>>70
そもそも「表現の不自由展」が訴えているものと正反対のイデオロギーがある、という見解自体が
かなり特定のイデオロギーに寄った考え方ですよ。少し前にも書きましたが「…片隅に」で説明すると、

「…片隅に」は一般にイデオロギー色が少ないと見られているし、肯定的になトーンで「反戦映画でない」と
評する人も少なくない作品ですが、そうした作品であっても、例えばアメリカでの公開を検討するならば
政治的理由で上映に反対される可能性は十分考えられます。

で、ここからが重要なんですが、そのような可能性があっても、「…片隅に」が「反戦映画でない」と
評されるような側面を適切な仕方で擁護することができたなら、それは「あるイデオロギーの反対」とは
ならない、といった可能性も想像することができますよね。要するに人として似た経験をトレースしたり
違う経験であっても作中人物と似た感じ方のもとで解釈できるなら「普遍的に理解されてほしい問題」
として訴えたい、「訴え」がキツいなら「届けたい」といった希望が出てくることもありえるわけです。

「表現の不自由展」が訴えているものを、実行委員会が付した解説も参考に読み取ろうとするなら、
私はむしろそこに「右」の反対のイデオロギーを読み取ることの方が、むしろ難しいように思います。
なぜなら、そこで考えられていることは、いろいろな理不尽に関わっているし、理不尽は誰でも
いやなはずだ、という確信に支えらえているように思われるからです。