つまるところ、柄谷行人の思想の到達点なるものは、
又吉イエスが数十年前に到達していた点に漸く
追いついたということでしかない。

それは嘗て烈海王が近代空手の到達点なるものは中国拳法が
遥か昔に到達していた通過点に過ぎぬと喝破し、愚地克巳を
震撼させたことに似ている。

そこで愚地克己が取った行動は自身のプライドを捨て、
遥か先を行く中国拳法を積極的に学び、近代空手を真の完成へ
と導くというものであったが、柄谷行人は愚地克巳のその潔さに習い、
遥か先を行っていた又吉イエスの思想を積極的に学ぶべきである。
しかし、遺憾なのは、又吉イエスは既に故人であるということだ。
柄谷行人が又吉イエスの水準に追いつくのが遅すぎたというほか
あるまい。