いい加減幸せこそが生きる意味だって認めたら?
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人生における意味とは何か
という問いに答えるためには、意味、とは何かが明らかにならないと答えられない せっかく〜したのに!
無意味に終わることに不幸を感じ、
有意に終わることに満足/幸せを感じる だが、無意味に終わったことを有意なことに転じることはできる
それは、同じ失敗を繰り返さないように以前の経験を活かすことによってだ 過去の失敗が役にたつ
そのとき、無意味に終わったことは無意味ではなかったことになる
無意味に終わったことを認めたくないからこそ、
諦めずに挑戦を繰り返す
それでも有意な結果が得られなかったとき、それを認めると、
心に大きな空虚がぽっかりと生じる 原理を理解していれば、無駄にジタバタせずに済むのではないか? 価値という意味での意味ならどうだ
いい加減幸せこそが生きる価値だって認めたら?とスレタイを読み替えてみる
価値があるとは供給に対して需要があることを言う
幸せという需要に対して、供給されるものがあればそれは価値だが、
どのように生きているかによって、幸せという需要と結びつくかは異なってくる 学研全訳古語辞典
学研教育出版学研教育出版
し−あはせ 【仕合はせ】
[一]名詞
めぐり合わせ。運。事のなりゆき。
[二]名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる
幸運。また、物事が具合よく運ぶこと。運が向くこと。
出典奥の細道 尿前の関
「恙(つつが)なう送り参らせてしあはせしたり」
[訳] 無事にお送り申し上げて幸運だった。
注意
今日「しあはせ」は「幸せ」と書いて、もっぱら運のよいことにいうが、
古くは[一]だけの意味で、運のよい場合にも悪い場合にも用い、
「しあはせよし」とか、「しあはせ悪(わろ)し」のように言い表した。 誤ったときに素直に謝るのではなく、あたかもそれが誤りでは
なく、最初からそれを意図していたことであるかのように
利用できないか考える修正主義こそが新たな知見をもたらす 関係性をもつものは、意味を持つ
対象とリンゴという言葉が一対一の関係性をもつとき、言葉は対象に対して、
対象は言葉に対して意味を持つ
人生とは一回限りのもので、根拠なしに与えられたもののように思える
おそらくスレタイが述べたいのは
人生に対して対応するものが、幸福の追求であるか、
ということを問題としているのだろう
これが対応すれば、意味があると言えるし、そのような生き方もあるだろう 言葉遊びのなかに発見の可能性を見いだそうとするような手法 タイプ・ミスは起きる
タイプ・ミスをしたときに、ただもう同じミスをしないように
気を付けようというのでは能がない
ミスが繰り返し生じるなら、そのミスが正しい出力に変換される
ように登録してしまえばいい
それが過ちから学ぶということだ 失敗も問題の修正という行動によって価値があると言えるな
どのような立場にも意味があり、行動いかんでそこから価値創出は出来る 罪と罰
罪を知らない罰も、罰を知らない罪も悲惨だ
内向的罪、と外向的罪、外向的罰と内向的罰のバランスを取れれば
精神の平安が得られると思うがどうだろう 外向的罪と外向的罰、内向的罪と内向的罰でもバランスが取れる
前者は内向的安定で調和的、後者は外向的安定で拮抗的だ
仮に外向的罰が感覚的ならば、その待遇の内向的罪は直観的だ 直観は経験の積、感覚は経験の商だ
おまえらが何だろうが知ったことでないが
慈愛に対しては恨みがあり、祝福に対しては呪いがある
内的外的に中庸でいることは幸せの方法論の一つではある >>26
×外向的罪と外向的罰、内向的罪と内向的罰でもバランスが取れる
〇外向的罰と外向的罪、内向的罪と内向的罰でもバランスが取れる
外向とは無意識から意識に向かう向き、内向とは意識から無意識に向かう向き
以上 苦しみや悲しみを乗り越えて己の魂を成長させるのが、この世での私たちの目的である キチガイが第一発見者だった場合、人生詰むということが痛いほどよく分かった うんちナメナメ、おちんぽシコシコ、おまんこズブズブ、僕は幸せです 幸せは不幸のうらがえし
不幸は幸せのうらがえし
かならず身内の死やじぶんの死は
おとずれて精算される 高く高く舞い上がり幸せ感じるほど
大きな落差で
病むリスクも高くなる。 笑っている時と笑ってないとき
どちらが事故やミスが多いか
神の平等 ご馳走ばかり食べていて苦痛なんてあるか?
幸せばかりで苦痛なんてあるのか?
変化・刺激と安定生活は共存できるのか? 世界の人々は建造物で自慢したり
高級なものをあつめたり軍事を強化
するために生活をしているから。 人生を楽しむなんてことをやたら力こぶを入れて強調する奴もなんだかなあって感じ。
それは生きる過程においてそういう瞬間も訪れることもあるってぐらいのことで、的にして追いかけるようなものじゃない。 もっとはっきり言えば、自信なんてもんが要らんねん。
そんなものにすがるから人間は自分が道を踏み外すことにも気づかへん。
努力や積み重ねは必要だとしても、一瞬で崩れ去るものと自覚すべきだな。 世の中の全てが自分の思い通りに動くというのは幸せなことではないよ。 その場その場で自分にできることに最善を尽くすこと。
失敗はあって当たり前。勝ちたいのも誰しも同じ。
勝つことにこだわり過ぎないこと。 あんまり楽々と越えられても困るってこと。
普通の人間がそこにたどり着くのには、どれ程の葛藤と闘わなければならないことか。
人生はそんなにお手軽なもんじゃないからね。 いつでもここに戻ってこれるように逃げ道を作っておくこと。 暗さ、弱さ、醜さ、それを認めることのできない自分を受け入れること。 前向きなものにせよ後ろ向きなものにせよ感情に気持ちを入れすぎないこと。 煮詰まったらさっさと諦めて次に進むこと。あまり考えこみすぎない。 人の気持ちなんてものをごちゃごちゃ考えない。それは考えるものではなく、感じるもの。 全ての始まりにおいて自分が馬鹿で無能だということを認めること。
知性や実力はその根本認識の上に積み上げるものであって、
中途半端なプライドや過去の実績・名声を頼みにすることは、冷静で客観的な自己イメージを見失う元。
これは謙虚とか傲慢といった他者評価の振れ幅で揺れ動く問題ではなく、徹頭徹尾個人的な生き方の問題。 何か問題が起こっても存在に関わるようなことでない限り、しばらく手を加えず放置する。
変化がない場合は、その後で対策を考える。
大概の問題はこれでふるい落とされる。 外的な刺激に心が揺れ動くのを抑える。
物事に動じないといった硬直した態度ではなく、心の波をなだらかにする。
心に極端な山と谷をつくらない。 人から理解されようとしないこと。
やりたいことの為ならどんな理不尽な汚名を被ってもいい。 社会の作り出す強迫的な空気感に無条件で乗せられない。
乗せられるのなら乗せられているという自覚を持つ。
時代の只中を流されるにせよ、どこかに一人の人間として時代を対等なものとして眺める態度は必要。 他人に迷惑をかけることを嫌がらないこと。
そこを踏まえないとやって良いことと悪いことの違いも身に沁みては分からない。 目的にまとわりつく余計な感傷を削ぎ落すこと。
それらは自らの意志をぼやけさせるだけ。 行動の主体をごまかさない。
自分が自分の為にやっているという感覚に他人を混ぜ込んであやふやにしない。 自分の言動の広がりに対して自分がけじめをつけられる範囲を意識する。立場を踏み外さない。 どんなにウザい相手でも反発したり立ちふさがって態度を硬化させる前に、相手の背景を理解するよう努めること。
譲らない自分が明確にあれば、殊更それを人に押し付けることもない。 この世の不条理を受け入れること。
その強さがあればこそ自分を高めることができる。 あとは全力でいい加減に生きるこっちゃな。
それで世の中ちゃんと回るようにできてるんだから不思議なもんだ。 まあ世の中なんてそんなもんだ。
自分にできることなんてたかが知れている。
嘘にまみれた世の中だが、そういうものと諦めて自分のことだけ考えて生きていくしかないな。 >>1
そんなの当たり前だろ。
認めない奴なんてどこかにいるのか? 色んな問題があるけど、それはしゃーないんちゃうかな。
一々まともに向き合ってたらしんどいだけ。 幸福なんてのは人の心の問題であって他人が立ち入ることじゃない。
他人から見て悲惨な境遇でも本人が納得していれば何の問題もない。 まあ人生なんて浮かれているのは幻みたいなもんで、本当は何一つ良いことなんかないんかもしれん。
それでも生きていれば何かが見えてくることもあるかもしれん。 日本の問題は、今俺がアイスクリームを食べたいということ。 アイスクリームはよく食べる。3日に1回くらいは食べてるんじゃないかな。
1回当たり80円くらいだろうから、そう贅沢でもないだろう。 めんどくさいけど付き合っていかなあかんにゃなあ。やれやれ。 俺はやることはやるよ。どんなに風当たりがきつくてもな。
今の世の中、何かをやったつもりになってる奴ばっかりだ。 俺の思うがままwそろそろ終わりが見えてきたな。やってられへんわ。 通すべき筋さえ通せば、後は何やってもいいよ。
誰も自分を否定することはできない。 後は分からんことを分かったつもりにならないこと。それだけ。. 受け身で何が悪いねん。
何にでもポジティブにがっつく人間なんて逆に気持ち悪い。 めんどくさいことごちゃごちゃ考えずに生きたいように生きればいいんだよ。
そら色んなことあるわ。 俺も力説しすぎたな。
あまり必死になると、どんなにちゃんとしたことでも人は聞いてくれへん。
といって、何も言わなければ何の返りもない。
ということで、何事も程々に。 生活にかくあるべき姿を持ち込み過ぎないってことだな。
日々の縛りの中をどう気持ちを楽にやり過ごすかというか。 自分と他人の間に明確な一線を引くこと。
自分の問題は自分の問題。他人の問題は他人の問題。
揺れ動かない。 誰が何と言おうが今ある自分が自分。
無理に足掻かない。 人生なんて試行錯誤の繰り返し。
間違ったり、くよくよしたり、思いつめたりしながら進んでいく。 どうせ大したことはできひんよ。いくらうんうんうなってもな。ま、やってみ? 人の心なんて分からんよ。分かるのは見えてるところだけ。 生きてる意味ってのは無駄な事をやるから生きてる意味があるのよこれが
また良い事言っちゃったなこれ
無駄な事を沢山やるのが生きてる意味なんだって事。あっ、もう一回言っとこう
『人生は自分で出来ていない』
俺を見ている人によって俺は構成されている訳だから。
自分で自分を見てるかっていったら大して見てないんだよ、バカな事しかしてないんだから。
それを見ている人が俺が死んだ後に「あの人はああだったこうだった」それが俺の人生。
って事は、周りの人に良い事をしとけば素晴らしく良いものに構築されるって事。
そうだよ?自分だけ腹一杯になったとか自分が金が儲けたとか自分が良い思いをしたっていうのは、自分でおしまい。死んだら。
そうじゃない、人に何かをした事によって死んだ後、「あの人はああだった、こうだった」
で、悪い事した人は「アイツは悪いヤツでさ」って、最低の人生として残る訳だよ
だからこう良い人生を構築したい時は、まず、綺麗なものを錆びさせ(笑)、錆びてるものを落とし(笑)、余計な事をして痛い目に合う!
これが生きてる意味なんだよ、うん
by 所ジョージ
(所さんの世田谷ベース 第288回「圧縮比、上げるか下げるか」より) 家事はなぜ、できれば避けたい嫌な負担となるのか?
家事が世帯内でどのように分担されるべきかを論じる前にまずそれを考えるべきでしょう。
家が自らの住処(すみか)であるとするなら、家はヤドカリにとっての貝殻がそうである
ように、自らの身体の一部ではないとしても、自らの身体の延長にある。
身づくろいをすることは、自らにとって嫌な負担なのか?
自らの体を清潔に保つためにシャワーを浴びたり、風呂で体を洗うことは、
できれば避けたい嫌な負担であると感じられるのか?
身づくろいが、少なくともそれがうまくいく場合、心地よいことである
と感じられるとするなら、いわば、身づくろいの延長である家事が
できれば避けたい負担となるのはどのような状況においてなのか? あへてあなたが答える必要はない
各自が考えてみるだけでいい 幸せとは相対的なものであり、不幸が存在して初めて成立する。
比較対象である不幸には他人のそれも含まれる。
したがって自らの幸せを確認するための最も簡単かつ典型的な方法とは他者の不幸を嘲笑うことである 。*☆∴。 。∴☆*。。
★゚彡⌒ミ.゚*★∵★*彡⌒ミ゚★。
☆゚.(´・ω・`).彡゚☆゚ミ (´・ω・`).゚☆
. ゚★* 彡⌒ ミ(´・ω・`)彡⌒ ミ *★゚
☆。(´・ω・`)彡⌒ミ (´・ω・`)。☆
*★。 彡⌒(´・ω・`)⌒ ミ。★*
∵☆・ω・彡⌒ミ・ω・☆∵
゚*★。 (´・ω・`)。★*゚
∵☆゚☆゚☆∵
゚★゚ 悟りが手に入るなら
人間の人生を手放しても構わないが
ところがどっこい
悟りも手に入らないのに
人生も手に入らない
悟りが手に入らなくてもいいが
人生も手に入らないとは
どうしたものか
奇妙な均衡状態である
答えにならない仮設住宅を永遠に転居してる
模様である 功を賞し、罪を罰する。これを、けじめをつけるという。
功を賞さず、罪を罰しない。これを、けじめをつけないという。 145 自分:マジレスさん[] 投稿日:2020/02/27(木) 17:57:02.85 ID:K/98z5z8
幸せでなければ生きる資格がないと思い詰めるような人間が反出生主義に陥るのだろう。
地域共同体の崩壊で孤独になった砂粒の個人を更に能力で選別し、
ふるい落とされた人間を強引に社会に適応させようとして、更に無理な場合は
社会から排除した上で放置する今の世の中では無理もない。
どんな無価値に思える人生でも生きているだけで意味があるぐらいに
腹をくくるところからしか、幸せ乞食の強迫社会から逃れられんと思うが。 本来社会は全ての人間が幸せであるはずがないのが当たり前なのだが、
日本は高度成長期に全ての人が幸せな社会を達成してしまった。
その後、自分からその枠組みを取り壊していくと共に、
もっともっと幸せになりたい、という欲求が頂点に達したのがバブル期である。
厳然とした不幸があるにも関わらずないことにされる社会は病的である。
今も幸せ乞食の群れの中を決して外からは見えない不幸が拡大している。
こんな風通しの悪い社会では精神を病む人間がでてきてもしょうがない。
本来不幸でも人間は生きていけるし生きなければならないのだがな。 分相応っていうのが無い、農村はダサくて都市部に住むのが幸福であるという印象操作によって経済成長を図ることに成功した 女は先を見通すことができない。
行き当たりばったり。
幸せになるか不幸になるかは運次第。 ひきこもりは、幸せか?
何かを背負い担ってこそ、その関係性が幸せであり、
何からも孤立したいるそれは静止で、死の類だ 昨今のテレビではスポーツ選手や芸能人がしきりに自分は成長した、強くなったと強調するが、
はっきり言ってそんなことを言ってみても何の意味もない時代になったことを痛感する。
いくら成長して強くなったところで、それに見合った社会的地位を手に入れても、
メディアの監視の目の中でわずかなミスすら許されず汲々と生きるしかない時代だ。
昔は誰も成長なんて言葉は使わなかったが、力を手に入れれば大きな責任を背負うと共に尊敬もされ、、
豪快な生き方や大っぴらな間違いをすることも許容されていたし、そこに貫禄や人間的な厚みが生まれた。
今の時代、強くなることは精々有名になって金をため込む程度の意味しかなく凡人から叩かれるだけの時代。
生涯現役だの人と同じ目線だのを強調する勝ち組も多いが、人の上に立つ器量がないんだな。 「オレは幸せだ」って思ってる「一般人」に対し
「知性」だの「科学」だのを持ち出し「幸せか否かは
我々が決める」などと決裁を下してきたのは知識人や
文化人と呼ばれる人々。 「スッポ抜け」のお蔭で日本球界の伝説となった江夏の21球
あれは江夏自身が投げる瞬間に起きた奇跡的な判断だったと認めている
要するに、サッカーで言えば、名選手のPK失敗のようなものだ。
蹴ろうと決めていた場所があったが、蹴る瞬間にキーパーに読まれてたことに気づく
すると、「しまった」という意識が反射的に働いてゴール枠を外してしまう。
サッカーならそのままPK失敗となるが、そのキーパーに読まれた気配に相当するのが
スクイズだったから、ストライク枠を大きく外れた「不意の投球」によって
バッターの方がスクイズに失敗した。 >>151
自分が幸福かどうかを他人に診断されなきゃいかんの? >>153
医学だって検査や診察で医者が診断を下すんだし
それと同じだろ?幸福の診断を学者に委ねるのは
不思議じゃない。人文「科学」社会「科学」って
言うだろう? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています