時間は論理的象限であり物理現象ではない
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【衝撃】 物理学者が証明した 「時間の定義」 に世界が震えた!(現在主義が正しいと思われる)
http://youtu.be/uEZ428Tm2t8?list=RDuEZ428Tm2t8 現在主義・・・『現在以外に存在を確定できるものは無い』 過去・・・・・・現在・・・・・・未来
記録・・・・・・実在・・・・・・予想
記憶・・・・・・直視・・・・・・想像 物理現象・・・『現在以外に存在を確定できるものは無い』 現在主義・・・『現在以外に存在を確定できるものは無い』
物理現象・・・『現在以外に存在を確定できるものは無い』
時間定義・・・『時間は論理的象限であり物理現象でない』 過去・・・・・・現在・・・・・・未来
記録・・・・・・実在・・・・・・予想
記憶・・・・・・直視・・・・・・想像 物理はつかさどるほうだよ。時間をね。真理 論理 心理 でゴロがいいでしょうね。
象限ていうのは限界文明の事かな。物質文明の昔。 >>1
たしかマッハがそんな事言ってなかったっけ??
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厶:ィ^¨¨´ `¨¨´ `¨¨^ヾ: :}}ヽ
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ゝ‐-ミ : : : :ヽ: `'< ///⌒ヽ`ヽ≧. ニ ≦ 八 | { \
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物理板にいたアリスです。
哲学を突き詰めると科学も超えます。
発狂さん、頑張って 現在とは物理的にどのような事態なのか
こんなシンプルな話が謎のまま 現在は意識によって捉えられる、あるいは成立する、「これ」のことだとして
つまり意識が無ければ宇宙に現在など無い、と
あまりに無理筋すぎる まともに考えては駄目なのだ
では過去の事実とは何なのか
それは「今は無き現在」
そうだとして、それは「存在」と言えるのか
過去は今のどこにも存在しない
だが、それが存在したことは信じられている
そしてこの先、それが存在することはない
こんなものにどういう態度で向かえば良いのか
存在論では手に負えない
なぜなら、存在論は再現性の無いものを扱うのに向いていない
そして過去は再現することがない 貴方の死んだ先祖のことを思いなさい
彼は自分の現在を生きていた
生きて己の見ることのない未来を思った
その未来は、貴方の見ている「この現在」
先祖がいろいろと未来を空想していたが
実際の未来は結局は一つ
だから「未来は決まっている」
こんな論法を披露した奴がいた
だが甘い
なぜなら、未来が一つしか許されないことと、未来が決まっていることとは
違うことだからだ 私はどうしてこの私なのか
世の中にはそんなことにこだわる奴がいる
わたしは、わりとどーでもいい
一方で
今はどうしてこの今なのか
わたしはこれにはとてもこだわる
しかし何がちがうのか
ぜんぜん違う
私の問題は意識の問題
今の問題は意識以前の問題 脳と現在
脳が現在(という認識)を作り出している
これは別に間違いではない
しかしその主張に中身は無い
なぜなら、脳がなければ何も認識することはない
それを言っているだけだからだ
「脳」が生理的、物理的対象である限り
脳の物理的状態から現在を導き出すことは不可能だ
もうまったく不可能 なぜ不可能なのか
落ち着いて考えてみたまえ
たとえば網膜に光子が当たる
そして網膜の細胞が励起する
励起した細胞から神経細胞にイオンが流れる
イオンを受け取った神経細胞は発火する
発火した神経細胞はシナプスを介してイオンを受け渡す
次々に神経細胞が発火する
ついに脳の視覚野にたどり着いた電気"的"信号が、現在の視覚となる
こうして「現在の視覚」を伴って現在が認識される
めでたしめでたし・・・・
残念でした
なぜならこれは、現在ありきの論点先取だからだ
「物理状態とはいつも物理状態」なので、
ある物理状態があったとして、その物理状態をどのように考えたとしても
それが過去の物理状態ではない現在の物理状態であることを理解する術を
我々は未だ持っていないのである >>15
運動量を運動量で理解している
ということは・・ 今、ここ、と指示する
今、ここ、は飛び去る
私、もまた同じで、今の私は飛び去る
私、という指示はどんなに対象である私が変化しても、私という同一で指示される
地球もまた同じ
今、ここ、と同じ
理解とはそういうこと
私が赤ん坊でも歳を取っても同一と理解する 運動は静止で理解される。
対象が否定で理解される。
規定は否定。
飛ぶ矢は一点に存在する
静止は一点に存在すること
飛ぶ矢は静止している
この逆説は対象をその否定で理解していることを指摘している 存在という規定が運動の否定。
運動する対象を存在、つまり静止で規定している。
確かに飛ぶ矢は一点に存在する。
しかし一点に存在するという規定は静止である。
つまり一点に存在してはならない。
運動とは存在すると同時に存在しないこと。
対象をその否定で理解するからこそ。 クレタ人の逆説は対象をその否定で規定するからこそ。
生物学者福岡氏は、生物は生きつつ死につつあると語る。
運動、つまり今は決定不能。 時間は四次元。
対象である自然は次元、つまり静止で理解されるが次元は自然の抽象であり実在しない。
私という同一、静止で理解された自然は実在しない。
私という規定で理解されている。
自然の運動は静止、座標原点で理解されるが座標原点は実在しない。 時間という次元は自然を理解するための運動量の抽象。
運動量を運動量で理解するから時間は伸縮する。 自然は運動変化しているだけ。
私たちは自然をその否定、つまり静止で理解しているから次元ひいては時間、四次元が必要になる。
時間は実在しない。 理解される対象は決定不能。
わたし、そして自然。
わたしは自然の生成過程に存在する。
生物学の分類は差異の物理を否定で理解することを指摘している。
わたしは物理としては生まれないし死なない。
つまり物理変化状態は恒常であり、であり、ではない。
生死が無いから終始もない。
終始は論理が要請するからであり、自然には実在しない。 光速度一定の原理は次元の実在を否定する。
対象である自然は無限だが有限、つまり実在しない座標原点、否定で理解される。
有限は無限の否定。
つまり有限の無限集合が無限ではない。
有限は実在しない。 粒子、ここからここまでという物理存在は実在しない。
粒子は波の渦状態。
自然は運動するエネルギーの濃淡の海。
濃淡、つまり差異を否定で理解している。
時間もまた否定で理解するから必要なだけで実在しない。 自然の最終理論は光一定の原理。
そしてそれは出発点。 運動という有は静止という無で規定される。
対象はその否定で規定される。 物理的客観性と意味論的客観性
色などというものは自然界には存在しない
自然界にあるのはただ電磁波であって
電磁波のスペクトルに反応する網膜細胞の様態に応じて
脳が作り出した幻想こそが色である・・・・
というような話は、もはや常識となってしまい
少なくとも科学関係の本で、いやいや、ちょっと待てよ、などと
言い出すことは、私が見る限り100%ありません
しかしそこに哲学を登場させると「自然界には電磁波が存在する」という判断は
独断にすぎない、として当たり前のように批判可能です
なぜなら、そもそも電磁波などというのは空想の産物でしかないからです
科学装置によって波動として電磁波を捉えているように思えるとしても
実際にやっていることは、装置の振る舞いを見ているに過ぎないのです
ただし、それが単なる妄想ではなく、観測と矛盾しない首尾一貫とした合理的説明を
伴っているため、電磁波こそが自然界の実相であるとして強力に理解されてしまう
なんて
こんなこと通常は「哲学の戯言、無駄なおしゃべり」で済ますことができるのですが
しかし時間のこととなると、なかなかそうもいかない 第二性質は主観的観念か
以下、ものの本からの一部要約ですが
**************************
ロックは物体に関する観念について
「個体性・運動・延長・運動・静止」を第一性質、
「色・音・味・その他もろもろの感覚」を第二性質として区別した
以来、第二性質は主観的現象との類否で捉えられることとなる
しかし「花が赤い」と言うときに、その意味は「私がそのように感じる」
とは言っておらず、どこまでもその花の性質について言っている
ゆえにそれは花の客観的性質なのである
ではどうしてそれを主観的な現象と理解することになるのか
それは『知覚の因果的解釈』を介入させているからである
***************************
ここからが大事なのですが
では、現在という観念は、第二性質なのかといえば
現在には知覚の因果的解釈を介入させる余地がない
よってそれを主観的な現象として解釈することすらできない
分かりますかね 閑話休題
以前にも同じような話をしたことがあるのですが・・
滑らかな机の上に反発係数が0<e<1の球を落下させる思考実験を考えてください
この球は机に衝突するたびごとに"必ず"反発します
とすると、その帰結として、この球は『永遠に反発し続ける』と結論して良いのか
答えはノーです
物理的にもノーだし、論理的にもノーです
どうして論理的にノーなのか
その理由は『有限の時間内に無限の過程を経ることに論理的な矛盾は無い』からです
ゼノンのパラドックスは頭のリトマス試験紙(つまりパラドクスではない)
暇つぶしにちょっと考えてみるのも良いでしょう 宇宙にいくつもの素粒子が運動している空間だけがあるとして
素粒子の運動によって時間が構成されるのか
されない
なぜなら、その素粒子の運動状態に過去も現在もないから
それなのに、頭の中でその空間を想うとき、そこに時間が流れているように感じる
それはなぜか
意識が仮想空間に己の時間を投入し、それを運動の性質として介入させてしまうから
故にカントは時間について
『感性による(自己を直観する)純粋形式』などとという記号に
丸投げすることになる
「それで分かるだろ君たち」、と
いや無理無理
こちらが知りたいのはその純粋形式がどこに由来するかということだから 事実とは何か
ウィトゲンシュタインによれば
『世界とは事実(成立していることがら)の総体である』
・・・なのだそうだ
その後に
『事実とは諸事態の成立である』
『事態とはもの(諸対象)の結合である』
・・と続く
なんとなく分かるような気もするが
さらに「像」の話なんかが出てきて、もうわけ分からん
そんな話を横目に見ながら、例えば
「競馬の有馬記念でブラストワンピースが勝ちました」
これはいまのところ事実なのだ
一方で、
「名もない無人島で一枚の葉の上に乗っていた小さな朝露が人知れず蒸発した」
として、実際のところこれは事実と言えるのか
競馬の方は、それを「事実ではない」と主張することは偽となる
なぜなら、競馬の結果によって世界全体の様相が変わるので、もし偽としたときに
世界との辻褄が合わなくなるから
朝露が蒸発したか否かについてはそれの真偽を支えるものがない
・・・そうは言っても、そういうことがあったならあっただろうし、無かったなら無かった
でなければ、もはやこの世界を信じることができない
ところが、「宇宙空間のある地点を光子が誰にも観測されずに通過した」
と、話をさらに微妙にした場合、それは事実と言えるのか
これはもう言えない
なぜなら、観測された光子の状態は、観測しないままの光子の状態とは
一致しないことが科学的に分かっているので
観測しないときの状態を「もし観測していた場合の状態」としては記述できないからだ 観測したから、宇宙は138億歳であって、
観測しなければ、宇宙の年齢も無い、のか? さあ
しかし本当の宇宙の年齢なんか分からんだろ
昔は100億年とか言われてたぜ >>39
>なぜなら、その素粒子の運動状態に過去も現在もないから
観測したその瞬間に、138億年の歳月が流れる? 思うのだが・・・
ビッグバン理論を信じるとしてだ
宇宙がもっと小さなときには、時間の進み方が遅かったかもしれないよな
そもそも時間の尺度って、宇宙に依存してるようなもんだろ
その場合、ものさしそのものが変化するわけだけれど、それがどのように変化するのか
どのくらい考えて計算してるのだろうな
宇宙の年齢が138億年、というのは、やっつけで前提を固めて計算したんだろ >>43
いやいやそういうことを言いたいのではない
たとえば素粒子の運動状態が方程式で表現できるとして
その方程式そのものには、それが「現在の方程式」であることを示すものが
なにもない
だから、運動から時間を構成することはできませんよ、と
そういう話だ 宇宙全体を波動関数で表そうとする量子宇宙論(quantum cosmology)というのがある。
プランク期と量子宇宙論
http://tmcosmos.org/cosmology/cosmology-web/node43.html 色々と突飛な説が多いね。
しかし、どんなモデルでも、世界が在ると言う事を否定はできないだろうね。
詰まりは、それが時間さ。 それを面白く語れるなら貴方に任せる
もう正月も終わり
わたしは娑婆に戻る さて、困ったね。
世界が在ると言う事は、語るまでもないけど、敢えて語ると胡散臭くなっちゃうからね。
まぁ、各自、好きに解釈して考えれば? ところで、世界と宇宙は同じ?
違う?宇宙に私たちの暮らしているところは入らない? 『常に今しか存在しない』
などと言う命題を聞いたとき、それをもし意味のあるものとして成立させようとするなら
「常に存在するのは、そこで"今"と呼ばれている今ではない何かのことだろう」
として忖度してやらないといけない
なぜなら、そもそも今とは「常には存在しない何か」のことだから
なかなか大変だ 過去の世界とか未来の世界は同時に存在しないから今しか存在してないのは当然だな
相対化してタイムトラベルするってのも絶対に不可能
ただ、それは時間が存在するかどうかという問とは関係がない アウグスティヌスはうまいこと言ったね
時間として人間の頭に浮かべた途端そこからすり抜けていってしまうもの たしかに言われると有るのか無いのかわからなくなる。 時間が止まってるな
しかしこの表現は不正確
なぜなら止まっているのは時間ではなく特定の変化だから
(意味は通るから、間違った表現だとも言えない、むしろ最適な表現だったりする)
ところで「時間が止まる」という状況を、理解可能に想像することが
はたして可能だろうか 昨日、出雲に行ってきたが
静かで良いところだった
古代に起こった「事実」の中身は、いまだ謎のままだが
過去の事実、それはつまり「いつどこでだれがなにを」で語られ得る
諸々のお話全体の集合、それは唯一つだけ、のように思える
その確信の根拠はどこにあるのか 現在に残る資料から古代を想像するとき
いくつもの可能性が歴史として語られ得るのだが
事実とは、それらとは別次元の何ものかであって
歴史は事実そのものとは違う
「事実」は、極めてイデア的な、形而上学的概念であって
歴史の前提としてそれはある 事実の確定性、唯一性、その確信の根拠は三つある
一つはあきらかに、現在のありよう、にある
つまり、現在がただ一つ成立していること
二つ目は、成立した現在だけが、やがて(過去の)事実と呼ばれる内容を
持っていること、それが「事実」の意味であること
最後は、そのような意味として成立する「事実」の存在が、現在成立の前提としてあること
これがややこしい
人はなぜそれを知っているのか、あるいは、なぜそれを確信するのか なぜ、最後のところがややこしいのか
多分こういうことだ
事実が現在成立の前提としてあることの根拠の多くを
人間は自らの「内在的な記憶の構造」を頼みとしている
そしてこの構造は、直観はされるが、それがそのようであることの論理的必然性は無い
ゆえに、それを分析する際は、端的にそれがそのようであることの報告しかできない
現象学の手段は記述であり、その中身は報告となる 簡単に言うとだな
「腹が減ったからさっき○○屋に行ってトンカツ定食を食べた」という記憶があって
今は満腹であることの理由付けとして、その記憶が機能している
この記憶を信頼できない場合には、機能不全の理由を求めることができる
脳に障害があるとか、怪しいクスリをやってるとか、痴呆症だとか
どうして理由を求めることができるのか
これもややこしい
「世界がそのようにできているから」
これはずるいね 人工知能と意識
「脳・心・人工知能」を読みました
流し読みだが非常に面白い、面白いが
・・・・人工知能は心を持つか
幾度となく繰り返される問ではあるが答えは出ない
答えが出る気配もない
そもそも心とは何か
意識を伴わない思考(のように外から見えるもの)は、心と言えるのか
言えません、意識は心の必要条件です
ほぼすべての学者さんが陥っているのは
知能と心の混同・混乱です
意識の欠落した知能は心とは別のものです
知能が進歩しても意識は生まれません
なぜなら、知性の欠片も無いとんでもない馬鹿にも多分、意識はあるから 心理学的には有限の先に無限が幻のように見えているだけだが
論理的には無限を前提にしないと有限が規定できない
「無限(集合)とは、その部分集合(の要素の個数)が、自身(の要素の個数)と等しいものがあるものということであり
そうではない場合に、その集合は有限(集合)である」 (デデキント無限による)
心理主義と論理主義
どちらを信用しますかね
役に立つ方?まじで? むかし、「確率は物理現象ではありません」と諭す奴が2chにいた
確率とは(人間による)事象の整理の仕方、だと
実際、当時のサイトでも、そのように主張している学者モドキもいた
確率が物理現象なのか、そうではないのか
などという話は、神学論争以上のものにはなり得ない
つまり所詮は勢力争いなのだ
とはいえ結局、「真理」からそれ(権勢)を排除できない
なぜなら、真理とか、実在とか、
それらはすべて「意味」であるのだが(意味でしかない)、
意味は、合意という現象を抜きには成立しない
そして合意は、いつも妥協を内包している >>63
現在がただ一つ成立しているという捉え方は、単なる主観でしかないね。
現在は持続するものであり、過去とか未来はその延長線にある。
その延長線を時間と呼んでいるのさ。 >>69
それもおまえさんの単なる主観でしかないわけだろ >>70
太陽の光は8分前のものだ。
星の光は数年前から数千年、数万年前とマチマチだ。
これは科学的に実証されている。
つまり、過去の存在は既に科学で実証されている。
全ては主観なんてナンセンスだね。 >>71
全ては主観であるかどうかは置いておくとして
「現在は持続するもの」という話は科学的に実証されているのかね? あー、それから
現在がただ一つ成立している>>63、というのはね
現在開闢しているこの事態は一つだけ、ということだ
簡単に言うなら、「いまどこどこで雨が降っていること」は、誰にとっても矛盾なく成立している
そういうことだよ
持続がどうとか、ぜんぜん関係ない話です 一つだけ、という言い方が誤解されるのか
「確定している」と訂正しておきます >>72
持続を無しに過去が成立するのか、考えてみる事だね。
過去が観測可能なら、その時点から現在までは確実に持続していると思われるが? あー、それからもう一つ
「太陽の光が8分前のものである」というのは、小学生の読み物にも載っているような話ではあるが
哲学的に言うなら、それはそのような世界観を押し付けているだけの話なのだ
簡単に説明するとな
我々には、貴方の言う『8分前の太陽』の姿しか分からないのだが
それを貴方のように「過去の太陽の姿」だと判断するということは、
「現在の太陽の姿」があるという前提が含まれているのだ
なぜなら、「過去」の意味は「現在」の存在抜きには成立しないから
で、その「現在の太陽の存在」は、どうやって実証するのかね
できないだろ
なぜなら、貴方によれば、実証できているのは「過去の太陽」の姿だからだ
もう一度言おうか?
見えている太陽の姿が過去のものであるとする判断は、
それとは違う『現在の太陽の姿(それがどのようなものであったとしても)が、あるはずである』
という世界観をに前提とすることによってその意味が成立している
だがそれは、その世界観(つまり主観)を押し付けているだけなのだ
そして、ある科学的世界観が正しいかどうか、どうやって確かめる?
実証によって?そうだよな
そうすると、実証できない内容の是非についてはどうする?
受け入れるか、受け入れないか、しかないよな
意味分かるか?
で、やっとここから結論だから、よく聞きなさい
もし、現在の太陽の存在が不明であるとしたときに
見えている太陽をもって、それが「過去の存在が科学で実証されている」と主張するのは
単に、「見えているのは過去だから、過去は実証されている」というトートロジーなのだよ >>75
持続なんてのは、テキトーな念仏なんですよ
何が持続しているのかね
そうですね、ためしに
連続と持続の違いを説明してください >>76
何を言ってるの?
見えているのは過去だから、過去は実証されている。どこがトートロジーなの?
これを世界観の押し付けというのなら、押し付けで無い、キミの世界観とやらを書いてね。 >>78
見えているのが過去であることの根拠は何ですか ああ、しかしトートロジーではなかった
論点先取り、だったな>>76 >>82
辞書でも引いて下さい。
持続とは在り続けている事。持続を無くして連続なんて現象は起こり得ないでしょうね。 >>83
そうすると、現在とは持続であるから
それは「在り続けていること」であるわけだ
『現在とは在り続けていること』
諸行無常の現在の刹那、何が『在り続けている』のか
教えてもらえませんか
つまりね
「我々はいつも現在に生きている」ことと
「現在とは持続である」ことと
何が違うのかね 現在が在り続けるのであれば、過去など生じようがないはずだが
どこで辻褄合わせてるのかね ああ、あと
見えているのが過去であることの根拠>>79
お願いしますよ >>84
多分、違わないでしょう。
貴方の刹那という概念の方が疑わしく感じますが?
瞬間を切り取って刹那などと言ったりするけど、一体、何を切り取ったのやら? >>84
あ、あと在り続けているのは宇宙の全てだね。 >>86
その辺は相対性理論や天文学でも勉強してね。 >>87
切り取る必要はないのだよ
思いが消えていく、その感覚を表現するだけのことであってな
*******************************
「現在とは持続である」ことが
「我々がいつも現在に生きていること」と違わないのであればな
それは「ぼくはいつもここにいる」と同レベルのことなんだよ
つまりな、それは単に意識の問題であって、意識以前にある現在とは
関係ない
それはおまえさんが勝手にやってくれたまえ >>89
多分、おまえさんより相対性理論くわしいぜ >>88
それ、おまえさんの都合に合わせた宇宙だろ >>85
それは逆。現在が在り続けるからこそ、過去が生じてしまうんだね。 しかし、おまえさんにとって、「見えているのは過去」であることの根拠は
相対性理論なわけだ
相対性理論は別に、見えているのは過去、などとは言わない
むしろ、「見えてからは過去(時間的領域)だが、見えるまでは現在(空間的領域)」という妙な構造を導入している >>93
だから、おまえさんの言っているのは現在という事態であって、
私の言っているの「現在の成立」とは事象の確定のことだよ
「現在という事態」、つまり、「気がつくといつも現在である」ことぐらい
だれでも分かってるのじゃねーの?
わざわざそんなこと言いに来たのかね
意識がどうしてそのように世界と同調しているのか、は大問題だが
それを持続とか言うことで何か解決すると思ってるのかね? >>94
おかしいな?
光は秒速30万km。これは見えているのは過去と言ったいるのに等しい筈だが? >>96
ならないのだよ
なぜなら
光が秒速30万kmで未来からやってきたとしても
矛盾が生じないからだ >>97
だとしたら、みんな予知能力が無ければならない。
矛盾だね。 そもそも、「見えているのは過去」と言うためには
「現在に見えているのは過去である」ことを前提としなければならない
論点先取なのだよ
分かるかね? >>98
それもちがう
君は頭が悪いね
君の言うように見えているのが8分前の太陽だとしたときに
現在の太陽が今の我々に影響を与えないのと同じように
光が未来から来たとしても我々は、光が来た未来には影響を与えない >>100
頭が悪いのはキミだ。
タラレバをいくら検証しても何も判らないだろう。
時間の無駄だよ。 >>101
タラレバなど関係ない
論理的帰結なんだよ >>102
論理的帰結?それをタラレバと言うのだよ。
頭が悪いね。 上げていくか
誰か、>>100のトリックが分かった人おりますかね
誰かさんの結論は、「タラレバの時間の無駄」ということでしたが 光が未来から来るなら、未来と過去が逆になるけど、
宇宙はなにも変わらない
また、光だけが未来から来るということだったらまずい
普通、一回だけライトをつけて、鏡で反射させて戻ってくる光を観測したら、つけた後に光が観測されるはず
光が未来から来てるとして、光を観測したあと、ライトをつけるのをやめたら、どこから光が来たのかという話になる
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/ : : /:/ ': Nヘ,、-ァ , ≧=- 。
/ : : /!: ! ':ヽ、 イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
過去現在未来は、場所の区別ではない。
よくもまあ、未来から来るなんていうおとぎ話ができるものだ。 「未来から来る素粒子」なんて仮説は、、現代物理学では既に古典的な話ですよ
ファインマン図形とか知らんのか >>106
そうね
ライトを点けるとか、鏡で反射するというようなマクロな仕掛けを組み込むことで
因果的解釈を適用するステージを構築できる
そこからだよな おお、ほぼ無視という感じだな(苦笑
*****************************
哲学は科学に貢献しているか、と問われることがある
私は久しく「一切貢献していない」と思っていた
最近、「数学の現象学」を読んで、少し考えが変わった
哲学は諸学の自由な発展を「邪魔しない」、代わりにその基盤を人知れず支える
類否で話をすれば、たとえば(ニュートン)力学は微分積分によって構成されるのだが
微分積分学の基礎、つまり実数論を論理的に構成するのは数学の仕事となる
これと似ているかどうか、確信があるわけではないが、たとえば
実数論が理性と折り合いをつけるその可能性の構造を考えておく
そのような、理解の安心を提供する仕事、それは哲学に託される
そういうことなのかな、と システム論の河本英夫氏がフッサールを評して
「自ら何かを既に実行できてしまった人」だと言っていた
聞いた当時はよく意味が分からなかったのだが、ここにきてようやく少し分かったような気がする
フッサールはたしかにエポケーとか現象学的還元などという言葉を使って
自分の思考態度を説明しようとするが、しかしフッサール自身は、「世界」の対象の構造を
考えるときに、わざわざそんな方法を(意識的に)使ったわけではない
自分では当たり前にできることが、他の人にはできない
よって、「やり方」として定式化しようとして記述してみたが、やはりうまく伝わらない
結果、さらに詳細に記述しようとして、誰にもよく分からないような迷路を作ってしまった
ところがその後、「現象学」は、その定式化された「やり方」の方が独り歩きすることになり、
様々な場面で自由勝手に解釈され、使われることになる
そういうことらしいわ
道具は、いったん世に出てしまったら、それをどのように使うかについて
強制できるものではない・・・けどね いまさら基本的なことを言いますけど
<世界>が物質なりエネルギーの運動によって構成されているとしたら
<世界>に時間は成立しないのですよ(本当は「エネルギーの運動」なんて表現は論理矛盾ですけどね)
仮の処置として、つまり仮想的な思考実験として
その<世界>の外に『時間を認識する精神』が存在する状況を考えるとしましょう
ですから、この『精神』には「内的な時間意識」が現象している
その『精神』がこの<世界>を見たとき、1億年前の状態が1秒前よりも以前であることを示す観測内容は
この<世界>の側には、まったく無い、まったく無いのです
では1秒前とか1億年前とか、その意味はどこに存在しているのかといえば、
それがあるとするなら<世界>を俯瞰している「精神」の側にあるわけです
頭の悪い方もおられるようなので、念のために申し上げておきますが
私は<世界>の外に神の如き「精神」が実在する、などと言いたいわけではありません
そうではなく
時間が成立するためには、<世界>が何某かの運動でしかない、ようなことは
ありえない、ってことです
そこにまったく気が付かない人も多いですし、逆に
「人間がいなければ時間は存在しない」と極論に走る人も、まあ
たくさん世におられますけどね いつまで待っても、誰も何も言わないので、私が勝手にくっちゃべりますが>>105
〜宇宙を貫く現在はあるのか〜
オリオン座のベテルギウスは地球から642光年の距離にあると推定されています
少し前までは427光年と言われていたので、「本当の距離」は分からないのですが
まあ、仮に642光年が正しいとしておきましょう
ところで、このベテルギウスは近々、超新星爆発するかもしれないと言われています
いやいやしかし、今見えているのはベテルギウスの『過去の姿』なのだとしたら、本当は
今は既に爆発した後、つまり爆発したのは過去である、その可能性もある
しかしここで言う「過去」の意味とは何か、そして『本当は』とは、何が、本当は、なのか
今見えているのがベテルギウスの過去の姿だとしたとき、、ベテルギウスが既に超新星爆発しているかしていないか
それを今確認する手段はありません、ですから、まったく分かりません、分かりませんが
しかしどうすればそれが分かることになるのか
たとえばもし、今から642年後に地球で超新星爆発が観測されたとします、そのとき
「ああ、見えているのは今だけど、本当は642年前のあのとき爆発したのだなあ」と考えることが可能です
しかしどのように可能なのか
上で前提としてきた「素朴な自然主義的態度」によって、それは可能なわけです
ところが、地球に対して非常な高速で移動している天体からベテルギウスを観測したとき
観測技術が同じであっても、相対論的効果によって、爆発したのは300年前だと判断されてしまったとする
300年前は642年前から見れば『未来』ということになりますが、果たしてこの「未来」の意味は何なのか
結局、相対論的宇宙においては、宇宙を貫く現在には意味が無い
過去もなく未来もなく、「時間を包含するある種の空間」で話を進めてしまうからです
ただし、これが正しいこともまた、実証できません こういうスレ立てちゃうバカって相対性理論知らないだけだよなといつも思う さあな
しかし相対性理論を数式レベルでまともに理解してるやつは哲学板には一人もおらんな
俺もお前も含めて >>117
科学者も含めて、実は誰も理解していないとか
有り得る話し さあ・・・
相対性理論が世に出て既に100年以上が経つわけだが
その作られた当初はもちろんのこと、いまだに批判者は存在する、するが
しかし現代に於いて相対性理論を正面から否定したなら
彼らは例外なく、トンデモ、似非学者として処理されることになる
なぜならそれら批判者は、常識によって相対性理論を否定しようとするが
そもそも相対性理論は常識の正しさを前提としない
いかなる観測系から見ても光速度は不変である
それを公理(原理)として受け入れてしまうことから相対性理論は始まるわけだが
しかしそれを納得できない人間に対して、どのように納得するかについては科学は教えてくれない
それを考えるのは哲学の役目のはずで、いろいろ仕事はなされているとは思うが
一般に知られることは無いのだろうね、そもそもややこしいから 難しいんじゃなくて、とても簡単だからわからないんだろうな
あるいは大きすぎて目に入らない そんな風に考えたことは一度もないな
宇宙の全ては〇〇であるとか、自然とは△△だとか
そんなのは宗教の仕事だろ
ごめん俺は無理 アインシュタインによる相対性理論の第一論文は
岩波文庫で収録されているので、それを見てもらえれば分かるが
彼はそこで同時刻を『定義』している
それによればだ
空間の中の二つの点AとB
AとBそれぞれの地点に付随する『時計』には、それらが互いに一致していなければならない必然性はない
では、それら2つの時計を一致させるためにはどうすればよいのか
AからBに向けて光線を発射し、Bで反射されてAに戻る、とする
Aで発射されてBで反射されるまでの時間T1と
Bで反射されてAに到着するまでの時間T2について
T1=T2であることを『前提』とするなら、地点Bの時計をAの時計にを合わせることができる
なぜなら、Aで発射してから反射してAに戻るまでの時間(T1+T2)はAの時計によって計測可能だから
T1はそのちょうど半分として算出してしまいましょう、って話なのだ
(因果的解釈を適用するステージ>>111)
光速度不変の原理を前提とするなら、これは受け入れるしかない
受け入れないと矛盾してしまうから
しかしT1を直接に測る方法はない
なぜなら、そもそも時間を計測する手段であるはずの時計を合わせるためには
(T1+T2)を測定してそれの半分がT1であることを受け入れる必要があるから
しかしそうすると、光速度が不変なのは、そもそも光速度が不変となるように時間を決めているからなのだ
さあこれは果たしてトリックなのか() >>121
>宇宙の全ては〇〇であるとか、自然とは△△だとか
>そんなのは宗教の仕事だろ
根拠無き断定ですね
証明してください 「宇宙のすべては○○」であることに根拠でもあるのかね >>124
両方共に根拠は怪しい
つまり今のところは否定も肯定も決定不能
違う道行っても良いけど、否定もできないんじゃないかな >>126
言うのは自由だが、感情で言うのは如何なものか
子供みたい カッポレカッポレ甘茶でカッポレ、よーいとな、ヨイヨイ! 私を相手にしても貴方が傷つくだけだとい思います
その辺にしておきなさい >>130
キャー、沼さん格好良い、惚れるわー
>>132
何も言っていないよ、沼さん
>>131
言い過ぎ さて、泥仕合になってきたな
仲良く喧嘩してください
どっちも中身無しだから観客は面白くないから帰ります まず無能なのが>>123
そもそも証明すべきことか?
そして証明できたら真理だとでも思ってるのか?
その程度のおつむだからちょっと叩かれたらネチネチ粘着するしかねーのよ 次に無能なのが>>125
根拠の怪しい世界観を断定するのが宗教なのだから
「宇宙の全ては○○である」とは、宗教そのものなんだよ >>127
そのレスからは、おまえのいじけた感情が手にとるように分かるわ >>133
端的にしょーもない
煽るにしても、もうちょっとなんとかならねえもんかね 俺たちはこんな程度なんだろうなと思わせる罵倒合戦でした >>117
数式で理解できる範囲がまともなレベルと認識している内は哲学の理解には及ばない >>117
科学とは何か
理解とは
学問とは
誰かわかっているのかな 1秒も1日もどんな時間も自然には実在しない
時間で対象化した自然は自然自体ではなくたわめられた自然 タイトルが馬鹿
高さも幅も距離も速度もそれ自体がある訳ではない >>153
> 高さも幅も距離も速度もそれ自体がある訳ではない
対象の速度は四次元で測る
三次元もそれ自体はない
運動しない三次元は実在しない 運動している対象を次元で理解している
時間は実在しない 時間が実在したら無限の三次元、つまり静止している物理が実在することになる
1秒でも、どんなに短くても同じ
静止は光速度一定の原理で実在しないが証明されている 物理対象の大きさは三次元で
速度は運動を量で測るしかない
規則的運動している、例えば太陽などで測られてきた
時間自体は三次元同様に実在しない
あくまでも高さ、幅同様に抽象 次元は実在しないことを光速度一定の原理が証明した
時間は次元だ ニュートン、ポーの錯誤
有を無で理解するが、有は無で構成されていない
無限は有限で説明されるだけ 論理の知識にうぬぼれて論争したがる者がいるが、その慢心を断つためにヴァイダルヤを説こう。
by ナーガールジュナ それは自分がそう思っているから
貴方の理解は貴方のそういう側面の鏡
たんに理解したい人は居る
いろいろ居るってこと
当たり前の話 縦、横、高さは自然の対象物の抽象
縦だけ、横だけ、高さだけは存在しない
それらは対象の大きさを理解するための計り、つまり次元自体は抽象
では運動自体は存在するのか?
それも自然の運動する対象物の抽象で
自体は存在しない 991 ターキッシュバン(大阪府) [JP] 2020/07/16(木) 18:27:44.54 ID:iAK+ZQBR0
>>990
時間に関しては、無理っぽいな。
人類は周期運動なりをカウントする事でしか時間を測れない。
振り子時計なら振り子を、クオーツなら水晶に電圧をかけてパルスを、原子時計なら原子の振動数を
どれをとっても本質は同じ。地球が太陽の周りを一周すれば1年って事となんらアクションは変わらない。
時間のアプローチとして、別の方法を持たなきゃ無理 私たちは自然の対象を理解する場合、比較対照するために対象の大きさを縦、横、高さと分けて、次元という計りを作り出した
それ自体、つまり、縦、横、高さは、それぞれ独立して在るのではない
運動自体も同じこと
四次元は運動する自然の対象の抽象で
それ自体は存在しない >>166
人類は周期運動なりをカウントする事でしか時間を測れない。
運動自体もやはり他の次元同様に自然の対象から独立して在るのではない
やはり抽象としてであり運動だけとしては存在しない いま、という瞬間は面白い。
いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くに飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。
太宰治「女生徒」
つまり、運動は、ここ、と指示しても飛び去る
だから周期的運動する自然の対象の運動を量にして計りにする 四次元があったら無限のわたしが存在することにならないかな
一秒の中の無限のわたし・・・ >>166
三次元が抽象であるように
時間も運動の抽象だな
運動する自然の抽象が次元ということ 次元は対象である自然の抽象だな
測定することが要請する必然か 次元は発見されたのではない
必要、必然から発明された
時間もまた 認識に現象した自然を理解分類する
その観念としての道具
縦横高さは各々それ自体で物理として存在しない
これ縦、これ横とかはない
次元は物理対象を構成していない
次元で理解しているだけ
時間は物理の運動を理解するため
太宰治が書くように、運動は自体として捉えられないから必要なだけ 自然を理解するために次元が必要になった
次元は自然の抽象であり、それ自体としては存在しない
座標原点、一次元、二次元、三次元、四次元
座標原点→光速度一定の原理が存在否定
三次元→運動しない
四次元→諸物理存在の運動の抽象
時間自体は存在しない 滞独日記 朝永振一郎
物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な作りものだ。一度この作りものを通って、それからまた自然にもどるのが学問の本質そのものだろう。しかし、これでとらえられない面がものごとにあるに違いない。
活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。しかし絵かきはもっと他の方法で運動をあらわしている。
吾々は物ごとを有限の概念にかたづけてでなければ物が考えられないくせがついてしまった。しかしこれは何といっても無理にかたづけたものであるから、本のものそのものではない
。 〈今〉は運動しています。自然の存在形態は運動です。運動を前提に否定関係は導けません。
わたしたちは三次元で物理対象の大きさを測りますが三次元は運動しませんから自然には存在しません。三次元は物理存在の抽象です。
次元自体は零次元、つまり出発点は存在しませんし、四次元も出発点が存在しません。
このことは四次元もまた他次元同様に物理存在の抽象だということを示しています。 対象に自然、非自然という否定関係が存在したら自然科学は成立するかな
つまり自然は無限で終始は無い
次元は自然の抽象で理解に必要なだけで存在しない >時間は論理的象限であり物理現象ではない
時間は量子的現象であり相対的現象ではない
と
説明しているのとほぼ同じなことに気がつけば? 論理は物理と=じゃない
時間は物理と=じゃない
時間は現象と=じゃない われわれが「時間」と呼ぶような「現象」は「存在」する。 ただし、「現象」や「存在」には定義が必要だ。
定義によって異なる。
なんらかの「場」において「現象」することが「存在」であるとする。
「なんらかの場」によっては、現象できない。
「時間」が「現象」できる「場」を想定するならば、
そこに「時間」は「存在」する。
「論理的象限」とは、そのようなマッチポンプとか自作自演のようなもの。
などと考えてしまうと埒が明かないw
それに対しては「客観性」があればよい。
実験主義/実証主義/あるいは(抽象的形式による)証明主義?
新実在論の系統が「場の哲学」に達すれば、あるいは..
ま、いまのところ「哲学」と「量子論」は同じものであるw
「解釈」以上のものが得られていない。. ところで「チンポがシコシコする」という日本語表現は、学術的に正しいと言えるのか?
チンポ「を」シコシコするのではなくて、チンポ「が」シコシコする。この場合、「チンポ」は主語となる。
オブジェクト指向で言う「集約」は2種類あって、全体(俺)と部分(チンポ)が繋がっている場合と、
全体(俺)と部分(チンポ)が別々になっている場合とが考えられる。けれども「チンポ」はそれ自体
が独立した生き物であり、所有者の意思とは無関係に、自ら勃起して「シコシコする」。
例えば寝てる時にエロい夢みて朝起きてみたらチンコが勃起して射精してたとか。
違うか?
「胸がドキドキする」は良いが、「チンポがシコシコする」はダメな理由を、50字以内で述べろ! ビンビンや
ポルトガル語(ブラジル派)でちんこの意味です
分かりますか?
カステラじゃあありませんが
語源はちんこがビンビンなのではなくてビンビンがちんこ自身なのです こういうのだれも真面目に考えずに低脳が広めたちんこがビンビンだという言葉に洗脳され尽くして退化していくのが本当に朕は悲しい! >>188
君には相手が他にいる。
もう会っている筈だ。まだ間に合う。 いきなりではなく、物事には順序というものがある。一つ一つ絡まった糸を解いていく作業を忘れるな。 『シコシコ』という擬音はどうでもよい。問題は、
自我 チンポ
↑ ↑ チンポ=自我
チンポ 自我
オブジェクト指向では、この三種類が考えられるということだ。
>チンポ=自我
散歩している時、自分もチンポも所在地は同一である。
https://i.imgur.com/4XhBmP3.jpg
https://i.imgur.com/PPFJZqI.jpg
夏目くんの場合は、チンポが自我を圧倒し、体が自然に滝川さんの股間に近づいていったのだ。
『笑ってごまかすな!!』
と言われても、夏目くんは何と言えば良かったのだろう?
チンポ≫自我
『チンポが自我を超えてしまった』を簡略化して、チンポがシコシコする!
チンポがシコシコしていると(チンポが自我を超越していると)、息もハァハァになる。
チンポがシコシコしている(チンポが自我を超越している)と、顔もアヘ顔になる。
つまりその顔は『チンポの一部』つまりチンポの皮と同じということ。
博士号の肩書きがあっても、STAP細胞のそれは間違いであり科学者として失格。
チンポと自我の関係について、それが間違いということなら、俺も科学者を自称するのを止めよう。
しかしながらあの夏目くんは、笑ってごまかす以外に何と申し上げたら良かったのか。 オブジェクト同士は常に二人称で、「俺」←対話(メッセージング)→「チンポ」。
つまりチンポは独立し自ら考えて行動する別の生き物なのである。
この考え方に至ってからは、オブジェクト指向の理解もすんなり進みました。
上手くオブジェクトを定義して、上手く会話させてやるのがオブジェクト指向
での設計なんだなーと今でも思っています。
https://blog.mah-lab.com/2014/03/18/object-oriented/
チンコの随意筋と不随意筋
http://d.hatena.ne.jp/tottokotokoroten/20130516/1368716650
<俺>
「 部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃○した陰○を外から障子に突きたてた。障子は乾いた音をたてて破れ、
それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。 」
<チンポ>
「 その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた。彼は今、リングで感じるあのギラギラした、
抵抗される人間の喜びを味わったのだ。 」
まさに独立した人格を有したチンポという、もう一人の俺がそこに現れるのである!
【藤子・F・不二雄】「みきおとミキオ」現在と未来、憧れの入れ替わり生活!
https://www.google.com/amp/s/middle-edge.jp/articles/0izbO.amp 928 デフォルトの名無しさん 2018/11/21(水) 18:59:11.61 ID:8Yc2p7H1
>>922
>ナンチャッテメッセージングスタイルになったのは
チンポ.オシッコを出す
チンポ.オシッコを止める
さっきトイレでやってきた。
929 デフォルトの名無しさん 2018/11/21(水) 19:07:17.83 ID:8Yc2p7H1
>>915
>単なる動的なメソッド呼び出しをメッセージと称し、ただしコールするメソッドが見つからない場合だけメッセージを
>ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。
×
俺.オシッコを止める 俺.オシッコを出す
○
俺.チンポに力を入れる 俺.チンポから力を抜く かなり前に持論が根源から粉砕され発狂した数学科の院生が関係会議室、掲示板に数週間オマン○で埋めて投稿しなくなった奴がいたこと思い出した
虚しくなったからかな クリントン大統領だって、チンポが勝手に独立してシコシコしてしまったのだからな!
クリントンの「不適切な関係」
https://eigo-kobako.blog.so-net.ne.jp/2008-06-21
不適切な関係、そんな言語表現あるのか?
ちんぽがしこしこしてしまったのが、不適切な関係なのか? >>194 死体したい死体歯科医
やっかい死界歯科医歯科医歯科医 >>197
> 不適切な関係、そんな言語表現あるのか?
たしかに変な言い方だが、この事件のおかげですっかり定着して、今では普通に使われている 自我ーーーーーーーーーーーーー
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
ーーーーーーーーーーーーーーー
┃チンポ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄
チンポは自我の拡張クラスね! >>200
根本的に魂チン的に高いたかいなのですよ >>202
>デビルマン クライベイビーの世界へようこそ山根マン ストライクけいびーの世界へようこそ 222 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 07:57:38.45 ID:5TLO0S/L0
次元て物理存在の抽象だからなあ
0次元は存在しない
一次元、二次元、三次元
厚みが無いとかいろいろないし
三次元は運動しない
点の集合なら四次元は運動しない三次元が無限に存在するってことに
次元はないないづくし
抽象して次元を作るから次元自体は存在しない
四次元も例えば太陽が真上から次に真上に来たら一日にして、と時間を作る
時間自体は他次元同様存在しないってことじゃないかな 225 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:04:15.41 ID:5TLO0S/L0
物理としては
生まれる→物理状態の変化
死ぬ→物理状態の変化
物理としては何も生まれないし無くならない
ケーキみたいに物理状態が変化して行くがケーキが死ぬ生まれるって言わないし
人間も物理としては同様 224 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:00:37.26 ID:5TLO0S/L0
次元は物理存在の在り方の抽象で存在しないんじゃないかな
次元で対象を規定理解するが次元は対象の抽象
四次元も他次元同様 226 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:09:07.65 ID:5TLO0S/L0
四次元は存在しないが四次元で理解する
三次元は対象の大いさ
四次元は対象の運動量
理解や比較対照基準として、物理存在を抽象して存在しない次元を作る
座標原点て存在しないし
出発点が存在しないのにどうして他次元が存在するってことです 227 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:13:02.43 ID:5TLO0S/L0
自然には座標原点が存在しない
てことは終始が物理として存在しないってこと
存在したら光速度一定の原理の否定
最小単位説は怪しい
「ここ」からが無いから 228 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:15:45.68 ID:5TLO0S/L0
人間を含め物理存在は他の物理存在から生成され他の物理存在に生成する過程として在るだけ
現代科学の基本にわたしは懐疑的です 229 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:21:53.47 ID:5TLO0S/L0
ヘーゲル、太宰治は今と指示すると今は飛び去ると書いている
数学の0に限りなく近いが0ではないとか
直接捉えられないからそれで量で理解するために時間という次元になる
時間が存在するってのは疑問だ 230 いたやどかりちゃん(庭) [US] [sage] 2021/04/14(水) 08:26:16.19 ID:5TLO0S/L0
物理学の自然はたわめられた自然
ー 朝永振一郎
運動する自然を静止で規定するから 次元
一ではあるが差異としてある自然が認識の在り方で多として現象する物理存在の抽象
とりあえず >>214
過ぎ去ったが在る?
未だ来たらざるが在る?
わからん >>215
「存在」の捉え方次第でしょ
貴方は「ここに現象しているこれ」だけが存在だと思っているのでは?
それとももっと素朴に、無時制的な運動とかエネルギーが存在だと信じているの?
そう思わない人もいるわけです >>216
?
今あるものしかないんじゃないかな
今しかないし 素朴、単純が素朴単純に否定の根拠に
自己言及するといろいろ面白い 今生きている人にとって今しかないのは当たり前なんですよ
貴方に現象しているものだけが、貴方にとっての存在
そう信じる自由はありますよ
それでは不満ですか 時間の量が変化によってしか捉えられないために
時間とは変化とか運動から人間が抽出した人工的概念だ、
と、頭の悪い人は考えてしまうようですが
「運動」という概念には既に時間概念が侵食しており、
時間を「今という運動」に還元することなどできないのです
分かる必要はありませんし
拒否するのは貴方の自由です 今のスナップショットだけじゃ物理学でいう未来は決まらないからね
速度あるいは運動量も必要
速度は時間と位置から組み立てられる概念で、(位置は実在のものとすれば)時間か速度のどちらかが実在であれば十分
論理的には時間か速度のどっちが実在でもいいね
時間と空間は共に速度の関数とみなす相対論が(量子論以外と)上手く行ってるのを考え合わせると、速度の方が実在と考えたくなる あ、時間無くして速度無しという考え方に対する反論です 時間なしに速度があるような世界があっても、別に良いのだよ
だけどそれは、この世界を構成しない
君の言うように、位置と速度を無時制的な実在として設定したとき
位置と速度を適当に演算した結果を「時間」と呼ぶことは可能かもしれないが
しかし時間の本質は構成できないので、恐らく時間の意味を持つことはない
なぜなら、時間の本質は常に、「先と後」という内容を含むものであって
それは速度と位置からは構成できないからだ
実際、質点の速度ベクトルを逆にしても時間の先後は逆にならない
『速度と位置だけの世界には、時間が存在しない』
この意味が分からない人は、存外に多いようだ
当たり前のように時間のある世界の中で生きているからだろう
分かりやすくなるかどうか分からんが、別の譬え話で説明してみれば
ある人が、生まれたときから特別な部屋の中に閉じ込められている
この部屋の中には一切の電気が無い、静電気もない、電池も無い
しかし部屋には電流計の画面があって、その配線が部屋の外と繋がっている
電流計の数値は部屋の外のある装置を流れる電流値を示すが、部屋の中の人も
その数値のことを「電流値」と呼んでいる
この部屋の中の人は電流の意味を知っていることになるのだろうか 時間があるから、運動がある
運動があるから、時間がある
この2つは表裏一体の関係 このスレも安西大樹氏の影響下にあるスレッドなのか。
君は黙って短歌だけを読んでおいてくれると、助かると言ってしまえばご迷惑でしょうか。
君の哲学は難し過ぎて理解に苦しむのだよ。 自然は<一>
静止は否定されているから
自然という運動する対象を否定、つまり静止で規定する
認識は自然をそのまま反映しない
<一>である自然は<多>として現象する
現象した物理の在り方をその抽象である次元で規定する
次元は物理存在に伴う
つまり次元自体は自体として存在しない
運動の否定である三次元は自然に存在しない
四次元は直接には理解出来ない運動を量で認識するってことです
運動は物理に伴い切り離せない
四次元は独自に自然には存在しない 物理の在り方を抽象したのが次元
次元自体は自然に存在しない
自然は<一>
運動するエネルギーの濃淡でしかない
静止が認識を媒介にして現象した運動の在り方であるように、粒子は波が渦の状態を呈し認識を媒介に現象したのであり否定関係は存在しない 科学史は否定関係は存在しないことを示す
光速度一定の原理は自然が無矛盾であり、規定は否定であることを示す
つまり規定、理解することが問題なわけです
否定は否定される 対象ー認識主体
科学の場合
天体ー地球
地球も運動している 天体の一部
進化論
諸生物ー人間
人間は生物の一部
光速度一定の原理
自然ー認識
認識の自然存在の否定
認識主体は自然の一部
認識主体は対象の一部
つまり無矛盾 存在するものが存在せず
存在しないものが存在する
これが科学が示したこと 物理対象を規定して理解する
規定は否定
規定の存在を否定して無矛盾、つまり理解可能であることとなる
自然という対象に規定、理解は無い
有を無で規定する
有=自然に無=規定は無い
有に無は存在しない、つまり無矛盾であると判る
有を無で規定する
対象をその否定で規定する
そして自己言及
つまり決定不能
自然に存在理由は存在せずただ在る
無矛盾、可知であるが故に不可知です
自然は判らないということが判る
判るが故に判らない
決定不能 再論
科学は自然には否定関係は存在しないこと、つまり無矛盾だと明らかにしていく過程だと理解している
地動説ー進化論ー光速度一定の原理
ウイルスは規定するから鵺的な存在になる
生物ー非生物は物理状態として否定関係ではなく差異
わたしたちは差異を否定で規定する
静止は運動が認識を媒介した運動の在り方
生死は物理状態の差異
終始は座標原点が否定されている
<ここ>からも<ここ>までも存在しない
粒子は<ここ>から<ここ>までが存在すると理解すること
科学は否定している座標原点存在の理解です
自然に否定関係が存在したら無矛盾たりえない
粒子は認識を媒介した波、つまり渦ではないかと
規定するから否定関係が生じる
規定は否定だから >>239
だから量で理解する
限りなく0に近いが0ではない
<今>と指示すると<今>は飛び去る
<今>の正体は運動 座標原点、0次元は否定されている
静止で規定するが静止は存在しない
運動が自然の存在形態
→自然は運動するエネルギーの濃淡の海
<ここ>からは存在しない
粒子は波が渦の状態
静止は認識の在り方に現象した運動
粒子もまた
自然は海で<一>
物理存在は認識の在り方で<多>として現象する その<多>として現象する物理存在の抽象が次元
運動しない三次元が存在したら無限の三次元が存在して四次元になる?
四次元は定期的に運動する物理存在、例えば太陽がここからことまで運動したら一日、つまり他次元同様に物理存在の抽象で物理存在に伴い四次元自体は存在しない わたしたちが言う自然は認識の在り方に現象した自然
だから認識自体も考察すべき 静止は認識に現象した運動の一形態
人間、金属、空間もエネルギーの差異の状態で否定関係ではない
地動説、進化論は特別な存在を否定する
光速度一定の原理は自然の存在形態が運動であること
つまり自然は無矛盾であることを示す
自然は理解可能ってことです 光速度一定の原理は静止は存在しないが静止で規定することを示す
つまり論理の在り方の自己言及です
地動説、進化論は認識主体は人間対象の一部ということを示す
つまり認識とは何かを考察する必要がある 運動という有を静止という無で規定する
→不確定性原理
0に限りなく近いが0ではない
→近似値、つまり測定は=ではないことになる
認識する自然は=、そしてままの自然ではない
認識の在り方に現象する自然 次元の一つである時間は物理存在の抽象で物理存在を=で理解できないから必要なだけ
次元は自然に存在しない 確かに時間は人間の心、観念の中にしか存在しない
>>234に同意 >>251
その定義は成立してないこと分かってる? 自然が無矛盾ということは否定である規定が存在しないことです
否定は否定される
最終方程式はどうなんでしょう 次元は<一>である自然が認識を媒介にして<多>として現象する物理存在の抽象
時間もまた
四次元は存在しない >>253
運動を静止で規定して自己言及
→決定不能
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定して自己言及すると決定不能に 「時間」と言った瞬間にその観測者が出現してしまうわけで
自然からしたら預かり知らぬもので何それみたいなもの >>263
そんなの時間に限らず何だってそうじゃん みんな死んでいるのだ。今体感しているのは仮想現実である。DVD再生しているようなものなのだ。周りの空間も宇宙も破滅しているのだ。本当は虚無空間であって0の世界なのだ。次元でいえば1次元、点の次元なのだ。したがって近所のスーパーに行くのも遠い惑星に旅をするのも同じなのだ。目の見えない人が家にいるのも海外旅行するのと同じ一次元なのだ。思考だけが存在する仮想現実である。
俺は皆は馬鹿にするけど偉大な天才アーティストで哲学者なのだ。皆は我の存在に気づくだろう。 現実が仮想←背理じゃないかな
現実は非現実と言っているのかな?
>>267 時間は“相対的であること”の「相対性そのもの」のことですよ >>273
時間が絶対的だと何かまずいことでもあるの? >>274
アインシュタイン以降の物理学
が雑魚になり
スマホもGPSも成立しなくなる 生成の理解の深化が重要だと気がついた
地球平面説もある範囲で正しく
球体説もまた同様だと
ヒントは地動説と天動説の理解
現代科学はまだ本質的に天動説の団塊を脱していない F.ブラウンの怪しい聾唖の話は感覚の対象像生成についてヒントになった カントが空しい神の証明のうち私達の悟性が絶対的な必然性に対して何らかな見いだすのに不適格であることを示しています 知性とは知れば知るほど無知であることを思い知ることです。 球体説って地動説ではあるんだよな
天動説?プゲラ、太陽中心なんだわ
→その後どこにも中心は無いとわかる
地動説も太陽が中心と理解したら理解したら天動説の亜種
球体説は認識に現象する自然イコール自然という理解では平面説の亜種ではないかと
ミクロとマクロは違うのか?
同じ自然です
同一の自然がある物理条件にこう生成するってだけ
その物理条件の一つが認識です
物理条件は複層として在る
波はある条件で渦となったりする
それを視覚は粒子、波として認識する
自然は無矛盾です
無、つまり無いものは無い
濃淡ですが有だけです
濃淡を否定関係で規定する
平面はもちろん球体、いや形自体が自然には存在しません
対象に宇宙非宇宙は存在しない、エネルギー保存則、光速度一定の原理は自然理解の枠、導きの糸です
面白い指摘です
117 ディオネ(千葉県) [CN] [sage] 2021/12/13(月) 06:54:46.31 ID:IozHxL7v0
ビックバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビックバンが起きたりしないのかな? 未来、過去は現在には無い
現在には幅が無い
規定は否定
現在、現に在るも、また無で規定する >>299
回答済ということなのでどこで回答してるのかを提示してくれてばいいだけなんだけど 現在の幅か。
まぁ、幅が無ければ過去や未来と分割出来ないよな。
そもそも論理的に無は実在し得ないから、幅が無い訳がないw。 過去、未来は現在には無い
9時という現在に8時59分59秒はない
9時1秒もない
在るのは9時だけ
9時に幅があれば過去、未来が在ることに
9時には幅が無い >>304
それが適当な前提であれば時間には幅があるということになるけど うんじゃ規定について考えてみましょう
つまり導きの糸です
光速度一定の原理は座標原点、つまり静止の存在を否定します
自然の存在形態は運動です
科学は座標原点を適宜に設定して理解します
運動を静止という否定で理解します
わたしは貴方でも植物でも金属でもありませんが、物理としては差異であり否定関係ではありません
同一を非同一で規定します
わたしは常に運動変化しますが同一で規定します
非同一を同一で規定します
ちなみにウイルスは生物非生物と分類困難ですが、生物非生物という否定関係は分類するからで、物理としては差異でしかありません
わたしという表現は対象−認識−表現という構造です
客体と主体は否定関係です
地図を描く場合には観念として主体は空中にあり、物理としては存在しません
わたしという表現は物理としてのわたしは対象、つまり他者です
観念としての存在が主体、つまり他者です
わたしという表現、規定もまた否定です
スピノザが語るように規定は否定です 座標原点は静止で運動を規定するということです
つまり有を無で規定するということです
0に限りなく近いが0では無いという規定は正当です
また運動を静止で規定しますからこその不確定性原理であり測定は近似値が必至であり必然です
用事ができましたのでまた 光速度一定の原理は静止は存在しないことを示す
全ては運動しなければならない
これが大原則
規定は、絶対座標は存在しないことを示す
詳論はまた あなたがそう思いたいだけの原則とか規定じゃないなら
どうやって示してるのかをまず開示してもらわないと。
ここは物理学板じゃなくて哲学いたなのですよ 問題意識が違うのかな
人間とは?ってことが判りたい
自然とは、学問、論理とはを通して考えたいんです
時間理解もまたわたしには重要です
わたしの投稿を無視しても構いませんが投稿は続けますので悪しからず 続けるのは構わないけれど
あっちこっちに同じことを書き散らかさないで
このスレに籠って投稿してください >>308
相対的に同じ運動してたら互いに静止してるんじゃないの ボールを上に投げる
頂点に達し静止して見えるが地球は運動している
静止は運動の均衡状態、つまり一形態
運動は自然の存在形態 「進化は万能である」を読んでいると自然の自己展開なんだと理解できる
自然しか存在しないのだから創造説はありえない
理解の導きの糸を、学問の成立根拠を探りたい
そして生きるとはということを理解したい
バッハの生涯はいろいろな面で古典的で羨ましいし、またマタイ受難曲はバッハが苦手な人も惹きつける
しかしキリスト教の出自はかなりいかがわしく、またマタイ福音書自体が誤魔化しの文書でしかない
マタイ自体は思想として評価される
ゲーテは人はまがいものほど熱狂するというようなことを述べていたそうだ
文化もまたその前提は虚構ではないのか
ある前提を設定する
その中では絶対だが相対でしか無い
諸宗教は互いが絶対を主張するから衝突するが、このことは宗教ばかりではない
人は概して相対が絶対だという理解に耐えられない
絶対という確信が欲しい
一神教はそういうことかと 二十代前半に新約聖書学の結論に、信者ではないわたしはしばし呆然となったことをまだ覚えている
少し前にマルクス主義は政治思想として成立しないことをマルクス主義者が示したことにも愕然とした
数学の結論である不完全性定理もまたヒルベルトに衝撃を与える
二十年ほど前に宇宙論学者の方が人間がどこから来てどこに行くのかを知りたいと語っていたのを見たことがある
たぶん諸学問同様に呆然とするんだろうなと予想した
時間理解はあくまでも一つの道標
自然は運動するエネルギーの濃淡でその反発親和の過程で認識に様々な物理状態として展開する
次元は一である自然が多として認識に現象するその抽象
運動は物理存在の在り方で切り離せない
次元はその物理存在を理解するための自然の抽象であり時間もまた自然には存在しない
自然はパルメニデスが理解するように一であり、光速度一定の原理はその理解を裏付ける
運動自体もまた自然の抽象であり運動だけでは存在しない
時間は運動を静止で理解するしかない
運動、今は直接捉えられないから量で理解するしかない
だから四次元が必要になる
時間は存在しない 運動は静止で
同一は非同一で
非同一は同一でそれぞれ規定する
生物非生物は物理状態の差異であり否定関係ではないが否定で理解する
科学は否定で理解していることを実は否定関係ではないことを示してきた
地球は諸天体の仲間、人間は諸生物の仲間
自然の存在形態は運動であり、運動するエネルギーの濃淡であり否定関係は存在しないのだと
光速度一定の原理はソのことを絶対座標が存在しないということを示し、存在しない絶対座標りで理解することを示す
有を無で規定する
規定は本質として否定です >>310
ここはそもそも誰でも自由に使える掲示板なのだから、構いませんよ。
人間とは?ってことが判りたいなら、尚更あなた自身が示せる
理論が必要になると思います。 >>319
有を無で規定するというけどその無は有るの? 否定や肯定は恣意にすぎないんだよね、有は無いと主張しただけでは論理的にも物理的にも根拠にならない、現実に有るなにものも無で否定もきていもできない。 無について簡単に
光速度一定の原理は静止が存在しないことを示します
運動が自然の存在形態ということになります
自然は運動するエネルギーの濃淡です
しかし認識には静止は存在します
わたしたちは対象を認識して表現したり理解するわけです
ここで人間は対象をそのまま理解するわけではないことが示されます
光速度一定の原理は静止で運動を理解するが静止は存在しないことを示します
運動を静止という否定で規定するということです
対象を存在という前提で規定しますが、その形態は運動ということになります
ですから静止は物理としては無であり、対象は物理としてしかありません
静止、無は自然には存在しません
存在しないもので存在を規定するということです
わたしという表現は自己言及です
地図を描く場合に観念の中で空中から町や地球、銀河系まで描けます
わたしという物理としての存在を他者として認識しますが観念の認識主体が自己です
科学は自然の一部の人間の認識活動ですから、当然自己言及ということです
自己言及も規定で、自己を他者という否定で規定するのです
規定の本質は否定ですから、様々な問題が出来します
ゼノン、カント、ヘーゲル、観測問題、不確定性原理、不完全性定理など
ウイルスの分類困難さは規定するからです
規定することがこれらの問題の原因なのです とりあえず、光の速度が
不変であることを示す
光速度不変の原理と、
運動が自然の存在形態を
繋げていますが、
この因果関係が明らかな
説が無い問題が。 なんか数年ぶりのパソコンなんで
絶対座標は静止ですから、それが存在し無ければ
自然の存在形態は運動であり・・・ >>329
光速度不変の原理と
運動が自然の存在形態に
なんの因果関係があるのか
聞くという意図です。 >>330
?
ですから光速度一定の原理は自然に於ける絶対座標の存在を否定していますから >>331
光の速度が不変だと何故自然の絶対座標の存在が否定されるのでしょう? >>332
絶対座標を求めて実験したら光速度は一定でしたということです
調べたらわかりますが >>333
絶対座標を求めて実験したら光速度は一定だとわかっただけですよ。
静止が存在しないことの証明になりませんけど。 >>334
絶対座標が存在しないということは静止が存在しないということです
この理解で理系に批判されたことはありませんが 理系では光速度不変の原理は
絶対座標が存在せず
静止が存在しないと
教えているのでしようか?
それとも、ただ理系が
あなたの理解を批判する
必要が特にないという事でなのでしょうか? >>336
わたしに対し否定的な理系の人もその理解を否定しなかった
少し驚いています あなたの理解が理系の
学問にとって影響がなく、
あえて批判、否定するべき
理由がないだけのこと
だと思いますよ。 思います 笑
否定したいだけでしょう
わたしの理解にかなり否定する向きも、否定は出来なかったので
また支持する人はいるわけで
その理解だけ否定したらわたしの理解は崩壊しますから >>344
訂正
> わたしの理解にかなり否定する向きも、(わたしの光速度一定の原理の)否定は出来なかったので
> また支持する人はいるわけで
>
> その理解だけ否定できたらわたしの理解は崩壊しますから
感想は要りません
否定したかったら論理で否定してくれないと
今も理系とある定説理解で議論していますがそこも当然対象になり否定できた人はいません 因果関係がない話しなので、信じるか信じないかしかないですが、325の話しは、支離滅裂でわかりません、何かを否定したいのか?なにかを認めてほしいのか?無理でした、なので否定してほしいようですが、多分誰もしないと思います。 理系では焦点でしたが
思うのは止められませんし w 何故否定も肯定もされないのか?理論がないから。
論理の対象外文系も理系もお手あげ。 その理解の仕方になにか哲学的、物理的発見なら、なぜ論文とか、出版物にして世に出さないの?5ちゃんに書き込んでも埋もれていくから、勿体ないことなのかもしれないし。 >>343
あなたの理解の仕方で、知るべきなにか可能性があるってことかもしれない。
どんな焦点が、注目を集めたんですか? 光速度一定の原理は科学が自然が無矛盾ということを示したと理解しています
そして絶対座標が否定されるということは、存在しない静止で運動を規定するのだと考えます
ゼノン、パルメニデス、ヘラクレイトスは正しいのだと
二律背反、ヘーゲルの運動規定が解決する
スビノザの規定の理解は正しいのです
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定すると決定不能になることを示します
光速度一定の原理は運動を静止、つまり対象を否定で規定していることを示します
不完全性定理は必然です
また観測問題は粒子は波が渦の状態とする古代ギリシャ、近年の英国科学者、現代のブリゴジン学派の理解を裏付けます
不確定性原理は有を無で規定しますから、近似値が必至だということです
自然は運動するエネルギーの濃淡で親和反発で生成する過程であり、わたしたちもまたそうです
つまり進化論しかありえません
否定関係は自然には存在しないのです
つまり無矛盾です
いろいろ読んでいるうちに解らないことばかりになり混乱したのですが、光速度一定の原理はそれらを解決する導きの糸だとわたしは理解しています 理系に抵抗があるのはビッグバン仮説が否定されること
次元の存在が否定されることなどです
ビッグバン仮説は宇宙背景放射には天文学者が疑義を呈した論文をだし、スムート博士は否定できないとコメントしました
つまり証拠は無いのです
この仮説は対象に宇宙、非宇宙という否定関係が存在することを仮定しています
またエネルギー保存則、絶対座標の存在を主張するわけで科学の否定です
生死は物理としては存在しません
生まれる 物理状態の変化です
死ぬことも同様です
というか静止であることはなく常に運動変化していて同一であることは無いのです
また無限を有限で理解しています
わたしの光速度一定の原理の理解が否定されたら、この理解もまた否定されます 「ビッグバンはなかった」でアルヴェーンはビッグバン仮説を追いかけている科学者たちに注意喚起することははなはだ困難で行きつくところまで行かないと難しいというようなことを書いています
近年科学革命が必要な段階と考えている科学者は散見します
ハイゼンベルク、武谷三男氏らは半世紀ほど前に現代科学の傾向に疑問を呈しています
時間は存在しないとする科学者たちは出てきていますが前世紀末にドイツの科学者がその可能性を示唆しているのがわたしが知る一番古いものです
科学啓蒙番組、科学雑誌でも特集されたりしています
また重力も否定している科学者が出演しています
科学革命はあるのだとわたしは考えています
自然は一であり、それを多で理解するから様々な問題が出てくるわけです
理解すること自身が問題を出現させるのだと
光速度一定の原理は座標原点で対象を理解してその存在を否定する
この原理は自然とそれを理解することの根源を示しているという理解です その理解を数学的に法則性を証明できないのがおしい。 >>349
「ビッグバンはなかった」はラーナーが書いています
「ビッグパン危うし」はボスロウ
近藤さんも講談社で否定的な本を出しています
またあることで信じていたビッグバン仮説に疑問をもち調べたら 否定的になったという理系の方がいました 次元は認識に現象する物理状態の抽象です
時間もまたその抽象ですから自然には存在しません
静止で理解しますが、自然には存在しません
自然はただただ運動変化しているだけです 0に限りなく近いが0ではないという数学の奇妙な規定も、有を無で規定するという観点からは理解可能です
因みにこの指摘はわたしが規定は否定ということを示す過程である方が指摘されて、自分が解決の鍵を持っているのに先を越され臍を噛みました 所論を訂正します
光速度一定の原理がわたしの理解の前提ですから、数式で示されています
数式は座標原点が前提でありその存在を否定しています 地球平面説とその否定の球体説を読んでいたら
次元は認識に現象する自然の抽象であるということに気が付きました
一歩深める理解ができました
やはりいろいろ触発されないと進展しないです
かなり前に解決したと考えていたことが浅かったことがわかったりします
自然は一で、規定は多でありその否定です
一が多となり、多が一となり、という中国?の思想家の言葉を思い出します
いずれにしても若い時からの未解決問題は基本的に納得できる形で解決しました
夕べに死すとも可なりの心境です 科学は自然〈認識〉です
認識の在り方に現象する自然ということです
静止は存在しませんが認識には現象します
つまり認識の在り方に媒介されて自然を理解するわけです
自然認識を展開する過程で、認識が否定されるわけです
認識論は必須です わたしは科学の枠組みを理解設定したかった
具体的には「進化は万能である」の著者の理解がいろいろ参考になりそうです
またタレブの諸著作も刺激的です
お薦めします
わたしの立論は三浦つとむの認識論、「新哲学入門」の板倉さん、「ゼノン4つの逆理」の山川さんを参照しました
唯物論者ですが、マルキストではありません
人生は不可解と藤村保は自殺しましたが、わたしは不可解と可解しましたので多分自殺はしません w 要点は絶対座標の存在の有無です
存在を主張するとしたら( ^ω^)・・・ 絶対座標は自然に存在するけど
主張するにしても5ちゃんは無いな 絶対座標否定が科学の成果だからなあ
存在証明したらスターだわな w 科学はもっと現実的な成功を収めているし、絶対座標の否定は物理学的原則でしかない 対象は矛盾したら理解できない
宇宙非宇宙ってことがあったら w
光速度一定の原理は規定は非在つてことを示す
有を無で規定するということ
ある意味物理としての存在がαであれω
人間という物理状態が生成されて認識は対象化され文化として継承される
そして人類が滅びたら対象化された認識はボイジャーとかに載せられて異星人が回収して・・・なんてたことがあっても回収して解明しなければ消えてしまう
認識自体は物理存在ではない
時間は認識の現象した物理存在の抽象で、認識媒介であり物理として存在はしない わたしという表現がある
表現の構造は対象ー認識ー表現
客体ー主体ー表現としても良い
わたしという表現は客体と主体が同一
三浦つとむは観念的な自己分裂という現象でこの主体と客体が同一ということを解決している
地図を描く場合に空中から町を認識するし、これで地球や銀河系も描ける
また古今東西に行き来したり、小説やドラマの主人公になったりする
子供がヒーローになったつもりの行動とかも観念的な自己分裂という能力
わたしという表現は物理として、つまり対象としては他者で観念、つまり主体は物理として存在しない
それで自己言及が可能になる
観念はあくまでも物理状態の付随
薬で意識は変容するし炎天下で脳がおかしくなったりするのはそのことを示す
肉体が無くなったら意識もまた無くなる 対象は物理としてしか存在しない
光速度一定の原理はそのことを示す
有を無で規定するから様々な理解困難な事象が出てくる
規定すること自体が原因
ピタゴラス、ゼノン、パルメニデス、スピノザ、カント、ヘーゲル
観測問題、不確定性原理
クレタ人の逆説、不完全性定理
光速度一定の原理からこのことはすべて解決ないしは解決の鍵を提供している 絶対と相対は相反するものではないぞ
何かが絶対的に存在しているならば、絶対に対して相対的に存在しているのだ
その絶対も絶対に対して相対的に等しいにすきない
相対⊃絶対 相対が絶対ってこと
相対って認識の問題
認識が絡むからな
なんかいろいろ前提が違うのかな
小休止 相対というのは認識するからです
人間、つまり対象を認識、規定するから生ずるわけです
自然自体に相対が存在するわけではない 無限遠を基準に取るとか普通にやるだろ
その無限遠は誰も認識できないけど かなり前に、ボールを上に投げればボールは静止するから静止は実在すると主張した人を思い出した
認識に現象する静止は運動の均衡状態で( ^ω^)・・・
うーん、認識する立場が相対をもたらすのであり、相対自体は自然には無いんだが >>355
数式も物理学的原則に従って要請された形式論理に過ぎず物理学的認識に依拠した学問の狭い確信ですが、きりがないので、その理解で満足出来たなら、良かったですね、おめでとうございます。 互いの道を行くってことで
光速度一定の原理は自然と論理理解の根源だというのがわたしの解釈です
健闘を祈ります >>375
私はなにか主張出来るほどの持論はないです、健闘祈ってくれたのにすいません。 判りたい問題があり、あちこち当たれば意外と道は拓けるかもしれませんし
やることなかったら酔いつぶれた人生になったかも
近所にそんな人が居て病院→老人ホーム
でも地球も亡くなるからどんな人生もある意味では等価に思えます
自分で満足してりゃ妄想でも幸せですから 科学は自然認識だから、認識の在り方もまた検討する必要がある
光速度一定の原理は自然が無矛盾であり認識の媒介である次元は存在していないことを示す
次元は認識に現象する物理状態の抽象であり存在しない
四次元、時間もまた物理に伴う運動を抽象したもので時間自体は存在しない
現在は運動そのものだが、有は無で規定するから、運動量にして理解するしかない
あくまでも認識するための観念としての存在
目の前の物理状態は認識に現象する自然
次元は物理状態の在り方の抽象でありそれで物理状態を理解する カントの二律背反は終始が存在しない自然をその否定である終始で否定するということ
ヘーゲルの運動定義は対象をその否定で規定すること
ゼノン、パルメニデスはその指摘の端緒
観測問題、不確定性原理、不完全性定理もまた否定で規定するから
万物は流転するというヘラクレイトス
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定するから決定不能になるということ
スピノザの規定は否定という理解は正しい
古代ギリシャは健康な子供という評に同意する
古代ギリシャは偉大だと思っている
対象をその否定で理解する
つまり観念は対象には存在しない
存在は非存在で規定される
物理学、つまり科学認識の中の物理学はたわめられた自然 朝永博士
真理は単純そのもの 言語学者三浦つとむ
という結論でわたしは納得しています 静止は認識に現象するが存在しない
真空はエネルギーの基底状態で存在するが現象しない
次元は認識に現象する物理状態の抽象で存在しない ビッグバン仮説は科学の否定でしかない
科学者は哲学を蔑ろにするが、その実最悪の哲学に囚われているという思想家の言葉を思い出すが真理ではないかと 光速度一定の原理はαでありωというのがわたしの理解
自然と科学認識の本質を示している ゼノンは無限に手を出すなと言っているとか
自然は無矛盾で理解可能であるがゆえに決定不能なのだとわたしは理解する
ビッグバン仮説支持の科学者が自然が無限なんて考えたくもないと語っている
しかし理解可能ならば、無矛盾ならばそうでなければならない ビッグバンとかインフレーションとか、別にそんなに信じられてる仮説ではないぞ、百家争鳴
創世なんてセンセーショナルな話題だからやたら取り上げられるけど
とにかく宇宙には始まりがあって、それは何年前のことか?という問いに対して複数の証拠から一致した年齢が出てくる、という程には確実
それ以上のことは疑うべし ビッグバン理論とインフレーション理論ってそもそも真っ向から対立してるしな
果には同義語みたいに使う人までいる始末だし 大構造問題あるし
宇宙背景放射で確定
→違うんじゃない?っていう天文学者の論文
→スムート博士否定できないとコメント
→証拠無し
時間存在否定の科学者たちの登場
まだまだわからない 自然が無矛盾であり規定が否定なら科学や論理の基本の枠が出来るとわたしは主張する
様々な未解決問題もまた解決可能だと そんな微弱で解釈の危うい痕跡に頼るのは時代遅れ感が、半世紀以上前からやってどんだけ進んだよ?
俺は宇宙の年齢に関しては、もっと地に足の付いた放射化学による宇宙史に信頼を置いてる
手に取れる試料で元素の寿命は正確に決められる、その現実感を伴った確かに信頼を置いてる
太陽は三代目の50億年才弱の星であることに組成から疑いは無いし、二代目はありふれてるし、試算に迫る100億年以上を生きた1代目の星だって見付かってきているわけで
発見に勝るものはない
まあ元素が生じる以前の事はわからないがな
幸運にも分かってしまったりすると嬉しいんだが、核子以下の概念に基づいた思索は不毛に思う
今の素論、特にクォークに関わる部分はそれを単独で取り出す事は出来ない存在だと要請することで、その実在性を問う必要性を切り離し、自由に合理的な説明を探すことを可能にしている
実在性を問うことより、説明が先走り過ぎている
実験もその方向に向かっていない、大型予算付いたものでさえ、理論を裏付ける事を堂々と計画に掲げているのが目につく
他分野でそんな(本心を)公言しちゃったら科研費通らんぞ…
古代の元素説が思い起こされる、もちろん理論は道標として必要だが、実在性を問わず魔術に傾倒した錬金術が、化学を千年停滞させた事を忘れるな 酸素を発見した科学者はそれがフロギストン学説の否定だと終生わからなかった
天動説は典型
発見しても・・・ 火星に運河発見したり
十の証拠からは十の理論がってチェスタトンは言うが一つの発見から幾つの解釈があるか
地球平面説、球体説
形は無いとする説まであったりするが根拠は有ったりする w ノーベルラッシュでチラ見したけど素論って泥臭いよな
理想の素粒子の関係を表す魔法陣を描いては、その理想が全然直交してないもんだからCKMだかPMNS行列だとかでひたすらその混合割合パラメータの帳尻合わせ
こんなものが本当に自然の姿なのか?どっか初歩的なとこでボタン掛け違えてんじゃないか? そういうのを生理的に受け付けられない人が、我々の物理世界は俺の思い描く完璧な世界をこんな曲面でスライスした断面であることを発見した!
とか言い出すのが定期
なおその曲面は辻褄が合うように恣意的に引かれます まだまだの学問てことは確かだから
をふさ可能性を塞ぐことはないかと この半世紀を概観しても混乱状態ってことは判るし
私の理解が唯一だ!っていうのはなあ
ニュートンやコペルニクスが出てくるまで楽しみたい 哲学、科学の基本が理解できりゃ良い
パルメニデスとヘラクレイトス、スビノザでオッケイ
極めて単純
極めて豊穣
タゴールの詩の体現です 光速度一定の原理はこの三人の理解を裏付けていると思っています 科学の歴史は多と認識している自然が一に収斂していく過程に映る
地球は諸天体とは否定関係ではなく差異
諸動物と人間も否定関係ではない
ウイルスは生物非生物という分類が物理状態の差異を否定でということ
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止が存在しない、つまり運動が自然の存在形態であることを示す
ならば自然は運動するエネルギーの濃淡
ここからここまでは存在しない→粒子は波の一形態
また座標原点で規定するが存在しないことを示す
運動を静止で規定するから、0に限りなく近いが0ではない、測定が近似値というのは必然となる
次元は存在しないからエネルギー保存則は成立する
自然以外どこにも行きようがない
また物理として生死は存在しない
規定するから様々な問題が出てくる
絶対座標否定とは規定、理論は人間の、観念の側で自然には存在しない
次元は認識の在り方に現象する物理状態の抽象で存在しない
運動するエネルギーの在り方の抽象が次元でありその一つとしての時間だと理解している 無矛盾に理解したいだけです
哲学、科学の諸問題を一元的に解決したい
それを前提に生きるとはってことに最終的に決着をつけたい
・・・悪い予感しかないけれど行き着くところまで行きたい 笑 自然自体は無矛盾でその否定で理解するから決定不能になるという理解です 頭の柔軟性は原則を頑固に守ることから生まれる
一般的に言われる柔軟性は大概無定見にしか過ぎない場合が多いとはある独創的な学者の主張 否定関係は自然には存在しない
規定する、理解するからということです まとめ
光速度一定の原理は自然が無矛盾であり規定は否定だと示す
科学、認識論の前提を示しゼノン、パルメニデス、ヘラクレイトス、カント、ヘーゲルなどの合理的理解を可能にして、量子力学の未解決問題を解決、不完全性定理はクレタ人の逆説、つまり対象をその否定で規定することに起因すること、これらを導く
スピノザの規定は否定という理解は正しいことも
光速度一定の原理がαでありωだという理解です
極めて単純な理解なのです ビッグバン仮説、最小単位説、量子力学の従来の理解が否定されます
アルヴェーンが語るように仮に正しくとも受け入れられるまで道は遠いわけです 宇宙論はプラズマ仮説支持します
いろいろ未解決問題はありますがそれは諸仮説も同じ
無限宇宙論はこれだけですし
ビッグバンはなかった ラーナー著を読むと面白いです 「自然は運動変化している」
「過去と未来は存在しない」
「今には、幅がない」
これ、 矛盾してませんか?
幅がないなら、運動変化できないと思います。
「思う」も運動変化なんで、今に幅がないなら、「我思う故に我あり」も成り立たないんじゃないでしょうか。 有を無で規定します
存在する運動を存在しない無で規定します
今とは認識に対象化された有であり、無として規定されます >>407訂正
> 有を無で規定します
> 存在する運動を存在しない静止で規定します
> 今とは認識に対象化された有であり、無として規定されます
認識に現象する自然をその抽象で規定する
自然そのままではないし、また規定は自然には存在しないわけです
理論も理解も認識も自然には存在しない
規定は本質として否定で、無です
今という理解もまた存在を無で規定しているということです
時間は自然存在ではありません
有を無で規定しますから、本質として決定不能ということです
むろん自然は無矛盾で理解可能であるが故に決定不能なのです 時間の正体は認識を媒介にした自然の在り方の抽象でしょう
それで理解するがそれは自然存在ではないということです 自然の存在形態は運動
それを否定の静止で規定する
存在を非在で規定する
だから決定不能に
〇に限りなく近いが〇では無いというのはその謂い
で量、時間という形で理解する
時間が存在したら現在過去未来が同居することに成るし
時間が存在するはずも無し 繰り返す
光速度一定の原理は自然が無矛盾であり規定が否定であることを示す
古来からの哲学上の難問と観測問題などの諸難問を解決する原理だという理解です
進化論を裏付けます
次元、ひいては時間は非在です
誕生も死も、静止、有限も粒子も存在しません
否定関係は実在しません
否定関係は認識に現象するだけです
〈ここ〉からが存在しないということは〈ここ〉までも存在しないということです
このことは否定関係が存在しないということです
自然は無矛盾、規定は否定です 物理として誕生も死も存在しません
静止して認識することが生まれる無くなるということになります
同一であることはありません
物理としてわたしはわたしでありわたしではありません
静止は認識に現象する自然であり実在しません
認識に現象する=自然ではないということを科学は示してきました
認識することが否定関係、つまり一である自然を多として現象することになります
認識すること自体が宿痾なのだということです
認識することを否定すると認識すること
ヘーゲルの否定の否定の法則かな?
座標原点は対象たる運動の否定で、そしてそれを否定して無矛盾になるわけです 科学の枠は判りたい
自然は無矛盾で理解可能だという前提です
人間は自然の一部ですから、自然理解は自己言及です
自己を他者として認識理解することが基本です
規定は否定
フォイエルバッハの認識論で、観念的な自己分裂・・・
対象ー認識ー表現
〈わたし〉は客体と主体が同一です
これらを光速度一定の原理は示しているのだと >>413
随分煮詰まってんなあ…
世界には自分と直接の因果関係がない部分が存在するという大胆な仮定(=原理)が光速度一定の原理
それを認めるならば、自の否定としての他は必ず規定されるし、それを概念的な否定関係が物理世界と対応する例証として捉える人もいるかもね
アプリオリな出発点は、空間的に自分から離れているものは、自分に影響を及ぼしにくい、ということ
自己と直ちに関わり得ないものが存在するという仮定から直ちに、因果を媒介する性質には上限がある事が従う
これは思索から言えるので、物理的には光でも完全剛体殴り原理でもなんでもいいけど 縁起だな
有限であること自体はシンプルな論理から出てくるし、仏教あたりの経典掘り起こしてきたら出てきたりして 550 :し :2022/04/19(火) 14:16:23.65 0
明石市に明かした秘密。 >>416
> 世界には自分と直接の因果関係がない部分が存在するという大胆な仮定(=原理)が光速度一定の原理
すみません、背景が違うのでわたしが理解できていないんですが、自己流にあなたの理解を解釈します
わたしは物理としては自然の一部です
自己言及である科学は〈わたし〉という表現同様で自己を他者として認識します。
物理としての他者を自然には存在しない観念としての自己が認識します。
三浦つとむが示した観念的な自己分裂という説明です。
観念はある物理状態がもたらします。
その物理状態次第で無くなったりいろいろなことが起きます。
薬や物理条件で、たとえば炎天下に走って普通の生活ができなくなる事故を誘発したりします。
つまりあくまでも物理の附随状態として意識、自己は在ります。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますから自然の存在形態は運動であり無矛盾ということになりますし、また静止という規定は理解には必要ですが物理状態に附随する意識の側にのみに存在、つまり物理として存在するわけではありません。
自分とは直接因果関係が無いという理解はそうは言えますが、自然は大前提として在るわけです
うーんと、ちと難しいなあ。
まだこの理解は詰めが甘いかな。
実は一つまだ詰め切れていない箇所があり、ある人も指摘しているんですが、一応大体道筋はついているので見切り発車して概要を現在書いています。 十代後半から理系関係は初歩から躓き、諦めました。
ひょんなことから言語学に行き唯物論や観念論に触れました。
でもやはり基本がわかりませんでしたが、現在はそこそこ判ったつまりです。
どうやら共産主義は成立が困難というか不可能という政治学者がソ連崩壊を唯物論を基礎にして的中しました。
新約聖書学の結論に信者でないわたしでさえ呆然としたことを思い出します。
数学もヒルベルトが愕然とする結論に至ります。
ある宇宙論学者が人間がどこから来てどこに行くのかを知りたいとテレビで語っていて、たぶん絶望するのではないかという予感をもちました。
基本は三浦つとむの認識論で、論理の本質理解は板倉聖宣「新哲学入門」、十代からの懸案だったゼノンの逆説解決は山川偉也「ゼノン4つの逆理」がヒントをくれました。
最近フラットアース説を知りましたが、球体説は太陽中心説ではないかということに気が付きました。
認識に現象しても存在しないものがあるということが重要で、次元もまた認識に現象する物理状態の抽象という理解です。
次元の存在は光速度一定の原理が否定していますから結論はそうならざるを得ません。
いろいろな問題に触れると自己の論理が深まる気がします。
そんなことを二十年以上繰り返しました。
たとえば板倉さんは論理は静的だと記しましたが、実は否定、つまりスピノザの理解が本質的だという理解に至りました。
四半世紀前に現在の考えの端緒に至りましたが、これですべてオッケイというわけではなかったわけです。
まだまだありそうな気がしますが、あまり健康状態に自信がなくちと焦ってはいます。
たぶんまだ詰めが甘いところがあるんだろうし、はっきり自覚している箇所もあります。 けっきょく自然は理由などなくただ在るという結論です。
人間は新約聖書学者の田川健三氏が指摘するように長期にわたっては風土に影響され思考を形作ります。
究極的には環境なんですが、そこから基準をつまり文化を展開していく。
社会の中ではある価値観が絶対ですが違う社会とぶつかり合うとその価値観は相対化される。
諸事情はありますがそれで興亡を繰り返すわけです。
脆弱性と反脆弱性の問題をタレブが指摘していて面白いのですが、文化一般にも言える問題なんでしょう。
それと関連するのですが「進化は万能である」の指摘もかなり面白い。
一人一人、一つ一つの文化は脆弱だが全体として人間は進化してきたという楽観論に基づいていますが魅力的ではあります。
自然理解としては異論がありますが、具体的にはなるほどと首肯するし啓発されます。
共産主義もトップダウンで、それがもたらす問題はソ連、北朝鮮が顕著です。
中国はあ程度ボトムアップを許したので現在の隆盛があるようです。
いや日本もやはりトップダウンの弊害がこの数十年顕著に出ているのかなとタブレらの著作を読み思いました。
日本の科学は京大、名古屋大など比較的に自由な学風が起点で、東大のような官僚育成目的の教育の在り方はあまり成果を上げていなかったりします。
森有礼が語ることはそのことに繋がったりして、森鴎外の脚気理解と対応の問題でもあるようです。
いや、何を言いたいかというと現在は学問や社会の在り方の変容が要請されているのでありそれに対応しないと日本は取り残される予感があったりします。 西洋は聖書に囚われ創造説が足枷です。
日本は社会の基本がトップダウンでありボトムアップをどう取り込むかという問題があると理解しています。
日本の今までの隆盛は個人個人のオタク性に支えられて来たが上がそれを邪魔している気がしてなりません。
それをどう打開していくのかという問題意識が必要ではないかと。
基礎的な問題はともかく現実的には西洋より上下関係意識が強い日本とかは不利ではないかと理解しています。
・・・と一人で空想したりします。
その正否は未来が裁きます。
安部公房の「第四間氷期」だったかにそんな認識が示されていて記憶に残っていますがそれが幸か不幸かわからないのですが。
自分なりに満足していますから、間違っていたら絶望は味あわないし正解だったら喜びも無いわけです。
さてと。 笑 自分を混乱させた諸問題を自分なりに納得する形で幕を引けそうなんで満足しています。
良くも悪くもそれは現在の学の混乱状態がもたらしたものですが。
あとはまとめるだけだと思っています。 けっきょく学問というのは自己言及であり、わたしにとって生とはということに収斂していきます
自然とは、学問とは、論理とは・・・すべてそうです
で、ある価値基準が想定されその中でやっていき満足できればそれで良いわけです
相対の中の絶対というか
バッハのマタイ受難曲の元になったマタイ福音書は出自が怪しいキリスト教の中で展開された教会批判のマルコ福音書の意図をわからなくするために書かれた一連の福音書にすぎません
つまりかなりいかがわしい書物なんですが思想的には高く評価され、また西洋音楽の金字塔みたいな音楽を生み出したりした
なんかもうね、って笑いたくなるような
ゲーテが人は偽物ほど熱狂するとか言ったのを読んだ記憶がありますがそんなことを思い出しながら聴いたりしました
バッハが苦手な母がだんだん引き入られて三時間最後まで視聴して良い曲だねと言って台所に行ったことを思い出します。
バッハの思い出をかいた奥さんの本を読んでいると幸せだったんだなと思いました
別に虚構でも絶対だと思えばそれで良いのかなって思ったりします
絶対なんか無いわけで自分なりの価値を設定して生きれば良いのかなって
まあ絶対があるはずもなし、っていうことを意識した点でもうバッハみたいに邁進は不可能なんかななんて思えてきますが
でもまあ自分なりに満足できる人生です
それが醒めた認識しか生まなくても、こんなことが果たして判るのだろうかと思った青年期に味わった絶望は自己満足であってもそれなりに脱したわけですから 先年あるエロサイトに創作か実話か判らない話を紹介した方が面白い感想を語っていました
池沼系の女性たちが一途で心が洗われるような話で意外だったと語っていました
またその感想を読んだある方は人間は遺伝子の乗り物であるというドーキンスの説を想起したそうです
いわゆる正常な人たちの関係が計算というか逃げも用意していて嫌悪感があり、池沼の人たちの動物としての行動が単純で良い話になっていると書いていました
絵画に詳しいひとがロココ絵画に描かれている性風俗が歪んでいて醜いのは年寄りと若い女性の不自然な結婚がもたらすからじゃないかとも語っていましたが真偽はわかりません
いや、けっきょく文化って動物性と社会秩序のバランスがかなり重要なのかなとも思えます
星新一が性に興味を失った若い人たちにポルノ映像をみせる話を書いていました
人間が遺伝子の乗り物とする説が正しければ、わたしたちはいろいろと文化で覆い隠しているともいえるのかなとも思えてきます
けっきょく動物としては遺伝子を残すということが個体の重要な使命なんでしょう
また地域の利害関係がある限り国家は不滅であり、また不死でない限り宗教は滅びないということでしょうか
やはり人間は本能が本質なんでしょう
自然がそうであるように人間もまた極めて単純ということかと なんかいろいろ突き詰めると新約聖書学みたいなことに成るような
芸術って古典的な表現が一番幸せな時代って気がします
音楽で言えばモーツァルトまで
相対化するってのは醒めてしまう
キリスト教やイスラム教とかは一神教ですから当然相対化を拒否しますがその中では幸福なんでしょう
蒙の中に浸るのか、はたまたどちらを選ぶか わたしは科学革命があると思っています
そこからいろいろ変わる
教育も社会の在り方も
それに日本がついていけますように
欧米は新時代には神の下に平等という前提は有効に働く気がします
さてどうなりますか
日本も良い理論が転がってはいるんですが
仮説実験授業系の教育とか南郷継正さんの技能論とか
社会改革となると難しいのかな
昔から海の向こうから押し寄せる文化の波を戴くのがこの国の支配層の常で
わたしたちも外国で評価されないと自国の文化も受け入れないし
科挙制度がまだ息づいているのでしょうか 進化は万能であるを読むと欧米に於いて唯物論は学問にけっこう浸透しているんだなと思えます
・・・いや本場ですよね 生きることの実体化である身体は、固着する(凝る)ことと
流動化する(流れる」≒「な(羅)(汝/己)か(離)れる」)ことの間の
「ためらひ」として具現化している。 このスレの長文はレベルの低いAIで自動生成させてるのかね
前後の脈絡が意味不明 科学は認識に現象する自然を翻訳することかと考えるようになってきた
光速度一定の原理が示す自然は運動するエネルギーの濃淡、〈一〉ってことでしょう
自然の存在形態が運動なら、それを前提に理解を展開しなければならない。
たとえば静止は認識を媒介にした運動の在り方で、運動の均衡状態という理解になる
無は認識を媒介にした運動するエネルギーの基底状態という理解になる
生物は運動するエネルギーの濃淡の親和反発の過程で生成されまた違う物理状態に生成していく過程という理解に
パルメニデス、ヘラクレイトスの自然観は正当だということです
天体も生物も金属も空間もエネルギーの差異状態でしかない
ある物理状態になるとなぜ意識が生ずるのかはけっきょく解らない
ミュンヒハウゼントリレンマは何故何故何故を繰り返すと無限連鎖となり結論が出ないことを示す
対象は有だがそれを無で理解するから決定不能になる
規定と自然の関係・・・
直接には自然は認識に現象した自然なんですよね
次元は自然の直接の抽象ではない
あくでも認識に現象した自然の抽象なんです 地球球体説のフラットアース説批判を読んでいるうちに球体説も違和感が生じてきた
けっきょく認識に現象する自然が自然自体という理解では同じではないかと
天動説に 対する地動説は太陽中心という理解であり、認識主体の相対化の一歩を踏み出したということが画期的ということです
科学はその展開で光速度一定の原理が認識自身を相対化したわけです
認識に必要な静止は存在しないのです
球体説もまた地動説ではありますが、認識自身は徹底的には相対化していない
球体、平面説は認識に現象した自然ということでは同じです
球体説は太陽中心説で認識の相対化が徹底されているわけではない 数学、キリスト教、マルクス主義は自身で介錯した
科学は人間を介錯するかも知れません
科学者にその覚悟はあるのかな 永瀬清子が文章を書く際の注意としてボードレールの言葉を紹介していたこと思い出した 対象である自然が認識に現象する在り方ってのは生物の認識器官の差異で違うわけです
「進化は万能である」を読むと生物の視覚の在り方の違い、進化が述べられている。
認識器官は物理条件です
自然の像は認識器官という物理条件により生成されます
生物により違う自然像が生成されるということです
人間も視力聴力味覚触覚などなど
それらの能力により生成される自然像は違いますが自然自体は同一です。
生物により違う自然の生成
自然に形は存在するのか?という疑問はあります
何故なら〈ここ〉からが無ければ〈ここ〉までも無いからです
形は認識の在り方から現象するだけではないかと
静止は自然には存在しませんし、無もまた怪しい
認識には現象しても存在しないものは在るのではないかということです 物理学の自然はたわんだ自然 朝永博士
認識器官という物理条件を媒介にした自然の在り方、現象
自然という対象自体は同一だがその認識器官という物理条件の違いで生成される自然像の相違
対象を認識する、その認識の在り方を認識する、つまり認識の認識という自己言及の必要性
光速度一定の原理は運動認識に必要な静止、つまり対象の否定で認識することを示している
静止は存在しないが認識には現象する
規定は否定 スピノザ
地動説は認識は天動説、つまり大地が静止していると仮定して観測するがその認識の相対化ということの端緒
光速度一定の原理は認識の相対性でもある
次元は認識に現象する自然の抽象であり、形自体は認識に現象するが自然には存在しない
つまり・・・ということです。 科学は自然認識です
対象である自然が認識に現象する自然そのままではないということです
ある側面ではそのことを明らかにしていく過程が科学の歴史ではないでしょうか
けっきょく認識もまた相対的であり、その認識を示したのが光速度一定の原理でしょう
そしてそれが否定され自然が無矛盾であることが示される
ある基準を設定して理解して、それが自然存在でないと否定されるということです
認識の自己言及です
絶対座標の存在否定とそういうことかと
さて次元は存在するのでしょうか? けっきょくゲーテが人は偽物ほど熱狂するというのが真理かなって思います
キリスト教のインチキな出自
そしたマタイ福音書のインチキな執筆動機
でどういうわけか思想的には高度でバッハが大傑作を作曲する
偽物が大傑作を産む皮肉
けっきょく自己満足で良いのかな、生きることは
そして人類は自然に消えて行くわけで・・・
それで良いのだ
ってか? 「進化は万能である」「反脆弱性」とかいろいろ可能性を感じるかな
まあ日本が生き延びるために貢献はしたいけど
ロシア中国の論理は納得できないが、力づくもアリなんだよなあなんて思います
正義とか真理とかは強けりゃなんとでもなるし
いやそんなとこかなと 生きるってなんなのか
それには自然や論理を理解してから解答したい
次元もその一つです
結局生きることに相対化されそうですが >>443
訂正
> 結局生きることも相対化されそうですが なにごとも初歩が一番難しいと言ったのはマルクスだったかな
ウィルスってのは生物非生物と分類が困難だけど生物非生物という否定で規定された対象は物理としては差異の状態でしかなく否定関係ではない
わたしも貴方も生物も、ありとあらゆる自然は差異でしかない
分類し難い対象は分類すること自身の問題でなんらウィルスなど対象の問題ではない。
武道の箴言に、奥義を求めて山の奥に行ったら、つまり修行したら、元の里道に辿り着いたと言葉がある。
また真理は睫毛、まさに目の前なんで気が付かないということも言われている。
光速度一定の原理は静止を否定、つまり運動が自然の存在形態だから自然は矛盾しないということ
地動説は静止していると認識していた大地もまた運動している、光速度一定の原理は自然のどこにも静止しているところは無いと示す。
分類するから分類し難い対象が出現する。つまり分類すること自身が問題ということです。
ここから実は理解困難な対象の正体は自然という対象を認識するからではないかという疑念が出ても〈自然〉ではいでしょうか。
座標原点を適宜に設定して運動を理解する。
運動を存在しない静止で規定、理解する。
わたしは貴方でも植物でも金属でも無い、しかし物理としては差異であり否定関係ではない。
わたしは物理として同一であることはないが同一のわたしと規定する。
ある差異の状態からわたしとして生成、つまり誕生して、また違う物理状態に生成、つまり死亡する。
物理としては何も生まれないし無くならない。
実はわたしという物理存在は同一であることはないのに同一と規定する。
物理状態として同一であることは無い、このこと自身は同一。
つまり運動していることが常態、同一でないことが同一。
宇宙は同一であることがないのに宇宙という同一で規定する。
クリスティはミス・マープルに「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほど変わる。」と語らせる。
その通りだと。 決定不能は規定するからであり、なんら対象の問題ではない。
観測問題、不確定性原理、ゼノン、パルメニデス、カント、ヘーゲルなどなど。
光速度一定の原理は静止の自然存在を否定して自然が無矛盾であることを示し、同時に規定とは対照の否定であることを示す。
つまりこの原理は対象とそれを規定することのαでありωということになる。
実は科学は既に「究極の方程式」を手に入れているのではないかと。
地球、火星、木星と違う場所で観測してそれらは相対化される。
あらゆる科学理論はそういう性格を持つのではないでしょうか。
光速度一定の原理自身もまた科学は人間の認識であり理論自体は認識の在り方を媒介にした観念としての存在で自然には存在しないということを示します。
光速度一定の原理は科学もまた相対化しているのではないでしょうか。 わたしはビッグバン仮説、紐理論とか信じていない
次元、諸力も存在しないと理解している 物理学の自然はたわめられた自然
朝永博士の箴言
まさにその通りかと 囚われてから半世紀
漸進の切っ掛けは三十年前
少しずつ、少しずつって感じです
もう一つ問題がありますが見切り発車です 片付けていたらいろいろ出てきたわあ
終活しなきゃ
虹自身時間はありと思いけり 日の丸の赤は太陽の色だが、緯度や眼の在り方でその色彩には差異があるという指摘があります
太陽との位置関係と自己の視覚の在り方で違ってくるということです
生物の認識器官は物理条件で対象をその在り方で違う像を生成するという指摘です
その生成像は対象と認識器官の在り方の関係の産物です
地動説は認識の立場の自己言及です
静止は運動の均衡状態、つまり運動の一形態です
生物非生物は物理状態の差異で否定関係ではありません
光速度一定の原理は自然と認識の在り方の自己言及です
この様々な物理対象は運動が存在形態ですから否定関係ではなく差異として在ります
つまり否定関係として認識するという認識の在り方も認識する必要があるわけです
自然認識は認識の在り方から理解されます
静止は必要ですが自然には存在しません
ここでは認識の在り方が問題になっています
さて、自然には絶対座標は在りませんから当然〈ここ〉からは在りません
そして〈ここ〉までも
〈ここから〉は同時に〈ここ〉までだからです
地球球体説の皆さん
球体は〈ここ〉までが存在するという理解です
さて・・・ 規定は否定
つまり理解は自然には存在しないことを証明して自然が無矛盾ということに 新約聖書学のブルトマンの心境です
ちと恐怖を覚えます 908 リバースパワースラム(茸) [BR] [sage] 2022/05/10(火) 16:50:27.67 ID:gaiATkxI0
全ては自分の脳が作り出したもの
つまり脳がこの世界を構築している
脳が判断したものだけがこの世界において存在が認められているのだ
脳が活動を停止すればこの世界も停止する
故にあの世もこの世もない
全ては己の脳が作り上げた仮想空間
お前の書き込みも俺の脳が生み出したものだ
915 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 17:36:08.86 ID:m2zSGokl0
>>908
自分の脳も自分が作り出したわけですね
解りません
921 リバースパワースラム(茸) [BR] [sage] 2022/05/10(火) 18:16:20.23 ID:gaiATkxI0
>>915
あなたに問います
自分ってなんですか
925 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 18:36:41.79 ID:m2zSGokl0
>>921
自分の脳も幻かということです
答えてください 926 リバースパワースラム(茸) [BR] [sage] 2022/05/10(火) 18:42:25.18 ID:gaiATkxI0
>>925
答えになってません
自分とはなんですか
927 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 18:46:33.37 ID:m2zSGokl0
全てが脳が作り出したって言ってます
脳もそうだということですね
じゃないと整合性が取れません
自身も幻
さて
928 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 18:47:57.84 ID:m2zSGokl0
>>926
貴方が立論したから尋ねています
疑問に疑問を返すのはいかがかと
929 リバースパワースラム(茸) [BR] [sage] 2022/05/10(火) 18:50:19.25 ID:gaiATkxI0
>>928
私の問に答えてないからです
はやく答えなさいスレが終わります
自分とはなんですか
930 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 18:53:53.31 ID:m2zSGokl0
>>929
いえ、貴方が先に答えてください
あなたが全ては脳が生み出したというから脳もそうではないかと尋ねてます
イエスかノーだけです
簡単でしょう 930 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 18:53:53.31 ID:m2zSGokl0
>>929
いえ、貴方が先に答えてください
あなたが全ては脳が生み出したというから脳もそうではないかと尋ねてます
イエスかノーだけです
簡単でしょう
931 リバースパワースラム(茸) [BR] [sage] 2022/05/10(火) 18:55:48.90 ID:gaiATkxI0
>>930
質問をしたのはこっちが先のはずですが
質問に質問で返したのはあなたです
さっさと答えろクソ野郎
932 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 18:57:13.65 ID:m2zSGokl0
>>931
あらあらイエスかノーだけなのに
ヒステリーにならないで 笑
933 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 19:00:53.46 ID:m2zSGokl0
貴方の主張に疑問を呈しました
答えられないってことですか
ではまた逢えたら答準備していてくださいねぇ
934 マシンガンチョップ [CZ] [sage] 2022/05/10(火) 19:05:55.69 ID:m2zSGokl0
楽しいですね、このスレ 去年今年貫く棒の如きもの
虚子だったんですね
自然は運動、規定は否定
これが棒の如きもの、普遍かと考えています
〈一〉が〈多〉となり、〈多〉が〈一〉となり ということです 睫毛はあまりにも近くて認識困難です
認識困難性は認識自身にあるのではないかと
今のところは言いたいことはこれだけです
人は現在を固定して捉えがちだと大哲学者は語ります
自然は過程です
学問もまた過程が普遍、変わることが変わらない、変わらないことが変わるということかと
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
ーミス・マープル
学問もまた 数には大きさが無い
0に限りなく近いが0ではない・・・
わたしはあなたではない
だが人間としては同じ
植物でも金属でも無いが物理として同じ
同じではないが同じ
静御前は死んだら何処に行くのかなんてことも考えました
ゼノン、パルメニデス、カント、ヘーゲル、観測問題、不確定性原理
知れば知るほど判らないことばかりになりました
わたしは光速度一定の原理に自然と規定を理解する鍵があると考えます 認識器官という物理条件で生成される自然像はそのままの自然か?
存在しない静止で認識する
認識の在り方を相対化したのが光速度一定の原理
球体説は果たして認識=自然という弊を免れているだろうか
<ここ>からは存在しない
ならば<ここ>までも存在するのだろか
認識は天動説です 認識は天動説です
それは相対化しなければならない
地球を静止していると<仮定>して観測する
光速度一定の原理はそういうことです
全ての個別科学理論の性格です 科学は否定関係で理解する対象が差異の一形態として理解する
地球 諸天体
人間 諸生物
静止 運動
無 有
多 一
粒子 波
自然は無矛盾 >>416
そのように因果を要請するという一見最もらしい仮設からでも、結構非自明な事が従いますよね
例えば、クラマース-クロニッヒの関係とか
化学や物性で強力かつ実用性ある定理として常用されるのに、因果律のみから従うと知って衝撃を受けました
逆に言えば、因果を要請するということは、思っている以上に大胆な事なんじゃないかと思えてくる… あごめん、ちゃんと大胆な仮定って但し書きされてますね、見落としてた
自明と思ってた俺がまだまだですね
逝ってきます あらゆる認識の必然は意味であれ因果であれその都度 特殊です。
全体としての歴史の経過は何ら必然を持たない。という台詞は何ら科学的認識の命題ではない。過去が既にその帰結を示しているので一つの欺瞞が発生します。 これから私👰が書く時間についての真理の本を
あなたたちは3000万円で買いなさい。💴 こら✊💢
主観、客観的、があるかぎり、アンチノミーを通じての精神はどこまでも存在します、精神は過程のどのような見解をも取り入れながらやはり再度捨て去るのだから無限なるものとしての精神は同時に主観、客観的、を越えているのです。
簡単には表現出来ない、そして あらゆる個物は比喩、象徴となり 精神は単に個物であることを今にも辞めんばかりに。 >>197
ちんぽをシコシコするというのは主体が別に存在する(おそらく右手であろう)
しかし、ちんぼがシコシコするというのはちんぽさんが主体となって別の輪状、もしくは固定された箇所に向かって
往復運動をすることを言う
そしてそれはシコシコと形容される範囲内におけるような物体や部位である必要がある
つまり、日本語でいうところのチンポがシコシコするというのは文法上は正しい
しかしである
ちんぽは主語になってよいものかという問題が残る
ちんぽは思考できるのか、主体的な存在であるのかという疑問んである
我々はちんぽを自由自在に動かす事はできない
「勃つんだ!ジョー!!」などと呼びかけた人もいるであろう
ちんぽは人の付属物であると同時に1本の主体的な存在でもある
思考や意識といったものはないかもしれないし他動的な刺激により、また体調により変化を兆す。
つまり、チンポがシコシコするというのはチンポが主体的な存在かどうかが問われているのであり
勃起に至る過程からそれはまさに肯定されるべきなのである 現に在る、それだけが在る
未来、過去は現在には無い
此処、今は指示すると飛び去る
有は無で規定する
0に限りなく近いが0ではない
つまり決定不能
規定は否定
だから量で認識する
時間は有を無で規定する理解の在り方から必要
四次元が在るなら無限の静止した自然、私たちが在るということに
在るなら証明してください 不確定性原理は運動を静止で規定するから
測定が近似値である理由
見たものそのままが自然ではない
測定もまた >>476
嫌味を言う教養くらいはあるみたいだが
個別撃破はできないみたい 対象の抽象で対象を規定する
次元自体はむろん物理現象ではない 自然が無矛盾、つまり理解可能だということは規定は否定、つまり理解すること自身の否定で示される
理解すること自身が様々な問題を引き起こす
カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定、ゼノンの逆説などなど
不確定性原理、不完全性定理
ウイルスの分類困難性
生死の分かちがたさ
観測問題は認識の在り方の問題で二律背反に繋がる 見たものがそのままの自然ではない
地動説は典型
それは感覚一般に言える
感覚器官に結ぶ像は諸生物により違う
それはある物理条件に反応したある物理状態というだけ
どれが正しいということではない
また静止、生死等は認識されるが自然には存在しない
これが意味することを理解すべきかと
認識の在り方は理解されるべき 自然科学は自然認識
地動説は見たものそのままが自然ではないことを示した
静止、生死いずれも認識には存在するが自然には存在しない
聴力、視覚など生物により範囲が違う
空気中の物質すべてを認識できない
無いものを認識し、在るものを認識しない
簡単にでも認識論は考察することをお薦めする 誰もが簡単に理解できるかと思います
たとえば1から100までの数字があるとします
それをどのように選んで並べるかが時間になります
ようは時間が存在してるのは時間を作ってるからですw
これは相対的世界論を信じていることになります
すべての可能性が存在しており、その中の選択というのは自分の選択する宇宙に「移動する」ということになります
自分が移動することで変化と時間が生まれます 今もやっていることですw
これによって責任という概念が可能になります
殺人事件が起こったとします
時のはじめから加害者も被害者も決まっているのなら、そこには非難したりする理由はまったくなくなるのであり、選択の責任とかありえないのです
そのような無責任な決定世界を否定しただけです 時間で規定するが時間は存在しない
静止、生死、無で規定するが物理としては無い
時間で理解出来るから時間は存在する
静止で理解するから地球は静止している
生死、無で( ^ω^)・・・ >>1
四半世紀くらい前にそんなこと主張していた人がいたな
と学会の山本の掲示板にも投稿して二度と投稿するなと拒否された
これ読むとトンデモでもないんだな
いや山本がめちゃくちゃ怒ってたわ
無いと証明されたらと学会の面目丸つぶれだな
さてどうなるかな
楽しみ 現に在るものしか実在しない
現在主義は当たり前のことを言っている
過去も未来も実在しない
それは規定が否定だから、有を無で規定するから
実在しない次元で実在を規定する
次元が実在したら静止する三次元、つまり自然、その一部である人間もまた無限に存在しなければならない
静止で運動を規定するが静止は実在しない
時間で規定するが時間は存在しない 存在とは前提
前提が無矛盾であることを証明すれば良いということ
それだけ ミュンヘハウゼントリレンマか
面白いよな
何故は無限遡及にしかならない 規定の存在が否定され自然が無矛盾であることが示される
ある意味理解そのものが矛盾を引き起こす
生物非生物という分類が鵺的な存在をもたらすように
物理状態としては差異だが否定で規定する
だからウイルスが分類困難に
理解すること、分類することは宿痾
それが否定されて無矛盾に >>488
その時間で規定可能なのは「時間存在」当事者が存在しないと規定した時間と、時間でなにを規程しているの?自己言及のパラドックス 当事者も自然の一部
自然は一だが多で規定される
多で規定するが多は実在しない
静止で運動を規定する
生死で規定する
無で規定する
静止、生死、無は実在しない 自己言及は自己を他で規定するということ
認識論としての解明は三浦つとむが、日本語はどういう言語かでやっている
対象は無矛盾でなければ理解出来ない
対象が宇宙非宇宙なら理解は不能
ビッグバン仮説の根拠と言われるものはすべて違う理解が可能
この学説は前提、原理原則を無視している
それはともかく宇宙は非宇宙で規定される
静止、生死、無、終始は実在しない
光速度一定の原理が示すこと
対象は無矛盾でなければ理解は成立しないというのがわたしの主張
んじゃ夜か明日にでも そうそう
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定するから そうそう
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定するから 現在に在るものしか無い
直接理解できないから量で規定する
運動量を運動量で、ということ
地球の場合は太陽の周りを運動する量が基準
ある物理状態からある物理状態に質的に遷移するまでが寿命、時間ということ
ある物理状態は一秒、ある物理状態は数億年
単位も基準が違えば、ということ
太陽系が滅び、他の物理状態になったら数え直し
他の物理状態も同じ
出発点はどこにも無いから特定できない
終りもまた
自然は運動変化しているだけ
ある物理状態の運動量が基準
否定は規定
一を多で規定するから次元が必要なだけ
次元は抽象であり実在しない 今、此処と指示すると今、此処は飛び去る
今、此処の正体は認識に媒介された運動
規定は否定
今、此処は静止で規定された運動
今には幅が無い
つまり有は無で規定されるから 運動とは存在するとともに存在しないこと
存在とは運動の否定、静止だから
クレタ人の逆説、決定不能 運動とは存在するとともに存在しないこと
存在とは運動の否定、静止だから
クレタ人の逆説、決定不能 一光年 地球が太陽の周りを一周する間の光の運動量
実在するのは今、つまり運動
運動を静止、有を無で
だから多で規定する
実在しない次元で、四次元で 時間とは運動量
一光年 光 地球の運動量
時間の定義は運動量が普遍
此処から此処までという運動量
0次元は運動という有を静止という無で規定する言葉
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは語る
今、此処とは座標原点
今、此処とは運動を静止で規定する言葉
有を無で規定する、だから運動は量で理解するしかない
直接では捉えられないから
現在には過去も未来も実在しない
現在=運動しか実在しない
つまり時間は認識の在り方が要請する次元
パルメニデスは自然は一であるとした
一は多で規定される
ゼノンの逆説は数が実在しないことを証明した
絶対座標は自然には実在しない
時間は実在しない 自然の一部を此処と指示する点、静止
此処、今とは認識の在り方に結ぶ自然の像
うーん、やはり認識の在り方の問題だな
徹底しなきゃな
もう27年以上経過しているが
困難だが出来るところまでやりたい
基本に還ることにより新展開がある 時間は運動量に還元できる
運動量は認識の在り方を媒介にしている
運動という有を静止という無で規定する
0に限りなく近いが0ではないという決定不能の定義
現在は直接には理解できないから量、時間で規定するしかない
今は運動を静止で規定するということ
時間は運動量、つまり認識を媒介にした自然の在り方を媒介にした観念的存在
0次元、出発点が存在しないのだから 時間で普遍なのは運動量
地球が太陽の周りを一周→一年間
それが実在すると主張する人はいるのだろうか
今には幅が無いが存在する
それは有を無で規定するということ
運動は静止で
物理状態の遷移を生死で
有は無で
認識の在り方は考察されなければならない
自然科学は自然認識なのだから
見たものがそのままの自然なら科学は要らないとある十九世紀の学者が言った 今というのは運動のこと
運動が自然の存在形態
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとある哲学者は指摘する
生物にしても、物理状態として同一であることは無い
地球というか自然はそういう存在 次元も諸力も最小単位も実在しない
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた差異の濃淡を生成していく過程 次元は一である自然を多で規定するから必要
認識器官には多として像を結ぶがそれはそのままの自然ではない 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発でまた違う差異を生成していく過程でしかない
次元も諸力も実在しない
最小単位から成らない
素粒子、生物、金属、地球、銀河系、大構造等に成る
認識器官の在り方に自然は像を結ぶ
一は多として像を結ぶ
静止、生死、無は実在しない
自然科学は認識の在り方の相対化という側面がある
時間は運動量に還元できる
運動は直接理解できないために多、つまり量が必要となる
時間は実在しない
今とは運動
現在、現に在る どんだけ 同じこと書いたら気がすむねんw死ぬまでやってそうw 辿れば初期とは違うことが解かるんだが
精読すれば、だけど期待していない w 目の前の自然は目、つまり認識器官の在り方に結んだ像でありそのままの自然ではない
一を多で規定する、規定は否定
時間もまた一を多で規定するから必要になるということ
ここから全ては演繹可能 時間は基本運動量に還元できそうだな
・・・まあ自然の存在形態が運動だから当たり前か
認識の在り方で一は多で規定する
今だけが存在する、有は無で規定され、一である運動は多、量で規定するしかない
時間は認識の在り方が要請する観念的存在
運動は静止で規定されるから
0に限りなく近いが0ではないという規定の根拠
不確定性原理の原因
それで規定するがそれは実在しない
静止、生死、無は実在しないがそれで規定する 纏めるのは苦手だな
詰めがなあ
清水幾太郎の論文の書き方が図書館にあるが参考に成るか
読んでみるか いや演繹可能とか、辿れば初期と違うとか言ってるけど、それは君の主観であって、現実に演繹プロセスを論理的に記述する能力が壊滅的すぎやろw 某スレに
次元も実在しないだろう
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは指摘する
今、此処とは運動する自然を静止で規定する言葉
現在主義とか唱える科学者たちが居るとか
有を無で規定するから、四次元、時間が必要となる
四次元が実在したら無限の静止する自然と観測者が実在することになる
一は多で規定されるということ
一ではあるが濃淡である自然を認識器官はその在り方から多として像を結ぶ
物理状態の差異を否定関係、つまり生物非生物、有無、生死と規定する
それらは認識の在り方であり、自然に否定関係は存在しない
一は多、つまり数で規定されるが多は実在しない
一は多となり、多は一となり
認識の在り方は考えられなければならない
カントの二律背反、へーゲルの運動定義などは対象と規定の関係の話
不確定性原理、観測問題、不完全性定理などなどもまた
クレタ人の逆説は否定で規定するから決定不能に
対象である自然は無矛盾だが、規定は否定
規定が自然には存在しないことで自然は無矛盾であることになる
ウイルスは生物非生物と分類するから分類困難に
同様に規定するからいろいろ困難なことになる
素粒子、生物非生物に成るということ
最小単位から成らない
紐に成るのであり、紐からは出来ていない
条件が生成可能ならいくらでも小さくなるということ
そして粒子は認識器官の在り方に結ぶ波の渦の状態 対象と規定の関係の問題です
認識器官に結ぶ自然の像はそのままではないわけです
静止、生死、無、終始で規定するがそれらは実在しない
次元もまた規定であり実在しません 科学でさえまだまだの段階でしょう
だから楽しいような気がします >>517
ははぁっ、論証なき神の如きご託宣、有り難く承りました
ってかっ? www 時間は一を多で規定するから必要
運動量に還元できる
つまり観念的存在
静止、生死、無、終始同様実在しない観念的存在
それで規定するがそれは実在しない 規定するから必要なだけ
物理として時間が存在するはずも無い 自然は運動変化している
運藤変化すること自体は恒常、つまり変化していない
物理としてのわたしは運動変化している
わたしという規定は静止
対象として物理は運動変化していているが静止で規定する
此処、今、とは運動変している対象を静止で規定するということ
一秒、一年とかは運動量であり実在しない
此処、今と指示するが此処、今という規定は静止
運動を静止、有を無で規定する
だから量、時間で運動を規定する
時間で規定する時間は実在しない
静止、終始、生死、無で規定する
規定は否定であり、これらは実在しない
時間は実在しない
とりあえず素描してみた
後ほどきちんと書きたい 対象ー認識ー表現
表現は認識の在り方に拠る
自然科学は自然認識であり自己言及でもある
理系は認識論を軽んじているので不確定性原理、不完全性定理の理解に苦しんでいる
それは対象が無矛盾、理解出来るからこそなのだということ
何故定理なのか、原理なのか
真理はとても単純なのだとある認識論の大学者は語る
対象は無矛盾で単純だが認識の在り方で複雑になっている
一が多と成り、多が一と成り
多は認識が媒介するから。
科学はその認識を相対化して一に辿りついた
科学の諸成果はその証拠を示している
「十の証拠からは十の理論が
正しいのは一つだ」
チェスタトン ブラウン神父の純智 「イザエル・ガウの厳正さ」 運動量を運動量で規定する
運動という有を静止という無で規定する
だから量で規定する
時間は存在しない 規定は否定
一を多で
一は対象、無矛盾
多は規定、決定不能 過去の姿を光は運ぶ
光自体は現存在
認識に結ぶ像は過去
過去は存在しない
未来もまた 次元は存在しない
座標原点は存在しない
三次元は静止 存在しない
静止を無限に゙集めても静止
時間は直接扱えないから必要なだけ
有は無で規定される
規定は否定 >>531
それは一部の哲学的な考え方であり、一般的には受け入れられていない見解です。次元や座標原点、三次元空間などは、数学的な理論や物理学の法則において重要な役割を持っています。また、時間も物理学や哲学の分野において、重要な概念の1つであり、直接扱えないということはありません。
また、「有は無で規定される」という考え方も、哲学的な議論においては重要なテーマの1つですが、これも一概に正しいとは言い切れません。有と無は相対的なものであり、存在するものがあるからこそ、存在しないものがあると言えます。また、規定と否定も相対的なものであり、それぞれが存在することで、世界が成り立つと言えます。
哲学的な考え方は、議論の余地があるものであり、異なる見解が存在することもあるため、自分自身の考え方を深めるためにも、様々な立場を理解することが大切です。 存在するしないは認識主体の問題で自然の問題じゃない
存在というのは規定
対象は運動している
認識主体は静止で規定
認識主体は自然の一部で自然の自己言及
自己を他、否定で規定する
それは認識するから
なんら自然の問題ではない 認識するから次元が必要になる
自己言及だから自己を他、否定で規定
認識主体の問題
客体 主体 否定関係
客体=主体 矛盾
認識主体が無きゃ問題無し
物理として否定関係は認識主体があっても無い
認識は非物理、非自然
無で有を認識する
無は〈無〉い フラットアースとこのスレではわたしなりの自然と認識の関係理解が深化発展した
THANKS! 自然は一
認識は多
運動は静止で
0に限り無く近いが0ではない→0次元の正体
運動を静止で
今、現在には幅がない
自然はそのままでは理解不可能
運動は量、多、四次元で規定する
一を多で規定するから次元が必要 地球は静止して見える
物理は生滅して見える
終始は存在して見える
自然にこれらは存在しないことを科学は明らかにした 対象の抽象である次元で対象を規定するだけ
自然をそのまま認識できない
みたものがそのままの自然ではない
地動説の教えること 自然は運動するエネルギーの濃淡
自然をそのまま認識できない
形として像を結ぶが形は無い
無はエネルギーの基底状態、ディラックの海
二律背反 対象を認識の在り方で規定する
つまり認識=対象ではない
地動説、エネルギー保存則、光速度一定の原理が語ること
不確定性原理もまた
そのまま認識できない
次元もまた認識に必要だが存在しない
時間もまた 自然は理解可能だが理由不能でもある
対象は無矛盾だがそれは規定が対象に存在しないということで示された
静止、生死、終始という否定関係は存在しない
これらは物理としては差異
無限は有限で規定される
有は無で規定される >>548
訂正
自然は理解可能だが理解不能でもある ていうか
対象
自然
認識
論理
人間とは何か
学問というか知とは何か人間とは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています