数学を初めとした理系の学問と哲学について 11
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
直感的理解と証明(論理的理解)
数学における初等幾何において、最初の証明といわれているのが二等辺三角形の二つの
底角が等しいというものだ。これは三角形の合同を用いて証明する。二等辺三角形は、
裏返しても同じものになるのでもとの三角形に重なる。これを合同というのだが、
重なるので二つの底角は等しいと言うことが論理的に証明されると考えるわけだ。
これは、証明としてはごく簡単なものだが、なぜ証明が必要なのかと言うことを理解するのは
難しい。両底角が等しいことなど、ちょっと正確に作図してしまえば、見て分かるじゃないかと
感じるからだ。見て分かるというのは、直感的にそれが分かると言うことだが、
直感的に分かるものをなぜわざわざ論理的に証明するかというのは、問題を難しくする
だけで面倒だと感じるのではないだろうか。 なぜ証明が必要なのかということに対する一つの解答は、直感は間違えるときがあるからだと
言うことだ。真理としての信頼性を高めるために証明をするということだ。これは実際に直感が
間違えているときには有効な発想になる。例えば、地球が平らに見えるのは直感から来る
理解だが、これは人間の視覚の範囲に対して地球があまりにも大きいために、それが球体で
あることが直感では見えないということが原因している。
そこで地球が球体であることを理解するには、直感に反して証明をしてそれを信じることになる。
しかし、地球が球体であるという事実は、我々はすでに知っているので直感に反する証明を
考えることが出来ると考えられる。ところがそれを知らなかった昔の人々は、どうして地球が
平らでないこと・球体であることを証明しようという発想が生まれてきたのだろうか。それは
論理だけでは生まれてこない発想であるように感じる。 実際には地球が球体であることもある種の直感から得られたもののようだ。一つは、
月や太陽の観測などから、天体が球体であることを直感していただろうと思う。
目に見える天体はみな球体なのに、地球だけが平らなのはどうしてだろうという
疑問が直感として浮かんでくるのではないだろうか。
さらに月食などの際に、月が欠けたように見えるのは、地球の影が月に映っているのだ
という理解が出来る。そうすると、その影を見ると地球は球体ではないかと直感出来る。
地上の景色を見ているだけなら、地球は平らであるという直感にとらわれてしまう
だろうが、もっと大きな天体間の出来事を見ることによって、地球は球体かも知れない
と言う直感が生まれてくる。地球が平らであるか球体であるかというのは、相反する
矛盾する直感である。このような直感のどちらが正しいのかということを考えるために
証明というような考えが生まれてくるのではないだろうか。 アリストテレスは、沖から陸地へ向かう船から山を見るときのことを語っていた。
もし地球が平らであれば、山の姿が見えるだけの距離に来たとき、山の全体がいっぺんに
見えるようになるはずだ。しかし、経験が教えるその姿は、まず頂上の方から先に
見えてくるというものだった。これは地球が球体であるという一つの証明になる。
この証明は、直感として地球が球体かも知れないと言うものがあって初めて発想出来るもの
ではないだろうか。そのような証明の意図がない限り、このようなことに注目する人はいないのでは
ないだろうか。アリストテレスの話では沖の船から山を見るという設定が大事な
ことだ。陸地の方から船を見たときに、マストのてっぺんから見えると言うことはない。
それは、地球の大きさに比べると船の大きさがあまりにも小さすぎるので、実際には
船の姿はいっぺんに全体が見えてくるのだ。だから、船を眺めているだけでは地球が
球体であることを証明することは出来ない。山という大きな対象を見ることによって、
その証明が得られるのであって、山を証明に利用すると言うことは、それを証明しようという
発想を持たなければ生まれてこないだろう。 直感における矛盾が生じたときに証明をしようという動機が生まれて来るというのは、
かなりありそうなことだと思う。証明が出来れば、どちらの直感が正しいのかが決定出来る。
これは我々の日常生活でも多く現れる現象ではないかと思う。どちらの直感が正しいかは
単純な問題ではない。二等辺三角形の底角のように、誰が見てもそう見えるというものでは
ないからだ。この問題は論理的な検討をして証明出来れば、どちらの直感が正しいかが
分かる。この場合は、条件付きの命題としての証明になって、ある条件下ではどちらも
正しいという証明になるかも知れないが。
直感において反対のものが出てきたときに、我々は証明の必要性を感じる。どちらが正しいか
を確立したいと思うからだ。そういう問題を深く考えたいからこそ論理というものの重要性を
感じる。それでは、誰もが直感的に正しいと考える単純な事柄にも証明をしようとする数学は、
どのような動機で証明をしようとするのだろうか。 一つには哲学的な完全な知を求めるという動機が働いているのではないか
と言うことを感じる。直感で99%正しいと感じても、残りの1%をも間違える
可能性がないように完全なものにしようという動機で証明を考えると言うことが
あるだろう。だから、このような完全性を求める必要がないところでは、
証明という動機も生まれなかったのではないかと思う。
エジプトでは、3辺の長さが3:4:5の比率を持つ三角形は直角を作ることが
知られていた。ピラミッドの建設などに利用されたらしい。これは経験的な事実であって
証明はされなかった。しかし、これは建築などで利用される範囲で間違いを犯さなければ、
直感的理解で十分だと思われるような知識だった。このようなところでは、自明に
見える事実は証明の必要は出てこないだろう。自明に見える事実に対しては証明の
動機が生まれないと言うことは重要なことではないかと思う。本当は自明ではない
事柄なのに、それが自明のように見えてしまうと、「世界はそういうものだ」という
受け止め方をして、それ以上深く考えないようになってしまうのではないかと思う。 他に相反する直感がないときでも、この直感を証明しようという意識が生まれると、
その直感が本当に正しいのだろうかという疑問が生まれてくる。これは、証明という
ものがそもそもそういう疑問から生まれてきたと考えられるのだが、いったん
証明という技術が確立すると、何でもまずは証明しようとすることで、逆に懐疑を
生じさせるという反作用が生じる。これが学問の進歩をもたらしたのではないかと思う。
ある直感が、感覚的に自明のことであって証明の必要がないと思われても、あえて
それを証明しようと試みることで、全ての出来事に対する懐疑精神というものが
生まれてくる。自明なものを証明しようとする動機は、そのような直感に対する懐疑
というものとつながってくるのではないかと思う。これは複雑化した現代社会を
深く理解しようと思えば、そのような動機を持った方が確実に役に立つ。社会の出来事を
あるがままに受け取ったのでは、その本質を理解することが出来なくなるだろう。
どんな出来事でも、自分が関心を持ったものは、全て証明可能かどうかを考えることは、
本当に確かなことは何かと言うことを教えてくれるだろう。 >エジプトでは、3辺の長さが3:4:5の比率を持つ三角形は直角を作ることが
知られていた。ピラミッドの建設などに利用されたらしい。これは経験的な事実であって
証明はされなかった。
↓三平方の定理は、こんな図をかけば簡単に証明できる。
発見者はピュタゴラスともユークリッドとも、いろいろ言われてるが、
もっと大昔から知られていた可能性が高い。
http://www.ndl.go.jp/math/images/F/column6-2-2.png しかし、ピラミッドを建設してたほどの大昔ともなると、さすがに知られてなかったか。 >>3
「二等辺三角形の底角」という数学の話と、「地球は球体」という物理の話では、哲学的にはちょっと違うんじゃないか。
物理の話に、経験や実験がモノをいうのは当たり前。
数学はそれとは違う・・・っていうのは、カントの「純粋理性批判」の最初のほうに出てきた覚えが。 >>14
lim[x→α]f(x)=f(α)
⇔∀ε>0,∃δ>0 [|x - α|<δ⇒|f(x)-f(α)|<ε] 「ε-δ論法」って、大学数学での躓きの鬼門となるもののようだね
これ使って、関数の連続性を定義するんだから
位相で使えば、連続写像になるけど >>14
真理に近づけば近づくほど、それは見えなくなる、
見えているのは遠くから欲しているときだけ、真理を掴んだとき、それは実感できるものではない。
真理の中心にいるのに、真理が見えるわけがない。
ご都合の良い真理を心に描き、それを具体化しても、それは本当に真理なのか?
自分で真理を定義しそれを真理だと信じれば、われ思うが故に真理あり。
誰が真理を欲しているか、誰がそれを真理だと理解し認定するか、まずその辺から哲学してみよう。 現代哲学は、真理の不在という前提からスタートするんじゃない。
近代以前では真理の保証人は神だった。その保証が切れたのが
近代以降の科学技術なので、真理不在の中、真理を巡って哲学するというのが
現代における哲学のアプローチになるだろう。
だからこそ、数学が哲学にとって重要なキーになってくる。 数学が人々、特に頭の悪い人たちに敬遠されがちなのは、数学の複雑性にあるのだろう。
もし、数学がシンプルで簡潔なものであれば、人々は数学を忌避することもなかろう。
また、もともと人間の脳は物事を抽象的に把握するようには出来ていないので、
数学は人間の自然性に反する。だから数学は、ごく一部の知的な者のみが扱える
特権的な道具となる。だから、数学は知と無知を分けるフィルターのようなものかな。 数学が人々、特に頭の良い人たちに敬遠されがちなのは、数学の単純性にあるのだろう。
もし、数学が複雑で本質的なものであれば、人々は数学を忌避することもなかろう。
また、もともと人間の脳は物事を抽象的に把握するようにできているので、
哲学は人間の自然性に即しているが、数学は自然から抽象化した形式だから、数学は、
ごく一部の得意な者も論理形式的に扱える万能な道具となる。
だから、数学は哲学的に知と無知を分けるフィルターのような役割をしているわけだ。 支配の道具として使おうとしてるから脅しと嫌がらせが必要になるんだよ 差別と区別は違うだろう。ここは学問板であるのだから、学ぶ意思がある者らが
議論しているなら価値があるが、単に暇つぶしに下らないこと書きに来ているのなら、
そりゃあ、三角関数も出来ない程度のオツムで哲学は無理だろうと、バカにされるだけ。
差別でなく、区別だよ。 プラトンのアカデメイアの学園の入り口には、
「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と書いてあるよ。
それをここでは、三角関数も出来ない低能は荒らしで邪魔だから
このスレ入ってくるなよ、と言い換えているだけ。プラトン同様、
差別しているのでなく、区別しているんだよ。 馬名 文系 哲学・・・・・・。 オッズ 理系 数学・・・。
ダービー予想書いてね。僕はもう済ませました。マルクスが下でしょ。 5ちゃんで学ぼうなんて間抜けな奴がいまだにいるのかw 幾何学と哲学について議論してみろよ、できるのならw ガイジのようなキショい馬鹿づらしてるんだろうよ。
きっと親もガイジだろ 議論ができる人だけ集めるなんて内向的
せっかく開かれた環境なんだからさ 議論するスレとは書いていないですしぃ意見交換とか軽いノリでいいんじゃないですかぁ?? >>45
ところで三角関数できるの君?できてもそんなことしか言えないんじゃ会話にもならないわねぇ 三角関数でも幾何学でもいいから哲学してみなよ、校正してあげるよ >>47
前スレであれほど馬鹿は黙ってろって言ったのにまたそうやって性懲りもなく書き込むのか
いい加減にしろ 無駄口たたいてないで、数学を初めとした理系学問と哲学についてとっととはじめろ>>50 >>50黙っててやってもいいよ、早く学習成果を書き込め豚 黙ってればいいだけなのにどうして黙らないんだろう
かわいそうになってきた >>55
ブーブー 情けなく 泣き ながら 豚 走 するしかない 豚 乙 >>35
幾何学は、プラトンのイデアの元ネタと言って良い。
この世には、純粋な三角形などない。この世の三角形は、みんなどこかが歪んでいる。
では、理想の三角形は、いったいドコにあるのか?
それは、人間の意識の中にある観念。 三角関数できない馬鹿は出ていけ
書き込み禁止を命ずる >>60
三角関数の豚が 豚舎から 発令 しても無駄でしょ 数学を初めとする豚は哲学と生涯関われない件についてのスレはこちらですか? プラトンのイデア論は、数学実在論にも通じる考え方だろうね。
つまり、数学は独断論的あったり、人間の恣意性で運用されるものでなく、
観念として、客観的な抽象的構造物として存在する。人間は、それを想起に
よって引き出しているいるに過ぎないと。ゲーデルも数学の恣意性を否定しているから、
基本的にはプラント同様の数学実在論だろう。
誰かがソシュール使って、シニフィアンとシニフィエの結びつきは偶然的、恣意的で、
そこに必然性はないと述べていたけど、数学はそれとは逆の立場を取るのだろう。
確かに、リンゴは、ゴンリであってもいいのかもしれないし、プラスを−という
演算子で表記しても構わなかったとも考えられるけど、イデア論だと、その様には
考えないだろうね こういうプラトン的な抽象論やイデア論、数学・論理学的なアプローチに
反対するのが樽の哲学者のディオゲネス。このスレだと、哲学に数学は
要らない派の立場に近いだろう。
「ディオゲネスは、知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学を
蔑んだ。プラトンのイデア論に反対し、「僕には『机そのもの』というのは
見えないね」と言った。プラトンは「それは君に見る目がないからだ」と言い返した。
プラトンは、ディオゲネスはどういう人かと聞かれて「狂ったソクラテスだ」と評した。
運動の不可能(おそらくゼノンのパラドックス)を論じている哲学者の前で、
歩き回ってその論のおかしいことを示した。
また「人間とは二本足で身体に毛の無い動物である」と定義したプラトンに、
ディオゲネスが羽根をむしった雄鶏をつきつけて「これがプラトンの言う人間だ」
言った「プラトンの雄鶏」の故事でも知られる」
つまり、経験論がディオゲネスの立場だね。ディオゲネスは犬から思想上の影響
受けていたらしい。だから犬儒学派に入る。 ルソーの一般意志やカントのアプリオリも、プラトンのイデア論に近いだろう。
数学も人間の創造や意匠とは別にアプリオリにあると考えれば、それが数学実在論になる。
太陽や月や宇宙は人間が恣意的に構築したものでないと同様に、その観測に必要な
数学や物理学の体系も人間が恣意的に構築したものではない。だから、それらは
恣意的で独断論的な創造ではなく、真値や法則、定理の探究という発見的な存在となる
だろうね。 ゲーデルを引用してみよう。彼の数学に対する考え方が分ると思うので。
数学的命題が時空において存在する物理的あるいは精神的対象についての
命題でないという主張は、正しいのです。たしかに数学的命題は現実の
物質世界に関わりなく、数学的用語の意味に基づいてのみ真だからです。
けれども、その数学的用語の意味は人間が生み出したものであり、
意味論的規約においてのみ存在するという主張は間違っています。
私が信じている真理とは、それ自体の客観的実在の概念であり、人間が
生み出すことも変化させることもできず、ただ知覚することや記述すること
のみができる概念なのです。
したがって数学的命題は時空において存在する対象について、何事も
主張しないにもかかわらず、数学的概念の関係について何かを主張して
いる限り、非常に明確な客観的内容を持つと考えられるのです。数学の
概念の間に非恒真命題的関係が存在するということは、数学における
原始用語、すなわち公理が仮定されなければならず、それらはどのような
方法でもa=aに還元されるという意味で、決して恒真命題ではないけれども、
考察中の原始用語の意味から導かれるという状況が現れます。 中略…
しかし、ここで用語「恒真命題的」、すなわち、それらの内容がない
(空虚)という用語を用いることは、ここではまったく不適切です。なぜなら、
これらの公理を満足する集合、あるいは、これらの公理の無矛盾性の概念と
いう存在を主張することさえ、集合自体の概念や他の類似した性質の抽象的
概念を再び用いることなしでは証明できないほど、空虚からは逸脱して
いるからです。
……
私はここで用いている分析的という用語が「私たちの定義によって真であること」
を意味するのではなく、むしろ、「そこで生じている概念の本性によって真で
あること」、もっと総合的に言えば、「物事の性質とその行動によって真である
こと」を繰り返し確認しておきたいと思います。この分析的という概念は、
分析的命題が決定不可能、あるいは確率的にのみ決定可能であることが完全に
起こりうると意味で、「内容が空虚」という意味からは程遠いのです。 というのは、概念の世界に対する私たちの知識は、物事の世界に対する知識
と同じように制限されて不完全であるかもしれないからです。ある状況では
この知識は不完全であるばかりでなく、不明瞭でさえあることも否定すること
はできません。このようなことが生じる集合論のパラドックスは、しばしば
プラトン主義への反証として主張されますが、私は全くそうではないと
考えています。
たとえば、私たちの視覚はしばしば触覚による知覚と矛盾しますし、
水の中の棒は水面から下では曲がって見えるかもしれませんが、
それを正しく考えることができる人であれば、誰もそのように結論
することはないでしょう。 …もちろん私は、ここまでお話した考察が、数学の本性についての
実際の証明を意味するとは考えていません。私が断言することのできる
最大の成果は、数学を単に構文論的規約とそれらの帰結から成ると
みなす唯名論的見解を反証したことです。さらに私は、数学が私たち
自身の創造であるという一般的な見解に対して、強い反論を提示しました。
しかしプラトン主義に代わる他の選択肢としては、特に心理主義と
アリストテレス的実在論も挙げられます。プラトン主義的実在論を
確立するためには、これらの理論は各々が反証されなければなりませんし、
しかも、それ以外の可能性がないことが徹底して示されなければなりません。 心理主義の可能な形態の一つは、概念が私たちの意思によって創造
されたものはなく、私たちが変化させることのできない実在として
与えられたものであり、その概念の関係を研究するのが数学だと
認めます。ところが、この見解によれば、これらの概念は単に人間の
心理学的傾向であり、いわば思考機械における車輪のようなものに
過ぎないと主張します。より正確に言うと、概念は次のような傾向
によって構成されるとみなされます。
1.私たちがそれを考える時、ある心理的経験を持つこと
2.他の概念や他の経験的対象に対する関係について、ある判断を
下すこと、あるいは、直接的知識の経験を持つこと
この心理主義的見解の本質は、数学とは私たちの思考や確信などと
同じように、心理学的法則に基づく精神現象だと考えるものです。
その意味で、私たちの感情が心理学的法則で解明されるのと同じように、
数学も心理学の一部として解明されるとみなすのです。 この見解に対して即座に浮かぶ反論は、もしそのような見解が
正しいならば、人間は、いかなる数学的知識も持てないだろうという
ことです。たとえば、この見解によれば、私たちは2+2=4を
であることを知っているのではなく、私たちの心理状態が、
私たちは2+2=4と信じるように構成されていることになります。
しかしそれでは、他の心理状態によって、それと正反対の結論に
到達すべきでない理由が説明できません。したがって、それが
いかに小さな領域であっても、人間が真であると知ることのできる
数学的命題が存在する以上、心理主義的な見解を受け入れられない
のです。 私は、ここで問題になっている概念を十分に解明した後には、
これらの議論を数学的厳密さによって構成することができる
はずだと考えています。そしてその結果は、否定しがたい一定の
仮定に基づいて、特に、いずれにしても数学的知識が存在するという
過程に基づいて、プラトン主義的見解が唯一の可能性であることは
否定できない結果になるに違いないという印象を持っています。
それによって私は、数学が非観念論的な実在を記述するものであり、
それは人間精神の行為や心理的傾向から独立して存在し、おそらく
非常に不完全にのみ人間精神によって知覚されるという見解を意味
しています。 ゲーデルの解釈はとても助かる。
が、丸ごと貼らずに、貴方自身の要約を書けば良い。
各知性間において共有出来る領域に、数学は在る。 ヒラリー・パトナム
私には、哲学が今日の古典的数学に見出している困難が、真の困難とは思えない。
そして、私は、我々が四方八方から提案されている数学についての数々の哲学的解釈は誤っており、
「哲学的解釈」はまさに数学が必要としていないものだ、と考えている。
まともな哲学的立場だな 結局はゲーデルの信仰告白に過ぎないし数学は日常の言語よりも厳密なコードを設定しているからの一言で終わる 数学の客観性は、あの懐疑的なヒュームでさえ認めていることだよ 私の考えだと、哲学や形而上学から数学や論理学的な要素が一切取り除かれると、
それは単なる言葉遊びや独断論、ポエム、主観的信念の表明(信仰)と記述に過ぎなく
なるので、それは哲学を不毛性や無意味なトートロジーへと追いやると思う。
だから、古典的な偉大な哲学者は、大抵、数学くらいは出来るし、それで己の哲学を
整序しているので、その思想がある程度の普遍性や、それなりの射程を帯びたものと
なるのだろう。
哲板でも、馬鹿そうな書き込みをしているのは、だいたい数学が出来なそうな奴で、
頭良さそうな書き込みをしている者は、たいてい数学の素養がありそうな者だ。 哲学と数学は最初から最後まで無縁であって、哲学に数学がかじりついている
後塵を拝してな、それだけど。 >>哲板でも、馬鹿そうな書き込みをしているのは、だいたい数学が出来なそうな奴で、
頭良さそうな書き込みをしている者は、たいてい数学の素養がありそうな者だ。
数学できない馬鹿が言いそうなこと「ありそう」。
数学出来ない馬鹿は定義もせず印象で語る。
数学出来ない馬鹿は書き込むな。 数学というのは概念の拡張だね。ある式の解がゼロと自然数では導けない場合は、
整数の概念が必要になる。それでも解が求まらない場合は、有理数、以下同様に、
実数、複素数いう風に、解を得るために数の概念を拡張していく。
あとは、構造の抽出、もしくは対象に構造を入れていくのが数学。
集合に位相という構造入れたり、集合の構造ごとに、半群、モノイド、
群、環、体といった構造を入れていく。
こうした数学の抽象的な操作が哲学的な思考と相性がいいのは自明。
なので、数学に哲学が不要とか言っている奴らは、それだけで十分低脳認定できるよ。 間違えた、哲学に数学が不要と言っている奴らはDQNに修正。 なんか数学で哲学したとしたら、それ端から見たらただの数学じゃんって思っちゃいそう ある式が実数以下の数の概念では非可解である場合は、数の概念を拡張し
複素数を用いることで可解性となった場合、その意味は、抽象度を
上げたことによって、解を導くことが可能になったということだ。
これを言い換えれば、抽象度の低い状態のままでは、その式や問題を
解決出来なかったということ。そして抽象度の高い概念は、抽象度の
低い概念を包摂する、もしくは止揚する。哲学でもヘーゲル弁証法などで
止揚が使われるけれど、それは要するに矛盾したものやアポリアあっても、
抽象度を挙げれば、それは可解性の問題となって、ちゃんと解けるぞ、と
言っているのと同じこと。逆に言えば、抽象度の低い人間は、問題解決も
儘ならぬと言えるだろうね 哲学は数学に限らず物理でも量子でも必要に応じて情報を用いれば事足りるからな 人が考える哲学らしさがやんわりと哲学を包んじゃってるよね ヒラリー・パトナムが言うように、今日の古典的数学に見出している困難が数学にとっての問題かどうか峻別できていないんだろう
それを哲学に所望している形だか、例えば小数点以下が割り切れないのは、数学が自ら出した答えであって
拡張したところで、数学構造では解答不能、数学はあくまで形式的性質・関係についての抽象的な構造の定理を用いる学問。
哲学がその抽象概念を専門に問題とする必要がどこにあるのか?ないな。低脳認定するべき。 哲学はなんでもウェルカムだよ
これはだめ!てのはいけない 入り口が見えないから拒絶されているように感じるのかもね、頑張って数学的に探してみるがよい哲学の門は常に開いているよ、歓迎されるかどうかは知らないが メイヤスーは、その研究分野に「数学の哲学」がある。彼は数学実在論の立場だね。
やはり、まともな哲学者は数学についてもよく考えている。日本の思想家で国際的に
著名となる者が出ないのは、数学がまともに出来ないから普遍性を獲得出来ないんだ
ろうね。「複素解析」って、一体何ですか?というレベルの人間に、抽象度の高い
高度な哲学的構築物を構成出来る訳もなかろうから。 あと、ヒラリーパトナムを引用している人がいるけど、この哲学者の師匠、クワイン
だよ。もろ、数学系じゃん。
>哲学以外では、パトナムは数学や計算機科学の領域でも業績がある。
マーチン・デービスとともに、ブール代数の充足可能性問題を解決するために
デービス・パトナムのアルゴリズムを開発し、ヒルベルトのいわゆる第10問題が
解決不能であることが証明される一助となった
つまり、パトナムも数学が得意だということが分かる。一流の哲学者はみんなそんな
感じ。水槽脳の思考実験は、なかなか秀逸だね。宇宙がインフレーションし続けている
というのも、確かに単なる脳内現象かもしれないよ。 哲学は高度な数学的構築物を構成するはずだという思い込みが数学実在論とやらの確信につながっているんだろうな
ここに一流の哲学者なんてそもそもいないし、一流の数学者のいないからね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています