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カール・マルクス 17
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0001考える名無しさん
垢版 |
2018/06/08(金) 23:24:26.980
カール・ハインリヒ・マルクス
Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日

<過去ログ>
カール・マルクス 16
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1523797596/
カール・マルクス 15
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1521478982/
カール・マルクス 13 (実質14)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1515334078/
カール・マルクス12 (実質13)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1514775646/
カール・マルクス 12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1514421875/
カール・マルクス 11
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1486537917/
0219考える名無しさん
垢版 |
2018/06/18(月) 11:23:19.130
「悲し」という表現は、日本語の形容詞の「し(causing)」を使役の
「す(cause 〜 to)」の分詞形と解釈すると「か(兼)ね(reaching)+
し(causing)」であると理解することができる。かな(適/叶/哀/悲/
敵)ふ」は、「か(兼)ぬ+ふ」と考えれば、「か(兼)ぬ(reach)」の
再帰形である。

我(われ="minor being")は、彼岸/彼方(あ・なた)に決してかな(適/叶/哀/
悲/敵)ふことがない(すなわち、「あなた」は"beyond reach"である)。
しかし、我は、彼方(あ・なた)とひと(人/等/一)しくあることができる、
ひと(人/等/一)しくあることにあた(能/値/与)ふ)という潜在性において
のみ人である("to be oneself")ことができる。
0220考える名無しさん
垢版 |
2018/06/18(月) 11:47:31.280
「愛(いと)おしい」という表現がある。
この表現は、本来は、「いとを(惜)し」だろうと思う。
「をし」の「を」は、「〜を〜する」という表現や、古語の「こなたへを」
という呼びかけの「を」とそれに応答する「を」、ならびに、呼び寄せる
という意味で用いられた「をく」という動詞に見られる「を」、さらには、
そこから派生したと思われる「をかし」という表現における「を」の
場合と共通して、呼びかけの声に由来し、英語にするなら「why not?」を
表現しているのだろうと考えることができる。

「いと・をし」の「いと」は、言うまでもなく、程度が甚だしいことを表し
ている。したがって、「いとおしい」は、「causing (one) to painfully miss」
とでも訳すことができるような表現である。
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