数学を初めとした理系の学問と哲学について 14
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設定する値を選ぶ時、多くの実装ではなるべく他の値を制限しない値を選ぶ。 そのような選択をする背景には a) 解の発見に結びつく可能性が高いこと、 b) 未解決の制約がなくなった時に解が見つかっていることがある。 洗練されたバックトラッキングの実装では、束縛関数をしばしば使用する。 それにより、現在の部分解で解を得られるかどうかをチェックする。従って、 解に結びつかない部分解を検出する束縛関数によって検索効率を改善することができる。 束縛関数は頻繁に動作するため、その計算コストはなるべく小さいのが望ましい。 さもなくば、アルゴリズムの全体としての効率は改善されない。 効率的な束縛関数は他のヒューリスティック関数を作るのと同様の方法で作成される。 すなわち、問題の規則(制約)の一部をゆるめるのである。 バックトラッキングを制約プログラミング言語で使用する場合、言語機構そのものも 制約情報の更新をしなければならないため、奇妙なオーバーヘッドが発生する。 そのような言語では、PlannerやPrologのように、単純な深さ優先探索を使うのが 適切である。 制約プログラミングは、同時に最も多くの制約を充足する状態を探索する。 その場合、問題は複数の未知の変数を含む世界の状態として記述される。 制約プログラムはそれら変数全部の値を探索する。 時相並行制約プログラミング(Temporal Concurrent Constraint programming; TCC)や 非決定性時相並行制約プログラミング(Non-deterministic Temporal Concurrent Constraint programming)は時を扱う制約プログラミングの一種である。 バックアップで必要最小限の値をリカバリするためだけでなく、値の更新履歴を 記録するため、バックトラッキングの実装では一般に「変数の航跡; variable trail」 を保持する。効率的な実装では、バックトラッキングは1つの操作で全変化を 消去するため、選択点のない連続した変化についての変数の航跡を生成しない。 変数の航跡以外の手法として、変数に加えられた最新の変化のタイムスタンプを 保持する手法がある。タイムスタンプは選択点のタイムスタンプと比較される。 選択点のタイムスタンプがその変数のタイムスタンプより後であれば、 その選択点がバックトラックされる場合にその変数をリバートする必要はない (その変数は、その選択点以前に変更されているため)。 バックトラッキングの最も広範囲な利用法として、正規表現の実行がある。 例えば、"a*a" という単純なパターンはバックトラッキングしない場合に "a" にマッチしない。最初のパスで "a" が "a*" に食われてしまい、 後続の "a" にはマッチさせるべき文字列が残らないため。 バックトラッキングはプログラミング言語の実装にも使われている (Planner や Prolog)し、構文解析などにも利用される。その利用は 人工知能分野で議論となり、アクターモデルの開発につながった。 アクターモデルとは、1973年、カール・ヒューイットが発表した 並行計算の数学的モデルの一種。アクターモデルでは、並行デジタル計算の 汎用的基本要素として「アクター」という概念を導入している。アクターモデルは 並行性の理論的理解のフレームワークとして使われるほか、並行システムの実装の 理論的基礎としても利用されてきた。アクターモデルはそれ以前の計算モデルとは 異なり、物理法則を発想の基本としている。 アクターモデルをソフトウェアとして実装する作業は MIT の Message Passing Semantics Group で行われた。また、カリフォルニア工科大学の Chuck Seitz と MIT の Bill Dally に率いられたチームはアクターモデルに基づくメッセージ パッシングを使用したコンピュータアーキテクチャを構築した。 日本では、 東京大学や京都大学での研究があり、特に東京大学の米澤明憲らの研究が有名である。 \ │ / / ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ─( ゚ ∀ ゚ )< 効いてるw効いてるw \_/ \_________ / │ \ ∩ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< 効いてるw効いてるw 効いてる〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________ ________/ | 〈 | | / /\_」 / /\」  ̄ / / ノーアウトランナー1塁時の得点の確率は、 普通に打つ>バント>ヒットエンドラン・盗塁その他だったような記憶がうっすらある。 東京工業大学が年間授業料を10万円近く上げるんだとか。 世界の大学との競争力をつけるためとはいえ大変そうだな。 あらゆる物事において最適解は、試行錯誤することによって 段階的にしか見出し得ない。それは、最適解を見出すことが、 既に手にしている解が最適であることに納得するプロセスでも あるからだ。 したがって、重要なのは、最適解を求めるプロセスにおいて 誤りを犯さないことではない。そうではなく、大きな誤りに よって試行錯誤そのものを放棄することに追い込まれることが ないように、試行を常に慎重に進めることである。 既にある程度、満足のいく解を手にしているが、それが最適解であるか否か 分らない状況がしばしば生じる。そのような場合、依然として最適解が 見出されているとは言えない。 事後的にその既に手にしていた解が最適であることに納得させられたとすれば、 その時点において初めて、最適解が見出されたことになる。 >>14 あらゆる物事? 本当に? そんなに簡単に言い切っちゃっていいん? また適当こいちゃってるだけでしょ? 不安なんですね あなたにとっての最適解がまだ見出されていない証拠でしょう だから、それを将棋で考えればいいんじゃない。名人棋士が最適解としての最善手 だと思った一手、その連鎖を最適経路として仮定する。対戦者のAIが名人に勝利した場合は、最適化していたのは名人でなく、AIの側だったということが事後的に検証できるでしょう。最適解の問題は、メタ認知の問題も含んでいる気がする。 最適解だと確信していたものは、メタから俯瞰すれば実は局所最適解であって、 大域的な観点から見れば、非最適解であったと判ったりすることもあるだろう。 日本人は、局所や枝葉末節、戦術に拘泥して、本質や戦略、大域最適解を喪失 しやすい傾向があるので、真の最適化や最適解とは何かを一度、よく考えて みるのもいいだろう。目先の具体性にばかり囚われて視野狭窄だから。 抽象度をあげることで、真の合理性=倫理に、漸近できるんじゃないかな、と。 スポーツの世界などでも、興味無いのでよく知らないけど、分かることは、そこでは 真の公平な競争など全く成立していない、ということ。資金力のある球団やチームは、 外部から強力な人材や環境を獲得できるし、それって、その時点ですでに不公平じゃん。 相撲のような八百長も多そうだけど。 あと、選手育成の条件も不平等。遺伝子による才能の偏差も、本当はその分割り引かないと、 競争条件がフェアでない。ロシアように国家ぐるみの事業で一流アスリートを育成できる 国と貧しい国が同じ競技でハンデなしで戦うことは、競争としてフェアには見えないな。 だから、政治家や医師の世襲含めて、奨学金、年金制度、相続、性やマイノリティー差別、 税制、あらゆる分野に存在する不平等、不公正を是正していくことが倫理にかなっているし、 それがAIや量子コンピュータで計算として、真の公平を実現出来る契機が生じつつあるということ。 ただ日本では虚偽統計と捏造データ、忖度政治で低レベルなのが現状。 >資金力のある球団やチームは、 > 外部から強力な人材や環境を獲得できるし、それって、その時点ですでに不公平じゃん。 確かにそう思えるけど、資金力が豊富なソフトバンクや巨人がいつも優勝するとは限らないから 野球は不確実性にゆだねられている点で観ていて面白い。 朝日新聞で西田哲学特集している。 海外では、今ブームらしいね。 西田の上に学派があって、場所移動できる哲学の道あり。西国 西行。西陣、西軍 西周の方が重要。 海外で売れて当たり前のいつ時代でも、日本でくすぶる哲学書は醜い。 AIには、シンボルグラウンディング問題(記号接地問題)というのがある。 前スレで、チャットボットと関連して、「うなぎ文」や「コンニャク文」 のことを説明したけど、それと同様の問題で、人間であれば文脈・背景との 照合で、単語や記号の意味の逸脱や飛躍をグラウンディング(接地)として、 意味に回収することが出来るけど、AIにはそれが少し難しいという問題系。 ネットスラングなどにもそうした記号の意味の飛躍があって、辞書にも載って いないので、文脈を参照するなり、調べるなりしないと、人間でも意味が 分からなくなることがある。 たとえば、AIにネットで飛び交っている「メシウマ」と単語を抽出して、 これを理解出来ない場合、そこにはどんな行き詰まり構造になっているのだろうか。 形態素解析の説明も前スレでやったけど、AIが「メシウマ」という単語を 飯と馬だと理解し、これが合成され語がメシウマだと推論すると、さらに このスラング意味から遠ざかりそうだし、飯と上手いの合成だと推論された としても、まだそれは飲食なり料理、調理、よく言っても団欒などのレベルの 概念に属するものであると、AIは誤って判断することもあるだろう。 人間の場合は、「メシウマ」から意味の飛躍を行い、そこからこのスラングの 真の意味である「他人の不幸は蜜の味」へと無事にグラウンディング(接地) できるけど、AIは意味や文脈を考えないで、記号の組み合わせだけで、 形式的に判断・照合するので、フレーム問題と同様に妥当な意味へと着地できないで フリーズしたり、意味の宙吊りを起こしたりすることもあるだろう。つまり、 「メシウマ」なら、馬に似た動物かもしれない、といった具合に判断したりする こともあり得るだろう。 ただAIもベイズ更新のように、認識のアップデートを確率的により正しそうな ものへと更新できるような実装になっていると、「メシウマ」から、飯と馬や 飯が上手い、などから徐々に真の意味である「他人の不幸は蜜の味」へと グラウンディング(接地)できるような仕様にしていくことも可能だろうね。 論理学の言葉で表現すれば、AIはシンタックス(統語論・構文論)に重点を 置いて推論出来るのに対して、人間はセマンティクス(意味論)に重点を置いた 推論や判断が出来るということ。 自然言語処理では、言葉を「概念」=「is-a」と「何を持つか」=「has-a」 で定義していくので、人間なら、概念(is-a)としては「社会的動物」や「言葉を使う」 などがあってもいいだろうし、何を持つか(has-a)なら、知能を持つ、愛憎を持つ、 お金を持つ、知識を有する、などであってもいいだろう。 つまり、言葉やイメージ、外部世界をを「概念」=「is-a」と、 「何を持つか」=「has-a」の組み合わせや混交で表象・記述出来るようになれば、 AIが人間と同じようなプロトコルで外部世界や環境、感情、メンタルモデルを 享受し理解して、それに適合的な反応、応答、行動を生成することは十分に可能に なってくるだろうと思われる。つまり、人間とAIの質的差異はどんどん狭まっていく だろう、というのが私の予想です。 あと、AIには「モラベックのパラドクス」と呼ばれる現象もあって、 これは、AIは論理学や代数学のような知的高度な対象や「難しい問題」は 得意とするが、人間の4、5歳児にでも分るような「やさしい問題」における 知覚や行動を不得手とするパラドクスのこと。つまり、AIは人間が行うような 常識推論や常識に基づいた判断や行動は苦手とする。でも、逆にAIは人間が 簡単には見つけ出せないような複雑な経路や最適解であれば見つけることが 得意。だからAI棋士は名人棋士やチェスのチャンピオンにも勝てる。 人事採用の場面でAIを使うのであれば、従来であれば、膨大なエントリーシートの 中から、人事課の人間が今までの経験やそこから派生する直観で採用していたものが、 AIを用いて、人事課の人間が今まで見逃していた有能な人材の特徴量を ディープラーニングで導き出して、その有能な人材モデルのアルゴリズムに基づいて、 採用場面でその知見を活かすことができる。 つまり、それは既存の人事の判断に基づいた採用よりも、潜在的に高度な人材を 獲得したことにもなり得る。将棋と同じで、AIの推薦やアドバイスに従って、 もっとよい一手を打っている可能性も考えられる。最適化していることも考えられる。 「モラベックのパラドクス」についても、今のAIは深層強化学習で、良き 学習モデルを構築した方に報酬が付与がされるというマウスのオペランド条件付け に似た手法で、AIの学習に報酬というモチベーションが与えられることによって、 正しい方向にAIの学習が駆動されるようになってきている。つまり、報酬を最大化 する方向でAIの学習が自然と進むようになっているということ。 SNS中毒やネットゲー廃人が起きる理由の一つは、「いいね」や「スコア」が 報酬になっていて、それが麻薬やニコチンのように作用するので中毒症状に 陥ってしまう、ということもあるだろう。つまり、人間の生理反応はラットの オペランド条件付けとたいして変わらない。そうした報酬をAIにも付けてあげて、 それをAIの学習のモチベーションとなる方向で活用するということ。 人材採用であれば、応募者のSNSでの発言や活動履歴などをAIがクローリングして チェックして、そこからその人材の潜在的な能力を推定して採用の場面に活用する ということも生じ得るだろう。 つまり、モチベーションの高い、意識高い系の人間や優れた人材を見つけたり、 作るのも、良きAIを作る手法もあまり変わらなくなってきているということ。 これは面白い現象ではないだろうか。人間と非生命であるAIが同じプロトコルに 従って成長する。あるいは、進化していく。 そうしたAIと人間がパラレルに同期し始めたら、私がいうような 「ポストヒューマン社会の誕生」もそう非現実とは言えなくなってくるだろうね。 / ̄ ̄ ̄ ̄\ / / ̄ ̄ ̄\ \ / / / \ ヽ f / /| ヽ | | | / ヽ | | フフ〜 フフ〜 | |/ __\(\ | | フフ〜 フフ〜 (V / `ーーV) フフ〜 フフ〜 | ヽ●) (●ノ .| 人 ( ノ ∧ (__人__) ∧ /__:. .`ー---─.''"´ ̄ ̄`` ー- 、 /´ `ヽ、. .: `ヽ、 / `ヽ、 ゙i i :; ,! ! ‐-、 :. 。 .:' / ヽ ヽ ; j:! " __..:-‐'"´ ̄ ̄` __ノ \ ! .:' 〃 ,..:---─‐'"´ __.. -──── ''"´ `ヽ、 ヽ、 ノー;'"、二:.:'ー--ァ'"´ `ヽ、 >:).......ヽ、_∨:/` ̄i ....:::::::::::にニニイ::::::::::::::::ヾK.._.ノ、 ....::::::::::::::::::,! _ i!:::::::::::::::::..ヾ:、__/ ミ、::::::::::::::::......... ..::::::::::::::::::::::::!`´_` .! `===='' :::::::::::::....... ::::::::::::::::::::::::::k'´! i ,``;| ..:::::::::::::::::::::ヾ三三ノ ',', たとえば、私たちは生まれると母国語を使うように社会から半ば強制される ことで、世界や対象を分節化して、外部世界を解釈できるようになる。 だから、オオカミ少女のように動物に育てられた人間は、世界を言語を 有する人間的な価値観では表象されえなくなり、また理解できなくなる。 つまり、私たちの外部世界は生の世界や生の自然でなく、言語によって加工され、 フィルター化されたいわば仮想現実のような観を呈している。だからAIでも グーグルのように外部世界をコンピューターが解釈できるようにデータ化し 正則化、あるいは、それに適した「知識表現」でフォーマット化してあげれば、 そこから自動推論が出来たりする。 IBMのワトソンは、そのデータベースとしてウィキペディアを利用している。 あとは、そこから単語の頻度、生起・共起確率などから、文章中にある単語が 出現した場合は、こういう情報や知識が要求されているのであろう、と確率 ベースでワトソンが記号間の出現関係から推論していく感じになっている。 だから、そこでは意味についての理解はない。 さっき、Siriで人工知能で使われる概念の「知識表現」を調べるように口頭で 命令したら、ウィキペディアの説明を持ってきたので、やはり、そこでも ワトソンとの類似性が感じられた。今は単純なレベルでの自動推論が多いと思う けど、経営の意思決定のような複雑で高度な判断も、AIで出来るように進化して くると、人間の役割は、そういう人工知能のメンテナンス、保守、モニタリング、 という風になってくることも考えられる。 ウィキペディアって実質ボランティアで運営されているようなものだけど、 こんなに世の中に影響を与えるようになるとは 15〜6年前は思いもよらなかったな。 上の方のレスで西田哲学特集が云々とあるので、それに絡めて話してみよう 西田幾多郎はよくは知らないけど、海外では禅やジャポニズム、そういうのは いつも人気があるので、それと同じ系統かな、と。ジョブズも禅にはまって、 日本人の師匠とかいなかったかな。あと、マインドフルネスのブームも同様 で、人々は情報過多の現代社会からの癒しを求める意味で、そういう無の思想 に対してニーズがあるのだと思う。 印象派の絵画とかも、全部、ジャポニズムの影響だからね。だから、日本人は、 それらを逆輸入して、日本を再感受している、ということ。黒沢映画とかに 影響受けてたアメリカの有名な映画監督とかいるでしょう。タランティーノも ジャポニズム好きそうだし。 オウム真理教の麻原が朝生に出ていたことをごく最近知ったので、早速 ユーチューブでそれを見てみると、哲板でよくスレが上がっている自死した 西部邁や哲学好きの池田晶子とか出ていて、面白かったな。池田晶子は アルコールか何かで早死にで、死刑になった麻原も出ていたけど、恐ろしい インパクトあるな。なんか麻原用の特別な白い椅子が用意されていて、 さすが尊師は扱いが別格なんだな、と思ったw あれじゃあ、騙される信者がいても不思議ではない。あと韓国人か何かに 刺殺された村井とか言う人も出ていた。あと、その番組のCMでは覚せい剤で 捕まった酒井法子がAC広告で善を薦めていたり、ポール牧という、住職も どきのことをしながら、セクハラして自殺した元お笑いもいた。 つまり、その他は割愛するけど、事後的に見ると、なんか不幸な連中がやけに 集まっていた感じだった。それだけ個性的な人々やタレントであるとも言えそうだけど。 それで思ったのは、宗教というのはやはり全部、フィクションなんだな、ということ。 番組では幸福の科学の幹部も何人が出演していたけど、彼らの宇宙や教義では、 大川教祖は釈迦の生まれ変わりであるらしい。宗教が面白いのは、どんな荒唐無稽な説 を立てても別に非難される筋合いはないということだね。 禅であれば呼吸などに意識を集中して、雑念を払えみたいな教えがあるでしょう。 オウムの場合も、信者に余計な思考をさせないようにして、ヘッドギアで狂気じみた 教義を繰り返したり、食事に覚せい剤やLSDを混ぜて、変性意識や幻覚を引き起こす ようにして、教祖麻原を神だと確信するようにさせた。だからポアの命令も簡単に 実行に移せる。オウム信者には医者も多いらしいので、その辺りは詳しそうだ。 宗教ではそうした薬物を使って洗脳する、という点では他の宗教でもその始原では 同じじゃないかな、と。あとは、呪文や真言とか、そういうのでその変性意識状態を キープできるようにしておく。写経でもいいし、太鼓を叩くでも儀式でもイニシエーション でもいい。 哲学だとフッサールが現象学的還元ということで、思考や判断停止をエポケーと して薦めている。でも、前にも書いたように、人間は生の世界や生の現実を捉える ことは出来ず、言語や知識でフィルタリングされた仮想的世界しか表象し得ないので、 いくらエポケーしても同じだと思う。生の世界や生の現実に、私たちはアクセス 出来ない。 それに、エポケーが中立を獲得するために必要だというのも判断の一つで、 その判断さえ言語や知識、フッサールの難解な哲学を通じて行われているのだから、 それはフィクションとしてのエポケーだと思われる。禅で雑念を払っているのと 一緒。シミュレーションとしてであれば、それは意味あることにもなりそうだけど。 このように、西田幾多郎、禅、オウム真理教、フッサールのエポケー、マインドフルネス も、現代社会の人々が情報過多やストレス、SNS疲れ等で心身が疲弊していることで、 ニーズが生じているのだと思う。つまり、暑い所にいたら、クーラー入った場所に 行くと心地よく感じるでしょ?それと同じこと。基本は、生理学的な問題。 脳が疲れているので、休みたい、ということでしょう。 それでAIを単なるテクノロジーと考えないで、それを新しい思想という フェーズと観点で考えてみよう。 先にあげた昔の朝生テレビに出演していた人々が、もし、現代にいるような 私たちが現在得ている事後情報を、その当時、精度の高いAIによる シミュレーションとして差し出されていたら、オウム信者は地下鉄にサリンを ばら撒いたであろうか。 あるいは、2人の自殺幇助者を有罪にして彼らの人生を不意にしてまで 自殺を企てようとその保守思想家はしただろうか。もしくは覚せい剤で 逃亡した芸能界と世間に衝撃を与えた人でもいい。 AIというのは、予測モデルとしても使われるので、その精度なりテクノロジーが 大幅に進化した暁には、人々の行動モデルが根源的に変容することが考えられる。 根源的思考と言えば、それは哲学が扱いうる領域になってくるので、やはり、 人工知能やAIを巡る考察は、そのまま哲学的な思考の営為になりうる。だから、 私はそれをずっと前からやっているんだけど。反事実的条件法という概念が あるように、シミュレーションとして、よりよい人生の選択や社会の構築に おいて、AIというテクノロジーやアルゴリズムが果たす役割は、やはりこれから 哲学レベルで見ても看過できないと思う。 専門家の間では、汎用人工知能は実現不可能とする意見が多いのだけど、 専門家というのは得てして、その視野が狭いことがあるので、大域的な 予想が不得手だったりする。 現に人工知能が最初研究されていた当時は、汎用人工知能は早期に実現 しうるという予測をしていた専門家が多かった。つまり、専門家である 彼らの当時の予想は外れたので、今回もまた外れても少しもおかしくない。 私としては、どっちでもいいんだけど、とにかく、AIがこれからの社会を 根源的に変容していくことは確かだと思うので、それにシフトした感じで、 自らの思考をアップデートしていくつもりなんだけどね。 認知には多層レイヤーがあると仮定すると、本能や反射、排他性、差別などは、 一番低い位置のレイヤーに属している。少し上層のレイヤーに行くと、 慣習、伝統、風習、常識、美学、宗教、となって、さらに上のレイヤーに行くと、 数学、科学、論理、AI、哲学、抽象性の高い学問、となっていくイメージ。 原始的な社会であるほど、多層レイヤ―の下位に位置する領域が重視されて、 高度な社会になればなるほどと、抽象度の高い上位レイヤーの領域が 重視される感じになるだろう。 だから、哲学好き人間などは、もっとも高度な人々とも言える。古代ギリシャで 哲学議論していた人々と同様に。そういう抽象度の高い知的レイヤーから、 より低いレイヤー、たとえば本能や排他性、差別などを制御することで、 より人間のレベルが高い社会が構築されるだろう、とか言うと、 レヴィ・ストロース辺りからは疑義ありと言われそうだけど、 高度な抽象化の操作を経ることで、より高度な社会や幸福な人生が築ける可能性が あるということは、別にいいんじゃないかな、と。 デイヴィッド・ハンター・ヒューベルは、カナダ出身のアメリカ合衆国の神経生理学者。 視覚情報の処理に関する発見で、トルステン・ウィーセルとともに1981年度の ノーベル生理学・医学賞を受賞した。また同年、ロジャー・スペリーが大脳半球の研究で 同賞を受賞している。 ヒューベルとウィーセルの実験によって、大脳皮質における感覚情報処理に関する知見が 深まった。1959年に行った実験では、麻酔したネコの視覚野に微小電極を刺入し、 眼前に置いたスクリーンに明暗のパターンを映し出したときの視覚野ニューロンの スパイク発火応答を調べた。そして、ある特定の方位の棒状刺激に対してスパイク応答 を示すが別の角度に対しては発火しないことを発見した。その後の研究では、 刺激提示位置や方位に対して選択的に応じるニューロン同士が規則的なルールに従って 視覚野を形成していることなどを発見し、単純な刺激が複雑な像となって表れる 視覚の仕組みが明らかになった。 ヒューベルとウィーセルは2つの業績によりノーベル賞を受賞した。1つ目は1960年代から 70年代にかけて行った視覚野に関する研究であり、もう1つは、視覚からの信号が どのように大脳で処理され、形、動き、立体的な深さ、色などを検出しているかを示し、 視覚神経生理学を創始したことについてである。彼らは子ネコの片目を眼帯などで 短時間遮蔽することによって、遮蔽されない片目が遮蔽眼の視覚入力の分もカバーして 視覚野に情報を送っていることを明らかにした。この研究は、弱視やある種の色盲に 対する理解を深めることになった。また両眼視に必要な脳の領域を発達させることは できなかった。二人の実験によって、視覚野は幼少の早いうちから不可逆的に進化 していくことが明らかとなった。これらの研究は、若年性の白内障や斜視の治療に 道を開いた。彼らはまた、大脳皮質の可塑性の研究にも重大な貢献を果たした。 大脳や身体の仕組みを調べるのは人間の不安からでしょうか、好奇心としても ナルシストすぎるでしょう。外の世界に興味をもって、間違っていない知覚認知でなにかをとらえる新心理学のほうが、医学より間違いは少なく、治療においても、 旧態依存のパーツ医学看護薬学歯学に汚染されたくない面があるから、 老人血統は迷惑なんだよな。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180920-00000071-jij-soci 5弱以上確率、10分の1に=北海道地震から2週間で―気象庁 こういうデータも科学的記述というよりは、原発事故の時と同様に、人心の安寧を 保つための政治的配慮に基づく記述なのではないかなと、懐疑的になる。 北海道で震度5弱以上なんか、すぐ来てもおかしくなさそうだし。 日本はデータや統計の扱いが雑過ぎる感じがする。 日本人の傾向としてあるのは合理性や客観性への志向で無くて、 忖度や空気への配慮が優先されてしまうこと。だから、データは恣意的に改竄されて いく。この傾向は是正されるべきだけど、首相が忖度政治家でトランプ追随だけなの で、その悪しき無原則な傾向は糺すべきなんじゃないかなと。日本が戦争に負けたのも 同じ理由。論理ではなく、空気に従ったので負けた。 その「日本人の傾向としてあるのは」というのが、日本人と欧米諸国の人々 を対比して、「欧米諸国の人々の傾向としてあるのは合理性や客観性への 志向」であるとする「忖度や空気への配慮」の優先だろうw アリストテレスは「フロネシス」という実践知の必要性を説いたけれど、 日本人がこの概念を用いると、周りの空気を読んで行動するだけの無原則に堕する 恐れがあるので、むしろ、日本人は長期的に減価しないような理念やヴィジョン、 抽象度の高い理論を構築して、その次元で個々の行動を適切に制御、方向付け、 モニタリングしていく方が相応しいのではないかな、と感じられる。 それは硬直的なイデオロギーの勧めではない。 自分たちの行動が盲目的、場当たり的とならぬような俯瞰、フィードバックが出来る システムを構築した方がいいだろう、という観点。だから、その次元で妥当な選択や 判断、行動モデルがシミュレーションできる。目先の損得と餌だけで動くマウスとは 違うということ。 日本の政治はそうしたビジョンが全くないので、カジノを作ろう、というヤクザと同じレベルの 発想になる。オリンピックもそうだけど、そんなことに回すより、もっとヴィジョンに 基づいた大事な為すべきことが日本には山積しているんじゃないかな、と。 日本人にはビジョンや理念、理論、思想が足りない。 以前突っ込みを入れていた人は まさか被災したか被災地に派遣されているのかな。 慶應義塾大学大学院理工学研究科KiPAS数論幾何グループの平川義之輔博士課程生(3年)と 松村英樹博士課程生(2年)は、『辺の長さが全て整数となる直角三角形と二等辺三角形の組 の中には、周の長さも面積も共に等しい組が(相似を除いて)たった1組しかない』という、 これまで知られていなかった定理の証明に成功した。 線の長さや図形の面積は、私たちの身の回りにあるものを測量する際に欠かせない基本的な 「幾何学」的対象だ。例えば、辺の長さが3:4:5の直角三角形は教科書でもおなじみの 図形だが、辺の長さが全て「整数」となる直角三角形はどのくらいあるか、という問題は、 古代ギリシャ時代に研究がなされた重要な問題だった。この流れを汲んで20世紀に大きく発展した 現代数学の一分野が「数論幾何学」だ。 今回の研究では、数論幾何学における「p進Abel積分論」と「有理点の降下法」と 呼ばれる手法を応用。三辺の長さの整数比が377:352:135の直角三角形と、 三辺の長さの整数比が366:366:132の二等辺三角形は、比をそのまま長さとすれば、 周の長さが864(=377+352+135=366+366+132)、面積が23760(135×352÷2=132×360 [二等辺三角形の高さ]÷2)であり同じ値になることが分かった。 今回解決した問題そのものは古代ギリシャ時代にも考察されていたと推測される。 研究ではp進Abel積分論に基づいた「Chabauty-Coleman法」、さらに「2-降下法」が 用いられたが、ともに1980年代以降に開発された比較的新しい手法だ。このような 素朴な問題と洗練された解決手法の対比、そして時代の大きな隔たりを伴う研究成果は、 現代数学の美しさを引き立てる貴重な成果であるとしている。 論文:【Journal of Number Theory】A unique pair of triangles 日本は西洋だが、太平洋の気候も混じる。その分だけ西洋化しなくていいのだよ。 ユーロシア辺りに滞在がいいんじゃないの?経済水域もあるし。北方。 もともと日本はユーラシア、アジアアフリカ中東のどれかの領土なのだよ。 新大陸北アメリカを経営する夢も謙虚にこなしただろう。 欧州中央銀行、連邦準備金制度、を見てみると、世界の女性の仕事の内容が 少しはわかるだろう。給料があるとサラリーがあるとの違いだ。 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は22日、探査機「はやぶさ2」から分離した 小型探査ロボット2台が、小惑星「リュウグウ」に着陸したと発表した。 小惑星の上を移動できる探査機が着陸に成功したのは、世界で初めて。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180922-00000058-asahi-soci 「リュウグウ」に存在する巨大クレーターの存在は、「君の名は」に出てくる 異次元空間につながる、未知の場所xを連想してしまう。異なる時制がつながる経路が ある、という話だったよね。 少し考えてみるだけでも、止まっているモノはないということが分かる。 机の上にあるコップも本も止まっていない。なぜなら、地球は自転、公転しているので、 机の上にあるコップも本も本当は動いているのだけど、止まっているように錯視されているだけだ。 同じように、同じ速度、たとえば時速100キロメートルで並走する車同士には 相対速度が作用するので速度0キロメートルとなるので、やはり、お互いの車が 止まっているように見える。本当は、時速100キロメートルで動いているにも かかわらず。こういう錯視や錯認というのは、多々、この世の中にはありそうだ。 科学や数学と、哲学の違いを考えてみると、前者が客観的な世界の定立を目指す 学問であるのに対して、後者は別に少々主観的であっても構わないということ。 だから、前者の学問を使えば、「リュウグウ」まで飛行して、その地球からは遠い 宇宙環境を客観的に調査出来るのに対して、哲学は、たとえば現象学や唯物論的弁証法を 用いても、「リュウグウ」には決して物理的には到達し得ない。 ただ、科学の位相だけで表象し得ぬ対象であれば、哲学がかかわれる場面も出てくる だろう。たとえば、現象学であれば、外部世界だけでなく、記憶や心象、あるいは 就寝時の夢の表象などといった人間の内部世界もその知的枠組みの中では扱えるかも しれない。つまり、その外部、内部を問わずに、科学的フレームからは取り零されて しまう対象が、哲学的な考察の素材になりうる、という感じだろうか。 だから、科学や数学的な客観的知性と、哲学的な主観的知性が同期することで、 より十全な知性へと漸近出来る可能性はあるだろう、と。 https://thepage.jp/detail/20180922-00000006-wordleaf 【中継録画】「こうのとり」搭載 H2Bロケット打ち上げ成功(JAXA提供映像) やっぱりテクノロジーはすごいな。日本人なら自然災害で日本列島が沈んでも 宇宙のどこかの惑星でテクノロジーと共に生き残って繁栄しそうだね。 国内ではゴミみたいなニュースが多いのに、宇宙だと良いニュースが多い。 時間スレ、ちょっと読んだけど面白いね。唯一、まともに哲学しているスレだな。 計算理論では、多項式時間というものがあって、処理時間の上界をnの多項式で 表現できる計算時間のことを言う。 ランダウの漸近記法だと、ランダウ記号を使って漸近的な上界を記述する。 それは、ある関数の漸近的挙動を別のより簡単な関数を使って記述すると いうこと。収束や発散がどうなっているのかだけが分かればいいので、 それに影響のない他の部分の式は捨象していく、という考え方。 関数の漸近的挙動という、解にとっての本質だけを抽出しているところが、 ランダウの漸近記法の肝となるところかな。真理に漸近している、という この方向性や方法論が大事かもしれない。この観点だと、真理は細部や ディテールに宿るのでなくて、本質に宿るということなのかな、と。 >>時間スレ、ちょっと読んだけど面白いね。唯一、まともに哲学しているスレだな。 このスレでまともに哲学していないという自覚はあった模様 よくわからないが、シングルトンの論理式をモデルの形式化と称して 展開しているんじゃないだろうか。もう言ってしまうと、自分の理解では モデルというのはブラウワーの言う所の心的構成(mental construction)。 語られているのを見たことないけれど、ブラウワーはフランツ・ブレンターノの 影響を多分に受けている。直観主義論理というのは数学を行う際のメンタルな 推論過程のことを数学的に表したものだと理解している。 ダメットがわざわざ回避してくれた「心的〜」というのを復活させるのは 胡散臭いものなんで、胡散臭い話扱いされるんだろう。ただ、状況は近年変わっていて 「心的〜」というのは、今話題の人工知能の内部の推論過程のことを指していると ある種の合理的な言明に置き換えられる状況になっている。 深層学習でまず話題になったのは、画像認識の分野だったが、あれは癖のある手書きの 数字の画像(MNISTデータセット)を人工知能に処理させると、ほぼ必ず人間の判別と 同じ数字を返すことができるというものだった。 つまりこういう関係が成り立っていると言える、 (人工知能が深層学習で判別した数字)a : (人間なら判別できるが癖のある)数字の画像 A a は人工知能が独自の判断で認識した対象の(メモリ上の)データ。 A はタイプとしては画像データ。 この関係がちょうど a は心的構成(人工知能のメモリ上のデータ)、A は論理式(タイプとしては画像データ)。 と解釈することができる。だから、直観主義論理というのは、実は人工知能の内部推論過程を 解析する上において重要なのではないかと思っているんだけど、そういう研究ってある? この意見を人工知能の歴史の流れで考えてみると、>>70 の言う直観主義論理は、 人工知能の「コネクショニズム」の方向とフィットしているということだろう。 コネクショニズムはパーセプトロンやニューラルネットワーク、ディープラーニング のことなので、AIが感覚的に判断していくことでその学習モデルを構築していく 手法のこと。経験知を増やしてそこから学んでいくのがディープラーニングなので、 まさに試行錯誤していく人間の学習モデルに近い。そうなる理由は、ニューラルネットワーク が脳の神経回路を模して作られたものなので、人間的な学び方をするということだろう。 ディープラーニングは言葉や概念、記号や理論で学習するのでなく、暗黙知を 探索していくようなスタイルなので、そのプロセスはブラックボックス化してしまい 人間にはその内部状態が理解できない。 人工知能のもう一つの流れである「記号主義」は、「コネクショニズム」と逆になるので、 チェスや将棋、ゲームのような型やルールが決まったものに強みを発揮できる。 ここで言う記号は、言語や数式の意味なので、「記号主義」はそれらに基づいた 人工知能のこと。マニュアル化したものへの対応は得意だけど、臨機応変な 対応は苦手とする。「コネクショニズム」とは逆のイメージ。左脳と右脳と いったイメージでも理解出来そうだ。人工知能という言葉が始めて使われたのは、 ダートマス会議からだね。 ダートマス会議は、人工知能という学術研究分野を確立した会議の通称である。 1956年7月から8月にかけて開催された。当時、ダートマス大学に在籍していた ジョン・マッカーシーが主催した会議で、会議のコンセプト自体はマービン・ミンスキー、 ネイサン・ロチェスター、クロード・シャノンらと共に構想した。その会議の提案書に おいて、人類史上初めて「人工知能(Artificial Intelligence)」という用語が 使われたとされる。 会議は一ヶ月に及ぶもので、基本的にブレインストーミングの場 であった。 提案書の序文には次のように書かれていた。 我々は、1956年の夏の2ヶ月間、10人の人工知能研究者がニューハンプシャー州 ハノーバーのダートマス大学に集まることを提案する。そこで、学習のあらゆる観点や 知能の他の機能を正確に説明することで機械がそれらをシミュレートできるようにする ための基本的研究を進める。機械が言語を使うことができるようにする方法の探究、 機械上での抽象化と概念の形成、今は人間にしか解けない問題を機械で解くこと、 機械が自分自身を改善する方法などの探究の試みがなされるだろう。我々は、 注意深く選ばれた科学者のグループがひと夏集まれば、それらの問題のうちいくつかで 大きな進展が得られると考えている。 (McCarthy et al 1955) 提案書ではさらにコンピュータ、自然言語処理、ニューラルネットワーク、計算理論、 抽象化と創造力について論じている。これらはいずれも今日でも研究が続いている分野 である。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180924-00000035-jij_afp-int MS、アマゾン、グーグルのIT3社、世界の飢饉対策に協力へ 新設される飢饉行動機構(FAM)は、飢饉につながりかねない食料危機を検知するため、 初期段階で警告を出し、早い段階での介入が可能になるよう、事前に定められた 資金調達計画を発動する。グーグル、マイクロソフト、アマゾン・ウェブ・サービス (AWS)などのIT企業が連携して、悪化していく食料危機のリアルタイム評価・予測の ためAIと機械学習を活用する「アルテミス(Artemis)」と呼ばれる一連の分析モデルの 開発に向けて、専門知識を提供する。こういった予測を行うことが政策立案者を 早期対応に導き、促す一助となる。 AI は、こういうことにこそ、積極的に使うべきだね。社会システムを平等、公平に するために使う。人生の初期条件や初期値の偏差、分散を均して、人生の基底や条件 に不平等がないようにする。 AIで、日本は欧米や中国の後塵を拝しているけど、早く、挽回しないといけない。 ビジョンがない国家や組織は、世界をリードできない。 相変わらずAI使えば公正公平お花畑、飲み屋のおっさんのトークレベル 男とか女とか関係ないよ。AIは省エネでなく、省人間化なので、 人間に対して淘汰圧が作用する。 だから、人間は宇宙人として進化する方向に進むしかない。 熱くなり過ぎた地球でなく、宇宙の他の惑星に住んだり、軌道上にある 宇宙ホテルに住まうようになることも出来るだろう。 宇宙用の言語もAIで開発できそうだね。 宇宙の他の惑星ってそこまでたどり着くのにどんだけの年数かかると思ってんのよ? ああきっとAIがワープ航法も発明してくれるんだねw 100年後は、AIが地球を征服する。 人間はペット。 三角関数も出来ないバカは、劣等感と悔しさで、このスレを荒らすことしかできない だろうという、私の推論や判断は「コンパクト性定理」のような考え方を応用している。 まあ、馬鹿どもには遠い世界の話だろうけどさ 算術の超準モデルとは、一階ペアノ算術のモデルのうち、通常の自然数ではない要素(超準数) を含むようなモデルのことである。それに対し、通常の自然数 N は算術の標準モデルと呼ばれる。 ペアノ算術の任意のモデルは線形順序で並んでおり、N と同型な切片を持つ。超準モデルは、 その切片の外に元を持つようなモデルであると言える。 算術の超準モデルの存在を証明する方法はいくつか存在する。 コンパクト性定理を用いて超準モデルの存在を示すことができる。 証明の概略は、c を新たな定数として、ペアノの公理系 P A に { n < c : n = 1 , 2 , 3 , . . . } という形の無限個の公理を付け加えた 公理系 P A ∗ を考え、コンパクト性定理により P A ∗ を満たすモデル N ∗ の存在を 示すというもの。P A ∗ はペアノの公理系を拡張したものであるため、 当然ペアノの公理を満たしている。また通常の自然数では定数 c を いかように解釈しても P A ∗ を満たすようにはできないため、 c は超準数であり、N ∗ は超準モデルとなる。 P A ∗ にコンパクト性定理を適用するには、その任意の有限部分 T が モデルを持つことを示せばよい。T は P A の部分集合に n 1 < c , n 2 < c , … , n m < c という有限個の公理を付け加えた形をしているため、c の解釈を n m + 1 と定めれば、自然数 N が T のモデルになっていることが言える。 不完全性定理により、標準モデルでは真であるがペアノの公理系においては 決定不能であるような文(ゲーデル文)G が存在する。このとき、完全性定理より、 ペアノの公理系 P A に ¬ G を加えた公理系にモデルが存在する。標準モデルで G は真なので、このモデルは超準モデルでなければいけない。このように、¬ G を満たすことは、そのモデルが超準的である為の十分条件となる。しかし、 これは必要条件ではない。いかなるゲーデル文 G に対しても、G が真であるような あらゆる濃度のモデルが存在する。 算術が無矛盾であると仮定すれば、算術に ¬ G を付け加えたものもまた無矛盾である。 しかし、¬ G は算術が矛盾していることを意味するのだから、結果得られた 算術の体系は ω-無矛盾にはならない。なぜなら、¬ G は偽であり、したがって ω-無矛盾性に反する。 算術の超準モデルを構成するもうひとつの方法は超積に基づくものである。 典型的な構成では自然数列全体の成す集合 N^N を用いる。2つの列が 同一視されるのは、それらがある固定された非単項超フィルターに属す 添字集合の上で一致するときである。このようにして得られた半環は 算術の超準モデルとなる。これは超自然数と同一視出来る。 このイメージで言うと、標準モデルとしての人間を拡張したのは 疑似・超準モデルとしてのAIであったり、AIによる補完を通じて 人間が進化した状態である超準モデルとしての宇宙人、という感じで 記述してもいいかな、と思える。 進化というと突然変異であったり、生物学的なモデルとして記述される と思うけど、人工生命やバイオインフォマティクス、遺伝的アルゴリズム などがあるように、論理や計算として進化の過程を記述できる進化生物学的な 領野もあるので、論理の構造の内部に、進化へとつながる理路や経路があっても おかしくない気がしている。 少し戯画化して、進化の関係を表現してみると、 猿(平均IQ10) → 人間(平均IQ100) → 宇宙人(平均IQ1000) と、対数スケールで表せる感じでイメージしていくといいかなと。 イメージなので、実際の本当の数字は分らないけど、とにかく、 少なくとも対数間隔で表せるような距離が各進化のフェーズにおける エージェントにはあるだろうという主観的な推論。 数学的な処理がスムーズにできることと思考が高い機能で働いている ことは無関係だと思う。私は足し算や引き算も面倒ですぐに間違える くらい、算数も数学も苦手だけど、昔、徹夜で作業をつづけなければ ならないことがあって、疲労で意識が低下していたとき、なぜか 突然、数の平方根の計算の暗算が頭に浮かんできた。計算のやり方 を知っているわけでもないのに、下の桁の数字が暗算できて答え がでてくる。妄想かとおもって計算機で確かめてみたら、やっぱり 合っている。計算ができることとある種の脳機能の低下は、結び ついているんじゃないかとそれ以来、思っている。 認知症というのは脳機能の低下で、要は思考力が低下した状態でしょう。 その症状にはいろいろあるけれど、見当識障害の他に、論理的な判断が 出来なくなったり、計算が出来なくなったりする。 だから認知症の人が持つ財布は小銭だらけになっていく。勘定の際、 で端数を出さないような処理が出来なくなるので、そのように なっていく。あと、物を片付けたり整理することも出来なくなる。 だから、ベクトルで考えると高度な計算や抽象度の高い思考が出来る状態が 脳機能が高まっている状態で、計算できない、具体的な思考、原始的な行動 しかできない状態が脳の機能が低下しているか、縮減している状態だろう。 ネットで言うと、脳機能が低下した状態が取る行動が、ネットウヨ、 ヘイトスピーチ、差別、掲示板荒らし、自己顕示欲だけが肥大化した 無意味な書き込み、俗悪な感情の発露、ネットストーカーという感じになる。 つまり、俗悪な本能レベルの行動だけが賦活された状態。アルコールや 薬物、向精神薬等でで脳が異常を来していると、こうした行動が賦活 される感じがする。私は精神科医療の薬も長期的にはこれらと同様の効果を もたらすのではないのかと推測している。つまり、それは脳を破壊する。 脳機能が高まっている人の行動は、差別や不平等をなくすような言説、意見を 広める、教養や知性を高める知識や情報を伝播する、自然と啓蒙・模範的に なる等、有意義なレスや書き込み、情報発信をすることが多くなり、 読むものも、そうしたものが多くなる。 AIと数学でマウント取りたくて仕方ない奴が粘着してるけど、所詮ただの素人じゃん アークタンジェントも分からないで、どうやって哲学するんだよ 特定の決った手続きに従うことに馴れることは哲学することの本質ではない 哲学は必然的に、自分に慣れ親しんだ領域で行われるにしても、 その領域で哲学を行うことに必然性はない 世界の異常事態に精神異常になるのは当たり前で、むしろ正常。 その方がよろしい。アルコールを飲んでいる方が異常事態に伝わるときに 反応がいい。クスリは機微を鈍らす。 ウチワネタで盛り上がるのが哲学ではなく、厳しい戦場での苛烈な戦闘中の議論が 哲学の本質だ。 高校数学が心のよりどころの引きニートがイキってるスレはここですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる