【アクトゥアリテート】永井均 11【レアリテート】
こういうことだよ
<私>が理解するこの宇宙が突然に時間とともに消滅するが、全く同じ宇宙が同じ場所同じ時間をもって突然に発生する
そして<今>、<私>は、<ここ>から宇宙を理解している
しかしこの<今>、<私>は、どちらの宇宙の<今>であり、<私>なのだろうか
ダブスタのトリックなんだよ
>>136
バケモノじみているとかそういう情緒的な感想に包まれてしまうだろ
それが永井さんの全てだよ そら両方言えるに決まっとるがな<今>については。
これにかんしては青山拓央教授が図抜けて素晴らしい。
参考にしてほしいで。 哲学はダブスタ当然だと思うけどね、嫌否定したいからじゃあないで。
情緒的とは思わんが、情緒的だと何が問題なのかがわからん。 >>141
その「素晴らしい」とか「バケモノじみている」とかいうのが
貴方の情緒的な感想でしかない、ってことだよ
すなわち教祖と信者の関係性
少しは「なーんかおかしいな」て思いなさいよ 哲学において、言説にダブスタを見つけたら、それを批判すべきだよ
ダブスタ当然など、ひっくりかえるわ 嫌だからなんで情緒的で悪いのかて話やで。
ダブスタで何が悪いのかってのも同じ。
教祖と信者のつもりはないが
そうであるとして何が悪いのかともいえる。
どうなって欲しいのかがわからん。 >>144
貴方は、「なんだかよく分からないけど、永井先生は、僕の理解を超えたすごいことを言っている」
ということを言っているのではないのかね
それが悪いかどうかは私には分からない
まるで麻原と井上だな、とまでは言わない
だが、永井均と貴方との関係性は
貴方が永井を何かしら尊いように想う、そのような関係なんだろう
そのようなことは永井の望むところではなかったはずだが、身から出た錆とはいえ、彼を少し気の毒にも思う 気の毒なのはその通りやろ。ツィッターでツィートしたら
どうもウザがられたしw永井先生も気の毒やでオレみたいなのに
好かれたんだからある意味。それを承知で、ってのを
レスしてるんやで。 >>139
「どちらの」なんて疑問が、どこから出てくるの?
少なくとも、永井自身の著作に「<私>や<今>がどちらであるかが分からない」
などと疑問が出てきたことがあった?俺には思い当たらないけど。 >>147
永井の著作では見たことはない
私が勝手に作った仕掛け
比べるべきでないものを比べ
並ぶべきでないものを並べる
概念を巧妙にずらし、すり替える
永井さんは、>>139みたいなトリックを張りますよ
気をつけてくださいね
てことです
気をつけても不可避のようですけどね
なぜ不可避なのか、それだけが問題
これからの私の課題 >>139
単に誤読してるだけですね
問題を捉えてない
〈私〉、〈今〉と「私」「今」をゴッチャにしています 良い信者さんですね
永井さんが言えばそれがありがたい言葉になるわけですから
でね
概念が侵食し区別が有効に機能しなくなる、
そういったことがあるのです
哲学では特に多い
そこで
・単なる「私」ではない<私>
などという区別が、どこまで有効なのか
少し落ち着いて考えてみてはどうでしょうか
「私」の要素を排除していった先の<私>、そこに残っているものは何か
「まだある」、その思いだけ、なのではないですか
ちなみに、私もその「思い」はありますよ、いまだに
だけどそれは錯覚であるし、論理構成上のバグなのですよ 〈私〉は思いではないですよ
情緒でもないし、ダブスタだとか矛盾だとかいう価値判断でもないです
あしからず
そもそも信じる信じないの話ならば哲学として誰からも相手にされません
要するに単に有名人アンチの心理に陥ってるだけですね
謙虚になりましょう 論理的にチマチマ詰めていって何かを発見した
というような類の話ではありません
太陽は地面の周りをぐるぐる回ってるよねー
と言ってる時代に、その常識から詰めて論理的に世界観を構成する
という話ではなく
天体同士の位置関係の観察から太陽系がある
と発見するような話です
わかります? そもそも〈私〉のロジックは永井氏のオリジナルではなくて大昔からあるもの。
当然認識論にも組み込まれていなければならない代物。 著書を読んでいないから、ぜんぜん知らないんだけど、
〈私〉って、例えば、英訳でもいいけど、他の言語に訳したらどうなるの。
というか、大昔からあるものなら、大昔から、どういう言葉で表現されてきたの。 >>154
〈私〉に関して永井氏が問題にする議論が大昔から言われていることに過ぎないってこと。
例えば「<私>の独在性」はアートマンの無限遡及の問題、「<私>の同一性」は知識根拠の問題になる。 >アートマンの無限遡及の問題
いのちを代表する呼吸がどこまで遡るか、というのは
何を呼吸と考えるかにもよるな さらに具体的には、観測としては脳死状態の呼吸だけしている
植物状態の人に「<私>の同一性」があるのかという問題につながる。
植物状態の人にもアートマンはあるということになるだろうが。 >ヤハウェは地面の土(アダマ)を使ってアダムの形を作り、
>鼻の穴からルーアハを吹き込んだ。
聖書的には、神の「息吹」にまで遡及するというのが正解だろうけどね <私>の独在性がアートマンの無限遡及の問題かどうかは分からないのだが
永井(そして同種のセンスを持つ人々)が拘るのはこういうことだ
『私はなぜ他人ではなかったのだろう』
永井を批判するにせよ擁護するにせよこれがスタートなのであって、
ここにピンと来ないような111さんとか太陽系くんなんかは話の入口に達していないのだよ
わかりやすく説明するとね
世界中は多くの他人で溢れ、この肉体も意識も他人のものであるのが自然であり必然
なのになぜ、この肉体と意識だけが私に世界を開闢させているのか、まったく奇蹟としか思えない
さあ、あなた方は、この記述によって「気づき」、驚愕できるセンスがありますか
無いなら、とりあえず黙っていたほうがいい >>160
つまり貴方はピンと来なかったわけですね >>159
> <私>の独在性がアートマンの無限遡及の問題かどうかは分からないのだが
「<私>のずれ」のことな。言葉にした時点でそれは<私>ではないってこと.。
> わかりやすく説明するとね
> 世界中は多くの他人で溢れ、この肉体も意識も他人のものであるのが自然であり必然
> なのになぜ、この肉体と意識だけが私に世界を開闢させているのか、まったく奇蹟としか思えない
これをとりあえず説明したのが仏教の縁起な。
永井氏の<私>は、アートマンと個我のごちゃ混ぜの議論。ただこれは当たり前。アートマンと個我が識別できれば永井氏は悟ってる。
とりあえずアートマンの性質を議論に持ってきていると言うことは、他の哲学者よりは見る目がある。 まずは、問ひを発するとはどういう行為なのか反省した方がいいのでは。
どう表記しようと、問ひの意味が伝わらなければ、
発せられた問ひ自体が無効であることになる。 「私」という表記を用いるなら、それを逆立ちさせようと、左右反転させようと、
どんなカッコに入れようと、日本語では基本的に「わたくし」と読まれるのだから、
その「わたくし」の理解がまず問題にならざるを得ない。 相手と理解が共有されていることを前提とした純粋言語みたいなものを
あらかじめ想定して問ひを発することは不可能。 >>162
「言葉にした時点でそれは<私>ではない」
とか言うのは、言い捨てるには格好良いけど
私にはお経にしか聞こえない
台詞の受け手の中に何かを成立させることを期待しているかもしれないが
何が成立するかはほとんど神頼みの運任せ
ところで貴方の言うアートマンとは西洋哲学に於ける超越論的主観性と何が違うのかね >つまり貴方はピンと来なかったわけですね
「ピン」についての現行の一般的な理解はこれでしょう。
>ping(ピンまたはピング)はIPネットワークにおいて、ノードの到達性を確認するためのソフトウェアである。 あとですね
>>159を、別の教義との相対化によって批判することは可能なんでしょうけど
それは永井にとってみれば、意味のある批判としては受け取らないと思う
喩えてみればさ
アキレスと亀ってあるでしょ
現実に亀をアキレスが追ったら、追い抜くに決まってる
問題は、アキレスと亀という問題に於いて、その構造内では論理的な矛盾を見いだせない
ってことが大問題なのであって、実際に亀と競争して追い抜いたところで、この問題を
論破したことにはならないわけですよ 永井先生は それ を
ヴィトゲンシュタインのチェスの冠やハイデガーの存在論的差異と同型のものとしている。
存在の意味が違うと言うべきだ。「存在というもの」と「『存在というもの』そのものを存在させているがそれ自体は見えないもの」との違いだ。ハイデガーはこれを「存在論的差異」と呼んだ。 >>166
> >>162
> 「言葉にした時点でそれは<私>ではない」
> とか言うのは、言い捨てるには格好良いけど
> 私にはお経にしか聞こえない
お経を聞き流してるだけじゃダメだろうな。意味を考えないと。
> ところで貴方の言うアートマンとは西洋哲学に於ける超越論的主観性と何が違うのかね
まあ、超越論的主観性ってやつは輪廻とほぼ同義語だろうな。そもそもアートマンは主観とも客観とも関係ない。 超越論的主観性というのは、格好良く言えば
個別的な自我を超越して、凡そ存在するもの全て(=世界)意味を構成する力の源泉のことだが
輪廻とはそういうものなのか
あと、お経の意味を考える、って話だけど
お経の意味は神頼みの運任せ、と
そう書いたつもりなんだよ >>171
> 超越論的主観性というのは、格好良く言えば
> 個別的な自我を超越して、凡そ存在するもの全て(=世界)意味を構成する力の源泉のことだが
> 輪廻とはそういうものなのか
「力の源泉でないものを力の源泉と見なしている」というのと同じような意味で、それは輪廻みたいなものだ。
> あと、お経の意味を考える、って話だけど
> お経の意味は神頼みの運任せ、と
> そう書いたつもりなんだよ
お経の意味がわかれば当然「言葉で表現できない」ものもわかる。
もっと言えば、「言葉で表現できない」ものをどのように言葉で表現しているかがわかる。 >>172
ああ、なるほど
貴方は、「手が届かないというような意味では雲はダイヤモンドみたいなものだ」
なんてナゾカケみたいな説明がイケてると考える人だ
***************************
「言葉で表現できない」ものを言葉で表現したら
それを聞いて何がわかるかは、神頼みの運任せでしょ
ってそう言ってますの
お経の意味が分かることで、言葉で表現できないものが分かる
と貴方は言うが、
その「お経の意味」は言葉で表現できてるのか、ってこと
もう一度いいますよ
お経が、言葉で表現できないものを言葉で表現したものだと、そう言うのであれば
その表現されたものが何を意味するのかは、神頼みの運任せでしょ
なぜなら、そもそも言葉で表現できないものなんだから ああそうだ
抽象的な話ばかりじゃ埒が明かないから
例として適当なお経の口語訳をひとつふたつ披露してみてくださいよ >>173
> 貴方は、「手が届かないというような意味では雲はダイヤモンドみたいなものだ」
> なんてナゾカケみたいな説明がイケてると考える人だ
アートマンは秘密の教えだからなwww
まあ、雲やダイヤモンドなんて説明はしない。もっと分かりやすい例えがある。
> お経が、言葉で表現できないものを言葉で表現したものだと、そう言うのであれば
> その表現されたものが何を意味するのかは、神頼みの運任せでしょ
だからインドでは認識論において聖典が知識根拠といわれるんだよ。 >>174
禅問答の答えをねだる様な愚か者には、話はここまでだな。 禅問答は蒟蒻問答の危険性をいつも孕んでいる
むしろ、それしかない
終わり?
何しに出てきたん、インド哲学くん 永井均さんがエレファントマンについて書いたのって何に載ってますか? 金閣寺の主人公の問題は、吃音の医療的な治療で解決するのか、金閣は焼かれなければならない(遺稿焼却、自殺)のか、という対立はリベラルと保守の対立に対応している
ってどっちがリベラルでどっちが保守??? 問題は治療によって平等に解決するとするのがリベラルで
金閣を焼くべき(自殺するべき)人生が存在すると考えるのが、保守かな? 心の病を治療するか、心の病を持つ人間の都合のいいように社会を壊し、作り変えてしまうか。
そんなところですか?でもそうすればまた新たな心の病を大量生産するだけだと思うんですが。 >>183
その矛盾を指摘されて、作られたのがポピュリズムって概念だってはなし。
大勢の民衆の声が反映された政治が、インテリ層の目論見を乖離していれば
「ポピュリズム」という社会病理であるということにすればいい。それは本当の
民主主義の結果ではない。とすればいい。もちろんポピュリズムという用語の
誕生の説明には全く別の理由が付与されているけどさ。 184です。ごめん、アンカ含めて全くの誤爆でした…失敬 >>183
心の問題が誰しも平等に外的なもので解決されるのか、それとも個人はそれぞれ違う(差別)から解決できない人生も存在するのか、という
リベラル(近代)と保守(前近代)の違い。 やっぱり前に紹介してたM.シュティルナーの本を読もうと思った。前近代、近代、そしてニヒリズム。ニヒリズムから近代、前近代に戻るのがなんでダメなのか知りたいし >>186
個人はそれぞれ違うとするのが保守の立場なのですか?なんか自分は逆に認識してた >>188
ヒューマニズム的なのが近代。人間全員が同じで平等なものだと認めた上での自由を認めるってことかな。近代の中では狂人も理解可能な病人として扱われるし 学者業だと本当の意味での脅威となる狂人に関わる可能性、少ないだろうしね。
安心してヒューマニズムを語れる。 いや、きちんとした学者はフィールドワークをするもんだよ
大衆の集まる場へ降りての視察だってする >>190
違うよ
ヒューマニズムの下では本当の脅威となる狂人なんて存在しなくなる、ただいるのは可哀想な病人だけ >>192
万一の実害をも甘んじて受け入れるということ? >>193
自分たちと同じ人間とみなすということ。
殺人鬼も結局わたしたちと同じ人間なんだから、たまたまそういう欲求を持って生まれただけなんだから、とみなすってこと 永井均さんの、道徳の問題と存在の問題に同型性がある、というのは「哲おじさん」で言ってたように、言語に一般化するという性質があって自分だけが特別なのにそれを言葉にすることはできない。人々を並列したものの一つとして見るってことだよね? >>195
多分ね
というか、最近宣伝wされてた『倫理とは何か』は、まさに<私>や<今>の問題と道徳に関する問題に
同型性があるという筋道で書かれてるので ツイッターで私的に本質的なことを語ろうと試みることは本日で終わることにしたというわけです。後はどうぞよろしくお願いします!
2021/03/31
まじか.... ↑ セリフ無断掲載は著作権侵害 東京地裁 | NHK ...https://newstopics.jp › url
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2 hours ago ちなみにオレの従弟の高校の時の同級生、
青山拓央て教授はガチの哲学者だと思う。
永井先生の舎弟だな。ただし、舎弟言われる
のを先生否定してるけど。 そも初出がどうの、誰それが言ってたかんのとかどうでもええやんけ
って話やろ、独在性の問題は。なんで<こんなところか>開けているのか
て話なんだし。又書くが転校生とブラックジャックのEの話がしっくりくる。
ただし永井先生は「私をEだと思ってる人がいるが、そうじゃないんだよ」
って言ってるわけで、あくまでも哲学者なんやろ。オレみたいなへづまんない凡人じゃあない。 コテつけてレスしてるんだからあんたもコテ付けなさいよ。
あなたが同一人物かどうかわからんし。 名前欄に入れた記号をハンドルネーム(ハンネ)と言う
この112というハンドルネームはこのスレだけで使い捨てるから普通はステハンと呼び、
複数のスレをまたいで同じハンドルネームで書く奴をコテハン(コテ)と呼んでいたように思う
君の言ってるようなことは「トリップを付ける」と言う
議論の活発だった昔は、なしすましを防ぐ目的で
必要上、あるいは粋がって付けてる奴も多くいた
最近そんなもの付けてるのは、2chから巣食っているよほどの古参か
あるいはちょっとおつむのイタイ奴、という印象だな
あと、一般的にコテが蔓延るスレは名無しさんが書かなくなるので
活力が失われる、らしいわ 口が身体についている、文面に署名が書かれる、ことはすごいこと。 タテ問題とヨコ問題について書かれた著作ってなんですか? >>207 エーリッヒ・フロム「The art of loving」 果てしなき懐疑の先に、世界には何が残るのか
存在が要求されるのは<私>でも<今>でもアートマンでも神でも言語ゲームでもなく
論理、それだけだ
なぜなら、論理の中でしか懐疑を真面目に遂行できないから
論理とは言葉や文法ではない
世界を構成するつじつまのことだ
簡単に言うなら
近くのコンビニより遠くのホームセンターに歩いて行くのは時間がかかるし
近いとか遠いとかという記号は、そういう意味であるし
明日が今日よりも未来でなければ明日の意味は構成されない
そんなことだ
永井が<私>を捉えるのも
概念が構成する論理の空隙に実体を感じてたじろいでいるのであり
インド哲学やらがアートマンだか何だかを「発見」したと勘違いしているのも
どうせ論理的な要求によってでっち上げたわけだよ(知らんけどな
原子も電子もダークマターも
論理が作り出した虚構であり方便だ
しかし<私>よりは使える 果てしなき懐疑の先に世界に論理それだけが存在を要求され残る?
それこそ世界を構成するつじつまがあわない、
果てしなき懐疑の先に現に<私>や諸主体ぬきで論理や世界を構成したり存在を要求することができるのか?
なぜなら、論理の中でしか懐疑を真面目に遂行できないから と言うがそれで<私>を消去することは出来ないだろう。
論理が作り出した虚構であり方便と嘯いているが論理を実体化してるようにも読める部分がある。
原子も電子もダークマターも虚構であり方便で論理(世界を構成するつじつま)だけで出来たわけでもなく、その存在を示唆する観測事実(世界を構成するつじつま)
もあるそうでないと論理の更新が起こってきたことを説明するのは難しいかと...
そもそも論理の中でしか懐疑を真面目に遂行できないと言うのは間違っている。
論理の中でしか懐疑を真面目に記述できないのは正しいがデカルトの夢の懐疑をもちだせば
わかるように夢では次の瞬間、論理(世界を構成するつじつま)など簡単に崩れえる。
さて、<今>夢を見ていないとどうして言えるのか?
その懐疑に論理(世界を構成するつじつま)で答えてもどうにもならないと思うが 以下、不真面目な回答に見えるかもしれないが、許していただきたい
『<今>夢を見ていないとどうして言えるのか』
結論を言えば、これについて考えるときすら、論理に従うしかないからだ
たとえばもし私がそれについて考えるとした場合
先ず、「夢ってどういうことだろう」ぐらいから始めるだろう
つまり夢という言葉を巡る概念を整理するわけだが
・いつ夢を見てるのか
・夢から覚めるときってどういう事態だろう
・「夢ではない」とはどういうことだろう
貴方も似たような感じではないのかな
考えすぎて煮詰まる
そしてたとえば、適当にこう結論する
・我々は今、夢を見ている、論理に支配された夢を
・・・なんと身も蓋もない
だがこれを否定するのもまた難しい
これら全て、論理の土俵の中の話
永井さんの<私>について、このスレでは理解している人はいないように思える(ごめんなさいね
だから議論する前提が整わない
彼の考えている<私>は、この孤立する肉体のことではもちろんないが
この意識のことでも、主体のことでもないのだろう?
彼は多分こう考えている
「この意識なんて<私>の意識である必然性などない」
彼は論理が届かない空隙を見つけた
それも論理によって 私の言う「論理」も、おかしな使い方なんだろう
それはもちろん科学理論のことではないし
古典論理学でも記号論理学のことでもない
歴史によって、あるいは文化文明によって、科学理論は異なるだろうけれど
それが寄って立つ基盤は普遍にあって
思考が思考であるかぎり、世界が存在の地位にあるかぎり
従わざるを得ない無形の枠
そんなものをぼんやりと自分では「論理」と呼んでいる
おかしいよね 永井先生ってもう今はゼミやってないって本当ですか? ふつうの社会人ならば
25歳ぐらいまでに自身で納得するようなことを
60過ぎまでこじらせているという事態「のみ」に、
多少の興味が湧かない訳でもない。 まともな社会人ならいつまでも哲学板なんかにいないと思うのだが 哲学やるなら「まとも」の概念もちょっとつっついておかないと。 国語力なんて哲学者でも一般人でも語学や数学に比べれば小さな標準偏差に収まるでしょ 中学受験算数は苦手だったな。図形の問題を考えるのは楽しかったが。 IQは107くらいなので、東大や京大の普通よりかは下でしょうね。 日大だったら文理学部に入って芸術学部の人たちの表現をほめそやしたいです 194考える名無しさん2021/03/22(月) 04:02:42.230
>>193
「自分たちと同じ人間とみなすということ。
殺人鬼も結局わたしたちと同じ人間なんだから、たまたまそういう欲求を持って生まれただけなんだから、とみなすってこと」
と他の人に同意を求める欲求から語りかけること自体があなたの言ってる自分たちと同じ人間とみなすということ。 哲学やり続けたければとにかく自分を安全な場所に置くことに努めよ
思索以外の「経験」や「社会や他者とのかかわり」をもつな
そうすれば哲学に浸っていられる 何も知らないからこそ「真理」に浸っていられる 3連のおかめ納豆とくめ納豆は、西友のネット販売価格でも30円くらい
差があるので、個人的な好みがどうであるにせよ、一般に同程度の
味であると判断されていれば、高い方は価格競争力を失って市場から
とっくに排除されていると思う。 >>231
遅レスですみませんが、そういう価格や販売状況のことまで考えると、また別の問題になる気もする。
その女優?以外の人たちは、自分の感じる味について語っているように見えて、実はただひたすら
特定の商品のスポンサーの意を受けて宣伝していただけだった、とか。 そうするとつまり、
・アクトゥアリテートの違いがクオリアの問題にどう反映されるか問題(私の感じる味が他人に理解されない)
VS
・自演の懐疑問題(複数の出演者たちと見えたものは実は1人のスポンサーの複数の身体だった?)
の対決なわけですなw(適当) >>231
栄養ドリンクは内容物がほとんど変わらないのにパッケージを豪華にして値段を高く設定することで売れ行きがガラッと変わるらしい >>228
誰だか知らないけれど・・・日大文理に入る人いるんだったら
おそらく(写真の「プロ」育成が目的の)日芸写真では無視されているであろうR・バルトの写真論
(論じようとしていることは存在論哲学みたいなことなんだろうけど意味論っぽい語彙ばかり)
「プンクトゥム」を論じているあたりWittgenstein経由で永井氏の私的言語の存在論と関連させて、
彼が死んだ母の写真の中に見て取りながらも論じ損ねているものをより正しく論じるとか・・
誰かやってくれる人いないの?
『明るい部屋』→このタイトルも誤訳っぽい・・から引用(翻訳P.122、「公的なもの私的なもの」という所)
「一方には「映像一般」があり、他方には私だけの写真がある。つまり、一方には無頓着さと
上滑りと騒音と非本質的なものがあり、他方には、切実なもの、傷ついたものがあるのだ。
(一般にアマチュアは、芸術家として未熟な状態にある者、と定義される。それはある職業にとって
必要な腕前に達することができない者__または達することを望まない者である。しかし、「写真」の実践
の場においては、逆にアマチュアこそ専門家の極致である・・略・・。)」
良くも悪くもこの本のバルトって何か子供っぽい書き方で、「プロ」は扱いにくいんだろうけど。
(確か故多木浩二氏もこの箇所引用して論じてました、ちょっと手に負えないやって感じの書き方でした
バルトの書き方が子供っぽいとも書いていたと思う、『比喩としての世界』だったと思う)
(あと・・デジタル化して写真が無くなるどころか世の中より写真っぽくなってきたんじゃないのかなあ。
良くも悪くも。大分前からtable tableau tablet(テーブル タブロー タブレット)という語彙で高山宏氏
が論じてたはずだけど。四角越しで観るものばかりがこれだけ行き渡ってしまって。あとはピクチャレスク
picturesqueという言い方もしてた。それ見て飯沢耕太郎(日芸)なんて勘違いしてピクトリアリズム
(絵画主義写真)論じてたりした、まあ昔の話だけど本は残ってるから・・) 追伸
とにかく文理学部どんどん
活躍する人増えてくると思う。これからは文理。日芸
やめたほうがいいと思う。 哲学者の永井までワクチン推進とは
著名人は保身に走ってるな タテヨコの区別ってどこが初出?なんでタテヨコって表現なのか知りたい