数学を初めとした理系の学問と哲学について 11
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多値論理は、人間の曖昧な認識に合致するので、ファジー論理などにも使われている。さっき、yahooニュースで金正恩がシンガポールで夜の観光に出かける写真で、
コメント覧読んだら、彼の顔が日焼けでずり剥けているというコメントが多かった
けど、手前の人の影が彼の顔に映っているだけなのに、認知力が低い者は、
その程度のことでも正しく認識できない。
つまり、人間の認知や論理には、もともと不完全であるということ。 だから、そうした人間の不完全性を予め折り込む形で、Nullやunknownという
真偽以外の第3項を用意し、そうした人間の不完全性や論理を補完するように
した方が、複雑な現実と整合的な論理となることだろう。
これは倫理においても同様で、勧善懲悪の2値論理では対応できない。
差別主義者のトランプがアメリカの大統領にまでなり、義兄や叔父を処刑した
金正恩がシンガポールでただで高級ホテルに泊まり、綺麗な妻を持てる。
自国には飢えでやせ細った国民が大勢いるのに、本人は肥え太った痛風持ち。
だから、倫理においても2値論理で真値を見るのでなく、3値論理や4値論理などの
多値論理で考察する方が、少なくとも現実的にはなるだろうね。 だから、SQLの3値論理にあるNullで集合を作ってあげると認識論的な見通しが
良くなるだろう。そして、NULL自体も2種類にフォークさせることができる。
その一つは未知(Unknown)。もう一つは、適用不能(Not Applicable)。
ちなみに、この分類を行なったのは関係モデルの創始者E.F.コッド。
このNull集合の中に入れるのは、たとえば、
神の存在の有無
この宇宙に始まりと終わりはあるか
決定論か非決定論か
死後の世界や輪廻はあるか否か
霊や宇宙人は存在するのか
未来の核戦争はあるか
AIは人類を支配し滅ぼすかetc.
といった具合に、とりあえず未知であったり、不明であるものは
Null集合の中に放り込んでおけばいい。 兄貴、いてえよ
宗教板の奴らに
1+1がなぜ、正しいのか哲学的に答えられねえって言うんで馬鹿にされたよ
兄貴、哲学的に答えて鼻をあかしておくれよ 世の中の人々は、本来、こうしたNull集合に入れるべき命題に、信念や信仰によって、
真偽値の1と0を無理矢理割り当ててしまう。そこに争いの生じる土壌が出来る。
宗教戦争や強硬な政治イデオロギーで歴史上多くの死者や犠牲者が生まれたのも、
その原因は、単純な2値論理や正義の概念で物事を理解する短絡思考にありそうな気がする。 そんなんじゃあ、全然、納得できないよ
もっと、批判精神旺盛に説明してくれなきゃ >>694
真実はひとつ?
なぜそう言えるのかね? <科学技術白書>「国際的地位は低下」研究力の低迷あらわに 6/12(火) 15:49配信 毎日新聞
政府は12日、2017年度の科学技術白書を閣議決定した。人材力、知の基盤、
研究資金といった科学技術・イノベーションの「基盤力」に多くの課題を挙げ
「わが国の国際的な地位のすう勢は低下していると言わざるを得ない」と指摘。
近年の日本の研究力の低迷ぶりを如実に表す内容になった。
各国の政府の科学技術関係予算の伸び具合を00年と比べると、中国が13.48倍(16年)、
韓国が5.1倍(同)、米国が1.81倍(17年)になったのに対し、日本は1.15倍(18年)
とほぼ横ばい。
博士課程への進学者も03年度の約1万8000人をピークに減り始め、16年度に
1万5000人を割った。海外へ派遣する研究者の数は00年度(7674人)を
ピークに15年度は4415人と減っているほか、国際共著論文の数も伸び悩むなど、
国際性の低下も問題になっている。新たな研究分野への挑戦不足も指摘している。
注目度の高い研究分野への参画度合い(14年)では、米国91%、英国63%、
ドイツ55%に対し、日本は32%と低迷。研究者を対象にしたアンケートでも、
挑戦的・探索的研究が減っている、との回答が多かった。 ∀ A,B : [数学の出来る者(A)は、哲学の素質がある(B)」という命題と
その対偶「哲学の素質がない者は(¬B)、数学の出来ない者である(¬A)」は
(A⇒B)⇒(¬B⇒¬A) で表せる >>716
こういう「だから何?」と言いたくなるレス増えすぎ 「この道具だとこう表せるよ」
見つけちゃった!えへへ
自分の主張がないぞ!おい!! バカって、すぐに己の貧しい創造性に訴えるんだよね。
学ぶのが嫌いなので、妄想に耽る 自然数の帰納的定義の仕方に色々あるので、紹介しよう。コンピューターの
原型を作ったノイマン(N)、整列可能定理と選択公理で知られるツェルメロ(Z)、
述語論理を創始した論理学者・哲学者のフレーゲ(F)、3人によるもの。 自然数0の場合
ノイマン(N)型の表記:φ
ツェルメロ(Z)型の表記 : φ
フレーゲ(F)型の表記 : {φ}
自然数1の場合
ノイマン(N)型の表記:{φ}
ツェルメロ(Z)型の表記 : {φ}
フレーゲ(F)型の表記 : {φ,{φ}} 自然数2の場合
ノイマン(N)型の表記:{φ,{φ}}
ツェルメロ(Z)型の表記 : {{φ}}
フレーゲ(F) )型の表記 : {φ,{φ},{φ,{φ}}}
自然数3の場合
ノイマン(N)型の表記:{φ,{φ},{φ,{φ}}}
ツェルメロ(Z)型の表記 : {{{φ}}}
フレーゲ(F) )型の表記 : {φ,{φ},{φ,{φ}},{φ,{φ},{φ,{φ}}}} 上記のように自然数が帰納的に定義されていくのだけど、哲学者でもあった
フレーゲの自然数の定義が一番、複雑な感じに見える。フレーゲ型の場合は、
自然数0が空集合でなく、空集合を含む単元集合になっていること。
単元集合は元や要素が一つの集合のこと。こうして、型の違いはあっても、
自然数というものが入れ子集合で定義できることが分る。
フレーゲの自然数の定義は入れ子の多いLispのコードみたいだね。 馬鹿って、すぐに己の貧しい抽象性に訴えるんだよね。
思考することができないので、形式に耽る。 >>フレーゲの自然数の定義は入れ子の多いLispのコードみたいだね。
見た目だけの感想
だから何?といか言いようがない LISPは、プログラミング言語である。前置記法などが特徴である。
1958年にはじめて設計されたLISPは、現在広範囲に使用されている
高水準プログラミング言語の中でもFORTRANに次いで2番目に古い。
ただし、FORTRANと同様に、現在のLISPは初期のものから非常に大きく変化している。
これまでに多数の方言が存在してきたが、今日最も広く知られるLISP方言は、
Common LispとSchemeである。元々、LISPは、アロンゾ・チャーチのラムダ計算表記法に
影響を受け、コンピュータープログラムのための実用的かつ数学的な表記法として作られた。
そして、すぐに人工知能研究に好まれるプログラミング言語になった。
最初期のプログラミング言語として、LISPは計算機科学にて、木構造、
ガベージコレクション、動的型付け、条件分岐、高階関数、再帰、セルフホスティング、
コンパイラを含む多くのアイディアを切り開いた。 LISPの名前は、「list processor」に由来している。リストはLISPの主要なデータ構造で
あり、LISPソースコードはそれ自体がリストからできている。その結果、LISPプログラム
はソースコードをデータとして操作することができ、プログラマーは、マクロ・システム
で新しい構文やLISP埋め込みの新しいDSLを作成できる。コードとデータの互換性は、
LISPにそのすぐに認識できる構文を与える。
すべてのプログラム・コードはS式または入れ子のリストとして書かれる。関数呼び出し
または構文は先頭が関数または演算子の名前で、その続きが引数であるリストとして
書かれる。具体的には、3つの引数を取る関数fは、(f arg1 arg2 arg3)として
呼び出される。 たとえば、ある人間αさんの価値観や嗜好、思考、判断の特性や傾向、行動モデルを
計算機科学的な形式でβとして実装出来たとする。すると、αさんが自ら動いたり、
指示・命令することなく、αさんらしいタスクや選択をβは自律的にこなすことが
できるようになる。
これはすごいことではないだろうか。たぶん、私のネットでの書き込みや買い物、
口癖にもパターンがあり、傾向性が見られるので、私が書きたがるようなことを
βが自律的に書いたり、ネットで予約注文したり、実行する。そこでは私らしい
価値判断が、私の命令や手を離れて永遠に継起していくことも可能だ。 ただ、人間の好みや価値観など変遷があるもので、私など特に飽きやすい性格を
しているのだから、計算機科学的な形式で現在の私の概念・判断・価値観モデル
をβで実装しても、すぐに月日の経過と共にそれが非整合的となり、使い物に
ならないと考えられるかもしれないけど、それは違う。
なぜなら、βの実装をそうしたモデルと現実との解離を生じさせる0,1の
離散値で2値論理として実装するのでなく、0~1の実数の連続値で多値論理で
ファジーにしてモデル化したら、αさんなり、私の判断の事後的な移り変わりや
傾向性の分岐も、ある程度、トレース出来る、よりその人間と適合・同一的な
モデルが出来るのではないかと考えられる。 そのため多値論理に基づくβはαをかなり上手く代替し、その十分な写像となって、
αがすべきことをαの存在や命令なしで、βが自律的に拡張的にαのタスクを実行、
もしくは自動生成するようになってくる可能性は十分にあるだろう。
そうすると、どんな世界が今後、未来に誕生するのかと言えば、αとしての
私が不在、あるいは私がこの世界で非在であっても、私が存在するという矛盾した
二重構造がこの時空に生じることになる。
「私は存在しない、だが私は存在し得る」というのが未来型の存在論であり、
これはファンタジーではなく、計算機科学的な形式の巧みな実装によって
誰にとっても共通の存在論的な形式となり得るだろうね。 一般言語のもつファジーさを数理モデルに落とし込むことで失われる情報もあるだろし、数理モデルの持つ生真面目な性格が現実世界に反映されがちになりそうやよね。
いうても一般言語ファジーさを完璧に数理モデルで再現できるほどの技術はまだまだないわけやからね。 >>739
オーバーフィッティングに陥ることに対する対策なら、現在でもあるけどね あと、審美性なども実装できるといいだろうね。あるファッションデザイナー
αの美的感性や価値観を計算機科学的な形式でβで実装できれば、そのデザイナー
がデザイナーを辞めても、あるいは、死んでしまっても、そのファッション
デザイナーαは、βのもとでこれまで通りに仕事を自律的に創造的に進める
ことが出来る。
αは、作家でも哲学者でも漫画家でもいいし、経営者でも政治家、科学者でも、
著名人でも一般人でもいい。αが不在、もしくは非在となっても、βとしてαは
自己のモデル像を転写し、継起していく。そのためここで必要とされるのは
存在論の定義の根元的な書き換えと更新である。未来においては、存在する
ためには、現前の存在は決して前提にはならない。むしろ、不在の中において
存在出来ることが、これからの新しい存在論のテーマとなることだろう。 >>740
脳みそとか、DNAのエラーの出方と、機械工学におけるエラーって根本的に性質が違うってのもあるしな。
というか、生体や、生態系ってエラーが巧妙に仕組まれてるし、多重でフラクタルなレイヤーが相互に関連しあってて、数理モデルでパッケージングすること自体にムリがあるっていうか。 哲学の本ってなんであんなに分厚いんだろうね
半分くらいは例なのかな >>744
読んだことないの?
大半は挿絵とか写真だよ 数学では読み解けない文学の多重でフラクタルなレイヤーが相互に関連しあっている仕組まれた構図に良さがある >>746
そうなんだ絵が多いってのは分かりやすくていいね John Stillwell著 三宅克哉訳
「初等数学論考」
(原題 Elements of Mathematics From Euclid to Godel* )*Godelのoは本当は上に点が二つついてるドイツ語のやつ
共立出版(2018)
・何となく分かった気になれる
・「哲学的な雑記」が各章に載っててこのスレ向きなんじゃないかな ゲーデル数は、数理論理学において何らかの形式言語のそれぞれの記号や整論理式に
一意に割り振られる自然数である。クルト・ゲーデルが不完全性定理の証明に用いた
ことから、このように呼ばれている。また、ゲーデル数を割り振ることをゲーデル数化
(英: Gödel numbering)と呼ぶ。
ゲーデル数のアイデアを暗に使っている例としては、コンピュータにおける
エンコードが挙げられる。 コンピュータでは何でも0と1で表し、「apple」のような
文字列も0と1による数字で表す。 ゲーデル数化とは、このように文字列に数字を
対応させる事を指す。 ゲーデル数化は、数式におけるシンボルに数を割り当てる符号化の一種でもあり、
それによって生成された自然数の列が文字列を表現する。この自然数の列をさらに
1つの自然数で表現することもでき、自然数についての形式的算術理論を適用可能となる。
ゲーデルの論文が発表された1931年以来、ゲーデル数はより広範囲な様々な
数学的オブジェクトに自然数を割り振るのに使われるようになっていった。 計算可能性理論において、「ゲーデル数化」は上述よりさらに一般化した意味を
持つ用語として使われる。
1.形式言語の構成要素に自然数を割り当てて、形式言語の構成要素の操作を
数を操作するアルゴリズムでシミュレートできるようにする。
2.より一般化して、枚挙可能な数学的オブジェクト(例えば枚挙可能な群)に
自然数を割り当てて、その数学的オブジェクトにアルゴリズム的操作ができるようにする。
ゲーデル数化という用語は、文字列としての「数」を割り当てる場合にも使われること
がある。これは数というよりも文字列を操作する計算模型(チューリングマシンなど)
に必須の考え方である。 なぜゲーデルが、依然として現代的かと言えば、彼の不完全性定理が
無神論的な意匠のもとに、その論理をタイトに徹底させているところに
あるからだろう。そうした冷徹な振る舞いに、洗練された要素が見られる
からだ。当然、その論理には恣意的な超越的飛躍などはない。
デカルトやライプニッツの数学や真理は、その真理性の保証人として
神を戴くことを是とする点が、ゲーデル以降の現代数学とは大きく
異なるだろう。 >>756のこの関係をメタファーで記述すると、
完全性 : 神の論理
不完全性 : 人間の論理
となる。現代では、この中間にAIの論理とでも呼べるものが入ってくるだろう。
そのAIの論理は、完全未満で、不完全よりは大きい論理。完全性と不完全性の
論理積の位相にあるような未来型の論理。 ゲーデルの不完全性定理とは(成功したかどうかは別として)神の存在証明だと思うが? そうした神を真理の保証人とする近代科学の体系や論理構造に看過出来ぬ、バグや穴、
欠陥があることを見抜いたのがヒュームだね。また、数学の体系における無矛盾性が
端的には明証的ではないとして、そこにバグとしての証明不可能性を発見したのが、
ゲーデルになる。
つまり、ヒュームもゲーデルも、従来、完全だと見做されていた近代化科学や数学の体系に
不完全な要素があることを洞察した点で共通している。だから、2人は、論理を完全な神の領域から、
不完全な人間の領域までに厳密に現実化した、と言えるだろう。 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V
d 科学的な因果律や数学の体系にバグがあることを発見したヒュームやゲーデルの
洞察によって、合理性が自ずと内包している不完全性や矛盾、穴への明示的な
認識というのがそれで可能になった。
すなわち、合理性の追究と貫徹だけでは論理は完全とはならない。それはかえって、
論理の外部にあるような未知性を呼び出す契機を生じさせるかもしれない。
人間的な既存の論理だけでは導き出せないものとして、時には、AIの論理という
ものでも仮構してみて、それを人間的な論理の拡張として、想像的仮説として
用いながら思考実験してみるのも興味深いかもしれない。 ゲーデル不完全性定理の証明には選択公理が使われてんじゃない? 選択公理を認めると
バナッハタルスキーのパラドックスが起こる?みたいだけどよく分かんない カントール(1845~1918)「数学の本質はその自由のうちにある」 不完全性定理の成り立たない世界だってあるんじゃまいか? ゲーテルさんは数学は完璧ではないという意味で哲学的に意味あったけど、昔の数学者が思い上がって数学が完全無欠だとのたまったから反撃を食らったって話で。
数学の良さは精密さを適宜調整できて、まるで欠陥がないように運用できるし、そう見せてくれることにある。
数学モデルを見た時に僕らが気をつけなきゃいけないのは、完璧なんてないてことを一応頭の片隅にはおいておかなきゃだよね、ぐらいの教訓としての不完全性定理。 >>768
この世界とは違う世界?
時間が2軸とか? >>769
完璧なものに変化なし。
変化なきものには関われない。
只、示されるのみ。 1のn乗根は、x^n = 1 で表せるので、右辺を移行して、
x^n - 1 = 0 でxを計算すればよい。
一般に 1の n 乗根は、
1^(1/n) = cos・(2kπ)/n + i・sin・(2kπ)/n (k = 0,1,2,3,4,…,n-1)
という極形式で、複素数平面上で表せる。cosがx座標の実軸で、sinがyの虚軸。
n = 13と置くと、それは半径1の円周を13等分していることになり、その円周上の
13地点の座標を求めることと同じになる。それを円周等分方程式で表すと、
(x^(n-1) + x^(n-2) x^(n-3) + … + x^3 + x^2 + x + 1 ) = 0 を解けば
1のn乗根の解を求められる。1の13乗根をプログラミングで計算してみると、
次の結果になる。iは虚数単位。 1.00000000000000
0.88545602565321 + 0.464723172043769i
0.568064746731156 + 0.822983865893656i
0.120536680255323 + 0.992708874098054i
-0.354604887042536 + 0.935016242685415i
-0.748510748171101 + 0.663122658240795i
-0.970941817426052 + 0.239315664287558i
-0.970941817426052 - 0.239315664287558i
-0.748510748171101 - 0.663122658240795i
-0.354604887042536 - 0.935016242685415i
0.120536680255323 - 0.992708874098054i
0.568064746731156 - 0.822983865893656i
0.88545602565321 - 0.464723172043769i >>766
ACを認めないとRの濃度よりR/Qね濃度が大きくなったりもする。
どの気持ち悪さを選択するかなら使えるACを選びたくもなるのが普通の感覚じゃないかな。 >>762
君は、まず「ゲーデル数」とは何ですか?
と、哲学的命題を示すべきだ。
問われもしない事を、ただ書き連ねても、
そこに意味を見出す事は困難を極める。
何故ならば、君の意図や君の哲学、君の姿勢、
君の生き様、いわゆる人生が反映されていないからだ。
命題を示した後に答えを書き、詳細はその後だ。
一連の流れから察するのは、
「自分の哲学は拙い為、ボロを見せたくない」
「それらしい単語を使えば、まるで学がある様に感じる」
といった、君の自身のなさであり、
そこには、自分の人生に対する悲観的見解が根ざすのであろう。
まず、堂々と胸を張り、己に命題を示そう。
全てはそこから始まる。 Banach-Tarskiパラドックスて別におかしくないよね?
実際に目の前にあるボールを分割するわけじゃないし ハゲ頭のパラドックス
「髪の毛が一本もない人はハゲである」(前提1)
「ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである」(前提2)
ここで前提1に前提2を繰り返し適用していく。つまりツルッパゲの人に髪の毛を
一本ずつ足していく。そして次の結論を得る。
「よって全ての人はハゲである」(結論) 砂山のパラドックス
砂山から砂粒を個々に除去していくことを想定する。ここで、次のような前提から
論証を構築する。
「砂山は膨大な数の砂粒からできている」(前提1)
「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである」(前提2)
前提2を繰り返し適用したとき、つまり、毎回砂山の砂粒数は徐々に減っていく、
最終的に砂山の砂粒が一粒だけになる。前提2 が真であるなら、この状態も「砂山」
だが、前提1 が真だとすれば、このような状態は「砂山」ではない。これが矛盾である。 砂粒が10粒くらいになったらもはや砂山ではない、前提2が誤り :>>780>>781は、いわば数学の極限的操作に近いね。ミクロな微分的操作を極限
的に繰り返すことで、ミクロでの正しい前提が崩壊して、矛盾に陥る。
合成の誤謬も同じで、ミクロの系での正しさは、マクロの系においては矛盾に
なる。つまり、座標系が変わると、前提の正しさがそのまま継承されなくなる、
ということだろう。だから、木を見て森を見ずではダメなのだ。全体観や
大局観で物事を俯瞰的捉えることで、そうした矛盾に陥ることを上手く
回避できる。 砂山の砂粒が何粒になった時点でそれが砂山でなくなるのかという境界条件の設定が困難なので、砂山のパラドクスみたいなのが生じるのだろう。なぜなら、境界設定
出来たとしても、それに±1砂粒にした対象は、本当に砂山ではなくなるのか、
あるいは、砂粒ではなくなるのか、と依然として問える訳だからね。 >>781
前提1が真なら砂粒は砂山ではないのだから矛盾しないし
砂山から砂粒を取り除けば砂山のままではないが真だから前提2は偽だし
論証のための前提が間違えて砂山のパラドックスを虚構してしまったと
論証できるね >>788
だから、その境界設定が変だろうということ。
砂山を構成する膨大な砂粒の数が何個までになったら、それが砂山と違うものになるのかが明確ではない。たとえ砂粒3粒と砂粒4の間に境界設定できても、それが砂粒と砂山を分ける境界設定になっているという妥当性が不明瞭だし、あくまで恣意的な
定義によるものとなっているだけだね。 >砂山から砂粒を取り除けば砂山のままではないが真だから前提2は偽だし
前提2は、偽じゃないし。膨大な砂山から砂粒一個取り除いても、
それは依然として砂山である、という命題は真でいいだろう。 砂山は、膨大な砂つぶで構成されている。
君、書き損ないを補完する脳の機能もないのかよ。
こっちは書きづらいiPadのキーボードで書いているんだよ。
揚げ足取りの構ってちゃんなら、今後は無視するよ 砂山は、膨大な砂つぶで構成されている。その砂山から砂粒を取り除いた時点で
それは依然として砂山であるというところの、当初想定していた砂山ではない
一粒減っている砂山なのだから
それは依然として砂山であるという命題は虚になる。 もし、>>794のロジックが正しいのなら、砂山の定義自体を見直さないと
いけないね。現実にある砂山で、粒数が常に一定なんて、実験室で作った
砂山以外ではあり得ないだろうから。たとえ、それが1粒減った砂山だろうと、
1000粒減った砂山であろうと、人はそれを依然として砂山だと認識する。
人間のゲシュタルトは、そうした曖昧な構成でなされている。
ヒューリスティックな認識も同じだよ。 ハゲとか砂山とか数学的に厳密な定義じゃないから踊らされちゃいかんのだよ >>795
客観的事実を論理的に検証しただけだけど
見直すべきは、砂山の定義ではなく>>781の想定と前提と
論証が、実は主観で構築されたロジックによって虚構された
砂山のパラドックスだったという客観的事実だろう。 数学的に厳密な定義は数理数論に規定された形でしか踊れないよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています