殺人鬼・小島の愛読書はハイデガー『存在と時間』
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シャハハハwwwwwwwwwwwwwwシャハハwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ハイデガーが少々頭おかしかったのは確実だろ
全集が100巻超えるのに完成した著作はゼロ
異常すぎるwww ハイデガーに〈良心の叫び〉とか笑かしてくれるw
あいつのどこに良心の実践があったのか?
ハイデガーの倫理観とは道徳観っていうのは仏教でいえば決して大乗仏教ではないな
小乗仏教だよ
自分の幸福だけで他人なんぞ関係ない
非道な悪魔だわな >>31がラスコリニコフと同じ、とか言ってるが、これもまだ追いついてはいない証拠だな。
というのも「私は全人類にとって必要な人間。高利貸よりはまだまし」あるいは
「メトロに乗っているサラリーマンやOLよりはまし」といった善悪てのは、大勢ではないかも
しれないが、〜主義、右翼や左翼には実は混じっているかもしれない。つまり単独的、すな
わち小島のような孤独な人間が自分一人で背負い、引き受ける、他人には理解しがたい
ものではない。いうなればまだ右翼や左翼やに引き寄せられるものは通俗的。単独的な
倫理ではない。
>>31とかが言ってる話てのは相変わらず善悪について、市民社会や主義において妥当する
善悪のみを善悪とし、内的にのみ妥当する善悪、本来性にまでは通じてはいない。
つまりは相変わらず読めないでふらふらしてる駄目な読者だ。
ナチスにしてもニーチェにしても、単独的な倫理にはなり得ない。で、その手のイデオロギー
にのみ還元する作業しかできない時点で、ハイデッガー的な善悪、本来的な善悪には
到達できない読者だと分かってしまう。
あなたには読めない。それしか視えないね。 ニーチェとハイデカーというとニーチェの方がハイテンションな時代だが、
ハイデガーはかっちりしている仕事の人に向くだろうね。 まともに著作1冊すら完成できないナチ思想家ハイデガー
あいつに倫理があるとすれば地獄の中での倫理だな
ハイデガーがやってきたことは自分に都合のいいことばかり
一般にこういう人間のことを「身勝手な人間」という
頭のおかしい身勝手な人間であるハイデガー >>35
あなたの述べていることは、あなたの原典・教条主義者的なカルトじみた
ハイデガー解釈の提示なのであって、新幹線殺人の小島が、ハイデガーを
そのような形で受容したかどうかなんて分からないでしょう。
それに、ハイデガーの読者など世界中に幾らでもいるので、その読者の大半は
殺人行為などとは無縁であることを考えれば、その思想と殺人をこじつけるのは
強引で偽相関というものだよ。
だいたい、哲学書の解釈なんて、それを読む者によって幾らでも分岐し得るので、
自分の読解こそが真の読みである、なんて述べている点で中二病患者に認定して
あげるよ ラスコリニコフの名前が挙がっているが
某週刊誌には小島の部屋の本棚にハイデッガーとドストエフスキーの「罪と罰」が置かれている写真
載ってたね
その写真を見てラスコリニコフを引き合いに出したのかも知れないけど 小島もハイデガーも自分のことしか考えない異常者というてんで同じだわな 小島の事は分からないけど
今まで「死刑でいいです」系の死刑制度を利用した拡大自殺としての無差別通り魔殺人事件は数々在った。
「人を殺すのは何故ダメなのか?」 「死刑制度は容認されるべきか?」を始め
「加害者は、加害者になる数年前からずっと社会病理の被害者では無かったのか?」
などを考えると、道徳や法曹の問題は別問題として置いといて
彼等にも幾分かの理が有るのではなかろうか?
月刊「創」の篠田編集長では無いが
「彼等のようなモンスターも突如として現れた者では無い」という気がするのだが。
本当は多くの人と色々考えたい問題なのだが
多くの人は脊髄反射のようにコレを拒み逃走する。 法律上のことは仕方ないかもな
法律というはべつにこの世界の何故を問う学問ではない
だから単純に法律に違反して裁判で判決が確定すればそれに従うしかない
味噌も糞も一緒の考え方だと変テコな哲学的問題にすり替えられてしまう カミュの「異邦人」などもそうだけど、意味や動機不明な殺人事件は、文学的な
考察のテーマに乗せやすい。現代だと、社会学がそれをするのだろうけど >>20
歳に合わないもんばっか読んでたという印象も >>41
どんな過去があろうと無差別通り魔の時点でただの屑やぞ >>44
小島くらいの歳頃にこういう本をもっと読んでれば良かったと強く思う
学生時代の俺の愛読書はムーだぞ >>41
どんな社会的病理が背景にあったにせよ、それを犯罪者の行為を許すという
ロジックに用いる目論見が透けて見える時点で、相手にされない、相手にしたくないという
反応が返ってくるのは当然だろうな、自分のやり方が不味いのを
他人の所為にするやつが多すぎて困る >>47
それは深みがわかるおっさんだからそう感じるのよ
楢山節考や罪と罰なんて二十歳が読んだって背後の葛藤の半分も理解できないでしょ
小島はもっと身近な人間味とかを教える本を読むべきだったと俺は思うわ >>49
絵本や児童書も大人になって読んだらまた違った感慨が湧いてくるしな
だけど小島くらいの年頃にはそうした情緒的なものより戦場やら犯罪被害、自然災害などを
取材したルポのような直接的で分かりやすいものを読んだほうが良い気がする >>50
これあれだな、俺らがそれぞれ自分が若い頃に読んでおきたかったものを投影してるんだな多分ww ガキの頃にこういう本を教えて欲しかったとは思うが
人から薦められた本には中々興味が湧いてこないというのもまた実情だな
中学、高校のとき「ライ麦畑でつかまえて」や「あゝ野麦峠」なんかを
素晴らしい本だ、絶対に泣けるからと言われたが
今に至るまで手にとったことがない 中学、高校のときは新書とか加藤周一の夕陽妄語を読んでるのが楽しかった。
文学作品は正直微妙。 中学、高校くらいで太宰治やら芥川龍之介なんかに関心もつやつっているのかね
なにも人間失格や羅生門がくだらないと言うつもりなどないが
星の数ほど本があるなかで正統派文学、純文学をチョイスするのはかなり変態と言うか
権威主義に凝り固まったつまらない人間だと思う 物凄い本の虫ならそういうのも手に取ったりするかなっていう程度だねえ
そもそも芥川は児童文学だし太宰は明らかに子供が読むことなんて想定してないしで中高生は対象層とマッチしないわけで
もちろん中二病でそういう有名文学読んで自慢しようとする奴もいるだろうけど 今は知らんが、学校には子供の興味を引くような本がほんとに置いてないねぇ
偉人の伝記やら誰もが知ってるような名作ばかりでそれはそれで結構だが読まれなきゃ何の意味もない
子供が関心を持つのはそういうのじゃなくてもっと、猥雑で好奇心を掻き立てるものだし
本ってのは何かの役に立つから読もうと言うもんじゃなくて面白いから手に取るものだろう 小中学生のころ、江戸川乱歩や松本清張の描く世界が
そういう昭和的な猥雑な感じのものだなあと思って読んでいた。 >>58
同意。文学なんて、感受性が最も多感な思春期世代が中心に読むものであって、
社会人になって、文学を熱心に読む方が逆に変だよ。そうでないと、
あの早稲田の文芸評論家みたいに俺の女になれ、と頓珍漢な台詞吐く。 実際読んでもないタコが何を偉そうに、お前がごときに読めるのは漫画とラノベくらいだろ
読んでから言えクソハゲ 「何時何時に読むもの」ってのがまさに権威主義的人間の発想だな(笑)
こういう頭の凝り固まった手合がいるから益々子供が本に興味を失っていくんだろう まあなんか、読書=高尚みたいなイメージあるけど実際のところは変な本ばっかだからな
そこのところで本読む奴と読まない奴で世界別れてんのがあれだね 読書のクセというのは持ってて損ではないと思うが世に溢れてる本の大半が役に立たつどころか
俗な好奇心や妄想を満たす猥雑なものばかりだろう
無条件に本を読むのは良いことだからなどと言う風潮に流されるのは思考停止だよ だが、ホリエモンは刑務所にある本を全部読破したのだけど。
出所後のホリエモンの書く本は、よく売れているだろう。
しかも、どうせ大半か全部、ゴーストライターが書いている。
売れる人は、ゴーストライターが書いてくれるから楽だな。
そういう本を買ってしまう日本人の民度とリテラシーレベル 一応ゴーストライターってのはプロのライターだからそこそこ読める本にはなってるはずやで
まあゴースト使う時点で馬鹿相手に売りつけてやろうみたいな魂胆の本だから底が知れてるってのはあるけどな 芸能人やなんかの本って数時間ほど本人から聞き取りした内容を寒天みたいに何倍にもふやかして文字に落としてるでしょ
いかに飽きのこない上手い文章で書かれてあっても自分が関心を持つ対象じゃなくてどこの馬の骨かも知らないような
ゴーストライターの語りを読まされてると思ったらアホらしいわ 太宰に熱中できる世代は高校生ぐらいがピークでしょ
大学生くらいになると太宰卒業世代 本当その通り。高校時代に文学書読みまくっていた綿矢りさがその実例 学生の本離れが進む中で、そんなのは特殊な事例でしかない
名著は名著で良いが、それだから良しとせよと言うことも無ければ今どき純文学ってのもある
学園紛争時代はそういうのが常識的だったのか知らんが 文学を読みまくってるのが普通とかどこの常識だよ、それこそ爺の妄想だろう
もはや棺桶に片足いれた爺の出る幕ではない まぁ仮にこいつが文学に親しんでたにしてもこの程度の人間性ではな小島と変わらんわな いや知的エリート目指すんだったら古典的名著は避けて通れないだろう
ただ文学を称揚したいんだったらチンカスみたいな日本文学ばかり並べて満足してないで
トルストイやプルースト、カフカ、ジョイスみたいな本当の歴史的名著に関心を向けろと 文学書というか
小説やエッセイっていう文芸作品でしょ?
批評や分析みたい思想的なものは入らないよ
ラノベや官能小説だって広義だと文学に入ってしまうから
狭義で考えた方がいい 何というか、文系の独学は厳しいね。
理系なら5chとか知恵袋でアドバイスをもらいながらなんとかなりそうだが、
文系の場合は真摯に調べながら文献を読まないといけないから難しい。 デカルトやカントまでの近世哲学なら
自然科学もひっくるめた哲学を展開していたわけだけれども
現代哲学は科学哲学の分離が起こってしまったからなあ。 >>79
さすがに現代では
もう包括的な哲学を展開できる人はまずいないよ
それはある程度視点が出切ってしまったということと
科学の進歩による影響力がかなり強いということもあると思う
世界をトータルでミクロ世界から大宇宙まで語るというのもかなり厳しい みんなドラゴンボールやワンピース好きだけど犯罪者もいれば裁判官もいるからね
何の根拠にもならない
犯罪者がラーメン食ったらラーメンは犯罪者の食い物か?
犯罪者が日本人なら日本人はみな犯罪者か
その通りです >>76
文学は客観的な根拠を持ってなくてもいい個人の所感や自由な創作も含むから、
科学(自然科学、社会科学)とは区別される。 >>74
それただの教養じゃん
本を特別視しすぎ、読んだら急に知的になったりエリートになる本なんてこの世に存在しないっての 文学は所詮は文学。文学書をいくら読んだって知的エリートにはなれんわな ハイデガー文学はどうにもならないな
フッサールの現象学もどうかと思うけど
ハイデガーはその現象学未満
〈存在と時間〉で存在や時間のなぜを問うてるのかと思いきや
ハイデガー自身の人生の悩みを考える本だったという
どうにもならない駄目本だなあのナチ文芸書は 文学や文芸でしかないのに「哲学」を自称したがったり
ハイデガーを「哲学」だと持ち上げたりする勢力がいるからね 飛躍せず分相応に生きている人間、或いは消極的人間を
頽落しているだの、超人を目指すべきだの、ニーチェからハイデガーに連なる実存というもんは
人間の弱さの本質を徹底して批判しているが、個人というのはそんなに強いものではないということは
本人らも重々承知していたはず
現実的に、そこかしこにいたら超人とは言わないわけで滅多に現れない稀有な存在だからこそ
超人などと言うのだろう ハイデガー信者はハイデガーのどこがそんなに凄いのかという質問に対して
まったく答えられない
あんなもん学問じゃない
儒教や道教や仏教の本を読めばそれですむはなしだ ハイデガーの哲学は、自衛官や警察官や消防士の哲学にもってこいだと思われてたりしてな。
現に、轟孝夫は防衛大学校の教員だし。 カリキュラムにも不完全性があるから、哲学分野ではもたないかもね。
看護分野の方が、のらない人が多いから、待遇出現がレアで、優秀でしょう
。通過分岐点として。おそろいのという未来ではないし。 無思考の時代への挑戦V
http://ha10.net/philo/1502933408.html
――ハイデガー・フォーラムの挑戦(東京女子大学教授 森一郎・朝日新聞10月3日夕刊より抜粋)
「哲学の終焉と思索の課題」を統一テーマに掲げ、ハイデガー・フォーラム第1回大会が9月16・17日、東京大学本郷キャンパスで開催された。
統一テーマは、ハイデガーの名高い論文(64年)からとられた。この題名に示された問題状況は依然変わっていない。
いや、「哲学の終焉」という言葉が陳腐に響くほど、考える営みに対する不信と絶望は世に広がっている。
これは、大学で哲学科の解体の進む学界内部のリストラ問題にとどまらない。
ものを考えても何の役にも立たないし、健康にも悪いからやめとけと大人が若者に勧告する時代なのである。
思考をめぐる殺伐とした状況から我々は出発している。
トクになろうがなるまいが、考えたくなる欲望。「そもそもXとは?」という問いと応答にふけるときの、うずくほどの快感。
結論の出ない議論にうつつを抜かすことの贅沢な喜び。一度味わったらやめられないし、やめろと言われるなら、いっそ人間やめたほうがいい。
われわれのフォーラムはそう言い放つひま人たちの砦でありたい。
哲学的討論の時空であるこのフォーラムが、ものをしつこく考え続ける阿呆どもの広場として、無思考の時代へのささやかな抵抗の拠点となればと願う。 HFの第1回は2006年
今年で第13回目だ
ハイデガー全肯定の信仰会だよ
盲目的信者による糞みたいな発表しかない ハイデガーやってもいいけど、「哲学」を名乗って欲しくないね
文芸とかエセーとかの分類であることを自覚して欲しいものだ エッセイ、随筆あたりが哲学から離れると、
丸山眞男や久野収とか鶴見俊輔が哲学の範疇でなくなって、
哲学的に批判されなくなる気がする。 自治大がいいと思うよ。医者じゃなくて。東京都市大もあるし。くされたけどね。 メキシコ国立自治大学とかね。
サパティスタのマルコス副司令官を輩出したような。 国立はどうもな。国立病院、大阪のがまた稼働しているというような噂。 流れかえるけど、フランス系は、ちょっとふざけた、人を食った感じが、逆に安全無害にはたらくんだなと認識した。フーコードゥルーズデリダのことですけど >人を食った感じが
佐川とか好きそうだけど、あんまり信憑性がないな >>1
なんで大学卒業してすぐに働かなかったん
コイツガキじゃん
マジ死ねよ
親も大変だなぁ
こんなやつの生みの親で
働けよ、顔面赤っ恥だぞ! おいおい!なんで純丘のスレが立ってないんだよ!
世間では祭りで盛り上がってんのに!! >>41
確かに一理ある
それが「犯罪行為の免罪符」にしてはならないのは当たり前だが、そういった視点も重要
ただ難しいのは、犯罪者一人を作り上げた要因の中に社会病理が関係していた場合に、
その共存社会にいる俺たち他人の多くは「犯罪した時点ですべて戯言、死刑でOK」論が蔓延し誰も議論したがらなくなってしまう
結果、一部の専門家や作家が語って聞いて反応するだけの繰り返しなんだよな そもそも「主観」というものが「客観」というものと関係し、反対に「客観」が「主観」と関係するということほど、自明に思われることがほかにあるだろうか。
するとこの「主観と客観の関係」を、前提にしなければならないことになる。
たしかに、こうした関係の<事実性>は否定できない前提ではあるが、それだけに、この前提の存在論的な必然性が、
そして何よりもその存在論的な意味が暗がりのうちに放置されているならば、これはきわめて災いに満ちた前提なのである。
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