数学を初めとした理系の学問と哲学について 14
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
数学はどこまで行っても形式論理でしかないと認めざるを得ないね。 数式が象徴やら暗号コードなら形象とかはあると思う。 関数の次元的図形象なんて面白いテーマだ。当たり前だ普通だが飽きずに面白い。 >>840
教科書をコピペしただけでは、面白くもなんともないだろう。
こう書き換えたほうがずっと面白い。
lim x→0 sin(x)/x=
lim x→0 arctan(x)/tan(x)=
lim x→∞ arctan(π/x)/tan(π/x)=
lim x→∞ tan(π/x)/arctan(π/x)=1 あ、lim x→0 sin(x)/x=の後に
lim x→0 tan(x)/ arctan(x)=
を入れたほうが良かったな。 あ、間違えたのやり直し。
lim x→0 sin(x)/x=
lim x→0 tan(x)/ arctan(tan(x))=
lim x→0 arctan(tan(x))/tan(x)=
lim x→∞ arctan(tan(π/x))/tan(π/x)=
lim x→∞ tan(π/x)/arctan(tan(π/x))=1 数式が何を表現することを意図しているのかを理解したなら、
それを書き換えることは容易だ。その意味では、
lim x→0 sin(x)/x=1
は、簡単な表現に見えるものの分りにくく、不親切だろう。
それを
lim x→∞ arctan(tan(π/x))/tan(π/x)=
lim x→∞ tan(π/x)/arctan(tan(π/x))=1
と書き換えて見れば、やはり、1が表しているのは等しさである
ことが容易に見て取れる。 数学関係のTwitterの書き込みを見ると、学校の算数で掛け算を教える
ときに、数学的にまったく根拠がなく、正当化されない掛け算の順序の
固定が強制されていることが批判されているのをよく見かける。
理屈の通らないことを強制することは、数学を技能として身に付け
させるという目的に照らして合理的に考えるなら、批判されてしかる
べきことだが、よくもまあこれだけ下らない議論をしているな、
という印象を拭えない。さらに言えば、数学を専門とする人々が、
数学の技法を伝えるのに適切なメタ言語による表現を見出すための
取組みを怠ってきたのだから、自業自得だろうとさえ思う。
理屈の通らない指示に従うことを、賞罰という動機付けのみによって
強制することが、指示を受ける側の自主性を破壊することは論を
俟たない。しかし、数学の技法を教えるのに、それをメタ言語に
よって適切に説明することのないまま、操作の反復訓練だけを
させるのも、意味不明な指示に従うことを、賞罰という動機付け
のみによって強制することになり、やはり同様に、指示を受ける
側の自主性を破壊する。そのうえ、数学者による数学の解説書
などには、掛け算の順序の固定と同様に根拠の不明な、形而上学
的な数の存在論を前提とした言説が当たり前のように繰り広げ
られているのだから、なおさらのことである。 哲学的に見れば、掛け算の順序の固定において、数量単位の決まった事物×数
を強制するのも、数える前から数が存在するという形而上学的な信仰を押し
付けるのも五十歩百歩だろう。「五十歩百歩」というのは、既に数えられた
ものは、「数」としては違っても「質」としては同じだ、という表現である。 lim x→0 sin(x)/x=1 は、直観的にはイメージしづらからこそ、公式のようなものと考えて、
それを覚えておけば、あとで再利用出来るのだよ。加法定理にしても、オイラーの公式に
してもそうだ。数学はイメージしづらい関係を公式や方程式の形に落とし込んで保存しておき、
それを鍵とすることで、より複雑な式の解を求めるにあたって、その鍵をいくつか利用する。
だから、基礎となる鍵や鍵の意味が分かってなければ、式を変換できないので、いくら考えていても
数学の問題は解けないし、答えも合わない。公開鍵を使って、暗号読解するのが
数学のやっていることの一つだ。 だから、数学に取り組む時には卑小な我を立てて尊大に問う(中二病患者)のでなく、
我を折る、つまり、無我(大人)になって、数学宇宙の純粋なプロセスに身を任せていく
ようにした方が、その世界と調和しやすくなるだろう。論理と機械的なプロセスの流れ、
あのように複雑に見える対象間の数学的な整合性がなぜ、得られるのか、などを考えて
みる方が、中二病的な反感や反論よりも、よほど有意義な問いにもなるだろう。 いくらレトリック駆使しても、地球の裏側や月まで行けないのに対して、
数学や物理学を正しく用いれば、ロケットで月や地球から約3億2000万kmの距離の
離れた小惑星イトカワまで到達できる。 レトリックを駆使すれば、月面に軟着陸ができたり、大規模なロケット発射台
なしに月面からロケットを発射できるのかと思ったw たとえば、関数 y = f(μ) , μ = g(x) で表される時、f(g(x))は2つの関数f,gの合成関数となる。
f(μ)とg(x)がそれぞれ微分可能な時、この導関数は連鎖律として以下のような合成関数の
微分公式で求められる
∂y/∂x = (∂y/∂μ)(∂μ/∂x)
このように、微分計算が分数のように約分できるのは、無限小の世界では曲線が直線とみなせる
ことから生じる性質による。つまり曲線の関数f(x)が導関数(f‘(x))である接線の傾き、
すなわち直線で表せるために、分数のように∂x,∂y,∂μ を計算できる。
では、∞だとどうか。このスレで誰かが無限大の、あるいは無限大に近づく円周は直線の
ようなものと表象されると述べていたが、実際には ∞/∞ は NULL すなわち計算不能となるので、
微分計算の無限小の時のような約分や分数計算が出来ないことが分かる。すなわち、上記の意味では、
∞の円周は直線とはみなせない、とするのが正当な理解ではないだろうか。仮に∞/∞ が1として表せれば、
そこに直線のような関係や構造を有する円周をそこに想定してもいいが、実際には∞/∞には、
無限のパターンが想定されるので、NULL、すなわち計算不能という扱いになるのだ。 >>866
詭弁だな。例示した計算において∞/∞のような関係は一切、用いていないのだから。
教科書のコピペしかやっていないから、例示した表現の意図を理解することが
できない。 >数学に取り組む時には卑小な我を立てて尊大に問う(中二病患者)のでなく、
>我を折る、つまり、無我(大人)になって
数量化して考えて見れば、「我を折る」ことを、「無我(大人)になる」
ことと見做すような捉え方が、「卑小な我を立てて尊大に問う」こと
であることがすぐに理解できるはずだろうw 「我を折る」という表現において、「折る」を英語にすれば、"to give in"
だろう。誰に対して「折る」のかと言えば、「人」に対してであり、
"to give in to others"ということになる。ここで、英語では"others"
という複数形で表現されるが、この複数形は、不特定性を表している
のであって、単数 vs 複数の関係性を表しているわけではない。
したがって、「我を折る」を日本語に戻して数学記号を利用して表現
するなら、「『我<人』であることを認める」と言い換えることが
できる。ところで、日本語で「我」は既に「大人(うし)/主(ぬし)」
との対比において、"minor" vs "major"の関係にある表現である
だけでなく、対等性を表すものとされる「人」に対しても引け目の
ある存在、"less than one" vs "one"の関係にあるものとされる。 人(ひと)は、「等しさ/1」(語源的には中国語の「匹」に由来するだろう)
を表す表現なので、「人」=1と考え、同様に「我」も数量化して(quantify)
考えた場合、「人」=1=e^0とするなら、「我」=e^log(我)と表現する
ことができ、ここで、我<人の関係にあるのだから、log(我)<0、すなわち、
log(我)は、負の値となることが分る。 では、どのようにして、当初より卑小な存在である「我」が、
「我を折る」ことによって「無我(大人)」になることが可能なのだろう。
「無我(大人)」と表現されているが、「無我」と「大人(つまり、
人より大きいこと)」は矛盾しないのか。この一見したところの矛盾
はどのように解消されるのか。それを、やはり、数量化して考えて
見るなら、それは、まさしく、「卑小な我を立てて尊大に問う」
ことによってであることが分るはずである。 まず、「我を折る」、つまり、我<人によって無我になる関係を考えて
みよう。我と人との対比は、e^log(我)/e^0と表現することができ、
ここで、我=e^log(我)が無になるとされるのであれば、その表現に
おいて意図されているのは、負の値であるlog(我)を-xと置き換えると、
im x→∞ e^(-x)/e^0=0ということになるだろう。 では、なぜ、そのように無我になることが、「大人(つまり、人より大きい存在)」
になるのか。無我=0<1=人なのだから、人=1<0=無我=大人というのはあり
得ないのではないか、という疑問が生じる。そのあり得ないはずのことがなぜ
可能になっているのかを解く鍵は、「数学宇宙の純粋なプロセスに身を任せていく」
という表現にあるだろう。ここで反転が生じているのである。
「数学宇宙の純粋なプロセス」がどのようなものか不明だが、それが、
e^log(数学宇宙の純粋なプロセス)=e^log(α)と表現されるとしよう。
すると、lim x→∞ e^(-x)/e^0=0を反転させて、さらに、e^0
の代わりにe^log(α)を入れると、「数学宇宙の純粋なプロセス」
=αがどのようなものであれ、lim x→∞ e^log(α)/e^(-x)=∞
ということになる。 まずは、中二病患者的な我(≒オタ芸or場末の酒場にいる窓際リーマンの薀蓄)を折って
大人へと人間的に成熟することから、純粋な数学宇宙への旅は始まると思う。
入り口で脇道やポエムに逸れていては駄目だ。ファンタジーの銀河鉄道999でさえ、
助走用の軌道をちゃんと用いているだろう。いきなり広大な数学宇宙に旅立てると
考えてはならない。中二病的な甘えを断つことから始めよう。 さて、ここで、無我がlim x→∞ e^(-x)=0として捉えられているのは、
「数学宇宙の純粋なプロセス」に対してであって、既に「人」に対してでは
なくなっていることに注目する必要がある。さらに、log(我)=-xは、
負の値であるが、我=e^log(我)=e^(-x)は、正の値であり、さらに、
我は、「無我」になって、それにより「大人」になっているのだから、
人=1=e^0<e^log(無我)=大人、ということになるだろう。 物事にはルールと規則というものがあって、数学の宇宙では
> 無我=0<1=人
のような式は、はなから存在し得ない。それは狂人や精神病患者、ファンタジスト、
中二病患者とポエマー、薬物ジャンキーだけにあるような特殊な個人的な宇宙だろう。
サッカーの試合をやっている際、そこに一人の基地外バスケのルールを恣意的に挿入して、
手でサッカーゴールへシュートし始めたら、サッカーの世界がゲームとして破綻するように、
その宇宙で許されていないことを恣意的に持ち込んでしまうのは禁忌なのだ。
数学の宇宙では、ゼロ徐算でさえ禁止されている。だからプログラムで誤ってゼロ徐算を
使ったことで甚大なバグとなった事件もあった。
ポエムであれば > 無我=0<1=人 のような表現は許されるであろうが、
数学ポエムの宇宙と純粋な数学宇宙では、金メッキと純金くらいの質的差異があるのだ。 だが、これでは、「数学宇宙の純粋なプロセス」 と「無我/大人」と「人」
の関係において、数量化として筋が通らない。そこで、それをあたかも筋が
通るかのように思い込ませるトリックが必要である。それが、「無我」、
つまり、lim x→∞ e^(-x)=0とした我が身を、「数学宇宙の純粋なプロセス
に身を任せていく」ことのできる「人」と捉え直すことによって、それが
できないと自分が見做す他者を見下す「尊大な」立場をとることである。
つまり、e^log(無我)=0ではなく、log(無我)=0、すなわち、
e^log(無我)=e^0=1=人とする置き換えだ。それにより、他者を
e^log(他者)と表現するなら、log(他者)<0とされ、
e^log(他者)<人=e^log(無我)という関係において、「数ならぬ者」
として自分が尊大に見下す人々に対して、自分が「相対的」に「大人」
であるとされるのである。 理系の天才のダ・ヴィンチを考えてみても分かる通り、
数学的な整合的宇宙と美の宇宙は、つながっている要素がある感じ
がする。黄金比でもいいがね。だから、あえてポエム的にそれを
表現すれば、「エレガントな数学は、美そのものである」とも言えそうだ。
ダ・ヴィンチの展覧会とかたまにやっているけど、そこで展示されている
オブジェや絵画、ギミックは、数学やそこから作り出された設計図そのもだよ。 私は、>>863の書き込んだポエムに関して、どのような数量化の隠喩が
働いているのかを推察しているだけですが? もとより、私は、「無我になる」とは、ここで用いた数量化の隠喩を敷衍
するなら、自分をゼロにすることではなく、その都度、与えられた状況に
おいて、自らが、人、すなわち、e^0=1であろうとすることだろうと
思っています。1であることにおいて、現象するプロセスからは姿を消す。 自らは1だと思い込んで現象するプロセスから姿を消せているつもりの中二病だと認めたくないんだろう この数学スレでは、等しさを表すものとしての1にこだわっている者が
いたから、俺は0に少し触れてみようか。
0から連想するものは何か。たとえば、空集合Φであれば、要素を1つも
持たない集合のことになるので、それは0に近い無の内容を持つことだろう。
絶対零度であれば、セルシウス度の−273.15 度のことで、それは絶対温度の
下限として、理想気体のエントロピーとエンタルピーが最低値である状態
を示す。デカルト座標の(0,0)なら原点Oを表す。ニュートラルも0として
表わせそうだ。「タブラ・ラサ」であれば、それは「白紙」となるので、
0に近いイメージを持てよう。つまり、物事や座標の基準線・基準点となる
表象のことを0と考えてもいいだろう。 この観点で考えると、0を欠いた宇宙というのは、原点の欠けた座標や
基準のない評価系のようなものになって、その世界像や宇宙像は、どこか
統失患者が示すような表象のバラバラになった不安定な外界の描像になる
のではないだろうか。そうした疾患は、たとえば形態のセンス・データで
とらえるべき対象を音で感受したり、触感や嗅覚で感受する香りとして
感覚したりするのかもしれない。
つまり、原点としての0が喪失しているので、客観的な座標系が揺らぎ、
そこに表象の揺れや外界の表記の揺れが生じているのではないだろうか。
この状態を美術的に昇華できれば、それは草間彌生のようなアートになる
のかもしれない。
正常な感覚モダリティの分岐が乱れたり、そこに捻じれや錯綜、エラーが
生じることで、幻覚的な表象がそこに生み出されるのだろう。霊が見える
人も、通常の感覚モダリティとは異なる状態で外界を捉えている可能性が
ありそうだ。大麻や薬物もそうした非正常系の表象を誘発するのだろう。 そして、多忙な表象・ノイズ過剰な現代社会に欠いているのが
こうしたゼロであり、何もない空間であり、静けさであり、空白なのだ。
人々は一日中SNSの通知や応答で気を散らされ続ける。洪水のように
一方的に大量の情報が流れ込んできて、人々は落ち着いて物事を考える暇も
ない。そのため、入力された情報に自動的に反射するだけだ。
グーグルでは社員の創造性を喚起するために、勤務時間の2割を自由時間に
割り当てているそうだ。その2割の時間であれば、寝ていても文句は言われない。
日本人がよく行うような過密スケジュールや長時間労働では、創造性のある
仕事は出来ない、というのがグーグルの観点なのだろう。
つまり、グーグルはそうした空やゼロを戦略的にエンジニアリングに取り入れている。
グーグルの社員たちは、一年中一日中デジタル環境に触れているようなイメージ
も浮かぶが、実態は逆で、デジタル・デトックスできる時空にいられるようになっている。
つまり、スマホもPCもない環境に定期的に身をおき、あえてデジタル的な
世界からは距離を取ることで、逆説的にクリエイティブなデジタルシステムを
構築しているようだ。それはデジタル・デトックスと呼ばれる。
グーグルの研修でマインドフルネスが活用されていることなども、その好例
だろう。つまり、意図的に、ゼロや空を挿入することで、ネットの宇宙を
豊穣なものに変換しているのだろう。 だから、ニュートラル、原点としてのOを持つことが、自己にとっての
物事のプライオリティや己が進むべき方向、座標を正しく見極めるためにも、
時には過剰なノイズや表象、情報を絶ち、静かに己にとっての原点やゼロは
何であるかについて沈思、考究していくことが、この表象過剰な現代に
おいて、逆説的に重要になってくると思われる。
仏像が半眼として描かれているのも、そうした余計な表象やノイズ、
妄想を捨象して絶つという意匠がそこに込められている。瞑想的な半眼と
いう状態で、外界や内界を適切にフィルタリングして、己にとって真に
重要な事柄に沈思を向けて、集中させているのだろう。
こうした観点に立っていれば、0の重要さが少しは分かりそうだ。 今度は、「0は∞へのポテンシャルを潜勢させている」、と仮定してみよう。
0はブール論理では偽になるが、0を命題と捉えてみれば何とかなりそうだ。
「0は極限で使われる数学的概念である」を命題Pと置き、
「∞は極限で使われる数学的概念である」を命題Qと置けば、
P∧Q = 1 となって、共に真となる命題になるだろう。
lim x → 0 (1/x) は、±∞に発散する
lim x → ∞ (1/x)は、0に収束する
このことからも、ヘーゲル弁証法的なイメージで、0と∞という対概念が
互いに反転しあう、もしくは、互いを無化しあう動的な関係や構造を
そこに洞察できるかもしれない。 0と∞という数学的な概念に、このような反転構造や反転関係があるのであれば、
±という記号があるように、0と∞の記号を十字架のように重ねて、一つの記号
として用いてみたら便利ではないだろうか。
その場合、たとえば、その∞と0のクロス記号は俺が今想像で作った
数学宇宙には存在しない架空の数学記号なので、0と∞を併記的に表現すると、
lim n→0,∞ x^n , x >1 (この箇所はxの条件を指す)
極限値1と∞への発散を得る。つまり、ここでは極限値が2つ得られる
lim x→0,∞ sin(x)/x とすれば、
極限値はそれぞれ1,0に収束するので、ここに0と∞がたがいに反転しうる
ような構造や関係を潜勢させていることが一部、認められるかもしれない。
実際には1も入ってきてますが。
では、最初のお題である「0は∞へのポテンシャルを潜勢させている」と仮定してみよう
を少し拡張してみると、「0は1と∞へのポテンシャルを潜勢させている」と仮定してみよう
となり、ここで0,1,∞の相容れぬ3項が、項を3つ有する拡張弁証法のような構造や
関係を有しているかもしれないと仮定して、この思考実験をここで一旦、ペンディングに
しておこう。 >>863のような捉え方は、肥大化した自我を見せ掛けの謙遜によって
偽装するレトリックとして極めてよく使われるもので、その要は、
本来、「引け目」があるものである「我」を、「「数学宇宙の純粋なプロセス」
との対比において、「無視され得るもの」として「割り引く度合」、すなわち、
最初から負の値である「log(我)」=-xを負の方向に極大化して、つまり、
lim x→∞ e^-x=0として、そのようものとして「無視され得るもの」と
した我を、今度は、「無視され得る」ために他者に対して「引け目がない」
ものと捉え直して、つまり、e^log(我)=0(無視され得る)としたはず
なのに、それを、「引け目がない」存在、log(我)=0にすり替えること
により、「我」が、「引け目のある他者」よりも「相対的」に大きい
人=e^0であると、自分自身にも、他者にも思い込ませようとするのだ。 「数量化」の隠喩を逆手にとるなら、何らかの「質」を有して
現象すること、e^xの零度、それが、e^0=1であると言えるのではないか。 何らかを有する「質」を「1」に、現象することを「e^x」に置き換え「=」で数式化した
形式論理であるとしか論理的には言えていない・・・ 現れるすべての事物および事象において、現れないことによって
遍在しているのが、等しさ/同一性である。 ×解釈を完全に誤っていますよ?
○完全に違う解釈をされてしまった e^0=1
e^(2πi)=1
だからなんだって話だけど 課題は、日常言語との対応関係を模索することでしょう 教科書に記載される公式のコピペを繰り返しても無意味でしょう 何も現れていないことは、0にではなく、1に対応し、引け目を感じる
ことは、単純に負の値に対応するのではなく、α<βの関係において、
log(α)−log(β)<0であることに対応すると考えられる。
このような対応関係は、単純に日常的な言葉の枠組みだけで哲学
をしているだけでも、数学を単に数学の枠組みで考えているだけ
でも出てこないでしょう。別にこれが絶対的に正しい記述である
などと主張しているわけではなく、より適切な記述が考えられる
なら、それを試行錯誤しながら、模索する必要があるだろうと
言っているのです。哲学板なのですから。 数学や言語を使ってモデル哲学を指し示すだけなら趣味哲学にしかならないからね 数学の技法を説明する適切なメタ言語を探るのに、数学の記号操作から
対応する日常言語の表現を見出そうとするのは無理があるでしょう。
しかし、その逆に日常言語においても、その表現の論理において、
数学的な思考が裏で働いているとするなら、日常言語の表現が
数学操作にどのように対応しているのかを考えるのは、有意義な
ことではないでしょうか。 「嘘つきのパラドックス」とかをいくら数学や論理学の立場から議論しても、
現実の詐欺師が虚偽の言動で人をどのように騙すのかを記述するのに、
何の役にも立たないのではないですか。それでも、詐欺師の虚偽の
言動に、数学的な思考や、それを利用したトリックが働いていないとは
限らない。虚偽の言動が、経済や投資活動など、数字を扱うような
ものであれば、なおさらのことです。 「嘘つきのパラドックス」について議論することが、人が嘘をつく行為に
ついて記述することに寄与するかのように見せかけること自体が、
詐欺の一種でしょうw まあ、主観的な数学ポエムなんてやってても、きちがいになっていくだけで、
何の利点もないだろうな。無論、哲学的な営為においても無意味な行為だろう なんの進歩もない状態(馬鹿)のままで生きてて人生楽しいのかねw 知識を広げるだけでなんか進歩してると思える馬鹿だから楽しんで生きられるんだろうw 深い森に分け入り、隠された宝物を探し出す。数学は、わくわくする
ゲームだ。知力を競い、最強の解法を目指す。数学は、どきどきするバトルだ
数式を読みながら、古の数学者が感じた感動を、僕も味わう。たとえ、
数百年前に証明済みでもかまわない。いま、論理をたどりながら抱く思いは、
間違いなく僕のものだ
結城浩 数学は「論理的思考力」を鍛えられます。
論理的思考力とは、論理的に思考する力。そのままですね。
では論理的ってどういうことでしょうか?
国語辞典で調べてみると、「きちんと筋道を立てて考えるさま」と
書いてあります。
数学の場合は、「問題文に出ている仮定、前提」を見て分析、状況を把握を
し、「定義(公式・公理)」などを用い道筋を立て、最終的な答えに至ります。
これが数学における解法の基本であり、論理的思考そのものです。
数学の世界は定義(公式・公理)以外の知識がいらないという部分が
他の科目と異なっており、論理でできている世界なのです。
数学は定義といういわばルールを最初に設定することによって、それだけで
最終的な結論・答えまでもっていけるのです。逆にそれ以外の部分が
かかわる要素が関わることは基本ありえません。それゆえに数学が
美しいという人もいます。
つまり数学の実力があるということは、論理的思考力がある事とほぼ同じなのです。 類似は、あらかじめ与えられた定義による特徴の共通性ではないんだよ? ムハンマド(マホメット)みたいに宗教戦争で攻めないと数学広まらないし
ベドウインみたいにさすらわないと子供宗派の人が授かれないけど。 >>914
論理で定義された問題から定理、公式を導いたものが数学の形式論理でして
論理には人間の具体的な価値概念の真理を論理的に論証する理論が求められる
一方形式論理は人間の具体的な価値概念の理論は論理的に扱えないということ。
空間という抽象問題を図形や数量で扱う筋道を公式化して認識した、定理で解答するのが
数学の原理原則です。
数学の実力の有無にかかわらず、定義、定理、公式を混同しているため
論理的思考力を欠いてしまっていますよ。 その逆に"evenly odd"な様態を考えてみたけど、"evenly odd"という
表現は、ユークリッドの英訳で別の意味で既に使われているんだな。
でも、日常言語の表現から考えてみるなら、"evenly odd"である様態
とは、偶然(そろふ様態)が重なる度合が高い事象ほど、それが奇なる
ことである度合も高まることだろう。それが、デフォルトとされる
自然の状態とされ、そこに奇妙にそろふ、"oddly even"な様態が
認められることによって何らかの特性が立ち現れる。 くだらない数学ポエムをやっていると、通常の数学理解が混乱すると思われるw 数学が形状を扱うのであれば、子供の顔立ちが亡くなった祖父の
顔立ちに似ているという認識さえ、数学と無関係ではないでしょう。 解像度、明度など、数量的な計算で
実物をモデル化させた形式的な図形が
アナログの認識状態と遜色ないだけで
遺伝的な顔立ちに数学が自主的にw関与して
寄せてるわけじゃないんだからさ
無理やりこじつけるほど、頭悪い印象しか与えない 別に顔立ちではなくても、地形のパターンの認識だっていいだろう。 パターンの認識の話をしているのに、どうして遺伝関係の問題に
すり替えようとするのか?遺伝学について何も知らなくても、
祖先と子孫の特徴がパターンとして似通っているという認識は
成立するだろ。 >>927
パターンを認識するとは
どのようなことですかって話だったわけで
数学で再現できる視覚モデルと
数学で再現不能な遺伝モデルじゃ
形状の認識パターンが物理的に異なるでしょ
それを無視して短絡的に包含することで
どのようなことかを解明するどころか
適当に丸め込もうっていうんじゃ話しにならないよね パターンは、トランプのカードの配列で考えればいいよ。
52枚の普通のトランプカードをよく切って、4人の人間に順番に配った。
それを展開してみたら、それぞれの人間に、マークの種類だけが異なる
すべて同じカードが配られていたら、そこに奇異や作為性を感じることだろう。
もしくは手品のような仕掛けがそこにあることを想像するだろう。
あるいは、2人に配ったものが、カードをよく切ってあるにもかかわらず
片方には偶数のみが配られて、片方には奇数のみが配られても事情は同様だろう。
パターンとはトランプの手札に規則性が認められる、特殊な配列と同じこと。 配られたトランプの手札に視覚的な規則性が認められれば数や図柄で類型であると
単純思考型のワンパターンだとそうとしか考えられないわな
認識問題を数学に限るなら数学板でやってろよ哲板でやることじゃないから。 人間が考えてる数学と、他の宇宙人がいて数学考えていたら似たようなものなのだろうか?
数学が真理なら似たようになるはずだよね 数学における安定的な部品を使って物事を対処していくことは、実社会に存在する
不安定な部品への対処方法をも学んでいることになります。
数学ではわからないものを仮にxとおいたりしますよね?
これによって安定な部品に不安定さが与えられます。
よって、不安定な部品は安定な部品の延長上にあるので、実は安定な部品と不安定な
部品の基本的な扱い方は同じになります。
そしてそれに気づけたら、数学の問題を解くのと同じように実社会の問題を
解決していけるようになるでしょう。 「数字を見るのが嫌だ」とか「計算ばかりでつまらない」、「できなくても生きていける」
などと思っている(言っている)のでしょう。
ただ、それは拒絶反応を起こし、自分への言い訳を作っているだけなのです。
例えて言うならば容姿の良くないという自覚のある、とある男性がいたとします。
男性はこう言います。
「僕は別にイケメンじゃなくて困ったことはないし?(動揺)」
これと一緒です。
・そしてもはやそれは勉強そのものを全否定することと同義です。
教養として最低限は必要ですし、学問も同様です。数学だけ特別扱いする必要は
ありません。学問とは問を立てて、答えを追求すること。未来を俯瞰し、自分の
あり方を先人の考えたことから、問を立てて解決しようと試みる。その経験が今後、
自分にとって納得できる道を選択するのに好影響を与えることは自明です。
人生は悩んで、考えてばかりです。そしてこの変化が激しい世界では普遍的な知識、
考えを有している人間は圧倒的に有利なのは間違いありません。
だから教養が大事です。どの学問も必要です。だから学校にはいろいろな教科が
あるのです。 また、理性が何かを解決する道具、道具的理性になってはいけません。
(例えば、何の役に立つかを考え、そのために学問が存在すると思うこと)
主体的な、学問自体が目的であるべきです。道具として扱うことは二の次です。
少し哲学的な話です。そういえば数学やその他学問は古代ギリシャ哲学から生まれたんでしたね。
「文系だし言葉のセンスがあれば大丈夫」という方もいらっしゃるかも。
しかし、経済学、政治学、地理学、経営学、商学など様々な学問でも数学はバリバリ使います。
数学では数式の扱い方が重視されがちですが、言葉の扱い方もとても大切です。
特にパズルを解くときのような賢さ、論理的思考力では言葉をうまく扱えるかが鍵になります。 数学を好きになる、得意になるためには粘って粘って粘りまくるのが一番早いです。
兎に角、わからないことに出会い、解決して不快感をなくすためじっくりと考える
ことです。したがってしばしばわかりやすい授業、教え方というのは思考力、
数学の本質を身につける機会を奪います。特に小学校ではそうです。わかりやすい
授業は児童のためにはなりません。考えさせる授業をするべきです。
この理不尽な社会では生きるために忍耐が、持久力が続けられると強いです。
だから数学をきっかり学んで、楽しさを知っている人は問題解決能力が高く、
いろいろな職場で活躍できること間違いありません。
ところで一般的に理系人には所謂オタクが多いと言われていますが、これは確かに
事実です。そのような傾向はあります。なぜなら
オタク→一つのことに熱中できる→数学や他のことにも一点集中できる→数学が
得意になる→理系に進むという構造があるからですね。 数学より化学や生物、地学、心理学が伸びる方がいいんじゃないの?
数学は中二だしね。 経済学は数学の知識計算力じゃ太刀打ちできない。経営学はもっと上 医学看護学薬学もなめちゃいけないけど、栄養学ほどの人気と難易度でもない。 >>935
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義総合スレ5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1574256963/
改竄して略奪したスレの次スレのタイトルを「不安定なx」として適切な解を考え、実社会の問題を解決してみましょう。
人のつくったプラットホームを改竄して略奪することは簡単ですが、児童のためにはなりません。
じっくりと考え、パズルを解くときのような賢さ、論理的思考力でもって、主体的に議論を起こせるようになるかが鍵になります。
人の考えたタイトル「ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義総合スレ」やそのテンプレは使ってはいけません。 栄養は、それによって栄え、養われるから栄養とされるのですよね?
では、今の日本の経済は栄えていると言えるのでしょうか?
栄えていないとすると、どのような栄養が足りないのでしょう?
社会が栄えるための栄養に相当するのはどのようなものなのでしょう? 栄養が東京に偏っているのが原因でしょう。
東京一極集中は首都直下地震でも起こらない限り
是正されないでしょうね。 社会を駆動させるような栄養みたいなものは、
人の思考を駆動させ、行動に結びつくようなものだろうな。
本だとか映画だとか音楽だとかシンポジウムのような、
知的媒体、集まりがそうだと思う。 >>935-938
スレをパクって、人の褌で相撲を取ってる奴が、どの口でこんな偉そうなことを言っているのか?
キレイごとを並べるのは簡単だが、現実的には自分一人でスレ一つ立てられないだろ。 東京まで輸送保冷可能かどうかわからないから東京一極は虚像。人いねえよ首都圏。地方⇔東京がいいね。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。