カール・マルクス 17
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「法治的自由とは国家市民が同意した法律以外のどんな法律にも服しないことである」
国家市民は、法律の制定に同意しているどころか、どのような法律が定められて
おり、それが自分にとってどのような意味をもち、実際にどのように運用されて
いるのか、自分がトラブルにでも巻き込まれるまで知りませんよ?
法律の専門家である弁護士や裁判官でさえ、詳しく把握しているのは、
制定されている法律のうちのごく一部にすぎないでしょう。 >>191
他人のことをひとでなしという人が道徳家なの? 生まれた時にもう理解や承認しきれない
法体系があるからな
市民になるかどうかの自由はない
カントは絵に描いた餅の王者だよ 韓国の司法は国民情緒法であるという
このスレにはコリアン主義が多い >>166
小室直樹の思想はアメリカのリベラル派だが
行動科学革命の導入者
要はアメリカ民主党の手先
だから山本七平というキリスト教徒と仲がいい
日本教とかいう訳の分からん馬鹿みたいな理論を語って人
キリスト教徒の猿は武士道とか空気とかアホみたいな理論を作り出すやつら
副島隆彦も英米の手先
日本の文系の学者や知識人はイギリスかアメリカの手先かマルクス主義以外
居ないっての
全部占領軍にパージされたんだから存在できないシステムになってるんだよ
こんな事すら知らないほど馬鹿だから世界で相手にされないんだろ 小室と七平は
ザ昭和のおじさんのドヤ話なんだよなあ
彼ら以前に遡るかどうか知らんが
麻生みたいな世代の政治家は影響受けてると思う
もし彼ら以前を知っているなら教えてくれ 山本七兵はキリスト教徒の猿だよ
こんなもの信じてるのは猿か化石だけだっつーのw
麻生が信じてる?
麻生はカトリックの猿だからだよw >>166
前にも説明したのになんで同じ間違いをおかすのか
小室直樹がアメリカの左派なのに何故日本の愛国者ぶるのか?
それは山本七兵や在日と同じだよ
卑怯な奴らは隠れてこそこそする
隠れ蓑をまとって敵を油断させて罠にかけるのである 副島もトロツキストぶったりネオコンにかぶれたりアメリカ民主党に戻ったりしたけど
根っこは一貫してずーっとイギリスの手先である
戦後の日本の文系の学者や知識人は連合国の手先のいづれかの派閥にならない限り
席や食い扶持を確保できないシステムになってるいる
こんな常識をしらないで日本の社会を語るやつは相当な低能 お前の母ちゃんがブスなのもアメリカ・イギリス・ユダヤ・イルミナティーの手先でコリアンの血が入ってるからなんだろ? >>193
キリスト教をはじめとする奴隷道徳の正体は憎悪を源泉とした正義感である
「道徳の系譜」を参照せよ ケインズは北一輝の国家社会主義を丸パクリした猿だろ >>204
社会主義というのは、生産手段の共有化のことだ。
共有する組織形態はさまざまだが、独裁政権による生産手段の独占は社会主義とはいわない。
その場合は専制王政と同じだが、ナチスの場合は、財閥がそのまま財閥として支持基盤であったファシズム政権。
ナチスの自称を真に受けると、言葉の定義矛盾となる。 エンゲルスだって資本家だし
マルクスだってロスチャイルドの事は批判しないし
社会主義者だからって資本家や財閥に敵対するとは限らない
ヒトラーやトロツキーなんか資本主義が全く発達してないロシアで革命を起こした
英米で起こせばいいのに
この事から分かるようにレーニンとトロツキーは英米の資本家の手先なだけのクズ人間 キリスト教ねずみ講ネットワークを批判しないアホがいくらファシズム批判しても何の意味もないからw
言っておくがアホには資本主義を解体することは不可能
そもそも批判すらできないから話にならない 俗にマルクス主義と言われているものはナロードニキと勘違いされていることがほとんど。
マルクス自身も晩年にナロードニキに傾く落ち度はあったものの、この二つは別物だと考えたほうがいい。
ロシア・マルクス主義の父といわれたプレハーノフやエンゲルスはその点一貫していた。
資本主義化なしに社会主義革命が実現可能だと考えていたナロードニキをプレハーノフは真っ向から批判し、
ロシアの資本主義化は不可避だと唱えたからだ。 >>208
その点をめぐってレーニンは上司のプレハーノフの時期尚早論と対立し、
だから彼はまず最初に「ロシアにおける資本主義の発展」を書いた
レーニンは必要な時に必要な本を書く
警察に追われたり、内戦を指揮したり、政治家としての実務をこなしながら、片手間にやってしまうのだ 手先になるっていうのは、自分で選択してなるものではないんだよね。
単純に自分が生きようとする道で生き残ろうとする。
でも、どんなに努力しても、どれほど自分で成果を出したと感じても、
そこに複雑な対立があるにせよ、既存の仕組みに都合のいいように
成果を出すのでなければ、決して評価されることはない。
すべてが徒労に終わることを繰り返していれば、その道で生きること
を諦める他なく、うまく適応して生き残る人間は、評価される成果
を出すことでいつの間にか取り込まれている。
自分で意図的に選択したわけではなくても、自らの努力が評価され、
地位を得ることで既に恩義を負っているので、取り込まれている
ことに気づいたときにはもう遅い。恩義を裏切れば、直ちに
制裁を受けるしかない立場にいるのだから。 権力は人文知を嫌う。それは、人文知が公共性の追求だからである。 まず自分の能力不足を社会のせいにする
その後に真の知性は評価されないと言い出す
結局彼岸に承認を求めている
悲しい人生ですね >結局彼岸に承認を求めている
彼岸に承認を求めるのではなく、此岸に承認を求めるようになったら、
もう人となりは諦め、人もどきか人でなしになるしかないでしょう。 >悲しい人生ですね
人生とは「かな(適/叶/哀/悲/敵)しい」ものです。
そのことに気づかないうちは、人の道を歩んでいるとすら言えない。 権力が評価するのは、公共性の追求に反する利己的な振舞いであり、
権力が求めている「人材」というのは、結局のところ、ひとでなし(手下)か、
ひともどき(偽善的な協力者)か、家畜(役に立つ馬鹿)だけなのです。 >>213
横だけど、その能力こそが、>>210さんの指摘する手先になってしまう能力ってことだよ。
たしかに、悲しいことだ。 「悲し」という表現は、日本語の形容詞の「し(causing)」を使役の
「す(cause 〜 to)」の分詞形と解釈すると「か(兼)ね(reaching)+
し(causing)」であると理解することができる。かな(適/叶/哀/悲/
敵)ふ」は、「か(兼)ぬ+ふ」と考えれば、「か(兼)ぬ(reach)」の
再帰形である。
我(われ="minor being")は、彼岸/彼方(あ・なた)に決してかな(適/叶/哀/
悲/敵)ふことがない(すなわち、「あなた」は"beyond reach"である)。
しかし、我は、彼方(あ・なた)とひと(人/等/一)しくあることができる、
ひと(人/等/一)しくあることにあた(能/値/与)ふ)という潜在性において
のみ人である("to be oneself")ことができる。 「愛(いと)おしい」という表現がある。
この表現は、本来は、「いとを(惜)し」だろうと思う。
「をし」の「を」は、「〜を〜する」という表現や、古語の「こなたへを」
という呼びかけの「を」とそれに応答する「を」、ならびに、呼び寄せる
という意味で用いられた「をく」という動詞に見られる「を」、さらには、
そこから派生したと思われる「をかし」という表現における「を」の
場合と共通して、呼びかけの声に由来し、英語にするなら「why not?」を
表現しているのだろうと考えることができる。
「いと・をし」の「いと」は、言うまでもなく、程度が甚だしいことを表し
ている。したがって、「いとおしい」は、「causing (one) to painfully miss」
とでも訳すことができるような表現である。 >>219-220
一応マルクススレなんだから、”科学的”な知見を披露してほしいものだ。
思い付きを断言するのはやめた方がいいと思う。 「いとおしさ」は、ノスタルジアやサウダージとして名指される
感覚と似通っている。ロシアの映画監督のタルコフスキーは、日本でも
「ノスタルジア」という題名で知られる自らの映画作品について、
「『ノスタルジア』と呼ばないでほしい。ロシア語の『ノスタルギア』
とつづり、そう発音してほしい」といったそうである(山田和夫
「なぜノスタルギアと呼ばせたか?」の記述によ)。
「いとおしさ」であれ、ノスタルジア/ノスタルギアであれ、サウダージ
であれ、人は、そのような感覚を、他人には理解されない、自らに
(その「自ら」がどのように捉えられるにせよ)固有のものであると感じる。
他人には、その切実さは分らないと感じるのである。
しかし、人であろうとするなら、「いとおしさ」や、「いた(傷/痛/悼)み」や、
「かな(悲/哀)しさ」といった感覚こそ、それが自らのものであれ、
他者のものであれ、それが固有であることを特権化してはならないのである。 >>222
まだ言ってるのかよw
例えば、「いとおし」は「いとほし」、「惜し」は「をし」で、まったく別の言葉。 >「いとおし」は「いとほし」
いかにも後付けの語源解釈ですね 後付けの解釈は、とってつけたようにアドホックだから、解釈のネットワークを
形成することなく孤立してしまう。 共有するといってもじっさいには管理する人間が必要だし、
管理している人たちがじっさいには私物化しているといっても過言じゃない、
それが共産主義。 >>208
マルクスは資本主義の高度な発展抜きには資本と労働者の矛盾は認識できず社会主義、共産主義革命は実現不可能であると考えた。
しかし、外国の失敗例を真摯に受け止めれば、開発途上段階から一足飛びに社会主義、共産主義の社会へと移行することは可能であると、
レーニンやスターリン、毛沢東らは考えた。
とくにレーニンは第一次世界大戦をレーニンの時代の資本主義、すなわち帝国主義が生んだ破局であると考えた。
そしてそれを克服するための手段としての世界革命の必要を訴え、当時資本主義の問題が最も集中していたロシアがその先駆けとなると主張した。 表現の妥当な解釈というのは、しばしば、言語の枠を超えて解釈のネットワーク
を形成する。例えば、「いとをしむ」と似通った表現としてスペイン語の
「añorar」を辞書で引いてみると、
>懐かしむ、惜しむ、悼む
という意味が記載され、
>Añoro a mi novio. 私は恋人がここにいなくて寂しい。
という例文が出ている。小学館 西和文中辞典
"añorar"の語源としては以下の説を参照することができる。
ただし、私には、その語源の妥当性を判断する能力はない。
http://etimologias.dechile.net/?an.orar レーニンやプレハーノフの時代、ロシアでは急激な資本主義化が進行していた。
それを可能にした要因はいくつかあるけれど、ストルイピンの改革がある程度の成功を収めて高度成長期に入っていたことが背景だ。
また露仏協商による外資の導入なども、ロシアの急速な資本主義化を実現する効果があった。
この時代のロシアは年率10%を超えるGDP成長率を実現していたという計算もある。
ストルイピンは「あと10年ほどすればロシアは見違えるような国になるだろう」と豪語した。
ツァーリズムのもとでの急激な資本主義化、ロシアは当時の列強国の中で最も帝国主義的な国家であり、(主要なものだけでも15の民族を抱えていた、)
帝国主義の時代のあらゆる矛盾の集合点であるとレーニンは分析した。 ストルイピンの改革の中でもとくに注目されるのは、
ミール農村共同体の解体である。
これは日本でいえば”惣村”というべきものだが、農奴解放によってもミール共同体に関しては、ほとんど手付かずで残されていた。
ミール共同体については、”割替え”という耕作地の総入れ替えの制度があり、経営効率はかなり悪かった。
ストルイピンは社会の資本主義化を進めるにあたって、農村の資本主義化を進める必要があると感じていた。
そのため、ミールを解体し、農民に土地を取得する機会を与えて、かつ農家の次男坊三男坊を都市に吸収して労働者化することを企図したのだった。
(ミールはナロードニキの流れを汲む革命家たちの浸透が進んでいて、革命の温床になるとう懸念もあった。)
しかし、農民の多くはミール共同体にたいする愛着を持っていたため、かれらは”不安”を感じるようになった。
ミール自体がコミューンであり、生産手段の共有が行われていた面では、帝政ロシアははるか以前から共産主義を実現していたともいえるのだ。 ストルイピンの改革によって種が撒かれた富農の問題は、
ソビエトロシアの時代以降も受け継がれ、のちに重要な社会問題として浮上することになる。
いずれにせよ、都市労働者の急激な増加、農民層の不安、これらがロシア社会主義革命に与えた影響はきわめて大きいものがあった。 震災の心のケアでもしようかな。有料エロサイトより有料サイドで。
ラマダン宇宙の大道芸人。
人間はどこから来てどこへ行くのか、様々な人が問いを立て様々に人は
それに答えて来た。
在る哲学者 の答え。独走態勢で彼方へ走ってゆくのだ。狂うように正確に。 そういや昔ロシア人の友達いたな
ミーシャ元気かな〜 「いとおしさ」や「いた(傷/痛/悼)み」や「かな(悲/哀)しさ」といった感覚は、
他人から理解されないからといってその存在を否定すべきものではないが、
それと同時に、理解されないことを理由に自らに固有のものとして特権化
してはならないのである。 個人的な感情は全部そうでしょ
いつまで下手な言葉遊びしてるん
上手にやらないと >>225
知ったかぶりで言い張るのはみっともないよ。 もう記憶が曖昧になっているが、昔、エジプトのベドウィンの社会について
書かれた本を読んだことがある。そこで親族が亡くなって埋葬して、墓の
前でその死を声を上げて嘆き悲しむ女性の様子が描写されていた。
その女性と一緒になって死者の親族ではない女性も声を上げて嘆き
悲しむが、その行為によって悼むのは、他人の親族の死ではなく、
以前に亡くなった自らの親族の死である。つまり、そこで共有されて
いるのは、特定の死者に対する感情ではなく、悼みであり、それが
ドイツ語を用いるなら"Mitleid"として表現されているのだ。社会が
親族組織の対立によって構成されているので、他の親族の死に対して
「悼み」を直接的な感情として表現することは、不自然となり、むしろ、
わざと「哀れみ」を示して、親族を失った相手に対して優位な関係に
立とうとしているという解釈が生じる恐れがあるのだろう。しかし、
一緒にそれぞれの自らの親族を一緒に悼むことによって、「悼み」を
共有することはできるのである。 そんなことで優位な関係に立とうとする
なんて解釈は生じないよw
虚しいなあ >>240
マルクスとなんの関係が?
荒らし方を変えたの? キサー・ゴータミーの話は、中村元訳『尼僧の告白』岩波文庫、p.108に簡単に紹介されている
http://mujintou.net/houwa1.htm
あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、
遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を
歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞
きつけ、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。…
釈尊はこう答えました。
「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことの
ない家から」。
これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれる
と思い、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ませんでした。
しかし人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たのでした。
参考:
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書(『仏教説話大系』12、すずき出版) 世界史の構造2:4:7より
《宗教改革というと、しばしばルターのそれから説き起こされる。しかし、
宗教改革は一二世紀から各地で起こっていた。そして、それは必ず社会運動と
結びついていたのである。ルターの宗教改革はそうではなかった。彼は、その
ことがきっかけで起こった農民戦争を断固として弾圧する側に回ったからで
ある。ルターの宗教改革が教会側によって重視されるのは、むしろそのためで
あり、キリスト教信仰を個人の内面に閉じこめ、「神の国」を天上化するものと
して、である。一方、ルターによって支援された封建諸侯が弾圧したドイツの
農民運動を率いたのは、トーマス・ミュンツァーであった。エンゲルスはつぎの
ように述べている。
ミュンツァーの宗教哲学が無神論につうじるところがあったように、彼の
政治綱領は共産主義につうじていた。そして、近代の共産主義的宗派で、二月
革命の前夜になってもまだその駆使する理論的武器庫の内容が一六世紀の「ミュ
ンツァー派」のそれを越えなかったものは一つにとどまらなかったのである。
この綱領当時の都市平民の諸要求の総括というよりも、むしろこの都市平民のあいだ
にやっと発展しはじめたプロレタリア的分子の解放条件の天才的な予見であったこの
綱領は、教会をその本来の姿にひきもどし、このいわゆる原始キリスト教的な、しかし、
じつはきわめて斬新な教会に矛盾するいっさいの制度を除くことによって、神の国、
すなわち予言された千年王国をただちに地上にうちたてることを要求した。しかし、
ミュンツァーは、この神の国ということを、ほかでもなく、いかなる階級差別も、私的
所有も、社会の構成員にたいして自立的な、外的な国家権力も、もはや存在しない社会
状態と解していたのである。
エンゲルス『ドイツ農民戦争』伊藤新一訳、国民文庫、六二頁。》 マルクスの駄目だったところは
個人としての人間についての考察までは思考がいかなかったことだろう
もっともそのためには
フロイトの登場が必要だったわけだ >>246
プロテスタントは法王やバチカンがルネッサンスに影響されて堕落してる反キリストだとして
ルターが始めた原理主義運動ということが全く分かってないアホじゃんw
無神論ならルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという
現実主義的な政治理論を創始したニッコロ・マキャヴェッリの方が数十倍重要
目的の為なら手段を択ばない陰謀主義のマキャベリを隠したり
キリスト教のねずみ講ネットワークを一切言わなかったり
エンゲルスとマルクスはもはや確信犯だろw
インチキ詐欺師のパーリア資本主義だよこいつらは
孫子・韓非子レベルである やはりエンゲルスは素晴らしい
マルクスはいない方が良かった ヨーロッパに幽霊が出る〜の幽霊(悪霊)に被せて
ドストエフスキーは「悪霊」のタイトルを付けたのだろう
幽霊・悪霊・怪物と翻訳家によって様々なバージョンがあるらしい 馬鹿とハサミは使いようだという
宗教は時に農民の反乱の大義名分として革命陣営の武器であり、
時に権力者が己の疚しい不正や犯罪を正当化するための道具だった
従ってキリスト教が如何なる教義の宗教であるかはたいした問題ではなく、
キリスト教が目前の現実でどのような役割を演じているのかが問題なのだ
「ドイツ農民戦争」の宗教批判としての意義はそこにある
これはイスラム移民の問題にも通じるテーマなのだ >マルクスとなんの関係が?
「なんの関係が?」という問い方は正しくない。
正しい問いかけは、「マルクスとどのように関係するのか?」だ。 マルクスは、資本主義の発展にともなって拡大する諸問題がもたらす苦しみを
宗教的な救済の対象としてではなく、歴史的な政治経済の仕組みの問題として
解かれるべき課題であると考え、マルクスの議論の中で「価値」の概念がどの
ように整合性を有するにせよ、どのようにその概念が変遷したにせよ、
マルクスは、それを経済価値の問題として扱おうとした。そのことにより、
マルクスの本来の企図がどうであれ、宗教から、政治経済へ、政治経済から
経済へという議論の流れにより、「マスクス(系)経済学」という奇妙なもの
が議論されることになったのだ。 資本主義の生産関係の拡大により、生産すること、つまり、「できること」に
伴う熱意(Leidenschaft)が失われる事態がしばしば生じ、働くことがいた(痛/
傷/悼)み(Leid)のみをもたらすようになる。それでも生きていくためには
そのような生産関係において働きつづけなければならないのだから、働く
ことそのものが、「仕組みとして」、自らの尊厳(Würde)を損なうもの
(Beleidigung)となる。
その仕組みがどのように解消されて、働く者の尊厳が回復され得るのか
という問題を、経済価値の側面から議論することによって解こうとした
のがマルクスの取組みだろう。 そこで、マルクスの議論においては、かつては専ら彼岸においてのみ解決される
宗教的な救済の対象として扱われた現世の苦しみ(Leid)に対して、現世において
実現可能であるとされる救済が示されることになる。
私は宗教哲学にあまり関心がないので、シモーヌ・ヴェイユの著作を読んだこと
はないが、ラジオ番組などでその思想を知る限りでは、ヴェイユのマルクスに
対する批判はまさに、マルクスの理論が、彼岸においてのみ解決される苦しみ
(Leid)に対して現世における救済が可能であるかのような幻想を人々に信じ
込ませようとしていることに向けられてているのだと理解している。
そこで逆に、ヴェイユはキリスト教信者の立場から、資本主義の生産関係に
おいて労働者が苦しむ(leiden)ことそのものに宗教的な価値を見出そうと
するわけだが、すると無論、今度は、宗教が資本主義的な統治の仕組みが
もたらす苦しみを正当化して、支配を強化する補完的な役割を担うことに
なることは避けられないだろう(そもそも、宗教は統治者によって常に
そのように用いられてきたわけだが)と思う。 現在の税による再分配か、それとも経済効率を向上させる労働改革による
経済の発展かという議論が極めて胡散臭い(というより、ペテンに過ぎない)
ことは、そのような脈絡で考えてみれば、容易に理解できるはずである。 個人の身体の痛みが聖書上の受難と結びついて
信仰を強めるのはキリスト教の一番大きな特徴だよな
たしかに奴隷道徳っぽい
似た発想は日本の思想にあるのか? ダメな思想は子供だましの善悪二元論
目的のためには手段を選ばないマキャベリストと孫子主義者
不正な手段と犯罪で金を得るパーリア資本主義者
宗教で騙して金を奪い取るねずみ講ビジネス
この4つで世界が悪くなることは合っても良くなることはない
二元論とポピュリズムの組み合わせは破綻することを前提に作られた詐欺だ
マルクス主義とキリスト教がねずみ講ネットワークなのはそれが理由
この4組織に存在異議があるとしたらこの四つの詐欺組織同士で対決する時だけ
詐欺師に勝てるのは詐欺師だけ
蛇の道は蛇である
マルクス主義者はキリスト教や一神教と戦わなければ存在価値がないという事だ
マルクスみたいな宗教は悩める者の慰めとか言ってるアホにはたぶん無理だろうがなw 文明の歴史は約2百年
世界史上もっとも偉大な文明の平均的な寿命は約200年だ。この間、これらの国々は次のような準で進化してきた
・従属から精神性へ
・精神性から大いなる勇気へ
・勇気から自由へ
・自由から裕福へ
・裕福から身勝手へ
・身勝手から無気力へ
・無気力から依存へ
・依存から従属へ
ヘニング・ウェッブ・プレンティス「能力の狂信者達」
ロバートキヨサキの「こうして金持ちはもっと金持ちになる」P259 「マルクス」と「マルクス主義者」と「マルクス主義組織」は別物だ
マルクスは一定の評価はしてもいいがマルクス主義者とマルクス主義組織は別物として捉えた方が良い
最初にやるべきことは化石であるマルクスを頑固な一人の学者として、一個人として捉える事
やることはマルクスの本からイデオロギーを取り除きロバートキヨサキの
フィナンシャルインテリジェンスを使って分析・解体・再構築することだ
ガイ・カワサキの「革命家」の仕事術によると
「革命家と呼ばれるには、ルールを変えなければならず、ルールを変えるためには、
考え方を変えなければならない」
では、一体どうすればルールを変えるような大胆な思考が可能になるのか。
取り除く、枠組みを変える、「形態」と「機能」を切り離す、
バイオミミクリー(生物模倣)、「境界に働きかける」 と書いてある 私はMBAを取る為にハワイにある伝統的なビジネススクールに通っていたとき企業で働く
中間管理職が 教えるメネジメント「論」や経済「論」を学ぼうとしてる自分に気づいた
ビジネス経験のない先生は学校制度の外に一度も出たことがない人だ。つまり彼は5歳で
幼稚園に入ってからずっと学校制度の中にいるにもかかわらず、学生たちに実社会について
教えようとしているということだ。とんだお笑い草だと思った
私がMBAに行ったのは従業員ではなく起業家になりたかったからだ
講師陣の中間管理職や教師のほとんどは、ゼロからビジネスを立ち上げるのに
何が必要かについて何も知らなかった
ロバートキヨサキ「金持ち父さんのビジネススクール」P62~63 よほどマルクスが怖いんだねえ・・・
まあ、当然だろうが。
荒らしもマルクスの正当性ゆえ、だな。 何も怖くない
だって知的誠実性が崩壊してるし小難しい事言ってるだけで滅茶苦茶だもん
19世紀のカルトの化石のを妄信してる被害者を救済することが俺の使命なんだよ
中国見れば分かるだろパーリア資本主義と独占とコネだけしかないでしょ
マルクスは「寄生虫的製造マシーン」でしかないということが科学的に実証されたんだよ >>264
マルクスを怖がってるのがよくわかる。
昔から、なんとかマルクスに触れさせないようにするのが、反共主義者の使命だからな。 シルビオ・ゲゼル研究室 代表作「自然的経済秩序」1-0
http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo1-0-jp.html リンク切れ
なぜマルクスの資本理論がプルードンの学説を追い出せ、社会主義を独裁制にできたの
だろうか。どうしてマルクスと彼の理論が世界のあらゆる新聞で語られるのか。マルク
ス主義の絶望とそのための無害性だという人がいる。ちょうど資本家がキリスト教の教
義を恐れないように、資本家は彼の理論を恐れない。むしろ、マルクスやキリストにつ
いておおっぴらに話すのは資本家のためになる。マルクスは資本家を決して破壊できな
いが、それは彼が資本の性質を誤解しているからだ。しかし、プルードンに注意しよう。
彼は徹底的に無視するに限る。妨害や擾乱、または中断なしに労働者が働ければ、資本
家は資本の供給過剰(商品の生産過剰と混乱しないように)ですぐに窒息するという彼
の主張は正当なものなので、彼は危険人物である。直ちに実行できるため、資本家の攻
撃のためのプルードンの提案は危険なものである。マルクスのプログラムは最新の機械
と道具を備えた現代の訓練された労働者の莫大な生産能力について語っている。マルク
スはこの莫大な生産能力で何も始められない。プルードンの手にかかるとこれは資本家
に対する武器となる。そのためプルードンを忘れてもらえるように、マルクスを喧伝せ
よ、と。 精神現象学 第二版
G・W・F・ヘーゲル 著 / 牧野紀之 訳
四六判上製函入1072頁 12,000円(税別)
ISBN978-4-89642-555-0 C1010
読解の正確さ、註釈の親切さ、訳文の読みやすさで
評価の高い牧野訳 待望の第二版!
湧き出ずる論理の展開に先走るヘーゲルの原文を精緻に読み込み
先達学兄の業績を踏まえた上で、本文のみでその思想が理解できるよう
分かり易く言葉を補った訳。原書との格闘の跡も生々しい補注も豊富で
後覚の者必携の一書。第一版に注と訳者による付録論文、索引を追加。 >>265
マルクスなんて何も怖くない
俺にとっては一人の知識人にすぎない
マルクス本人は好きでも嫌いでもないが
マルクス主義者やマルクス主義組織は優秀ではないね
マルクスの良さはアジデータ的な文章や魅力的な文章と
いろいろな思想をまとめ上げる力かな
重要な思想家というのは認めるが学問の全体像をもっと意識した方がいいよ
それと現実や現場を理解する事 >>268
怖くないならこんなスレまで来て荒らさないだろw
マルクスなんか読んでもいないくせにさ。 読んでいないと内容について語れないわな
頭の中だけで考えた印象論、正体不明の幽霊を相手に藁人形論法でシャドーボクシング
てめーだよ、アーレント! アレントはハイデガーよりも重要だよな
って誰も言わないからいつも不思議に思ってる 思想としてはアーレントの方が重要だけど、哲学としては思考が中途半端 『全体主義の起源』は断定調で言い放つだけの印象論の本だった
例えば「ファシズムを構成するモブは疑い深いが騙されやすい」とか
血液型占いみたいな根拠なきレッテル貼りが陳列されている
風が吹けば桶屋が儲かると神話を紡ぐがコケ脅しだから何の役にも立たない
ジョージ・オーウェルの『1984年』を読みましょう 相変わらず似たような本と似たような思想家しか読まないんだなw
上からこれを読めと言われたものをただ機械的に読んでるだけ
そんなんだからロボットみたいに全員が画一化するんだよ もしこの時代にマルクスがいたらアーレントは空想的社会主義者で観念論者だというだろう プルードンはヒトラーみたいな言葉を遺しているのを知って退いた。 ユダヤ系が好きならアイン・ランドを読めばいい
彼女はロシア系ユダヤ人だよ
日本のマルクス主義に一番必要なのは多様性
1つの思想しか知らないから外の世界について恐ろしいほど無知蒙昧な状態なままなんだよ
専門馬鹿というやつで
タコツボの中でしか生きれないし活躍できない
マルクスが悪いとかマルクスを否定しろとは言ってない
ただしいろいろな思想の事を知った方がいい
タコツボ人間が通用するほど外の世界は甘くない
情報時代なんだから新しい思想を学ばなければ取り残されるだけ アインランドといえばクラレンストーマスが
影響大きいんだよな
さすがアメリカだわw >>256
キリスト教の元であるユダヤ教がエジプトの奴隷労働を逃れてイスラエルを
建国したことをを重視してるから一神教って基本的に労働を罰として捉えて
嫌ってるよ
そう捉えない派閥もあるけど基本的考えとして労働を毛嫌いする
プロテスタントに労働に価値を置く派閥が居るけどそれって東インド会社や日本の
影響で合ってキリスト教や一神教の伝統からはあまり出てこない
じゃなければ労働力確保の為に奴隷貿易してわざわざアフリカ人を連れてきたりしない
ちなみにフランスの東インド会社の初代トップはオランダ東インド会社で30年働いて
日本に20年間住んてた人 唯物論的弁証法には世界の問題を解決する力はある。
教条主義者がマルクスの著作の中の断片的な言葉を鵜呑みにして、それを教条のように振りかざすことによって、
人々を間違った方法で指導するからうまくいかないのだ。
マルクスの言葉の中には、今日あきらかに間違っていると思われる部分がある。
たとえば、経済学の分野では、労働価値説をとっているが、これは間違いである。
効用に価値がある。労働は正しい方向づけがなされてこそ、効用というかたちで価値を持つのであり、
それ自体は中立である。間違った方向づけで行われる労働は徒労である。
(マルクスは労働者の立場から経済学を論じているから、こういった間違いを犯したのであろう、)
間違った理論によって導かれる方針が成功するはずがないのである。
教条主義者はこういったマルクスのあきらかな間違いにも目をつむり、マルクスの著作の中の断片的な記述から、自分の思うマルクス主義を正当化しようとする。
こういった態度が人々をつまずかせないわけがないのである。 浅い。それはマルクスを知って一番最初に気づく奇妙な点に過ぎない。 その奇妙さに気づいて、そこからナンセンスな論理的な帰結が導かれるから、
マルクスの理論は間違いで、きちんと経済学を学ぶ必要があるというのが、
一般的な経済学者の立場。奇妙さを指摘されても、気づかないふりをして
やり過ごそうとしたり、マルクスの文献学的な知識によって議論を覆い
尽くして煙に巻こうとしたり、議論を横にずらして問題を回避しようとする
のが一般的なマルクス主義者の立場。そのどちらも下らない。 その奇妙さにこそ、マルクスが解こうとして解けなかった問題の核心があるのだから。 敢えてケインズ&ワルラスの消費者主体の現代経済学(効用説&有効需要の原理)に対して
セイの法則に代表されるサプライサイド経済学としてマルクス主義を対置することはそう間違ったアプローチではない
ただ剰余価値説の前身たる労働価値説はマルクスの唯物論と矛盾する観念論としか評価できないし、
搾取しただのしてないだのこんな言葉遊びの霊的なものを追う妄想を経済学と呼んでいいのかという疑問はある 効用に価値がある? これは間違い。
また労働価値説と効用の話とは次元が違う話。一緒くたにするの間違い。
その労働が有用であるかどうかは資本主義では商品交換によって現実態になる。 労働が楽しくない民族性なんだよ。ちょっとしたことで世界がひっくり返る。
労働価値説から賃金を支給するだけでは胡散臭いし、商売や卸売りの
ことを全然知らないマルクスが世界をゆがめたのかもね。 マルクスが間違ってる点はー、とか偉そうに言ってる人のマルクス理解ってだいたいずれてるよね。
しかもマルクスを読んでないことが丸わかり。
この風潮も柄谷の影響なんだろうか。 評論かってのは得てして想像力の乏しい人達だからね
何かを残した人達への嫉妬が激しい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています