初想定していた砂山ではない
一粒減っている砂山なのだから
それは依然として砂山であるという命題は虚になる。 もし、>>794のロジックが正しいのなら、砂山の定義自体を見直さないと
いけないね。現実にある砂山で、粒数が常に一定なんて、実験室で作った
砂山以外ではあり得ないだろうから。たとえ、それが1粒減った砂山だろうと、
1000粒減った砂山であろうと、人はそれを依然として砂山だと認識する。
人間のゲシュタルトは、そうした曖昧な構成でなされている。
ヒューリスティックな認識も同じだよ。 ハゲとか砂山とか数学的に厳密な定義じゃないから踊らされちゃいかんのだよ >>795
客観的事実を論理的に検証しただけだけど
見直すべきは、砂山の定義ではなく>>781の想定と前提と
論証が、実は主観で構築されたロジックによって虚構された
砂山のパラドックスだったという客観的事実だろう。 数学的に厳密な定義は数理数論に規定された形でしか踊れないよな 人が自分が人だかりにいると認識する人数を調べてみよう
結果は知らない 定義ってのは情報処理の利便性のために恣意的に人工的に付与する概念やからね。
10粒以上を砂山と定義する必要があるとするのがここでいう数学的な思考だけど、一般生活において砂山を10粒以上と定義する必要もない。
たとえば、土木工事において、砂山から砂を採取しようと企画した部長がどこかにいい砂山ない?と聞いて、部下が10粒の砂山のある公園に連れて言ったら殴られるわけで。
そういう意味で、一般的なレトリックというのはお互いの概念的齟齬を常に瞬時に忖度するという意味で極めて高度な情報処理をやってるわけだけどね。
人間の感覚器自体に閾値があったり、脳みそで統合処理するときに勝手に情報捨てられたりてのもあるし、
それをアウトプットするにあたっては、熱い、普通、冷たいぐらいのグラデーションとか、比較論ぐらいの表現でしかないけど、数理的には何度て表現するっていう違い。
数理モデルの良しあしってのは身体性からの解放てとこで、感覚外の発見をしやすくなるというのはあるし、デジタル処理に強くなるというのもそうだしね。弊害もあるはあるけど、今流行りって感じでしょ。
根本的には数理も一般言語も道具の違いであって、本質的には同じだけどね。 あと、思うのはコンピューター様の処理能力を愚鈍な人間にわかりやすくアウトプットするのて結構面倒だしコストかかるよね。
いちいちわかりやすくグラフ化したりしょうもない例えを2,3上げてわかりやすく説明したり。
人間のこういう処理能力の限界が数理系のアプローチによる哲学的進歩を阻んでるのは間違いないでしょ。
人間の処理能力をアップさせる方法を考えた方がはやいね。おくすりなのか、サイボーグなのか遺伝子操作なのか、教育なのか >>806
三角関数もできないバカはこのスレ出入り禁止
何度も言わせるな、池沼! 述語論理におけるド・モルガンの法則
P(x) を変数 x についての言明とすると、
1.「全ての x に対し P(x)」の否定は「ある x が存在して ¬P(x)」
2.「ある x が存在して P(x)」の否定は「全ての x に対し ¬P(x)」
と表現出来る。全称量化子∀や存在量化子∃、否定¬を使って記述すると、
1. ¬∀x P(x) ⇔ ∃x ¬P(x)
2. ¬∃x P(x) ⇔ ∀x ¬P(x) 1.の述語論理の具体例は、「全ての人が冷蔵庫を持っている∀x P(x)」の否定¬は
「ある人は冷蔵庫を持っていない∃x ¬P(x)」、すなわち、
「冷蔵庫を持っていない人が少なくとも一人いる∃x ¬P(x)」
2.の述語論理の具体例は、「ある人が冷蔵庫を持っている∃x P(x)」、
すなわち、冷蔵庫を持っている人が少なくとも一人いる」の否定¬は、
「全ての人が冷蔵庫を持っていない∀x ¬P(x)」、
すなわち、「誰ひとりとして冷蔵庫を持っていない」 >>792
>>こっちは書きづらいiPadのキーボードで書いているんだよ。
ならやめればいいよ 2. ¬∃x P(x) ⇔ ∀x ¬P(x) を定理証明系言語で書いてみると、
次のようになる。ただし¬は~(チルダ)で記述される。Tはxの型名
を指しているだけなので、あまり気にしない。<->は同値。
1 subgoal
T : Type
P : T -> Prop
______________________________________(1/1)
~ (exists x : T, P x) <-> (forall x : T, ~ P x)
2 subgoals
T : Type
P : T -> Prop
Hyp : ~ (exists x : T, P x)
______________________________________(1/2)
forall x : T, ~ P x
______________________________________(2/2)
~ (exists x : T, P x) 哲学って結局見方の提示だから、数学で命題を証明することでセオリーを発見することはあるけど、哲学とは違くね。
リンゴを分子の塊とみるか、宗教的社会的シンボルとみるか、食べ物としてみるか。
その際に、食べ物なら栄養価を数値で表して、料理をして焼くと栄養価がどのくらい落ちるとか、甘みは増すとかそういうのを数値化して見えてくるものもあるだろうし、そんなことはくその役にも立たないという哲学的判断もある。
ここで重要なのは数値化や計算自体は哲学ではないちゅうこっちゃで。 数理哲学は、数学の対象となる事物を理性の認識対象としてだけとらえ、
その根拠を研究する思弁的学問。数学の対象となる個々の事物は、感覚の能動的
あるいは受動的対象としての特性をもつものではなく、単に形式的、論理的、
公理的構造あるいは関係をもつものとされる。したがってこの哲学における
第1の研究対象は、ー純粋に形式的論理的構造、あるいは関係とは何であるか
ということになる。
このような研究によって、初めて人間の理性は、数学的抽象作用およびこれを通して
考察する思惟の対象の真の本性を連続や不連続の性質およびそれらの相互関係を
実数および虚数を含む数系列の概念を超限数 (無限数) の概念をあるいは
非ユークリッド的な空間の意味などを確固不動のものとして、みずからのうちに
保つことができる。さらに数理哲学は、数学的なものと物理的なものとの関連、
あるいは数学とその他の科学領域との関連を研究し、またその文化史的価値をも
研究対象とする。 哲学は、なぜを論理的に追究していく学問なので、数学と親和性が
あるのは自明。また、数学自体にも、なぜの素材となるものに溢れている。 「仮定した事実について人がどう考えるか」から
「仮定した事実について数学がどう考えるか」へ
数学の「考える行為」は数値化や計算として人の前に現れるんだろうね AIは技術的なものが入ってくるからまた違うような気もするんだよね パラドクスの話に戻ると、パラドクスが生じるのは、体系内部の合理性や
整合性のみを井の中の蛙的に追究してしまうと、その内部へと回収されない
外部にある剰余やバク、異質性の存在が看過され、その存在が内部の整合性を
浸食し、破壊・変容してしまう、というリスクがあることを意味している。
具体例で出すと、前にも書いた天才統計学者のネイト・シルバーによる、
アメリカ大統領選の予測の失敗。統計学という系の内部における操作がいくら
整合的で正しくても、その統計学の外部に存在する人間の機微や心理から生まれた
多くの虚偽の出口調査の回答の存在を彼は無視したため、そのアメリカ大統領選の
予想モデルはアメリカ国民の本音や実態を反映しない、非現実的なモノ=失敗
となった。 つまり、パラドクスを回避する、もしくは矛盾に陥らないためには、自分らが
いる体系なり論理の外部というものを常に意識することが必要になる。
内部の合理性・整合性の追究だけでは、真の合理性は達成されない。
合理性や論理性の外部にある未知の要素や不測の事態、異次元を想定・計算に
入れられてこそ、ようやくそれは真のアルゴリズム=真の論理、と呼べるものに
なってくるだろうね。未来のAIは、これを達成出来るようになるだろう。 投票についてはギバード=サタースウェイトの定理もあるし 哲学者は数学にあこがれる
数学者は哲学を馬鹿にする 多感な中学生でも学ぶ数学と違い感情で判断する中学生に哲学は無理 完全性を放棄したから学問て強いと思うんだよね。宗教は万能を目指すから弱さがある。
パッケージングされた理論は常にアップデートする必要が出てくる。
仮に無限の処理能力を持つ計算機があったとしても、数字は事象そのものではない以上、数字は事実との差異からは逃れられん。 数学はすでに完成した体系というわけではない
数学基礎論での変更はなかなか出てこないと思うけれども
そのほかでは
色々と定理が出てきたりして
数学は進歩している 数学は割り切れない円周率を割り切れないものと定理し
都合に合わせて記号をあてがい体系的に創作する
抽象化で許される形式的な学問
確率を広げていけば形式的な定理も増えるというもの はたして数学の領域は広がっているのだろうか
最初の公理系から演繹的に定理等が導かれているだけでパラダイムシフトがおきているわけではない
ずっと最初の公理系に留まっていてその公理系から言えることをふやしているだけ
それはちょうど「新大陸」を発見したからといって地球の体積が大きくなるわけではないのと同じ >>834
投稿してから思ったが
ちょっと極端すぎた 定理を創造するのが数学のお仕事だから問題ないけどね フェルマーの最終定理とか、abc予想とかああいうのって、きわめて感覚的というか天才独特のイメージがないとなかなか出てこないと思うんだよね。
それを一応誰でもわかるように(というかめちゃくちゃ勉強する秀才が理解できるように)証明するにあたって数学が必要になるけど、着想そのものは極めてアクロバティック。
abc予想なんかは幾何学的アプローチで証明したみたいだけど、どういう補助線をひいていくかで証明しやすさが格段に変わるっていうのは数学の哲学的側面だよね。 あとは、数学を基礎とした情報工学の発達で、プロセスのブラックボックス化問題がでてくるな。
人間の処理能力をはるかに超えるコンピューターが人間のお望み通りのアウトプットを出してくれてるから理論は正しいと俺らは信じるけど、本当に俺らが思ってるプロセスかどうかをもはや検証しようもない複雑さに達してしまう。
陳腐なSFっぽい話ではあるけど、一般人のほとんどはテレビがなぜ映るかわからないという意味においてすでにディストピアは何事もなく成立してしまっている。
テレビの原理は辛うじて一定数理解できる人間がいるが、この一定数がどんどん少なくなっていくと、プロセスを勝手に書き換えられても誰も気づかないみたいなことは起こってくる。 数学とは術数であり、卜占としてはよく当たる。
適用の範囲さえ間違えなければ完璧ともいえる。 >>839
それは忖度不正日本社会だと、特にありそうだね。
大企業のデータ改竄不祥事が続くけど、それと同様に、AIのアウトプット自体も
忖度やステークホルダーへの配慮で改竄されてしまうだろう。だから、公的機関から
AIによりある重大な帰結が導かれても、それを鵜呑みにしないくらいのリテラシーはいるだろう。
第三者機関の検証先を幾つか用意して、AIも多面的に運用されなければならないだろうね。
一番いいのは、国民がAIの仕様に通じることだよ。
だから、このスレでも読んで、数学とAIとプログラミングに対する認識を深めればいいよ。 STAP細胞でも、要するに国からの莫大な研究費を得るために、世間的な注目を集めるような
先進的な研究を検証や精査の杜撰な状態で、先走って披露してああなったのだからね。
つまり、金目で科学的な真理がゆがめられてしまう。AIでも量子コンピュータでも同じことが
当然、起こり得るだろう。その対策なり倫理コードの設定を今から早目にやっておくことだね。 日本的忖度てのはむしろ集団心理の方やけどな。
どっちかってーと姉歯建築における構造計算ソフトのプログラム改変やな。事例的には。
VWの排ガス不正とかも一応現場の独断ということにもなってるし。
正直、市民の努力に期待するとか、鈍重な第三者機関をつくるとか数学的思考を持つものからすると、はっきり言って美しくないんだよな。
ブロックチェーンとかそこらの技術じゃね。神の見えざる手てきなオートマチックなシステムが理想。
協調圧力という意味では、数学の精度の高さがより画一化を助長するという面はあるだろね。 バイオ、生物学て自然科学の中ではそこまで精密な数理が強く求められる分野でもないからな、抽象度が高い。ある意味社会学とかに近いいい加減さが残る学問。
ビタミン取ると脚気にならないというのがわかればそれは生物学的に大発見なわけだけど、ビタミンが体内でどういう組織から吸収される、分解される、排出されるそういうより細かなメカニックがわからなくてもとりあえず脚気が治ればok
そういう意味で、社会学系のやつらって結構やばい論文て実は多そうなんだよな。STAPはいうても再現性はやっぱり求められるから遅かれ早かれ指摘されてたろうし。
社会学は研究者自体が統計的扱いを深くわかってないくせに数字を使ってもっともな形式だけ整える場合結構多いんだよな。 >>844
まあ、言いたいことは分るけど。文系や文官による泥縄式の統制でなく、
アルゴリズムベースの監査の方が信頼できそうだという意見でしょ。
ただブロックチェーンのような自動証明的な技術に過剰な信頼を置くのも
どうかと思うよ。ホリエモンなどは、支持しているらしいけど、どんな
先端技術にもバグは付き物だと考えて、事に当たらないと。
>>845の意見も分るけどね。社会学だけでなく、経済学が非学問であると揶揄される
のも、そうした学問的体裁だけを糊塗しているニュアンスが見られるからだろう。 まあいかなる場合にも
最後は人間ですよ
サッカーW杯2018をみていると
判定にビデオとコンピューターによる判定システムが導入されている
しかしそれをどう最終的にジャッジするかは人間である審判が決める そういうことのなるね
際どい場合は審判が判断する
さっきやっていたフランスVSオーストラリア戦でも
最後は審判が判断して
PKとか決めていた ラムダ計算は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数の評価と
適用としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。
関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習からその名がある。
アロンゾ・チャーチとスティーヴン・コール・クリーネによって1930年代に
考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理の
決定可能性問題を否定的に解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とは
なにかを定義するために用いられることもある。計算の意味論や型理論など、
計算機科学のいろいろなところで使われており、特にLISP、ML、Haskellと
いった関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に
大きな役割を果たした。 ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、
最小のユニバーサルなプログラミング言語であるということもできる。
ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき
正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算がチューリングマシンと
等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンが
ハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はより
ソフトウェア的なアプローチをとっている。 ラムダ=λ= lambdaのλ計算で、簡単なプログラム例だと、以下のようなものになる
def func(price,tax):
return price + (price * tax)
pay = (lambda price,tax : price + (price * tax))(912400,0.08)
print('\n 912400円の商品の税込価格は、', pay ,'円です。')
[実行結果]
912400円の商品の税込価格は、 985392.0 円です。 あと、このラムダ計算で構成していく自然数に、アメリカの論理学者・数学者の
アロンゾ・チャーチからその名を取った「チャーチ数」というものがある。
このチャーチ数は関数を引数にとって、再帰的に自然を作る手法で出来ている。
0 := λfx.x
1 := λfx.fx
2 := λfx.f(fx)
3 := λfx.f(f(fx))
・
・
・
と続いていく。 .以降のfの出現回数が、そのまま左の自然数nに対応していると
考えればいいだろう。再帰的に入れ子がつながっていく。 ペアノの自然数の公理の一つに、「任意の自然数aには、その後者(successor)が
存在する」とある。だから、このことから、ある自然数に後続する次の自然数
を与える関数というのが考えられる訳で、これを後者関数といって、suc(x)で
表せる。suc(9)=10, suc(123)=124,suc(a)=a+1 といった感じ。
0 = 0
1 = suc(0)
2= suc(suc(0))
3= suc(suc(suc(0)))
・
・
・
と続いていく。要は、関数を引数に入れて、それを入れ子状にしていきながら
自然数を表現出来るということ。関数を引数に再帰的に使うことで、リソースを
節約していると言えるのだろう。数学やアルゴリズムで大事なのが、この
リソースを節約して、情報を縮減、、もしくは、圧縮して用いるということかな。 >>855は間違えた。ラムダ式だと、これだけで済む。defとreturn文要らなかった。
pay = (lambda price,tax : price + (price * tax))(912400,0.08)
print(u'\n 912400円の商品の税込価格は、', pay ,'円です。')
[実行結果]
912400円の商品の税込価格は、 985392.0 円です。
これでラムダ計算というのが、合理的なアルゴリズムだというイメージが
掴めると思う。短いコ―ドが可能になる。これが再帰的関数のメリットだろう なぜ、数というのがなぜ具体的な存在物や対象に縛られない、抽象的な存在である
のかと言えば、そこに普遍的な共通認識を付与する意味があるからだろう。
たとえば、「哲学とは何か?」という命題なら、それに対する解釈なり意見は
千差万別となって、そこに共通認識が発生しづらいのに対して、
1 + 1 = 2 や、a + b + c = a + c → b= 0
などは、時空を超えて共通認識が得られやすい。解釈が一意に収束できる、
もしくは収束しやすいのが抽象的な構造を持つ数学や数で、
そうでないのが、具象的な世界。 それって俺らの世界がそういうことになってるから自明だけど、時空を超えて普遍的かといわれると違くね。
量子の世界では0<1+1<2という世界かも知らんし。
1+1=2を数学的に証明するのって実はけっこう厄介だったりするし。
結局根本にあるのは人間の動物的生理への信頼とか、権威への服従とかで、そういう不確かなことから残念ながら逃れられないんだよね。 ラムダ計算を論理型言語に翻訳するとどんな感じになるのか? 一部の銘柄が乱高下しているだけであり、これに対し黄色い声(きいきい声)で大恐慌と騒ぎ立てるには明らかに証拠不足であるって感じ。 >>859
> なぜ、数というのがなぜ具体的な存在物や対象に縛られない、抽象的な存在である
> のかと言えば、そこに普遍的な共通認識を付与する意味があるからだろう。
普遍的な共通認識を付与する意味は結局人間のためにある
数学も人間が理解できる数の概念を具象的に記号化した創造物だということだよ。 >>866
指摘する部分が違うだろ
普遍的な共通認識を付与する意味があるから数が具体的な存在物や対象に縛られない抽象的な存在なのではなくて
数が具体的な存在物や対象に縛られない抽象的な存在だから普遍的な共通認識を付与することができる
だろ
そしてここで言う具体的な存在物や対象に縛られないとは
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるのに対して
「1」や「2」に対応させられる物はない
ということだろ >>867
数が具体的な存在物や対象を縛るから、数足りえるわけで、普遍的な共通認識を付与できるのは
数が抽象的な存在だからではなくて人間による創造物だから共通認識を付与することができる。
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるのに対して
「1」や「2」に対応させられるの「もの」もいくらでもある
赤くないリンゴには「赤い」を対応させられないように
みたいな話? >>868
>>859の表記に合わせただけで数が人間から独立して存在しているとは思っていないのでその点は理解いただきたい
「1」や「2」に対応させられるの「もの」もいくらでもあるのなら例を挙げてほしい >>869
なんかよくわからないけど
1や2を模った数字のオブジェならいくらでもあるよね? リンゴも抽象的な概念だけどな。
分類学上リンゴとなしの中間の品種もあるだろし、リンゴと外部空間の境目はどこにあるかによってどこまでがリンゴなのかとか、絵画のリンゴは性的象徴としてとらえられたり。
そういういみで数も固有名詞も抽象概念。
なぜリンゴが数字より抽象度が低いと感じられるかというと、リンゴの木からリンゴができてリンゴの芽が発芽するという安定性があるからで、りんごからりんごじゃなくてバナナとかブドウしかできなかったら、リンゴは存在できないもん。
なんか昔赤い甘い果実できたことあったよ、という伝説ができて神的な抽象度の高いリンゴになったかも知らんが、それは俺らのリンゴではない。 結局、普遍的な共通認識を付与する意味は結局人間のためにあるし
数学も人間が理解できる数の概念を具象的に記号化した創造物だよ。 >>868
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるについて補足しておくと
「赤い」という概念はトマトやリンゴや夕焼けや血等々の「赤い」ものと関連付けられることでそのイメージに引きずられていく(「情熱の赤」や暖色等)ので
「赤い」から連想されるイメージや「赤い」に対応させられるものが異なる文化同士において普遍的な共通認識を構築することが難しい
一方「1」や「2」は対応するものを持たないし「1」や「2」から連想されるイメージもないので普遍的な共通認識を構築しやすいということ
言ってしまえば数は概念世界にしか存在しない純粋な概念だということ >>870
記号のレベルの話ではなくて
リンゴとか犬のような自然物には対応しないということ 一つとして同じリンゴはないから、赤いとかと本質的には変わらんよ。
球形の玉をリンゴと表現する世界だったかもしれないし。
赤いは光の反射のスペクトルなように、リンゴは分類学上に定義されている。 >>875
数は概念世界にしか存在しない純粋な概念だということは 人間世界にしか存在しない 人間が 抽象化した創造物 だよね 概念が生まれた場所に依存してるかどうかなんか確かめられないだろ >>884
確かめられないならどっちも 可能性はある 数は数える対象のあいまいさから十分に離れることが出来たけれど、数字(数字が代入できる記号)を使わない数学はあるのかな >>880
数が人間から独立して存在しているとは思っていないと言っているとおり >>888
>>869で既に言ってることだけどね
もしかすると相手を間違えている可能性がある >>869
ものであれば逆に何でもいくらでもあるだけ1や2や3や4と対応させられるよね。 >>875
君にとって色は絶対的なものなのかい?
君の見ている赤が他の人と同じだとどうして言えるんだ? >>869
お前家族は何人?車は何台所有してる?エアコンはいくつある? >>891
>>875を読んで「赤い」は絶対的なものだと主張していると思ってしまうのか
馬鹿は黙ってたほうがいいよ >>890
>>892
「1台の車」が「1」という概念と対応していると思っているのか?
「1台の車」の中にすでに「1」とあるがこの「1」は何なんだ?
「1台の車」の中の「1」が何と対応しているかが問題になっているんだよ?
馬鹿は黙ってたほうがいいよ >>894
>>「1台の車」の中の「1」が何と対応しているかが問題になっているんだよ?
車だろ
自分で一台の「車」って書いてるじゃん
アホなの? >>894
馬鹿は黙ってろという間抜けは引っ込んで出てこなくていいよ >>897
1は車なのか?
1はトマトなのか?
1はえんぴつなのか?
馬鹿は黙ってろ 「1」という概念が自然物か人工物に対応していると本気で思っているのか
「1」という概念は「数字」という記号にしか対応していないよ
これだけレベル低いとかわいそうになってくるな >>901
で、家族は何人?車は何台?
君の主張で、この問いの答えは何になるのさ? 具体例が答えられない一般化ってアホのやることの典型だな。 >>906
具体例になっていないよ
繰り返しになるけど
「1」という概念が自然物か人工物(数字以外)に対応していると本気で思っているのか >>908
質問に質問で返すのは世間では馬鹿と言われるんですよ
知らないの? >>901
ひとつふたつとものを数える対応すらできないレベルの概念しかないのか、つらいなw >>909
>>910
私の言っていることを理解できていますか? >>913
間抜けの概念的にはなんかあるんじゃないの?w >>913
特に必要はない
揚げ足とってきそうだから分けてみた >>912
聞き方変えるけど
「1」と「車」と「1台の車」の違いはわかるか? >特に必要はない
揚げ足とってきそうだから分けてみた
() >>918
>>876で自然物って書いちゃったから人工物はどうなんだって揚げ足とってきそうだなって思ったかただよ
これだけレベル低いとそこまで考えてないだろうなと思って今は反省している >>これだけレベル低いとそこまで考えてないだろうなと思って今は反省している
() >>920
何か勘違いしてるようだけど、俺は今日>>913が最初の書き込みなんだけども
書き込む前から俺のレベルが分かるなんて君はエスパー君なんだね さすがに馬鹿すぎて相手するのもアホらしくなった
さ、次は三角関数君の頼まれてもないのやってる数学とAIとプログラミング講義です
みんな傾聴するようにw >>923
誰も>>913が揚げ足とるなんて言ってないよね
>>876以降のやりとりの中で揚げ足とる人がいるかもしれないと思ったってだけで >>875
>言ってしまえば数は概念世界にしか存在しない純粋な概念だということ
そもそもこの一文が間違いだな
数は物に対応しなければ世界で存在しえない形式の概念だといえば
理解されたんだよ、馬鹿だな >>924
馬鹿に自分が馬鹿だとわからせるのってホント難しいな
「1」と「車」と「1台の車」の違いがわからないんだからどうしようもない りんごが赤いってのは、りんごの皮の部分が光を反射して我々の目に届くと赤いと感じるだけなのに、りんごと言う自然物()が赤いって何で言えるんだろう?
皮を剥いたらもう赤くないよ? >>926
虚数は物に対応していないが数学の世界では存在している >>928
私の言っていることを理解できていますか? >>927
おまえ、りんごは1や2に対応させられないゆーたじゃん
車は1や2にという概念に対応出来てなんでりんごはダメなんすか? 「1」という概念が自然物か人工物(数字以外)に対応していると本気で思っているのか
「1」と「車」と「1台の車」の違いはわかるか?
これらの質問についてもっとまじめに考えた方がいいよ >>931
私の言っていることを理解できていますか? >>932
867 考える名無しさん sage 2018/06/17(日) 12:39:31.78 0
>>866
指摘する部分が違うだろ
普遍的な共通認識を付与する意味があるから数が具体的な存在物や対象に縛られない抽象的な存在なのではなくて
数が具体的な存在物や対象に縛られない抽象的な存在だから普遍的な共通認識を付与することができる
だろ
そしてここで言う具体的な存在物や対象に縛られないとは
「赤い」がトマトやリンゴの色に対応させられるのに対して
「1」や「2」に対応させられる物はない
ということだろ >私の言っていることを理解できていますか?
これで逃げ切るつもりのようだ >>936
逃げてんじゃなくて聞いてるんだよ
「1」と「車」と「1台の車」の違いはわかるか? 赤い車
1台の車
この2つのこいつの中の区分が意味不明だな
自然物と人工物のごとくw >>939
>>941
数とは実物がなくても「存在」させることができる
このことに気付いてほしい >>940
「1」と「車」と「1台の車」の違いはわかるか? >>942
愛とか夢とか色々あるけど、数で気づくとなんかすごいことなの? >>942
気づくも何も、算数の1+1=2は車でもりんごなどの「実物」なく、数の概念だけで小学生でも計算してるわなw
当たり前のことをお前が自然物だ赤いだとか言い出して意味不明にしてるからみんなに遊ばれてるだけだ
早くそれに気づいてほしいw 1のコーヒー
1杯のコーヒー
数と数える対象は単位で繋がる
当たり前だね >>946
おいおい、じゃあ「1台の車」の1という概念は車には対応してないのか
じゃあ「1台の車」の1という概念は何を意味するんだw >>875
1、2、3、沢山、
に対応し直してる。 >>946
数は 実物に 対応 していない ということ・・・・
数は自然界に自然発生的に実物が存在しないということか!?
対応じゃなくて りんごと実際のりんごが違うことと同じ。
りんごという紙の上の黒鉛の連なりを見て1個のサンふじを思い浮かべる人もいるし、100個のジョナゴールドを想像する人もいるように、1という文字で、1個のりんごでも車でも思い浮かべる人がいる。
太陽といえば唯一あれしかないように、名詞に個数の情報が付与されてる場合もあるが、りんごには数の情報は付与されてない。なぜならその方が便利だから。
数の情報は名詞と意図的に切り離されてるだけで、1つのりんごという新しい名詞を作ることは可能。誰も使わないから広まらないだけ。 >>952
単位を使わなくても
○ ○○ ○○○ ○○○○ ○○○○○
これがものだとしても、1,2,3,4,5と対応するぐらいの能力はあるだろう? >>948
数は、単位を介して実物と繋がる。
共有化出来る概念の一つが数。
勿論、赤い、リンゴ、車、という概念自体は共有化出来るが、
実際に想起される現象は人によって違う。
無論、数から想起される現象も違う。
この両者の決定的な違いは、
「どの様に用いられるか」
「どの様に役立つか」。
用途が違うのだ。 ○○○○○ を見て
これは何と聞かれたら「5つの○」と答えるが「5」とは答えない(子どもなら答えるかも)
数はいくつと聞かれたら「5」と答える りんごで思い浮かぶ色、味、匂いもそれはイメージで実際にはそのイメージそのままのりんごは存在しないからね。
1で思い浮かぶイメージと同様。
どっちも概念。 単位が共有化できてないと数があってても正しく伝わらないの
そのために世界で共通の単位を作ろうと頑張ってるわけ
SI単位系の定義は細かいよねー >>957
> 数はいくつと聞かれたら「5」と答える
数は単位ではないから いくつと聞かなくても数は?と問えばいい >>961
そうだな
すまんかった
頭痛で頭は痛い?みたいな質問になってた 世の中の現象は、単位をどう定めていいか見当もつかないことがほとんどで、
それを、定義された単位を使うことが有効性を発揮する限られた分野の考え方
をモデルにして理解しようとすることに無理があるんじゃないかな。 りんごには色とか味とか大きさとか色んな情報がくっついてるので、りんごのイメージかありありと浮かんで来ちゃうだけ。
1と固有名詞の抽象度の違いは付随する情報量の違いで、言語学的にそういうのを定量化するとかも面白いかもね。なんでも定量化するの流行りだから。
役に立つかは知らんけど。 繰り返しになるけど
「1」という概念が自然物か人工物(数字以外)に対応していると本気で思っているのか
「1」と「車」と「1台の車」の違いはわかるか?
これらの質問についてもっとまじめに考えた方がいいよ
ちょっとレベル低すぎるよ >>957
数はいくつと聞かれたら「5」と答える
これは正しくは
(〇の)数はいくつと聞かれたら「5」と答える
だろ
何の反論にもならないよ
意図的に書いたのなら詭弁だし
意図してないのなら単なる馬鹿だよ >>964
数学をはじめとしてしまったら最後、哲学に展開不能なのはこのスレを見れば明らかだよね そうだねぇ
○○○○○は5じゃないかもしれないってことだよね
気がついた? 「1」と「車」と「1台の車」の違いが本当にわからないの? >>970
「○○○○○」は「5」じゃない「5つの〇」だよ
ようやくわかってくれた? >>966
「1台の車」の「1」は「車」の台数に対応している >>972
そんなの誰でもわかってる
りんごが1個と言えばその個数
1+1=2は場合の1は概念だけ
小学生でも使い分けてるわな なんかスレが延びてると思ったらアホが一人でクダまいてるのかwww >>973
「5」という概念は「5つの〇」には対応していない >>978
じゃーいいんじゃないもう、対応なんてそもそもしていようがしていまいが5にはなんの問題もないし >>974
「1」とは「1台の車」の台数だってそれは同語反復であって
「1台の車」に含まれる「1」に対応するものの説明にはならないんだよ そもそも日本語からして使い方が不適切なんだよね、数学以前にw >>979
ようやく気付いてくれたね
対応していようがしていまいが数の概念には何の問題もない
この一言が数は自然物や人工物に対応していないことの証拠になるよ 国語をやればいいんだよ、数学と哲学は向いてなさそうだしね、対応の人w >>983
このレスいらないな
本人だけ答えてくれればいいんだぞ >>985
無理やり自分が気づかせた体にしなくても >>985
なんでまた自然物と人工物に戻ったん?
分けたの間違いだから反省したんじゃなかったん? >>985
対応していようがしまいが物の概念には何の問題もないよね >>985
そんなことより
> 対応していようがしていまいが数の概念には何の問題もない
なんて書いてないよ、
>>979
>>5にはなんの問題もないし
だからね。
> この一言が数は自然物や人工物に対応していないことの証拠になるよ
何が証拠なのか説明がないのに証拠にはならないよ たくさん、とか少ない、とかも状態だべよ
怖い、お化け、かわいい、真空、ダークマター、エネルギー、抽象度が違うだけ >>960
> SI単位系の定義は細かいよねー
ここ数年の再定義の話とか面白いよな >>985
>ようやく気付いてくれたね
対応していようがしていまいが数の概念には何の問題もない
この一言が数は自然物や人工物に対応していないことの証拠になるよ
ならねーよ >>985
この中で君基準の「対応」してるものとしてないものを分けてみて
1台の車
赤いりんご
きれいな女性
不安な気持ち だから、全部言葉は概念なので、現実のものと対応したものなんてない。
あらゆるものがゼロと1で記述できる情報化社会。
リンゴというこの文字もデジタル情報だし、色も、重さも、遺伝子配列もデジタル情報で記述できるんだから、
リンゴ=糖度、質量、・・・・など数値情報
つまり、一般言語=数となるので、一般言語は数と同様に概念。
はい、論破。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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